自分らしさ

自分らしさという言葉があります。昨今はこの「自分らしく」という言葉をよく聞くようになりましたが、これは自分らしくいられない人が増えてきているということでもあります。

自分らしさとは何かということを少し深めてみようと思います。

そもそも自分らしさというのは、自然体の自分ということです。自分らしくいることを無理しない、つまり自分のままでいいという状態です。それは誰の評価や結果、期待や比較などで自分を作り上げようと無理し頑張ろうとしないということです。

現在は、無理をしてでも頑張っても自分の与えられた役割を果たそうとする人が増えています。本来の自分ではやらないようなことでも誰かから与えられた役割や立場を守るために頑張ろうとするのです。その役目がピタリと合う人はいいのでしょうが、実際は能力主義や結果主義、個人主義が背景にありますから、何とかできなければ無理をして頑張って頑張れなくなったらもう無理だと倒れてしまいます。その段階においては楽しいや面白いといった好奇心も枯渇していることもほとんどです。そして自分らしくいられないと別の自分らしくいられるところを求めてはさ迷うのです。

実際は自分には無理なことがあることを自覚し、無理なことを頑張ろうではなく得意なところを活かして苦手なところは周りに頼るというのが自分らしくいられるということです。認め合い、プロセスを大切にし、助け合い協力することが背景になっているところは安心して自然体でいられます。できるところをやればいい、無理をしなくてもいいという安心感はいつでも仲間が見守ってくれているという安心感に包まれます。

このように自分らしくというのは決して自分だけでできるものではなく、その周囲の環境や仲間の存在によって感じられるものということになります。信頼し合う関係は、認め合うことからはじまります。当然周囲にその環境があっても、自分のことを認めず他人のことも一切認めようとしない人は自分らしくいられなくなります。

自分らしくいるために、如何に自分から周囲を認め、周囲もその人を認めるか。その人らしさとはその人を丸ごと認めていくということです。

私たちが目指している人間社會は誰かだけが誰かによってつくられ、本来の自分になれず無理をして一人だけ苦しむようなものではありません。これまでもみんなで一緒に生きてきたのが人類の叡智だからこそ、感謝のままにみんなが一緒に楽しく仕合せに暮らせるように一人一人を尊重し思いやることが自分らしさであることを実践で示していく必要があると思います。

多様な異なりがあっても、認め合っていけばそこには自分らしくいられる人たちの個性が活きていきます。好奇心もまたそういうところで発揮されていきます。これだけの個性がある人間が増えていくことは、それだけ助け合える機会が増えていくとうことです。

人口80億人の時代が来ていますが、これだけの個性が増えたことが仕合せに思います。この人類が協力し合い生きていく社會を夢見て、今日も理念研修に臨みたいと思います。

心の豊かさ

古民家甦生を通じて古いものを修繕していると誰もがその光景をみて「懐かしい」と感じます。その懐かしいと感じるものは何か、それは心の豊かさです。懐かしさとは人の心の中にあります。

今の時代は、過剰な貨幣経済が発達しお金の方が物よりも溢れかえっています。都会にいけば手に入らないものはほとんどありません。家電製品であったり生活用品であっても簡単に購入できます。

しかしちょっとしか使われずもっといいものがあれば購入して古いものは廃棄されます。本来、昔の先祖たちはものを大事に最後まで使い切りました。それを見立てるとも言います。

私が尊敬している鞍馬寺の貫主様も、壊れた茶碗を花瓶に見立ててお花を活けていました。こうやって使えなくなったものを別の形にして活かそうとする。その心の豊かさは私たち先祖たちがずっと大切にしてきた心です。

この心を知る時、私たちは豊かさとは何かの本質に出会えるのです。

心の豊かな人とは、もったいないそのいのちを使い切る人です。同様にもったいないその一期一会のご縁を活かす人です。

二度とないものをもっと大切に使い切ろうとする心は別にゴミを捨てないとか、節約しようとすればいいのではありません。今までお役にたってきたいのちを慈しみ愛おしむ心、いのちが宿っているものへの思いやりと感謝、それは自分がこの世で暮らしていける仕合せを味わっている人生の豊かさです。

