行じる

先日、ソフィアバンクの田坂広志先生の講演をカグヤのクルーと一緒に拝聴した。

田坂先生とのご縁は、もう数年前になる田坂塾での邂逅になる。

あの頃からまっすぐに動じずに変わらずに、ご自分の本懐を遂げるための実践をなさっているのが今回の講演でもひしひし伝わってきて感動した。

講演の中で印象に残る言葉はすべてに及んだけれどその中でも印象深かったのは

「最も正しいメッセージはすでに過去の思想家や哲学者などによりほとんどすべてが語り尽くされている。しかし今の時代の大衆はそれを忘れているだけである。そしてそれを行じるというのはなかなかできないから難しいのである。」

という言葉。

語っているご本人が学び、それを実践してみて語るからこそ心に響くメッセージに感じた。

私自身、自問自答したりもそうだし師匠や名著、メンターとの出会いで得られる言葉も行じるとなるとそれは別物だと本当に実感する。

よく学者の方々が明快に答えられるのを拝見しても、実際にやろうとするとそれはその通りにはまったくいかない。

やはり孔子や二宮尊徳のように実践したものが遺した軌跡を辿ることが行じようとするものには真の助けになるのだろうと思う。

私たちも園では、様々な取り組みについての参考例を話すことがある。

私たちは会社の理念に「やったことしか語らない」というものがある。
会社では、様々な実践のルールがある。

そしてそれが次第に増えていく。

その増えていくのは、それが現場に必要だと感じたものは定義をつけて意味を見出し、それを実践することで真理を掴み取っていくためにもやっている。

そしてそこで学んだことを、園の先生方へお伝えして一緒に行じることを認めあい実践を増やしていくようにしている。

いろいろな評論や分析系の方がいらっしゃるが、高度なコミュニケーションは言葉を使わないと私は信じている。

コミュニケーションが高度になってくると、人は実践だけで伝えていくのだと思う。それを別の言い方では感化というのかもしれない。

しかしそういうものがなければ人は決意や覚悟、本気という人生に響くような大いなる感動も邂逅も得られないし伝わることはないと自らの体験からも私は信じている。

子どものモデルになるような大人とは、自らが理想と建前と使い分けるのではなく実践することで得た、矛盾も内包しても揺るがない信念、一円融合した叡智や智慧を語ることなく心胆を以て伝えることがもっとも相手のためにもなるのだろうと思う。

言葉で喋ることや物を書くことがどうこうではなく、その人に裏付けされた自分を律する厳しく豊かな実践がどれだけ練りあがっているのかを見てもらうような道徳的な社会に未来がなっていければといいなと思う。

子どもたちが安心して成長していけるような良い大人の背中を見せていくためにも、社業の実践を通して学びを深め行じることを優先して丁寧に歩んでいこうと思う。

一期一会に再び感謝。

猶興の士

先日GTサミットでは色々な気付きがあった。

特に、全国各地の理想を求めて知行合一して歩んでいる人たちの発する言葉や各語には自然に共有できるものがある。

そしてそういう問題意識や危機感、また自分の中にあるものに反り返り内省を続けている方々は、わかった気にならずに理念を軸に自分のブレを修正していくのだと思う。

こういう時代だからこそ、周囲や他人、外のせいにばかりしてエネルギーを放出するのではなく、浩然の気を養い、粛々と静かに道を造り上げていくことは特に今のリーダーには必要な風格だと思う。

リーダーの本質は、調和であり、出来事や人々の中にあり、常に何を自分がやればいいのかが分かっていて、それを自然に決断できて順応して共生の場を創り上げる力をもっていることだと思う。

そしてそれは、自分らしさであり、その場に応じて変化し続ける力でもあるのだと思う。それは常に自分の中から出てくる声に耳を傾けて周囲と調和していくようなものだと私は思う。

「孟子曰く、文王を待ちて而る後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の如きは、文王なしと雖も猶興る」

 孟子は言う、「周の文王のような聖王の指導を待って初めて感奮興起するのは、凡庸な人民である。かの人並みはずれた豪傑の士などは、文王の指導と教化がなくても、自ら独力で興起するものである」

本当の優れた人間は、誰かがいるいないに関わらず、なお興るということ。

すべてのものを受容でき、寛容さで今を大事に今を創り上げて道を起こしていくという人が多く現れることが時を創ることになり、未来そのものになっていくのだと思う。

業界がどうだの、誰が悪いだの、制度がどうなど、そういうことばかりをして本当に自分の思う自分らしい自分のことを蔑にして、そういう自分の寛容さを磨かないでどうやってリーダーシップを発揮していけるのかと思う。

まずは自分の中にあるものをよく鑑みて、自分らしく自分にしかできないことで調和するまで今を大事にしていけばいいのだと思う。

長期的にも短期的にもブレナイことが本質で、外側のいろいろな変化には柔和にあわせていけばそれで子どものためになっていくような気もする。

私自身も未熟で、まだ全然その自分のありようが観えてもいないでいる。あるがままにあるにはわかった気にもならない今があるけれど、その機会に恵まれていることに感謝して自ら反り返って物事に処していきたいと願う。

