信頼と覚醒

私が運営するBAというのは、ブロックチェーンアウェイグの略です、これは訳すと「ブロックチェーンの目覚め」という意味です。

そもそもこのブロックチェーンとは何か。

これは一般的には、取引や記録のデータを「ブロック」という単位でまとめ、それを時系列に鎖(チェーン)のようにつなげて管理する分散型のデータ管理技術だといわれます。しかし、この技術は何を中心に使うものなのか、それは人と人の信頼の絆を結ぶことであることは間違いありません。畢竟、事業も人、すべては人が創るものです。人が創るからこそ技術も産まれ新たに活かされます。何のためにこの技術を使うのかもまた人なのです。技術だけを見るのではなく、人を観ることがすべてのはじまりです。

そしてアウェイクニングとは何か。

これは「本質に氣づく」ことや「目が醒める」ことをいいます。人は覚醒し意識が目覚めると世界がとても透明に観えます。それは本質や真実に氣づくとそれまでの視野がまったく変わるということです。人間は真の自我に目覚めると、今まで何をやっていたのかというくらい環境に流されていたことに氣づきます。本当の自分を生きることに目覚めた人は自分だけの物語を生き切っていきます。それは宇宙や自然の循環のなかで使命を生きるという喜びです。

つまり「ブロックチェーンアウェイクニング」のBAは、この「信頼と覚醒」を実現する場ということになります。

では何が信頼なのか。

例えば、昨日私たちのBAでブロックチェーーンのイベントの懇親会がありました。食べるものから置いてあるもの、人、そして実践、取り組みなどすべてオープンで透明性があります。集まった人たちもみんな正直に使命や志を語り合い、心を開きます。気づいたらもうこの町でITを活用して心を結ぶ活動を同志は27年間以上続けてきました。その結果として、今のブロックチェーンの取り組みがこの場所で発展繁栄しています。

信頼は、いつも人の生き方や取り組み、その継続や思いの切磋琢磨、そして心の交流により育っていくものです。時間をかけて醸成してきた本物の実践や継続だからこそ心の信頼そのものを強くしていきます。昨日の参加者の一人から、心のブロックチェーンを創るという発信がありました。嬉しい宣言でした。人が人と心を結び一緒に何をするか、それが事業の面白さです。

この場所があるということ、そして人がいるということ、それを支える技術もあるまち。私たちが目指しているブロックチェーンアウェイクニングは、本来の人間性や徳といった技術と人の和の本質を追及していくものです。徳積循環経済をブロックチェーンを活かして実現していきます。

来年もまた変化挑戦の多い一年ですが、こうやって場に一同で集まれて仕合せでした。故高橋剛さんの魂もBAに留まっています。新たな仲間たちとまた一緒に未来を創っていきたいと思います。

太陽系との暮らし

今日はBAで冬至祭が行われます。太陽と共に暮らしてからより太陽を身近に感じて暮らしが豊かになりました。昨年は、夜は月と暮らすようになって合わせて心が穏やかになりました。

太陽と月とそして地球、その星々との暮らしはまさに太陽を中心にした太陽系との暮らしともいえます。

家にはにわとりがいますが、特に今朝の鳴き声は嬉しそうに感じました。毎朝、太陽が出てくる前にはなきはじめ太陽の刻を教えてくれます。今日も、太陽が拝めると有難い気持ちになり朝の太陽の光で目覚めます。

もしも太陽がなければ地球もありません。太陽が地球を牽引してくれているからこの銀河を共に豊かに旅を巡ることができています。

私たちはその一部として存在している小さな細胞のようなものです。

むかしの人たちは、太陽のことを「おひさま」とも呼びました。そして月のことは「おつきさま」。

親しくして、一緒一体になってあたたかさややさしさ、慈しみや愛おしさを感じていたのでしょう。

いつの刻にも、おひさまとおつきさまと共に暮らしていける仕合せを感じていたいと思います。

いつもいつもありがとうございます。

法螺貝講習

昨日、英彦山守静坊で法螺貝講習を行いました。一人一人に丁寧に、法螺貝を吹いてもらい何が課題で何が重要か、そして吹き方の癖やどのように吹くと振動や音が安定するのかなどを見つけて指導していきます。