心の豊かな人は、その存在が懐かしく感じます。こうやって先祖の心に触れて生きていけることは何もない中でも無尽蔵にある宝に出会っているようです。

子どもたちにも心の豊かさを譲っていけるように古民家甦生を楽しんで歩んでいきたいと思います。

言葉の原型

人間同士は言葉が使えますから言葉と単語を使ってコミュニケーションを取りますが古代は言葉がなかった時代があったといいます。それは今の動物や昆虫、そして植物と同様に単語以外の方法でコミュニケーションを取っていたそうです。

先日もある動物番組を見ていると、サバンナでライオンが空腹を感じて襲いはじめるとき周囲の動物はそれを事前に察知して逃げ始めます。しかし満腹で襲う気配がない時は、その真横で餌を食べるほど安心して素通りしていきます。この察知するや気配を感じるというのは、言葉以外のコミュニケーションとも言えます。

ある説に、人間は言葉を使うようになったのは心を隠すためというものがあります。自分の心が相手にわかってしまうと都合が悪いことで、人間の自我が自分を守り自分を隠すために言葉を使い始めたという説です。いちいち単語を並べては回りくどい言い方をすることで、自分の本心を隠し相手に読まれないようにと工夫するようになったといいます。そのことからコミュニケーションが次第に難しくなって発達して今にいたるというのです。

確かに人間関係での相談のほとんどが相手が何を考えているのかがわからないというものが多くあります。言葉の一端から相手が何を考えているのかを読み合おうとしては、お互いが疑心暗鬼になってしまうのです。心を開いていれば通じ合うものを、心を閉ざすことで読み合わなければならなくなるのです。

相手が何を考えているのかが分からなくなると人は不安になります。特に言葉を信じてもその行動が全く別であった場合、人は人を警戒するようになります。さらには不信になり、何も誰も信用しなくなるものです。

心を開いてくれたと思っても、それが本心ではない場合は後であれはなんだったのかと責め合うことにもなるのです。心を隠す技術として生まれたこの言葉は、人間の自我が創出したものかもしれません。そのことから生きづらくなって苦しくなったようにも思います。さらに今では、文字だけが独り歩きするような時代になっていますから言葉を操り民衆の感情を巧みに利用するようなことも増えてきています。広告や宣伝も言葉を使い過大に表現することで余計に言葉が歪んでいるようにも思います。

鳥や虫のように、そのままに発する言葉は言葉の原型でありその心のままに発する声が本当の声です。本当の声が聴けなくなったのは自分が心を閉ざしたからであり、心の中にある疑念が勝手に相手を歪める原因にもなっているのです。裏表なしの真心からの声が聴けるとき、人は自分が真心の声を発する人になっていることにも気づけます。

自分の心の声のままに従い生きている人はみんな正直です。正直とは素直であり、直は謙虚であるからさらに声なき声まで聴こえてきます。自分の心を開くというのは、声を聴く耳を持つということです。そして自分を守るのではなく、本心を守るという覚悟がいるのです。

人の話を素直に聴ける人は、自分の心の声も素直に聴けるようになります。そしていつも自分の本心と対話し続ける実践が必要です。

一人一人のその言葉の壁が取り払われるとき、安心した居場所ができます。それぞれが自分らしくいられて無理に感情を誤魔化さないでいられるような自然体で安心した居心地の善い場所を子どもたちに譲っていきたいと思います。

社會を創る

人は「できるできない」刷り込みがあると、できないことは悪いことでできることは良いことだと思いこみます。幼少時からできる人になるよう教育を受けていけば、皆と同じことができることが当たり前でできないことは悪いことだと思い込まされます。

