大神いにしえの田んぼ

福岡県朝倉にある旧三輪町で新たに無肥料無農薬の田んぼに取り組むことになりました。ここは、神体山の麓、日本最古の神社としても有名な大己貴神社が見守ってくださっている田んぼです。

田んぼを「大神いにしえの田んぼ」と名付けて、徳を磨く仲間たちとみんなで懐かしい未来を甦生させていきます。

昨日は、天候にも恵まれ心地よい島風を感じながらこの場所を見守ってくださっている大神(おおみわ)、この場所ではおんがさまという神様と八百万の土地神様にご供物を捧げこれまでの先祖さまたちへのご供養を禅僧の星覚さんにしていただきました。その後は、私が暮らしの中で行ういのり、法螺貝、お田植の祝詞を奏上しました。そして早乙女に苗を植えていただき五穀豊穣の予祝を行いました。

そのあとは、みんなで一列に並びお田植唄を聴きながら和太鼓や法螺貝で鼓舞して手植えで苗を植えていきました。子どもたちは泥だらけで苗をみんなで受け渡し、また素足で素手の方もいて和気藹々と田んぼで元氣をいただきました。

そしてその清めた場所で、古鉄の竈を持ち込み私たちが昨年育てた13年目のむかしの田んぼで収穫したお米を備長炭で炊き上げたものを一緒に食べました。お漬物も、私たちで伝承している在来種の高菜漬け、またみんなで他のお漬物も持ち込み直来をしました。あっという間に御飯はなくなり、残ったおこげを食べ、さらにそこにほうじ茶を入れてお米一粒も残さずに食べきりました。果物など色々とご喜捨いただいたこともあり、それを食べて最後は竹炭や備長炭を田んぼに蒔いていのりを捧げました。

帰りは、みんなで和になって一日の振り返りをして感想を語り合いました。まるで永遠の平和を象徴するような家族のぬくもり、そして笑顔、ちょうどいい慈雨が奇蹟のひと時を与えてくれました。

稲と田んぼとの暮らしは美しく素晴らしいものです。

どう生きるかは、誰もが決めることができます。しかし、その場所や機会はご縁によって導かれていきます。今回、有難いことに「いにしえ」のむかしからある由緒ある場所で、懐かしい人たちにめぐり逢い、原点回帰したお米づくりに取り組めること。

もうこの懐かしいお米づくりは私にとっては20年近くになりますが、新たにこの場所ではじまるお米づくりは心の記憶に深く余韻が残る大切な瞬間になりました。

この先は、見守りや除草、そして収穫があり稲架かけに新嘗祭などが待っています。夏至の田植えは、新たな一年のはじまりのようで心は正月気分です。元氣な田んぼで、自然に育つお米は抗酸化力が高く、単なる食べ物ではなくいのちが充ち溢れるエネルギーそのものです。

現代のように戦争前夜のような気配で、目先の競争や喧騒など賑やかですがこんな時こそ、徳を積み、徳を譲る活動によって心を保ち、平和や安寧をいのることが大切ではないでしょうか?

誰でもこのいにしえの田んぼには参加できます。

私たちの暮らしフルネスの中で、共に笑い、共に味わいたい方は、ご参加ください。

あまつみずとうまきあめふりそそぎ、 ときつかぜなごやかにふきわたる。

かんながらの道。

 

暮らしが神事

昨日は、夏至祭を行いました。宿坊をはじめその周辺の片付けをし、場を調えました。宿坊周辺は、先日の暴風で枝木や落ち葉が散乱して大変な荒れようでした。いくつかの場所では落石もあり、直系80センチほどの丸い岩が上から転がっている場所もありました。また古くなった大木も折れていたりと、自然の間引きとその威力にはいつも驚かされます。お山が大きいのと放置期間が長いため、片づけても片づけても片づけることばかりです。

古木の守静坊のしだれ桜が心配でしたが、一つも折れている枝がなく旺盛な葉をつけてはいまずがしなやかに風をいなしたのでしょう。桜とは一緒に見守り合う関係になってはや4年目ですが、植物や木々はとても正直です。お互いに思いやれば、それに応え合います。この世は、関係性によって信頼が生まれ、そして信用や信仰が醸成されます。