今回は、私のメンターの立螺師も宇佐から来ていただき一緒に考え方をはじめ法螺貝を吹くことの意味や背景、その歴史や経緯など、仏教の真理に従い進行していきました。

例えば、法螺貝を立てるときの偈文に「三昧法螺声」というものがあります。この偈は、仏教の教えを表し、法螺貝の音が三界の神霊を驚かせ、妄夢を醒まし、覚りの位に導くとされているものです。他にも「一乗妙法説」などの偈文を唱え、魔障を払い、大日如来の説法からご祈祷が始まります。

その中で、最後に「當入阿字門」と最後に唱え法螺貝を吹きます。

この「阿字門」とは何なのか?

これはシンプルにいうと「阿」という万物の根本真理に入り、悟りの本質に至ることを意味する真言密教の言葉です。

まずこの阿は、梵字(サンスクリット文字)の 「अ(a)」 のことです。この阿は万物の根源・生滅しない真理(不生)・大日如来そのもののことを指します。つまり不生不滅の存在、分別することのないあるがままの存在のことです。

そして阿字門とは、その悟りへの入り口に入ると門のように見立てたものです。最後は、すべての修行は阿に帰着するのだという意味で唱えます。「當入」というものは、「まさに入るべき」「正しく入る」という意味になります。

この法螺貝の音を聴き、まさに自己と宇宙(大日如来)が一体の存在であることを悟るのだということがこの「當入阿字門」です。

法螺貝を吹くたびに、この心願を唱えます。

私たちが吹いている法螺貝は、その音を聴けば宇宙と一体になる響きを味わう。まさに宇宙の螺旋を顕現する唯一無二の存在が法螺貝であると私は信じています。

参加者の講のみんなも活き活きとし、また法螺貝をもっと吹き込みたいと熱気が充ちていました。このように繰り返すことで、はじめてやっていることの意味や、自分たちがなぜ法螺貝に導かれたかがわかります。

ご縁を大切にし、また次回の講習を楽しみにしています。次は法螺貝網袋に使う「七宝」の真理についても学び合いたいと思います。

初心を定める

昨日は、一日、浮羽の新しい店舗の理念や初心を定めるための一日になりました。何のためにやるのか、そして何を実現するのか、その初心が明確になるとその明確になった初心を用いてみんなが力を合わせていくことができます。そしてその上で、個人個人が何を初心にするかを定めます。

昨日はそこまで話が纏まりませんでしたが、初心が定まった後は清々しく、みんなの気持ちが合わさり喜びも一入でした。

そもそもこの初心とは何か。これは決心していることとも言えます。あなたは何を心に決めていますかという問いのことです。どんなことがあっても諦めないもの、どのような困難があっても挑むもの、つまりは覚悟を決めた心の根本です。

その根本がわかれば、みんなでその心の方を応援します。

その時、人はみんなの心が通じ合います。心が通じ合うことで、未来が変わります。仲間や人は心でつながり結ばれる時に深い絆ができるからです。

絆というのは、しめ縄のようなものです。

それぞれの初心をねじり合いながら強くしていく、するとそのしめ縄は切れることはありません。日本人が太古のむかしから最も大切にしてきた精神の柱。それが初心を守るということでしょう。

私は初心伝承ステートメントという仕事をこれまでしてきました。

経営者をはじめ、何か事に挑む志士たちの初心を定めてそれを見守るのです。場所が変わっても、時が経ってもやっていることは同じだと改めて実感する機会になりました。

よい時間を過ごせて感謝です。

老舗をつくるとは何か

ブランドというものは、何かと考えてみるとそれは「信頼」であることがわかります。信頼は商売のすべての根源であり根本です。老舗と呼ばれるすべての会社が、長い期間を経て得ているもの、それが信頼であるのは間違いありません。

