善の発心

人間は生きている感謝に心を満たすとき、この有難い御恩に対して何かで報いたいと思うものです。その報いたい思いは、いろいろな徳のカタチになって子孫たちに譲られていくものです。これは決して物だけではなく、生き方であったりしたり、有形無形問わずそれが子孫たちの恩恵として永遠に譲られていくものです。

自分さえよければいいや自分のことのみを優先するようになればあまり恩を感じなくなってしまいます。人が恩を感じられるのは、いつまでも感謝の心のままにかけがえのないこの一期一会の日々を深く味わい生きているからです。

いのち尽きるその日までもったいなく生きようとしている人は、自分に与えられた任務や使命を受け容れ真心で生きていくように思います。古民家にあるようなむかしの道具たちも、そしてその時代の懐かしい思い出を持ったあらゆる場にも真心は残っています。その真心がカタチになっていく一つに、布施というものがあります。

この布施の語源は、サンスクリットの「ダーナ」といい清浄な心で人に法を説いたり物品の施しなどを行うことをいいます。本来の布施の内容は、その布施の生き方を説いているように思います。仏陀は、布施は六波羅蜜の善業の実践のことを言うといいそれを「無財の七施」という言葉でも遺しています。

これは「雑法藏経」というお経の中の言葉で仏陀が人間はたとえ財力や智慧が無くても七施として、七つの施しができるということを示します。「眼施(がんせ) 」は、常に温かく優しい眼差しをおくること。「 和顔施(わがんせ)」は、いつも心地よい素直な笑顔で人に接していくこと。「 言辞施(ごんじせ)」は、穏やかで愛情の籠った誠実な言葉遣いを心がける。「 身施(しんせ)」は、自らの身体を使い奉仕すること。「 心施(しんせ)」は、思いやりの心を持ち、自分を相手の立場になって接していくこと。「 床座施(しょうざせ)」は、座席や場所、地位を譲り相手を慮ること。そして最後の「 房舎施(ぼうしゃせ)」場を与え、場を清めその場を譲ることです。

布施の本質とは、ここからわかるように自分から周囲に真心を盡して周囲の恩徳に報いていこうとする実践を行うということです。自分の中に備わっている人間としての徳を活かし、自分から与えられる善行を行っていこうとすることを恩とも言います。

現代は貨幣経済が中心で西洋の考え方も入ってきているため布施については誤解があり、本来の布施の意味もだいぶ変わってきていますがこれは生き方の話であり布施の生き方をしていこうとすれば自ずから布施によって自他善が結ばれていくということでしょう。

全体善という言葉も今では聞かなくなってきましたが、一人ひとりが布施をし善に生きる世の中こそ仏陀の目指した平和な社會だったのかもしれません。子どもたちが安心して暮らしていける社會のためにも布施的な生き方を学び直し、自分自身の中に善の心を高めていきたいと思います。

日本人の母~観音様~

先日、鹿児島県知覧町にある富屋旅館に宿泊するご縁がありました。特攻の母として有名な鳥濱トメさんが開業した富屋食堂の離れとして特攻隊員が最期のお別れを家族で過ごしたり、自分らしい最期の時間を過ごすためにとご用意した場所をそのまま旅館として経営されております。

最初にその離れにお伺いすると、その佇まいはとても凛としていてまるで荘厳で澄み切った神社のように清々しい場が醸成されておりました。場を守るというのは、その魂を守ることであり、言い換えるのなら心の故郷を守ることでもあります。

心の故郷を大切に守り続けている富屋旅館には、日本人の原点に気づく貴重な何かが存在しているように思います。

また鳥濱トメさんの遺した言葉や遺志をお聴きしていると、日本のむかしの教えがそのままに伝道されており如何に気骨がある人物だったかを直観します。遥かかなたのクニの行く末を案じ、いつまでも子孫たちが平和で暮らしていけるようにとその祈りがこの富屋旅館で往き続けています。

鳥濱トメさんは知覧から知覧からクニの行く末を見守り続けるトメ観音様、また特攻の母と呼ばれていますが、実際に感じたのは「日本人の母」でした。そう省みると、あの特攻の人たちは代表的な日本人であったということです。