信じあうということや、見守り合うということはお互いが「信じる」という絆を持つために大切な行為であり人間の徳の原点かもしれません。

現代、信仰というとすぐに宗教を思い浮かべます。しかし私は真の宗教は、暮らしや文化、生活習慣に渾然一体となって根付いているものではないかと感じます。例えば、食事の時に感謝で手を合わせることや、お互いにご挨拶をしてお辞儀をすること、お布団を畳んだり、靴をそろえたり、またはもったいないやありがたい、おもてなしなどの日々に使う言葉の中にも信仰を感じます。

信仰というと、何が正しくて何が正しくないかなどすぐに対立構造や両義性ばかりが語られます。お互い様や御蔭様というものがなければ、世界の紛争や戦争はなくなることはありません。個人のレベルでさえ、人間は欲望や煩悩、権威や権力、お金の力によっていつまでも禍根を増やしていきます。

本来、それぞれが日々に丁寧に自分自身の暮らしを調えていく中で信仰の実践をしていればそこに禍根や争いは発生せず、お互いに心穏やかにいられるものです。宿坊周辺を調えたあとは、土地や場所、お山の神様、そして太陽に深く祈ります。ご供物を捧げ、いただいている恩恵や恩徳に感謝します。ご先祖様に御礼をして、お水をはじめ火や土などの精霊にも感謝します。夏至の太陽の光は、雲に隠れて穏やかでしたが確かに太陽の見守りを感じてみんなで喜びを分かち合いました。

優しい光と風が吹き抜けて、心身が調うのを実感しました。有難い静かなひと時は、いつも日常の暮らしの中の一期一会に存在します。

また沈んでいく太陽を眺める間は人生を振り返ることに似ています。この一日をどのように過ごしてきたか、どれだけたくさんの存在に助けられているか。美しいもの、善いもの、循環する徳に包まれていることなどを深く感じられます。

畢竟、私が人生で取り組んでいるのは、暮らしの中の神事です。そもそも暮らしが神事なのです。その神事は宗教ではなく、まさに暮らしそのものを神事のように生きることです。暮らしフルネスは、暮らしを神事として実行し実践することです。

今日は、これから新たな田んぼで仲間たちとお田植祭です。伝承してきた古来からの祝詞をみんなと一緒に捧げ、唄いながら、笑いながら、田んぼの元氣をいただきながら一日を暮らします。千葉の田んぼや一緒に生きる仲間たちのことを思いながら稲を一本、一本手植えしていきます。

忙しい日々の中でも、太陽や月や土を忘れず丁寧に暮らしは誰にでもできます。

さあ、これから準備万端、田のかみさぁと英彦山ガラガラをもって田んぼと遊びます。

おめでとうございます。

夏至 陰陽転化

本日は夏至で、私たちも夏至祭を行います。この夏至というのは太陰太陽暦における二十四節気の一つです。2月には冬至祭を行いましたが、暮らしフルネスでは太陽と月の運行で一年を過ごすことで宇宙自然のリズムの豊かさを感じやすいということで取り入れています。

同時に、自然界もまたこの太陽と月にあわせて生々流転しているのでその循環を味わうようにできているものです。

この夏至は「日長きこと至る(きわまる)」という意味があるといいます。冬至は陰極まって陽になり、今回夏至は陽極まって陰になるということです。

これを陰陽転化ともいいます。これは片方が最高度に達したときに他方に転化するという仕組みです。自然界はこの陰陽転化に合わせて、それぞれのいのちを調整していきます。例えば、バランスを崩して風邪を引けば高熱が出て下がり平熱に戻る。あるいは体温が冷えすぎて風邪をひくというように、この陰陽のバランスが体調維持に大きな影響を与えます。中和するために、私たちは自然に睡眠や排せつ、水分補給や栄養などを摂取して日々を生きているのです。

