馴染む

先日、左官の親方から「土が馴染む」という話をお聴きしました。今の時代は納期が短く、すぐに結果を求めてものづくりをするから時間をかけて馴染むということをしなくなったと仰っていました。

そもそも馴染むというものは、時間をかけることで行われるものです。新しかったものが古くなるというのは、単に経年劣化ではなく経年変化していくということです。それは人間関係でも同じく、幼馴染や昔馴染みというように御互いが調和して解け合い親しくなるということです。

昔の道具たちや古材の魅力はこの「馴染む」ということによります。先ほどの土であれば使っているうちに次第にひび割れたり壊れたりします。しかしそれを修理修繕しながら大切に親しんでいけばそのうちに馴染んでくるのです。

この馴染むというのは、古いということであり、この古いということは安心するということです。親しみが深くなればなるほどに心の安心感は深くなっていきます。これは住居や道具たちとも同じで、馴染むほどに親しくなればそれはもうパートナーです。そのパートナーたちと一緒に暮らしていけるということが、どれだけ心に安心を与えるかといえば家族と同じほどに心を許し開いていきます。

自分が居心地が善く安心するのは、古いものに囲まれているからです。新しいものばかりのワクワク感もいいのですが、古いものが持つ安心感は格別なものです。今、復古創新に取り組んでからまだ日は浅いのですが古いものたちが馴染み合う姿に歴史の重みと有難みを深く味わっています。

私たちの先祖たちが暮らしてきた生き方に、自ら馴染み近づいてさらにもう一歩踏み込んで伝統を革新してみたいと思います。

左官との出会い

昨日、大分である有名な左官の親方とお会いする御縁をいただき土場工場を見学する機会がありました。そこには様々な土壁や漆喰の塗り見本のサンプル、また見たことのないような今の時代に合った商品が開発されていました。すでに40年近くこの道を進まれ、今では伝統や技術を継承するために様々な活動を行っておられました。

今はあまり土壁を塗るという機会が少なくなり、若い人たちに経験させてあげる機会が少ないと仰っていました。文化財の修復や個人の住宅のリフォームなどで土壁を塗る機会があるときは文化伝承のために学ぶ機会をつくっておられました。文化伝承は一度途切れると二度と取り返しがつきません。先人たちからの大切な技術や心を伝えるために、親方として色々と苦心なさっているのが印象的でした。

土については、かねてから御指導いただいている方もいて改めて土に興味を持つと不思議な魅力に満ちているのを発見します。こんな面白い世界があったのかと、炭も鐵も砂も土もどれも自然が産み出した至高の材料たちです。

この「左官」という名の由来には諸説あるそうですが、まず律令制度の時の官位として『官(大匠)を佐たすける』という意味があること。または砂を使うので「砂官」「沙翫」とし土を薄く塗って、向こうが透き通るような「紗(しゃ・うすぎぬ)」を作るから「紗官」の意味もあると言われています。どちらにしても、土や砂、水や鉱物、全ての素材の本質やその徳性を知り尽くしているだけではなく、様々な素材との調合によって様々な色合いや色彩、技法を盡した総合芸術でもあります。

本来、この土を塗るという仕事は遡れば縄文時代の前から行われていたものです。竪穴式住居の壁も土を見分けて塗り固めていました。その後、土器や竃などもすべて土で行われます。どの土を調達するのか、その土をどのように調合するのか、あらゆる素材を知っているからこそその土を産み出すことができるとも言えます。日本の伝統的な和の住空間を考えるとき、そこには必ず左官がいます。今では左官職人が減ってきて伝統が途切れそうになってきているといいますが、和の住空間の需要がそれだけ失われてきているということでもあります。

昨日の御話でとても印象に遺ったのは、「土に近づく」ことの大切さです。現代は、すぐに壁をクロスを貼って部屋をつくりますが土だとすぐに何か物があたったりするとボロボロと壊れていきます。クロスはそれがないから安心といいますが、実際はガラスのように割れるものであり、土は壊れるものです。そこから大切に扱うことを学び、ものを大事に接する素養が自然に身に着きます。自然素材というものは脆いものですがその分、手入れを怠らず丁寧に修理していけば何十年何百年と維持できるものばかりです。

親方は土のワークショップと称し、子ども達が様々な土に触れる機会をつくっています。土に近づくような生き方をしようと、新たな作品を産み出し続けるだけではなくその生き方を通して日本人としての本質と文化、その価値を新たに刷新するために初心の伝承を行っておられました。

