先人の初心

人は何かを行動するとき、その目的や初心があります。ただユニークだからやっているのではなく、その理由の原因と結果がそこに存在するということです。初心を大切に磨いている人は、プロセスの中に常に実践があるものです。

規模が大きいとか小さいとかはあるかもしれませんが、本来は規模は関係がなく大切なのは意識の純度ではないかと私は思います。

純度の高い人は、丁寧に経過に初心を籠めます。何のためにこれをやるのかという理由がちゃんとあるのです。忙しかろうが、大変であろうが、やるべきことは欠かしません。諦めずにコツコツと丹誠を籠めて取り組みます。その判断力は揺らぎません。

私はここ数年、老舗というものを深めてきました。

老舗の意味は「代々続く古いお店」「先祖から続く家業を継ぐこと」です。この代々や先祖から続くというのは、一体何が続いているのかということです。

それは先人の初心が続いているということです。

そして先人の初心とは何か。

これは今もその先人が生きていたとしたら今はどうするかという試行錯誤、挑戦を已まないで実践しているということでしょう。

私がとても尊敬する老舗はどこにも先人への畏敬の念と謙虚さを持っています。時代の変化の中でも初心に照らして温故知新を続けています。そこに老舗の風格のようなものを纏います。

現在、私は老舗の古民家甦生に取り組んでいますが何よりも大切にしているのが先人の初心を最も大切にすることです。もしもご先祖様が今、生きて老舗をするなら何を大切にしただろうか。

一つは、お水を守る事、一つはお米を守る事、一つは田んぼを守る事、一つは素材を守る事、一つは美味しいものを守る事、一つは人の喜びを守る事、一つは誇りを守る事、一つは人を守る事。等々、大切なことが湧いてきます。

ご先祖様に恥ずかしくないように、今の代が心を籠めて生き方を磨いていくのです。

今日も老舗を学び直すために、滋賀まで向かいます。

先人の初心を忘れずに、最期まで丁寧に取り組んでいきたいと思います。

自然に通じる

昨日は、筑豊在来種の日子鷹菜の種を自然農の畑に蒔いてきました。近年は、イノシシもよく入ってきて対策に苦労しています。普通の柵くらいではほとんど効果がなく、イノシシが本気を出せばあっという間に破壊してきます。

近くに柿園もあり、音で撃退しようとしていますが雨の日に入ってきてはあっという間に荒していきます。彼らも生きることに必死ですから、食料が山に減ってくればすぐに畑に降りてきます。

現在、高菜を育てている畑の下は空き地にしていてそこにイノシシがたくさん来るようにしています。敢えて、隙間や自由、自分たちのスペースを用意することで高菜の畑に来ないように場を分けています。

自然が多いところというのは、それだけ自然の縄張りのようなものがあります。現在、英彦山で薬草園もつくっていますが野草の力が大きく、なかなか一般的なものはそのままだと育ちません。人工的なものが調和するには、かなりの時間がかかり自然に認められるまではコツコツと手入れをしていくしかありません。

この時季は、葛なども旺盛でほとんど畑の周囲を取り囲むように旺盛に育っています。もう少し先になれば、乾燥して枯れますが柵などはあっというまに倒していきますし、近隣の木々などはほとんど葛の木のようになっています。葛は梅雨時期などは一日に80センチほど伸び、節でクローンのように繁茂していきます。蔓植物というのは、なかなか厄介なものです。根こそぎしか対策はなく、私は農薬は一切つかいませんから手作業で取り除くしかありません。

現在は、なるべく共生できるようにここまでという範囲と、ここからは自由という範囲を分けています。ここまでと間を定めてコツコツ手入れすると、植物にも伝わるのかそこからは入ってこないようになります。

先ほどのイノシシも、ここまでと決めて全部を荒していなければおおらかな気持ちになっておけばそこまでは荒しません。むしろ英彦山の鹿の方が、宿坊の庭の中にまで入ってきて何でも噛んで食べていきます。しかしよく観察すると、植物が枯れるほどは食べません。上の方だけ食べては、また伸びたら食べにくる程度です。

昨年は、土が激しい暑さで乾燥してしまい発酵が間に合いませんでした。今年は、発酵するように草刈りを早めにして草を敷き、発酵を促しました。日子鷹菜スパイスや高菜漬が大変好評で今年はちゃんと収穫する責任があります。