多くの人たちがそれぞれの道で子どもたちの未来を保障してあげる世界にしていけるように心から祈り実践していくことを誓う。

仁の精神

昨日は、三戸岡道夫先生と致知出版の花坂様と編集の小森様と一緒にお食事をする機会をいただいた。以前、カグヤの社内研修会にてカグヤのクルーの皆で学びの邂逅をいただいたのはお二人の心づくしの御蔭であると、改めてこの一期一会のご縁に心から感謝しています。

そして昨日の会食でもたくさんのことを学ばせていただきました。

仁の精神というのが孔子の時代から古今と照らして一体どのようなもので、それを日常で実践するということが果たしてどういうことなのか。そして他者を思いやるというのが、どれだけ人間を人間として受容していくことに繋がっているということか。

私たち日本は、アジアをリードしこれからは仁や義などの本質をどんな場面であっても世界の人たちに理解してもらえないといけない時がくる。世界でその道徳を商売に組み込み理解されるようリテラシー能力なども今後身につけていかないといけないと先生は言う。

世界という遠くのことの話しのように思わなくても、世代が刻々と変化し、刷り込みが次第に蔓延している今の世の中に於いて、日々に流され大本を考えない人たちにだって通用する真理だと思う。

私たちは私も含め常に刷り込みに気づかない人たちともともに仕事をするし、その中で一緒に助け合い生きていくのだから、2500年以上前から見えずらいけれど身近にあった道徳精神である仁や義などの普遍的なものを中心に据えて理解しあっていくことをより求められるようになる。

たとえばそれは、他者へ強引に押し付けの道徳では理解されてはいけない。
先日も、ある園で保護者に強引に道徳を説いていた場面に出会う機会があった。

見守る保育も子どもを大切に仁の精神で取り組むのだから当然、目に見えないものがたくさんある。

しかしそれを言葉で押し付けのように保護者に伝えたところで本質が理解されるかというと全体としては本当の少数の方だけになってしまう。最近はモンスターペアレントなどと流行っているがああいう社会を創ったのはいったい誰なのかをもう一度考えた方が良いと思う。

だからといってまた悪を悪で排除するというやり方では、またなんとも言えない閉そく感で病気になってしまう人が増えてしまう社会になっていくだけだ。

大事なことは、相手を責めるのではなく自分自身が善を行い、仁を行うことでみんなが心地よくなるんだよということを丁寧に伝えて自然に感化していくことが大事なのだと思う。

そういう倫理道徳をいくらもっともらしく単なる言葉で語ってもやっぱり本質的には伝わらないし浸透していかないのが倫理道徳だと思う。

子どもたちへの道徳教育とは、大人たちが自らの実践により感化して伝わっていくのが最良のものだと私は思う。

何でも時間がかかるものは意味があるもので、感化しようとすると理念を固め実践していく必要がある。そして今の私もカグヤも途上でまずはやることから自分自身が自分自身の脚下の仁を実践して、それを相手が理解できる部分で受け止めて共感してくださるよう、ともにそこに幸せや豊かなものを共有できるような語りかけで受容しくことが最善だと思っている。

仁や義、礼、智、信など、日ごろあまり語り合うことがなく、実践でしか理解しえないものなのだから自分一人で悩み考えたり意識してたら無意識に視野が狭くなってしまうことがある。私が本当に有難いなと感謝できるのは、多くの師が本当に素晴らしいタイミングで現われてくださってその都度、色々な気付きや方向性などを示してくださること。

そしてそういう実践をたくさんの人たちが行っていることを感じるとき、再び感動があり、その人たちの御蔭で今のカグヤが存在できていると思うと感謝で満ちて手を合わせる。

そういう立派な人たちがみんな教育に熱心で、知識だけではなく実践からそれを語っていて、いつも子どもを大事にしていこうと自らモデルを示して実践をなさっている。

遠大で巨大なことのように見えてても、道を歩む先人の方々、またその仲間がまだまだたくさんいると思うともっとしっかりと歩んでみたいと心から勇気が籠ってくる。

三戸岡先生の著書、二宮金次郎の一生にもある「積小為大」(小さきを積んで大を為す)。

これからも日々、自らの理念を軸に信念と使命を持って一つ一つを意味を持ちながら良く積み上げていきたいと思います。

今回の有難い機会に心から感謝しています。
また次回お会いできるのを心から楽しみにしています。

気づきの質量

本日は、私たちが毎朝素読をしている論語や二宮尊徳の解説の本の著者である三戸岡道夫先生にご来社いただき社内研修を行った。

もう一年半になるが、先生の著書にお会いでき「仁義礼智信」、特にその「仁の精神」の重要性に気づかせていただき、毎朝の至宝の気付きをいただけるのは先生との邂逅の御蔭だと本当に感謝しています。