今回の聴福庵の復古創新ではじめに出会ったのがこの左官という志事です。どのように今の時代に合わせて伝統の革新をするか、私自身もこの場を見極め本質をさらに深め、よくよく自然から学び直しつつ、生き方と働き方の一致を実践していきたいと思います。

聴福庵の初心

私たち日本人は和風の空間の中に入ると心が和み落ち着くものです。これはもともと私たちが懐かしいと感じる心から来るものです。私たちが心で感じるものは、全てかつて体験したものです。心にそれがあるからこそ、その心が感応してそれが出てくるのです。

この和風の空間というのは、私たちの暮らしの空間のことです。心が落ち着くということは居心地がいいということです。そして居心地がいいというのは、一緒にいたい存在ということです。それだけ永く共に暮らしてきた家族家庭があることを人は「懐かしい」と思うからです。

例えば、和風の空間には様々な家具や道具たちがいます。外からは採光が差し込み現れる薄い陰、縁側から穏かに流れてくる涼しげな風の音、また水や木の薫り、炭の温もりや静かなけむり、それらはすべて懐かしいと感じるものです。

私たちが懐かしいと感じるものは、かつて永い間生活を共にして助け合い認め合い尊重し合った大切な仲間たちでした。自然界では、自分たちが生活を共にする仲間たちとともに文化を形成します。畑で作物一つ育ててみても分かりますが、何かを育てればそれに近しい親類たちが自然に集まってきます。虫なども同じで、自然に親戚が集まってくるのです。

家族というものの定義が何か、親戚たちが集まり仲よく暮らしていく中で自ずから仲間が共に暮らしはじめていく。ここに本来の家族の意味があるように私は思うのです。

今の時代、かつて悠久の歴史を共に生きてきた仲間を思いやらず人間のみ中心の世界を築くことで次第に仲間が減っていき孤立してきています。仲間に対する扱いもただの食べ物として扱い、ただの置き物として扱い、価値がないものとして粗末にしています。大量生産大量消費そのものが、いのちを単なる「物」としてのみ扱い、本来のもののあわれといった心がある存在として感じられなくなってきています。

昔の仲間たちが傍にいる安心感というのは、格別なものでそれによって心は深く和み癒されていきます。今は本来の社会が失われ孤立で苦しみ病み悲しんでいる人たちがたくさん増えてきました。その空間には果たして仲間たちが親しみ合い結び合う「もったいない」という御縁の繋がりといのちの鼓動がいつも聴こえてくる環境なのでしょうか。

私が今、実践し弘げようとしている聴福というのはそのいのちの声を聴くことです。それは仲間であることを思い出させることです。本来、人間も自然の一部、仲間そのものです。そこから離れすぎてしまえば我儘で傲慢さゆえに孤立が深まっていきます。確かに自分の思い通りの道具を仲間と呼ぶ人もいますが、本来の仲間とは自分が扱うように扱われるものです。尊重し認めていないものを果たして仲間と呼ぶのか、そして果たしてどのような親戚が集まってくるのかと私は疑問に思います。仲間と共に暮らす物語を一家として志すことが親祖から連綿と続いてきたいのちの文化を子孫へ譲り渡していくことです。

和風の空間の本質は、仲間と共に暮らす場ということです。

改めて聴福庵の初心との御縁がどのように変化成長していくのか、大義を忘れずに真心を盡していきたいと思います。

立志聴福

昨年、石見銀山の他郷阿部家に訪問するご縁をいただいてから復古創新という言葉に出会いました。論語の温故知新という言葉は知っていましたが、本来の日本の文化である「勿体ない」という考え方に繋がってはいませんでした。

しかしあれから1年近くが過ぎ、価値を新たにするということの深い意味とそれは今を生きるものたちの使命であることを実感しています。

私たちは「不易と流行」という変わるものと変わらないものの中にあってその時代時代を生きそして暮らしを継承していくものです。明治以降、江戸時代の鎖国の反動からか西洋の文化が流入し何でも新しいものに価値があるという価値観が広がり古いものには価値がないとさえされてきました。それからの日本は、本来の価値のある文化遺産をタダ同然に捨てていきました。現在は一部の人だけが骨董品や、嗜好品などといって収集していてそれを売り買いし、本来の伝統や伝承の意味が正しく継承されていないようにも思います。

