和の学び

昨日、第15回保育環境セミナーがあった。

定員100名のセミナーが126名の参加者があり、年々増えていくのが目に見えるほど分かりこのセミナーの重要性と必要性を改めて感じ身が引き締まる思いがした。

思えば、最初は手探りでスタートしたものだったけれど藤森先生の明確なビジョンとそれを支えるコアメンバーの協同的学びの実践に於いて実行することができた。リーダーを深く信じることができて本当に仕事がやりやすかったことにいつも心から感謝しています。

今では同じような価値観で世界標準の保育を実践する園も増え、実践園報告では常に順番待ちの状態にもなった。実践園報告についても、実践に裏づけされた取り組みの行間からまず自分がオープンにしていくことでより皆のアドバイスを引き出し自園をはじめ業界の発展と子ども達の未来のために尽くしていく。

協同的学びの本質は、まず自分から主体的に包み隠さず高い問題意識と危機感でオープンにしていくことなのだなと最近はつくづく思う。

私は、古来の我が国の根本思想にある「和」ということを思うときそれは「違い・チガイ」を認め合う本質的な関係を思う。

通常の世間で言われるモノゴトの「違い」というのは、よく表面上で使われることが多い。表面上の違いなんて見た目の違いなので誰でも分かる。キリンとゾウが違うのだって一目見れば分かる。しかしキリンとゾウと同じにしてチガイを見出すのは難しいだろう。

たとえば、これを人間で言えばあなたと私は見た目も違うからや個性が違うのでや、もしくは住んでいる環境も性別も違うからといった目にすぐ見える違いのことをよく言う。これを分かり合えば和になるかというと、それは関係をただ割り切った「仲良しクラブ」のような村的依存組織を超えずお互いに距離を置いて付かず離れず喧嘩や言い争わない事なかれ主義でそれぞれ「私達は仲間だよね」と暗黙的に自己満足しあっているだけの関係を構築しているだけだと思う。

私が思う本質的な「チガイ」とは、同じような行動をしながらも似ていてまったく異なるようなものをそれぞれでキチンと見出したり、性格に同じ部分を見出しそれでもチガイを分かち合ったり、考えが一緒であるところを見出し、その中でもチガイを明確にして認め合っていく。つまり、チガイを見るとは単に目に見える安易な違いをただ共感しようとするのではなく、同じであるところからそのチガイを「認め合う」という相手を尊重する本当の関係を創りだすことなのだと私は思う。

共同的と協同的とでは、同じ響きの言葉であってもまったく同じではない。
我慢と尊重とはまったく意味合いが違うと思えるからだ。

我慢して仲良くなるのにいったい何の意味があるのかなと思ってしまう。
それは集団生活の中でのルールとして、理解しておけばいいのにそれを人間関係で構築するのに使うとはいったい何たることかと思う。

もちろんどちらが良くてどちらが悪いかなんて言わないが、ちゃんと両方深く理解して使い分けが正しくできることが本来のあるべきようだと私は思う。

保育の意見交換だってそう、同年齢保育や異年齢保育だって別に年齢のことを言っているわけではない。すぐに人は、年齢構成が違うからと思って分けようとするがいるが本当はそうではない。

それは、上記に話したチガイの考え方から再考すればきっと分かるはずだ。
その中での同じ部分を見とるには、相当な議論が必要になる。同じような保育観を様々な実践から見出し、その中でもやり方、考え方が似て非なるものがありそれをお互いに認め合うまで議論する必要があるのだ。

ただ単に同年齢を異年齢にすればいいというものではないのだ。

先日会社でスタッフから「社長が言う「侃侃諤諤の会議」とはいったいなんですか?」と聞かれたことがある。

その時、「まさに今これがそうだ」と言ったのだが改めてここでその本質を語ればお互いが違う意見だから言いたいことをただ言えということではなく、日本の本来の「和」の精神にのっとり同じものの中からチガイを見出すために協同的に相手を深く尊重し創造的に議論を本気でやっていくという意味で私は考えているのだ。