本日は、本当に色々なことを三戸岡道夫先生から教えていただきました。

孔子や二宮尊徳がどんな人生を送ってきたのか?またその頃の時代背景、周りの人たちとの関係性からどんな人物像が観えてくるのかなど先生が著書を書き下ろす際に深く洞察した内容の濃いお話をいただきました。また、上杉鷹山や保科正之など仁を通して多くの人民を救った人物に共通するその日本人としての民族と伝統などのお話などもいただきました。

どんなに時代が変わっても、人が志を持って「人間としての本来の生き方」という本質的なものから考えていくということが、何よりもどんなことよりも大切なことなんだとその必然性を考える機会になりました。

それに政治というものがどういうもので、その清濁併せ持つ政治に如何に適材適所に人の力を総合的に借りてうまく活用していくことが大事なことなのかなど三戸岡道夫先生の体験からのその処世方法なども教わることができました。

齢80歳を越えても尚、謙虚にそして躍動のあるお話ぶりに本当に感動しました。そして、その経験から語られる一言一言が私たちの見通しの甘さなどを戒めることができました。

人生というのは、まだわかった気になっているわけではないけれど色々なことに気づくという観点では年齢は関係ないと思うときもあるけれど、加齢し多くの体験をしていくことでその味わいの深さやそのあるがままの境地のでの解釈もできるようになるんだなとつくづく感じた。

質と量というのは、本質を味わい深くするためにもずっと大切にしていく真理のひとつなんだなと改めて感じた。

人生の目的を明確に持っていると色々な人たちに出会える。
そして、謙虚に素直に生きていると素晴らしい人たちに出会える。

出会いというのは自分の心の置き所一つなんだなと感じます。

最後に、食事会場の席での三戸岡道夫先生の話に感動しました。

先生が昔、小学校の教員をしていた時、勉強ができない子がいてその子にも何か活かせるものがあるのではと掃除班長をさせてみると学校の歴史に残るほどの掃除をしてみんなを驚かせていたこと、ソロバンが苦手な子に、あなたはソロバンを「弾く」のが本当に上手だねと褒めると、一、二年で学校で群を抜いてソロバンも計算も成績も上がり、何でも自信を持ってできるようになったことなどのお話、そして一つができるようになった子が次第に他のことでもどんどんできるようになった話、どれも心に残りました。

人は、必ずどこかにその人が活かせる要素があり大人や教師がそういうものを「正しく素直に観る」ことができるかどうかが「人を育てる」の本質ではないかということ。

自分の刷り込まれた偏見や思いどおりにならないことばかりの感情でその大切な教育の機会や器をいっぱいにせずに、それぞれの人間が得意不得意などをよく謙虚に観察し、そのできない部分も能力としてないものを探すのではなく、できるものを探していき認めるということが如何に大事なことなのかをまた改めて自らに反省し気づけることができました。

本当に心から感謝しています。

私たちカグヤの根底理念や文化として「論語」にこんなに親しむことができたのも、三戸岡道夫先生の著書があったからです。私たちはこれからも先生の教えていただいたことを大事に守って、子どもたちにも何かそういう仁の心を伝えていけるような仕事にしていきたいと思います。

また次回、先生とお食事をしながらたくさんの人生の機智に富んだお話をお聴きできるのを心から楽しみにしています。

有名な人と立派な人

ITの業界にいて、情報に携わっているとその方面から様々な人の素行を観ていながら、一日一日を大切に我が身を三省していると背筋がゾッとすることがある。

他人は我が鏡であるとは、その通りだと思う。
そういう時こそ、常に自らに気づくことに感謝していきたい。

俗に有名な人が世の中を動かしている、常に時代の流行とはそういう有名である人が世間を騒がし、そしてその有名な人が大衆心理や世間の潮流を作っているような感じになっている。

では、そういう有名かどうかなどのモノサシと比較対象にもならないほど世界に個性が揺るがなく立っている不動の一流人とは一体どういうものだろうか?

世間では、よくよく人間を観察すると世間一般大衆が求める欲の潮流の中でも常に自分のあるべきようを失わず、あわせるべきものはあわせながらも「人間としての本来のあるべき姿」を信念を持って貫き、多くの人に気づきを与え、自立させ幸せにしている人がいる。

そういう人は、現象として考えるときっと有名になりたいのではなく、世間がそういう人を美しいと思い、徳に導かれ慕ってついていくから次第にその名が四海へ広がり有名になるのだろうと師匠の歩み方を傍で観ていてもよく分かる。

私は幸運にも至誠を重んじる歩み方を身近で見聞きすることができる本当に良い師匠に恵まれたことで、その人生の本質的な達人から多くを学べることがこんなに有難いことなのかとつくづく最近は感謝とともにそれを感じることが多い。

論語にこういう一節がある。

【子張問ふ、士如何なればこれを達と謂うべき。子曰く、何ぞや、汝がいはゆる達とは、子張対へて曰く、国にありても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。子曰く、これは聞なり、達にあらざるなり。それ達なるものは、質直にして、義を好み、言を察して色を観、慮って以て人に下る。国にありても必ず達し、家に在りても必ず達す。】