その信頼をブランドと私は定義しています。この信頼を育てるというのは、生き方を磨いて生き方を貫くということです。生き方を貫いているから、周囲はその人を信頼します。そしてその目指す目的を絞り、その絞った目的に向かって全社員で取り組んでいるからこそ会社もまた信頼されます。

つまりブランドというものは、長い期間をかけてお客様をはじめ社員、および周辺の人々と自分たちの取り組む生き方を通して感情的なつながりを築き形成されるものです。

そしてブランドが失墜する時というものは、その信頼が壊れる時です。どのような時に壊れるかといえば、一つは短期的なものばかりに囚われ長期的な目的を蔑ろにする時。または目先の利益ばかりを追いかけて、本来の目的を忘れる時です。老舗で信頼がある企業は、不易流行をよく判断し、何を変えていけなくて何を変えていいかがよくわかります。さらに言えば、不易というのは長期的な理念であり流行は世の中のニーズやシーズに合わせて自分たちの持ち味を活かし、全体が喜ぶような仕事にしていくということです。

私はよく法人を人格として観て、理念のある会社を一人の人間として捉えその会社が喜ぶかということを純粋に取り組みます。これは、理念が喜んでいるかともいえます。理念が喜ぶために何をすることが最も効果があるのか、そして長期的に観て何を取り組むことがその理念を最も喜ばせることができるのかを考えます。それに気づいた人たちやその仕事に携わる人たちが近い将来、必要とするであろう長期的で必要な目的に取り組むのです。

それを世の中ではブランディング戦略とも呼ばれたりします。つまりブランドは、目先の短期的なものに左右されず長期的な目的に従っている時にこそ醸成され周囲に認知されるということでしょう。

ブランドを持っているものと持っていないものの違い、信頼されるものと信頼されないものの違い、長く積み上げていくこと、積み重ねていくこと、研ぎ澄まされていくこと、盤石な基礎を固めていくこと、それがブランドを創るということでしょう。

一見、利益にもならない、儲からない、あるいは手間暇もかかり面倒で趣味や道楽だといわれるようなものでもよくよく洞察するとこれが長期的な信頼であると御旗を掲げて歩んでいることがわかります。

長いからこそ理解できず、純粋性で高い理想や理念に対して思いが透徹しているからこそ老舗としての初心が育ち、それが養分となり大樹になっていく土が醸成されるのでしょう。

ブランドは土づくりととても似ています。収穫を考えず、ただ只管に土をよくするためにいのちを懸ける。しかしその懸けた土があれば、その後にどのような作物の種を蒔こうとよく育ちます。それを私は「場」とも言います。場を育てるというのは、土をつくるということです。

農の本質は、国造りであり人づくり、そして未来のための土づくりです。

そろそろ集大成、遺言のようにこの文章を刻んでいきますが後を託す人たちのために自分にしかできないことを遣りきっていきたいと思います。

懐かしい美味しさ

最近は、朝食に収穫したさつまいもを焼きいもにして食べることが増えています。ストーブに置いておき、このブログを書いているうちに出来上がります。出来立ての甘いさつまいもは格別で、温かいお茶と一緒に食べればしあわせな気持ちになります。

さつまいもは種類によってほくほくするもの、ねっとりするもの、しっとりするもの、パサパサするものなど異なります。ほくほくしてしっとりしているものが好みです、特に安納芋などは冬の間はよく食べます。

冬は特に温かい食べ物がおいしく感じ、時間をかけてつくる調理が大好きです。私は炭を使った料理が多いので、冬はいろいろな食材をあらゆる炭調理で楽しみます。

炊飯などもかまどでじっくりと炊く方が美味しく、ご飯とお塩が少しあればそれだけで何杯でも食べられます。それくらい、無肥料無農薬の稲架かけ米は美味しく御飯さえあれば他にはいらないと思うほどに美味です。

さつまいも話を戻せば、私が幼い頃は、軽トラックの荷台に石焼の道具を乗せて石焼芋を移動販売している人が多くありました。「いしやきいも~、やきいも」とスピーカーで大きな声で歌うように語り、ゆっくりと何度も往復していました。