私は聖徳太子から出された根本ビジョンにある日本の和の心とは、みんな仲良くではなく「和して同ぜず」の方がより意味が近いのではないかと常に思っている。

単に仲良くなることは我慢をすればきっとある程度は誰でもできると思う。

しかし、仲良くというのがある目的や目標のために使われるということは必ず「協同的学び」を行う必要があり、そのためには本質的な同じものを認め合うという相手とのチガイを深く「尊重」し認めることができなければ誰でもではできない。

やはり和の心の本質は謙虚さや至誠、素直さなど、仁、義、礼、智、信などの力が常にその真剣な場や本気の環境に求められていると私は思う。

切磋琢磨、好敵手などの関係が互いを本質的に認め合い高めていくのが本来の姿であるだろうと思う。企業だって、本当はそんな関係を構築していくべきだ。寄り合って霞を分けようとすることが仲良くではないだろう。

学校の先生が以前クラスの皆に「仲良くしなさい」と教えた意味合いが、事なかれ主義的な関係性をつくるものになったから今の人たちがその刷り込みで仲良くなる本質のことを間違って解釈していると思う。

子ども達には、変に仲良くしようとする操作主義的な共同的な学びではなく、本来の我が国が重んじる協同的な学びである「和」を伝えていきたい。そのためには私がそれを恐れず大心を持って本気で語り合い実践しそのモデルを仕事で示していきたいと思う。

積んできた実践が形を成すまで続けていくことを誓う。

一円観

「論語」や「大学」を読み進めるうちに二宮金次郎に出会うことになった。

二宮金次郎のことは、幼い頃に通った小学校にその銅像がありいつも目に留まるところにあった。しかし、その頃はなぜ薪を背負って本を読んでいるかなど知りもしなかったし興味を抱くこともなかった。

そして先日、ある方に「あの薪と一緒に読んでいる本が中国の四書「大学」「論語」であるのを知っていましたか?」と聞かれた時に強烈な衝撃と関心が生まれいてもたってもいられず、すぐに参考文献を取り寄せこのお盆中にじっくり時間が取れたのでその二宮金次郎の生き様に触れることになった。

世の常の不思議というか「思い」というか観得ない世界では根本思想は繋がっていて、自然に引き合わせていくのだと思うとどれだけ自分の心が常日頃からしっかりと世界の発展と未来の平和に対して方向性が正しく根付いているかが問われているのだと思うと改めて厳粛に自分を省みることができる。

師匠との出会いからの数々の教えも全ては天地自然に一本木の大樹に貫かれており、そしてそれは自らが人間であるがゆえに出会わなければならない業のようなものに彩られ作為に創られているではないかと私は思う。

師匠はすべて同じことを違う言い方で仰っているだけなのだ。

この方も、日本の未来、如いては世界の平和のために実践を貫かれた方だったことを知り心から尊敬するともに改めて今の自分の不肖に気づくことになった。

よく私は「分かった気になるな」と座右にしてながらどうしても自分の脳が分かった気になろうとする衝動に負けてしまうことが多い。その都度、どうしても片方に思想が偏り決め付けてすべての戒めを忘却させようとしてしまう。

今では昔とは違ってそれではだめだと今では本能や潜在意識や深夜の夢で目覚めさせてくれたり、はっとした気づきを身近な出来事で与えてくれるようになってきたがまだまだその回数は多くすぐに揺らぐ自分に何度も三省するようにして道を繋いでいる。

私は常々ゲームやテレビ、アメリカ型近代化の倫理観がズレた今の時代がイケナイのだと思っていたら、この二宮金次郎の時代であっても同じように人と天の間にある軋轢、キョリや刷り込み封建的なズレなど今の時代とまったく変わらず人間がそこにあるがゆえの宿命が同じように関係していることが分かった。そしてその中で自らの厳しい実践を通して、結果を出していたことに改めて心から感動した。

