現代文明の困窮

現代文明の困窮とは何か、それは人間性の減退と発達の未成熟により徳を切断・分断し循環しなくなったことが大きいように私は思います。

人間が徳の循環から離れたらこの世の中は、単なるいのちではない物質を利用する人間が征服する世界があるだけです。西洋文明の本質は、自然を支配し人間の思い通りにしていく未来をつくることでしょう。そこに人間性の成熟を見失えばどうなるか、それが現代文明の病巣として数々の問題を引き起こしています。犯罪、テロ、麻薬、戦争、宗教対立、民族対立も、人間が「自分だけ」「自国だけ」「自宗教だけ」「自民族だけ」「今だけ」を守ろうとし、いのち全体の循環から切り離された時にこそ発生するものです。

全体の循環を止める、そして離すという行為が如何に目先の利益だけを追い求めることになるのか。それは現代の経済や医療、そして教育を洞察すればすぐに観えてきます。目先の経済のために自然を破壊し、対処療法で切る焼く毒を入れても病気は増える一方、そして即席ラーメンのようにすぐに使える人間の育成、それはすべて全体調和や全体循環を歪めるものです。

人類は今、もう一度問い直し具体的な実践を変えていく時機を迎えています。そうしないと、困窮がさらに進み戦争をはじめ環境破壊をはじめ、この地球の生態系を滅ぼし、最後はその生態系の循環から除外されてしまいます。

「何のため」を問う、つまり生き方の再編集が必要なのかもしれません。

何のために発展し、何のために生き、何のために存在するのか。

目先の困りごとは、その奥に真の困りごとが隠れています。目先の困りごとの解決は、全体が調和し循環することで真に解決するものです。いつまでも目先の困りごとが解決できないのもまた真の困りごとが動かないからです。真の困りごとを動かす人たちが増えてこそ、目先の困りごとの解決も進みます。

大事な節目に、どうこの人類の困りごとを転じて福にしていくか。

色々と私の場づくりを通して試行錯誤していきたいと思います。

生き方と歩き方

人は長い時間をかけて高いところに登って道を歩んでいたら、山の入り口がどうだったのかを忘れてしまうものです。登山というものは、最初は入り口に立って頂上をみつめてどれくらいかかるのか、どんなことがあるのかを想像します。ある程度は調べていきますが、実際に登ってみないとわかりません。

先に時間や距離や内容をあまり知識として知ってしまうと、山登りに集中できないものです。そういう時は、一歩一歩足を踏み出して山を味わう中で山の歩き方というものを学んでいきます。

そもそも山の歩き方というのは、生き方と繋がっているものです。

ある人は修験者のように山を歩き、ある人はハイキング、またある人はリフレッシュにというものもあるでしょう。どのように歩けばどのような心境になるのか、歩き方でその人の生き方の変容を促すものです。

誰と歩くか、歩く時のコツやその意味を学び、歩いていくうちに氣づき変化するのです。

人類というものはそうやって生き方を学び、それを日々の生活に取り入れてきました。それは人間がかつてどのような暮らしをしてきたか、本来、人間はどのような存在であったかに再会するのです。

人は、知恵を通して人間性に出会うと人間性を回復していきます。

それが私の取り組んでいる場の甦生の本質でもあります。

かつて、先覚者たちはみんなそうやって道を導いていくために具体的な法具や仕組み、あるいは場を通して真理をカタチにしていきました。

人類の文明が育つには、この人間性を高め磨くための場が必要です。

引き続き、探求と翻訳と編集を楽しんでいきたいと思います。

場づくりの思想

場づくりに目先のメリットと長い目で観たときの推譲があるように思います。これは循環の見方の問題です。循環を個人の損得で推し量るか、あるいは循環を全体最適で推し量るかに似ています。

前者は、自分という個を主軸としてよいかわるいか、得か損かを考えます。しかし後者は、悠久や普遍的な時間軸で、徳が循環するかどうかを考えます。実際には、その短い目と長い目というものの見方次第で影響の出方が変わるだけです。

