自然の世界

私たちは無意識に自分の観えている世界が世界だと信じ込んでいます。しかし実際に虫の目や動物の目には同じものが観えているとは限りません。また目がついていないと思われている生き物、菌類や植物でさえその感覚器官を通して観えている世界があるのが実際の世界です。

例えば、色であっても私たちが観ているように花が観えているかどうかは分かりません。それはまるで特別な嗅覚で花のあるところを探し当てる昆虫たちや、生き物の残り香をかぎ分ける動物たちのように私たちには臭わないものでも彼らには臭うのです。

色も同じく、紫外線や毒のあるなし、危険かどうかも彼らはその模様や色で識別しているのではないかと思います。以前、庭先で一緒に暮らしている烏骨鶏の小屋にアシナガバチの巣ができたのでそれを切り取り下に落としたことがあります。もう成虫になり飛べる状態で下に何匹も落ちましたが烏骨鶏はそれを食べようともしませんでした。日頃あらゆる虫を食べるのに、一切食べようとも近づこうともしませんでしたからきっと彼らの持つ臭いや色、模様、何かが気になるのでしょう。

私自身も、昆虫や生き物と触れるとき、なんとなく嫌な予感があるものは毒があったり攻撃的であったり、気分が悪くなったりしたことがあります。無意識ですが、昔は観えていた感覚が残っているのかもしれません。

私たちは知識がなくても本能というものがあります。その本能は、知識を持つ以前から体験や経験、または感覚を進化させて他の生き物と同じように自然界の中で生きていくための智慧として発達発展させてきたように思います。

今になってみたら、人間のみの人工社会の中で森や自然の中にいるわけではないのでそういう感覚は減退していくのでしょうがあの虫たちや動物たちはその感覚がなければ自然では生きてはいけません。

自然に照らせばどのような意識で自分がいるのか、その観えている世界が変わっているということの自覚が必要です。自分が観たい世界があるのなら、その観たい世界に合わせていくことでそれまで観得なかった世界が近づいてくるように思います。そのものを理解するのなら、そのものに近づく努力と実践があってはじめて近づくのでしょう。

自然の智慧は、そのものに近づこうと本能から真似をするところからはじまります。そして本能を呼び覚ますのは、もともとの野生を取り戻していくということです。そしてそれは自然に近づいて自然と共に暮らしていく中で研ぎ澄まされていくのでしょう。知識で暗記する以前の祖神たちは、きっとその自然の世界が当たり前に観えていたのでしょう。

本来の自然の世界が分かるとなってはじめて、あらゆる多様な自分を獲得していくことができるのかもしれません。変化成長のコツはこの自然からの獲得に由るように思います。子ども達のためにも、自然からの学び直しの自己実践を譲り遺していきたいと思います。

 

見守り合い~人間愛の社會~

昨日、39回目GTの保育環境セミナーが開催しました。

ふり返ってみると、もう13年ほど前からスタートし毎年続けてこれたことに有難い思いとその間ご縁があった先生方が今の現場でご活躍しているのを思うと感慨深い気がします。

見守る保育を通して、子どもたちを見守り、子ども同士で見守り、大人同士で見守り、社會を見守り、未来を見守り、世界を見守る。

この見守ることの実践は、人と人との思いやりを通して何が人間として優先されることで幸せになるかを新たにする「道」のように思います。人間を深く愛するということが具体的にどのようなことを大切に生きることか、生き方そのものが保育そのものになっていますから奥が深いのでしょう。

昨日の藤森平司代表の講演の中で、「見守る保育の特徴は、子ども自身に解決させること。例えば子ども同士のケンカは子ども同士で解決させる。それはゼロ歳からできる。」とありました。これも、子どもを信じ、周りの大人も信じているから可能になりますがそこには深い見守り愛があります。また「その子ができないのなら他の子に頼めるようにする、先生が解決するのではなく将来の為にも子ども同士で解決できるようにする」ともありました。自立もチーム保育というものも、如何に自分が全て解決すればいいわけではなく、周りに頼み合い見守り合う関係をどう築くかということになります。常に「見守り合い」を優先しているのです。

講演を拝聴しながら、保育を通して人々を愛することでどのような社會を目指しているか、そしてどのように社會が平和になるか、同じように見守り合う社會(仁の世界)を築こうとした孔子のことを思い出しました。