ここでも気が付くと自分の都合がいいように解釈して悩んでいる振りをして逃げているだけの自分が居ると思うと、二宮金次郎のように不動心に自らを燃えさかるところに身を置き一生を掲げる覚悟をもってやっていたかと思うと情けない自分への思いと今からでも間に合うぞという決意新たな思いにかられる。

私が特に心が震えるほど衝撃を受けたのは、成田山新勝寺での21日間の厳しい断食と参篭による悟りの境地、不動尊からの「一円観」だ。不動尊とは、不動明王の持つ「動かざること尊し」のこと。

   『一円観』

すなわち、善や悪などを世の中のありとあらゆる対立するものを、ひとつの円の中に入れて観るということ。

「打つこころあれば打たるる世の中よ 打たぬこころの打たるるは無し」と詠んだ。

(人には絶対の善人もいないかわりに、絶対の悪人もない。至誠をもって当たれば、復興事業を妨げる人々の心をも動かすことができる)

それから二宮金次郎は、

「神徳(天地自然のめぐみ)、公徳(社会の恩恵)、父母祖先の徳(肉親のおかげ)に報ゆるに、わが徳行(報恩、感謝、積善)をもってする実践の道」と定義した。

そしてこれを論語の以徳報徳(徳を持って徳に報いる)「報徳」とし、その真髄を極めるための道の実践に生涯を捧げた。

さらには、その実践に於いて【至誠】【勤労】【分度】【推譲】(誠実勤勉に働き(至誠、勤労)、収入に応じて支出に限度を設け(分度)、余裕を生み出してその蓄えた余裕を、次世代や地域のために譲っていく(推譲)を自らの理念として実行した。 (「二宮金次郎の一生」三戸岡道夫著 栄光出版社より)

どの言葉も、今の私にはズシンとくるものでこれ以上これ以下のない方向性を示したものとなった。

そしてその凄まじいまでの信念の中に、理想を掲げて妥協をしない生き方を学んだ。理想郷と誰に何と言われようが、好きに言いたければ言え、自分の理想は自分だけが知るという境地だろうか。

世界のために、そして次世代のためにやるべきことを選択して生きていく。

こんな素晴らしい方が日本に居て、今の私が居ることがどれだけ自分を勇気づけてくれるかと思うと感謝で泪がこぼれる。

「道徳を忘れた経済は罪悪である。しかし、経済を忘れた道徳は寝言である。」

まだまだ分かった気になってはいけない。

私は経営者で会社という企業をもって教育界とともに次世代に貢献していくと誓ったのだ。正しい入りと出、利と不利をもって世の中に感化する信条を大事にしていく。

これからも、日々の実践を積小為大の信念を持って向かっていこうと誓う。

いつの日か、子ども達が変わらない大切なものを座右にしながら平和な世界を築けることを願い、この邂逅にも先祖が導いてくれていることを感謝して歩みを深めていきたい。

感化

「教育とは、自然に感化すること」だと故森信三先生は仰った。

それは誰かが誰かに教えるというものではなく、自分がきちんと教育という矢印を自分へ向けて常に自らの姿勢を改善するということを言っているのだろ私は思う。そうやって自らの脚下の実践から相手に気づきの機会を与えていくということだろう。

これはきっと心の底から相手の生きる力、伸びる力、自立の精神などを認めて信じ尽くしているからできる境地なのだろうと思う。

教育は本当に素晴らしいと思う。
教育者は「認めるや信じる」という道を求め続けていくことを目的にできるからだ。

私も常々猛省して認められない自分の謙虚のなさを嘆いているけれど、いつかは自然にそれができるようになりたいと努力している。上に立つ人や影響力を持つ人、過去に成功した人、そして何かを教える人は「自分の方ができるから」という理由で相手をつい下に見てしまう。

私の主観での答えだけど本当の教育とはきっと年齢や経験、実績なども囚われないままに、相手にあわせて一切に上下なく他人と謙虚に対峙できるかどうかなのだと私は思う。

何かを教えて育てるということに於いて相手を認める受容の心は、相手の何を認めるかが常に自分に矢印を向け返されるからだ。

昔から人間は、誰しもそのような認める力が備わっているはずなのにただ起きる現象にだけですべてを「分かった気になる」のがズレていくことに繋がるのだろう・・・

そしてそれが分かった気になってしまってちゃんと分からないから、どこに共感することがモノゴトの本質なのかも理解しないままに虚像の空間に身をおき時や他人に流されていくのだろうと思う。

