感性を磨く2

昨日、感性ことを書きましたが「直感」や「勘」はコツを掴んでいくという言い方もしましたが自然に触れ自然の智慧を会得することでその感性もまた磨かれていくように思います。

身近な自然物を使い、道具を一つ一つ拵えていくことは自分自身の中にある本能や感性を呼び覚まし研ぎ澄ますことになっていくものです。

先日、島根にて注連縄づくりの伝承に参加する機会がありました。稲藁を束ね、ねじり、巻き、そして結ぶことを取り組む中でチカラの入れ方を学びます。一つ一つの道具の中にはとてもシンプルですが何をすれば自然のチカラを活用できるのかをカラダを通して体験で直感して体得していけます。

これは五感を使って自然のチカラを活用し道具を創る中で身に着く智慧とも呼んでもいいのかもしれません。

かつて日本民藝館を設立した「柳宗悦」に「見て知りそ、知りてな見そ」という言葉があります。これは知ることを先にして見ることをあとにしてはならないという意味です。よく「考えるよりも感じろ」という言葉もあります。知識ばかりを先に掴み、そのあと智慧を掴もうとするのは無理なことです。

本来は智慧があってそれを知識で深彫っていくことが学問の楽しさであり、やってみて実践し行動してみて内省し反省し改善することが「コツ」を会得していく使命の活かし方のように思います。

今の時代は、知識ばかりが豊富で知っていることや分かった気になってはそれが安心だと勘違いしている人がいます。不安の解消と絶対安心とは異なるものであり、同じく信じる世界は知る世界とは異なるものです。人はなかなかそれまで身につけてきた知識を手放そうとはしないものですから、感じるチカラはますます減退していきます。

その柳宗悦の日本民藝館に「直感」の大切さについて語られている文章があるので紹介します。

「自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳は「民藝美論」と呼ばれる独自の理論によって説いた。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想になぞらえて、「美の他力道」という言い方もされる。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすものであった。柳は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることである。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となった。」(日本民藝館HPより)

この刷り込みのない無我の境地のすがたは、透徹された素直さによって顕れるように思います。素直さというのは人間の能力でもあります。どれだけ素直に自分が物事を直感できるかは、日々の暮らしの中で感性を磨いていく脚下の精進に由ります。太古の昔から無駄の一切ない完全体の美しいものを直感する感性や、素晴らしいものを産み出す感性は、自然の美意識や自然の活用技術によって会得していくように思います。

感性を磨いていくことはもっとも大切な人間力を高める方法かもしれません。

かつての親祖たちが産み出し創ってきた道具の中に、日本人の中にある感性の原点、自然美を私は感じます。引き続き子ども達に日本の中に遺る自然美、そして日本人の心に宿る美意識を伝承してその魂を譲っていきたいと思います。

感性を磨く

人間には「感性」というものがあります。

この感性とは生きていく上でとても重要であり、その感性が時代の先を読み、周りの人々を倖せに導いたりします。つまりはリーダーの資質の中で何よりも大切な能力であるように思います。そしてその資質には、素直さや自然環境を通して学ぶという謙虚さがあるように思います。

最澄の言葉に「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」という言葉があります。自分をどのような環境に運ぶのか、リーダーは常にその感性を磨くための精進を欠かすことはありません。私が風土を探訪して山に学ぶのもまたその直感を研ぎ澄ませていきたいからです。

人は本来、環境から学ぶ生き物です。その環境からカラダで学び、「勘」や「直感」というものを会得していきます。それは知識ではなく智慧であり、経験や経年を積んだ中で磨かれた感性のことです。よく「直感」で物事を決めていく人は、頭が良いわけではなくその人は磨かれている感性を持っているということです。そして感性とは鈍るものですし、感性とは磨くものですから感性に対する精進を怠るなら当然「直感」もまた冴えなくなってきます。

そしてこの「直感」や「勘」というものは具体的な「失敗の質量に比例する」ように思います。つまり、体験をし失敗をし何度も何度も繰り返し改善する、その勇ましい挑戦と、七転び八起きの逞しい生き方によって次第に磨きがかかり研ぎ澄まされていくのです。感性を使ってるというのは言い換えるのならば「五感をフル動員」して自分も持つ全てを出し切り使っているということです。その集積で得た境地のことを「コツを掴んだ」とも言います。

