前向きに諦める

人生には自分の思っていた通りになるものと思い通りにならないこと、思いもつかなかったことがあったりするものです。生きていく中で、色々と願望が固着し思いが重たくなってくるとその願望に執着して諦めることができなくなることもあります。

しかし本来は、目的を失うわけではないのだから手段は無数にあっていいわけで私たちはその手段を変えていくときに葛藤があるのかもしれません。言い換えれば、今までできたことができなくなることへの不安感であったり、今までその手段でやってきたことができなくなることへの心配が手放す勇気を減退させてしまうのかもしれません。

前に進んでいくためには、いろいろなことを手放していかなければなりません。それまでできたことが、新しいことをやろうとするとできなくなる。新しいことをやるために過去の手段を変えていこうと冷静になればいいのですがこれまでやってきたことはなかなか簡単に捨てることができないのです。

例えば、健康などもそうですが怪我をしてみて今までできたことができなくなるとそれまでできていたことがなかなか諦めることができません。なんとか元に戻ろうとしますが、元通りにはなりません。リハビリをしながら、新しいやり方を身に着けていく必要があります。ひょっとすると、元にやっていた時よりももっと上手にできるようになるかもしれません。しかし元通りになることに執着すればするほどに過去の習慣が手放せず変わることができなくなるのです。

人生の中で前向きに諦めるときは、目的を達するために他の手段を考えようと諦めないと気です。ある部分は諦め、ある部分は決して諦めない。この諦めると諦めないの間にこそ諦観があります。

この諦観とは、辞書には「 本質を明らかに見て取ること。」「 悟りの境地にあって物事をみること。」と書かれます。

思い通りにいくことが目的を達する道ではなく、どんなに思い通りにいかないことがあったとしても目的を最期まで失わないこと。人生はどんなことが起きるかわかりませんから、その中でも目的を失わなければ色々なやり方があるという中に本当の可能性が隠れているかもしれません。

なんでもできるという可能性と、できなくなって明らかになる可能性。

前向きに諦めることの本質は、流れに逆らわずに我を手放し来たご縁をすべて活かしていこうとすることのように私は思います。

気づく感性を高め、何かを見落としいなかったか、無理をしていなかったかと、内省を深め、さらに一歩一歩前進していきたいと思います。

 

信頼関係

人間にとって何よりも大切なのは信頼関係を築くことです。信頼関係のことをあまり考えない人もいますが、人との関係で何かをするのが人間ですから協力するためにもこの関係づくりへの努力が何よりも優先されています。

信頼関係のことを英語にすると信頼関係を英語にすると「Relationship」といいます。「Trust relationship」を「Build」という言い方をしますが本当の関係性を築き上げていくという意味です。具体的には、お互いに心を通じ合わせて困ったときに頼り合える存在を持つという事です。文字通り、信じて頼る人がいるというのがこの信頼関係です。

よく観察していると、信頼関係を構築していきやすい人とそうではない人の特徴が分かってきます。自分の生き方がはっきりしていて、自分に嘘がない人はこちらが相手のことを見て判断しなくてもその人は勝手に自分に生き方を貫いていきます。自分に正直であり、真心があり周りに対して親切な人はその生き方を優先するため誰が頼っても同様に対応してくれます。

逆に、人をみてコロコロと意見を変えたり自分に嘘をついて誤魔化したり、隠れてこそこそと周りを見ては自分のスタンスを変えたり、本音や本心をさらけ出さない態度をとって不信な行動をとっている人は信頼されにくくなります。

本人は無自覚であったとしても、この「隠れて」や「隠そう」という行為や行動が周りの不信と不安を広げてしまうからです。自意識過剰な人やプライドが高い人、自分中心な人は如何に上手にその場を合わせているように見せてもすぐに本心が周りに露呈します。本人が無自覚なのは、その自我の強さから信頼を失っていることに築かず信頼関係ができないのもわからなくなってしまうからです。