その代表的な日本人たちが、クニの行く末を心配し子どもたちの未来を信じて笑顔で生き切っていった。その日本人の魂を見守り見送った母もまた、日本人の母であったという事実。そしてこの日本人の母こそ、観音様そのものであったということ。むかしから日本にある人生の教えは、この観音様と大和の心魂の間に生き様が智慧として連綿と伝承されてきたのかもしれません。

現代は、とかくクニのことをいえば政治問題にされ、魂のことなどをかけば宗教などを批評されます。しかしよく考えてみれば、当たり前なのは自分の今を想えば御先祖様たちの人生や生き様の積み重ねた上に私たちが今あって生きていることは揺るぎません。

だからこそ、行く末を案じてくれて自分のいのちを懸けて捧げてくださった方々の御恩を忘れたらいけないと切に思うのです。その御恩を思う人たちは、政治や宗教などという言葉で批評することはないと思います。そしてそのつながりが見える人は、白黒や右左と分けずに真実を観ようとするでしょう。自分の人生は短く、子孫のこの先の人生は長いのです。だからこそ、子孫のために何ができるかと願い生きた人たちの私心なき生き方のご先祖様に自分の魂は深く揺さぶられるのかもしれません。

日本人として生きていく若者たちは、この教えに触れることで本来の道徳や生き方を学び直すことができるように思います。

私もこの富屋旅館で得た気づきを、次世代の人たちにつないでいけるように真摯に自己を磨き魂を錬磨していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

いにしえからの風

「萬古清風」という言葉があります。これは中国・唐時代の漢詩の一節で禅語でもよく見かけますが「はるか昔から清らかな風が変わらずに吹いてくる」、「古きにも新しきにも全ての時空にあまねく清風が吹く」という意味で用いられます。

とても素敵な言葉で、大昔の古来から永遠に風が吹いている様子に心が洗い清められるようです。私たちは、昔の教えや知恵、先祖の生き方や伝承などをお聴きするご縁に巡り会うと、古来より何が真実であったか、そしてむかしから何が根本であったかに気づき有難い思いがしてきます。

それはまるで、何百年前から何千年前も、そしてこの今に向かって彼方から風が吹いて自然の循環が已まないで私たちに恩恵を与え続けてくださっているかのようです。

これは御先祖様の遺風や遺徳なども同様に、今の私たちがあるのは何の御蔭様かを思い出すとき、そして子孫の行く末をいつまでも案じてくださっている親心を感じるときにこの清風を感じられます。

人間は私心を捨て去り、万物一体善の境地になれば心が澄み渡り自然そのもの、言い換えれば神人合一の境地に達します。その崇高な穢れなき魂は至純であり透明で水や光そのものになります。

そうやって無私の境地でいのちを奉げてきた方々の陰徳は、忘れないで居続けることでいつまでも子孫にその徳風が吹き続けてきます。この徳風とは、無私の人たちの生き様から吹いてきます。その吹いてきた徳風が心身を通り抜けていくとき、私たちはその新しい風をいつまでも浴びることができ、その新しい風によって私たちの記憶もいつまでも甦生し続けていくことができます。

いのちの甦生です。

いのちがこのように甦生し続けるのは、まさに萬古清風の御蔭なのです。

いつの時代も人間である以上、自分との向き合いは人間の課題であり、その中で私心が私欲に呑まれる人と私心や私欲に打ち克つ人がいます。しかしその生き方の模範として、魂を極限にまで磨き上げ美しく光る人たちが子孫たちに徳の道を繋いでいきます。

道は終わりなく、また魂も廃ることはなく、永遠に風が清め続けますから私のその風の一吹きになって子どもたちの行く末を見守り続けていきたいと思います。いにしえからの風になりたいと思います。

歩み方=生き方の改善

人は小さな習慣の積み重ねで経験を積んでいくものです。継続は力なりともいいますが、小さな日々のことをコツコツとやるかで未来の出来事を手繰り寄せていくものです。しかし、このコツコツと行のを面倒だと嫌がり目に見えてすぐに結果が分かった方がいいと焦るのは心に不安があるからとも言えます。

心が安定している人は、コツコツと地道に一歩ずつ取り組んでいくことができます。これはコツコツと地道に一歩ずつ取り組むから地に足が着いているため心が安定しているとも言えます。頭と異なり心は常にちょっとずつ活動しているからです。