つまり心を澄ましたり、魂を磨いたり、真心を盡したりという行為は全て感性が関わります。その感性は機械やロボットでは持ちえないチカラであり、人間が人間たる由縁でもあります。そういう感性を磨いていくことは、自然の一部である自分自身の本能を使っていくことでもあります。

今の時代はすぐに知識ばかりを優先し、直感や勘というものを少し見下げているような風潮があるように思います。しかし本来は、自然の中で生きている私たちに感性が磨かれていなければ実際に悠久の永い年月に生き残ることはできなかったように思います。

敢えて厳しい環境の中に身を投じたり、敢えて苦しい環境の中で手間暇を惜しまないのは、その環境の中で感性が研ぎ澄まされていくことを自覚するからです。失敗を恐れずに何度も何度も場数を踏むのが大切なのはこの「直感」や「勘」のコツを掴むために必要なのです。

子ども達が何度も何度も繰り返しやってみては泣き、やってみては笑うのは、これらの感性を磨いている証拠です。子どもから学び、子どものような学び方を思い出し学び直すのは全てその悠久の年月で得て来た智慧に回帰することのように私は思います。

子ども達と同じように一生感性を磨いていきたいと思います。

自物一体~勿体ない~

昨日、石見銀山にある他郷阿部家にお世話になる御縁がありました。暖かい真心のおもてなしに懐かしい原風景を感じました。石見銀山は世界遺産にも認定されていますが、かつての風土の中にある暮らしがいつまでも遺るというのは先祖たちの生き方が遺っていることでありそこに日本人の心に触れると安心するのは原始の魂に触れるからかもしれません。

神話の昔から、何を大切にして生きてきたか、そして親祖たちが子孫へ譲ろうとして来たものが何か、「根」に触れるということは初心を伝承することです。初心は伝える側と承る側がいて存在しますから、どのような初心を持っているかが伝承の本質です。

昨日はここで不思議な体験をしました。

巷には、物が溢れ物が氾濫する時代だとも言われます。しかし本来は、物は有難い存在であり物は魂が宿る存在です。その物に魂が宿ればその物は語り始めます、それを物語と言います。

物語を語るものは全て伝承者であり、それを聴く私たちもまた伝承者です。生物非生物に関わらず、語りを聴けるというのはその真心に日本古来からある大切なものを譲られていることに気づきます。言い換えれば御縁のつながりというのかもしれませんし、さらに言えば縁結びの心、道理だと「循環の理」と呼んでもいいのかもしれません。

私たちは物を大切にすると思う時、物より高いところで語られることがありますが実際は物と同じところで物を大切にしているかどうか、それは無我の境地というか無から有が生まれそこから空間が出来上がるように無に没頭することで物の美の真価を味わうように思います。

つまり物を大事にというのは、自物一体の境地のように思います。勿体ないという意味も、そのものに入りそのものとなるという「ものづくり」の真心です。

物事、物語、物造、そのものが何を語るのかを素直に聴ける感性こそが空=間によって磨かれていくのかもしれません。「美しい」と感じる心は、空間の美、勿体ない中にこそ存在するように思います。

まだ触れたばかりでこれからの実践になりますが、ここでの暮らしの生き方を見習い、実践を学び直していきたいと思います。

また最後に、石見銀山の風土から山と暮らし、山を見守り、山と暮らしてきた歴史を直感的に感じ、”お山と語り合う”ことの大切さをはっきりと気付かせていただきました。

有難うございました。

クニの真玉~光と初心~

かつてクニ造りのはじめに、「大国主」と「少彦名」の二人が私たちの繁栄の礎を築いたと古事記や日本書紀にはあります。大国主がクニをどのように治めていけばいいかを天に問い、海から光の玉と共に顕れたのが少彦名です。

この二人はまずこの国の理念を定めます。それは大国主の様々な物語がその生き方を示しています。因幡の白兎の話、その後の黄泉の国での素戔嗚との話、クニ造り、クニ譲りとどんな人物であったのかはその神話から想像で近づけます。

そして参謀でパートナーでもあった少彦名と共に、その徳の統治の手段を「医」と「農」によって行います。これは今の言葉に直せば、「医」は養生の在り方、そして「農」は暮らしの在り方を示します。

少彦名については、農業技術、のみならずあらゆる産業の祖とされその方法を伝授し国を富させました。この親祖はカミムスビの子であり「天津神」といって天照大神と同じく、天界の神様の一族です。その少彦名との出会いがなければ、大国主は国を繁栄させることはできませんでした。