「群盲撫像」とはよく言ったものだと思う。

きっと人間は、自分の見ている一部分が世界のすべてだと錯覚するようにできているのだ。

だからこそ、常に分かった気にならずに求道する心こそがもっとも教育や保育をして子どもたちを感化するに於いて重要なのだと私は思う。

そういえば、師匠もいつも何も具体的には教えない。
しかし、自らの厳しい実践において相手をそっと見守っている。
たとえ言葉をかけたにしても、自然に伝えられることだけしか伝えていないような感じもする。

見守るということは、違う言い方をすれば自らの実践に於いて自然に感化するということなのだろう。

どうしても世間的に偉いなどや変な刷り込まれた肩書きを持つと、どんどんそれに囚われてしまう。そんな時こそ、きちんと自分の未熟さを三省して平常心に於いて自らを磨き学んでいくことを忘れないようにしていきたいと改めて思う。

認めるということや信じるということ。

子どもの何を認め、何を信じるか。
そして、世界の何を認め何を信じるか。

今の大衆が持つ価値観とは違う物差しでしか世界はきっと変わっていかないのだろうと思う。そのためにも「感化」するということを念頭に常に置いておきたい。

子どもたちにも、私自身の自らの実践を持って世代を越えたあるがままの架け橋になるように先祖代々受け継いだ大事な思いを遺していけるように自らの道を醸成していきたいと思う。

遠近

何か大きな問題意識や危機感があれば常に遠くをみようとする。
そして身近な問題に囚われ、どうしても平常心を失ってしまうことが多い。

特に、責任者やリーダーと言われる会社のトップなどは常に遠くを見て今の状況を客観的に判断するのでどうしても話の内容が遠くのことばかりなることが多い。

しかし現場では、そうはいかない。
現場はすぐに起きる出来事で溢れているからだ。

しかし、それはよく考えてみるとずっと遠くにあったものが近づいてきただけでイキナリ身近になったのではない。

よく仕事をするときに、私は交通事故という言葉を使う。

先に物事をよく考察して先読みをしていないのに、過ぎてしまった出来事のときに対応しようとしてもそれはもうどうにもならないことだと定義しているのだ。そんなときは、交通事故と思って、誠心誠意対応することをモットーに指導をしている。

しかしよく全体と経過を見れば、決して交通事故が悪いと定義しているのではなく、それは通過するときのお互いの接し方で大事な出会いや邂逅になるときもあるからだ。それはそれで何があるか分からないから人生はとても面白いのだと思う。

遠くを見ようとするときに大事なのは問題意識と危機感の持続だと思う。

今、この時が勝負なのかそれとも数年後の何かの時が勝負なのかなどもそれはその人の問題意識の大きさや危機感の密度によるのだと思う。

見通そうとしても見えないのは、きっとその問題意識や危機感が足りないのだろう。そしてそれは、どれだけの志とプロとしての責任と自覚といったやはり自分へ向けた矢印の密度によるものだろうと思う。

