国の原点回帰

日本人とはどういうものか、日本の国とは本来どうであったか、それを深めていくのに歴史があります。歴史を観直し、それまでの日本人の精神を調べていくと一つの姿が見えてきます。

時として、「国」というものを考え直すときに何をもって国というのかと考えます。国の定義は、様々で専制君主の独裁国家もあれば民主主義の国家もあります。様々な国家の姿がありますが、本来の国のカタチとは民族の姿であろうとも思います。日本人がどんな民族であったか、それが国の姿です。だからこそ国を語るとき、日本の姿とは何かということを原点から自覚していなければ本来は語れないように私は思います。

この国家というものは、どのように生きてきたかという民族の生き方でありこの民族がいつも優先してきた初心でもあります。それを理念とも言いますが、太古の昔から道が続いておりその道を守るのが私たち子孫の使命とも言えます。それが先祖代々の「道統を継ぐ」ことであり、それを守ることが「国」を守ることであろうと思うのです。つまり、単に国家という今の形式や名前を守ることが国を守っているのではなく日本の古来からの道を亡くさず、日本民族の初心やその生き方を守ることこそが「国」を守ることであろうと私は思います。

かつて五箇条の御誓文というものが明治時代に発行されました。これは改めて日本という国を再認識するために、武家や公家、全国民に対して発信されたものです。そこには日本民族の今までの生き方や、これからの在り方について改めて「国」の姿を再認識しようという意志が見えます。紹介すると、

五箇条の御誓文 

一、広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ

(広く会議を開いて、すべての政治は、世論に従い決定するべき)

一、上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ

(治める者と人民が心をひとつにして 盛んに国家統治の政策を行うべき)

一、官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ゲ 人心ヲシテウマサラシメンコトヲ要ス

(公家と武家が一体となり、庶民にいたるまで、志をとげ、人々の心をあきさせないことが必要)

一、旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ

(古い悪習を破り 国際法に基づくべき)

一、智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇貴ヲ振起スベシ

(知識を世界に求め、おおいに天皇政治の基礎を盛んにすべき)

ここから日本民族が合和し、衆智を集め志を優先し心ひとつにして原点回帰するのだというようにも感じられます。これは私たちの先祖たちがどのような「国」のビジョンをもって取り組んできたか、私たちの民族が「国」と呼べるものがどのようなものであるかを再認識できるように思います。このように「国」を原点回帰したうえで次に今の日本憲法が策定されるのです。

当時の吉田茂首相はこう言います。

「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」

つまり「御誓文の精神こそが日本の国そのものの本来の姿である」ということなのでしょう。日本人として守るのは、領土やGDPを守ることもいいのでしょうが本来の日本人というものをなくさないようにしていくことが国を世界で存続させる何よりも大切なことだと思います。グローバリゼーションによって、もはやどの国も同じように十羽一絡げになってきていますが改めて原点回帰することの大切さを感じます。

ますます国境が取り払われ、世界の中の一つの民族として活動するときが近づいてきています。私たち日本人の民は、これから世界の中でとても重要な役割を果たすように感じます。だからこそ日本人であることは、私たち自身だけではなく世界にとっても尊いことになっていきます。

これからも日本の心を持った人こそが最小単位の国であるとし、その国を大事にしていくことが国民を大事にしていくことだとして、子ども達に日本の精神を譲っていきたいと思います。

ナレッジマネジメント~活人仕法~

組織において情報共有の仕方をみればその組織の大事にしていることが観えてきます。例えば、スケジュールで共有する組織、思いやりで共有する組織ではその進め方が異なることはすぐにわかります。結局は、情報共有とは人が一緒に働く仕組みであり、一緒に働くときに何を優先して働くかが関係しているからです。

情報共有のことを英語では「ナレッジ・マネジメント」と言います。この「ナレッジ・マネジメント」はPF・ドラッカーが知識社会パラダイムにおける経営改革手法として紹介されています。次の社会においては、知識だけではなくその知恵を集めそれを具体的な日々の経営に活かす時代に入るということです。これは人を活かす経営か、人を殺す経営かと言い換えれるかもしれません。

人は単なる大量生産大量消費のモノではなく、人は智慧を創造するいのちであるという考え方でものと見直すと如何に一人ひとりの衆知を集めてその知識を智慧にまで高められるかということにかかっているように思います。