古事記と日本書記にはこうあります。

「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」(古事記)

「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)

つまりは、全ての人々がこの少彦名と大国主の御蔭様で元気に幸せに暮らしていくことができていると示します。この二人がいなければ、私たちのクニははじまらず存在すらしなかったということです。それくらい重要な人物こそがこの少彦名です。そしてその少彦名は国の発展と共にいなくなります。少彦名がお役目を終えこの世を去ると、大国主が一人でどうしたらいいのかと途方にくれます。すると三輪山の大神山にて光の玉に再び出会い、少彦名に出会った時の「初心」を思い出し、下記のような天津神の太祝詞を唱えます。

「幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)、守りたまえ、幸(さきわ)いたまえ」

ここに、何を祈っていけばいいのかをはっきりさせ、少彦名のいなくなった後もクニを治めていく覚悟を決めるのです。

出雲は今でも根のクニ(島根)と呼ばれます。私たちの暮らす島の根があり、その根とは心の故郷のことです。心の故郷に真心はいつまでも伝承され、いつまでも遺る神話や遺跡から先祖たちが私たちに譲ってくださったものが何かを感じるとることが出来ます。

時代が混迷期に入るとき、人は初心に帰る必要があります。今のクニにもっとも何が必要か、これからの未来の子ども達に私たちは何を譲り遺していくのか・・・。

もう一度、少彦名と大国主の実践したことを省み、私たちの故郷にある真心を学び直していく必要を感じます。光の玉によって気づくとありますが、この光の玉は真玉と言い、これは真心のことです。

光る真心とは徳のことであり、民を思いやり、その声を聴き、衆智を集めることによって全ての発展の理念としたということです。孔子が仁の政治を説きましたが、この神話を聴いたらなんといっただろうかとおもいを馳せます。

今の私たちの先祖には脈々とはぐぐまれた徳の血脈が遺っています。

根の心に触れて、また新たな心で御縁を深めていきたいと思います。

見方の転換~福の実践~

私たちは今自分が立っているところを中心に物事を観ようとするものです。

かつてニコラウス・コペルニクスという天文学者が地球を中心に宇宙はまわっているという説を覆し、太陽を中心にまわっていることを発表しました。これを哲学者のカントがコペルニクス的転回と呼び、物事の観方がまったく別のものになったことを言いました。

実際に、私たちの価値観もまた似たようなものがあります。人は自分を中心に物事を考えて自分を中心にまわっていると思い込むものです。しかし本来は、科学ではサムシンググレートと言ってもいいし、東洋では「天」と呼んでもいいのでしょうが自分以外の偉大な存在によって活かされていると感じれば物の見方は変わってきます。最近では、望遠鏡も発達しその太陽もまた銀河を中心にまわり、その銀河もまた大宇宙を中心にまわっていることが分かっています。

そこから自分を中心に物事は動ているものは実際にはこの世には一つもないということが分かります。これを循環とも言いますし、御縁とも言います。

生きていると自分の思っていたことは起きなくても自分の思っている以上のことに出会っていることに気づくことがあります。そして自分があたりまえに生きていると思っていたら実は本当に多くの御蔭様で活かされていることに気づくというものもあります。

これらも全てコペルニクス的転回であり、自分を中心にするのではなく偉大な何かを中心に据える謙虚な心があれば物事はまったく別の観え方になるのです。

以前、小林正観さんが「見方道の家元」を目指しているという御話をお聴きしたことがあります。物事の見方を転じて観れば実際は、まったく別のことに気づけるということです。

実際に自分の知っている知識にこだわり、常識と思い込んでいる自分の価値観の中から出ずに偏見ばかりを貯め込んでいくことが齢をとることだと勘違いする人が多いように思います。アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」と言います。

どれだけ偏見をもってしまっているかも本人は気づかないものでしょうが、実際は偏見を捨ててあるがままに物事を素直に観えたり、他人の話を謙虚に聴いて学び直しをする人は常識を超えた真実を持っていたりするものです。

常識に縛られるということは、偏見を持つということです。如何に常識を壊して本質を捉えるかは自分自身の見方を転換できるかどうかによります。そしてその転換は、「気づき」によって産まれます。

よく「知っている」方が偉いと思い込む人もいますが、実際には知っているというのは膨大な情報の一部を知っているだけのことです。もしも「知らなかった」と素直に言えるのなら膨大な情報があることを知っていることになるように思います。人に素直に「知らなかった、教えてください」と話を聴ける人は無限の見方を持つ人だとも言えます。

