禮と愛

昨日は、新しい仲間といっしょに百姓コーディネーターの就任式と研修会を行いました。子どもたちに譲っていきたい遺徳を昔の百姓という生き方を学び直しつつ研鑽と実践を積んでいきたいと思います。

自然農で収穫した野菜たちと、不耕起の玄米を酢飯にして手巻き寿司をみんなで握って食べましたが何よりいっしょに働く人たちがともに食卓を囲み団欒しながら語り合えることは本当に仕合せな時間だと思います。

人間は、自分にとって都合がいいことを便利といい、都合が悪く手間暇かかるのを不便だといいます。農業だけではなく日常の仕事にいたるまで、気が付けば一人でバラバラに仕事をした方が効率が良いということで便利さばかりを追求して忙しさで心を忙殺する人が増えてきたように思います。健康を害し、精神を病み、殺伐とした無機質な暮らしをする人も増えてきました。

本来、私たちの先祖たちは働く豊かさを持っていました。それは一見、手間暇がかかるものですし、それに精を出すことばかりでした。不便とも思えるものやメンドクサイと思われるものを大事に、時間をかけてみんなでいっしょに取り組んでいました。

人間というものは、自分の思い通りにしたいというのは我欲がありますから誰しも思うことなのでしょうがその欲で満たせる喜びというのはほんの短い期間だけのように思います。たとえ思い通りにならなくても、心が満たされるような歓びというものは永遠に心に刻まれ忘れることもない豊かさがあるのです。

決して自分の都合では得られないものの豊かさというのは、何よりも心が安らぎ満たされるものです。人の愛も同じく、思いやりや真心もすべて人と人の間にあるものですからそういうものを優先していこう、尊重していこうとする心の強ささえあればだれでも持つことができるのです。

みんなでいっしょに取り組むことができるというのは、いっしょに暮らしている仲間がいるということです。その仲間といっしょに笑って泣いて、そしてまた出会い、別れて新たな道を愉しんでいくことが人生の道楽なのかもしれません。

かつての先祖たちは、自然を中心に丹精を籠めて生きることを私たちに残してくださいました。その残してくれた一遍をきちんと受け止めて、そして拾い、それを譲ることが今を生きる私たちの本当の使命かもしれません。

今の世代で、先祖の遺徳や遺恵を遣い切ってしまわないように自分たちの生き方を見つめ真摯に生き方と働き方を一致させていきたいと思います。新しい出会いに感謝します。

徳~恩沢洪大~

実りの秋のことを思い返していると、如何にこれが天地人の恩恵によって得られているかを実感します。御米だけではなく様々な作物もそれを一緒に食べる家族のことを思っても、如何に多くの自然やご縁に佑けられているかを思うのです。

そもそも今の自分があるのは、先祖の遺徳があってこそです。この身体もこの感情もそして心も、また名前から住居、関わりにいたるまで目に見えるところから目には観得ないところまで私たちは祖神や先祖の恵みによって存在しているわけです。

恩沢洪大な徳は、あまりにも大きすぎてまるで宇宙や地球のように当たり前すぎて実感することもなくなってきたかもしれませんが確実にその恩恵をいただいて私たちは今、生き活かされています。

そういうものを忘れて自分の代のことだけを考えて欲に任せて今を貪ったり、恩恵を自分が全部使い果たすような生活を続けたらそのうちその徳がなくなり、自分の代だけではなくその子孫にまで影響を与えてしまうように思います。

今の収穫だけを求めて農薬や化学肥料をまき続け与え続けた土地が枯れて砂漠化していくように、徳を忘れて今だけを凌ごうとすれば自ずからその徳恵は消失していくのでしょう。これは生き方の問題で、如何に恩徳を実感して感謝でもっと恩返しをしたいと願い祈り実践しているかで本来の今との正対が決まってくるのです。

豊かな人というのは、ものを持っているから豊かではなくその恩徳をいただいていることに気づいて御恩返しをしたいと願っているから豊かなのです。お役に立つのも自分のためではなく、自分がいただいているのだからその恩沢洪大な徳を周囲へと恩を送りたいという人が真に自然に沿った生き方をしているともいえるのでしょう。