『弟子の子帳が孔子に尋ねた、「士人とはどのようであれば、これを達人と言えるのですか」と。孔子言う、「一体どういう意味であるか、あなたが言うところの達というのは」。「はい、国家の職においても必ず有名になり、王室や大名家の家老職におっても必ず有名になる、これが達人というものではないでしょうか。」「それは聞(聞人)、有名になるということであって達人ではない。そもそも達人というのは、性質が真っ直ぐで、名や利を好むのではなくて、人間が如何にあるべきか、又為すべきか、という義を好み、人の言うこと、主張することをただ言葉どおりに聞くのではなくて、よくその言葉の奥を察して真実を見極め、万事心得た上で謙遜に人に下るのである。だから国家の職におろうが、王室や大名の家老職におろうが、どこにおろうが必ず達する、立派に用いられる。』

そしてさらに孔子は言う、

【それを聞なるものは、色に仁をとりて行ひは違い、これに居りて疑はず。国にありても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。】

『これに対して、聞、聞人というのは、世によく言う名士などというものは、如何にも表面では仁をとるがごとく見え、世のため、人のためにというようなもっともらしく仁らしいうまいことを言うが、実際の行いはまるで仁とは違う。然も自分では一向に良心の呵責もなく平然とその地位におって、うまく人心に投じ、時に乗じて、要領よく世渡りをしてゆくから、国家の職においても、王室や大名に仕えていても、どこでも有名になる。』

立派な人と有名な人は、まったくもってその意味が違うなとつくづく思う。

早く有名な人になりたいというのは、また有名でいるというのと一流人であるというのは意味が違うのだと思う。

しっかりと自らの目的にあわせた自らの命を活かす人物になりたいというのが、動機が素直なのであり、きっと利他利己の境地であり本質的な人間の素であり、共生のあるべきようなのだと思う。

こんなに大衆欲や我欲の情報が氾濫する時代だからこそ、正しく時世や人間を観る目を育て、本来の自分が目指している生き方からズレたりブレたりしないように、安易に認知され見聞きする様々な日々を素通りせず、信念を持って子どもたちの未来へ向けて自らの足跡を頼りにこれからも至誠を貫いていきたいと思う。

達仁を目指していきたい。

一人ひとりの力

昨日は、Barendrechtにあるリーン氏の3つ目の学校と一法人で4施設運営する保育園を視察した。

まずリーン氏の学校だが、子どもがそれぞれに自分のやりたいことをやりながらも落ち着いて自らの見立て見通しを立てることができるように工夫していたのがつぶさに観えた。

特にワールドオリエンテーションでは、思考のプロセスや思考の広がりを大切にし、世界観、宗教観、歴史観、死生観など子どもをひとりの人間として受け止めて日本では保護者がアアダコウダ言いそうな問題にも平然と向き合って素直にオープンにディスカッションしている。

どんな子どもたちも自分たちの創る未来と社会なのだから、それを尊重して自分たちがそれをやるという自覚が育っていくという意味では本当に素晴らしい小学校だと感じた。

もちろん、校長の理念が明確で人間というものを深く認めているからこそできるのだが、こんな仕組みや教材、そしてやり方の小学校が日本にもたくさんあれば日本の大和魂を引き継ぐ子どもたちが世界をリードしてくれるのにと思えた。

今は、一人ひとりが押さえつけられ個々の個性を蔑にされて、大人が大人目線で好き勝手にやりたい放題自分たちの主観を正しいと強引に認めさせるため、日々大人同士で陰湿な喧嘩ばかり・・・いつの時代も反省もせず有権者が正義正義とやっているうちに子どもをホッタラカスのは一体どうゆうことだろうか?ノブリスオブリージェ(高貴な人が持つ使命と責任)を忘れてしまったらもうそこでそこに居てはいけないのだ。

離れてみればみるほど、悔しさと情けなさで人間の持つ欲が織り成す無常観に苛まれる。勝ち負けを争い、奪いあい、生きていく、それもまた逃れることはできない生きる者が持つ生きる業。しかし人間には、それを乗り越えてそれ以上のものを創り出す叡智も理性もまたある。

どちらを選ぶかはその人の人生だが、やはり私は後者を選びたい。

子どもたちにはそんな当然生物が生きていたら感じてしまう業ばかりに対処する方法を教えるよりも、より人間らしくニンゲンとして豊かにそれぞれが幸せを感じられるようなことを共に学んでいく関係と環境を用意してあげたい。

この小学校で見たもの聞いたもの感じたものは、自分の人生に於いて帰国後も明確な照準を定め必ずそのビジョンを達成すると強く念じる。

本当に有難い機会に恵まれたことを改めて感謝します。

また次の保育園の視察では、今、オランダでも待機児童が増えていて保育施設が足りずどんどんできているとのこと。現在は5施設目を作っている最中とのことで設計図も見せていただいた。