自我が強い人は、自分を守ろうとするあまり頼れる関係ができにくくなります。自分を守るのではなく、全体を守ろうとしたり相手を守ろうとする人は自ずから周りに信頼される人になります。自分よりも大切なものを持つというのは、生き方もそうですが大事なのです。この生き方が優先といいながら自分勝手を優先していることにも気づかないこともありますから注意が必要です。

だからこそ組織は理念が必要であり、みんなが理念を優先することで自分勝手なプライドや自意識過剰、自分中心な自分が抑えられていきます。

どんな時も理念が優先されるか、その辺に信頼関係を築くポイントがあるのかもしれません。引き続き、深めつつ子ども第一義の理念を積み重ねていきたいと思います。

聴福人の実践

私たちは聴く仕事をしています、その聴く仕事の人を私たちは聴福人の実践と定義しています。この聴くという実践は本当に奥深く、聴く境地に達するにはいのちがけの精進が必要になります。すぐに人は聞きましたと返答しますが、その実は聴いているようで聞いていないということが多々あるものです。

「聴く」ということにおいて、高木善之氏の著書 『ありがとう』(地球村出版)に「耳の大きなおじいさん」と題するお話が紹介されています。これは私の思っている聴くということに通じていてとても参考になるのでご紹介します。

『私が子どもの頃、近所に東(あずま)さんというお宅があり、そこにおじいさんがいました。おじいさんはいつも籐椅子で揺られていました。 耳が大きく、いつもニコニコして、いつも半分寝ていました。

もとは父と同じ病院の歯医者さんでしたが、数年前に定年退職しましたので六十五歳くらいです。いまなら六十五歳は高齢ではありませんが、「村の船頭さん」の歌詞にも「ことし六十のおじいさん」とあるくらいですから、当時は六十五といえば、近所でもっとも高齢でした。

この「耳の大きなおじいさん」は、「悩み事、相談事をするととても楽になり、解決が見つかる」 ということで評判で、近所の人はもちろん、遠くからも人がやって来ました。

私は、小さな子どもだったので実際に相談したわけではありませんが、人の話によると、おじいさんは、どんな話も黙って聴くのだそうです。

相手が笑うと、おじいさんも微笑んでくれるのだそうです。 相手が泣くと、おじいさんも涙を流してくれるのだそうです。

相手が黙り込むと、おじいさんはやさしい目で見つめて黙って待ってくれるそうです。

そして、相手が立ち上がると、抱きしめてくれるそうです。そして玄関まで送ってくれて、相手が見えなくなるまで手を振ってくれるそうです。

相談に来た者は、最後にはみんな涙を流して「ありがとう!ありがとう!」 と感謝して帰っていくそうです。

「耳の大きなおじいさん」はどんな悩み事も、受け止めてくれるのだそうです。

あとになって私は、父親にこのことを聞くと、

「あのおじいさんはね、耳が聞こえなかったんだよ」 と衝撃的なことを話してくれました。

「えっ!どうして!どうして耳の聞こえない人が相談を解決できたの?」 と聞くと、父は

「さあ、わからないけれど・・・きっと愛だったんだろうね」 と言いました。

そして父は、 「ボケ(認知症)がかなり進んでいた」と付け加えました。

耳が聞こえないおじいさん、認知症のおじいさん、 相手の話も聞こえない、相手の話も理解できないおじいさんが、 多くの人の相談事や悩み事を解決したということ。

そのおじいさんを思い出すと、いつもニコニコしている笑顔が浮かんできます。

相談者は、

黙って聴いてくれること、

うなずいてくれること、

共に喜んでくれること、

共に悲しんでくれること、

それを一番に求めているのです。』

人間は、自分自身を信じられなくなる時、心情が揺さぶられます。そのとき、「うん、うん」と心を寄り添って、きっと深い意味があると丸ごと信じて聴いている存在に、自分自身が救われ信じる力を取り戻していくものです。

様々な人生の困難があるとき、その困難を解決することが大事なのではなくその困難の意味を学び、その体験を周りの人たちのために活かすことが何よりも大切なのです。

それが人の本質であり、それが人生の意味であり、人間は助け合うことで信じる仕合せと幸福を実感するようになっているのです。

聴くということは、話すことよりも重要です。如何に、相手にとっての善い聴き手になるか、話し上手よりも聴き上手という諺もありますが聴き手の力によって相手はもっと成長し、さらに学びを深めていくだけではなく自信と誇りを持ったり、勇気や元気を出したり、自分のやっていることの背中を押されたり反省したりすることもできるのです。