しかしこの日子鷹菜は、職業として仕事でやっているのではなく供養からはじめたものです。今も初心は供養の気持ちで関わっています。何のためにという心は、不思議ですが自然の動植物にも波動として伝わっていくように思います。

お金のためとなると、容赦なく自然はその動機を試してきます。供養や真心であれば、自然の心の通じていきます。私たちは自然と繋がって生きています。自然もみんな生きることに必死です。お互いに尊重しあいながら、時には奪われ、時には与えますが、お互いに助け合う心あってこそ自然の生産性に任せていくことができます。

引き続き、今年の高菜を見守りながら後半の季節を味わっていきたいと思います。

 

慚愧懺悔六根清浄

英彦山の遊行を毎月行っていますが、その際にお山を歩きながら「慚愧懺悔六根清浄」(さんぎさんげろっこんしょうじょう)と唱えながら仲間とお山を歩きます。

この懺(さん)は、心の咎を天に恥じること、そして愧(ぎ)とは自分の犯した罪を地に恥じることをいいます。

涅槃経に「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」とあります。

つまりこの慚愧懺悔とは、深く内省をして天地の間で自分をよくよく見つめ反省していきますという意味です。内省しながらお山に入り、反省をすればそのあとに六根が清浄になるという意味です。その六根清浄の「六根」とは私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官のことをいいます。そして「清浄」とはその煩悩や私欲から遠ざかり、清らかで穢れのない境地に入ったことをいいます。

シンプルに言えば、「お山の清浄な場を歩かせていただきながら、日頃の自己をよくよく振り返り素直に反省して心を澄ましていこう」という掛け声です。

これをみんなで唱えながら遊行します。

私たちは生きていれば、氣が付かないうちに環境の影響を受けては喧騒と煩雑な日々を過ごしていきます。いくら氣をつけて注意していても、知らず知らずに心が穢れます。穢れは、氣枯れともいいますが元氣が消耗していくのです。

毎日、私たちの細胞が生まれ代わるように日々もまた生まれ変わります。その中で、穢れが増えていくと甦生が澱んでいくものです。水が下流に流れていくときに次第に混濁していくようにいろいろなものが混ざってきます。本来の透明な魂や玉のような状態が隠れていくのです。

その隠れたものを綺麗に洗い流し、注ぎ、浄化して元の状態に帰っていく。それがこのお山で歩く理由であり、古い信仰の原型ともいえるものです。

古い信仰はすべてこの「穢れを祓う」ことからはじまります。いつも澄ませていこうとする生き方の中に、人間性を常に保とうとする自然と一体になった神人合一の精神があります。

時代が変わっても、人間の本質は変わりません。世界は自然破壊を続けて目先の経済を膨張させることに人々は躍起になっています。ありあまる富は一部の人たちの権力を守るために集中し、奴隷のように洗脳される教育や環境によって目覚めることもありません。

法螺貝を吹いて、錫杖をつき、お山を歩けば道に覚醒するものです。英彦山の守静坊の場から目覚めた法螺吹きを甦生させ真に心を澄ます道を照らしていきたいと思います。

真価 

真価というものがあります。これは本当の値打ちという意味です。真価が問われるという言葉もあります。本当の値打ちや価値が証明される時が来るという意味でしょう。

私は歴史の中でも、特に純度の高い生き方をしてきた先人たちを心から尊敬しています。その方々は、世間や時代の評価ではあまりよい評価を得ていません。ある時は、異端者や変人、あるいは犬死や無駄死などとも言われたりもします。獄死する人もいれば、暗殺される人もいます。世間でいう、一般的な成功者や名声を得たような人物ではないのです。また或いは、陰ながら徳を積み驚くほどの世界を変革するような実践者がいたりします。聖人や聖者など、あるいは菩薩のような人たちです。その人たちも隠者のように世間には出てきませんが、見事な生き方で一生を送ります。

この世の中、特に現代は情報化社会で我先にと評価を求める時代です。現代の社会が求めていることを発信してはその評価を自分に投影させます。

しかし実際の真価というのは、どのようなものか。それは値打ちが分かる人が決めるものだと私は感じます。例えば、純度の高い実践をして目立たずに真摯に生き方を磨いている人は有名人でなくても偉人と呼ばれなくても、私にとっては偉大な人物です。