意識していなくても、身体は自然に陰陽調和をし続けている。これは地球も同じで宇宙も同じです。

話を夏至に戻すと、日本がある北半球ではこの日が一年のなかで最も昼の時間(日の出から日の入りまで)が長くなります。これは太陽が黄道上で最北に位置する「夏至点」を通過する日です。

夏至は世界中でお祭り行われています。太陽のお祭りですから、火に因んだものも多くなります。私たちは、宗教ではなく生活の中で信仰していますから自由にお祭りを楽しむことができます。もちろん、伝統的な神事に習いいのりは捧げますが、太陽の光から火を熾し、それを備長炭に移してこの日はずっと太陽の灯と共に一日を暮らします。

また太陽の光をたくさん浴びてこれから陰に入っていく太陽を深く感じます。太陽の光の豊かさは有難く、太陽がなければ私たちは生きていくこともできません。世界は色々な状況が変化して、暗雲も立ち込めていますが太陽はむかしから変わらずに私たちを見守ってくれています。

夏至を味わい、冬至に向けて陰陽調和を楽しんでいきたいと思います。

法螺道の加減

匙加減がわかるという言葉があります。この匙(さじ)とは、薬などを調合するときに使うスプーンのことです。分量次第で色々と効能も変わりますから、相手に合わせてまた状況や症状で適切にできる加減のことです。

この加減という言葉は、調整、調律、具合なども意味が近いものです。加えることと減らすこととありますが、これは力の調整、調律、具合などを合わせるということです。

例えば、物体であれば壊れやすいものや薄いものなどは特に丁寧に力を加減します。その逆に頑丈で強いものも力を加減します。弱いものから強いものまで、相手に合わせてその力の使い方を変化させるのです。

これは当たり前のことを言っているようですが、実際には物体によって個体差があります。同じ紙でもすぐに破れるものもあれば、とても強くて破れないものがあります。相手に合わせて、紙への接し方も変わります。見た目が同じ紙だからと、同じようにやるとなかなか加減が分からずにうまく扱えないものです。

道具というのは、相手の素材に合わせて使い分けていくものです。和包丁などは、素材に合わせて使い分けます。同時に使い手もその素材の性質を知り、力加減を絶妙にしていくのです。

現在、法螺貝の吹き口をつけ調律を学んでいますがこの加減というものの奥深さや難しさに直面しています。法螺貝そのものが持つ可能性を探っていくには、その貝の素材の性質を深く洞察し理解できないといけません。同時に、その法螺貝で出せる音を見究めるために様々な呼吸や吹き方を試していく必要があります。

先ほどの和包丁のように素材を扱う側も自分の身体の扱い方も両方が上達している必要があります。自然物というのは、なるべく余計なことをしないでいのちを壊さないようにした方が鮮度も保ち、徳を穢しません。

どれだけの加減を見究めるか。何でも同じことばかりしていたら、いい加減うまくいかないときに気づくものです。しかし人間は、加減を學ぶのはたくさんの経験や失敗を通してです。

私も古民家甦生をしてから恥ずかしいほどにたくさんのものを壊したり傷つけてきました。その都度、深く反省し失敗から学び、配慮するように生き方を磨いていきました。自分の方の扱い方を変えることの連続です。しかしその御蔭で、素材のことを深く知り、素材の性質や徳性を知り尊敬の気持ちも増えていきました。

法螺貝の道もまだまだ入り口、法螺道を真摯に向き合い螺旋からその好い加減を学び直していきたいと思います。

田んぼのご縁

今週末は、お田植祭です。今までは千葉県神崎のむかしの田んぼで無肥料無農薬でお米づくりをしていましたが今年は福岡県朝倉の田んぼで新たに挑戦します。いつものように予祝をして、田の神さまをお祀りして早乙女と早苗を植えていきます。祝詞も神崎神社の宮司様から伝承いただいたものをこちらでも奏上します。

もともとこの朝倉の田んぼがある場所は、福岡県筑前町(旧三輪町)弥永にある大己貴神社がすぐ近くにあり見守られています。この神社は我が国で最も古いといわれている神社のひとつで神功皇后が新羅討伐の兵士を集めるために太刀・矛を奉納し願いを立てた、戦勝を祈願したという言い伝えがある古社だといわれます。