神話の中にも、何か問題が発生したとき八百万の神々が集まり話し合いをして智慧を絞り出して話し合って解決する場面が何度もあります。例えば、天照大神が天の岩戸に御隠れになったときも神々が皆で火を囲み車座になって衆議をしそれを集めて智慧にまで昇華して物事を解決しています。

誰かが専断専行するような独断と独占、独善的であることを良しとはせずあくまで衆議・衆知を集めることにこだわり「智慧を重んじた」ことが先祖の生き方として遺っています。そのあと、聖徳太子が出て「和をもって尊しとせよ」といったのは日本で明確にナレッジ・マネジメントをはっきりと示したように私は思うのです。

私たちは先祖代々より他を尊重してよく傾聴し共感し受容し、それができれば智慧になるというようにマネジメントの在り方を実践してきた民族とも言えます。今の組織でよく情報共有がうまくできなくなった理由は、その初心を忘れて不和になっているからかもしれません。不和とは偏った意見、誰かの意見だけに従う姿であり円満に事が進むやり方ではありません。

一円観のように、すべてを丸ごと傾聴し思いやることですべて善いことになっていることや聴けばいいことになっているというような安信した状態でいることで和は尊ばれるようにも思います。

そしてその和はすべて真心や思いやりによって行われます。情報共有は思いやりである理由は一緒に生きている仲間だからこそ、相手のことを思いやることで感謝が結ばれ絆が産まれ御互いに助け合うことができ衆知が集まり衆知を活かし、そして人々の持ち味を活かすことができるように思います。

持ち味を活かすには相手を思いやりそれぞれの考えを聴く必要がありますからよくよく話を聴く組織、つまり思いやりが溢れている組織ほど最高のナレッジ・マネジメント(活人仕法)ができていると私は思います。

引き続き、子どもの現場に働く大人たち一緒に先祖代々から伝承されてきた仕組みを温故知新し未来へと継承していきたいと思います。聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

日本刀の精神

先日、日本刀用語の中の「付け焼刃」について書きました。他にも似た言葉で「にわか仕込み ・ 一夜漬け ・ 間に合わせ ・ その場しのぎ」があります。付け焼刃は剥がれやすいやメッキが剥がれるなどもそうですが、本当の実力を身に着けなければ乗り切れないということに使われます。

しかしではなぜ付け焼刃が横行するのか、それを深めてみると今の教育の在り方や、誤魔化して済むような世の中の風潮も観えてきます。結局は、生き方を決めず覚悟を持たないでも生きられるものが溢れる豊かな時代、精神を如何に厳しく磨き鍛えるかということが求められているということです。

例えば、一夜漬けという言葉で思い出すのは学校のテストです。テストさえ乗り切ればいいのだから、一日、二日覚えていればその場しのぎで乗り切れたものです。他にも、その場さえ乗り切ればというものは沢山溢れています。特に器用な人やテクニックが高い人は、能力でその場を乗り切ることが出来てしまいます。一度、そうやって楽を覚えてしまうと次からまた楽な方法で乗り切ろうとするものです。逆に不器用な人は、それができませんからいちいち時間をかけて丁寧に愚直に取り組んでいくものです。

そのうち社会に出てからも、調子よく世渡りをする人と不器用だけれども真摯に世の中に貢献する人に分かれます。このことを考えるとアリとキリギリスの寓話を思い出しますが、結局は「己に克ち日常を怠らないこと」に尽きるように思います。その場しのぎの逆は平素を正すことだからです。何かあった時だけ乗り切ろうとするのをやめるのは日頃をキチンと正しておけばその時がきてもいつも通りにやればいいからです。

付け焼刃というのは、日頃の鍛錬よりもその場さえ乗り切ればで研ぎや付け足し刃をつけます。しかしその刃はすぐにまた切れなくなり、ただのなまくら刀になります。この鈍刀というのは、だいたい大量生産で造られたものです。本当の日本刀は、折り返し鍛錬によってはじめて切れ味の光る唯一無二のものが仕上がっていきます。

教育がもしも大量生産をしてしまえば、人間もまた鈍刀のような付け焼刃のその場しのぎばかりが育ってしまいます。本来の人間に必要な素養は、刀を打つ鍛冶師のような心構えで取り組む必要があるように思うのです。