例えば、短期的なメリットがあったとしても長期的にはどうかというもの。これは環境をはじめ食生活などもわかりやすく結果が出てきます。

現代は、便利で効率的な経済ばかりが発展していますから短期的なメリットで覆いつくされているものです。その結果、副作用の多い薬ばかりを摂取するような状況になり後で修復が難しいほどの事態になりうるものもあります。よくあるウイルスや害虫と呼んでいるものも過剰な薬の投与で耐性をつけてしまい手も足も出ない状況に陥っている場合も増えています。

得ても返って損をするというものをよく吟味しないといけません。そうなってくると長期的なメリットを優先した方がよいという場合が増えてきます。例えば生活文化や生活習慣などは、目先は損をしたようでも長い目で観ると大きなメリットがあるものがあります。

場づくりはこれにとても似ているのです。

畑や田んぼでいえば、収量や収穫を短期的に増やそうとすると化学肥料や農薬が便利です。大きくなるし増えるし、虫もいなくなります。しかしその分、土が次第に汚染され浄化が追いつかずに痩せていきそのうち育たなくなっていきます。また作物にも影響が出て、食べた人の身体にその成分が入ります。これは場づくりの質が生態系全体ではないことはすぐにわかります。

しかし長期的に取り組もうとすると、農薬や化学肥料を使わずに自然の循環に従って共に土を発酵させるように見守ります。すると、次第にそこには徳が循環するような場が産まれ虫も増えますが増えすぎず共生し、微生物のバランスも安定して、植物を含め、人間も不自然さが消えて共に育つ場ができます。

これが私の取り組んでいる場づくりの仕組みです。

短期的に見ると、すぐに1,2年で結果が出る方が安心するし可視化できます。しかしそのあと、次第にやせ細るように生態系も貧しくなります。

長い目と生態系全体というのは同じ意味でもあります。

子どもたちが育つ場というのはどういうものか、そこには自然の真理や万物普遍の法理というものも働きます。畑や田んぼなどは10年も取り組めば明確にその答えが出ます。子どもたちのいる場もまさに同じです。

場ができれば地域も育ち、人も育ちます。

場づくりの思想を、カタチにして仲間や同志に弘めていきたいと思います。

場の甦生

昨日は久しぶりに郷里の千人詣での巡礼を遊行してきました。実によく手入れされ清々しい場所もあれば、誰も来ずに荒れている場所もあります。140年前に設置された石の仏像も色々な形で今も安置されています。それぞれの場所にはどこも静かに杜があり、その中に祠や家屋が存在するという仕組みです。

仏像の種類で多いのは、薬師堂という薬師如来が祀られている場所。または観音堂といって観音様が祀られている場所。そして弘法大師空海、そして仏陀が祀られている場所に分かれています。鈴があったり、鐘であったりと法具も様々です。

思うと設置が140年前ですからその当時の設置者たちのお孫さんやひ孫さんたちが今でもその場所を守っているということになります。皆さん高齢の方々で若い人はほとんど見かけません。

実家を出て行って都会に家を建て帰ってくることのない人たちもいます。地域は過疎化が進み、それぞれの場所を守る人たちも世代交代が難しくなっています。このままでは数年から十数年、あるいは数十年で完全に途絶えるのが簡単に予想できます。

本来、場所を祈り、場所を守るというのは自分たちが産まれ育ってきた場所を調えて穏やかに暮らしていくための大切な智慧であり伝承でした。例えば、争いが減り、人間性を育て、地域の共同体や互譲互助の精神を高め、居心地のよい暮らしの中核として祈りや共食、お祭りや清掃などがありました。

縄文の時代から人々は何らかの形で地縁といった豊かな生態系の中にあり共に暮らし助け合うことで仕合せも喜びも増やしていきました。

経済的には納税が増えて、工業団地がたくさんきて雇用を創出できてコンクリートの建物や道路が新しくなって、都市の商業施設や新興住宅が増えたとしてもそれで本当に場所が真に豊かになったのか、安心できるのか、人が健康に育つのか。