以前、師匠からアドバイスをもらったことがある。

どうしても近いところばかり見ようとするから、船酔いするのだと。
そしてそんな時は、遠くを見るようにすればいいと。

そしてこれには後日続きがある。

遠くを語ると他人は何を言っているか分からない。
そんな時は、近くを語ってやり方を示せばいい。

この遠近の違いが今は私の最大の課題だ。

距離感というのはどんな人間関係の中でも存在する。
距離が離れるとは、物理的な距離ではなく感情が引き離すキョリだったりする。

だからこそ、多くの人たちと志を同じく子どもたちのために世の中を今よりもずっと良くしていこうと思うのならば私の話す言葉も見直していかないといけない。

もっと子どもの環境について、皆が分かるような話ができるようになりたい。
まだまだ、師匠の背中観て、わが身を振り返る日々新たな一日でいこうと誓う。

浩然ノ気

私が好きな言葉に「至誠」がある。
故吉田松陰先生の遺した生き様の中でも特に大切にしている言葉だ。

今の言葉にすると、まごころや情け、哀しみという意味になるのだろうか。
時代が変わるだけで言葉にある重みや深みが変わってしまう。
それは人々の生き様やイキカタ、思想、文化、、それらに大きな影響を受けてしまうからだ。
言霊とはよく言ったものだと思う。
言葉は常に使う人によって、聞く人によって命が吹き込まれ、生き、活き、逝き、、そういったことから霊性を与えられるのだろう。

日ごろ使う言葉のなかでも「尽くすや至る」というものには、普遍的に一道を歩んだ先人達の揺ぎ無い覚悟を私は感じる。

何かに尽くし、一道を極め至る。というものには永遠の邂逅が在るように感じる。
たとえば、仏陀やキリスト、空海や孔子、遺した言霊は永遠に朽ちてこない。
師匠のブログにもよく論語が紹介されるが、そのどの項目を読んでも心にズンとくる。

孟子にある。

「至大至剛、直を以て養ひて害するところなければ、則ち天地の間に塞がる。」=(これ以上ないくらい大きく、これ以上ないくらい強い、そして正しく美しいもの、それを立派に育てれば、宇宙天地の間に無限に満ち満ち溢れんばかり広がる。)

これを「浩然の気」という。

「浩然」という言葉をインターネットの辞書で調べると

1 天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。
2 物事にとらわれない、おおらかな心持ち。「—を養う」
《「孟子」公孫丑上から》[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]

となっている。

過去や今を振り返っても、志の定義にも色々とあるような気がした。
勘違いしやすいのだが、志とは深い情けや愛情がなければ立つはずがない。

もちろんニンゲンはそれぞれが自分の命を見つめ正対して生ききるのだと思う。
その中でも世界への一隅を照らすもの、その中でも未来へ向けて自然や空になろうとするもの、数多く「生きる」「生きている」という普遍的な真実が在る中で時間と価値観のハザマにて命を超越していこうとする。

そして、それを求め道を目指せば「志」というものが練り上がっていくのだろう。
そして練り上がって養っていく中でそれは、世界に対しての深い真心や情け、愛情や勇気といったような深く地に根付いた浩然の気になっていなければいけないのだと師匠は仰っているのだと思う。

日々継続して学び続けること、一瞬でも気を抜かず自分の命をなすべきことをやり通す勇気、忍耐、いい加減にしない実直さと覚悟、本当に師匠の凄さを肌身で実感してしまう。

志を持ち続けてその気を養う、「浩然ノ気」

まだまだ観ないといけないもの、まだまだ知らないといけないもの、まだまだやらないといけないもの、たくさんある。

天地大地の広大な全てを包めるように子どもたちの未来が浩然としてできるようにしていきたい。

国家の大計

埼玉県で関東ブロック見守る保育研究セミナーがあった。
子ども達のために、自分を素直にさらけ出し公開保育をしながら皆と一緒に保育の質を高めていくというやり方は今の時代にとてもあっていると思う。

ITの世界では、リナックスというOSがある。

通常はウィンドウズが有名だが、このリナックスは「オープンソース」という手法を取り、プログラムのソースを世界中に公開し一緒に良くしていきましょうとという理念で展開している。同じ理念のもとに集まったプログラマーが改良し続け日々非常に品質の良いものになっている。

これも思い切って、自分のやっていることの本質を隠さず、自分のものだけにせず、オープンにしているからその理念に共感し協同でより質の高いものにしていくことができるのだろう。

日本人はシャイなのでなかなか公開するという行為が苦手な民族だと思う。
しかし世界では、それでは自立しているニンゲンであると評価されない。
また、自分しかできないことで世の中に自分の命を還元することも見つけにくくなっていく。どんどん公開して自分の役割と可能性を広げていく方が良いと思う。