単に見た目が日本刀であればいいなんていう刀を、誇りを持つ鍛冶師は打つはずがありません。鍛冶師がブレれば研ぎ師がブレ、その他の鞘師、白銀師、塗師、柄巻師、装剣金工の関係者もみんなブレていきます。常にみんながブレずに日本刀を造るからこそ日本刀の精神が宿りそして伝承され後世に遺るのです。一本の日本刀が仕上がるまでにどれだけ本気で皆がそのものを造り上げるか、そこが何よりも大事なのです。

鈍刀に仕上がってしまった刀は、見た目は立派でも切れ味のない実戦現場では使えないものです。今の時代、それで苦しんでいる大人たちが本当に多い世の中になったような気がしています。こうなるのも周りの人たちがどれだけその人を信じて本気になって正直に育ててきたか、見守ってきたかではないかと私は思うのです。

言い訳をしない、正直に生きるということ一つも日本の心であり大切な徳目の一つです。そういうことを怠り日常の鍛錬を積もうともしないで、いきなり目の前の出来事を一時しのぎ、その場しのぎ、一夜漬けで乗り切ろうとするその生き方から修正しなければなりません。

日本刀の中に見える私たちの先祖が大切にしてきた生き方から本来の大和魂とは何か、日本人の在り方とはなにかを学び直していきたいと思います。

暮らしの道具

昔の生活道具を身近で使っていると、その当時の日本文化に触れることができます。頭で考えるのではなく、直接触れていくことでどんな暮らしをしていたのかが直観的に感じ取ることが出来ます。今の時代は何でもスイッチ一つですぐに簡単便利に何でもできた方が幸せという価値観ですが、昔は手間暇かけて面倒でも充実している方が仕合わせという価値観だったようにも感じます。

例えば、竈という昔の生活道具があります。私の自宅では古鉄の羽釜を用いて炭でご飯を炊いていますが、出来たご飯は本当に格別の味がします。今どき面倒ではないかと思われますが、炭を扱う技術さえ身に着けばかえってガスよりも分量に対する調整ができたり火加減も自由自在で美味しいご飯ができます。火吹き竹で微調整して炊くご飯は美味しいだけではなく楽しく、食べるころには心が充実しています。単に満足するだけのご飯ではなく、充実するためのご飯を食べられるのもまた昔の道具がそれを演出してくれているからです。

この竈は50年前くらいまではどの家庭でも使われていたもので、電気炊飯器が登場してあっという間に見なくなりました。簡単便利に電気でできるご飯は、急速に発展し消費する社会では邪魔者になったのかもしれません。もともとこの竈は、おくどさんとも呼ばれ、約1500年前頃に朝鮮半島から登り窯や置き竈とともに伝来したとも言われています。これにより須恵器の生産もはじまり、茶碗なども一緒につくられるようになりました。

置き竈ができ、後に火鉢が開発されてそれからずっと日本人の暮らしを下支えしたパートナーだとも言えます。炭は火鉢と一緒に発展繁栄してきましたから、我が家の炭を中心とした暮らしでは火鉢と囲炉裏が大活躍してくれています。

毎朝、薪を入れ炭を熾し、井戸水を汲んでご飯を炊き隣で味噌汁をつくりました。漬物をおかずに朝餉を食べて残ったご飯はおむすびにして味噌を添えて野良仕事に出ていきます。夜になればまた囲炉裏を囲み一日のことを振り返りながら月明りとともに休み眠ります。

このゆったりした一日の暮らしの中で、心身共に充実した日々を過ごしていたのが道具から伝わっています。生きているもの、いのちがあるものは、いのちの時間を持っています。それは今のスケジュールのような時間ではなく、悠久の時間です。循環にははじまりも終わりもありませんからその時間の中にいることはとても充実するように思います。心の充足もまたそこに在るように感じます。

一日のはじまりと一日の終わりに、循環を感じることは仕合せを味わうことです。引き続き子ども達に遺していきたい生き方としての昔の生活道具、暮らしの道具を深めていきたいと思います。

