伝統的な梅干し

先日から梅干しをつけて深めていたらなんと80年前の梅干しをある方から分けていただくことができました。この梅干しは、その方の御祖母さんが嫁いできたときに樽でつけられた梅干しです。

それまで梅干しは何年食べれるのだろうかと疑問に思っていましたが、調べてみると数百年持つものもあるということで驚きました。早速食べてみると、表面は黒い鉄のようですが酸っぱくなく古酒やワインのようで、その和かで優しい味に驚きました。

現存する最古の梅干しは奈良県の中家にある梅干しで、1576年の安土桃山時代に漬けられたものと言われています。441年前の梅干しというのはどのようなものか、ぜひ一度は食べてみたいと思いますがなんとそれより以前の室町時代の梅干しもまだ現存しているという説もあるそうです。

現代では調味梅干しといって添加物や保存料、はちみつや旨味成分などが入っていたり減塩タイプのものになっているので消費期限を約3ヶ月から半年くらいで設定されていますからその刷り込みで最初は数年くらいしか持たないものだ思い込んでいる人も多いように思います。しかしそれは添加物や保存料のせいでかつての伝統的な製法でつくれば数十年から数百年持つということが梅干し本来の凄さです。

防腐効果がある伝統の食品に保存料を使うという愚をなぜするのかと疑問に思いますが売れればいいと舌先三寸の味に走ることでそれまでの梅本来の智慧や徳が観えなくなるのはとても残念なことです。

伝統的な製法で昔の塩をつかい、手作りで塩分濃度を20%に保てば何百年も持つという真実を聴いて、改めて梅干しの防腐効果の偉大さに尊敬の念がこみあげてきます。梅干しはかつては日本人には欠かせない薬だと思っていましたが、この80年ものを食べてみてはじめて私も梅干しのことを本当に信じられた気がします。

高温多湿の腐りやすい日本の風土において遥か昔から病気の予防や、薬として先祖たち、多くの人が愛用し続けてきたこの梅干しは至高の智慧の結晶であり、自然防腐の仕組みを内在した健康食品であったということです。

どんなものを今まで食べてきたかということの中に、梅干しがその真ん中にあったことを感じます。梅はずっと私たちを見守り助けてくださってきた木であり、その存在と同じくらいその徳を尊重して大切にしていこうとした先祖の信仰心には頭が下がる思いがします。

今回の梅干しのご縁で改めて発酵の魅力を再発見するとともに、伝統的な梅干しを天神祭に向けてさらに深めてみたいと思います。

 

和道

天神祭の準備を進めていますが、孔子と菅原道真公の生き様と生き方に共通点が多いことを感じます。共に憧れの君子に向かって学問を求道し、子孫たちへ人類の目指す理想に向けての光を照らし今でも私たちを見守ってくれている存在になっています。

孔子は中国の人物ですが、論語を通して私たちはその教えを血肉にしてきました。日本人というのは、「和」という言葉にあるように、他を排斥せず、他を鵜呑みにせず、他を尊重して混ぜ合わせ渾然一体にして文化と溶け込ませていく民族でもあります。

澄んだ水に、あらゆるものが溶け込み受け入れるようにその寛容で素直な精神が私たちの根底を支えています。自然のようにゆったりと悠久の流れの中で、自ずから最適化していくようにお互いの持ち味を活かしあい和合するのが私たちの文化の原点です。

そもそも風土で醸成されたものは、その風土が象ったものですからその風土の適性を帯びています。それが別の風土に移動するとき、その風土に適した人物や存在が新しく顕れ、古いものが甦ります。

こうやって自然は、何度でも甦りを繰り返し、その風土の時の流れと一体になって生き続けていくのです。教えや智慧もこの自然の仕組みがあり、ただ外からそのままになって入ってきたものは風化しますから風化しないように日々に手入れを行い、時々に生まれ変わり新鮮さを維持し続けていくのです。

私たちは同様に、日々に増えていく文化や文明に対してそれを温故知新し続けていくことで本来の姿をいつまでも守り続けていきます。それを伝統といいますが、それを伝承するためには時代の変遷の中で何度も原点回帰を続けて和製にしていく必要があるのです。