志高く、どう生きるかと自己を研鑽し見返りを求めずに徳に報いるように生きる人たちは市井にはたくさん存在するものです。それが長い歳月を経て、同じく値打ちが分かる人たちに発見されます。あるいは伝承され、その値打ちがさらに光り輝くのです。

真価というのは、値打ちが決まるまでに時間差がある、あるいは時間をかけてのみ醸成されていくものということかもしれません。

焦らないこと、急がないこと、それは真価とは関係がないことだからです。どのような結果になったとしても、どう生きたかは必ず時が証明するということかもしれません。

丁寧に実践し、生き方と働き方を磨いていきたいと思います。

法螺貝の甦生

現在、英彦山で法螺貝を甦生していますがせっかくなので甦生の特徴というものを整理してみたいと思います。

まずはじめに、法螺貝を持つためには法螺貝とのご縁が必要です。基本的には、法螺貝の甦生はすでに法螺貝をお持ちのご紹介者を通してか直接、英彦山に来てお話をさせていただく方しか受け付けていません。その理由も、顔や波動を観てご縁を確認してから理想の法螺貝を探していくからです。またすでに何らかの理由で法螺貝とのご縁がありお持ち込みの方も受け付けています。ただし、他の方が手掛けたものは甦生できないものもありお断りすることもあります。

流れは下記のようになります。

① 霊峰英彦山の守静坊にて吉日を選び法螺貝を安置し地下から湧くお水で清め光を当てて龍音によりご祈祷をする。

② 丁寧に洗い法螺貝の先端を切断し削りその貝の個性を見定めて螺旋の息が通るように調整する。

③ 手作りの唄口を天然の地下水と麻炭を使い石膏でつくりこむ。

④ 唄口を法螺貝に取り付け調律をし、その法螺貝の唯一無二の音を確認したらそれを立てて天地に調和する。

⑤ 完成のご祈祷をし、木の中に安置する。サイズや重さ、証明書と手引書を用意する。

⑥ 英彦山の守静坊にて法螺貝を磨きお手入れをし息を吹き入れ音と和す儀式をする。

⑦ 希望者には法螺貝の網袋の講習を実施し、英彦山遊行や法螺貝講習、仙螺講への登録をご案内する。

⑧ 定期的にメンテナンスをして、法螺貝の成熟を見守る。

ここまでで法螺貝を甦生したことになります。

この法螺貝の甦生とは単に音がなる楽器をつくったのではなく法螺貝が新たないのちを得て独立自尊し、一期一会の主人と調和し結ばれ、日々の暮らしを通して寿命をのばし幸運をもたらす存在になることを言います。ただのモノではなく、新たないのちの法具として人の一生を円満に見守る存在になります。

また時には修繕や供養も行います。修繕は、お手入れをして法螺貝の成熟に合わせて調えていくこと。供養は長く大切にしてきた存在の魂を慰め労い癒すこと。法螺貝の甦生とは別に、手掛けた法螺貝のお手入れや追善をします。

講習会では、お手入れの仕方をはじめ法螺貝の吹き方、法螺道の実践事例などもご案内します。時にはお山に一緒に入り、三省をし六根清浄をしながら法螺貝を立てます。また時には、法螺貝の網袋づくりを通して瞑想や見守り、寄り添いなどの心の在り方を学び合います。宇佐の大仙龍(大先達)の立螺師にも定期的に来ていただき、法螺貝の具体的な指導や講習会もあります。

お支払いは、法螺貝の仕入れ原価、唄口と石膏、加工の原価をいただきます。それ以外は、徳積循環のご喜捨とお布施を「徳積帳」というブロックチェーンを使って開発したシステムにて奉納いただきます。

納期は約1か月ほどいただいていますが、吉日次第では納期がかなり延びる可能性もあります。大量生産はできませんので、丁寧に一つひとつ甦生していきます。

現在も、制作中ですが一生の御守りや魔除けになり音がその人の波動を磨き、唯一無二の光の存在になっていくように手掛けていきます。

最後に最も大きな特徴は「調和」を何よりも優先して法螺貝を甦生しているということです。私が手掛けるものは調和の法螺貝です。それをご理解いただく方のみ、ご連絡をいただきたいと思います。