しかし個人として一人で生きるのならばできることを目指すのでしょうが、社會全体で見た時はどうかということです。私は社會全体で観た時は、「できるできない」よりも「助け助けられる」関係を築くことの方が重要ではないかと思います。

本来人間は、できるかできないかで自立しているかどうかを評価する前に、助けてもらったり助けてあげたりといった相互扶助の心を持ち合うことができて自立した社會を築けるように思えます。もしも一人で生きていくのであればそういう社会を目指していくのでしょうが、一緒に生きるのであればまた別の社會を目指していくものです。将来、どのような社會を創造するかはその人たちの生き方や行動に懸っているとも言えます。

現在の社会では能力が低くできないことで病み、一人ぼっちになり鬱になっている人が増えています。できるようにならなければ生きられないと思い、能力が他と比べて低い場合はそれで絶望している人もいます。それは「合わない」と思って他の人に力を借りればいいのでしょうが実際は何とかできるまで無理にでも頑張ろうとします。またそういう無理強いしなければならないような空気も社会の中にあります。勝ち組負け組などもそういう空気間から出てきた言葉です。

無理をして頑張れないのは向いていない、合わないということですがそれではダメだと思い込むとさらに辛いことになります。それに人は弱さを出せず弱いことが悪だとし自分を傷めつけもっと強くなれと無理強いをさせていけば心に深い傷が残るものです。短期的には感情的に頑張れますが楽しくなければ長続きはしないものです。それにその傷がうずくたびにもっと強くならなければと発奮しもっと一人で頑張ろうとします。するとできるようにはなっても同じように周囲に無理強いをさせる社会の一員に自分がなってしまうかもしれません。

人は弱さを持てば周囲に助けてと頼めます。そして助けてと頼めることで周囲はその人を助けます。お互いにそうやって頼み頼める関係ができれば信頼関係が深まり、社會は安心した繋がりが生まれます。人間の赤ちゃんが最初は一人では生きていけないのは最初から周囲に助けてもらうことを優先して生まれるからです。

長い時間をかけて赤ちゃんのままでいるのは、それだけ助けてもらったり助け合ったりする力を身に着けるためです。逆に今では早期教育なども流行り、なんでも結果主義で速成ばかりを強いますがそれは個人ではできるようになっても社會がよりよくなるかどうかは別なのです。人間とは人の間と書きますが、これは人と人とが助け合い生きていく動物だという本性を記したものです。

どんな社會を築いていきたいか、それは今の大人たちが実感しているものの中で取捨選択して残したいもの譲りたいものをよく向き合って子孫へつないでいく必要があるように思います。

人間とは社會を創る生き物だからこそ、その社會に人間性は出てくるものです。

引き続き、子どもたちが自然に創る社會を見つめながら学び直しを進めていきたいと思います。

商人とは

今では商人とは何かということが曖昧になり、いわゆる商売をする人たちをみんな一括りに商人と呼びますがかつての商人とはどのようなものだったか近江商人の家訓や心得から深めてみようと思います。

近江商人は、鎌倉時代から昭和にかけて活躍した滋賀出身の商人集団のことを指しました。この商人の理念には「三方よし」という思想があります。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」というものです。

この三方よしの考え方は現在の日本的経営の一つにも例えられ、如何に世間の皆様によって最も善いことになるかを常に考え行動することが商人であると理念を定めています。また「利勤於真」(利ハ勤ルニ於イテ真ナリ)という実践徳目もあり、これは商人の利益はその任務に懸命に努力したことに対するおこぼれに過ぎないとし、勤労を優先し利益はその結果として出てきたものに過ぎないと真心を優先することを大事にしました。

近江商人には、商売十訓というものがあります。ここには近江商人の生き方の事例が紹介されています。

・商売は世のため、人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり
・店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何
・売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる
・資金の少なきを憂うなかれ、信用の足らざるを憂うべし
・無理に売るな、客の好むものも売るな、客のためになるものを売れ
・良きものを売るは善なり、良き品を広告して多く売ることはさらに善なり
・紙一枚でも景品はお客を喜ばせばる
・つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ
・正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ
・今日の損益を常に考えよ、今日の損益を明らかにしないでは、寝につかぬ習慣にせよ
・商売には好況、不況はない、いずれにしても儲けねばならぬ