ここは昔の農家のイメージで保育施設を作り高い天井と大きな部屋、そして木のぬくもりなどを大切にして家庭的な雰囲気をつくろうとしていた。

100人の施設に保育士が約20名弱で朝7時〜夜7時まで預かっている。この国ではワークシェアリングが大変進んでいて、日本と違ってゆったりと保育ができる環境を国や制度が守ってくれる。そういう意味では、日本で起きるような問題は少ないように思える。

ただ、やはり長時間その部屋にこもって保育をしている様子を見ると、保育士の質や学ぶ時間、そして環境を用意する専門性などはどこも同じで向上しにくいようにも感じた。

その質と量の判断は園長の理念に直接左右されるのは世界どこでも同じ。園経営運営はとても難しい業務で、補助金があるにしろないにしろ園長が教育と経営に精通しているのといないのではまったく外見も中身も異なってくる。

ここの園では、その辺がとてもしっかりしていて見通しも見立てもうまく地域や保護者からも大変人気があるように感じた。

職業というのは面白いもので、どんなに文化、人種が異なっていても似ているものは似ているし、陥るワナも同じなのだと思う。

保育園視察は、日本でもライフワークみたいになってしまっているけれど今回も相違、同異、方位など、たくさんのことに気づくキッカケになった。

最後に、私が尊敬する吉田松陰が明治維新の原動力として大和へ放った言葉に『草莾崛起』(そうもうくっき)という言葉がある。

松陰先生は、一民間人としてまだ20歳前後でひたすら命がけで高い問題意識と危機感で山鹿流兵術等の戦略を学び、そして頼まれてもいないのに日本中でどこが外国攻められたら危ないかなどをつぶさに自らの足で見て回り、ただの長州藩の一下級武士の立場であっても自らの国のために自分が信じる道を誰がなんといおうが構わず遣り抜き、最期まで忠と誠を貫いた第一級の人物だった。

その行動力から鑑みれるのは、「政治が幕府がなにするものぞ、国を創るのは自分たち一人ひとりだ、国がなにをしてくれると期待するのではなく、自分が国に何ができるのかを問へ」というような生き様だった。

いつも私が本当に辛く苦しい時、心の支えになってくれる師匠の一人だ。

    『草莾崛起』

この『草莾崛起』(そうもうくっき)とは民間人がみんなで何ができるかを考え立ち上がっていくこと。草の根が、天地自然の水や太陽、その志を得るとき、その根が大きく広がり世界を変えていくこと。

時代を超えてもやるべきことはいつの時代も同じということだ。

これからも私は自信をなくして依存して精神が病んでいるような悲しい現在の祖国の環境に対して、無限の可能性を持つ雑草のひとつになり、自らができることで自らにしかできないことをやっていけるような勇気を与えるモデルと行動をとっていくぞと新たに心に誓う。

保育学ではなく保育道

昨日、事務局をしている保育環境研究所ギビングツリーのホームページをリニューアルした。

5年前に立ち上がったこの会が今では国を動かすほどの影響を与えている。

藤森代表がまったくブレずに小さなことの積み重ねを大事にすることで、これだけ大きな原動力を引き起こしている。

傍らで観ているとやはり藤森代表の実践哲学には、嘘や偽りが一片もない。
どんな時も、まずは自分がそれをやってみせるという凄みがある。

本物と仕事ができるというのは本当に幸せなことだと心から感謝に満ちる。

そして、そういう人と志を同じくギビングツリーとともにある方々も本当に素晴らしい。

それぞれが大変ながらも真摯に子どもを見ようとしている。カタチではなく、本質を観て子どものために何を自分がすることが一番良いのかを諦めずに悩み続けて実践を続けている。

その言葉の中には、常にどこか心の豊かさや自分の使命の重要さに気づいているようにも見える。

きっと心豊かに生きるとは、子どもの未来を創るとは、人が生きるということに真摯に向き合っている人にしかできないのだろうなとつくづく思う。

このサイトの中で以前よりずっと私がやりたかったことがある。

それは藤森平司先生との出会いからまったく変わらずそこにある理念の体現。

 『保育は、学ぶのではなく実践することです。実践とは子どもを見ることです、そしてその子どもを守ることです。』

と仰ったあの「見守る」の意味に出会った時の感動。

 『そして、実践することは保育学ではなくそれは『保育道』なのです。』

これをとにかくカタチにして大勢の方々に伝えられないか?