孔子は論語でこういいます。

「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」〈顔淵篇〉 「子貢、問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕か。」〈衛霊公篇〉。

思いやりとは何か、それは人を愛すること、そして一生行うことは思いやりを実践することだと相手の身になって、相手の立場になって、思いやることだと。

これは「見守り合い」のことだと私には感じます。

最初は省みることもなく、礼も分からず律することもできませんから自分勝手に自分自身の思いしか出てこないかもしれませんが、しかし日々の見守り合いを通して自他の境目がなくなってきて御互いの思いが現れてきます。その思いを互いに大切に尊重していれば次第に思いやりになってきます。思いやりは、常に相手の心に寄り添って相手の立場を慮り御互いに助け合うことで愛が通い合うように思います。子ども達を信じて見守れば、子どもはみんな自然に見守り合いの中にいますから子どもから学んで子どもから自分を観直していけば子どもが創りたい本当の社會を邪魔しないでいられるようにも思います。

人類と人間の可能性を信じるからこそ、見守り合う社會も信じることができるのでしょう。この十数年で周りが変わってきた成長を省みながら、次第に子どもたちが将来築いていく社會が変わっていくのを感じて有難く思いました。

引き続き、志業に邁進していきたいと思います。

 

 

思いやりの根~自分自身の在り処~

人は自分を大切にできる人が周りの人をも大切にすることができます。

もっとも身近な自分自身との付き合い方のことなどは、あまり考えないのでしょうが実際は自分への接し方が他の人への接し方にもなっています。自分に厳しすぎる人は他人にも厳しくなっていきますし、自分を認めない人は周りの人も認めません。自他というものは鏡のように互いに映り込みますから自分の心がどうなっているかを観てはじめて相手の姿が現れます。

自分自身がどうなっているのかを自覚することは、相手をあるがままに受け容れるためにも必要なことのように思います。

しかし人は相手のことを自分勝手な見方で推測しては間違えているものです。相手を思いやるよりも自我自尊心を無理に守ろうとしては自分からみてどう見えるかや自分がどう見られるかばかりを気にしていて相手の気持ちになって相手の立場で物事を感じるという手間を省いてしまうものです。

思いやりというのは、相手がもしも自分だったらと考えて理解していくことに似ています。だからこそ、自分が思う相手がどうこうではなくもしも相手が自分自身ならと立場を置き換えて考えて慮れば次第に思いやりが通じ合っていくように思います。

その際、自分の心が鏡のように澄んでいるのなら相手の心に通じ合えますがもしも自分の心が感情や先入観で濁っていたら自他が見えなくなるのかもしれません。

自分自身が相手の立場になるのは、相手に共感することができるからです。この共感する力があるというのは、思いやることができるとも言えます。すぐに共感して泣いてしまったり、すぐに共感して感動するのは、その心に「思いやりの根」があるからです。

その根をどう伸ばしていくかは、自分の心を澄まし相手の立場に立って行動し、思いやりの実践を高めていくことのように思います。自分自身との正対の仕方を、その真心の実践と、誠の姿勢を精進していきたいと思います。

世界を変える一人~三つ子の魂~

世界はいまや情報化社会の中で一つになろうとしています。遠くの国で起きている出来事も、瞬時に情報がニュースなどで入って来るだけではなく、遠く離れた出来事でもすぐに自分たちに大きな影響を与えます。

グローバル経済というものは、経済が世界を巻き込んで発展していくということです。そして今では世界は一つの社会として、どのような世界にするかというビジョンを持つことはこれからのリーダーの役割であり使命のように思います。

だからといって世界を変えるのは、何か大きな力を持つ組織や国家が変えるのではありません。実際に世界を変えるのは、「最初の一人」です。この最初の一人とは、自分を変える人のことです。

一人ひとりが自分の中で世界の中で何をするかを決心し、一人から変わっていくことで周りが変わっていき世界も変わります。これは歴史を観たら自明の理で、世界は一人の発見と発明によってがらりと時代も変わります。

だからこそ、誰かが何とかしてもらおうではなく希望を持ちこんな世界にしたいと行動した一人こそがこれからの人財になっていくように思います。そういう一人をどう育くんでいくかが社會を創る保育者の責任になっていくのでしょう。