言い換えるのなら、その時代時代の通訳者が必要になるということです。何が本質かというのは、その時代に生きる人が翻訳し通訳しなければなりません。そして本物のであり続けるために、その意味の解釈が正しくできなければなりません。

目指す生き方が同じである人が、時代時代に顕れ、同様に自分の人生で体験したものをその時代の人たちに示していくから受け継がれていくのです。

天神様は、人物が神様になったものです。

これはどのような生き方を目指したか、その生き方の先に神様が在るということです。ここの神様の神は「カミ」のことで本来、日本人は宗教とかどうこう分別する前に、太古から暮らしを通して息づいている自然の存在をカミとしその道から離れないように生きていこうとした民族です。

だからこそそうやって生きた存在をカミとして称え祀り、その生き方を模範にしていこうと祈り継承し続けてきたように私は思います。

天神様は、学問のカミですから何のために学問をするのかをその存在から私たちは気づかせていただけるように思います。

引き続き、子どもたちのためにもこの時代のかんながらの道を伝承する民族の独りとして実践しながら伝え遺していきたいと思います。

風土の民

私たちは少し前の常識を歴史として認識するものです。少し前の時代に、新しい基準を設けそれを3代ほど繰り返せばそれが新しい常識になります。歴史や伝統もまた、新しい基準に合わせて変わればそれが繰り返されるうちに当たり前になるのです。たとえそれが二千年続いたものであっても、ものの数十年で違うものに変えてしまうことができます。それが歴史の姿です。

有名なものに暦の改暦というものがあります。日本も約140年前にそれまで800年以上続いていた旧暦をあっという間にグレゴリオ暦に変えてしまいました。現代ではほとんど新暦が当たり前になり、旧暦の存在すらも忘れ去られています。

季節の移り変わりや、潮の満ち引き、そういうものを一切無視してはそれまでの自然や伝統、暮らしに合わせて先祖が築き上げたものはなかったことにして世界の基準に無理やり合わせようとする。欧米から入ってきたカレンダーをみては季節感もなく、農や暮らしとも関わりがなく、ただそのスケジュール通りに生きていくのが生きることになればそれまで続いてきた自然と共生する智慧の暮らしが失われるのは自明の理です。

本来は変えてみてよくないと気づいたならすぐに原点回帰するというのが歴史の学問ですが、なし崩し的に伝統が消えてなくなってしまったらどこが原点かもわからなくなってしまいます。

グローバル化の中で、本来の変えてはならないものと変えていくものの違いがその時々の責任ある伝承者たちによって正しく継承されなければ文化はその時から次第に失われていくのではないかとも私は思います。

風土というものは、私たちにとっては切っても切り離せないものです。

地球のどの位置にいるか、その場によって気候も環境もそして暮らしも全く異なるからです。先祖たちは何千年もかけてその風土を学び、その風土に適応し、その風土と一体になって暮らしを創造してきました。

その暮らしの伝承があってこそ、私たちはその風土の民となります。

風土の民は、それぞれに独自の文化や信仰を発展させその風土の持つ魅力や価値、その風土から学んだ智慧を人類の未来に託してきました。その智慧は何のためにあるのかといえば、人類を存続するために必要だったのです。

それが急速に失われていくということは、人類が生き残る可能性も急速に失われていくということを意味します。

何千年もかけてきたことが、ものの数十年で消えてしまうという真実を私たちは本気で畏れなければなりません。もう一度、やり直せといわれても遺っていなければ最初からやり直しでまた数千年の歳月を実験していかなければならないのです。

なぜ生き残るためにこれを選んだかは、それが先祖たちが唯一学んだ人類存続の方法であったからです。

知識や情報は増えましたが、それはどれもあくまで短期的な利益をみれば効果はあります。しかし永続的なものや長期的なものを考えたときの利益はほとんど効果がないものです。

だからこそ風土の民として責任を果たすためにも、先祖を学び、先祖が暮らしてきたものを子孫へ伝承する使命とが今を生きる私たちにはあると思います。

引き続き子ども第一義を貫き、分度を守り、風土を推譲していきたいと思います。

 