それをこの情報化社会のツールを駆使して、ブックレットにすることや場所を問わない会員間の交流、そして気づきの反復行動により実現できると感じているのです。

今、世の中はすぐ近くのことやその時々の瞬間だけを切り取って善悪を決めたり白黒を決めたりする。

それでは、取ってつけたような学問を尊ぶことになり、やってもいないことまでやっているような欺瞞や偽装がはびこるだけだと私は思う。

それで子どもが世界が本当によくなるのだろうかと思うと、やはり今こそ揺るがない理念を時代に立ち上げなければといけないと真摯に思う。

右か左か、上か下かなどを安易に決めたがる民衆というのは世界というモノサシでみたときどれだけ民度というものが備わっているのかと思うと本当に疑問に感じる。

だからこそ、ここでこそ、私たちの魂の起源、東洋文明の根底にある「道」(タオイズム)が私たち日本人には必要なのではと思う。

大和魂とは言わない、しかし、「中道や中庸など、どこにも決めずに真実に対して道を究める魂の練磨」はその人の生きる実践の中でしか身に着かないのではと本当に思う。

これからも私は、子ども達に対して分かったような知識や取ってつけたような真理は一切語らず、師匠と同じくただただ自らの実践のみの道を本懐としその中での後姿や歩む道筋だけを遺していけるように努めて生きたい。

そして一人でも多くの世界の発展と子どもの未来のために自分にしか歩けない道を歩んでいる方々と邂逅し、その方々と一緒に誰も通っていない道に一歩でも足跡を遺していければいいなと心から願う。

感謝

有隣

今年も無事に山口県萩市にある松蔭神社へ参拝することができた。

昔、松蔭先生はここから歩いて日本全国に有志を求めて、そして師を訪ねて徒歩で旅をしていたのだから本当に凄いことだと思う。

本気でなければ覚悟がなければ、きっと一歩も動けないのが人間だと思う。

どんなことも、常に自分がどれだけの思いで行動するかでその先の未来が変わる。ここに来るとなんだか分からないけれどとても安息な心持になる。

毎年、ここに来るのに松蔭先生の遺した新たな言葉をいつも発見できる。
同じものを観ていても自分の成長次第で、受け取れる言葉が変わってくる。

亡くなっても、亡くならない人がいる。
魂が生き続ける人がいるのは、本当に子孫にとっては心強いと思う。

もうここに居ない人でも、こうやって毎年邂逅があるのだから本当に人と人との出会いは素晴らしいことだと思う。

今回、松下村塾に来て遺品などがある資料館を拝観しているうちに気づいたのだがこの塾は今のカグヤのやっていることにとても似ているので驚いた。

少し紹介するとこの松下村塾では、身分は問わず誰でも学ぶことができた。

松蔭先生の理念や方針は、学問とは立身出世のためにするものではなく、時代を知り、国のために役立つ力を養うためにするものとした。

だから単に知識として学ぶのではなく、社会のために「行動する」ことに結びつかなければ意味がないと常に塾生に説いた。

これが松陰先生の教育の基本だったそうだ。

塾生たちはいつも一方的にただ松蔭先生の話を聞くのではなくその問題意識と危機感に対して「あなたはどう思うか?」「あなたならどうするか?」といった質問をなげかけられ一緒に考えた。

塾には決まった時間割りもなく、一日のうちでいつ来てもいいし昼間に仕事のある塾生は夜にやってくることもあったそうだ。遠くから通いでくる塾生もたくさんいた。

教科書は決まったものがなく、「その塾生の希望や適性を考えて、一人一人最も適当だと思われるもの」を与えていた。

そして塾生が広く社会を見聞することを説き、旅先で教えを受けようとする有識者に対しては、丁寧な紹介状をいくつも書いたそうだ。

そんな松蔭が旅先で志高く行動する塾生たちとたくさんの手紙をやり取りしたことが残っている。読んでいるとまるで自分のことのようにとても心に沁みる。

 「久坂くん、身近な人で、あなたにしたがって死んでくれる人は何人いますか。大事なのは議論ではありません。実行です。あなたの手紙には、一つとして実行したことから書かれたものがなく、みな空論。自分とかかわりのないことを論じるのは、誰でもできること」

 「金子くん、学問は、出世や金のためにするものではない。聖賢を学び、聖賢に一歩でも近づき、自分自身を完成させるためのもの。死をまえにした今こそ、損得からはなれた本物の学問ができるのです」

まだまだたくさんの手紙や言葉を塾生に遺したのだろうがそのどれを読んでいても心を打たれる。自分に反省をしながら、まだまだと塾生に自分の不甲斐なさを自分に矢印を向けて語っているものもたくさんある。

本当に学問を実践なさっていたということがよく分かる。
こういう立派な「人物」の周りにはたくさんの良い人財が集まってくるのだろう。

そしてその人物はその縁があった人の持つ個性を見抜き最大限活かしてあげて、その人にしかできない使命に気づかせその人の人生を立派に遂げさせ自立させていくことができるのだろう。

そんな人と一生のうち出会うかどうかでその人の人生がまるで違ってくるとしたら、人と人との出会いというのは奇蹟のような確率なのではないかと改めて思う。

私自身、ここ数年師匠を傍らで観ていてもよく思うことがある。

大衆化した世間の交流やフツウの人が好きな夜遅いお酒の付き合いなども一切せず、キチンと自らの内省の時間を取り一日一日の思いを大切にしながら丁寧に静かに自分を修め過ごしている。