法螺の道

昨日は、英彦山守静坊にて法螺道仙人の仙人苦楽部を開催しました。30名以上の法螺貝仲間が参加して、みんなで法螺道を学び合いました。法螺の道の面白さや楽しさは言葉では説明できず、生き方や実践から氣づくものです。私もまだまだその入り口のほんの少し先にいるくらいですが、法螺貝のお導きや奥深さに感動と感謝、そして感銘を受けることばかりの発見の日々です。

法螺貝の魅力は、とても語りつくすことができません。そして法螺貝を通して出てくる音の世界、そして波動の場は神秘な領域です。いのちが調うだけでなく、場が調い、宇宙を感じます。

目に見える世界と目に観えない世界、耳に聞こえる世界と耳に聴こえない世界があり、その境界をも取り払うことできるのが法螺貝の道の一つです。別の言い方では常識を超越するのです。

私が尊敬している大仙龍(大先達)と一緒に法螺の道を語っている最中も法螺貝の楽しさと喜びと豊かさで早く法螺貝を吹きたくてうずうずしワクワクします。人生の中で自分の唯一無二の音や一期一会の法螺貝に出会えた奇蹟を仲間たちと一緒に味わいたい、その純粋な思いや、平和への願いが法螺道を弘めていく理由です。

法螺貝と関係が深い仏教では聖者のことをかつて羅漢と呼びました。聖者とは高い精神性を持ち、実践を通して人々を導いていく存在です。日本でも五百羅漢というものが有名ですが、これは仏陀に最初に付き従った五百人の聖者のことです。今年の初めに、スリランカで最初の仏典結集の場所を見てきましたが、その場所こそ五百羅漢がはじめて集まった場所でした。

時代が変わっても、高い精神性を持ち実践をし、宇宙の真理に覚醒して本来の人間性とは何かということに目覚め伝道する人たちは常に出てくるものです。それが調和の本質であり自然なことです。

英彦山から法螺道を歩む羅漢たちが五百人集まれば、九州から日本、そして世界を変えていけるようにも感じます。私も法螺貝の鳴動が、真の人間性を回復させあらゆるものと調和する存在になっていけるように引き続きお山で徳を磨き精進していきます。

私たちが目指す温故知新する新たに甦生する講の姿は、徳積循環です。それぞれがあるがままの自分らしい唯一無二の音で透明な波動を輝かせます。自らの喜びがみんなの喜びになる徳積がめぐる世界。

これから徳を積む法螺吹き羅漢が五百人、真心を解き放ち愉快痛快に新たな夢に向かって挑戦していきたいと思います。

編み方は生き方

現代は、編みものをする機会がなくなってきましたがむかしはどの家でも竹かごや藁細工、着物など暮らしの中で誰もが編みものをする文化が根付いていました。法螺貝の網袋を通して、編むことの価値やその意味なども学び直しています。

そもそもこの法螺貝の網袋などは、冬の間のお山の内職のようにそれぞれでつくるものだったように思います。これは草鞋づくりなども同様に、冬は家に引きこもり囲炉裏端などでそれぞれに一年間に必要になるような道具や材料をつくりこんでいました。

今では、暖房の中や大雪でもガソリンや電気をフル稼働して動き回りますがむかしは無駄なエネルギーを消費せず、家に籠っては冬を乗り越えていました。冬は食料も少なくなり、資源もなくなります。冬にできる仕事は少なく、収入を得る機会が減るからこそ生活必需品を揃える機会になったのです。明治以前までは、ほとんど靴などもなく草鞋が中心でした。草鞋はすり減りますから、たくさんつくっていたのでしょう。

どの家でも編みものができる技術は、この暮らしの中で培われていたのです。

静かに、編みものをする時間は瞑想にも似ています。一つ一つ、同じ作業を指先を通して丁寧に行います。結んでは解き、繋いでは止める、これらのことは人生の歩み方を指導してくれるかのようです。

また編み物は一緒に編むことで心を癒します。編み物の伝承は、祖母や母などを連想します。一緒に編み物をした記憶は心をあたたくし、編み物を通して人生の編み方を学びます。編み方は生き方そのものです。