二宮尊徳の「仕法書」の中で、下記の言葉が遺っています。これは真に豊かな生き方を照らす時にとても大切で、本来の貧富の本質を捉えています。

「人は諸々の恩沢を受けているのにもかかわらず、その恩沢に報いないことがある。徳に報いようとしない者は、自己の将来の幸福のみを考え、自己が受けた恩徳を大切にしないので、結局地位を失い、自己の徳をなくしてしまうのである。逆に恩沢に報いようとする者は、自己の幸福を後回しにして、祖先の丹精を大切にするので、地位を受け継ぎ、富貴を失うことがない。徳に報いることを何よりも優先すべきである」

そして「徳に報いることは百行の長、万善の先」であると言います。

何より、不平不満を並べては境遇を嘆くよりも本来の徳があることを自覚しているか、そしてその徳に報いているのかと自問自答するのです。そのうえで、何よりも徳に報いる実践をするのが何よりも先ではないかと諭すのです。

すべての善いことよりも先にあるのが徳、そして何よりの行いよりも長けているものが徳なのだということです。徳は利己的であるほどに気づきませんが、利他に生きればすぐに実感できるものです。

自分が与えてもらった徳を如何に活かすかはその人の決心次第です。

徳に感謝し恩に報いる生き方を大切にしていきたいと思います。

主体に転じる力~自分の問いにする力~

人は力を出したかどうかというのは主体であったかどうかに関係します。そしてその主体というのは、自分の心の転じ方にあるように思います。

例えば、ピンチをチャンスと転じることができる力、ドキドキのプレッシャーをワクワクに転じることができる力、メンドクサイと思えることを面白がることができる力、苦しいことも大変なことも愉しいと味わい深く転じることができる力などです。

外界の出来事が何かが起きるとき、自分の思い通りにはいかないと思ったときにやる気がなくなってしまう人と、外界が自分の思い通りにならない逆境のときこそやる気がでてきて燃える人というものがいます。前者は、出来事に対して受け身であることに対して後者はどんなときでも主体は自分、積極的に人事を盡そうと全身全霊を発揮することができるのです。

先日あるクルーが「出し切りました」という言葉がありました。これはどんなことでも必ず善いことにするという覚悟が、主体を出し切ったといえるように思います。外界の相手がどうであれ、外界の出来事がどうであれ、自分の人事を盡し切るということに迷いがなかったのです。

そういう自分の姿勢に天も味方するのでしょう。天はいつも正直で素直を尊びますから、そういう自らの主体性が運やツキを呼び込むのです。そしてこの主体と楽観性こそが信じているということであり自然なのでしょう。

自分の力を発揮して出し切った後に振り返ると、その発揮している間に不思議な出来事や奇跡との遭遇、また面白い発見や出会いが沢山あったことに気づきます。そして多くの見守りがあり、自分が尊いご縁に恵まれたことを実感するのです。

そしてそれこそが本物の「自信」になります。

自信を持てる人というのは、常に出し切る経験を積んでいるともいえます。自分の力を発揮することを知ることで、自分というものの本来の存在の意義や価値に気づけるからです。そうなるとまた真剣であることや本気であることが愉しくなります、この好循環を得ている人が何よりもハタラク幸せを味わっているということでしょう。

本物の自信とは、畢竟、外側からつくわけではなく自分の中からついてくるものです。自分が転じることができるほどに人事を盡したか天命を待てたか、その両輪の真摯な実践の中に感謝があってこそ育っていくように思います。

何はともあれ転じる力が情熱のことです。自分の内在している情熱を自らが燃焼していくのはいのちの力を使っているともいえます。自分を燃やしていくことほど人生の豊かさと愉しさを実感できます。迷わず善いことへと丸ごと転じ続ければいいのです。

日々はかけがえのない機会に恵まれています、どの出来事に対しても自分の問いにする力をもって積極的に主体に転じて、二度とない丸ごとの人生を味わい深いものにしていきたいと思います。

禮の本質~真の豊かさ~

先日から礼について深めているとインスピレーションがありました。礼とは本来、禮と書きますがその意味に納得したのでそれを書いてみます。

そもそも禮の中にある豊かさについて考えてみると、如何にその豊かさというものの観点の違いがその人に影響を与えているかがわかります。

例えば、もので貧しい人はもので豊かになろうとします。なので常にものを得ては豊かさを感じますから常に自分が持っているかどうかによって豊かさを感じます。逆にものをたくさん持っていても豊かではない人も多い時代ですから、豊かさとはものではないことはわかります。そこには常に手に届かないようなものばかりをいつも望んでいますから次第に不平や不満ばかりを並べては傲慢になりますから余計に豊かさから遠ざかっていきます。