また、邪馬台国-朝倉説の重要な神社として有名で「福岡県筑前町弥永の大己貴神社付近」と「奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)付近」の地名や地形も
偶然とは思えないほど酷似しているといいます。

実際に御宮にいき、お山を拝んでいると確かに奈良の三輪山と同じ風景と気配を感じます。法螺貝を奉納すると、その響きがお山をはじめ地域全体に膨らみ懐かしい景色が顕現します。

この場所でむかしの人たちの心で、むかしのように手植え手がりで伝統神事と伝統行事を甦生させてお米づくりができることに深いご縁を感じます。

神仏のお導きというのは、自分の考えとは関係がなく事が進みます。千葉の田んぼの継承のことで私にできることはないかと無私無欲に真心を盡していましたがその結果としてこの朝倉でむかしの田んぼに新たに挑戦するご縁になりました。決して狙っていたのではなく、頭で考えていたのではなく、こうあるよう、こうするようにとカグヤさんをはじめ地域の氏神様や縁故の方々に運を運ばれていくのです。

お導きというのは、素直さや正直さがあってこそだと私は思います。その時々に到来するご縁をどこまで丸ごと信じ切ることができるか。そしてその信じ切るご縁にどれだけ真摯に誠実に順応していく努力を続けていくことができるか。人生は試練ですが、試練の中に豊かさも仕合せもあり、また感動の出会いも別れもあります。

今年もまた稲と共に一年の循環が味わえることに深く感謝します。

祈りを捧げながら、一緒に生きる仲間や時代と共に五穀豊穣に感謝します。

ガラス戸の美しさ

現在、浮羽の古民家甦生でガラス戸をお手入れしています。むかしのガラス、昭和型ガラスともいいますが明治以降から昭和にかけてのガラスはゆらゆらと波をうっていて、どれも個性がありまた一点ものの美しさがあります。

現代は、ガラス製造技術が変わりかつてのようなガラスではなくんりました。より均一化し、品質は高まったともいえます。しかし、古民家にはどこか機械的過ぎて雰囲気が合いません。

私はわざわざむかしのガラスを探しては、それをカットして建具にいれます。通常は、解体作業などに立ち会っていると古いガラスはあっという間に破壊して捨ててしまいます。それを一つ一つ丁寧に外し、今にも壊れそうな薄いガラスを洗浄して甦生します。

強度などは明らかに現代のガラスの方が強いのですが、逆に弱くて柔らかいからこその強さもあります。またガラスの音も美しく、風に吹かれたり少し叩くと優しい感じが出ています。

元々ガラスの起源は紀元前25世紀頃まで遡るともいわれます。長い歴史を経て、今のガラスを私たちは活用しています。ガラスがなければ、携帯もパソコンも使えません。ガラスはとても身近な存在です。

かつての明治以降のガラス戸は、それまでの障子戸や板戸からの変革でした。しかし障子の持つ豊かなあかりや、板戸の持つ頑強さなど、あらゆるものをガラスが吸収融和して新たな戸として誕生しました。

その頃の板ガラスは、どれも美しいのはそれだけ先人たちは戸を重視していたことがわかります。弱くて柔らかくて美しいのは、光を透すからです。その光は、材質や原料によって変わります。

お水に光が透るように、また和紙に光が透るようにガラスも透したのでしょう。

私の拠点、場の道場の邸内社のご神鏡はガラスです。これはかなりむかしのガラスです。その透明度の美しさは神業であり、自然が産み出した美しさです。透明であること、透過することは浄化にも似ています。

ガラス戸にはそれだけの光の徳があります。

丁寧にお手入れして、甦生に集中していきたいと思います。

香と徳

ここ数年、お香のことを色々と深めています。お香は奥が深く、音と同じようにその時の湿度や空気、環境や心境で様々に変化します。

中国・北宋時代を代表する詩人で書家の黄庭堅、お香の有用性や優れた特性を40文字で詠んだものに「香十徳」といいます。これを弘めたのは室町時代の一休宗純の書になります。