風土

私たちはそれぞれに住んでいる国の風土があります。その多様な風土の中でそれぞれの文化が発生し、その文化によってその国の人々の暮らしの個性が出てきます。

世界には風土の数と同等数の多様な民族や暮らしがあり、それを継続して発展させて文化にまで昇華したものが伝統というカタチになって遺っているのです。

現在は、世界の国々でもともとあった風土とは異なる文化をそのまま移設しようと試みられていますがそのことによりその風土にあった「場」が失われてきています。同時に、場が失われれば文化もまた減退していきますから民族の個性や暮らしも失われていきます。伝統が消えていくというのは、その国の風土や文化が消失していくということに他なりません。

伝統文化において大切なのは、場と間です。

どのような風土の中で、どのような経過を辿ってきたか、それが混然一体となって和が産まれます。

日本には産霊や結びといった、あらゆるものが混ざり合い産まれる和という信仰があります。これは風土が他を排斥せず否定せず、お互いを尊重し合って一つのものになるということです。

これは日本の風土が、小さな島国の中であらゆる多様な気候の変化を受け容れることにもよります。こんなに小さな場所でも、この日本は非常に複雑で新鮮な風土環境を持っています。それは台風や地震、火山やあらゆる自然の猛威を潜り抜けている場所ともいえることでもわかります。

私たちはこの場に住んでいますが、今こそこの場を改めて見つめ直して学び直し、価値を再構築し再発見をする必要があるように思っています。

なぜなら世界は今、大きな岐路に立たされておりこの先の未来のためにも自分たちがどのように伝統を守りそれぞれの個性を互いに尊重して一和していくかが問われているからです。

風土を無視して同じ色に塗り替えるということが世界が一つになることではありません。多様な風土があるように多様な民族や伝統文化、暮らしがあってそれを尊重し合いながら生きていくことが人類の役割だと私は思います。

地球上で生きるすべての生き物やいのちたちを追い払って自分たちだけになって果たしてその世界は楽しく豊かな場になっているのでしょうか。閑散としたビル群の中での生活は確かに便利で楽でしょうがお金を使うことばかりに創られた都市の中で本当の仕合せはないと私は思います。

あの美しい自然が私たちの心を癒すように、何が本来の姿だったか、懐かしいものを現代に伝承していくことも今の世代の責任だと私は思います。

引き続きこの先に地球に生まれる子どもたちのためにも、風土のあるべきようを究め直し、風土を活かした志事を実現させて和の甦生を実践していきたいと思います。

視野と関心

物事には視野というものがあります。

この視野とは何かといえば、自分がどれくらい関心を持っているかということです。

人間は結局は、どれくらいの視野で物事を見てそして優先順位を決めているかで自分の活かし方もまた変化してきます。世界の広さで物事を観て、今日の一日を過ごす人と自分の視野だけで物事を観て一日を過ごす人ではその一生の活動においてその質が異なるのは明白です。

この視野を高めるために必要なのは、すべてのことを自分のことのように置き換えることで高まっていくように私は思います。自分のことにしか関心がなく、他のことを他人事のように考える人は視野が狭い人です。

視野の寛い人は、思いやりが深く配慮があり、常に世界に関心を持っています。狭い自分の価値観や自分だけの人生だけで自分をいっぱいにすることはなく、常に自分の周囲だけではなくその先にある子どもたちやその後に続くであろう人々に心を運んでいきます。

自他一体に、相手のことを自分のことのように思えるのは視野がある境地に達しているともいえます。例えば、相手に起きることは実は自分のことではないか、このご縁は自分が体験させていただきながら誰かのお役に立つためのものではないか、今起きているすべては必然ではないか、この人の問題は私の問題で会社の問題は自分の問題ではないかとすべてを同一にまで高めることができる人は視野を持てるようになっているともいえます。

視野という言葉と共に視座というものもあります。

これは相手がどの高さで物事を観ているかを知るということです。人は視野が高くなると同時に視座も高くなってきます。問題意識が高い人は視座が高い人だとも言えます。人は自分の高さで物事を見てもそれは問題意識の高い人の視点の高さで観ることができません。

自分の視座を高めるためには、相手の物事の観る視座を持たなければ対話をすることもできません。例えば、国家であれば首相の問題意識で物事を見る人、会社であれば社長の問題意識で物事を見る人、それで視野も視座も異なります。