聴き手の力はどのように磨かれるか、それは「省みること」によって行われ、「信じること」によって高まります。自分の真心はどうだったか、相手のことを丸ごと信じたか、そしてご縁を一期一会にしたか、その場数によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。

現場実践による聴福人の生き方とは、その場数を高めて精進することで本物になります。引き続き、子どもたちのためにも聴くことが徳であり、徳こそが人であるという背中を遺していきたいと思います。

聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

「ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

「うん」

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

(いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

「肥料」

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

めぐり合わせ

人生はいろいろなめぐり合わせによって歩む方向が変わっていきます。これは川に浮かんだ紅葉のように様々なめぐり合わせで留まったり遠くまで流れ着いたりしていくのに似ています。

このめぐり合わせというものは、一つの運ですがそれはずっと以前からつながっているご縁であったり、一つ一つの日々の選択が集積して組み合わさり常に変化を已みません。人間にはそれぞれ宿命というものもあり、避けられない出来事との出会いというものもあります。それは時折、事故であったり災害であったりといろいろとあります。

不運と思えるようなことであっても時間が経てばそれは実は幸福であったり、その逆に幸運だと思っていたことが不幸であったりそれも時間の経過で観えてくるものです。失うものがあれば得るものがあり、得るものがあれば失うものもある、それを差し替えながら歩んでいきます。

どちらにしても私たちはそこから体験し学ぶことで成長していきます。どんなに幸運不運、幸不幸があってもそこに学びまた次のめぐり合わせへと向かいます。どんなめぐり合わせがあったとしてもそれは奇跡的に発生したことであり、そのこと自体が仕合せということになります。

この仕合せというものは、めぐり合わせのことでこの世で出会った一期一会のご縁のことです。

今の自分があるのは、そのめぐり合わせによって存在し、自分を自覚できるのもまたその仕合せによって今があることに気づくからです。

ご縁を大切にという言葉もありますが、なぜご縁を大切にする必要があるのか、それは人生は仕合せによって出来上がっているからに他なりません。二度とない人生、二度とないご縁、二度とない仕合せ、そういうものを大切にしているか、めぐり合わせを思うときそれを省みると有難い気持ちに包まれます。

どんな仕合せがくるのか、ワクワクドキドキしながら悲喜交々と味わいながら丁寧に歩んでいきたいと思います。

理想と調和

人は向上心があるのは理想を持つからでもあります。理想が高くなればなるほどプライドも高くなり、そのことから現実とのギャップに苦しむことがあります。それは目標に向かって努力するモチベーションにもなりますがストイックになりすぎると苦しみが増えて楽しみが減っていきます。そういう時は、理想よりも調和を優先することで楽しみも増えて苦しみが和らぎます。

この場合のストイックな理想は自分の理想のことであり、それを言い換えれば小我がエゴだとも呼びます。理想にはもう一つ、本当の理想があります。それは全体調和や全体最適とも言いますが、自然界のように全体が活かされるものと一体になってお互いに活かし合う存在になっている理想のことです。

人間は、自分を中心に善悪や優劣をつけたがるものです。しかし考えてみればすぐにわかりますが、自分が成功すれば相手は失敗していたり、自分に利益が出れば誰かが損失を被ったりします。そうやって自分だけをみて自分さえよければと、自分のことばかりを理想にすればその陰には全体にとってどうかなどあまり感じなくなっていくものです。

本来、私たちは自然のようにみなそれぞれが懸命に生きて周りと調和して生きていく生き物です。その中で、周りのために自分を盡してまた周りも自分のために盡していきます。恩恵をいただき、恩返しをする関係が私たちです。恩恵を忘れてしまえば恩返しもなくなるように、まずは全体からいただいていることを忘れないようにして如何に自分を全体のために活かしていくかに取り組むことが理想の実現になります。