生き方言葉

日本語には、職人用語のようなものが沢山あります。大工用語であったり、鍛冶用語であったり、それぞれに道を深めた職人さんたちが鍛えあげた言葉があります。それは生き方と深く関連しているようで、その言葉は私たちの生活の中でも大事な場面で使われることが多い様に思います。

昨年から鐵や刀を深めていく中で鍛冶用語や研ぎ用語、日本刀の言葉に出会う機会が増えました。特にこれらは鍛錬用語のようなものに溢れていて、自分を鍛え磨き上げていくことに通じる言葉が多く己の我に打ち克つための言葉が溢れています。

日本人の先祖たちが大切にしてきた武士道は、如何に克己復礼するかに尽きるように感じます。かつての先祖は徳を重んじ、その徳に恥じない生き方をすることこそが日本人の心であり日本人の鑑であるとしています。それもかつての古の道具に触れたり、先祖の伝承してきた文化に触れると実感します。今では文化が失われて、使っている言葉も次第に忘れ去られていきますがもう一度、その言葉からその意味だけではなく生き方を感じ直して子ども達に伝承していきたいと感じます。

例えば、日本刀の言葉では「土壇場・しのぎを削る・切羽詰る・単刀直入・身から出たサビ・懐刀・伝家の宝刀・反りがあわない・真打・元の鞘に収まる・一刀両断・諸刃の剣・抜き差しならぬ・真剣勝負・つばぜり合い・一太刀あびせる」等々、沢山の言葉があります。これらも日々のやり取りの中で、日本刀を用いた生活の中から出て来た言葉です。

何を大切にしているか、何をすると失敗するか、その教訓や回訓を言葉に遺していたとも言えます。

例えば、「付け焼刃」という言葉があります。

これは本来「焼き入れ」という作業をすることで日本刀は強くなり切れるのですがその正式な焼き入れを行わずに軽い研ぎだけで模様をつけては刀紋がついたように見せかけることを言います。このことからたとえ一時しのぎその場しのぎではなんとかなったとしても、にわか仕込の一時で間に合わせたように装った勉強や技術では通用しないよ、つまり「付け焼刃」ではダメだという教訓なのです。

これは今の時代、すぐに勉強して形だけの技術を教えてしまう学校の勉強に似ています。付け焼刃では本番の世界では役に立たず、その道を深めて鍛錬・練磨する必要があります。宮本武蔵の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」であり、朝鍛夕鍛して本焼き入れを行ったものだけが本物の強さ、本当の切れ味を持つように思います。仕事も同じですぐに結果を出そうとして付け焼刃の知識や技術を得ても本当の意味で相手の御役に立とうとするのなら「焼き入れ」はとても大切な鍛錬になるのでしょう。

今は利便さ楽さを追求し鍛錬をすることを避けようとする風潮もあります。できれば鍛錬せずにできるための勉強をし知識を持とうとしている人も増えています。しかし古来からそれではならぬと武士道では戒めそれを言葉に遺しているのかもしれません。

鍛錬の反対は怠け癖なのかもしれませんが、豊かな時代だからこそこの鍛錬は非常に価値があるように思います。松下幸之助さんがこういう言葉を遺しています。

「暮らしが豊かになればなるほど、一方で厳しい鍛練が必要になってくる。つまり、貧しい家庭なら、生活そのものによって鍛えられるから親に厳しさがなくても、いたわりだけて十分、子どもは育つ。けれども豊かになった段階においては、精神的に非常に厳しいものを与えなければいけない。その豊かさにふさわしい厳しさがなければ、人間はそれだけ心身ともになまってくるわけである。」

人は五感をフル活用していなければそのうち怠け癖がついて次第に人間の本能が減退してくるものです。

生き方まで付け焼刃にならないように、日々の鍛錬を怠らなかった先祖たちに見習い日々に生き方言葉を磨き、刻苦勉励に勤めていきたいと思います。

野生の味~いのちの仕合せ~

先日、自然農園の青梗菜を収穫してお客様に持参しましたがとても美味しいと喜んでいただきました。この青梗菜は形こそスーパーで売られているものよりも小ぶりですが、どの方が食べても美味しいと喜ばれます。