ここに商人とはどういう生き方をすべきか、そして商人の志すものは何かが記されているように思います。特に近江商人は「陰徳善事」というものも掲げ、人知れず見返りを求めずに徳を積むことを重要視したといいます。

今ではすぐに職業や肩書、人気や流行から評価して人を観ますが、本来はその生き方をする人が何の職業をやっているかとその「人物の生き方」を観ることが本来の働き方の確認なのです。つまり古来の日本的精神、士魂を持った人が商才を使っただけでその風土の日本人の生き方がどうだったかということです。

世の中では働き方の改革と言われますが、その前に自分の生き方がどうなっているのかを見つめることが必要だと思います。単に会社の制度や取り組みを換えればいいのではなく、その根幹にある生き方を同時に換えることが働き方改革の本質だと私は思います。

商人として自分の生まれ落ちた天命の中で、しっかりと日本の心を持って働くということが商いを通して社會を善くしていくということです。その働き方は、常に自他も善く、そして世間も善く、それを喜びにして生きていくということです。

世の中の平和平安の祈りに生きたその生き方、働き方こそ商人の基本なのでしょう。日本の商人の道に私は誇りを思います。

引き続き社業を見つめながら日本的経営を学び直していきたいと思います。

民家甦生

私たちは日本語を用いる日本人ですが、世界には様々な民族が存在します。その民族はその風土と歴史によって独自の文化を発展させ、それをそれぞれの個性として大事に守ってきました。

その中には衣食住をはじめ、宗教、精神、生き方に至るまでそれぞれの独自の価値観を持ち先祖たちの生きざまが私たちの生きざまに色濃く滲み出ています。現在はどこの風土であっても、均一に画一的に同じ環境を用意することで金太郎飴のようにどこでも同じ風景になってきました。それは衣食住に限らず人間の精神も価値観もまた同様に単一化してきています。

これはある文明がそれまでの自然を征服し、どのような自然環境であっても自分たちの文明が凌駕しているという価値観の証明でもあります。この一つの価値観のみで世界を包むというのは、その気候風土の多種多様さを無視して自分が頂点として支配しようという考え方です。支配というものは、一つの価値観にしてしまうということです。そこから人間の中にある差別もまた生まれ、戦争の種を蒔いていきます。

お互いを尊重するというのは、それぞれの価値観を尊重するということです。それは多種多様な気候風土を尊重し、その中で暮らしてきた民族の精神と生きざまを尊重するということです。

民族の個性というものは、支配の歴史で語るものではなく自然との共生で語られるものです。その自然が風土として顕現してきたその土地の民族、それは生物多様性がある豊かで仕合せな永続する社會の実現です。

地球環境においても生物多様性は、それぞれがお互いを認め合い尊重し合う中で生み出してきた「自然の恩恵をみんなで分かち合う自然の仕組み」です。「誰も損することもなく、誰も得することもない世界。」それはお互いが思いやり豊かに地球と共に永遠に存在していくための唯一の方法です。

文明と文化は丸ごと自然そのものとも言え、それは破壊と創造によって甦生していくものです。これは歴史が語るように、病気から回復し健康になり再び病気になるように常に繰り返しを已みません。調和は常に破壊と創造によって行われます。現在、人類の歴史で私たちが知っているのはまだまだ短いものですが、今は時代の転換期を控え長い目で観てもう一度色々とこれからどうなるのかを子どもたちのためにも見つめる必要があるように思います。

しかしそんなに遠い遠い先の将来のことを考えなくても、現在の多種多様な個性、また生物多様性が失われてくればそのうち絶滅の危機に瀕することは火を見るよりも明らかです。だからこそ自分の個性を大切にし、日本民族の個性を大切にし、大切な自分たちの風土を醸成し続けることを已めるわけにはいきません。