またグローバルのことを考えるとき、如何にそれが最小の地域から発せられるものであるかを感じます。グローカルという言葉もありますが、各々の持ち場で如何に自分たちの信念を貫いてやり遂げていくか、そこに世界の一員であるということと多様性を感じます。そして世界を変えるはじまりは人々が思い込んでいる強弱の誤解の刷り込みを如何に捨てるかからはじまります。それは強い権力と思っているものが弱く、弱いと思っているものが真の強さを持つという自然の法理に気づくことだと思います。

バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるのように、小さな一人のか弱い力と思い込んでいるものが実際に全世界を変えているからです。

最後に老子の言葉です。

「其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す」

老子は、もっとも史上最強であるものを「赤ちゃん」であると言いました。私がこの仕事をすると決めた心もまたここにあります。世界を変える秘訣は三つ子の魂にあると私は信じています。子ども心のままに赤ちゃんの周りの人々との縁起を味わい、小さな一人として自分らしく道を切り開いていきたいと思います。

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

グローバル意識~資質と実力の本質~

私たち日本人は島国の中にいて国内事情ばかりを優先するあまり、アジア圏をはじめ世界のことを意識することが少なくなっているとも言えます。先日のニュースでも社会課題は国内志向が強く、「紛争鉱物」や「貧困」「人権」など含めたグローバルな課題への関心は低くなっているそうです。

アジア圏に出て各地で活躍している人たちをみていたら如何に国際人として常に全体を観て自分たちがどうあるべきかを考えて行動しているのが分かります。私も高校を卒業してから中国に留学し、その後、英国に留学し、いくつかの国の方々と仕事をし、また今でも関わりがありますが常に世界では共通する問題にそれぞれの人々が様々な異なりを理解し、違いを超えて挑戦しています。

特に今は情報化社会が進み、経済的に密接に繋がり合い、ますます国境がなくなってきていますから世界のある場所で起きた出来事はすぐさま世界全体に影響を与える時代になっています。つまりは私たちは常に地球運命共同体として、私たちは世界の中に生きているということです。

昔のように関わりが薄かった時代はまだ対岸の火事で済んだ出来事も、今ではとても他人事ではなくすぐさま自分たちに多大な影響を与えてきます。世界の未来の問題をどう今解決していくかは、それぞれの人々の意識に懸っているともいえるのです。

そういう意味では日本という国は、世界の中でもとても大切な役割と使命があるように思います。それは老舗に見られるように私たちの伝統は何百年も前から大切に維持され、世界の称賛を受けていることにも見られます。また、瑞々しい国土のほとんどは森林に囲まれ清らかで澄んだ水と、恵まれた気候風土の中で満たされています。もちろん地震や火山も多くありますが、それはまだ産まれたての風土だからこそこのように若い感性に満ちているのでしょう。

先日のシンガポール訪問でも、アジア圏の中でどう私たちがリーダーシップを発揮していかばいいのかを自覚する機会になりました。そして同時に私たちの資質と実力とは一体なんであろうかともう一度、向き合う機会をいただけました。

日本人としての資質とは何か、日本人としての実力とは何か。私はかつての日本古来の心こそ、私はその問題を解決する鍵になると信じています。

最後にシンガポールを考えながら、同じアジア4龍と呼ばれる国家、客家出身の台湾の李登輝首相のことを思い出していました。それぞれにリーダーシップを発揮して、今後の世界でどう国家を運営していけばいいか、歴史はとても未来への参考になります。その李登輝首相が、「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」ごま書房新社の中で日本についてこのように語っている一文があります。

「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うです。『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積みあげられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、60億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです」

古来の心は伝統文化の中に籠っています。温故知新、今こそ日本文化と伝統というものをもう一度学び直しつつ、今後のグローバル人財、地球人財の一人として準備を怠らず実践を高めていきたいと思います。

類は友を呼ぶ~循環に在る縁者~

昨日、田んぼの草刈りをしていて不思議なことを考える機会がありました。現在の田んぼは、稲が分けつをはじめ青々と葉を広げていく時機に入っています。不耕起で自然農で取り組んでいますから、周りの草を刈りつつ、見守りそのものの持つ力を信じて共に育ちあっていくのを援助していきます。