この美味しいとは本当はどういうことか、改めて深めてみます。

自然農園の野菜は、雑草と一緒に混植されているものです。種を蒔く時期と最初に育つ時期だけは丁寧に見守りますが、あとは自然に任せて育つのを待っています。育つ場合もあれば、大きくなれずにそのまま周りの雑草たちの方が強く抑え込まれて育たない場合もあります。しかし周りの雑草と一緒に育ち、混植されても育ってくれた野菜はまるで野草のような滋味があります。食べてすぐにわかるのは、自然の中で育ったと感じるあの野生の味です。

今の時代は、農薬や肥料、もしくは様々な農業技術をつかって甘くしたり辛くしたり調整して育てています。人間の都合にあわせてそのものを造っていますがそこには野生の味はありません。すべて加工されてるものです。お菓子もそうですし、料理もそう、素材の味ではなく料理の味です。

しかし自然の中にあるものはすべて野生の味があります。例えば、海で獲れた天然魚や、山で獲れた山菜などはすぐに食べれば美味しいと感じます。この美味しさは加工された美味しいではなく、野生のままだから美味しいという感覚なのです。

本来、人間は美味しいという感覚を持っています。

これは舌さき三寸で味わう味とは異なり、いのちそのままの味を味わう味を知っているということです。これは舌ではなくカラダ全体で感じる自然を味わう器官が備わっていることの証明であり、そこで感じる「美味しい」はあるがままであるいのちや個性を歓んでいるのです。

できる限り、野生の味を味わえるように昔の道具たちは造られたとも言えます。今、使っている日本刀包丁や、砂鉄の鍋、羽釜、陶器、炭などもそのものの素材のいのちを壊さないような道具たちです。その道具たちの持つ偉大さは、いのちを壊さないままに料理できることです。

ここから考えてみると、やはり本物の美味しさというのは「野生の味」であることに気づきます。そしてその野生の味は、そのままであることを邪魔しないことによります。私たちが社業にしている「子どもらしく子どもの発達を邪魔しない」というのは、この野生の味を育てていくということです。

自然農も同じく、美しい暮らしも、すべては子ども第一義の理念を実践していくのと何も変わりません。そのままであることの美しさ、あるままであることの深い味わい、こういうものを私は「美味しい」と定義するのです。人間の都合で教育され、人間の都合で加工され、あるがままであれないものが果たして「善いもの」なのかと思います。料理すればするほどにまずくなったでは本末転倒です。

もちろん加工がよくないといっているのではなく愛情や真心を籠めたかどうかもいのちは感じますからそれもまた滋味を味わう一つです。そしてこの愛情や真心こそが野生の見守り、自然と同じ心の姿です。

野生の感性は自然から遠ざかることで離れていきます。私たちは自然に磨かれていのちは高まっていきますから、自然の姿、あるがままでいるのは美しく味わいのある人生を送れるように思います。あるがままでいい、そのままでいいと丸ごと個性を認めるような環境はそのものを野生のままに育てていきます。野生の味の美味しさはいのちの仕合せなのです。

引き続き、子どもの発達を邪魔しないような道を伝え弘めていきたいと思います。

個性の尊重~見守る意義~

人は一緒にいて安心できる人と一緒にいて不安になる人がいます。一緒にいて安心できる人は、いつも自分の素のままをさらけ出していて何をいっても大丈夫という感情のオープンさがあります。しかし一緒にいて不安になる人は自分の素性を包み隠していることが多い様に思います。本当の自分を見せないでいるというのは、周りからすれば不安です。なぜなら何を感じているのか何を思っているのか、いつも気にしなければならない存在になるからです。いつも黙って何もしゃべろうとしないで表情も変えない人の前では人はなかなか安心することができないのです。それはその人が何を思っているのかわからず、相手の気分を害するのではないかと心配になるからです。

相槌を打ってくれる人や、同時に自分もこう思うよと相の手を差し出してくれたり、そうだねと共感してくれる人は感情や気分を受け止めてもらえる安心感があります。しかし無表情で何も言わない人は感情や気分が分からずこちらはいつその人が気分が悪くなって怒り出すのではないかと気になってしまうものです。「感情は心の表情」とも言いますから、感情を出さない人は心が何を思っているのか全く分からないのです。

