いのちの実践

私たちはすぐに何かを知れば思い込むものです。ほとんどの人たちは思い込みの中で生活をしています。実際の現実とは異なっていても、思い込みによって常に思考を刷り込み続けているものです。自分が正しいと思い込むとき、人はそうではない世界を修正したりします。そうやってみんながつくり上げたものが常識と呼ばれるものです。

自然を含め現実は、何も思い込むことはなく事実があります。その事実を素直に観ることができるならその人は素直であり謙虚な人です。言い換えれば、刷り込まれないで思い込むこともない人が素直で謙虚ということです。よく勉強することはいいのですが、思い込みばかりを増やし、刷り込みばかりに費やしていたら現実は遠ざかる一方です。

常に実践と行動と挑戦によって、現実を見続ける精進をしていなければすぐに人は思い込みや刷り込みの中で自分の思い通りになるようにと努力をはじめます。特に経験を経て、歳をとってくると余計にその思い込みや刷り込みが固着していきます。頑固になるのも、人の話を聴かなくなるのも、また周りに耳障りのいい言葉だけを集めようとするのも高齢によるものです。偉くなっていき、自分のことが正しいと思い込み、刷り込まれたらもはや現実は直視できず妄想ばかりになります。

目の前のことに集中したり、一つ一つの脚下の実践に真摯に向き合っていると現実はいつも事実あるがままに認識できるものです。

一番のライバルは、他人との評価や他者との比較ではなく自己との闘魂です。自己に打ち克つというのは、効率や便利さ、楽を求めて一くくりにして思い込むではなく丁寧に一つのことに集中して現実を見究めて対応していく連続です。

そう考えてみると、人間は思い込まないために実践する必要があるように思います。

実践がないと人はすぐに思い込みや刷り込みに負けてしまいます。そうならないようにするには、現実の中に真摯に生きる主人公としての覚悟が必要です。

教育者の森信三先生が、「真理は現実の真っただ中にあり」という言葉があります。

まさに、現実にいるか、思い込んでいないか、真理でいるか、刷り込まれていないかと、常に覚醒し続けることを問い続ける力こそがいのちの根源であるということでしょう。

言葉というものは、何でも一くくりにできます。とても便利な道具です。そして私たちの思考も何でも分類わけしてはまとめて整理できます。これも効率的です。しかしそこに現実はあるかといえばありません。

一つひとつのいのちは、それぞれのもので個性があります。そのいのちが輝くように私たちはそれぞれに丁寧に向き合い続ける必要があります。それぞれの大切ないのち、それぞれの成長や発達があり、そこにそれぞれの無限の見守りがある。

大切なことを忘れないように、いのちの実践を紡いでいきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です