あらゆる制度は明治以降に組み換えらえてきたものです。

しかしその制度任せで目先の取り急ぎの問題の解決に依存してしまった今の状況は、子孫たちに本当に譲り遺したい暮らしとは大きくかけ離れているようにも思います。

いつまでも自分たちが数千年以上育まれてきた場所を、より美しくなるようにどう人間を育てていくか、場所を磨いて文化を調えていくか。

人類の課題は、それぞれの暮らし方と生き方、そして「場の甦生」のこそあります。これは人間だけの場ではなく、あらゆる生態系の場こそ私は真の場であると実感しています。

引き続き、粛々と場所を調え磨いていきたいと思います。

人間性の甦生

人の繋がりというものには色々なものがあります。仕事で繋がる人、趣味で繋がる人、ご縁で繋がる人、土地で繋がる人、挙げればきりがないほどに色々な人の繋がりがあります。

数を数えればどれくらいになるでしょうか?これも人によって異なるとは思いますが、お互いが持つ時間の中では限られているものです。

しかし人の繋がりは、時間や空間を超えているものもあります。すでに亡くなってしまった友人や師匠たちとも心では繋がっていますし、まだ見ぬ誰かとの繋がりもまた同時に発生しています。すべての繋がりが、一つの人生を彩りますから人間の一生は繋がりの一生とも言えます。

その中でも今の時代、とても大切な繋がりがあるようにも思います。

それは人間らしい繋がりのことです。

消費文明で比較競争し、存在価値よりも使用価値のように経済効率や市場価値をお金によって優先してきたことで個人主義や自由はだいぶ歪んでいきました。かつてのような共同体や互譲互助の仕組みも失われ、孤立や孤独でメンタルを不調になる人も増えています。あるがままでいい、ありのままでいいというのは、本来は人間らしい繋がりの中で実感する安心感でした。

その人間らしいつながりが失われていくことで、繋がりが希薄になってきたようにも思います。その希薄さは、徳を忘れ徳の循環していることが観えなくなったときにより強くなっているようにも思います。

そもそも万物には徳が具有しています。お互いの徳をそのままに活かしあおう、学び合おう、見守り合おう、一緒に生きていこうとすればそれがそのまま人間らしさにも直結していきます。

畢竟、人間らしさというものは人間性があるということです。人間性とは、徳を活かしあうことです。徳を活かしあうとき、人間も自然の一部となって共生し循環していく流れの一つに入ります。

人間らしさの繋がりは、まさにこれからの時代は必要です。子どもたちのためにも人間性の甦生に取り組んでいきたいと思います。

老成と子ども心

老成という言葉があります、同時に老害という言葉もあります。どちらも老いについての言葉ですが、これは年齢に限らず本来は用いられている言葉です。どんなに高齢になっても老害にならない人もいれば、若いうちから老害となっている人もいます。この違いが何か、少し深めてみようと思います。

そもそも老いというは何か、この問いは色々な定義があります。漢字の「老」は長い髪と曲がった背中の老人を象形化した文字で「おいる」という動詞は肉体の機能が経年で不活性化する状態を表す語源に由来しているともいいます。

年齢的な老い、これはすべての生き物に共通するものです。人類は不老長寿に憧れました。これはいつまでも十代や二十代の年齢を保つことではなかったように思います。私の言葉では、いつまでも好奇心を忘れずに活き活きと学び続け変化を已まない仕合せな人とうことでしょう。

また老成円熟という言葉もあります。これは老成することは円熟することであるという意味です。円熟というのは、色々な経験や体験を通してすべてを丸ごと寛容して柔軟に変化を楽しむ心の境地に入っている状態ともいえます。

そして老害とは何か、この逆のことであるのは間違いありません。変化を拒み、権力や地位名誉といった自我欲に固定固着し、老いに抵抗し頑なになり子ども心や好奇心を失った不自然な状態のことです。

老いとはある意味では、受け容れて手放していくことの連続です。手に入れたものを手放していく、もっといえば円熟とは自然の循環の中にあり自然体で巡回していく様々な経験や体験を内省し、真我に目覚めて純粋性を保ち続ける精進をしている人ともいえます。