全体を観るというのは、物事をどの高さで捉えているか、物事をどの視点で考えているか、物事をどの境地で観ているかということに由ります。

だからこそ常に相手の話を聞くときに、自分の視野や視点にだけ囚われるのではなく常に相手の立場に立って自分事としてとらえることで視野は寛がり、視座も高まるように私は思います。

松下幸之助氏の言葉に、「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。」という言葉があります。常に自分本位、自分の視点だけで周りを見ないという自分勝手なことをしていてはいつまでも視野は変わりません。

だからこそ常に相手の立場で物事を考える実践や、常に相手が自分だったらと思いやることで視野を切り替える訓練を通して人は成長していけるように思います。

自分の思っている以上のことがその物事にはある、そして自分はわからないことがきっとあると自分の慢心を戒め、常に自分の視野が曇らないようにしていくことが最初の取り組みのように私は思います。

自分本位自分勝手な視野は、すべてを狭くします。関心とは心の関わりと書きますが、心がつながっていくことで視野は大きくなっていきます。常に心を開いて心からかかわっていきたいと思います。

 

 

成長の本質

「習熟」という言葉があります。

辞書によれば「ある物事に慣れて十分に会得(えとく)すること。」と書かれます。類語には、「習得する 、 身に付く 、体得する 、 自分のものとする 、覚える 、我が物とする 、マスターする 、 修得する 、 肌でつかむ 、心得る 、 極める、磨きぬく、鍛錬する、錬磨する、熟達する」などがあります。。

この習熟は、パッと言葉で教えてわかったからと簡単にできるものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し続けていく練習の中で身についていくということがここからわかります。

自分のことを思い出せば様々な智慧はどうやって身についてきたかと思うと、根気強く一つのことを求め続けていく中で何回も失敗を繰り返し改善を続けていくなかであるとき、コツを掴みできるようになりました。

そのためにはいつできるようになるのかがわからなくても、諦めずに求め続け高め続けていく中である瞬間に臨界期を超えて脱皮して新しい自分に生まれ変わるという体験が必要です。

この脱皮して生まれ変わるというのが、習熟であり発達したということです。その間は、なぜこんなにうまくいかないのか、なぜわからないのかと、どうすればできるのかと日々に煩悶しますがそれでも強く変わりたいと願い、挑戦し続けて取り組んでいく中で気が付いたときには変わっていくものです。

脱皮したり変化したりするのがうまい人は、好奇心が旺盛でなんでも楽しくやっているうちに変化していきます。あまりマジメ過ぎると、そのこと自体が楽しくなくなり、つらくなりさらには焦りや臆病風が吹いてきては怖くて新しいことに飛び込んでいく勇気がでないままに動けなくなりいつまでも変わらないこともあります。

だからこそ、変わるためにはもっと大らかに明るく楽しく求めていく必要があるように思います。それは道を究めようとする心であったり、やっていることの意味に気づき、その深さや面白さを味わったり、達人や熟達した人たちにその体験談やヒントを聴いてそれを試してみたり、また仲間や友人と共に現状を語り合いながら苦労や感想を分かち合ったりと、「創意工夫」をしながらやっていくとより脱皮しやすいように思います。

変わらないからと焦ってみても、自分を責めるばかりで周りのせいにしてはかえって変わることができなくなります。

どうせある日あるときに突然に気が付くとできるようになっているようなものが「成長の本質」であり、それが習熟するということですから日々はいろいろとやり方を工夫してみてその工夫の妙を味わっていくような気持でネアカに快活に歩んでいく方がいいように思います。

諺に「好きこそものの上手なれ」とありますが、まさにこれは先人が語る習熟するための至宝の妙法かもしれません。どうやってそのものを心から大好きになっていくか、そこが脱皮の最大のヒントのようにも思います。これはあるものを磨いてそのものに深々と愛着をもっていくことに似ています。

引き続き、様々な実践を楽しみ味わいながらその一つ一つがあるとき習熟してわかりできるようになる日を心持にしながらご縁を結び、日々の磨き直しを楽しんで取り組んでいきたいと思います。