純一高潔な人や謹厳実直な人はとかく近寄りがたく敬遠されがちなこともある。

しかし師匠の周りには、常に素晴らしい人たちに求められ囲まれている。
その人たちにいつも誠心誠意関わり、天命を尽くしている。

これは如何に峻厳、高潔で近寄りがたいと言っても真に「徳」さえあれば必ず人はそれを理解し、その徳を慕い教えを請う道人や支持するよき隣人たちが集まって来るという真理に繋がっているのだと思う。

論語にある

 『徳不孤、必有隣』

本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無い。

私自身も、まだまだしっかりと自己を修めていく努力に向き合い商売の品質が突き抜けるほどのサービスに向き合い、努力精進して子ども達にとっての立派な大人の模範になるような人物になることを誓い粛々と勇気を持って正道を歩んでいこうと思う。

見学の本義

今日は、富山県滑川市の同朋幼稚園内で公開保育と協同的な学びの研修を行った。

一般に私たちは多くの園を訪問しているけれど、園のことを外側から観る姿と、内側から観る姿はまったく異なる。

差を看取るというのは、何か一定の定義されたモノサシがないと公平公正に情報を看取ることはできないと私は思う。

よく園見学というと、すぐに他の園と自園を比較して違いを探す人が多いが、もともとそんなところを探ったってそんなの違っていて当たり前なのだからそういうものを観るよりはそのものの本質をちゃんと見学したほうがいいのだと思う。

またないものを探すよりも、どこが同じで何が異なるのかをちゃんと看取る方がその後の実践にとってより有意義に情報を活かすことができるのだろうと思う。

見学というのは、何を「見て」何を「学ぶ」のかがちゃんと定義されていなければほとんど本質は観ずに素通りしていしまうものだからだと私には思えるからだ。

私の思う見学とは読んで字の如く「覚る」ことであり、まず「見」は「外差と内差を覚り見る」ことであり、「学」とは「深く掘り下げ掴み覚り取る」と定義している。

一つの道で、思いを定めたら文字通り「一生涯かけて学ぶ」という覚悟と軸がなければ探究心や感受性は決して育っていかないと私は思うからだ。

何でもそうだが、「続けることができる」というのはちゃんと信念が腹に据わっているからそれができるのだと私は思う。

腹が据わらないことをいくら学んだってそれは本当に学問なのかと思ってしまう、それはあくまでただの上辺の誰かが語った知識であってそれは単に知っているだけで、ちゃんと認識して理解して覚り実践できているのとはまったく意味が違うと思えるからだ。

それだけ「継続する」というのは、この世の現実世界では嘘がつけない真実のものなのだと私は思う。

話は戻す。

今日、公開保育の研修の最後に「自由」の話を師匠がした。

本当の自由とは、誰かから指示されたから動くというような他律ではなく、自分で正しくそのものの意味を理解し主体的に自律することができるのを「本当の自由」なのだと言っていました。

これは師匠がある時、ある子どもが夢に出てきたという話の一部です。

私なりの解釈で話し言葉を正確に抜き出し書き言葉にしたわけではないので少し本話と表現が違っているかもしれませんが書いてみます。

>>>>

こども 「先生、ここは何でも自由にさせてくれる保育園なんだよね」

先生 「そうだよ」

こども 「自分でやりたいことを思う存分自由にできるんだよね」

先生 「そうだよ」

こども 「でもね、先生、、、」

先生 「なんだい?」

こども 「実は僕ね、、自分でやるよりも言われてやらされる方が楽なんだよ」

先生 「そうだよね、やらされる方が楽だよね。でもね、いつまでもずっと先生があなたの傍に居て指示してあげることはできないんだよ。」

こども 「うん。分かった、、そうだよね、、僕、自分でやりたい!」

先生 「そうだね、辛いけれどこれからは先生から言われるからやるのではなく自分でやりたいことを理解して自分で自律することが「自由」ということなんだということに気づいていけると良いね」

・・・

(※ 話中の解釈はすべて私の主観で書いています)

>>>>

自由保育は放任ではない、もちろんちゃんとそれをやる先生や子どもが自らの理念や使命を理解しそれぞれに自分で自分を律することができないならば先生は絶対に子どもに自由は与えない。

それではただの「放任=ほったらかし」になってしまうからです。

そして自立する子どもの側も、いつまでも依存した他律のままでは本質的な自由が得られることがない。自らの主体性に於いて、自分の天真天爛を見出しやりたいことをやるために自分をコントロールし他と共生して幸せに生きることが人間のあるべきようなのだと子どもを観ていると深く感じました。

だからこそゾーンであり、だからこそ保育環境の設定であり、だからこそ見守ることが必須のなのだと・・・

またこれからも一生涯のこの道で分かった気にならずに学びを深めていければ良いなと今回も貴重な見学をさせていただきました。

そしてその話に続けて本当の「自由」とは、とても「辛く厳しいことなんだ」ということを師匠は話していました。

だからこそ、「自由にさせるのは自分も辛いんですよ」と皆に優しく静かに穏やかに語りかけていました。

でも私にはそこに子どもに対する深い相手への尊敬と信頼、自立という目的へ向けた保育や教育の哲学の一本道があることを背中で語っているように感じました。

教育や保育とは本来凍てつく荒野の中にある孤独な荊の道のようにも感じ、美しい丘上にある百花繚乱の幸福の花道のようなものにも私は感じる。

常にモノサシを定める矢印の中心軸は自分の志の如何によるものだなと改めて感じました。

私達は、子どもにとっての立派な自立した大人のモデルとして今、何を学び、今、何を差取り、何を実践すべきか?

