まちづくりの原則~復興の本質~

かつて二宮尊徳は荒廃した村を復活するのに、優先するのは「心田開発」であるといいました。その理由は、先に心が荒廃するからその結果として村々の荒廃があるというのです。よく考えてみるとこれは現代のまちづくりでもまったく同じことが言えます。

なぜ過疎が進み荒廃していくのか、そして都心でもまちが乱れていくのか、それはそこに住む人たちの心が大きな影響を与えています。例えば、まちづくりであればそれぞれが主体的に暮らしを整え、美しい生き方や、心豊かに生きようとするのなら、その場所は次第に暮らしに向いていく場所になります。しかし、そこに住む人たちの心が荒んでいけばゴミを捨てたり、周辺住民と紛争ばかりを繰り返したり、不平不満や不安や恐怖を感じていたらそのまちは荒んでいくのはわかります。これはすべてにおいて人々の「徳」の影響が出ているのです。

別に今と昔は大差なく二宮尊徳のいた時代も同様に、村が荒廃するのはその村の人たちが心が先に荒廃していくからその結果として村が荒廃したのです。今の時代も同様に、まちの人たちの荒廃がまちの荒廃になっているのは自明の理です。まちを治したいのであれば何を治すのか、まちづくりのするのならその大前提になっている価値観そのものを丸ごと転換しなければならず、前提が変わらずにちょっとやったくらいでは焼け石に水なのです。だからこそ二宮尊徳の時代も為政者に覚悟があるかどうか、本気で腹を決めたかどうかを大切にしたのです。

どんなまちにするのか、どんな村にするのか、それは村や町をどのように経営していくかという視点が必要です。それは会社経営と同様に、どのような会社にしていくか、その覚悟を決めたら、その理想に向けて社長を中心に社員と協力してコツコツと取り組んでいくしかありません。そういう地道な努力があって最終的には物事は開花しますから何を目指しているのかどんな未来にしたいのかと定めたら、あとは時間と努力の掛け算があるだけです。

例えば、株式会社でいえば数字だけを追っかけて社員の大切にせず利益だけのために過酷なノルマを課していればブラック企業のようになります。これはまちづくりも同じで、財政赤字の解消のために町民を大切にせず利益だけのために税金ばかりを課しているのならブラック行政になります。会社ならそこに働く人たちは心身が病んだり、退職や転職をし、その会社も衰退し倒産します。これはまちづくりも同様のことが置きます。原理原則や法理というものは、別に会社やまちに関わらずすべて自然の摂理ですからそのままのことが起きるだけです。

会社経営ならば、よく一人ひとりの社員の声を真摯に聴き、どのような会社にしたいかを定め、みんなで協力して協働しながら安心して働けるような環境に変えていく。そしてその会社で暮らす仲間たちやお客様が仕合せになるような働き方をみんなで一緒に実践して心豊かに日々の努力のプロセスを楽しんでいく。そういうことを同様にまちづくりでも行えば必ずその「まち」は会社経営と同様に時間の経過とともに善くなっていきます。

そういう意味では、誰の会社なのか、誰が経営しているのか、なぜそうしたいのかということが観えない「まち」が多いように思います。そもそもの理念がはっきりしない、そして誰にも浸透していない、何のためにそれをやるのかをみんな知らない、個々がバラバラで好き勝手やっているのではまちづくりなどできるわけはありません。何を優先するかも定まらないのでは、その取り組む順番など無茶苦茶で未来のグランドデザインなど組めるはずもありません。

二宮尊徳が村々を復興させていた時代も、村の荒廃によって住民たちが苦しみました。住民が苦しんで貧困の極みにおいて、報徳仕法という仕組みが実践され村々は復興しました。その時、二宮尊徳が一体何から取り組んだか、まちづくりに取り組む人たちは目先の効率や流行りばかりを追っかけるのではなくもう一度、復興の本質を深く見つめてほしいと思います。

私も子ども第一義の理念で取り組んでいく以上、子どもたちが自立して安心して暮らせる世の中を譲り遺していきたいと思います。引き続き、むかしからの日本的経営と暮らしの甦生を復古起新しながらできることをコツコツと取り組んでいきたいと思います。

 

完璧主義の罠

以前、シェル・シルヴァスタインの「僕を探しに」という絵本を読んだことがあります。内容は「何かが足りない それでぼくは楽しくない 足りないかけらを 探しに行く」、そのためにころがりながら、歌いながら、足りないかけらを探しだしていくというテーマです。具体的には、いろいろな欠片を埋めるためにいろいろな欠片とくっつきますが、そのどれもがしっくりしません。自分の欠片と思っていたものが、違う苦しさに出会います。