通常、参加者は公開するのを見に行く方がメリットが大きいと思われている。しかし実際は、このように堂々とオープンにする方がメリットはダントツで大きい。なぜなら、それを行うことで意見や感想、問題提起などが創発しそれだけ多くの方々の集合知というか、一人の専門家だけから得ていたような知識から、大衆に塗れ精査され非常に価値のある「知恵」に変わるからだ。

今回のセミナーでも、多くの気付きを皆で持ち帰ることができたと思う。

園での子どもの「お片づけ」が指針の人間関係に相関関係があると気づいた実践園もあった。他にも、共通理解を取るためにも発達をみていくことが必要でそのための会議には、言葉をちゃんと定義することだと気づいた園もあった。

こうやって、同じような価値観で問題意識を高めるから気付きを共有できるのだと思う。

この業界は、あまり保育のことをトップが語る風土がない。女性の仕事という今までの流れもあるが、だからといってすぐに経営の方ばかりに走るのもどうなのだろうかと思う。我々株式会社であれば、経営が基本でないと成り立たないが社会福祉法人や学校法人であればその基本以上の付加価値である「質の追求」に走る方が私は良いのではないかと思う。それが社会においての役割と自分にしかできないことに繋がっていると私は思うからだ。

またそれぞれが自園の方針でやっているからと野放し自由にそれぞれに基準が設けられているが、実際は子どもの養護や教育は国家の大計であるべきだと私は思う。

そのようなものがハッキリしないから、普遍的な指針や指標が重んじがられず流行の目線や一般的に安易なマスコミニーズだけが蔓延するのだろう。教育ママや早期教育などもちゃんとした国の指針が見えないから混乱し適当に多様化を続けるのだろう。

世界は、日本が細々拱いているうちにどんどん子ども達の命の生きる力を育むために様々な施策を数年以上かけて構築しているというのに・・・

良いニンゲンが良い国を創る、良い教育が、良い未来を創る。

今がこの先の15年後の未来に繋がっているとしたらこれからの世界を見通し眺望し、子ども達にどうなって欲しいのかの方向性は国のトップが普遍的に照らすべきだと私は思う。

国家の大計である、子どもの姿を国民と一緒に語れるような大人たちが増えればいいと思う。子ども達には、この国の代表として世界で命を活かし輝いて貢献して欲しいと願う。

子ども達のためにもこのブロックセミナーをまだまだ広げ深め、より本質と道を求めながら一緒になって今の時代の「オープンソース」的発想を大事にしながら保育の質をもっと深めるお手伝いを様々な角度から行っていきたい。

敬と愛

昔訪問した園の先生から「敬と愛」について伺ったことがある。
子どもを育てるのに両方必要だということだった。

「愛」が母性であり、「敬」が父性であるという。

この世の生き物は、特殊な生物でない限りオスとメスで構成されている。
だから自ずと役割も分かれている。

以前、動物の子育てを特集したTV番組でこんな光景を見た。
メスが子どもを育て、オスがそれを傍で見守る。

空に舞う鳥もメスが巣で子守をして、オスが食事を運ぶ。
サバンナの動物たちも、メスが子どもを連れオスがそれを守る環境をつくる。
陸でも海の生き物でもそうだった。

しかし常に危険が隣り合わせである自然の中ではオスもメスも覚悟もある。
そこには生も死も深いところで共にしあっているようにみえる。

夫婦というのは、同じ時を生き、死をも運命をも供にするということなのだと。
子々孫々に生きた証を残していくためにすべてを懸けて子どもをつくる。

そう思うと今の時代はどれだけ「結婚する」ということを若い人は思うのだろう。

自然界では当たり前のことである「このこと」が何だか重く心を打つ。
まだ自分が幼い頃はその光景に自然と不思議な安堵感を覚えたものだ。

生きていく子どもにとって必要なのは社会に出て一人自立していくこと。
母の愛だけでは厳しい自然界の中にあるルールを学ぶことができない。
そのために生きる上で求められる「敬う」ということを父から学ぶ。