その際、草刈りをしていると稲に似た近縁の雑草があることに気づきます。言い換えればかなり稲にそっくりな似た草草が周りに生えてくるのです。一見するとほとんど見分けがつかないほどのものが、すぐ周囲に生えますから間違って刈ってしまいそうなくらいです。

これは稲だけに限らず、野菜など栽培するものの周りにはよく似た雑草が次第に集まってきます。これは生態系の不思議で、「類は友を呼ぶ」ということが実際にいつも起きているように思うのです。これは全ての生き物に共通する真理であり、御互いに共通するものは互いに引き合っていく性質があるように思うのです。

改めて気づいたのですが生き物たちは、生きていくために一人では生きようとはせずに仲間を求めるように思うのです。この仲間=類というものは、長い間で探し当てた同じ心を持つもの同士とも言えます。互いに助け合っていけば生き残れると感じて、一緒に生きるものを長い時間をかけて得た関係です。それは循環の中に在るご縁で結ばれているかのようにです。

先ほどの稲と雑草稲は、互いに共にあることで他の虫から食べられるのを互いに補完しあうことで全部食べられるのを防ぎ、同時に他の草に空間を占有されないように互いに周囲を抑えて助け合っているとも言えます。

片方の稲は人間の都合で栽培され食べられる実をつけますが、もう片方の雑草稲はあまり食べるものに適しません。しかし人間都合で栽培されてきた稲の方にも本来の野生の中で生きる智慧を自ずから見出し、類を呼び周りと共生しようとしています。

つまり仲間=類とは、共に協力し支え合うために集まってきた縁者なのです。この仲間というものは人間でいう家族や親戚、友人、同志などの縁者であり、似た者同士、同類相求めるのように同じ性質を持つから近寄るのです。蓑の傍に傘が寄るのことわざのように、気が合う者は互いに親しみ集まる、同類のものは自然に集まるのです。

これらの「引き合う惹かれ合う関係」において、自然界はとても絶妙に仕上がっているように思います。周りがどうなっているかを知るとき、自分がどうなっているのかが分かるものです。自分で自分のことはわかりませんが、自分の周りを見て観たら自分のことをはじめて知ることができます。縁者は常に互いに補完しあったり、互いに妨げあったりしますが悠久の長い目でよくよく洞察してみたら、この縁者の関係がお互いにこの地球の厳しい循環の中で末永く生き残るために慈しみ助け合っている縁者なのです。

自然界の絶妙な類友を集める仕組みに、改めて自然の法理を学び直すことができました。縁者はすべて善であるという智慧の気づきも、また田んぼの中から得ることができました。

実際は、収穫をあげ栽培していますから刈り取るのですがその中で他の雑草たちとの共生がはじまり実をつける栽培に適した環境に仕上がってきます。植物たちの集まってくる変化を楽しみながら、如何に共生関係を創っていくか、観察しつつご縁を味わっていきたいと思います。

地球人財5~地球人としての生き方と働き方~

インドネシアに「未来のリーダーを育てる奇跡の学校」と呼ばれているグリーンスクールというものがあります。特徴はインドネシア・バリ島のジャングルの中に存在し、建物の全てが竹で作られ、電力は太陽光発電で賄われているというこだわりでできています。

さらにそこに入学するための選考は如何に自然環境に対する自分の想いだけでなく、どれだけたくさんの人たちに影響を与えることができるかをテーマに行われます。つまりは自分の生き方と働きかけが何よりも重要であるとし、それを未来型リーダーの原点に据えているところです。

地球人としてどう生きていくか、それをどのようにグローバルに発信していくかをこの学校生活を通じて仲間と刺激し合い自然に解けこみ学び合うという感じです。

なぜ未来型教育である必要があるか、それは持続不可能な生活を続ける私たち地球人の在り方が問われる時代に入っているからです。このままでは持続しないということはもうほとんど全ての人類がそれを知っていても自我欲に負けてしまい何もできないでいることです。

誰かが何とかしてくれるのを待っているのではなく、自分が地球人として何ができるかを考えようとする取り組みこそ未来型教育であると私は定義します。持続不可能な生活に待ったをかけ、如何にしたら持続可能な世の中にしていけるかをそれぞれの生き方や働き方で世界に示していくことが必要なのです。