またもう一つ別の観点での豊かさには、持っているか持っていないかという自分にとって損か得かというものではなく真の豊かさというものがあります。それは御蔭様でたくさん見守られていることを感じたり、善いご縁をいただき人生が一期一会に導かれることに感激したり、当たり前ではない日常の些細なことの中に仕合せを味わったり、自分が今あることが如何に有難いことかということに感謝できたりしている中に存在します。それはものではとても買えないものばかりであり、すべては手に届く範囲内にあるものです。

ここから考えてみてもわかりますが、結局はその人の生き方、観点の違いで豊かさというのは変わっているのがわかります。真に豊かな人は、愉しむ力がありますしご恩返しをしていく歓びがあります。

禮というのは、豊かさを示すと書いていますが衣食足りて礼節を知るというものまずその真の豊かさに気づけてはじめて本来の禮が理解できるということかもしれません。

今の社會は物質経済ですから、持っている人と持っていない人で貧富の差はますます開いていきます。本来、日本という国は十分すぎるほど豊かになっているのにも関わらず自殺者は増えて貧困もまた広がっているというおかしなことが起きている国です。それは豊かさの質をはき違えているからであり、それは真の豊かさを重んじる社會ではなくなってきているということなのでしょう。

人は本来、何のために生きるのか、何のために働くのか、そういうことに立脚して見直してみると如何に真の豊かさを求めているのかがわかります。人を尊重すればするほどにその真の豊かさの御蔭様を皆で感謝して共有しながら幸福感を味わうことが大事なのかはすぐに自明します。

真の豊かさとは何か、そして真の貧しさとは何か、そこには観点を変える必要があり、観点が変わることで社會もまた変わっていくのでしょう。わざわざ、一番豊かさを感じられるものを忙しいという理由でつまらなくしたり、もっとも豊かさを得ている一緒に働けることをお座なりするというのでは真の豊かさは遠ざかるばかりです。

何を持っているか持っていないかではなく、何に恵まれ何を与えてくださっているか、感謝する心に豊かさが示されるのが禮の本質なのかもしれません。

禮が廃れている今の時代だからこそ、本物の禮儀を実践していきたいと思います。

本物の技術~徳技術~

昨日のCNNニュース(2014.9.21)で中国の人たちが米国のトウモロコシの種を盗んで問題になっているという報道がありました。この理由は、近年トウモロコシの輸入や生産が多くなっている中国国内用の需要のために必要だからとのことです。そのために長い時間かけて研究された遺伝子組み換えし交雑された種と干ばつや害虫に耐用しているテクノロジーを安易に国内の生産に実用したいようです。米国もその技術が盗まれないように国家をあげて機密保持に取り組んでいるようです。

急な経済成長と人口増加に環境や食がついてこないから需要が急増している分、誰かにとってはビジネスチャンスなのでしょう。しかしこの出来事全体に何か視野の狭さと短さを感じてしまいます。

そもそも、最初にこの技術について思うのですが米国では長年土を痛めつけるような農法を行い、地下水脈をあるだけ使い切り、農薬を散布し害虫を駆除してきたことで酷い干ばつが起きているといわれます。干ばつが起きれば農業は打撃を受けますから、その干ばつに耐えるだけの作物を遺伝子組み換えによって育てます。それでも酷い干ばつの場合は、さらにそれに耐用する種を育てます。まさに、気が付けば見た目はトウモロコシでも中身は別物になっているかもしれません。

また害虫といっても、いつも虫を全滅させているからお互いに食べる相手が見つからず一つの種類だけが大量に発生することで害虫になるのです。自然界のバランスを崩しておいてそれを人間の思い通りにしようとするテクノロジーをばかりを優先してきたら干ばつが急激に発生して砂漠化が進んでいるのです。

中国も急な経済発展で北京の周りには工場が増産され、今ではPM2.5をはじめ様々な化学物質が都市の空を覆い、年に晴れ間が実感できるのも2,3日ほどとのことです。砂漠も年々首都に近づいてきていますからこんな状況をまた打開するために人間都合のテクノロジーを駆使しても焼け石に水なのです。

先祖や祖神は、とても長い目で広い視野で物事を捉えました。目先の欲望を優先したらどういうことになるかを戒め、いつも自然とのバランスを優先してきました。私たちの存在が自然の一部であることを忘れませんでした。人間だけがいる世界だとは思っていませんでした。