通常、様々な体験をすると穢れてきたり曇ってきたり、どこかで自己の探求や追及、修行を已めて安定した場所で安寧な生活に満たされていくものです。直観を信じ、自らの天命を生きていけば人生はいつどこでも何の体験やご縁でも変化していくことができます。そしてそのままあるがままの自己を育てていくと円熟が進み人間として成熟していくものです。以前、私は尊敬するメンターが老いて赤ちゃんのような瑞々しく清らかで謙虚に暮らす姿を拝見したことがあります。

人間は子どもで産まれ、子どものままに死んでいくというのが本来の人間らしさではないかと考えたものです。つまり、人間の本質は赤心であるということ。そして赤心とは遊び心のことです。

ニーチェに「成熟した人間とは、真剣な遊び心を取り戻した子どもである」という言葉があります。

真剣な遊び心を持っている人とは、子ども心のままに老いていく人です。むしろ老いていく中で子ども心が磨かれていく人といっていいかもしれません。

子どもが憧れる大人になるのは、大人が子ども心をいつまでも磨こうという実践のことです。

引き続き、子ども第一義の実践を通して場を磨いていきたいと思います。

呼吸というもの

此の世にあるいのちの全てに共通するものとして呼吸があります。呼吸はどのようなものであってもすべて行います。人間など動物は動いているので呼吸しているのがすぐにわかりますが、植物であっても微生物であっても無機物のものでもすべて呼吸をしているものです。

例えば、地球であっても呼吸をします。波でも風でも季節でも呼吸をしているのがわかります。日中と夜でも呼吸が観えます。リズムを観ると呼吸がつながっていることがわかります。

呼吸は止めてみると、苦しくなるのですぐにわかります。また深夜に目覚めたときにしている呼吸、昼間の働いている時の呼吸、緊張している時、瞑想している時、食事の時も全部呼吸は異なります。しかし呼吸をしないということはありません。

呼吸は意識していなくても、本能で已みません。産まれてきたときから死ぬときまで続きます。息をしているから生きているともいえます。この当たり前のこと、事実すぎて氣にもとめないことの中にこそ根源が潜みます。

健康かを確かめるのも呼吸、そして場が調っているのかも呼吸、自分を知るのも呼吸、自然全体のリズムを直観するのもまた呼吸です。

「呼吸」の語源を調べると、サンスクリット語に由来しているといいます。阿吽の呼吸です。「阿」は口を開いて吐く息、「吽」は口を閉じて吸う息を表しています。密教では「阿吽」が万物の根源の象徴としています。

阿吽=呼吸という意味ですが、息をする間の中にいのちがあるということかもしれません。

私たちは固定し限定されて定着する中に存在していません。万物は易わり続けていて片時も止まることはありません。だからこそ、言語や認識では真理を語ることが難しく呼吸というような実体験を通して事実に正対できるようにも思います。

呼吸を調えるというのは、いのちを調えるということです。

場を調っているのは、呼吸が調っているということです。これをよくよく深く洞察していくことが場づくりをする要諦でもあります。

引き続き、呼吸を研究し場を醸成し場を磨いていきたいと思います。

螺旋の妙

呼吸を深めていると螺旋構造に氣づきます。そもそも呼吸も吸って吐いているだけではなく螺旋のように循環しています。体内に入るイキは螺旋のように吸収されていきます。そして体外に出るイキは、外に向けて螺旋状に排出されます。

これは音や声も同じです。振動するものは、螺旋の動きをしています。心臓をはじめ、脈動もまた螺旋です。地球の空気もよく観察すると螺旋、川の流れも螺旋、宇宙の呼吸もまた螺旋です。

重なり合うところに螺旋があり、その渦巻きが調和するところにいのちが循環する。

現代では科学が進化していて、遺伝子や量子などのこともわかってきています。そこには必ず螺旋構造があります。

螺旋構造というのは、中心が安定するために存在します。

私たちがバランスを保つとき、そして調和するとき、心身共に調っているときは渦巻きが見事に調和している状態ということです。他にも、仕合せを感じる時、真の豊かさを味わう時もまた螺旋になっています。

この螺旋は、法螺貝を通して学び直していますが奥深くあらゆるものに活かせます。

便利な道具が増えてきましたが螺旋とは程遠いものも身近に溢れてきました。このような時代だからこそ、法螺貝が持つ螺旋の神秘をもう一度、見直す必要があると私は感じます。