例えば、相手を安心させる場面でよく映画などでは「武器を持っていないよ、攻撃する気はないよ」と両手を拡げて裸になり笑顔で相手を安心させる場面があります。はじめて会った人や、海外の人、得体のしれない存在に出会ったとき、自分は大丈夫な存在だということを自らが発信します。するとその様子をみて相手は安心して近づいていきます。その後は、関わり合いによって心の距離も近づいていきます。これは動物との関わりでも同じで、最初は警戒していても身の危険を感じなければ次第に打ち解けて安心している状態になれば自分をさらけ出せます。

一人ひとりが自分をさらけ出すことができれば、その場所は安心できる居心地が善い場所になります。居心地が善いというのは、自分の感情や意識と密接にかかわりあっています。最近ではEQといって心の動きを自ら認識することで、社會の中で自分らしく持ち味を発揮することの大切さが改めて見直されています。このEQとは、「Emotional Intelligence Quotient」のことで「こころの知能指数」と訳されます。アメリカのイェール大学のピーター・サロベイ博士とニューハンプシャー大学のジョン・メイヤー博士によって開発されたものです。

具体的には自分の「今の感情の状態」を自己認識しそれを自らでコントロールすることができれば自分にとって適切な行動をとることができるし前向きな感情に転換してその行動をつくりだすことができる。また相手の「今の感情の状態」を認識することで相手に対して配慮できる言動がとることができ、対人コミュニケーションが円滑になるということを訓練する仕組みです。人間は必ず対人関係のスキルが必要になりますから、今はこのEQを学ぶことによって周りとの対話や関係を円滑にしていくよう訓練している人も多いと言います。

結局は、他人は「感情」と「心」とのバランスをどう保つことができて自他を安心・安定させているかが対人スキルということになるということです。感情や心は御互いの距離が近くなればなるほどに隠せなくなっていきますから、感情を押し殺している姿は周りもその姿に不安になるものです。このままでは隠せなくなると思ってはより強く心の壁をつくればつくるほどに、周りの不安が増大します。そのことからさらにその場は居心地が悪くなり、対人関係がギクシャクして周りがギスギスしていくものです。

人々が心の壁を取り払えば、その場はとても居心地がよくなります。場の雰囲気を変えるには、心の壁を取り払う風土を醸成していくことです。それは自分から何を言っても大丈夫という雰囲気でいることや、周りに何をいってもいいですよという雰囲気を発信していくことです。いいかえれば、自分の価値観や思い込みで推測し合うような疑心暗鬼をやめさせ、思いやりで許し合える信頼関係を築きそれぞれの個性を尊重することです。

個性が認められている場は、その人がそういう人でいいと認めています。こうでなければならない、こうあらねばならないという固定観念に縛られることもなく、そのままの自分でいてもいいということが理念として明確になっています。

画一に抑え込まれて感情を押し殺すのではなく、感情をさらけ出してもいいから周りを思いやって御互いに安心した場所をつくろうとするのが個性の尊重でもあります。個性を潰されてきた人は、感情を出すことを恐れます。それはその感情が他人を傷つけ自他を責めて後悔した過去を持つからです。

人間が傷つけあわないでいられるように、如何に思いやりのある社會にし個性を尊重するか。それはこれから世界が互いの多様性を認め、御互いの持ち味を発揮していくためにも見直さなければならない何よりも重要なことだと私は思います。

私が「見守る」ことにこだわるのも、この個性の尊重に強く関係するからです。人間の幸不幸は対人関係が中心です。人間が一緒に生きていくことこそが人間の仕合せを決定づけているともいえます。個性が潰されて不幸になっている人が如何に多いか、、これにいつも義憤を覚えます。

この先、平和が続き地球の子ども達が子どもらしくいられることを邪魔しない世界を創造するためにも、まず大人が今の状況を改革していくことだと思います。

さらに事例を深め、風土改革の仕組みを開発していきたいと思います。

 

 

グローバル人材~生物の本質~

昨今、グローバル人材という言葉が飛び交っています。文科省をはじめ、世界で通用する人物を育成するということでアクティブラーニングなどという言葉も流行っています。私は当たり前のことを何をいまさらと思っていますが、結局は多様性を受け容れる感性を持っているかどうかであると思っています。