そしてこれを父性と母性の違いというのだろうと思う。

自然界にある当たり前のことを侮ってはいけないしそこから学ぶことだと思う。
子孫を継承するノウハウは、我々生物の遺伝子情報に深く刻まれているのだ。

主観だけど今の時代は社会に「父性」が持つ尊厳な「敬」が足りないと思う。
何でも満たす母性が強い時代の中の学びだけでは、どう自分ひとりで自立して歩んでいけばいいか子どもたちが分からず道に迷ってしまう気がする。

今の時代は社会にとっても立派な大人が父性という名の「敬」の道を示すことが一番だと私は思う。それが子どもたちにとって最良の環境づくりになり少子化と育児価値の劣化の歯止めにもなるのだと思う。

それは決して僧侶になれということではなく、世界やわが国の先人たちが築き上げた人としての道徳や古道から継承した尊い自然を歩むその背中やその姿勢を社会に示すことなのだと私は思う。

色々な起業家や業界人から、その道を示せるような敬える大人を望むものだ。
私もこの仕事に携わる以上、いつかはその道の一隅を照らせるようになりたい。

積極思考

仕事をしていると様々な問題に出会う。
大きな問題から小さな問題まで、毎日求める目標が高ければ高いほど解決へ向けて努力する。

仕事をしていく上で、2通りの人に出会う。

問題が起きた時に、マイナスの感情で満たす人。
問題が起きた時に、プラスの感情で満たす人。

その2通りだ。

前者は、心配怒りのエネルギーが増幅されあっという間に感情が冷え切ってしまう。感情が冷え切れば、諦めという最後の手段が頭を擡げるのだろう。

そして後者はどうだろうか?
後者は、積極思考でやる気が起こるとあっという間にモチベーションが上がりどんなことも前向きに考え困難を乗り越えて自信に変えていくのだろう。

問題を避けて通ろうとする人もいるが、これは文字通り問題外だ。
問題とは、解決への第一歩であり成功への足がかりなのだ。

大事なことはどんなことがあっても「積極思考」「プラス思考」で挑むこと。
情熱があり、やろうとすればその問題はほぼ解決したようなものだ。

子どもたちが何かをやる時には、この積極思考を持つようにしてやればいい。
やる前から諦めては、大事な可能性もなくなってしまうかもしれない。

「自分でやる」と言った自立への決意は、崇高なものだしそれこそが本物の「プライド」なんだと思う。そのプライドを持つことが社会で独り立ちする決意なんだろうと思う。動物の世界もそうだが、人間の世界でも親元を離れて「自分で立つ」ということは生きるという行為に於いて自他共に認めるもっとも尊いことなのだと私は思う。

どんな障壁があっても、その人の持つ無限の可能性を信じてあげたいものだ。

協同的な学び

ニンゲンは関係性の中で、いろいろなこを知りそして成長しあっていくもの。
そのためには、「協同的な学び」も必要だとのことだ。

本日は、熊本で保育研究セミナーを実施している。
参加者の皆様は九州各地からお越しになっている方々だ。
これは長崎で始まった先生方の研修が大好評だったのがキッカケで熊本へ飛び火したものだが自主的に主体的に、園の先生方が自らでセミナーを行うのを我々が後押しするものだ。

もともと何かを学びあうということは相手がいないとできないこと。
この業界ではそれぞれに何かしらの柵があり、なかなか本音で語り合えるという場や機会はとても少ないと思う。

人間は、お互いに距離を保つ生きもの。

ある一定の距離を片方が強引に埋めろうとするのならば、心理学で言う「やまあらしのジレンマ」がやってくる。

お互い最適な距離に近づくためには、多少は痛い思いもしないといけない。
その覚悟もなければ良いものは手に入らない。
等価交換の法則ではないが、必ず代価を支払うこともより高みを目指していく上では避けては通れない道だ。