私が文化や暮らしを子どもたちに譲ろうとするその根底には、この時代の調和や転換期にどのように風土の歴史を伝承していくかということの一点に由ります。初心伝承とは、民族の初心の伝承です。

原点が失われればそれはもはや個性とは呼びません。

常に原点・初心を忘れず民家甦生を楽しみつつ転じて子どもたちにちゃんと受け渡したいと思います。

心の燃え方

炭を深めていると炭の置き方で火の保つ温度、その燃焼時間が変わってくるのに不思議な感覚を覚えます。炭にも一つ一つに個性があり、その個性をどのように配置すればどのような火がつくのか、そしてお互いが活かしあうのか、大きさも形も密度も異なる炭だからこそその置き方に熟練の洞察力や観察力が必要です。

また燃焼にも、乾いている炭と湿っている炭があります。炭には炭を置く順序というものもいります。何を中心に据えて何を周囲に配置するか、その間合いと関係性の順序がズレれば火は熾りません。

私の尊敬する柔らかく優しく落ち着いたか穏やかな火は、水と和し、心に沁みいる美味しいお湯にしていきます。この穏火を扱えるようになるには奥深い日々の炭実践が必要です。火に同じ火は決してなく、火はその時々の環境、そして心境、また気候、気温、具合によって多種多彩に無限に変化しますからその時々に語り合うように接していくことが大切であると私は感じます。

炭本体からは少し離れますが、火の熱にも熱の種類があります。

これを人に置き換えれば、心の熱というものがあります。この心の熱は同じ熱はありません。怒りの熱や喜びの熱、哀しい熱や楽しい熱があります。このどの熱も燃えるためには必要です。

火はこの変化あらゆるところで発生させています。火とはこの熱量のことで、火を観るように熱を観ればそれがどのような熱を帯びているのかが伝わってきます。人はその熱によって周りが変化していきます、自分がどのような熱を帯びているか、その熱の手入れは自分でやるしかありません。

毎日、楽しそうに喜びの中にある火はとても快活で周囲を明るく朗らかにしていくものです。好奇心に満ちたその火はワクワクドキドキ、子ども心にも火をつけてたくさんの子どもたちが遊ぶように学び、その火を世の中に広げていきます。

怒りや悲しみの火は、対照的に子どものその火を暗く覆いかぶさっていくものです。

どのような火を燃やすか、どのような熱を発するかは、自分自身の心の持ち方にあります。自分自身の燃え方が心の持ち方ですから、心の持ち方を学ぶことは心の燃え方を学ぶことでもあります。

私は炭のことが大好き過ぎて炭のように暮らしていく楽しさを味わっていいます。炭道楽はまだまだ始まったばかりですが、炭から学んだことを実用の仕法へと昇華していきたいと思います。

自分の道、自分にしか歩めない道

今月の致知の社内木鶏の記事で桂歌丸氏と中村吉右衛門氏の対談がありました。その中で伸びていく人と途中で止まる人ということが語られていました。大変印象深い文章で桂氏は「その差は自分自身にある」といいました。「自分自身の勉強の仕方、自分自身の努力の仕方。」であると。そしてこう続きます。

「自分自身のことがよくわかっていないで他人のことはよくわかるという人がいるんですけど逆だと思うんです。他人のことばかり気にしているのは大変な間違い。」そして中村氏は「自分をしっかり見る」と応答されると「ずっと見ていないとダメですよ」と語っておられます。

人間は自分で考えることをやめてしまえば他人軸や世間の評価でばかりにあわせて生きてしまうものです。自分が分からないという人が増えていくのも、自分と向き合うこともしないで他人のことばかりを気にしていることでますます増えていくように思います。自分が自分自身と正対し自分を丸ごと認めることなしに、他人から認めてもらいたいことばかりを求めても自分の道を歩んでいることにはなりません。