そしてようやくぴったりの欠片を見つけて完璧な存在になります。しかしそれもつかの間の喜びで、最期はやっぱり欠片があった方の自分のままでいいと転がり続けていくというような内容だったと思います。

真面目な人や自己評価が低い人は完璧を目指し、自分にできないことを人に求めて苦しんだり、他人にできないことを求めたりして非常に苦しむことがあります。自分の身の丈を超えたことを自他に求めては、どうにかならないかともがき苦しみ転がり続けます。

本来は、完ぺきではないからこそチームが必要なのであり、欠点や欠陥があるからこそ周囲と協力するということが生まれます。しかし根底に自分が完璧でなければならないと思い込んで自他に求める人はその方法を選択せずに自分の努力や能力だけを頼りに乗り越えようとして結局は崩れていくように思います。

この完璧主義の刷り込みは、過信や傲慢さを生み、分を弁えず自他を責め続けるという悪循環に陥ります。自分が完ぺきではないと認めることができない限り、本当の意味で自分の長所や短所を受け容れられず、周囲の人たちの長所や短所も観えることもありません。考えすぎて苦しみ、頭痛ばかりが増えても一向に改善することもなく、もっとも身近にいる協力者にまで苦しみの連鎖を与えてしまっているのを自覚し早々にその刷り込みを手放す必要があるように思います。そのためにはいちいち考えて頭痛ばかりを繰り返す前に、その前提になっている自分の生き方を改善するしかありません。それは具体的には「大きな努力で小さな成果」を積み重ねていくという生き方にすることです。これは鍵山秀三郎氏の言葉です。

「いますぐにできないことは、時間と手間をかけてやる。一人ではできなことは他人の助けを借りてやる。この方法ではできないと思ったら、別の方法を考える。方法も変えないで、一人でできないことを一人でやろうとして、いますぐにできないことをすぐに求めても、それはないものねだりにすぎません。私の人生観は、『大きな努力で小さな成果』を求めていくということです。得られるものはたとえわずかであっても限りない努力を重ねていく。成果が少ないことに甘んじるわけではありませんが、少なさに耐える気持ちが大切だと考えてきました。」

この逆に小さな努力で大きな成果を出そうとするのは、誤っていることはすぐにわかります。それが強いからこそ、できないことを自他に求め、不平不満ばかりを並べては自他を責めて矢印を向け言い訳や文句ばかりを並べてしまうのです。本来は「その成果までのプロセスの努力の価値」が重要であって、それを根気よく継続すれば必ずいつかは成果に辿りつくと信じて日々に精進していくことがもっとも全体にとって価値があるのです。

また同様の話に将棋の羽生善治氏がNHKのプロフェッショナル 仕事の流儀の番組で「プロフェッショナルとはどういう人だと思いますか?」という質問に対して「細かいこと、それをたとえば一日1時間、20年間やれと言われたら大変ですよね。本当のプロフェッショナルとは、そういう努力を続けられる人だと思います」と言っておられました。

このように小さな成果のために大きな努力を惜しみなくできることが、そのままの自分を理解して完全になっていくことであり、自分の欠片ばかりを探しては完璧になろうと思い大きな成果ばかりを求めて探し続けてもそんな欠片は見つからない、もし見つかってもそんなものが本来の成果ではなかったと気づく日が来るのです。

むしろ人はみんな何かしらの欠点があった方がいい、その方が魅力が引き出されていきます。全部悪いところを取り除けば、何の欠点のない人になるのかもしれませんがそれは同時に何も面白くもない人になってしまいます。マジメなのはいいことですが、完璧になることがいいことではないのです。

欠点があるからこそ、仲間にカバーしてもらう。自分にできないからこそ、みんなで力を合わせて乗り越えていく。まさに欠点のままでいい、自分のままでいいという居場所がその人の魅力や持ち味を引き出していくのです。

完璧主義の罠に嵌れば苦しいだけです。コツコツ努力することは自分でできるのならそれだけは続け、自分にできないことは人の助力を受ける努力をすればいいのです。

本来目指している、子どもの憧れる会社、そういう生き方のために自分自身の刷り込みを見つめ直して改善して同様に苦しむ人たちのために貢献していきたいと思います。

共感のやさしさ

人間は、時として一人では乗り越えることができないような困難や葛藤に出会うことがあります。不安や恐怖から、誰かに支えて貰わないと前に進むことができないようなこともあります。そういう時に、心に寄り添ってくれる人や、心の支えになってくれる人が救いになって様々な壁を乗り越えることができることもあります。