学問の本質は、常識に囚われないことのように私は思います。

偏見のコレクターからすれば偏見の塊が変人でしょうが、変人だからこそ常識に囚われない新しいことを産み出せるように思います。それぞれ人には役割がありますから、それぞれが地球や人類のために自分を最大限活かし切ることで新しい時代が切り拓かれ道が続いていくように思います。

日々は自分の偏見を捨てていく学び直しの日々、子ども達のためにも様々な見方をもってすべてを福に転じて味わっていきたいと思います。

初心のチカラ

人は「初心」という言葉を聴いても、実際は自分の初心に気づかない人がほとんどです。その初心は自分と向き合っていく中で出会うものであり、自分の心から思うことを実践し実行することで次第に自分の中に在る心に出会う機会があって再確認するものだからです。

実際に「初心」に出会うには、昨日書いたように「遣りきる」ことが必要です。遣りきったあとの余韻で心が満足したかどうか、心が充足したかどうかで自分の初心の実感を得ることが出来るからです。しかしその遣りきるというのも、計画通りに自分の思い通りに時間通りに終わることを遣りきることだと勘違いしている人がいます。実際は、自分の都合を排除し、効率を優先せず、不便でも時間と手間暇をかけて自分の信念や決心や覚悟を周りに流されずに実践したことを「遣りきる」というのです。

自分に軸足を置いた遣りきるは、それは遣りきるではないのはまだ外界の判断基準や世間の価値観の中の比較や分別知、相対的な世界において遣りきった気になった遣りきった風なだけで本来の遣り切りではありません。遣り切りとは、絶対的な世界において自分の決めた覚悟を信念をもって実践するということです。

社内には刷り込みカレンダーというものがありそこには「初心は実践の中にあり」と書かれています。これは実践しているときだけは、初心を遣りきっている最中であり、実践しない人は初心の在り処すら見失い忘れてしまっている状態だということです。初心を見失っている人はただ繰り返しているだけで実践にもなりません。心を籠めて実践するその一つ一つに信念の集積があり、それが実践の妙味だからです。

初心を思い出せていない人は、目的を忘れています。目的を忘れる人は、安易な目標に心を奪われていきます。目標ばかりを追いかけては目的を忘れてしまうでは、あまりにも人生がもったいないと思います。

初心は何か事があり向き合うことで思い出すことが出来ます。例えば、死にかけるときや大事なものを失う時、もしくは人生を左右するようなタイミング、あるいは自分価値観を揺さぶられるような体験の時です。その時、感じたものが初心であり、その初心をいつまでも忘れないように実践をすぐに開始し、その実践の最中にこそ自分の中にある本心を持続させていくことで自分の中の生きるチカラ=初心を持てるように思います。

この生きるチカラは、継続力のことです。継続がチカラなのは、そこには初心の持つチカラが働くからでしょう。初心のチカラを育てていくことは、一度しかない自分の人生を一期一会に遣りきる仕合わせ、御縁に活かされ、自他一体に生きる豊かさを自覚することにもなります。

子ども達が自分自身の人生を本質的に謳歌していくためにも、大人が子ども達のモデルになる生き方を遣りきっていくことだと思います。自分が何のために存在するのか、何のために生きるのか、何のために働くのか、常に自問自答を入り口に、かけがえのない実践を味わっていきたいと思います。

新しい自分~新たな役割~

人は新しい自分を刷新していくことで、自分らしさというものを発見し発掘していくように思います。新しい自分に出会えることは仕合せなことであり、それは自分自身がその時々で役割に気づき役割を生き切るということに出会えているということです。

人はなぜ新しい自分に出会えないのか、それは過去のままでいるからです。かつて自分が自分らしくいた自分のことを自分らしい自分だと思い込み、無意識に自分が役割を持っていた頃の自分に執着してしまうからです。自分が望んでいた自分になることは確かに幸福感を感じられますが、時処位が変われば役割もまた変化していくものです。

それではどうすれば自分らしさをずっと発掘できるかということです。

それは常にお役立ちできる自分に出会い続けることであろうと思います。新しい今の自分を肯定でき、新しい自分でいることに精進していくことだと思います。昔の自分のできることに終始するよりも、自分が周りにお役立ちできることを増やして高めていくことで今の自分が自分らしくいることに気づけます。