一つのことで気づいたことを学び続けて子どもの未来に確かなものを遺せるようにカグヤは常に分かった気にならずに環境を創造していこうと思う。

透明な命

一昨日、カグヤのスタッフ皆で「森のイスキア」代表の佐藤初女さんの講演を拝聴してきた。佐藤初女さんは、地球交響曲ガイアシンフォニーの第2番に出演していた方でおむすびで心を癒していく奇蹟の人ということで一躍世界へその存在を知られた方だ。

世間には一流といわれる本質が視得ている本物がいる。通常本物は、あまり目立った世間での流行や潮流などは気にもとめず自らの天命や使命を全うすることにだけに今を尽くしているためなかなか世の中に出てきてみつけることは難しい。

私が今まで関わった方々の中でも、飛びぬけている方は自然にその存在を天が照らすような様々な必然の縁を創りだして世の中の在るがままを変えていく。

本当に信念を以て、切に念じて祈るように全てを尽くしていけば必ず天がその人に機会を与えるのだと改めて感じた。

講演では、素晴らしい言葉の連続に魂が震えた。

「命を移し変えるとき、命が透き通る瞬間がある。そこをどれだけ見逃さないかが大事であること。」

「そこにないものは探さない、あるものに何を補えばそれがおいしく活かされるかを考えぬくのが本当の創作料理」

「いくら忙しくても忙しい中でも何ができるかを考えるとそこに必ずできるものがある。」

「家の中ではお母さんは「明るく良い姿」を子どもには見せてあげることがもっとも大事。「許しがたきを許し、耐えがたきを耐えること」それを母性といいます。」

特に第二部のアンケートの質問の回答のやり取りには言葉にならないほどの感動があった。

それはある人の質問で、「子どもが添加物のお菓子ばかりを買って私が作ったごはんを食べません、どうやったらごはんをちゃんと食べてくれるでしょうか?」という。

佐藤初女さんは静かに凛として「その添加物のお菓子よりも『おいしく』創ればいいのです」と一言だけ仰った。

会場は皆それを聴いて笑っていたけれども私にはまったく笑えなかった。
この言葉には、佐藤初女さんの人生観のその全ての答えがあるような気がしたからだ。

きっと『おいしく』できるかどうかが本当に全てなのだと私は心底感じた。

以前、松下幸之助さんの講演である経営者が質問をしたことがあったそうだ。それは、「どうやったら松下電器のような大企業になりますか?」との質問に松下幸之助さんが「それは想う事ですわ」と仰った。会場はそれだけですかと皆笑っていたけれども一人だけ最前列に震えながら感動していた人がいたそうだ、その人はまだ若かりし日の稲盛一夫氏(KDDIの会長、京セラの創業者)だったそうだ。

本質を語る人の言葉はすべて真実、それは使っている言葉がまったく違うからだと私は思っている。よく私はトンボの世界とヤゴの世界と揶揄して語るがそれくらい生きている場所が違うのだと思う。

私が佐藤初女さんにお会いして邂逅を感じたこと。
それを要約すると、

何でも『美味しい』と思えることが基準になる、その美味しいというのは世間の料理の味がうまいのではなく、本当にその人にとってそれが魂から「おいしい」かどうかが基準になる。それはまさに相手の心を本気で通じ合うまで受け止めて深く共感し、自らの透徹した至誠を尽くした料理を食べさせてあげることで相手の心を癒しそして補い自立へ向けて活かしてあげること。

まさに私はそう全てを感じた。
こんな感動する講演は永遠の一期一会、本当にありがとうございました。
本物の一流人と通じ合えた心の出会いに深く感謝しています。

最後に、他人が良いからやろうとかではなく自分で判断したものをやってみてその体験を重ねる中で自分で確信を持ったものを唯やるようにする。自信を以て脚下の実践を行い自立していくことが何よりも大事だということ。

これは私もまったく同感だと思える信条のひとつ。
気が付いたことはとにかく、今、勇気をもって全力で行動に移すこと。

私たちは、子ども達に何を遺せるかを使命にしている会社。
今は分からなくても、気づきと実践には徹底して妥協せずに歩みを強めたい。

私が切り開く孤高の棘の道を、同志とともに次々と踏み倒しながら次世代の子どもの輝ける黄金の大道になっていくことを改めて決意した。