自分の小我の理想のためならすべてを犠牲にしてもいいという考え方の中にある理想では、周りは仕合せになりません。みんなの仕合せのために自分の理想を実現するのなら、全体最適や全体調和を優先しながら自分も懸命に精進していこうと思うものです。

肉体でも調和が乱れると病気になったり怪我をしたりするものです。病気は文字通り「気」が「病む」となり気の循環が乱れてしまうこと、怪我は「我」を「怪しむ」、これを中国語の意味では良心の苛責、自分を責めることだといいます。

自我が前に出すぎないように理想を持つために理念があり、常に理念を優先して取り組んでいけば全体調和や全体最適こそが本当の理想の実現に向かうことを自覚するのです。自分のことばかりを思い悩み、理念を忘れて理想ばかりを追いかければ病気や怪我が付きまとうのかもしれません。

自然治癒とは、調和に向かう作用のことです。

どんなことがあったとしても人間をはじめすべてのいのちは調和に向かいます。何が不自然であったか、何が自然かを私たちは本能で自覚していますからやり過ぎたらまた反省し見直し再び挑戦していけばそのうち中心を掴んでいけるのかもしれません。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方と働き方を見つめて楽しんでいきたいと思います。

急がず味わう

先日、離れのお風呂の流し台を古い手桶や箪笥などを組み合わせて改造してつくりました。最後の仕上げには柿渋を塗って復古創新された美しい流し台になりました。

現代は、なんでも物は大量に安くつくられますから修理ということがほとんどなくなっています。少し壊れればすぐに買い替えられ、壊れていないのに古くなったからと捨てられます。

少し昔に遡れば、古民具や骨董の道具などは何十年も何百年も長く何代も使われたものでした。それも今の時代は、古いからと捨てられどんどん新しいものに変わってきています。

昔の素材は長く持つように時間をかけてつくり、素材も長く生きるものを用いました。現代は化学が進歩し、プラスチックをはじめ様々な化学素材ができ長持ちはしなくても便利にすぐに使えるものを生み出しました。

そのことから古いものを時間を待って修理するよりも、新しいものをさっさと買って来た方がいいという価値観になっています。このどれもが「時間を急ぐ」ことによって行われます。

スピードが上がっていけば上がっていくほど私たちは時間を無駄にしているという感覚になっていきます。一分一秒を惜しんでというのは、目標に早く達するためにということがあります。しかし一見、急ぐことは時間を無駄にしていないように観えますがその実はとても時間を無駄にしているとも言えます。

かけがえのない時間、少しでも寿命を伸ばしていこうとする価値観は急ぐのではなく味わうのです。例えば、早く急いで食べて次のものを食べようとしていたら食べているものの味などよくわかりません。大量に食材があってそれをすべて平らげようとしたらそうなりますが、それが果たしてもったいないことなのかと思います。

ひとつのものでも丁寧にじっくりと関わり、ゆっくりと食べていたら味わい深い時間を過ごせます。そこまで手にかけてきたすべて、周囲の御蔭様の感謝、心が満たされながら体も満たされます。

同様にものづくりも、時間をかけて材料を集めて構想をしっかりと練って、丁寧に手作業でつくっていくこと。この時間をかけたことが仕合せであり、そうやってできたものは魂を分け与えた気持ちになります。

古い道具たちはみんな、そういう時間を主人たちと共に過ごしてきた大切なパートナーたちです。新たなパートナーとのかかわりもまた、急ぐのではなくじっくりと味わい創り上げていきたいものです。

引き続き古民家甦生を通して生き方を改善していきたいと思います。

生き方の改善~健康とは~

何が自然で何が不自然かと比べながら病気を深めていると色々と体への常識が歪んでいることに気づきます

人間は誰にしろ生きていれば死ぬまでに必ず何かの健康問題に遭遇します。元気な時には気づきにくいですが、それは病気になったときにはたと気づくものです。そもそもこの健康というものは、健康になったから終わりではなく如何に日々に健康を維持し続けるかということを指す言葉でまさに健康は中庸と同義であることに気づきます。