他郷阿部家の松場さんご夫妻は、『「世の中が捨てたものを拾おう」という考え方を持ち「復古創新(ふっこそうしん)」つまり古いものに固執するのではなく、いにしえの良きものをよみがえらせ、そのうえに新しい時代の良きものを創っていくことを大切にしよう』と実践なさっています。そして最近の解釈では「革新の連続の結果が伝統であり、革新継続の心は伝統より重い」とブログにも紹介されていました。

ただ古いものを遺せばいいというものではなく、それをどのように革新していくか。つまりその時代時代を生きるものの使命として、かつての日本の心や精神を身に着け、さらにはそれを今の時代で反映しより善く発展できるように精進する。「不易と流行」の本質はこの復古創新にこそあるように私も思います。

そしてこれは「生き方」のことを教えてくれているものであり、この時代、どんな生き方をするのかと私たちは今、問われているのです。

世の中がどう変化して変わったとしても、生き方を変える必要はないはずです。生き方を変える必要がないのなら、変わるところはさらりと変わる。変化を愉しみ変化を味わうのは、変わる楽しさを知っているからです。そして変わる楽しさとは、自分が自然に照らして間違ったと気付いたらすぐにそれまでの人間中心の生き方から自然に寄り添い尊重する生き方に変わっていけばいいということです。

謙虚さというものは、自然を尊重し自分を変えていくことです。そして素直さというのは、日本古来の生き方を維持し大切な大和魂を守ることです。この変わるものと変わらないものとは、自然界と人間界の道理であるのです。自然に逆らわず自分たちの方を変えていくことが悠久の歴史において時代を循環し革新していくシンプルな法理なのでしょう。

ここにきて私にも地域への御恩返しができる「場」が与えていただけたこと、さらに一つの出会がから多くの出会う「間」、日本古来の大切な文化を守り生き方を変えて革新していこうとする仲間たちが集まってくる「和」に喜びを感じます。古来のかんながらの道、そして立志聴福、子ども達に安心して時代を譲り渡せるよう日々新たに温故知新していきたいと思います。

水の徳

自然界というものは、常に万物流転しているものです。ありとあらゆるものに容を易えながら消えては現れ、そして顕れては消えていきます。しかしその本体は普遍的なもので存在しています。それは種が育ち花を咲かせ実をつけそしてまた種になるのと同じです。

自然の中においては土があり、木があり、そして鉄があり、火や水があります。私たちは鐵を中心に周りを水で包まれた惑星に住んでいます。私たちがもっとも師とする生き方は水であり、水と一体になって存在するこの地球は水の生き方から離れることはできません。

老子に「上善水如」があります。

「上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾し、居るは善く地、心は善く淵、与うるは善く仁、言は善く信、正すは善く治、事は善く能、動くは善く時。それただ争わず、故に尤なし。」

意訳ですが、この世に在る至上の善を司るのは水である。水はこの世にある一切のものの役に立ちそして何ものとも争わず常に人々が嫌がるような低いところに存在している。その水の生き方はまるで道のように謙虚である。よく水が居るところは大地を潤し、その心淵は深く澄み渡っている、思いやりを与え続け、嘘もなくそこには信頼がある、私心なく治め、事は能力を活かし、動く時を知る。どんな時においても何ものとも争うことがない、そして決して誤る事がない。と。

水とはもっとも身近にあって空気のように気づかない存在ですがその持つ「徳」は、自然界では最も至大至高の存在なのです。先祖たちは常に水から学び直し、その謙虚で素直な姿に自らの心を祓い清めて真心を発揮していたように思います。

水の徳性として、「恩恵」「不争」「淡泊」「秘力」があるといいます。それは日頃から万物に利益を与え、常に謙虚でしかも柔軟であり、執着が無くさわやかに振舞い、時には大暴れの実力を秘めているということです。

さらに氷から水蒸気、霧や雨、空気にいたるまであらゆるものに寄り添って変化を已みません。万物流転し循環を促し見守る存在こそ水なのです。

この時期は田植えがはじまり今日も水に学ぶ一日になります。日々、学び直しを繰り返し傲慢になっている自分を省みて穢れを水に流し、新たな気持ちで再生していきたいと思います。

 