そこには、こうあります。

感格鬼神  感は鬼神に格(いた)り
清淨心身  心身を清浄にし
能除汚穢  能(よ)く汚穢(おわい)を除き
能覺睡眠  能(よ)く睡眠を覚し
静中成友  静中に友と成り
塵裏偸閑  塵裏(じんり)に閑(ひま)を偸(ぬす)む
多而不厭  多くして厭(いと)わず
寡而為足  寡(すくな)くして足れりとす
久蔵不朽  久しく蔵(たくわ)えて朽ちず
常用無障  常に用いて障り無し

これはお香の持つ徳の力を文書にしたものです。意訳をすると、「お香は感覚を研ぎ澄ませ、心身を清浄にして穢れを取り除く。また眠気を覚ましてくれて忙しい時にも静かな心でいることができます。多くて困ることは一切なく、少なくても薫りは変わりません。日常的に使っても飽きがこず、長期保存もできる優れものです。」といった感じでしょうか。

私は朝晩は必ずお香を焚き、後は場づくりするときや来客時、瞑想や心を落ち着かせるときに用います。好きなお香もありますが、その時のイメージで香りを使い分けています。

この香りは心を密接に結ばれていて、香りと心の状態は常に影響しあっています。ちょうど、昨日は真菰を育てている伝統職人のところにお邪魔しましたが部屋中が真菰の香りで充たされていて何時間でも滞在したい気持ちになりました。

香りは生き方と繋がっています。

薫陶や薫習という言葉もありますが、香りはそれだけ私たちの生き方にも大きな影響を与えているのでしょう。まさに徳の顕現する一つがこの香りです。

引き続き、香りを深めつつ、いつか真の香りを伝承できるように精進していきたいと思います。

修行の仕合せ

昨日は、滝行をしてきました。この時季のお滝場のお水は水量も多く、また石清水にも勢いがあり2種類のお水に癒されます。1つは、降雨と合わせた荒々しいもの。もう1つは、時の流れを感じる静かで穏やかなもの。

私の通うお滝場は本来は、英彦山に次ぐ修験場でかつては1200年の歳月をかけて何千人、あるいは何万人という山伏たちが修行をした場所です。明治の廃仏毀釈と山伏禁止令、そして近代においては治山工事やダムの建設などで水路が変わり滝場も消失し今の場所に移動しました。しかしその御蔭さまで、かえって新たな素晴らしい滝場ができて岩窟と共に修行にはとてもいい環境になっています。

もともと修行というのは、苦行のことだと一般的には言われます。しかし苦行のように外から観えても、本人たちはそれを歓び楽しみ幸福を味わっているものだったりします。例えば、身体を酷使させるのは疲れるように思われても実際には五感をフル稼働して身体感覚を味わう喜びがあります。自然の中で自然物と一体になれることは、地球と結ばれ自然の一部である安心感があります。

また滝行でいえば、「活きた新鮮なお水の徳」を肌身で感じることでいにしえの龍の存在や波動、心毒を流し煩悩をかき消してくれます。お水の流れに心身を深く委ねて任せていくことで、清々しく澄んだ気持ちが湧き、時を忘れます。合わせて龍神法螺貝も真言もお香も火もどれもが集中力を高めてくれます。先人たちの遺徳に感謝するばかりです。

そして滝行した後は、まるで視力が変わりクリアにこの世のことがくっきりと観えてきます。現在、中東で戦争の火種が発生し予断を許しません。世界の真の平和をいのりながら、滝場で深くいのります。いのりは修行の醍醐味です。

本来、私たち人類は誰もが自然のなかで平和をいのりました。

かつての人間性を快復させていくのは、自然と共生することからです。それも平和をいのるような自然との共生からだと私は思います。

今週末は、夏至祭とお田植祭、お山と田んぼのお手入れをしますが暮らしの軸足をお金や経済の方だけにするのか、それとも自然との共生にするのか。それで人生は大きな影響を受けます。