法螺貝は単なる音がでる道具や祭礼儀式の法具、楽器ではありません。

螺旋の妙を伝道伝承する大切な智慧です。

引き続き、英彦山から法螺貝を伝承していきたいと思います。

お山の食文化

昨日は、守静坊で山椒の葉を収穫し山椒味噌を拵えました。もともと山の暮らしの中で山椒はとても大切な役目を果たして来たように思います。

この時季は新芽が出てきます。その木の芽は冬の間に溜め込んだ毒素を排出したり、不安定な氣脈を調え、身体を整え、感覚を開き、場を清めてきました。

特に山椒の葉に含まれる代表的な成分は、サンショオールやリモネン、シトロネラールなどの芳香成分が有名です。あの独特の痺れる刺激と、青く透き通るような香りをかげばすぐに誰でも山椒とわかります。食べると身体の内側に熱が巡るように感じるのは、そのためです。昔から山椒が、冷えや胃腸の弱りに良いとされてきたのも、この刺激作用によるところが大きいとされました。また香りそのものも自律神経を整え、気分を軽くし、心身の緊張をゆるめたといいます。

また山椒の葉には抗菌・防腐作用もあり精油成分には細菌やカビの増殖を抑える力もあります。よくお山の信仰が息づいている場所で今でも山椒味噌やちりめん山椒などが古くから作られてきた背景にはお山の保存食として山伏たちが大切にしてきたという歴史もあります。

山伏たちは山へ入り、滝に打たれ、断食し、自然の中で身体と精神を鍛えます。の修行を支えたのが、味噌や山椒、木の実、山菜などの山の食でした。冬から春といった季節の変化に対して、季節のリズムを取り入れるのに食はとても大切な役割を果たしてきました。

お山の暮らしを甦生するのに、この食文化の伝承は避けては通れません。なくなってからでも新たに場を清め調えて甦生すれば文化は再編集できるのです。英彦山に根付くお山の食を一つ一つお手入れし甦生していきたいと思います。

文明の甦生

人間が人間として育ち合うためにそれぞれの文明には文化がありました。これを私は「暮らし」と定義し、今は「場」と呼びます。私が取り組んでいる場の道場は、暮らしフルネスの実践道場ですがこれは徳が循環するような暮らしを通してお互いが育ち合う場をつくるための文明の甦生モデルを実現しようとするものです。

現代の日本は西洋文明に偏っていて、消費経済や気候変動、環境問題などを中心に文明の甦生をしようとしています。しかし、実際の太古からある文明の根源は人間性の回復、別の言い方では徳を醸成し続ける智慧こそ文明の甦生であるように私は思います。

その証拠に、日本でも普遍的な生き方をどの時代でも貫いてきた無名の暮らしの伝承や場がたくさん残っていました。しかし現代は、その暮らしや場も、歪んだ個人主義によって崩壊が進んでいます。現代は、個人最適や特定の権力者や国家最適を優先するあまり全体最適や全体快適ではなくなってきました。

そもそも自然は常に全体快適を目指します。気候変動の問題ではなく、環境問題でもなりません。自然は常に自浄作用を通して全体快適を行います。自然が問題ではなく、当然、人間の暮らし方が問題だということに気づかなくてはなりません。

また経済も然りです。本来の経済は、徳によって循環するものでした。今は、損か得か取れれば取れるほどすべてといった様相で搾取して貯蔵しています。金融の世界などは、地球の全資源の数倍の量のお金の取引をしています。

人間を中心にした社会実験をしているのを文明と定義してみたとすると、現代の人間の中心の在り方は破綻しているのがよくわかります。だとしたら文明の甦生とは何か、それが人間性の回復ということになるのです。

文明の甦生は、場からは始まります。

小さな場が増えていくことで文明は甦生していくのです。これは歴史を鑑みれば明らかです。政治や政府などの権力者の流行とは別に、不易としての人類としての役割があります。

引き続き、どのような場があれば文明が甦生するのかの実践を整理していきいたいと思います。