法螺貝の網袋を通して、一緒に生き方をこの時代でも学び合えることは仕合せなことです。

引き続き、暮らしフルネスの実践を調えていきたいと思います。

立志の人

昨日、来客がありその方は吉田松陰先生を尊敬しておられ萩に古民家を借りて勉強会などを開催しているとのことでした。久しぶりに吉田松陰先生繋がりのご縁があり、懐かしい不思議な感覚になりました。

14年前に、似たような出会いがありその方と意気投合して私のメンターになりそれから一緒に会社の運営をお手伝いいただきました。気が付けば、もう私もそろそろ50歳を迎えます。人間は年齢ではありませんが、役割交代といって若い人たちに色々な経験の智慧を伝承したり、見守ったりする季節に入ってきたのかもしれません。

以前、私は吉田松陰先生に憧れ先生が29歳で亡くなる歳まで同じように生きようと、毎年先生のその歳で書いた書物や文章から学び精進していました。卓越した情熱と成熟した精神と人間性に強く惹かれ、一つの目標にして同じように自分に挑戦していました。しかし、自分が29歳を迎えたときの留魂録を最期にその書物も終わってしまい、この後何を参考にしたらいいかと真剣に悩みました。

その時から吉田松陰先生を見ることはなくなり、吉田松陰先生が観ていた方を観るようになりました。そこできっぱりと先生は外側に存在する憧れの人ではなくなり、共に目指す理想や志を分かち合い共に歩む同志になったのです。

私は他にも様々なメンターがいます。今では亡くなった人もいて、困難な時、問題意識をもって深めるとき、その人がもし生きていたらと思う時もあります。きっとこういっただろうなという具合で空想で対話をします。例えば自分がその人だったらどうするかとその人の理想や志から考えます。そのうち一体になって自分そのものがその人になります。同志は私の志の一部になり今も生きているのです。直接話すことはできなくても、一緒に歩んでいるのです。

昨日の方は、吉田松陰先生の大河ドラマを見てあるシーンに感銘を受けて傾倒していったそうです。どこですかと尋ねると、「あなたの志はなんですか、君はどうしますか?」という問いのシーンだったそうです。まさにこれが自分の人生で志と正対するということだったのでしょう。自分はどうしたいのかと自分と向き合う。「覚悟を決める」ことの真価を直観したのでしょう。

私は思えば、今、この瞬間も、自分の初心は何か、そして自分はどうするかと自問自答を続けています。これを会社の理念経営にも活かし、日々の暮らしフルネスにも活かしています。

畢竟、人は覚悟があるのみです。覚悟さえあれば理想は失われません。常に自分に志を問うことが理想を生きることです。

でも人間はそんなにも強くありません。覚悟が揺らぎそうになることもあります。そんな時、前を歩んでくれた理想の聖賢や偉人、あるいは尊敬する先達がもしも自分ならどうするかと生き方を問うのです。そして生き方を磨くのです。そして志からブレなくなり志が堅固になり自立する。それが志を立てるということだと私は思います。それによって唯一無二の自分の人生の道が拓き、その人の一生がその人にしかない一期一会の光になって輝くのです。それがきっと松下村塾の教育方針だったのではないかと私は直観します。

だからこそ吉田松陰先生は、すべては志を立てることこそが万物の根源であると断言します。

つまりあなたは道を歩んでいますか、道を実践していますか、ちゃんと道を内省していますか、と途中を自分に問うのです。まさに仏陀の自燈明法燈明の境地と同じです。

純粋な心、素直な心、精錬な心、誠の心でもしも自己を省みるなら自分はどう行動するのかと、そしてそれこそが真の學問であるとしたのではないでしょうか。學とは、問うことだとしたのです。

私が吉田松陰先生を好きな理由は、この自分の志を立てようと純粋無垢に精進し続ける學問の姿勢。そして至誠を盡し、神人合一に今を生き切りいのちを完全燃焼させた生き方に憧れたのです。

もう先生が亡くなってから20年以上私は長く生きています。もしも先生が今も生きて今の歳になっていたら、どうなっているでしょうか。時代も環境も、そして周囲の仲間も国の状況も異なりますがきっと変わらない覚悟で理想を追いかける青年のように「立志」を生きているのでしょう。その安心感こそが後人を見守ってくださっているのでしょう。師友たちはみんなそれぞれの場所で育っています。