 

土の甦生

先日、古民家甦生で壊れた漆喰の壁を伝統工法で修復する作業がありました。糊も昔ながらの技法で海藻をコトコトと煮込み、漆喰を調合して壁面に塗り込んでいきます。

左官職人はまるで自由に滑らかに縦横無尽に鏝を使い繊細で緻密な作業を流れるように進めていきます。土づくりから参加してみてみると、下準備にかかる手間暇は膨大で最後の仕上げしか想像していなかった私には学び直すことばかりでした。

下準備や段取り次第では、仕上げの塗りができなくなることもあり、下塗りや中塗り、そして上塗りとコツコツと丁寧に壁を整えていきます。特に土の調合では、納得いくまで丁寧に何回もイメージしたものを混ぜ合わせていきます。

土は自然物ですから、その時々の気候や湿度、温度によって土の状況も異なります。その土と向き合い、その時々の環境の変化に合わせて微妙に調整をする、まさに職人技のなせるとことです。

今回は私も左官職人の指導で漆喰塗りを体験してみましたが、幼いころに遊んだ土遊びのことを思い出しました。幼いころは、川や水辺、田んぼの周辺で土を混ぜては様々な造形物を創りました。泥団子やダム、トンネルや、お城や動物など、想像したものを手で捏ねては塗り固めて遊びました。

あの頃のワクワクしたことを思い出し、土の存在を最初に身近に感じた頃の懐かしい記憶を思い出しました。土は、縄文時代以前からずっと私たちの身近にあって私たちの暮らしを支えてきたものです。

半永久的になくならず、そして甦生を繰り返して利用できる循環型の素材として土は永続的に家を保つのに活用されます。聴福庵の床の間や漆喰の壁の土もそこにあったものを剥ぎ取り、また混ぜ合わせて再利用されました。

どのような土で生きて、どのような土と共に歩んでいくか、土はその場所を動かないからこそ私たちはその土から生き方を学ぶようにも思います。

これから土は瓦の土と、茶室の土が入ってきます。特に茶室のものは、自然農で手塩にかけて育てて見守ってきた発酵した田んぼの土を使ってこれから左官職人と一緒に創りこんでみる予定です。

日本の伝統文化と職人の伝統芸術を遊びながら土の甦生を味わっていきたいと思います。

古井戸の甦生

昨日より、いよいよ古民家の古井戸の甦生をはじめました。もうずいぶん長く使用されていなかった井戸を、手掘りで再生をはじめたのですが慣れない仕事で体中が筋肉痛です。

井戸掘りのプロの方に見ていただき色々と調べてみると、大体6メートル近くはあるらしく今は1メートル半くらいは掘ったのでこれから残りの分を少しずつ掘っていく予定です。

手掘りで井戸掘りのことを伝えると、近所の方や知り合いが懐かしいと見に来てくださいました。昔はみんな井戸水を使っていたこと、日々の暮らしの根元には井戸があったこと、近所の酒蔵や醤油さんはその水でお酒や醤油をつくっていたことなどをお話していただきました。

夏はとても冷たく、冬は温かい、大体年中平均が16度前後の美味しい水が出るといわれ水が出てくる日が楽しみになりました。

昔の日本人は、自然の中に精霊のようないのちがあることを見出し、八百万の神々といってすべてのものに畏敬の念を持ち祈りを奉げお祀りしてきました。家の中には、厨房のおくどさんには三宝荒神さまがいて、トイレには烏枢沙摩明王さまがいて、井戸には水神さまがおられるとして大切に清浄にされてきました。

今では見えないものは信じられず、見えないものを語るとオカルトや宗教や頭がおかしいなどと中傷されますが古来の先祖は見えないものが観えたかのようにそこにあるものとして様々な祈りを奉げてきたのがわかります。

私たちの暮らしを支え見守る火や水、風、土、木や石、月や炭などもそこに確かに精霊やいのちが宿っていていつもその御力をお貸ししていただき私たちが生活していけることができているという感謝の念を忘れることはありませんでした。

今では簡単に火も水も風も、そういうものを自由自在に使えるように科学が発展しましたが技術だけで生み出したいのちの入っていないものに精霊やいのち感じることはできなくなってきたのかもしれません。