一生涯、自分の健康を維持するには食生活に睡眠生活、運動生活、精神生活、心の生活、その他にも生活環境など日々の生活習慣を改善し続けることではじめて維持していくことができます。不慮の事故や、先天性のものを含めれば当たり前になっている健康の維持ということは如何に大変なことであるかに気づきます。これは守られていなければ実現しないほど偉大な恩恵をいただいて私たちは生きているということです。

以前、ある方に一汁一菜の話をお聴きしたときに今の時代は都会に住めば食にあふれなんでも世界中の食べたいものが食べれる時代ですからこれを実践するのは本当に難しいことだと感じたことがあります。そう考えてみると先ほどの生活の種類でも、都会に住めば食も睡眠も運動も心もする機会がほとんどなく、生活環境は排ガスや密閉建築の便利な生活の中でほとんど健康を維持することができません。

そして心身に支障をきたし病院にいき高価な治療費を払い、薬漬けになって健康を取り戻したと思っているのが如何に不自然なことかと思うのです。お金を払って健康を買うというのは、現代社会のもっとも大きな問題だと思います。まさに医療費も増えてさらに経済を追い続けて破たんがくるとわかっていても自転車操業のようにやめられない、この社会システムの悪循環によって貴重な国家の未来の人財や人口が減っていくのは悲しいことです。

時代が変わり続け終わることがないようにそもそも病気は死ぬまで完治などないのだから、私たちは如何に一生の病と付き合いながら生活を改善し継続していくかを考える必要があります。そうなってくると、次第に訪れる様々な出来事に耐えれるだけの力を身に着けていく必要があります。

この世で耐えられる力は何でつくか、乗り越えるための強さは何でつくか、それは「生活習慣」によって実につくものです。それを実践とも言います。何の実践を継続していくか、それは生き甲斐や遣り甲斐のある一生を送るためにの生き方の改善です。

ですから生活習慣の改善を通して行っているのは実際は生き方の改善をしているということです。

生き方を見直し、何を改善するか、それは病気がすべて教えてくれています。病気は私たちを強く活かし耐える力を育むために、そののちにやってくるであろう困難に立ち向かうための活力と恩恵を同時に与えます。

だからこそ痛くても前に進むことや、つらくても歩くことは治癒をいただくことですから希望が出てきます。希望さえ持てば誰にせよ自然の治癒力が働いていることに気づきはじめます。その希望に向かって如何に自助努力を続けるかが、人間健康の本質ということでしょう。

引き続き、できることをやりながら時が経つのをじっくりと生活習慣を改善しながら待ちたいと思います。

 

 

自然治癒の根源

坐骨神経痛になった御蔭で、自然治癒のことを学び直す機会が増えています。医と農は私の生涯の学習テーマであり、自然に照らして自己を内観することでさらに道が深まり楽しみも増していきます。

昨日は、「自助」ということについて考える機会がありました。本来、人間をはじめいのちのあるすべての生き物は偉大な恩恵を宇宙や地球からいただいて生活を営んでいくことができます。

当たり前のことですが、自然の中に空気も水も光もあり、さらに地球には重力というものがあり私たちはその存在によって活かされています。この活かされているもの、それが自然治癒の根源とも言えます。この自然治癒の根源の力が常日頃から発揮されて私たちは生きています。

その活かされている力は、例えば重力であればそのことによって筋力も骨力も高まっていきます。他にも空気や水であれば、美しい森の森林浴のように私たちは心身を癒され安らいでいきます。

当たり前すぎて忘れてしまうものですが、私たちの体は自然の一部です。自然の一部だからこそ自然治癒をする。その自然治癒を邪魔するものが何か、それが人間の意識であろうとも思うのです。

自然治癒を邪魔するものは、不自然なもののことです。例えば、昔の人たちはよく自然の中で歩き、歩くことで心身を循環し鍛錬し健康を維持していました。今では車社会になり、ほとんど歩くことも亡くなってきています。道路は舗装され、かつてのような弾力のある土や砂利、草の上を歩くこともありません。