そもそも生物多様性という言葉があるように、生物=多様なのです。それをわざわざ画一であると教え込んできたのは教育がそうしてきたとも言えます。「こういうものだ、こうあるべきだ」と刷り込んでは正解を与えて正解を探すことを繰り返しされてきた人は頭でっかちになって感性を磨きませんでした。感性を優先する人たちは当然答えはないことを知っていて質問をして訊くこと、つまりは無から創造することを優先して直感的に理解していきます。しかし知識や正解を優先する人たちは答え探しに終始費やし正解を求めては無理に正解に合わせて整合性をとっていきます。

本来この世の中は多様であるのは、自然界のように無限に組み合わせが存在するからです。その時々に応じて如何に持ち味を活かして組み合わせを存在させるか、言い換えれば人との出会い、つながりの多様さが新たな未来を産み出すように多様性があるからこの世の中は調和しさらに広がっていくのです。

多様性を失い画一化してしまうことの背景には、知識で分別し「こうでなければならない」という思い込みが強くその知識で分別した立場や役割通りで「なければならない」という先入観や刷り込みを取り払うことができないからです。枠内であることにこだわり枠内であるようにと枠を設けるのです。

例えば、上司はこうでなければならない、夫はこうでなければならない、先生はこうでなければならない、親子はこうでなければならない、男はこうでなければならない、会社はこうでなければならない、あらゆる「なければらない」に縛られます。実際は頭で考えた「なければならない」通りにいくように周りもその人も必死になります。これを自然にまで拡げて、犬でなければならない、魚でなければならない、花でなければならない、稲でなければならないと思い込み、こちらの思い込みで接しているから自由度がなくなく創造性も発揮されず画一化されていくのでしょう。一つの価値観に無理やり合わせて従わせていくというやり方は自然界の本来の姿からほど遠いのです。

自然を観察するのには知識で行うのではなく、感性で行います。なるほどこうなっているのかというのはほとんど直観を用いて全体を掴みます。生きていくと言うのは、自然界で生き残るための感性です。「生き残る感性」がある人はグローバル人材とも言えます。その生き残る力は自然によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。学力というものの本質もまた人間が勝手に定義した学力ではなく、自然界の生き物たちが本来本能でもっている学力にすれば多様性のこともまた理解できると思います。

その上で私が思う教育の在り方は、もっと自然に沿って自然から学び直す感性を磨くことです。知識ばかりを使って感性を使わない生き方をやめ、感性を使ってその上で智慧を知識で整理していけばその人物は多様性を受け容れることができるグローバル人材になっていくでしょう。

昨年の海外視察から観えてくるのは、感性を研ぎ澄ます大切さの再認識です。子ども達のためにも、自らが証明するためにあらゆる実験と実践を積み重ねていきたいと思います。

自分を磨く

人は自分の慾に打ち克つことで覚悟を磨いていくことが出来るように思います。最初から覚悟がある人がいるわけではなく、何度も何度も修練を積み重ね次第に自我欲を手放していく中で信念が醸成されていくように思います。

つまり何より大切なのは己に克つことで自らを「磨く」ということです。磨けば磨くほど光って観えるのは、真意や信念、心がはっきりと顕れるからかもしれません。覚悟のある人の話を聴けば、かつて過去にその人が大変な出来事を乗り越えて挑戦し大切な目的や理念を優先して自らに打ち克った歴史があります。其処に至るには何度も勇気を出して己に打ち克つ挑戦の磨き痕がその人に残っています。

人は嫌だな、辛いな、面倒だなと、すぐに向き合うことから避けようとし己に克つことから逃げようとします。その理由は、不安や煩い、憂いと向き合いたくないからです。その時、不安が嫌だからといつも逃げていたら覚悟はいつまでも磨かれることはありません。己が先に立ってしまい、砥石や鑢で磨くのがメンドクサイと遠ざけていたら磨きようもありません。

実際には、人間は生きていたら必ず出来事は起こります。もしも一念発起して目的をもってしまえば、それまでは避けて通れた問題も避けられなくなってしまいます。それが嫌だからと何でも適当に流していたらそのうち逃げ癖が沁みついてしまうものです。言い訳ばかりをしては、不安と向き合おうとしない、何でも嫌なことは先延ばしでは覚悟も何も磨く前の段階で終わってしまいます。