炭で熾す火とガスで簡単に出てくる火、井戸の中にある水と、蛇口をひねるとすぐにでてくる水に精霊やいのちをどちらがあると感じられるかは触れてみれば一目瞭然です。

人類が自然を破壊し大きな岐路に立たされているときだからこそ、どのように生きるか、いままでどのような心構えで生き永らえてきたのか、先祖の智慧を頼る必要があると私は思います。

最後に、外の猛暑とは一変してひんやり別空間の掘り進める井戸の中から真上を見上げると、青空が見えそれをのぞき込む仲間たちの笑顔が観えました。その光景にかつての井戸端会議なども井戸の中に響いたのではないかとも思い、生活や暮らしを土の中からお母さんのように見守る存在として水の神様があったのではないかとも空想しました。これはまさに土と水の調和の上に家が立つという教えだったのかもしれません。

有難い井戸や水神さまの存在に感謝しながら心を籠めて丁寧に掘り進めていきたいと思います。

 

 

伝統と伝承

先日、伝統工芸の職人の方々のお話をお聴きする中で考えることがありました。それは「伝える」ということの意味についてです。

一般的にいくら良いものだとわかっていてもそれを伝える力がなければ相手には伝わりません。それに伝統だと、師弟関係があったにせよそれがお互いに伝承できなければそれはのちに遺ってきません。この「伝」の意味はまさに今、私たちが課題になっているところです。

もともとこの伝の旧字体は「傳」です。 「人」+「專」の形声文字から成り立ちます。これは 「横から見た人の象形」と「糸巻き の象形」と「右手の象形」を表し、 その糸巻きをぐるぐる回しながら人から人へと何かを「つたえる」という意味を指します。

この「伝える」という取り組みは、人類にとってとても大きな意義があることです。長い時間をかけて人類を存続させ、子孫への繁栄を発展を約束するためにも「伝える」ことはその世代を経験して達したものの使命になっているようにも思います。

しかしこれが伝わらなくなれば、自ずからそこでそれは消滅するのです。如何に伝えるということが大切か、如何に伝わるということが大事かということです。そしてそれがいつまでも永遠につながっていくこと、それを伝統というのでしょう。

この伝統技術は、単に文字や言葉で教えて伝わるものではありません。伝わるには、真摯に伝える側が伝わる側に伝わるように真心を籠めて伝えなければなりません。そして伝えられる側も、真心を籠めて素直に耳を傾け、心から伝わるように全身全霊で受け取らなければなりません。

以心伝心とも言いますが、心が伝わりあうことではじめて伝承はなるからです。自分のことばかりを考える人ではこれはならず、お互いに思いやりと真心をもって心で一つのことに結び合うときその糸は連綿といつまでも続いていくようにも思います。

伝統を守るというのは、何をもって伝統を守るというのか、今一度考え直す必要があるように私は思います。

簡単には伝わらないからこそ、伝わったときの仕合せは感謝に満ちるものです。心がつながるとき、大事な理念が伝わりつながっていくとき、心は一つになります。心が一つになれば、その伝統は結ばれいつまでも時代を超えて生き続けていくのです。

改めて子どもたちの未来に今の自分が何を伝えていくことができるだろうか、もう一度自問自答し学び直していきたいと思います。

 

名将の生き様

昨日から福岡県の柳川市に来ています。以前、流鏑馬で訪れたことがある三柱神社で戦国時代の名将で名高い立花宗茂に興味を持ち今回はその所縁を深めています。

この立花宗茂という武将は、文武両道の名将で、連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作など多彩の技芸にも長けていた文化人とされています。戦上手だけではなく、温厚で誠実、そして義理堅く正直であった武士の中の武士であると評されます。

かの豊臣秀吉も秀吉は19歳の宗茂を「その忠義も武勇も九州随一、九州の逸物」といい、徳川家康も宗茂を畏敬し賞賛していたといい、二条城に上洛した際、本多正信が武田信玄、上杉謙信、織田信長等の名だたる武将と比較して殿がそのように褒めるお方は誰かと問うと「天下に隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」といったそうです。