自分自身の道を深めていくということが学問を実践することであり、自分の道を往く中でそれぞれ人として大切なことを修得していくようにも思います。

松下幸之助氏に自分の道を歩むことの大切さが語られた詩があります。

「自分には 自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」

自分の道に気づくのは、自分の道を覚悟したときかもしれません。その姿勢が本当に自分が受け容れた道であるのなら、この道を歩ませていただきたいという謙虚な心が定まるように思います。こんなはずではないとか、もっとできるとか、環境さえあればとかないものねだりをしては他人の道を羨み自分自身のことを自分自身で深掘っていこうとしないでは自分自身のことが分かるはずがありません。

自分自身のことが分かるというのは、自分の心が分かってくるということです。自分の心を大切に生きている人は、必ず自分自身のことが結ばれていきます。自分と自身が結ばれるとき、人は他人軸が気にならなくなり本当の自信を持てるようになります。

自信とは何か、それは結果が出てから持てるものでもなく、評価されたからもてるものでもなく、それは自分が自分を信じられるとき持てるようになるものです。そのために信念があり、その信念によって磨かれて磨がれているうちに本物の輝きを放つようになるように私は思います。

自分の心をお座なりにすることがないように、自分の心の声をずっと聴き自分の心を見つめてその心と最良の関係を築くことで自他を認められる人格を育てていけるように思います。

人格形成はまず自分の道を定めることなのかもしれません。

引き続き、人生の先輩に学び直しながら真摯に自分の道を歩んでいきたいと思います。

 

差別の本質

私たち人間は栽培をすることで自然の恩恵を多くいただいてきました。本来は野性にあったものを時間と愛情をかけて育てることで人間に恩恵があるように培養してきたとも言えます。

それは植物に限らず、身近な動物にいたるまで人間が一緒に生きる仲間を増やしては共に助け合い生きていくパートナーを育ててきた歴史であるとも言えます。栽培するといっても、そのものが望んでいるように、そのものが育つようにと見守るように栽培するのはお互いに尊重し合い生きていくという意味で道徳に適っています。

しかし今では大量生産大量消費によって植物に限らず身近な動物までそのものが望んでいないような成長をさせられ、効率優先に速成するように改良され、また抗生物質や遺伝子組み換えなどそのものの本来の姿がまったく別のものにさせられるように粗末にされています。

人間にとって都合が良いか悪いかが全ての判断基準になり、そのものにとっての意思は尊重されていません。これはそのうち人間同士においても必ず同様になっていくように思います。少し前の南北戦争の頃のアメリカでは奴隷制度があり、白人が特別で黒人は白人のための奴隷になっていた時代があります。人権も権利も与えられず、いのちも粗末に扱われていた歴史があります。白人と黒人と差別しお互いに尊重し合わないことで共に人間らしさが失われていくのはとても苦しいものです。

この差別というものの本質は、「自分だけを特別にする」ということです。先ほどの栽培であれば、植物も動物も自分たちのために存在させればいいという考え方です。相手も一緒に育つ存在ではなく、自分たちのためだけにあればいいという考え方。利己主義で自利のみを考える、都合が悪くならないようにそこは別のものとして差をつけるということです。

これは上下関係でも同じく、上と下を分けることで特別をつくるのです。この差別がなぜ問題なのかはお互いが尊重されなくなることでお互いの心が通じ合わなくなります。誰かが一方的に誰かを支配し、誰かが一方的に支配される。これが差別とも言えます。上下が問題ではなく、尊重し合わないことが問題なのです。

人間がごう慢になるか謙虚であるかは、この差別心のあるなしに由ります。

共に歩んでいく仲間で、いつも自分を手伝ってもらっている感謝の存在だからこそ大切に相手のいのちも自分と同じように尊重する。違うから別れるのではなく、お互いの違いを尊重して認め合えば自ずからお互いの持ち味を活かし合おうという境地に達して自然の恩恵を皆で一緒に享受していく仕合せな風土が顕現するのです。