気が付けば、人間だけがすべてかのようにふるまい、周りの生き物たちのことを思いやらず、自分たちだけに良いようにと競争しては奪い合い、自分勝手な正義を振りかざしてはさもそれが絶対かのように思い込んでいます。そんな中で生まれてくる最新の技術というものは、すぐに人間の思い通りにできる技術のことです。果たしてそれが本物の技術なのかと思えるのです。人間だけが認める技術など、たいしたことはなく、それはむしろ小手先の便利な技術のことです。

本物の技術とは、自然が認める技術です。それは悠久の時を経てもいまだに褪せないか、自然全体を活かしているか、無理をせずに自然の道に沿って謙虚に人間が生きようとするか、そういう技術です。

私はそれを徳技術と呼びます。発酵もその徳技術の一つですし、杜づくりや治水も同じく徳を重んじます。今の時代のような徳を重んじない技術はすべて人間都合です。何が徳かではなく、何が得かの時代ですから技術もまた得する人たちによって奪い合いその技術が適応されていくのでしょう。

本物の職人がいなくなってきたのも、そういう得を社會が重んじているからでしょう。短期的にはメリットがあっても、長期的には大変なデメリットになると知っていてもそれを誰かがやれば我先にと飛びつくのが流行というものですから、いつの時代も不易と流行は変わらないのです。

中国の古典、「易経」に、「時流にのる者は時流によって滅ぶ。君子は時流にのってはならない。時中しなければならない。」にありますがここからも不易と流行に時中するのが徳に根差しているということが分かります。

長くなりましたが、今こそ「徳」というものがなんであるかを研究する必要があると思います。孔子は論語を通して為政者のための学問を実践したといわれます、為政者のためとはなぜか、それは政治が悪なのではなく政治を行う人間を善くしようとしたためです。

その政治を善くする人間を育てる人間学には何よりも徳を重んじます。以前、致知出版社を訪問した際に社長から「徳」と書きなさいと言われたことが今ではしみじみとその意味の深淵さに触れています。

人間がどうなっているかで、その技術も変わるということがこれではっきりしたように思います。人間が自然のバランスを維持できていた時のような本物の技術が消えていく昨今にとても心苦しく子どもたちのことを思えば嘆きたくなります。

しかしだからこそ、自分たちが正しくその文化を継承していけばそれを拾ってくれる人もいるはずです。思い出せなくなるくらい目先のことに流されてしまわないように、地に根差し自然から学ぶことを忘れないでいたいと思います。

本物の技術は人を救うだけではなく、世界を救う技術なのですから。まだまだ研鑽を積み、今の人たちが価値がないと捨てた技術を太古に思いを馳せて拾って広めていきたいと思います。見守るという信の技術もまた今の時代に必要な技術です、一緒に実践し深め広めていきたいと思います。

自然の智慧~恩蔭様~

昨日、無事に福岡農園で自然農の御米を収穫することができました。有難いことにたくさんの方々のご支援と見守りの御蔭様をもってこの日が迎えられたことに感無量の気持ちです。

思い返せばもうこの実践を開始してから早4年、東北の震災と原発事故のことがあり、二度とあの当時の気持ちを忘れないようにと決心しはじめた実践です。あの時、人間が地球の一部であるという自覚が消失していくことが如何に悍ましい結果を発生させてしまうのかを自覚したからです。

今思い返せば、自然農をして何をしたかったのかを省みると自然に沿った生き方を自らの背中を通して子どもたちの身近に実感させてあげたかったのかもしれません。

この4年間、特に3年目までは数々の困難の連続でした。病害から虫害、水害、台風などの天災に加え、人間関係の問題などで悔しい思いをたくさんしました。ほぼ無収穫の状態が続くというのは何とも複雑な気持ちでしたが、周りの有難いアドバイスが心に沁みました。

本当に多くの人たちが要所要所で応援と支援を与えていただきました。

ふり返ると最初のアドバイスは、「手前から少しずつ行うこと」、そして「小さくはじめること」、「年々ちょっとずつ増やしていくこと」、「できる範囲からコツコツやること」など積小為大の法則について実践してきました。小さいことには普遍があり、小さいものを為すものは必ず大きなものもできるという智慧を得ました。