これからも一緒に道中を味わい、初心や目的を忘れずに覚悟を内省し、一期一会の今の季節を過ごしていきたいと思います。

ご縁に感謝しています。

成熟の喜び

一期一会の生き方を実践していると、すべてはタイミングであることがわかります。このタイミングは別の言い方では成熟ともいいます。つまりタイミングを待つというのは、成熟するのを待つということです。その時々の今、その今に最善を盡すと言ってもいいかもしれません。

これは生命やいのちだけではありません、事物を含めすべてにタイミングや成熟があります。例えば、植物などであれば花が咲くのも種になるのもそして枯れるのも成熟です。同様に人間もまた、成熟していくものです。

私は吉田松陰先生の生き方が好きですが、遺言の留魂録の第八節に四時ノ循環があります。これは「今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ」と綴られます。

つまりはその死には成熟があると、これは自然のことだとするのです。死刑で処刑されることになっても、自分は成熟これで成熟したのだと。つまりこの境地は一期一会に今を生き切る人はその死もまた成熟であるということかもしれません。なぜそう思うのか。

それは私も同じ生き方を実践しているからです。

今を盡していくと必ず成熟する時が来る。その時々を今が最善と信じて歩んでいれば、どのような結果になってもそれで徳が循環しているということ。私は徳積循環という経世済民を実現しようと仕組みの改善に取り組んでいますが、結局は人間性を磨き、社會の循環をより善い本来の徳が充ち溢れるようにしようと志ているものです。

だからこそ成熟するということが大事で、現代の成長至上主義のような社会にはどうしても馴染むことができません。歳月もまた、成長が止まることが問題ではなく成熟していかないことの方が循環という観点では大変な歪です。

循環していく生き方は、成熟していく喜びを生きる生き方です。

人生修行もまた、成熟の喜びです。

一期一会の今を丹誠を籠めて一つずつ歩み、変化していきたいと思います。

 

手の扱い方

国家を観察するとき、その国家が人の扱い方がどうなっているのかというのを客観視するとき国家の方針を確認できるものです。例えば、大量生産し大量消費するモノのように人が扱われているのならその状況はモノを観察すればよくわかります。

利用価値があるものは大量に生産され、価値がなくなれば廃棄します。ゴミをよく観察すると、どのようにゴミが増えていくか、そして捨てられるのか、そのプロセスに扱い方というものが現れているからです。

この扱い方というのは、モノへの接し方です。

人は少ないと、希少だとして大切に扱いますが大量になると扱い方が雑になります。少ししかないと貴重だとして少しも捨てませんが多すぎると捨てるのです。

世の中にお金がありあまるほどあれば、同じように扱い方が雑になります。その逆に少ないと扱い方が丁寧です。

私はよく古民家甦生で「お手入れ」の話をします。これはどのように丁寧に接し手を入れ甦生させ続けるかというお話です。同時に、この「扱」の漢字の語源は、五本指と手でどのように引き込むかという意味です。

自分の手がどのようにモノやコトなどすべてを扱っているか、もっと言えば、自分の手でどのように今に接するかでその人の人生の方針がわかるのです。便利な道具としてか、それとも信仰の対象としてか、あるいはいのちを感じるためかはその人の手の扱い方に出てきます。

手は、何でも産み出します。私たちの心は手に顕れます。手は幸福を世界に産み出すこともあれば、残虐な不幸を産み出すこともあります。ある手は、人を救い、ある手は戦争によって人を殺します。この手は、心そのものでその手の扱い方をどうするかで生き方までも変わっていくのです。

取り扱うことが難しい案件というものはこの世にはたくさんあります。核や遺伝子組み換え、人工知能などもまさに手におえない難しいものです。これは頭でなんとかなる問題ではなくまさに日頃の手の扱い方、手の使い方にこそ気を付けなければなりません。

毎日、手を使って私たちは色々なことを創造します。

この手をまず善くすることから人は生き方を磨いていくことです。日々の手の扱い方、そこに自分の意識が投入されます。手を大切にしていくことから、人は心を大切にしていくことができます。

手の中にある意識をさらに高めて、世の中の平和を創造していきたいと思います。