とも

今の時代は友達というものの言葉の意味が変わってきているように思います。自分を中心に人を分けては差別し分別し争いは尽きません。本来、人類をはじめすべての生き物たちはこの世の中で共に助け合い支え合った友人たちとも言えます。悠久の年月、自然災害や様々な困難、また平和で豊かなときも苦楽をずっと一緒に乗り越えてきた友達とも言えます。

友というのはプロセスを一緒にいきる、二つではなく一つの存在のことであり、分かれているものを自分勝手に分別したのを友とは呼ばないように思うのです。言い換えれば周囲にあるすべてのもの、地球に存在する生物非生物いたるまで、いのちはすべて友とも言えます。

アメリカインディアンたちは、自然と共に暮らしてきました。自然と共に生きる者たちはすべての声を聴き、すべてのものと「ともに」往きます。つまりこの「とも」の言葉の響きが「朋・伴・共・友」と同義でありすべてのいのちと歩むのです。彼らの言葉の中にそれが観得ます。

「地の果てまで行っても、海の向こうまで行っても、空の果てまで行っても、山の向こうまで行っても、友達でないひとに出逢ったことはない」

「植物は人の兄弟姉妹、耳を傾ければ語りかける声を聴くことができる」

「どんな動物もあなたよりずっと多くを知っている」

こちらが耳を傾けていけば、友はこの世に満ちています。しかし今は、自分の人生に縛られ時間に縛られ、大切なことを感じることができなくなっているように思います。星の王子様にこういう言葉があります。

「人間たちはもう時間がなくなりすぎて、ほんとうには、なにも知ることができないでいる。なにもかもできあがった品を、店で買う。でも友だちを売ってる店なんてないから、人間たちにはもう友だちがいない」

なんでも結果だけを重視し、評価ばかりを気にして生きていたら大切なものに気づけなくなります。この世でもっとも大切なものは一緒に寄り添い生きる友であり、その暮らしの中で助け合う仲間です。時間というものの概念が、様々なものを見えなくしていったように思います。悠久の自然の中にある自他の存在に気づくことが、友を見出す入口になるのかもしれません。

アメリカンインディアンたちは自然と「とも」に生きて私たちに伝えます。「日と夜、季節、星、月、太陽、その移ろいを見れば、人より偉大な何かの存在を思わずにはいられない」と。ともに生きる人たちには、そのともに生きる存在を感じ、友に常に心を開いていくことを大切にする生き方をしています。そこでは現代社會にあるような様々な孤立や偏見、差別は存在しません。それが自然界だからです。

最後に谷川俊太郎の「ともだち」と題する言葉から抜粋します。

「にんげんじゃなくても ときには ともだち。

どうしたら このこの てだすけが できるだろう。

あったことが なくても このこは ともだち。

このこのために なにをしてあげたら いいだろう。

あったことが なくても このこは ともだち。

おかねもちのこ まずしいこ、
どうしたら ふたりは ともだちに なれるだろうか。

だれだって ひとりぼっちでは いきてはゆけない。

ともだちって すばらしい」

人間は立場を分けたことで、本当の人間関係が築けなくなっている人が沢山います。きっとみんなそれでとても苦しんでいますから、同じように苦しんでものをみてほっとけない、なんとか助けてあげたい、時には共に寄り添い見守りたい、そう思うのが人間本来の素直な心情ではないかと思います。真心はいつも自然に湧き出てくる自然体の中に在ります。自他に正直に生きていけるよう、子ども心を大切にともを守っていきたいと思います。

 

ゆるさの本質

先日、高校で一円対話の聴福人をある先生に実践していただきました。その先生はとても明るくポジティブ、そして何より「ゆるい」性格の方で愉しそうに一円対話を子ども達と実践していました。一円対話は場創りが重要であり、その「ゆるさ」がとても場を和ませていたことが印象的でした。

ここ数年、ゆるキャラブームもあり「ゆるい」ということが使われるようになってきました。改めて「ゆるい」ということを深めてみようと思います。

そもそもゆるいという字を辞書で調べてみると、 張りぐあいや締めぐあいが弱い。また、すきまなどがあり、ぴったりとしない。 曲がり方や傾斜などが急激でない。 激しくない。勢いが弱い。また、ゆっくりしている。 規則などが厳しくない。寛大である。 水分が多くやわらかい。 気持ちがたるんでいる。などが書かれています。