次のアドバイスは、「自分の眼と手と真心を使うこと」、「草は根もとから切ること」、「幼少期に負けてしまわないように見守ること」、「目を離さず手を放しいつも観ていること」、「草も虫も一緒に暮らせるようにしてあげること」、「微生物たちの発酵場にすること」などです。ここから、如何に手間暇をかけさせてもらうことを学びました。自然を自分がコントロールするのではなく、自然に心を寄り添いいのちを慈しむように謙虚に実践させていただくと周りから自然に善くなっていくという智慧を得ました。

また次には、「天にお任せして気楽であること」、「どんな時も自然を信じていること」、「人間を信頼して任せること」、「毎日、初心を忘れずに祈りを捧げること」、「頂いたご恩を忘れないで報いること」、「四季のめぐり、そして準備を怠らぬこと」、「生き物たちの安心できる生活環境を守ってあげること」など如何に信じるという祈りに似た精進が自他自然を活かすのかという智慧を学びました。

智慧を思うとき、自分が求める智慧は、自分のためではなく子どもたちや世界のために必要だと思うからです。永続してきた私たちの祖先からの今をつなぎ結ぶのが私たちのお役目ですから心と志はいつも天高い一点のみを観つめています。魂が次第に減退している今の時代に、どうすれば魂がより磨かれるか、王道を歩む人たちを増やしていくのか、それは生き方を変えることで伝えていくことができるように思います。

結局人は、何をしているかではなくどうあるのかということがすべてにおいて中心になっているのでしょう。

私は本当に沢山の方々との出会いに恵まれ、いつもかけがえのないものを頂戴しています。これを皆さんに還元できるようになる日がいつ来るのかはよくわかりません。しかしいただいているものを共有し御恩返しをしたいという気持ちは日々に膨大に増えていきます。

今回の実践でもっとも印象深かった素晴らしい智慧は、「ゆるし」です。ゆるしというのはいつも見守りの中で得られます。今回もこんな私のこともゆるしてくださって自然は一緒に様々な仕合せの時を共有してくださいました。

引き続き学びが続けられることに何より感謝し、尊いいのちの歩みを止めずかんながらの道を歩ませていただきたいと思います。

意識と総力戦

人間には意識というものがあります。

意識とは、自分がどのように覚醒しているか、自分がどのように心で感じているかという自己認識です。言い換えれば自分が感じていることの丸ごとでもあり、自分が正直に感じる全てです。

その意識をチェックすることで、自分がどうなっているのかを理解できます。

例えば組織というのはみんなで共有して集まり大切な目的のために協働する場ですがその組織の一員としての意識に有名な3意識というものがあります。

それは「問題意識」、「危機意識」、「当事者意識」というものです。

だいたいこの3つの意識の欠落が起きると、人のせいにしているうちに自分が発揮できず組織の中で自分も活かせず、気が付くと何もできなかったということになります。それはなぜかといえば、現実が自分の問題ではないからです。

人間は自分が納得していないことは人のせいにできるものです。自分はここまでやればいいというように自分の役割を自分で決めてしまうとそこから先は他人事になってしまいます。

これは幼少期から日本の教育で個人主義を徹底して刷り込まれ、なんでも一人で責任を持たされてきたからかもしれません。日本人は宿題も一人、担当も一人、役割も一人、なんでも責任は一人でやるようにという練習ばかりしてきています。みんなではあっても一緒にではない、つまりグループといいつつ個人の集まりに責任を課せては一人責任を全体を使って押し付けていくのです。

本来、チームというものはチーム責任ですから一人一人がチームというものの責任を持ちます。個人の分割された仕事の責任だけを持てばいいではなく、本来のチームの目的の責任をチームのメンバーがシェアしているのです。それはチームが自分であり、チームの責任が自分たちの責任なのです。

先ほどの問題意識というのは、自分の問題かということです、そして自分の危機か、自分事になっているかということです。つまりは自分だけは安全で安心であれば、別に組織や全体がどうなっても自分とは別の問題、別の危機、別のことであるという意識になってしまうことがここでの問題なのです。

例えば日々刻々と世界では様々な出来事が発生します、今なら中東のテロの問題、エボラ出血熱の問題、スコットランドの独立の問題、世界経済の動向のこと、あらゆることが発生します。その世界の問題に目を向けることができるのもまた世界の問題は自分事だと思っているからです。

気が付いたら戦争だった、気が付いたら伝染病に感染した、気が付いたら経済が破綻したでは、いったいどこで自分は何をしているのかということに最期はなるのでしょう。関係ないわけないんです、必ず自分に関係してくるのです。