そんな道を通るときは価値観に軸を置くといいと思う。

同じような考えで、同じような立場で、同じように危機感を感じればその目的のために自分の使命に沿った違った新しい関係性が芽生えてくるからだ。

以前、中国へ留学していたときに人生に大きな影響を与えた本がある。

「7つの習慣」という本だ。

この本がなければ、価値観に従って生きようとは思わなかったかもしれない。
そして出会った学友が価値観の大切さを教えてくれた。

19歳の頃、中国での出会いがなければこの「今」はなかったかもしれない。
創造的な素晴らしい関係はそのような出会いや価値観から始まるのだろう。

思いに集まってくる人たちには、何か特別なご縁を感じる。
これからももっとたくさんの人たちと自らの「価値観」を共有する喜びを分かち合いたいものだ。

サムシンググレート1

先日、致知出版社主催の筑波大学名誉教授の村上和雄先生の講演を拝聴してきた。
村上和雄先生は世界に先駆けてヒト・レニン遺伝子の解読に成功した方で遺伝子学ではかなり有名な方だ。講演内容もどれもとても興味深かったし、村上先生の存在が醸し出す温かさも心情の豊かさも素晴らしいものばかりだった。

特に講演での『サムシンググレート』の存在のお話しは発見だらけだった。

「遺伝子には人間が生まれてから死ぬまでの間のすべての情報が前もって書き込まれている。こんなに大量の情報がどこからそしてどうしてそれが集まってきたのか?そしてどのような仕組みでいったい誰が書き込んだのか?それを考えると眠れないほどになった。」

それが研究を始めるキッカケだったそうです、確かにかなり気になります。

 ニンゲンは未知の存在、それを遺伝子で解明していく・・・・

私の好奇心をそそる内容で、目も耳も心も一瞬たりとも離せませんでした。

「人間が遺伝子のスイッチをいつもオンオフしながら規則正しく指令をだしている。それはいったい誰なのか?意識ではなく深い遺伝子の記憶にある・・・」

「人間にはまだわからない『未知の何者か』がニンゲンの遺伝子をコントロールしているとしか思えない、例えて言えば神や仏と呼ぶ存在かもしれないし、大自然の摂理といったものかも知れませんがこんな不思議なことはない・・・」

そしてこの神秘な存在を『サムシンググレート』と名づけることにしたとのこと。この「サムシンググレート」は科学者が語れるギリギリの範囲の言葉だそうです。一歩間違うと、怪しいだとか宗教だとかになるからだそうです。

しかし神秘に満ちている遺伝子の世界の話だけど、「人間は一体どこからやってきたのか」という深い哲学にも繋がっているように私は感じた。
まるで大宇宙のことを感じるような話しに私も夢中で聞き入っていました。

著書もさることながら講演中のどのお話しをお聞きしていても、好奇心をそそる内容ばかりだった、ぜひまた著書を拝読しご縁をいただきたいものだ。

そしてひとつ、私自身でまた発見があった。

分からないということは、ある意味においては素晴らしいことだということ。
分かってしまうということは、寂しいことかもしれないということ。

分からないことを受け入れ、それを解明するというこで得られる「過ごした意味の存在」こそがもっとも大事なのだろうとも・・・

求めることが正しいと言ってしまうのは簡単だ、でもその過ごした時間の中で手に入れるものはきっとそれぞれだけが持つ深遠なものだしその人だけの神秘的な何かの「気づき」なのだろうとも思った。

これは「見守るほいく」ソフトにも相通じる真理だが、やはり人は分からないものを知ろうとするときに得られるこの『気づき』こそが自他共に受け与えることができる最上の真価なのだろう。それが大事であればあるほど、求める力はより強くなってより答えに近くなっていくのだろう。

人間というものを科学者として科学する深遠な問いを遺伝子で見つめるこの村上和雄先生の洞察は未来の子どもたちにもぜひ伝えたいと思った。

このような方が、子どもたちに人間の存在を科学から語っていただける機会があればもっと神秘な存在も自然に受け容れることができる子どもたちになるのだろうなと。

そしてそうなればと心から願い、この科学するという意味とその道が見得てきた最上の一日となった。