心をなおざりにしてやったりやらなかったりしその分、一気に結果だけの帳尻を頭で合わせようとすればそれだけ心が不安定になります。そして不安定になるからまたマイナス思考になり焦り結果ばかりを追いかけてまた地から足が離れて空回りするのです。

心というものは、目には観えませんが自分の体と一緒に歩んでいるものです。体の足が一歩前に出れば、一緒に心もまた一歩前に出る。これを同時にしていくことで、現実や真実が変化していくのです。

自分がいつまでも変化しないのは、自分が一歩足を前に出してもいないのに心だけは10歩や100歩など先に先にと進めようとしている時です。これは体と心が和合していませんから、ずっこけてしまいます。心と体はまるで二人三脚のように、息を合わせて一緒に歩んでいくことではじめて前進していくのです。

日々に心の一歩と、体の一歩は、具体的に言えば、思いを醸成する一歩と、具体的に実践する一歩を同時に行うことをいいます。例えば、何かを決断し行動すると決心したのなら、何かを已めて何かを始めるという具合に心と体を一致させていく必要があります。

そのために人間は、自分の一日を反省し、「自分の一歩はどのような一歩だったか」と振り返り次の一歩に向けて改善していくことで、歩き方を変えていくのです。

人生も同様に、歩き方を変えていくというのは生き方を変えていくということです。自分の歩き方は、一歩一歩、自分で意識しながら変えていくしかありません。

人間は怪我をしたり病気をして立ち止まり、上手く歩けなくなる時こそ、自分を変えるチャンスであり、もう一度、一歩一歩歩き直す中で自分の歩き方を見直していきます。そうやって歩いていけば、生き方も同時に変わり、人生も変わり、未来も今も変わっていくように思います。

一歩一歩と地に足が着いている人は、不平不満を言う暇がありません。一つずつ、丁寧に取り組んでいこうと改善することに着手し日々の一歩を豊かに楽しんでいくように思います。その歩み方は軽やかで楽しく、安心して歩み続けてきます。

人生は自然と同様に周りは日々に変化を已みませんが、その中でもどのように歩んだかは自分の歩き方で決めていくことができます。どんな状況でも歩くというのは、どんな状況でもこのブログに取り組む私の姿勢も歩み方を磨く大切な砥石です。

子どもたちのためにも道が続いていくことを祈り、日々に歩むことの大切さを伝承していきたいと思います。

清明心~徳の祈り~

先日、終戦間際に「特攻」をして亡くなった若い方の遺言やメモを拝見し色々と考える機会がありました。この特攻は、「特別攻撃」の略で敵に対し、兵士自身が兵器を抱えて突撃、もしくは兵士が搭乗する兵器をぶつけて道連れにする自爆攻撃のことをいいます。

お国のために死ぬと分かってて突入する、その必死の人物たちはどのような人たちだったのか、今のように平和ボケしてしまっている現代においては戦争のことすらも理解するのも難しいように思います。

その特攻の方々の遺言やメモを観ると、大切な国を守るため、大切な人を守るためにと、自ら真心で命を懸けて前向きに生き切った証が随所に残っていることが多いように思います。そしてその特攻する人たちを見守った人たちの覚悟もまた、想像を超えるような命をやり取りばかりです。ただの愛国心という言葉で片付けられるものではなく、生き方として真心や誠実に生き切った人たちから私たちは生き方を学び直す必要があるように思うのです。

今度お伺いする鹿児島の知覧には、特攻の母とも呼ばれ親しまれ、特攻隊員たちを息子のように真心で見守り続けた人物がいました。富屋食堂を切り盛りしていた鳥濱トメさんが、戦後、遺族や生き残った人たちが知覧を訪れた時、泊まるところがないと困るだろうという気持ちから、特攻隊員たちが当時訪れていた建物を買い取って、来訪者を泊めている旅館を買い取り子孫の方々が語り部として経営しておられます。

この鳥濱トメさんは、訪れた人たちに「とく」という漢字を掌に書いてくださいと言っているそうです。その上で下記のような言葉を伝えるといいます。

「善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。命よりも大切なものがある。それは徳を貫くということ。」と。

そしてこう仰ったといいます。

「私は多くの命を見送った。引き留めることも、慰めることもできなくて、ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。だから、生きていってほしい。命が大切だ」と。