実際にゆるキャラをみると、なんとなく抜けていて柔かい感じがします。つまりキャラクターがゆるい、そののんびりした存在にかわいくて癒されるとか感じて人気があります。どこかゆるキャラは不完全なところがあります、別に完璧でなくてもいいというその方がゆるくて楽しいという存在そのものの価値を感じられるものです。こうでなければならないやこうあらねばならないという固執したものがなく、融通無碍にありのままの不完全で和んでいるのが「ゆるさ」の特徴です。

広辞苑にはこの「ゆるい」の用例として吉田兼好の「徒然草」にある、『緩くして柔らかなる時は、一毛も損せず』と書かれてあります。これは「心がゆるやかで柔軟な考えができる時は人間関係がどうあったとしても他人の考えに影響を受けることなく髪の毛一本さえ傷つけられない」とあります。つまり心が寛大で寛容な人は、どんなものも受け容れるゆるさがあるがゆえに物事を受け容れる心の広さがあるということでしょう。心が広い人は、どんな出来事もポジティブに受け容れそれをまた取り容れる余地が沢山あるので自分の考えに固執しなくても自分の考えをちゃんと貫くことができているということです。

この徒然草の前にはこうあります。

「身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右(さう)広ければ障(さわ)らず。前後遠ければふさがらず。狭き時は、ひしげ砕く。心を用ゐること少しきにして厳しき時は、ものに逆ひ、争ひて、破る。ゆるくして柔らかなる時は、一毛も損せず。人は天地の霊なり。天地は限るところなし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして窮まらざる時は、喜怒これに障らずして、もののために煩はず。」

意訳ですが、「誰にも依存しなければ、順調な時に喜び、逆境にある時に恨むこともしなくてすむ。左右が広ければどんな物に妨げられず、前後が広ければどこまでも行き詰まりがない。周りが狭い時は体が押しつぶされる、心を用いる時に余裕と柔軟さがない時は人と衝突し争って身を損なうことになる。ゆったりとして大らかに生きる時は毛一本ほども損なうことがない。 人は天地の間に存在するいのちの一つである。その天地の間には限界というものがなく無限そのものである。それは人の本性もそれと同じはずで心が寛大で限りなく広い時は、喜怒の情も心を損なうことがなく何かに煩わされることもないのである。」ということです。

つまりゆるさの本質は、「寛容・寛大でありゆるいということは自然に変化を愉しんでいる前向きな姿勢」ということです。人は固執することで執着が根深くなり、そのことで自我ばかりが強くなり周りを受け容れることをやめて強情になってしまうものです。しかし変化を愉しみ味わう人は、「あれもあり、これもあり、どれもあり」と何でも認める寛容さがあります。それは多様性を活かす考え方でもあり、それぞれの持ち味を発見し活かすコツでもあります。そしてこれは聴福人の大切な素養の一つです。

正しいことばかりが増えてくると息苦しくなってきます。そんなときこの「ゆるさ」といった寛大な心があれば正しいことよりも楽しい、そして面白い嬉しいと感じられるように思います。自然界はみんなこの嬉しき、楽しき、面白きに生きているいのちばかりです。

カグヤの理念は子ども第一義、このスローでゆるくポジティブな自然一体の子ども達の子ども心を見習って人間の世界であまり依存しすぎないように、常に自然の中で心を軽くしてウキウキワクワク緩やかに生きていきたいと思います。

 

 

自然の改善

人は自分がどのように育ってきたか、育てられてきたかというのは今の自分の価値観を形成するにおいてとても大きな影響を持っています。特に両親や祖父母の存在、または環境が与える影響は著しくその後の人生を左右するものです。

そしてそれは価値観を形成し、どのような評価を持つかということに繋がっていきます。自分の価値観が一度形成されてしまうと、その人にとっての「当たり前」のルールを持ちます。するとその価値観の中で様々なものを仕分けし、価値観以外の出来事を異質なものとして排除したり取り容れたりしていくものです。

特にその後何らかの教育を施され、皆と同じでなければならない、これはやってはならないなど様々な「ねばならない」という価値基準を刷り込まれてしまうとさらに価値観の中にその「当たり前」は定まっていくものです。それをその人にとっての「常識」と呼んでもいいかもしれません。

本来、人間は寛容さを失うとき柔軟性と多様性を失います。つまり変化を受け容れることをやめるとき、朽ち果てていくとも言えます。それは植物でいえば、新芽若葉が枯れ木になるようにその他の動物たちが赤ちゃんから年寄になるように柔らかいものが固まっていくものです。