だから寝ぼけている場合ではなく、覚醒していないといけないのです。

まずは健全な危機意識を受け止めることです。自分を活かしてくださっている世界がピンチなら、何よりもまずそのピンチのために何で貢献するかを決めなければなりません。問題がとても他人事ではないくらい共感できるなら、自分が何を守るかを決めなければなりません。そして自分が世の中を変えている一人としての責任を持つと決めなければなりません。

人は正しい責任を認識するときだけ、この意識改革ができるように思います。歯車としての自分勝手な押し付けられた責任ではなく、まるで一家、ファミリーとしての一家を支えてファミリーを助けるという主客一如の責任の自覚です。

真の楽観性は、絶望を受け止めたときであることはブログでも書きました。もしもと常に危機に備える心は楽観的になっていることと同義です。大丈夫だろう、まだこれくらいはいいだろう、自分一人くらいはという意識こそ己の中に在る真の敵なのです。

自我というものは常に虎視眈眈と我儘に自分都合を優先させ、自他を分けるように忍び寄ってくるものです。その分けたことから、無駄に自分を守ろうとし人に迷惑をこうむることを平気で行い一緒にの心の寄り添いが消失していくのです。

だからこそ常に一緒にいるために、自分の問題をどれだけの広さとどれだけの深さで捉えていくか、言い換えればどれだけ100パーセント自分の問題と言い切れるか、そのような独立自尊している自分を育てていかなければならないように思います。結局この世は、つながっていますから如何に好循環を創れるかが自分の人生の使い道です。つまり今では人類約70億80億人といわれる人たち丸ごとの「総力戦」なのです。

そもそも人が何のために生きるのか、教育をして一体人間をどうしたいのか、そういうことを問題にはしないことが本当の問題なのかもしれません。

畢竟、意識とは生き方のことです。意識がいつまでも変わらないのは生き方がいつまでも変わらないからです。生き方を変えたときのみ、人は意識が変わるのでしょう。自分の生き方が誰かのお役に立っているという自然の生き方をみんなができれば、世界の平和は守られるように思います。

一人一人の力が試される今の時代、意識というものを見極めていきたいと思います。

 

善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。

視野とは何か

人は同じ実践をしていても、その実践の徳があります。何のための実践なのかというのは、実践が本質的かどうかということです。

以前、田舎の小さな村に宿泊したときに早朝にお坊さんが鐘を鳴らす音が村中に響いていました。毎朝、同じ時間に起きて毎日、同じように鐘を打ってくださっています。これを村人たちは毎朝聴いてから目覚め一日を過ごします、そして夕方また同じ時間に鐘を聴くのです。これは単に時間を知らせているのではないことはすぐに察することができます。

無事で一日が過ごせて無事に一日が終えることができた、その有難い見守りに感謝しているということです。

しかし、仮にその鐘を打つ人が自分が鐘を打ってやっているんだという気持ちで打っていたらどうでしょうか、ひょっとしたら朝から煩いなと村人は感じるかもしれません。実際はそんなことはないのでしょうが、きっとお坊さんは今日も私が鐘を打たせていただいている、心を澄ませてその感謝報恩をしていきたいと「実践」しているのでしょう。

つまり実践というものは、自分がやっているという傲慢な感覚ではなく、有難く自分がさせていただけるという感謝で行うことが実践の本質なのです。

実践風というものは、どこか実践までも自分だけのものにしてしまいます。本来、実践とは自覚があってのものです。自分の存在が多くの人たちのお役に立っているという自覚、自分の体験はたくさんの方々のためになっているという自覚、つまりは自分は「何ものかによって活かされている」という自覚をもってはじめて実践が正しく行えるように思うのです。

謙虚な心がなければ、素直な心でなければ、周りから活かされているという自覚がありません。周りに迷惑をかけても気にならない人というのは周りを意識することもありません。礼を失し、思いやりに欠け、常に行動が自分中心になってしまいます。

よく考えてみなくてもすぐにわかることに「健康」がありますが、毎日健康で過ごさせてもらえることだって決して当たり前のことではありません。親からいただいた大切な身体、祖先や天から分けていただいた徳で生きていることができています。よくよく「見渡して観直せば」如何に自分が多くのものに恵まれ満たされていることに気づくはずです。それもすべて決して当たり前のことではありません。