人間はどんな極限的な状況であっても、誰かを思いやり誰かのために自分の真心を盡そうとします。それがたとえ悲惨な運命であったとしても、自分自身の真心のままでありたいと思うものです。それが日本人が大切にしてきた清明心でもあります。

清らかで素直に明るく正直に、思いやりをもって優しく生きた人たちの生き様こそが本当に遺していきたいものだったのかもしれません。「人徳」とは、人間が生きる道であり、人間が人間として磨かれ玉として顕現する最期の姿なのかもしれません。

以前、島浜トメさんと同じように「徳という自を書いてみよ」とはじめて致知出版の藤尾社長からお聴きした13年前を思い出しました。あれから生き方をどう磨いてきたか、改めて振り返り原点回帰したいと思います。

 

 

徳の本体

「徳」という言葉があります。今の時代は損得の得ばかりが優先されているようにも思いますが、この「徳」は人間が本来備わっている天性の種でありそれをどう育てていくかで今や未来が変わっていくものです。改めてこの「徳」とは何かを少し書いてみようと思います。

松下幸之助氏は、「人間として一番尊いものは徳である」といいます。

本田宗一郎氏は、「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか」といいます。

吉田松陰においては「士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない」といいます。

論語や老子、修身など学問をするものたちにとってこの「徳」は中心に置かれ、その徳を歩むことこそが人間の道であるともいいます。

しかしその徳はどのようなものか文章で書けということになるとはっきりしません。松下幸之助さんもこのように語ります。

『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』

この徳は、頭や知識で理解するものではなく心境によって学ぶものです。ただ良いことをしたら徳かといえばそうではなく、徳は目には観えないものだからこそ心で悟るしかありません。

例えば、太陽の徳とは何か。日々に私たちを照らし続けていのちに大切な光を与えてくださっています、これを徳とも言えます。他にも太陽は私たちが目には観えない偉大な効果や効能があり、万物を活かします。言い換えるのなら太陽の徳は、陽徳ともいい、明らかにはっきりと徳が観えますが同時に目には観えない陰徳もあります。この陰陽の徳とは、万物の徳のことを指します。

これだけ徳というものは、生きていく上で欠かせない恩恵のことです。太陽を擬人化するのならそこには自己中心的な生き方はなく、万物を活かし続けていく生き方があります。そこは無為自然であり、我欲のない澄んだ真心の姿があるのみです。

老子はその徳にも最上の徳があるといい、それをこう表現します。

「徳のある人は自分の徳を意識しない、それは徳が身についているからだ。徳のない人は徳を意識するため、なかなか身につかない。だから、最上の徳は無為であり、わざとらしいところがない。低級な徳は有為であり、わざとらしいところがある。」

老子はこう続きます。

「ところが最上の礼をわきまえている人ほど、相手がその礼に応えないと、 腕まくりしてでも、自分の礼に合わせようとする。なぜだろう。つまり、こうじゃないか。 無為自然の「道」が失われて、その後に“徳”が説かれ、“徳”が失われたあとに“仁”が説かれ、“仁”が失われたあとに“正義”が説かれ、“正義”が失われたあとに“礼儀”が説かれたのだ。だから、礼儀が説かれだしてからは無為自然の徳など、どこかにいってしまったのさ。なぜなら、礼儀というのは、人間のまごころが薄くなったからできたものであり、世の乱れのはじまりなのだ。仁義を形にする礼がはびこるのは、 見せかけだけのもので、「道」の本質を表したものじゃないんだよ。そんなものは「道」のあだ花であり、人間を愚劣にする始まりなんだ。なぜなら、立派な人間というのは、まごころの厚いほうにいて、 薄いほうにはいないものだよ。だから、もう一度、 形ばかりの礼とか知を捨てて、もとの「道」に戻るしかないのさ。」(老子)と。

ここまでくると徳の本体がはっきりとしてきます。

この「徳」とは、人間でいえば真心のことであり、思いやりのことであり、至誠のことを言うのです。この真心や至誠は決して単なる知識や学識を語るだけで実現するものではなく、真心の行動と実践によって実現するものです。