見守るということもまた、相手の心に寄り添うことで実現するものです。

しかしこの寄り添うと思いながら頭で寄り添ったつもりになっていて考えているだけで心は着いてきていないこともあるように思います。相手のことを考えていることが思いやりではなく、心を寄り添い、心で近づき、心で共感し、心から相手の心を自分に同一化するほどに受容することができてはじめて寄り添っているとも言えます。

人間は頭でなんとなくきっとこうだろうと思い込んで頭で考えて行動しても心は着いてこないことがほとんどです。頭で考えることは共感とは異なります。共感は例えば、相手が痛い思いをしていたら自分も痛いと感じる心、また相手が悲しみで泣いていたら一緒に泣いているような心、相手が自分と同化するほどに気持ちが伝わり感応するのです。

よくカウンセラーなどが共感してのちにアドバイスをしますが、もしもその人が頭で計算しながらやっているのならその場しのぎの対応になるだけでその人の人生を一緒に乗り越えるほどの支えにはなりません。共感しながらも自分の人生体験から励まし勇気を与え信じ見守るという過程は、真心の行動が伴わなければならないのです。

頭で考えることと真心は異なります。相手の苦しみに寄り添う時間や、相手の困難に共感する時間、すべてはじっくりと心が寄り添うために自分から心を寄せていく「共感のやさしさ」が必要なのです。

この「共感のやさしさ」を磨き続ける人こそ真心の人であり、そのやさしさが具体的な行動になり具体的なアドバイスになり具体的な見守りの環境を創造するのです。

慣れてしまい共感から入るのを怠らないように常に自戒し、心を用いてどのような人へも接していきたいと思います。共感のやさしさを失わないように丁寧に心を寄せていく工夫を行っていきたいと思います。

 

克服

人間には恐怖心というものがあります。どれが怖いかは人によって異なります。例えば、飛行機が怖いという人、蜘蛛が怖いという人、幽霊が怖いという人、病院が怖いという人、それぞれに怖いという感覚は異なります。本人が怖いと思っていても、周りはどうにもなかったりしますから意思疎通が取りにくくなかなか大変なものです。

この怖いという感覚が身に着くのは、先天性のものもあるのでしょうが、幼少期や過去のトラウマ体験であったり、もしくは何かを見知りしたことを怖いと決めつけていたりします。怖いと思っているからこそ、マイナスしか見えず、不安からその怖さが何十倍にも増幅します。怖いという感覚がすべての器官を鋭敏にしてしまうように思います。

この怖いという感覚は、命を守るための危険予測でもあり経験値から本能でそれを避けるようにできているとも言えます。自然災害の畏怖などはまさにこの危険予測であり、自然の怖さを知っている人は災害時に助かる確率が高くなります。このように自然の畏怖を忘れないことは命を守るために大切なものです。

しかし、恐怖を克服しなくてはならないような時、どうしてもそこを避けては通れないようなときは私たちはその恐怖に立ち向かう必要があります。例えば、病気や怪我のリハビリであったり、夢や目標の実現のためであったり、自分が成長していくためには避けては通れない体験であったり、その時はこの恐怖の克服が必要です。

実際には、恐怖の克服は何度も何度も練習して恐怖を感じないように擦るしかないといいます。私自身の体験でも、怖いけれどちょっとずつ練習して怖くないと言い聞かせながら取り組んできたことが多いように思います。それに過去の記憶に頼らずに、現在だけに集中して体験を刷新し続けたようにも思います。むかしできなかったことや、昔は知らなかったことが今はできるようになり、新しいことを学んだとき、その恐怖は薄れたことが分かります。

記憶の調整や、感覚の工夫は、この薄まっていくという工夫のようにも思います。その逆に、大切な忘れたくないことや信念は濃くしていくという工夫のようにも思います。

畢竟人間は、自分自身をどう創り上げていくかという自主錬磨でありその錬磨によって削り磨き光らせたりしながら目指す理想に向かって鍛錬していくしかないのでしょう。

薄れてくれば、恐怖を乗り越えて立ち向かう勇気も沸いてきます。怖いけれどそれを超えても実現したいという信念や夢は濃くしているか。そして何度も繰り返し挑戦して恐怖を薄めているか、常に正対しながら今を生き切っていきたいと思います。