そういう気持ちを常に忘れないことが謙虚素直の体現である「正直な実践」につながっていくように私は思います。

自分でいっぱいのときは周りの感謝が観えなくなるのが人間です。だからこそ自分の人生体験は常に誰かの励ましになっている、自分の存在が誰かの支えになっているという「リーダー(主人公)としての自覚」を持つことで視野もまた広がっていくと思います。

視野が狭い人はどこか自分を存分に活かせていないように思います。視野が広い人はいつも真心で自分を活かしていくことができています。仕事でも、仕事をするという意識と、仕事をさせていただけるという意識では、働く愉しさも仕事の歓びもまた変わってくるのでしょう。

どうせ実践するのなら、その実践が御蔭様を感じる自分の真心でたくさんの方々の見守りになるようなものにしたいものです。

最後に先ほどのお坊さんの鐘ですが、きっと村人たちはその毎朝の鐘を一生涯ずっと聴き続けているうちにいつの日か心にその鐘の音が永遠に響き渡るようになるのでしょう。その日常の当たり前という偉大な御蔭様の有難さの徳の実践に感化され村全体が自然に心から感謝できるようになるのでしょう。その陰徳は、いつまでも心に鳴り響き、そのお坊さんが年老いていなくなってまた次の世代の新たなお坊さんになっても実践が続いていく鐘に「自分たちはいつも偉大な存在に見守られている」という自覚を互いに持てるようになっていくのでしょう。

見た目ばかりに捉われ察する力が減退してきた現代だからこそ、人間としてこうありたい、こうでいたいという自分像をしっかりと自覚して精進を積んでいきたいと思います。

循環の学び

時代時代にはその時代のルールのようなものがあります。

たとえば、現在でいえば大量生産大量消費がルールでありその中でゲームをするかのようにその中身を競うようになっています。かつては少量生産少量消費や、大量生産少量消費の時代もありましたが生産性の向上によってその消費の質量も変化していくのです。

簡単に言えば、機械化や合理化によって大量に生産できることが前提で今の世界は出来上がっています。人口の増加も、経済の発展もそれを下支えしているのは大量に作り出すことができるということが大前提の仕組みがあるからです。

しかしもしもそれが何らかの理由で大量に生産できなくなったら今の世界の姿は一変するように思います。食糧に端を発してその後は様々なエネルギーの枯渇や労働者の減少、また原料の消失などでもしも少量になってしまえば消費はできなくなるからです。

消費にあわせて量を増やしてきたわけではなく、大量生産にあわせて消費をつくっていくのが今の経済ですから生産できない事態が起きることがもっとも問題になっていくのです。

しかし限りある資源を遣い切るような大量生産は次第に生産量が減退していくのは自明の理です。野菜や生産物でも、地力を肥料や農薬でふんだんに引き出して使い切っていますが土や環境も次第に疲弊してその地力が消失してきます。するとそこでの生産ができなくなり、生産力は次第に衰えていきます。

これは野菜や植物だけではなく、動物や人間もある一定以上の過剰な労力を引き出せば次第に生産力は衰えてしまうのです。少子化の問題も、経済の減退の問題も、食糧難の問題もすべては密接にその大量生産の課題に関係しているように私は思います。

だからこそ先を見据えて戦略が必要なように思うのです。

このまま大量生産を推し進めていても、いつの日か必ず資源は有限ですから枯渇するときがきます。枯渇してからではすべてが手遅れですから、如何に枯渇しないかを考えないといけません。

それは別の資源という考え方もありますが、その資源もまた有限ですからいつの日かすぐに枯渇するのです。持続可能な経済というのは、大量生産を転換する経済のことです。循環して一切の無駄を省くような少量生産でも大量消費できるような世界にしていくことです。

そのためには、そのものの価値をそのものの価値のままに活かしきり、それを遣い切っても尚、そのものが別の価値に転じていくような思想が必要です。永遠に無尽蔵に発生している豊富で多種多様な自然を丸ごと活かしきるというような発想です。

ものが豊富な時代から、ものがない時代へと移るときには、大きな転換を迫られます。きっと先祖たちはそれを以前体験し知っていたから循環の暮らしを守り続けてきていたのでしょう。

ここまで来たらもう止められませんが、既成のルールではなく新しいルールを引き直して子どもたちに未来を残せるように精進していくしかありません。どのような好循環を生み出すかは一人一人の生き方にかかっています。

循環の学びを形にしていきたいと思います。