どちらかだけではなく、バランスや調和、調律があってこそ人間は心身脱落するものです。人生はある意味ですべて修行ですが、豊かで幸福な修行をみんなで増やして子孫たちに智慧を伝承していけたらいいなと思います。

慚愧懺悔六根清浄。

場をととのえて、静かに待ちます。

自然物と五感

自然物というのは、同じものがありません。同じものがあるということが不自然ということです。同じものがないから同じことはできません。同じようにはできますが厳密にいえば同じにはなりません。

手工芸をはじめ、手で物を加工する職人たちはそれを自覚しています。現代は、機械で何でも同じ原料で同じものをつくることを良しとしています。同じ品質、同じ味、同じ音、何でも同じものでなければ信用問題になるほどです。しかし実際に私は法螺貝をつくり、蕎麦も打ち、石風呂などを手掛けていますが同じようになったことは一度もありません。

厳密には、空気の中の湿度が毎回同じではありません。それに自分の体調、また素材そのものの個性があります。また自分の感覚もその時々で異なりますし心の状態はとても緻密に揺らぎます。

自然物を相手にするというのは、感覚を使うということです。コンサルティングの仕事をしてきて感じたことですが、同じような組織の問題でも同じことは通じません。当然、共通する問題はあるにせよ人が異なります。場所も異なります。近い結果になったとしてもそのプロセスの組み合わせは無限にあります。

だからこそ一期一会だと、毎回、真摯に真剣勝負で取り組むのです。自然界はいつも真剣です。失敗すればリカバーできるものもあればできないものもあります。その瞬間瞬間を逃さずにいることが自然に正対するということでしょう。

昨日までの大雨が嘘のように今朝は穏やかな風と青い空と白い雲が広がっています。池の上を走ってくる風は、まるで産まれたての赤ちゃんのようです。

五感を研ぎ澄ませながら、ご縁とお導きを楽しんでいきたいと思います。

音と遊び

宿坊ではご祈祷をするときに法螺貝やおりん、金剛鈴などの音を鳴らします。これは音に由る振動によって、場を調えて感覚を目覚めさせるためにも用います。日常と非日常、また特殊な周波数は振動数を高めて心を落ち着かせます。この陰陽調和、強弱調和は、時には驚覚し、また時には歓喜になります。

音による説法というものは、人間の心に深く染み入ります。言葉や喋りで理屈で理論で説明するよりも、音によって氣づいていくというのが真理ということでしょう。

今年の初めにスリランカに訪問した時も、お経を音で歌う僧侶の姿にいにしえの仏陀の雰囲気を感じました。仏陀は、その話ではなく音によって人々の心を素直にしていきました。

これは自然のせせらぎの音や、新緑の木々の音、あるいはしとしとと落ちる雨の音、杜の静寂の風音などあらゆる音によって人が心を目覚めさせることに似ています。

法螺貝は特にこの驚覚の徳があります。以前、大きなゴングを宿坊で鳴らしていただいたことがありましたがあの振動も心身に響き数か月間はずっと鳴り続けていました。

法螺貝もまた、その時々の心境や場面によってその効力の発揮する期間が変わってきます。いつまでも心に遺る法螺の音は、五感をはじめ五臓六腑を癒し続けます。

最近は、毎日のように貝に触れる日々ですが貝のもつあたたかさやぬくもり、優しさをはじめ清らかさや逞しさを感じる日々です。

真言を唱えるのは、宗教だからではなく音だからです。

私は色々と比較されたり宗派や宗教に巻き込まれるのが苦手です。暮らしの中で、自然に溶け合うように自然と一体になった人間があるがままに智慧を学びその生活の音を出す。ここに真の伝承を実感します。

別に宗教の真似事をしたいわけでもなく、先人たちやご先祖様を軽んじるわけでもなく、純粋にそのものから学び、そのものから導かれるものに従って自然体で歩んでいきたいと思っています。

分類わけできない存在を異様がる人もいますが、分類などない絶対界にいって自由自在に遊んでいきたいと思います。

のうまくさんまんだぼだなんあーん。