私が自然農を取り組み、対話や協力、そして思いやりや真心の実践を会社を使って開発したり発明したりするのもすべては持続可能な循環社會を地球人財の一員としてどう世界に発信するかということを悩んでいるからです。それは地球人としての責任であり、子ども第一義を思えば思うほどに未来のことに責任を感じます。

未来がどうなっていくのかは当然今の私たちの暮らし方に懸っています。グローバル人財とは何か、地球人財とは何か、それは自分の生き方や働き方に責任を持つ自分自身のリーダーになれる人物のことでしょう。

このグリーンスクールの理念にはこうあります。

「私たちはまだ種をまいたに過ぎない。本当に重要なことは、世界の人たちが私たちを真似て、さらに改良を加えて行動すること。常にその瞬間の自分の行為が孫世代にどう影響するのかを考えるようになれば、自ずと未来は変わっていくだろう。第二のグリーンスクールをどんどん作ってほしい。私たちは協力を惜しまない。」

地球人財とは自分自身が主体的に自分自身のリーダーになり、世界の常識を覆していけるような本質的な人物であることです。周りがどういう生き方をしていようが、自分自身が決めた生き方を貫ける勇気と信念、愛と平和に生きる徳才の人物です。

自分がグローバル人財でなしにグローバル人財を育てられるわけがありません、自分が地球人財でなしに地球人財も育ちません。だからこそまずは自らが地球人のリーダーとなるべく実践を積み重ねて人類の未来に発信していくことだと思います。

今日からまた日常の実践に回帰しますが、何のために生きるのか、常に地球規模の意識でリーダーシップを発揮できるようカグヤを通して生き方と働き方を磨いていきたいと思います。

 

地球人財1~グローバルとは何か~

昨日は、シンガポールにあるIB教育(International Baccalaureate)「国際バカロレア」を導入している学校を中心に視察を行いました。シンガポールはグローバル人材を育成することを念頭に、「Teach Less ,Lean More」という基本指針で世界で活躍するために様々な教育を導入しています。

インターナショナルスクールから大学まで、新しい学校を中心に視察しましたが多種多様な人種の中で共通の言語を話すだけでなく、如何に御互いの違いを認めつつ、技能や才能を開花させるかということおいては、今までの暗記詰め込みのような形だけではなくファシリテーターといって教師自らが生徒たちに寄り添い生徒たちが自ら主体的に問題を解決していく手伝いをするという方式が取られていました。

そもそも何のために学ぶのかと考えるとき、子ども達が如何に自ら学ぶ力を発揮するかと考えれば自ずからどんな教育方法がいいのかは古今から変わらない在り方があります。身近な大人たちの生き方や働き方が教え方になりますから、何よりもまず先に時代の変化に対して柔軟に自分自身を変化させ続けていくことがよい実践のモデルになるように思います。

シンガポールは、もともとが海港都市であり世界のHUBになることで国家の持ち味を活かそうと努力しているように感じます。資源がないこの国の資源は人財であるとし教育予算は国防の次にかけて投資しています。実際に現地に降りたってみると、その環境と地の利があることを感じ、アジアの発展と共に如何にアジアでシンガポールの人たちが活躍できるかで国家の未来を決めるというは分かる気がしました。それだけ「グローバル」というものはこの地では大切なキーワードなのです。

シンガポールに新しく開校した「イェール・NUSカレッジ」を訪問して国際会議のシュミレーションを行うサークル活動「模擬国連」のリーダーとして活躍するある学生から話を聴く機会がありました。その際に、彼が私たちに「私たちが日本人に求めているのはアジアのリーダーを排出してほしい」とありました。それだけアジアの発展ということに対して責任を持っているのを実感し、日本という国の人財が若い人たちからも期待されていることを改めて感じました。

本来時代というものは、常にその時分に社會貢献し発展に役に立つ人たちを求めてきました。時代の変化の中で境界線がなくなり益々多様化していくグローバル社會の中で、どんな環境下であっても役に立つ人財をどう育成するかは世界の共通課題になっているということです。

今回の視察では教育の見直しをしていましたがそれと同時にそもそもグローバル人材とは何かについて考え直すよい機会になりました。明日から何回かにわけてこのグローバル人材について整理しますがすでに日本でもある一定の定義は定まっているようでここにはこう書かれています。