まず覚悟を決めるというのは、何を裏切れないか、何を大切にするか、何を最も人生の優先順位にするのかを自覚することです。自覚したらあとは自然発生してくる日々の選択を自らが苦しい方を選べるか、自らが大変な方に挑戦するか、不安と向き合ってでも勇気を出して実践できるか、そういう自然の砥石や鑢で自分磨きをしていくのです。

覚悟という字は、どちらも「さめる・気づく」という意味を表しています。つまり目が覚めるかということ、己という我を手放しその中の心に気づけるか、自分の信じる道に気が付くかということのように思います。

いつも自我慾に負けて、真我が出てこない日を送っていたら本当の人生の意味や自分の真実の価値に気づかないままこの世を去ってしまうかもしれません。自我を満たす日々ではなく、己に克って真我に生きるということが自分を磨くということの意味のように私は思います。

そして人は常に大切なものを守りたいと行動するとき強く優しくなっていくようにも思います。人が真我に目覚め、真我のままに真心を実践するのなら世の中は平和安泰の世界、福世かなものに変わっていきます。

自分が覚悟を決めて行動すれば、周りが仕合わせになっていく理由は真我で人に接し御互いに覚悟を磨き合うやしていくことができるからです。そしてその人によって勇気が沢山いただけて自分も挑戦する勇気に変わっていくからです。人生で本当の仲間に出会うのも自分自身の覚悟ですし、本当の人生に出会うのもまた自分の覚悟です。

まずは大切なものを裏切らないように自らを律して取り組んでいく日々を内省によって高めていくことのように思います。自分に都合の悪い方、自分が苦労する方、自分が労苦を感じる方を楽しんで選べるように克己の工夫を味わっていきたいと思います。

子ども達が将来、自分らしく自分の天命に目覚め立命できるように、自他一体に人々の目覚めに寄り添い見守れるよう精進していきたいと思います。

 

 

 

灯りの余韻~炭の仕組み~

炭を使った暮らしをはじめてみると、如何に炭が温もりを与えているのかを実感するようになってきました。一日のはじまりと終わりに炭を熾しているだけで時から離れ自然に近づいていきます。

そして炭はコツを掴めば、火の調節もとてもしやすく便利な現代の道具よりも微調整がききます。それに一度火が入れば、小さな火が残りますからいつでもまた熾し直すことができ火を絶やさなければいつでもまた復活するということにも気づけます。灰も大切な役割をし、燃え尽きてなおその火を守っています。この炭で沸かす一杯の御茶は本当に格別で生きている仕合わせを感じるほどです。

この炭というものの温もりは、普通の薪やガス、石油で燃やす火にはないものです。それらの火は燃え盛る太陽だとしたら、炭の火はそれを受けて光る月のようです。月はその光の中に温もりを宿します。同じように炭にもその炭の中に温もりが宿るのです。

炭に火が入れば、炭のいのちが燃え始めます。その炭のいのちは透明な灯りを自らの呼吸で点灯させていきます。その点灯した灯りが周りを暖め、同時に私たちに温もりを感じさせます。この優しく包まれる灯りの中で、私たちは一日のはじまりの意味を知り、一日の終わりの意味を感じます。この炭が産み出す「灯りの余韻」は、心に深い味わいを与えてくれます。

人生は一瞬です、そしていのちは熱を帯びてはその熱が次第に冷めて消えるか最期には灰になっていきます。血液が赤く体温を維持するために呼吸するように炭もまた赤く温もりを維持するために呼吸をします。火吹竹で息を吹き込み元気になる炭のように、私たちもまた息をして元気になります。

火に空気の中の何かが反応することで、温もりというチカラが出て来ます。その自然が熔け合う瞬間に私たちは灯りの余韻を感じて心が癒されていきます。火は人の心を投影します。その人の心の安らぎは火の中にも顕れます。炭のない暮らしは人心の荒廃を進めているように私には思えます。これは昔からの稲作の仕組みがなくなって協力しなくなったように、炭もまたこの人の手で炭を扱う仕組みがなくなって温もりが失われてきたようにも思います。

灯りの余韻を大切に味わう心のゆとりを炭と一緒に育てていきたいと思います。

子ども達のためにも、自分が灯を消さないように実践を大切にして見守っていきたいと思います。