 

習性を変える

人間にはそれぞれ習性というものがあります。どのような習慣をもっているかで、その人の一生の成果が直観できたりもします。例えば、健康な習慣を持っている人はそれだけ病気にもなりにくく回復も早く健康体を維持していけます。また勤勉な習慣を持っている人は努力を厭わずに他人のためにと働きますから信用や富を得られます。

これらの習性には、人生を豊かに安心して生きられる知恵のものもありますが反対に悪習慣というものもあります。何をやっても、自分に備わった悪習慣によって悪循環に陥っていくのです。例えば、自分勝手で我儘な習慣を持つ人は自分の損得ばかりで判断するようになります。すると周囲もその人のことが不信になり、損しないように関わらないようにするものです。人間関係や争いなどが続き、不幸になることが多くなります。

そう考えてみると、人間の幸福とこの習性はとても密接であることが分かります。

幼いころより、どのような習性を身に着けてきたか、そして大人になりどのような習性を学んできたか、そして老いていく中でその習性を如何に磨いてきたか、その差が人生の質を決めてしまうように思えるのです。

人生の質を高めるためには、常にその習性の方を見据えて習性を変えていくかありません。そして習性には体の習性、心の習性、考え方の習性などもあります。体の習性は、日ごろから鍛錬していくことで変えていけます。心の習性は、心の声に素直に耳を傾けて行動していくことで変えていけます。そして考え方の習性は、自分の感情の転換や、物事の捉え方を転じる訓練によって変えていけます。

もしも悪習性が染みついてしまっていると感じるのなら、今までと逆を選んだり敢えて苦しい方や勇気がいる方、そして思いやりや真心の方にと一つずつ積み重ねて取り組むことで習性もまた変化していくように思います。

諺に「習慣は第二の天性なり」というものもあります。

子どもたちが将来、自分の天性を発揮していくためにも、環境に左右され失敗を恐れず、失敗から学び、習性を見つめ習性を磨き上げていきたいと思います。

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

真心と至誠

人と人との間の関係において、人間は頭で考えることと、真心で行動することを勘違いしてしまうと本質から乖離してしまうものです。本質を守るためには考えるか真心かという二者択一ではなく、常に真心を用いながら生活しその中で考えを巡らせていくという心身統一が必要になります。

この心身統一とは、理想と現実の統一とも言ってもよく、自分の人生でどう生きるかという生き方と、同時にどのように創意工夫して初心を保つかという知恵の活用です。

剣・禅・書の達人と言われた幕末から明治の武人に山岡鉄舟がいます。この人物はまさに、その心身統一に生きた真心の人だったように思います。江戸の無血開城もこの人物無しではありえなかったことですし、明治天皇の教育指導者としてもその後に大きな影響を与えます。山岡鉄舟が遺した言葉にこういうものがあります。

「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」

意訳ですが、「心を一つにすれば真心が発動し、すべてのことはそれによってのみ成り立っていくんだよと。」つまりは、自分の心の声に従って活動することで真心のままになりそのことがすべての出来事と一体になって活動していくのだという意味です。

人は頭で考えたことを心の声だと勘違いします。我が強く自分の思い通りにしようと思うばかり、我欲から出た声も心の声と思い込んだりもします。心の声を聴くというのは、我欲に呑まれないように常に真心のままに生きる実践を行っていくということです。

例えば、「思いやり」を持ち続けることも真心の発動です。頭で考えた思いやり風や真心風ではなく、心を寄せていく思いやりや真心を実践していくことです。人間は、相手の立場に身を置き、心情に寄り添って一緒に事物に傾聴し共感し受容していくのなら、自然に心が発動していきます。心は、常に全体を捉えておりその全体の中には自他の違いがありません。

もしもあなたが私なら、私があなたならと自他一体なのです。それを維持するには、計算から入るのではなく心から思いやる澄んだ精神が必要です。心を研ぎ澄ましていくというのは、山岡鉄舟のように自分の中に雑念や妄念、我欲や計算、保身などが邪魔しないように真心で心を大きくしていく修養を行うということかもしれません。

山岡鉄舟の剣の極意にはこう記されます。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」

「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」

「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」

心胆錬磨して一体何を目指したか、真心一つ、至誠こそその初心であることが分かります。

一日一日を過ごし内省し振り返る際に、もっとも大切なのは頭で考えることよりも、どれだけ心を使ったか、どれだけ心に従ったかという日々の心身錬磨が出てくる未来を変えていくのでしょう。