不自然な生活を積み重ねることで生活習慣病になり、様々な問題が発生してきます。それを一時的な対処療法で治してしまうと自然治癒がより働かなくなることにもなります。

自然治癒の特徴は、じっくりとゆっくりと治していくというものです。即席栽培のようにいきなり育たせるのではなく、自然栽培のようにじっくりと周りの環境に適応しながら治していきます。

私たちが生活習慣病になるもの時間をかけて行われるように、同時に生活習慣病が治癒して本来の自然な姿に原点回帰していくのもまた時間がかかります。その際に、何が不自然なのかを見極め、その不自然な暮らしを少しずつ改善していくことで自然治癒に向かっていきます。

自然をよく観察していけば、何が不自然で何が自然であったかを学び直すものです。もっとも危険なことは、不自然なことが常識になってしまうことと、不自然であることに気づくことがなくなってしまうことかもしれません。

自分の不自然に気づくために病気もあり、活かされていることを忘れていることで不安も葛藤も起きてきます。これは実は自然なことかもしれません。人間が自然の一部であることを忘れることから問題が生まれ、その問題に気づくために病気がある。病気とは天の声であり、その病気はすべて治癒のはじまりなのです。

自然治癒の根源に気づくことこそが、自然治癒の極意なのかもしれません。

見守られていると感じながら病を得ることは、病があることに感謝する生き方です。この病が自然から離れないように心が自分自身を助けてくださっているのかもしれません。自然に見守られる中で如何に自立するか、これはすべての生き物のいのちの命題です。

子どもたちに不自然な道を残していかないように、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。

 

運を拓く

先日、郷里のある方から古民家甦生の取り組みで嬉しいお知らせをいただきました。地道な取り組みが一部の方々に知らず知らずに認められて応援してくださっていますよという内容でした。私たちは地道に自分たちの信じたことを継続するだけですが、まわりまわって地域の方々に伝わり応援していただけるのは本当に嬉しいものです。

先日からやなせたかしさんの言葉を紹介していますが、「運」と「継続する」ということについて語られていたものがあります。

『運をつかむには、自分のやりたいことをずっと継続して、やめないことだ。「継続は力なり」という。同時に「継続は運」なのだ。』

この運とは何か、それは道のことだと私は思います。道をやめないからこそ運がある、そう考えるともっとも大切なことは「道の実践を継続する」ということであろうと私は思います。やなせさんは、継続の人でした。どんな状況になっても、周りからどんな批判や批評、諦めそうな出来事があるときでさえ、継続をした方でした。

『「運がよけりゃ」と、棚の下でぼた餅が落ちてくるのを待っていても、そんな好都合なことは起こらない。自分でぼた餅をつくってこそ、類は友を呼ぶではないが、いろんな餅が寄ってくるのだと思う。自分自身も、世に出なくとも、代表作がなかなか描けなくても、黙々と漫画を描き続けてきた。アンパンマンはそうした長い歳月から生まれた「運」だったのだ。』

アンパンマンがヒットしたのは70歳を過ぎてから、それまでの継続が実を結んだといいます。

代表作をつくりたい。漫画家としてのアイデンティティを持ちたい。そんな長い間の願いがかない、アンパンマンの人気が高くなったのは、なんと七十代に入る直前、六十九歳のときだった。遅咲きも遅咲き。よく「大器晩成」とおだてられるが、いやいや、「小器晩成」の典型だ。でも、大器でも小器でも、いいじゃないか。せっかく生まれてきたのだ。絶望するなんてもったいない。なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。

『「継続は力なり」というが、あきらめないでひとつのことを思いを込めてやり続けていると、ちゃんと席が空いて、出番がやってくるものなのだ。』

だからこそこう言います。

『運は自分で拓くもの 運は自分が呼び込むものつまり、運は天が定めたものではなく、自力で動かすものなのです。』

運は継続によってはじめて拓かれる、そう考えれば継続とは運を自分で動かす大切な実践ということです。誰がどういおうと、どんなことになろうと、自分が信じた初心を貫くことで運ははじめて拓けるものです。

引き続き、子ども第一義の理念と一緒に歩んでいきたいと思います。