太陽の徳も月の徳も、水の徳も火の徳も、あらゆるすべての宇宙や自然には真心が存在します。その真心を発揮していくことこそが徳であり、私たちは真心で生きることではじめて本来の徳を積むことができます。

徳を積むことを頭で計算でできるはずはなく、徳を譲ることは我欲など入ればできるはずありません。ただただ一心に真心を澄ませ、思いやりのままに行動し実践することで徳は積まれていくものなのです。誰かのためにや、大切な人たちに自分の保身を入れず誠心誠意尽力していくことで顕現してくるものなのです。この徳を極めはじめて次第に万物自他一体善の境地を体得することができるように思います。

だからこそ徳を悟るには、この真心の実践の場数を積み重ね自分自身が仁徳を身に着けていくしかありません。この道には決して終わりがなく、今も生死を超えて永遠に存在し続けるているのです。

学問は本当は何のためにあるのか、それはこの徳を積み、心を磨き、魂を澄ませ無為自然に徳そのものに近づくためにある唯一の道なのです。人間が人間であるために、自然の中の一部として偉大なる与えられたいのちを活かすために古から今に至るまで本物の学問は須く「道」を説くのです。

引き続き子どもたちのためにも、徳を積む大切さ、徳の経営を実践していきたいと思います。

 

 

全体観~歴史という学問~

歴史を深めていると、その時あったことが後になって全く別の効果を発揮することに驚きます。たとえその瞬間が誰が見てもいいことではないと思っても、その反対側の側面では別のいいことが発生していることもあるのです。つまり物事は全方位で観る場合と一方方向だけで観る場合では意味が全く異なるということです。

この全方位で観るには、長い時間をかけたり、反対側から物事を鑑みたり、もしくは広く大きな視野で観るなど物の見方が成熟している必要があります。意識しなければ人は自分の都合のよい観方しかしていませんから、自分を中心に損か得かで物事を判断しては一喜一憂し一挙一動を決めているからです。特に我が強くなればなるほどに視野は狭くなり自分の価値観や感情に呑まれますから注意が必要になります。自分にいいことだけをやっていたら自分が追いつめられたでは本末転倒になるからです。

先日、応仁の乱のことを調べるとこれより戦国時代がはじまり内乱が続き多くの人たちが亡くなり悲惨な出来事でもありましたが同時に芸術方面の文化や、それまでの身分や差別などの制度も刷新されたりと新たな一面もありました。一見して、ただ悪いと決めつけるのではなくその歴史を深めれば同時にそうではない一面も出ていると思えば完全にマイナスや完全にプラスなどというものはなく、物事は常に両面や全体によって影響を与え合っているということなのです。

これは自然界も同じで、快晴が続けば人間にとってはいいのでしょうがそれが続き過ぎれば水不足になり多くの生き物たちが困ります。台風や嵐も地震もまた一方では都合が悪いのですが別の方向からだと大変な恩恵をいただいていることもあります。天候は常に調和していくのは、全方位全体に対して吉になるようにと働いていくからです。

誰かが都合を押し付ければ、誰かが不都合になる、如何に全体にとっていいかと正対する力を育むことこそが人類が永続するための真の文明人を育てていくように思います。

そのためにもっとも大切な学問が、「歴史」であろうと私は思うのです。歴史は単なる数字やものごとの意味を暗記することではなく、今に生きている歴史を遡り、その中で得る教訓や智慧を学び、全体観を身に着けていくことだと思います。

この全体観が身に着けば、人間は自分というものの存在を正しく認識することができ如何に全体にとっての善さが反って自分のためになるということに気づけます。すると自分にマイナスだと思い込んでいたものが、物の見方が転じられそのすべてが「今の自分に相応しい」ことに気づけます。

するとそれまでマイナスだと思っていたことが、プラスになる、いや「相応しくなる」ことで足るを知り、本来の自己を発揮でき本当の仕合せを永く享受されていくように思うのです。そのためには、常に自分が全体観で物事を捉えているか、全体観で自分を見つめているかと内省を続けなければなりません。

時として、その全体観は誰にも理解されず、非難や否定、批判や恨みを買うときもあるかもしれません。しかし真心や思いやりで取り組んだことは、後の歴史で必ず証明されるものです。