真心と至誠から常に自分を使い切っていきたいと思います。

自然体験

人間は体験することによって、様々なことを知ることができます。その体験が基盤になり、その後の人生の判断基準を定めていくこともできます。体験の価値は、あまり重要視されませんが実際には何よりも優先する人間育成の智慧です。

例えば、むかしはまだ物が少なく自然環境が豊かなときの幼い頃の体験は現在よりも豊かであったことが分かります。物がなかったけれど、そこには自然がありないものを探さずにあるものから私たちは様々な遊びを発明したり開発しました。同時に、身近には自然そのものの道理に囲まれ子どもたちもたくさんいてお互いに人間関係の摂理や天地自然の法理なども遊びを通して伝承されていきました。

今では、自然環境が少なくなり人工的な環境や物などは増えましたがあるものだけでなければできないとし、遊びも固定化されていきました。子どもは少なくなり、大人と子どもの関係ばかりが強くなり遊びも伝承されなくなってきました。

このようにむかしと今では、私たちの環境は大幅に変わってきています。私たちの人生は、すべて体験によって学びますからどのような貴重な体験をしたかで学ぶ質量も変化してきます。その体験の中でももっとも貴重なものが自然と遊んだ体験であろうと私は思います。教育が人が人に教えることが常識になってしまった昨今において、この自然が人を教えるということの意味もまた失われてきたように思います。幼少期の自然体験は、人の人たるものを教えます。それは風土が人を創り、風土が人を育てることこそが人類本来の学び方であるからです。

本質的な体験とは何か、それは自然から学ぶということです。

最後にフランスのヴォルテールの言葉で締めくくります。

「自然は常に教育よりも一層大きな力を持っている」

何が自然であるか、何が体験であるか、何が教育であるか、子どもたちの環境を考えて深め直していきたいと思います。

 

家の歴史的価値

空き家問題で世界と比較すると、ドイツなどは空き家が1パーセント以下という状態を保っているのがわかります。もちろん中古住宅の流通が発展していることもありますが、その根底にあるドイツ人の価値観が影響しているように思います。

日本では、古いものは価値がなく、新しいものこそが価値であるという考え方があります。まだまだ使えるのに、新品に買い替えては新しい方が何でもいいと思い込みます。もちろん、新しいものは電化製品でも新しい機能や改善もされていますからそっちの方がいいというのはわかります。しかし物によっては、古くなる方が味が出るものがあったり、古いものこそが価値があるというものもあります。

しかし、現在の骨董品や古美術を含め日本ではあまりアンティークなどの品物は流通せず常に新しいものばかり、使い捨てのものばかりの流通が盛んです。身近なところに古い価値のあるものがなくなってきているから余計に古いものの価値を感じなくなっているのです。ドイツ人は物に備わっている経年変化や「歴史的価値」というものを大切にしているのでしょう。日本人はいつからそういうものがなくなったのかと不思議な思いがします。

日本では住宅の価値は22年も経てばほぼ9割は無価値であると評価されます。土地の価値だけになると、駅から近いか、近隣の環境が整っているか、利便性はなど、その土地があるところの価値だけの評価になります。実際には、家は古くなればなるほどに歴史的な価値も向上するはずですがその価値はまったく尊重されることはありません。

まだ住める家かどうかが重要ではなく、価値があるかどうかで家が売り買いされ、ほとんどが新築になっていきます。車社会になってからは、市街地の家を解体して建て直すのではなく少し離れたところの土地を整備しそこに戸建て住宅を販売しています。それがまた年数経ったら空き家になるのは、駅からも遠く利便性も悪く、土地の価値もなくなっていくから買い手がつかないのです。

人間はいい町に住みたいや環境の豊かなところに住みたいというまちづくりと関係する部分と、素敵な家に住みたいという部分があります。この豊かな町で素敵な家にというものは、その人物や民族の価値観がどうなっているかでその後の空き家につながっていくのでしょう。全体善を考えたり、伝統や伝承を考える少しの心の余裕が物の見方を変えていくのでしょう。

このままでは近い将来に世界一の空き家大国になってしまうことは統計からも証明されています。子孫のことを考えてみても、空き家ばかりが遺されたスポンジのような風景や、幽霊屋敷のように壊れて廃墟と化していく街並みなどは観たくはないはずです。