この立花宗茂は厳しい時代を生き残る智慧は、戦略としても参考になりその生き方や経営はとても共感するところばかりです。戦国時代では上杉謙信と共にとても尊敬している武将で、その逸話や格言、軍略からも学ぶことばかりです。

「例えば、かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分は経験上2千程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう」

これは私は何よりも共感するもので、人は数ではなくその戦略に応じてもっとも自分に合ったものを見極めるということが大切であるということです。己の型を見極め、それに見合った分であることがいいといいます。野戦を得意とする上杉謙信や立花宗茂もまた兵の数ではなく、そのもっとも武が活かせるかどうかということを言ったのではないかと感じます。

野戦というものは、野生のように戦いますから如何に磨かれて意思疎通がとれた仲間と共に戦うかというのが重要です。立花宗茂は人をとても大切にしたといいます。そこにはこういう言葉があります。

「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」

「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」

「戦いは兵数の多少によるものではない。一和にまとまった兵ではなくては、
どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。」

この立花宗茂の強さは、守る強さ、大義の強さ、その生き方の強さでもあると私は思います。いざ戦になったときはこの強さが一和して家族的な和の団結力で協力できるのです。

関ケ原で何度も家康からいかなる恩賞で誘われても、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」といい西軍が負けて柳川に戻ったときは領民から命を共にし殿と一緒に戦うといった領民をなだめ、その後、柳川に戻ったときはその領民の子どもたちから大変歓迎された逸話もあります。また家臣がみんな浪人になった立花宗茂に着いていこうとしあまりの多さにくじで決めたともいいます。

浪人になった後は、家臣たちがみんなで何かしら働き仕送りをし続けたといいます。あるものは虚無僧になり托鉢して宗茂のために食事を集めたといいます。そのエピソードの一つに加藤清正に仕えた家臣の小野和泉があります。

小野和泉は清正家臣団からたびたび嫌がらせを受けていたようですが、清正家臣団から「わが主(清正)は勇猛でたびたび敵将の首をとった」と自慢すると小野和泉はおもむろに上半身裸となり、全身60余ヵ所ある傷のうち上半身40数ヵ所の傷を見せその傷を1つ1つ説明したといいます。 清正家臣団がたまりかねて「もういい。夜が明けてしまう」と言ったところ、「我が主(宗茂)を奮戦させないように我は務めたが、お主らは主が奮戦している間どこにいた!」と一喝したといいます。自分の主の自慢ではなく、主に奮戦させないように務めたというところに立花の家臣としての実直さ誠実さを感じます。

さらに立花宗茂の教育者としての逸話もあります。

寛永11年(1634)、宗茂は安東助四郎(あんどうすけしろう)という家中の少年がおり、その彼が13歳のときに藩の文教面における指導者に育てようと思い立ちます。翌年、宗茂は助四郎を江戸に呼び出し、嗣子・忠茂の近侍に登用し学問に励むよう命じました。

宗茂に急に登用され学問に打ち込む助四郎の姿に他の藩士たちから嫉妬をかい助四郎は病を理由に職を辞し、柳川に帰ってしまいます。しかし宗茂は、忠茂と連名で助四郎にこのような手紙を送りました。

「病はいかがか。容態はどうかと心配している。だが帰国した理由はそればかりではあるまい。お主の勉学は我らが認めたもので、我らはお主のことを少しも疑ってはいない。お主に何かと申した者たちはこちらで吟味する。どうか、気を取り戻してほしい。お主が確かな人物であることは、わかっている」と。

この心のこもった手紙に心打たれた助四郎は、発奮して一層学問に励み後に安東省庵と名乗り「関西の巨儒」と謳われる大儒学者となり柳川学問の祖となります。

この立花宗茂という人物は、戦国時代のただの戦上手で強いだけの人物ではないことはすぐにわかります。その生き方としてのお手本となるものが多く生涯、自分の信条、そして「第一義」に生きた人物でもあります。

時代がいくら変わってもその生き方は燦然と輝き続け、厳しい時代をどう生きていけばいいか、どのように経営すればいいかという模範になります。人を大切にするということがどういうことか、そして何をすることが義を優先しみんなを守ることか、引き続き学び直していきたいと思います。