自分の信念を信じて、全体観で歴史から学び実践を積み重ねていきたいと思います。

心と器

「ゆるし」をテーマにして取り組んでいると、そのゆるすことの難しさに驚くばかりです。このゆるしというものは、今の自分を丸ごとゆるすことですがそのためには自分の過去の傷を癒したり、自分の視野を広げたり、自分の体験した歴史を認めたり、あらゆる自分自分の今と向き合いそれを許容できなければなりません。

実際に許容するというのは、言い換えれば器を大きくしていくことであり自分自身のゆるしの器が大きくなればなるほどにゆるしの許容量もまた大きくなります。しかしこの器を大きくするというのは、自分をゆるすことができること、そして他人をゆるすことができることに比例します。自他をゆるすことは、自分自身の器を育てていくことでありこれは一朝一夕ではできないことです。

人は自分自身の器を見るとき、そこに自分の本性や本体を心に映し見ます。この時、器の周りの境界線には縁というか壁ができます。その壁がプライドであったり、トラウマであったり、恐怖心であったり、先入観であったりと、自分の器がここまでと決めているものが壁になります。その壁を壊されることもあれば、その壁を融かすこともあり、もしくはその壁によって自分を守ることもあれば、誰かを守ることもある、つまりは自分の心を載せている器が自分自身の心を支えているのです。

人は心が大きくなっていくと、それを載せる器もまた大きくなっていきます。例えば心が大きくなるのに器が小さければ器の壁が邪魔をして心がその器よりも外に出ることができません。その器は心の成長を抑制し、心の壁を厚く大きくしていきます。その器とは自分の価値観のことであり、自分の価値観を変えていかなければ心のままに自分をゆるし生きていくことが難しくなるのです。その価値観の壁は、例えばありのままを受け入れられなかったり、執着にこだわったり、他人からの評価が気になったり、誰かのせいにしたり、等々とプライドの壁として頑固に強くなるばかりです。

その心と器の関係を良好にしていくことで視野が広がり、許容量もまた増えていくように思います。人は心の成長に伴い、必ずこの器の成長があります。器を大きく豊かにしていくためにも、ゆるしの実践は欠かせないものです。

ゆるすためには、今のありのままの自分をあるがままに丸ごと認めることです。自分のことを自分が受容する、もっと簡単に言えば今の自分がもっとも今の自分に相応しいとそのままの自分でいいと自分自身が受け容れることです。そしてそのためには積極思考というかプラス思考というか、物事を前向きに捉えるということを大前提にしていなければ心は器と調和することはできません。

ゆるしとは、つまり前向きな心器を持てることでありすべてのことを全肯定する幸福の道の理なのです。これはまさに自然界に生きる生き物たちが安心してこの世でいのちを全うしている信の境地のことです。今の人間の社會は安心から遠ざかって孤独と孤立の雰囲気に心を病む人が増えています。

安心して子どもたちが生きていけるように、ゆるしを通してあるがままの自分で自由に幸福になり社會を仕合せにしていけるようにまずは自分たちから生き方を改め見直し、心器を豊かにしていきたいと思います。

絶対受容

本心を我慢して本音を誤魔化していると、自分の心をさらけ出すことができなくなります。自分の心をさらけ出せなくなれば、人との対話は難しく自分の中で決めつけた結論を優先し答えを出してしまうものです。

本心とは自分の感情を含めたありのままの自分のことであり、それを誤魔化し続けていたら自分を無理してしまい自分の方が先に斃れてしまうこともあります。ひょっとしたら感受性が鋭敏で繊細であるからこそ真面目さや優しさや相手の過度な気遣いからいつも無理をしているのかもしれません。しかしその我慢が降り積もれば自他のバランスが取れなくなり生きることが苦しくなり人間関係の喜びを感じることも難しくなっていきます。

この心のバランスは、当然自分だけの問題ではなく相手にも問題がありお互いのことを思いやり助け合う中で維持されていくものです。本来人は誰にしろ一人では生きていくことはできません、しかしその絶対共生の境地を持てるには本当の意味であるがままの今の自分を丸ごと認め受け容れることができなければなりません。なぜなら今の自分を丸ごと認め受け容れることができないでは、必ず思考や感情は偏り、その分我が増長し、我執に呑まれるようになっているからです。人間とはそういう生き物なのです。