だからこそここで必要なのは、価値観の転換であり古いものの中に価値を見出すという事例が増えていくしかありません。本来、日本人の持っている精神でもあった「もったいない」というものは、目には観えないものへの思いやりや価値を大切にするという生き方のことです。

空き家が増えていくのをみると、「もったいない」と感じます。心の空き家や隙間ばかりが増えていかないように、日本古来からの家の歴史的価値を復古創新し今に伝承していきたいと思います。

空き家問題と生き方

現在、日本では少子高齢化、人口減少化が進む中で空き家問題ということが発生しています。野村総合研究所NRIのデータによると「空き家」は2018年以降から急速に増え続けることが分かっています。具体的には現在は7件に1件の空き家ですが10年後の2028年には、現在の820万戸の2倍以上になり4件に1件が空き家という状態です。15年後の2033年には3件1件が空き家になると予想されています。

2015年に政府は「空き家対策特別措置法」を施行し、空き家の管理を怠ると罰金50万を課したり、特定空家等(倒壊等著しく保安上危険となるおそれのある状態又は著しく衛生上有害となるおそれのある状態、適切な管理が行われていないことにより著しく景観を損なっている状態、その他周辺の生活環境の保全を図るために放置することが不適切である状態にある空き家)になると税金を6倍課せられるようになりました。

しかしこれらはこれ以上空き家を放置しないための対処療法であり、空き家の本当の問題の根元的な解決は進みません。前の代が遺したツケをどのように私たちは清算し、子孫にツケを残さないで片付けていくことができるか。世の中は、ジワジワと浸潤していくことはあまり関心を持たず、目立った短期的で派手な問題ばかりが注目されるものです。しかしこの空き家問題はこの世代を生きる私たちには決して避けては通れない大きな問題なのです。

現在は、全国のあらゆる場所で老朽化したり廃屋化したりしている空き家を見かけるようになりました。私の郷里でも、明らかに人が住んでいないで瓦が落ちたり、窓が割れていたり、木が腐ったり、外観がボロボロなビルやアパートを見かけます。東京でも、集合住宅やタワーマンションなどの空き家が増えて管理費が減ることで修繕できないままに老朽化が進んでいるものも増えているといいます。もともと日本は高温多湿の自然環境ですから、風を通さなければ水が停滞しそこから腐敗して傷みを早めます。

これだけ空き家があっても、人はみんな新築の戸建て住宅を購入しようとします。リノベーションやリフォームをして住む家も少しは増えてきましたが、築50年を超えるような建物をリフォームして住むというケースはほとんどないといいます。「築年数が古い」ということが地震対策や風雨対策ができていないと理由などがあるといいます。

本来、古民家は200年、300年とあるようにそれだけの日本の自然環境の変化に適応してきた住宅です。しかし明治以降の特に昭和や平成の住宅は海外の簡易モデルで建てていますから30年~50年くらいしか住まない計算で建てているから仕方がないともいえます。

その頃は、人口増加で勢いがありましたからまた壊して建て替えればいいと思っていたのでしょうが人口減少で建て替えることもなくなってくるとこの空き家は誰が処理していけばいいのかという問題が出たのです。

空き家を片付けるにも大変な費用がかかります。またそこに住む人たちが今まで培ってきたまちづくりのデザインも崩れていきます。通りには、空き地や駐車場だらけで歯抜けのようになっていたり、太陽光パネルや古紙回収、コインランドリーや自販機などで溢れていてはとても住みたいと思うような町の景観ではありません。

ドイツなどでは町の景観を維持されていて通りも美しく保たれています。この町に住みたいと思うのも、そこに住んでいる人たちがデザインした暮らしを感じることができるからです。

空き家問題は、まちづくりの問題と直結しています。これは自分たちが住むまちをどのようにグランドデザインするか、それをそれぞれが考えて自分たちが責任をもって参画していく必要があります。私たちの世代は人の関係が希薄になり、地域のコミュニティも減退するなかで、自分の短期的な視野だけで一代限りの使い捨てで生きるのではなく、遠い未来の子孫たちや全体善のために長期的なビジョンを描いて味わい深くどう生きていけばいいか向き合っていく必要があります。

子どもたちに負のツケばかりを残さないで、子どもたちが安心して活躍できるものをたくさん譲り遺してあげたいと思います。そのためにも、恩や徳に報いる生き方を実践し伝承していきたいと思います。