改めてこの差別という刷り込みをどのように取り払いお互いが自由になるか、さまざまな風土改善の方法を深めながら仕法の開発に取り組んでいきたいと思います。

多様多彩

先日、仏教の子ども主体のある保育園で理念研修を行いました。もう十年以上一緒に理念に取り組み、一円対話やその他の私たちの社内と同じ実践を行っていますがその中での発見や気づきはいつも深い感動があります。目指している生き方を共にし、磨き合い高め合う関係は同志そのものです。

この園の保育の方針にはこう書かれています。

「この世界には山があり、谷があり、川があり、海があり、そしてそこにはたくさんの小さな薬草、中ぐらいの薬草、大きな薬草もあり、大きな樹木も、小さな木も、きれいな花も小さな花も、ありとあらゆる草や木があります。そこには、同じように太陽はあたり、雲が湧き、等しく雨が降り注ぎます。その雨はたとえどんな小さな花にも、大きな木にもあまねく平等に降り注ぎます。降り注ぐ雨は平等ですが、小さな花は小さいなりに、大きな樹木は大きいなりに、その受け取る量はまったく異なります。それでもそれぞれが自らの命を精一杯輝かせ、生き生きと成長していくのです。小さな花が大きな樹をうらやむ事も、大きな樹が小さな花を見下すこともいらないのです。仏さまのお慈悲は降り注ぐ雨のように、平等に注がれるのです。」

これは法華経の中にある仏陀の話、「三草二木のたとえ」から抜粋されています。これは私の意訳ですが、「どんな生き物も同じ自然の一部、その宇宙の下、お互いに尊重し合い、認め合っていこう」ということを仏陀が分かりやすく諭してくださっているように思います。

昔から見た目の違い、身分の差、持っているか持っていないかなど人間は自分の都合で違いばかりを見てはないものねだりをしていくものです。持っている人をうらやみ持っていない人を見下したりもします。比較と競争はこの世に争いを産み出していくものです。異質なものを受け入れず、単一で画一化されたものを良しとする風潮が世界に争いの種を蒔いているように私は思います。

今でも本来は異なるものを、みんなを平均化することでまるで同じものであるかのように教育を施しています。最先端の教育ではダイバーシティやインクルージョンの重要性が叫ばれてきていますがその根底には「お互いを尊重し認め合う」という人間として当たり前のことに気づこうとする原点があるように私は思います。

もちろん公平に分けるということは大切ですが、平等とは受け手が平等を感じることが平等ですから公平に分けてもそれは平等ではないのです。平等とは私の言葉では「認め合う」ということです。国の違いを超えて、生物非生物の違いを超えて、当然、大小や貧富、男女、そうやって二元化して分けてきたものを超えて本来は一つではないかと気づくことが平和になるということです。

人間が争わないで生きていく道は、この三草二木のたとえの実践を行っていくしかないように私も思います。自然はみんな異なっているのは、お互いを認め合っているからです。姿形が違うものは、それぞれにそれぞれでいいところがありそれを互いに尊重するから共存共栄の社會が存在していくのです。

最後に、かつて中国を訪問した時に御縁をいただいた慈覚大師円仁の句で締めくくります。

「雲しきて 降る春雨は分かねども 秋の垣根は おのが色々」

それぞれに己の命を全うしていく、その姿に慈雲慈雨はいつまでもあまねく降り注ぐ、そこにどんな命の姿が出てくるだろうか・・・命はその慈愛の真心にいつも偉大な見守りを感じています。私たちが見守ることが大切なのは見守られていることを自分自身がいつも忘れないためでもあります。

子どもたちが多様多彩に自分らしくそれぞれの命を燃え盡すためにも、引き続きこの世の刷り込みを一つ一つ丁寧に取り払っていきたいと思います。見守る実践を心新たに深めていきたいと思います。