この自我妄執は自ら進んで不幸になろうとしている生き方でもあります。その逆に、積極的にあるがままの自分を受け容れあるがままの自分をさらけ出すのは幸福になろうとしている生き方のようにも思います。自分の心をそのままオープンに伝えられる人は、自分との関係だけではなく他人との関係も良好に高めていけるように思います。

そのためにも、日ごろから自分はこう感じているけれどあなたはどう感じているかというようにあるがままの心をあるがままの言葉で伝えあえるような心と心の関係を築ていくしかありません。

それは同時に自分自身との関係も然りで、自分の心に正直になって自分を我慢せずに自分の本心を認めていってあげるのです。それはまるで自分の中に純粋無垢な幼い子どもが居て、その子どものつぶやきを善悪正否など大人の価値観で裁かずにそのままの心を受け止めてそうかもしれないねと笑顔で聴いてあげる受容のようにです。人はそうやって複雑で答えのない矛盾したものをそのままに受け容れ真理や真実を掴んでいくのです。そのプロセスがたとえ危ういものだと感じたとしても、その人にしかわからない天命や使命、そして魂の邂逅があり、そこに偉大な役割を担っているからです。

だからこそ今の自分を丸ごとを受容することが、他人の今を丸ごと受容することになります。傾聴も共感も大切ですが、この「絶対受容」こそ今の自分を丸ごと認めるになり、本来の自己関係、自他関係、全体関係を築き上げていく人生の仕合せの道しるべです。

過去の感情的なトラウマや、自分を我慢して押し殺してきた歴史や、優しすぎて自分を傷つけてきたものがあればあるほどこれはとても難しいことだろうとも思います。しかし自分が絶対受容できればきっと自分だけでなく同じように苦しんでいる人たちを癒し救え、そのことから自他を開放し自由にしあるがままの今の自分を生きる人たちを増やしていけるようにも思います。

仕合せとは自分を偽らずに生きていくことなのです。

私もまだまだ苦しみ倦んでいる途上ですが、謙虚を真摯に学び直し、自他みんなで一緒に人類や生命、そして自分自身が仕合せに生きていくためにも絶対受容する生き方を実践していきたいと思います。

自己確立の道~自立道~

自立というものを深めていくと、そのうちに自己確立ということに出会います。自分のことを一番知っているようでもっとも分からないのが自分ということでしょう。ではどこまで行けば自立なのか、何を自立なのかということになります。実際は、自立は終わりがなくいのちの成長と同じで死ぬまで、いや、魂が続く限り成長し続けることが自立なのかもしれません。

トルストイの遺した言葉に「真の文明人は、人生における自己の使命を知っている人間のことである。」というものもあります。自分とは何か、自分というもののままに生きているかということが今を生きることであり、今に生きているからこそ本心や本当の自己というものを確立していくことができるように思います。

そして自我というものがあります。この自我が自分だと思い込んでしまうと依存が強くなり、自分というものを見失っていくように思います。如何に自我をそぎ落とし、自我を省き、自己を日々に見つめていくかが人生の意味であり体験の妙であるように思います。

一つ一つの体験を真摯に内省し、その内省したことの中から自己を如何に確立していくか。このブログも同様に、それぞれが一人ひとりがみんなで自己を確立していくことこそが真の平和や生きる仕合せに繋がっていくように思います。

自分らしく生きていくというのは、自立していくということです。自立していくということは、自分の心を片時も見失わないということです。私はそれを初心とも呼びます。初心を忘れないで生きていくことが、自分を確立していくことであり確固たる自己に目覚め自分の答えのままに自分を生き切っていくことになるように思います。

しかし初心ほど不安定なものはありません、日々に流され人の評価を気にし、何かに依存して自己を卑下したり比較したりするなかで生きていればすぐに初心を見失い同時に自分も見失います。自分を見失わないで自分を遣り切っていくというのは、天を相手にして自らに問うことの連続です。自分はどうかと自問自答、自学自悟することができるのならそれは自立への道に入って人生の醍醐味を味わっているということです。

人生の醍醐味は魂の昇華であり、本当の自分に目覚め自分になるいのちの開花です。子どもたちが自分らしく自分のいのちを全うしていけるように、真の教育や保育とは何かを自分自身が見失わないように自己確立の道を精進していきたいと思います。