1回目に聴こえたときはどうしようかなと悩み、2回目にまた通過する時には買おうと思い、追いかけるか3回目に通るのを待って買っていました。

よく考えてみると、買いそうな場所をちゃんと3回ほどまわってみんなが買いに来れるように配慮していたように思います。他には、物干しざおなども移動販売していました。

昭和の懐かしい感じもまた、この石焼芋を食べていると思い出します。最近では近所の大型スーパーの玄関先でも石焼芋は置いてあります。甘い香りで、ついつい買っている人も見かけます。

私たちの日頃食べる懐かしい食べ物には、慣れ親しんだ味の記憶があります。美味しいと感じるのは、ただ味だけを感じるではなくそこには美しい思い出も入っています。あの味だと思い出すとき、しあわせがつながります。また食べたいと思うものには、心が喜びを感じる何かが入っているからでしょう。

子どもたちにも懐かしい美味しさを伝承していけるように丁寧に調理していきたいと思います。

いのちの美味

日本には古来から「甦生」という精神性があります。私は場道家ですが、同時に甦生家でもあります。甦生は私のライフワークです。

生まれ代わるというのは、いのちのめぐりのことです。いのちというのは、常に生々流転しています。また輪廻転生するともいえます。あらゆるものと和合しながら生き続けていきます。和合していくことは、新たないのちになっていくことです。

例えば、昨日は新嘗祭を行いましたがお米の種はそのままいのちの種です。土に蒔き、お水と光と風が吹けば別の姿に変化していきます。そのもののいのちのかたちはそこで終え、別のいのちへと変化していくのです。私たちが成長して老化していくように、いのちもまた変化します。そして新たないのちに受け継がれていきます。

当たり前のこの真理ですが、これは実はとても大切な智慧の一つです。

神道では、式年遷宮をはじめ様々な甦生の儀式があります。新嘗祭もその一つです。私たちは毎年、一年に一度、甦生するのです。この甦生によっていのちが若返り瑞々しくなり長寿を得ます。この智慧は、健康食品などでは得られませんし、遺伝子治療などでも得られません、そもそも科学ではないからです。

昨日は甦生した井戸のお水で床下の備長炭を使い、田んぼの土で仕上げた竈に火を入れ、みんなで火吹き竹で息を吹き入れた今年の新米を炊きました。

その味には、確かに新たないのちが別のものになって宿っている感覚を直観します。仲間たちと一緒に味わいましたが、口先ではなく全身全霊で美味しいと感じるいのちの美味です。

甦生や若返りというのはこの感覚に似ています。

私はいつも古民家甦生や、あらゆる伝統や伝承の場を甦生する中でこの感覚を味わっています。いのちは変化する。変化こそ甦生の妙味であると。変化を如何に楽しむか、変化を如何に味わうか、私たちは変わることでいのちを何度も甦生させるのです。

暮らしフルネスの基本は、このいのちの美味を知ることからはじまります。

引き続き、徳の世を醸成し心豊かな社會のために智慧を実践し続けていきたいと思います。

いのちの新嘗祭

今日は、これから浮羽の甦生中の古民家で新嘗祭を行います。有難いことに、今年はとても由緒ある田んぼとご縁ができ手植え手がりで無肥料無農薬でお米を栽培することができました。仲間との思い出もいよいよ終盤、今年の有難いご縁と感謝でみんなで笑顔で新米をいただき予祝をします。

振り返って見たら、お米と共に一年を暮らす仕合せは格別なものです。一年中食べているのがお米ですからお米のいのちをいただいているといっても過言ではありません。一粒一粒にいのちが宿る種を食べているのです。それは元氣にならないはずはありません。

田んぼでいのちが充実しているという事実。

これは生き物がいっぱいの田んぼに入ればすぐにわかります。私たちはその田んぼの元氣をいただき、元氣溌剌と生きているのです。今ではお米も次第に、お金や物のように扱われています。先物取引のようにも扱われたりしました。しかし本来は、お米は私たちのいのちそのものに深く関係するものだからいのちとして接することが本来のあるべき姿ではないかとも思います。