「未知の世界、時に非常に厳しい環境に、『面白そうだ』『やってみたい』という気持ちで、積極的に飛び込んでいく前向きな気持ち、姿勢・行動力を持っていること。そして、入社後に一皮、二皮剥けるため、『最後までやり抜く』『タフネスさ』があること。しっかりと自分の頭で考え、課題を解決しようとすること。」(厚生労働省)

世界というのはどこか別の世界の話ではありません。現実の中で生き方や働き方の中に世界はあります。なぜなら世界とは自分自身のことだからです。どんな自分になっていくか、どのように世界に役立てていくか、そのために必要な人財の要素とは何か、そこを紐解くと一つの明確な人物像が観えてきます。

子ども達のためにどのような大人の生き方と働き方を伝えていくか、地球人財の本質を学び直していこうと思います。

 

聖の意味~善い政治~

昨日は、猛烈な蒸し暑さの中でアンコールワットやアンコールトム、その他の寺院を視察しました。杜の様子はかつてインドでみたタージマハルにも似ていて、また雰囲気は日本の寺院や神社にも共通するものがあり、聖地というものは土と木と石と水、風など光と影が織りなす心地よい場にあることを改めて実感します。しかしその聖地の心地よさとは別に、信仰と紛争の傷跡もそこに遺っています。

今回の遺跡でも、権力者が変わると信仰している宗教もまた変わります。仏教であった寺院が、ヒンズー教になればそれまでの寺院もまた入れ替わります。印象的だったのが石に刻まれて容どられた仏陀の姿の彫刻や仏像を、すべて削り取り壊してヒンズーの神様に彫り直し作り変えた痕跡がありました。今までの宗教を否定し、新しい宗教を塗り替えていくというのはそれまでそこで過ごした信者や僧侶はどうなったのだろうかと思ったら虚しい気持ちになるものです。

そもそも世界どの場所であれ、聖地を訪ね信仰しようとする心は共通するものがあります。しかし同時に、一つの信仰、一つの正義にこだわって戦争や紛争を繰り返すというものも共通しています。

かつて日本でも聖徳太子の時代に、仏教が伝来しそれまでの神道を信じるものたちが豪族を中心に争いました。蘇我氏と物部氏の争いですがその紛争で聖徳太子は身内を目の前で失い、同じ国の民が信仰によって殺し合う姿に心を深く痛めたと言います。

そしてそのどちらも尊重できることができないかと考えあの有名な「和をもって尊しとなす」という17条の憲法を定めました。聖徳太子は神道、儒教、仏教を学び直し、そのどれも素晴らしいではないかとし、そのすべては一つのところから来ているとして自らが納得し周囲に説いたのです。

その思想は、一本の植物であるとしたそうです。根と茎と花、それは分かれているようだけれど実際は一本の植物である。神道と儒教と仏教もまた同じく、その本質は一本の信に変わりはないということを人々に諭します。

より善い政治を行っていこうとするとき、違いばかりを言及しては偏った正義を押し付けるのではなく本来は一つであることを伝え、それよりも人間は協力こそが大切であるということを理念にしました。

私が協力に活路を見出すのは、多様な社會の中でそれぞれが全て持ち味を発揮するために必要であると実感するからです。価値観が違うということは、それだけ人間には可能性があるということです。一つの常識、一つの価値観のみを信じるというような画一性は短期的にみたら効果があるかもしれません。しかし実際に世界遺産を訪ね、信仰の持つ側面を洞察すると長期的にみればみるほどに画一性の危うさを感じます。

人間の心に素直に問う、正しいよりも楽しいかというのは、自分が正しいに執られていないか、孤立ではなく協力をしているかという自戒の意味もあるように思います。

改めて私たちの政の理念を「和」にしてくださった親祖たち、思いやり真心を大切にそれを何よりも忘れないために「協力」を優先してくださった先祖たちに何よりも感謝の心が強く湧きました。どんな理念、どんな初心をもって生きるかはその後の歴史を決めてしまうからです。

歴史を探訪するのは子どもたちの未来を探究するのに似ています。当たり前すぎて気付かなかったものを歴史の残り香を吸い込み、もっと深く気づいて今の生き方から見つめ改善していきたいと思います。

今はカンボジアを出てシンガポールに来ています。

今日はこちらの学校を4校ほど視察する予定です。発酵途上の異国の教育の現場から、今の私たちの取り組んでいる実践を観直してみたいと思います。