畢竟、自分らしさというものは自分の思い通りになることではなく周りの中で自分の役割を発揮できているということです。一つの目的に向かって、自分を遣りきって今を生き切り、必死で精進してくことで新しい自分に出会うこと、それが自分らしさの刷新だからです。

物事は全て必然だと信じられるかどうかがまず受け容れる第一歩であろうと思います。この世に意味のないものは存在せず、今の自分の運命が今起きているようになっているのはそこには確かな必然性が存在します。

こんなはずではないと否定から入る前に、全てを一度丸ごと受け容れて「これでいいのだ」とその中で、最善を盡そう、人事を盡そう、自分のできることで精いっぱいお役に立っていこうと心を定めて覚悟を決めればそこから新しい自分に刷新していけるように思います。

昔の自分よりも今の自分を好きになるには、今の自分が周りの御役に立つ努力や精進を以前の自分に負けないくらい実践していてはじめて好きになれるものです。自分を好きで居続ける努力とは、常に一生懸命の今の自分で役立てる全てを出し切ることです。

主体性も自立も、自分らしさに関係します。自分らしくいられるというのは、遣りきったか、出し切ったか、生き切ったかの確認です。日々は新しいことに満ちていますから、日々新たに日々新たな役割を実践していきたいと思います。

呼吸の基本~ひのチカラ~

朝起きて囲炉裏に炭をおこすと再び炭に火が入り澄んだ紅色に染まります。その炭は呼吸をしているのが分かり、まるで心臓の鼓動のように波打ちます。そして次第に消えていき、最期は灰になります。

これは私たちのいのちにも似ています。

自然万物は呼吸をすることで生きています。呼吸とは、空気を吐いて吸うことですがこの空気とは単に今の科学で分析されている酸素のことではありません。私が思う空気は、酸素ではなく宇宙の中にあるダークマター、まだ解明されていませんが「いのちの気」のようなものです。

そういうものを万物はいのちを通して呼吸します。炭でいうのなら、紅色に染まっていく過程の中でたくさんの空気を呼吸して燃えていきます。これはいのちや魂で例えるのなら、呼吸をすることで常に気を通しいのちや魂を燃やしていきます。そして人によりますが、途中で燻って炭のままに終えるものもあれば最期まで燃えきって灰になるものもあります。

これは囲炉裏で息を吹きかけて燃やし続けるように、日々に呼吸をし燃やし続けなければ燃え切ることもないのです。いのちや魂が燃え切れば、灰になりそこから復活がはじまります。途中で炭のままに火が消えれば、また新たな火を誰かにつけてもらうかでなければ火は入りません。

自分の火を自分で燃やすのは呼吸することです。太陽系の地球をはじめいのちや魂が冷めないのは呼吸をするからです。呼吸は自らが吐出すこと、そして吸込むことで行われます。

自らが発していると自らに入ってくるというのが呼吸の基本です。

常に燃え続けていくように呼吸を味わい、情熱を絶やさぬように火を容れながら燃え切っていきたいと思います。

澄の文化~炭と囲炉裏から~

今ではほとんどが西洋文化によって住環境が変化してかつての暮らしから離れていますが、私たちの先祖たちが育んだ智慧はまだ完全に消失してはいないものです。囲炉裏一つ深めてみても、あらゆるところに先祖たちの真心を感じます。

この囲炉裏の文化は、使ってみることでより理解が深まるものです。

例えば、料理をしていると煮込み、焼き、燻製、炒め、あらゆるものが炭火によって可能です。西洋の暖炉は火加減ができませんからグリルが中心になりますが囲炉裏は小さな火も加減できますからじっくりと食材に合わせて調整することができます。

西洋の暖炉は薪を多く使うため灰もでますし煙突も煤で汚れて掃除が大変ですが、その点囲炉裏は薪を使う量が少なく済みますから掃除もあまりいりませんし森林のことまで配慮した使い方ができます。

西洋では薪をあまりにも多く使うため、その分、森林破壊が進んだといいます。ドイツでは森林が維持できるように森を維持するためにあらゆる工夫や自分たちの暮らしが森林破壊で酷い目にあったことを忘れないためにも森林維持にはとても気を使っています。