お米に対する意識や姿勢こそ、私たちの精神性の中心を支えていたものです。

新嘗祭はそれを甦生する大切な儀式とお祭りです。

丁寧にいのちをいたわり、みんなで有難くいただきます。

場徳の醸成

無声呼人」(むせいこじん)という言葉があります。これは福寿園の家訓が由来で商売においては徳や品格が商品に必要であり、それがあれば自然と人が集まるという教訓になっているともいいます。

これは論語の徳は孤ならず必ず隣ありに意味が似ています。これは私の場の道場の実践徳目と似ていて、その場に徳が醸成すれば自然にいのちが活き活きしてあらゆるものが自然に調ってくるというものと同じです。

よく振り返って見ると、人生も同様に善いご縁がさらに好いご縁を結びます。これは好循環ともいいます。自然に一つが誠実になれば、次が自然に用意されてやってくるのです。

日本人は、「予祝」(よしゅく)という精神性を持っています。これは未来に起こる良い出来事をあらかじめ祝うことで、その実現を引き寄せる考え方のことです。現代でいえば、過去が未来になるという考え方です。今、御祝いすれば未来はそれに引き寄せられて自然にそうなるということ。

量子力学が発展して、意識というものの存在も再発見が続いています。先に私たちは意識を持てば、それに現実が顕現するということ。意識が先にできる、無から有が産まれるということでしょう。

私もこの無声呼人という言葉がとても好きです。

場づくりと徳を磨く実践には、その集まってくるご縁の楽しみと喜びがあります。

善い場をつくれば、相応のものが訪れます。よい人、よいめぐり逢いを味わいながら一期一会を生きていきたいと思います。

自然の恩恵

世の中の商品には、自然環境を著しく破壊するものがたくさんあります。同時に、人体を著しく破壊するものもあります。今も文明と人類が滅び、長い時間が経ては回復するかもしれません。しかしそれはとても残念なことのように思います。

そもそも縄文人をはじめ、太古の人々は自然と共生して自然の恵みだけで生きてきました。その恵みを過剰に取りすぎず、破壊しないように配慮して長い時間をかけて回復する自然の恩恵に肖っていました。その自然の恩恵に氣づく感性もまた研ぎ澄まされていたようにも思います。

どこからか自然の恩恵よりも資源として採掘をはじめ、それをどう資金にしていくか。埋蔵金の発掘や海賊のように恩恵を搾取するようになりました。それも個人の権利として特定の人たちがだけが独占するという具合です。

恩恵の独占によって恩恵から外された人たちは厄難であり迷惑をうけます。特定の人たちが権力や富を牛耳ることで問題が発生して恩恵ではなくなったということでしょう。つまり恩恵をわが物にして、恩恵を与える側になったようにふるまうのです。

恩恵というものは、人間が造り出したものではありません。恩恵は元々、宇宙自然によって存在しているものです。その恩恵をみんなで分け合い暮らしていくと決めて生きてきたのがかつての人々であったということでしょう。

権力者や独占者は、恩恵を奪取するのが得意です。恩恵がなくても、恩恵のように見せかけて人間を操るのも得意です。最近では、マッチポンプといって敢えて環境を壊すことでそれを回復させているかのように振舞いお金を集める組織や会社も氾濫しています。マッチポンプとは、自分で起こしたもめごとを鎮めてやると関係者にもちかけて報酬を得ることのことをいいます。

自作自演をして恩恵を誤魔化しているのを見ると、悍ましさに悲しみも覚えます。今の時代、グローバリゼーションがそれを加速させています。

暮らしを調えていくことは、生き方を調えていくことでもあります。

よくよく自然の恩恵とは何かを見究め、恩恵と共に暮らしていくことを積み重ねていくことでしょう。子どもたちのためにも、恩恵に感謝する暮らしを精進していきたいと思います。