その点、日本では囲炉裏文化の御蔭で森林も破壊せず自然と共生し持続可能な状態を維持してきましたからあまり森林破壊については意識することもなくなっています。むしろ、建築様式が変る前の住宅用の木材としての杉を森へ植え続けたことで森の形が不自然に変わってしまったことの弊害の方が問題になっています。

そして西洋と異なり私たちの文化で発展したものは炭です。炭は日本の国土、囲炉裏と深い関係があります。今では電気ストーブ、電気こたつ、電気空調があたりまえですがかつては炭によって私たちは寒さや湿度を調整していました。

一年中、炭によって住環境を自然と調和するように維持し、一年中、過ごしやすい住環境を確保してきたとも言えます。その炭の灰には、虫を近づけず、腐敗菌やカビなどの発生を抑制する効果もあり、また麹菌を元気づけ発酵を促進する効果もあります。不思議なことですが、特別に麹菌は炭や灰との相性が抜群に善いのです。酒蔵に炭があるのも、味噌や漬物が灰と相性がいいのもまたこの炭のチカラがあるからです。当然、人間にとってもこの炭と灰は健康維持には欠かせず、囲炉裏の生活をはじめると稲の文化と同じように永い間一緒に暮らしてきたパートナーの一つであった証拠をあちこちに感じます。

炭は「澄み」の韻をふんでいますが炭を身近に置くことは心身の浄化を促進し、より一層、真心や精神を磨く効果があるのかもしれません。この魂の「澄の文化」は私たちは炭から学んだのかもしれません

子ども達が日本とは何かと思い出させなくなるほどに今は西洋文化によって日本の文化が上塗りされていっています。住環境においてはほとんどもうかつての日本の暮らしの様子が消えています。しかし、私たちが誇りにし子孫が自信を持つものは常に日本の先祖たちがどのような暮らしや生き方を身近に置いてあげることです。

親がどのように生きてきたかを子どもたちは忠実に参考にして自分のものにしていくことこそが文化の源泉です。日本文化を次世代へと継承するには子ども第一義の理念においてとても重要なことです。

私たちは国際の中にいる日本人です。世界に出ていく前に自分の先祖の文化を深めずに世界で何の役割を果たせるというのでしょうか。先祖たちが永い時間を懸けて積み上げてきた日本人としての生き方こそがこれからの世界には必要なのです。引き続き、身近な道具を見直し、日本の真心を見つめ直していきたいと思います。

 

会得する価値~好きになる~

全ての物事は出来事は、文字では分かることはありません。実際に実践してみて自分で会得していくものです。そのためには、あらゆるものを自分本来の主体的な情熱と行動、実践によって近づいていくものです。

孟子に「尽く書を信じれば 則ち書無き如かず」があります。意訳すれば本に書いていることをもしもすべて信じるのなら、本などは要らないという意味です。実際に本に書いていることがそれが真実であっても、その真実は実践しなければ掴むことはできません。もしも空想の世界で評論だけを行うのならばそれで済みますが生身の人間は生きていますからそれを体得し会得することで実際の世の中に通じて役立てることができるからです。

文字というものはとても便利ですが、その便利さ故に実践することを怠っているのなら本などは必要ないように思います。

原始の人たちは本や文字などもなく、先人や親、隣人の実践をみては真似をし盗みとりました。それは伝承とも言いますが、文字を使わずに何度も何度もやってみては同じようになるように学び取ったのです。

今の時代は言葉ばかりを知っていても行動するわけではなく、行動の量が少ない割に物知りの人ばかりです。分かっても分かった気になるだけならば分からない方がまだいいかもしれません。

分からないからこそやってみたいと思うことが本来であり、分かった気にならないからこそいつまでもそれを深めたいと思うことができるからです。

生きていると時代も変化し、周りも変化し、自分もまた変化していきますから頭で分かってその時だけ乗り切ってもまた環境が変化すれば同じことをしなければなりません。体得して会得するのなら自然に乗り越えられることも、いちいち頭ばかり使ってその場しのぎをしていたらまた同じことが起きても同じように乗り切れないかもしれません。

実践していくということは、好奇心旺盛にそのものを勇気を出してチャレンジし好きになっていくことです。やることが愉しくなってきたならばもうそれで成功とも言ってもいいかもしれません。好きになるまでやる、愉しくなるまでやる、それを会得するまでやるというのは本来の主体性のように思います。

好奇心旺盛な子どもたちが真似をしたがるような大人のモデルになる様に、あらゆるものを愉しんで好きになり遣りきってやり遂げていきたいと思います。