それは価値観も同じく、年老いていけばいくほどに価値観が確立されていき次第に様々なことに固執していくものです。そして価値観が一つの考え方、ものの見方に固執してしまえば自分の方の寛容さも同時に失ってしまうものです。

例えば自然界というものは、常に自分の方の変化が必要になります。雨も風も太陽も、または災害もこちらではどうにもならないほど自然は正直です。その自然に向かってどうにかしようとしても、自然はそのままあるがままですからこちらが変化するしかありません。寒暖風雨には自ら場所を移動し、寄り添い寄せ合い、寒さをしのぐ逞しさを鍛え助け合い生き残ります。人間のように暖房があるわけではなく、暖炉があるわけではない生き物たちは相手を変えようとはせずにさらりと自分の方を変えていきます。自分の価値観ではどうにもならないほどの体験を、思い通りではない体験を素直に受け容れる柔軟性、またそれぞれの持ち味を活かして周りの生き物たちと一緒に乗り越えようとする多様性が自然界の智慧なのです。

人間も同じく生きていく上においてその場面は何度も「変化」という名目と共に訪れます。変化するということは、自然の智慧に回帰することです。本来の自分たちが大切に維持してきたその能力、言い換えれば素直な能力を存分に発揮することこそが自然の姿であり、その素直な能力があるから自然に回帰して不自然が消えていくのです。

人間も自然の一部ですから、本能が不自然を察知して変化をはじめるものです。自然か不自然というモノサシを価値観とは別に持てるようになれば自ずから異質なものを認める寛容さを磨き素直の能力を活かして価値観をブラッシュアップしていけるように思います。そのためには減点法やマイナス思考というそれまでに刷り込まれた価値観を手放し、逞しい前向きな自然の改善の姿に回帰していくといいように思います。

引き続き、子どもの生き方に学び直し子どもの周りに自然を育んでいきたいと思います。

純粋とは何か

物事の実相が素直に観える人は、心が澄んでいます。心が澄んでいるというのは、あるがままを感じることができるということです。言い換えれば、純粋な心のままということを言います。しかしこれはどのようなものか、改めて純粋ということの意味を深めてみたいと思います。

まず純粋という字を辞書でひくとまじりけがなく、邪念私欲がなく、一途さやひたむき、打算や駆け引きがないことなどが書かれています。そしてこの字の生い立ちを見て見ると純はたばねた髪飾りをつけた幼児の象形でまじりけのない美しさの意味を表します。そして粋も完全に精米した米の意味から、まじりけがないの意味を表します。これらはまじりけがない存在のことを純粋としています。つまり全体から感じるイメージは「まじりけがない」ことが純粋さのことであろうと思います。

しかしまじりけがないとは何か、何がまじることなのかということです。まじるというのは不純物が入ることと思われます。しかしちゃんとまじるものこそが純粋とも言えます。それは混然一体のまじりけこそが純粋そのものなのです。つまり何でも素直に受け容れることができる、それが純粋でいうところのまじりけがないということだと私は思います。つまりまじりけがないということは、すべて丸ごと混じらせることが出来るという意味です。

だからこそ純粋な人とは、素直で寛容な心を持つ人だとも言えます。さらに心が開いているオープンな人でもあります。これは言い換えれば、子どもの純粋さと同じです。子どもに善悪はなく、こどもに正否はありません。心のままにあるがままにありとあらゆることをそのままに感じる素直なままの存在です。それが大人になると次第にその心が閉じていきます、閉じないためにはあるがままの全てをあるがままに受け容れて味わっていくことで子ども心は維持されていくのです。一円対話の妙味も其処に尽きるとも言えます。

詩人で書家である相田みつおさんにこういう詩があります。

「あなたの心がきれいだから なんでもきれいに見えるんだなぁ」

これはきれいをきれいと感じている人の純粋さを語っているようにも感じます。つまり心がきれいかどうかもありますが、そう味わっているんだと思えるということです。

他にも「雨の日には 雨の中を 風の日には 風の中を」があります。これも同じように自然のままに純粋に味わっている姿があります。「体験してはじめて身につくんだなあ」などもあります。同じく詩人坂村真民さんは「万巻の書を読んでもその姿勢が正しくなかったら何の価値もない 大切なのは人間を見る眼の人間に対する姿勢の 正しさにある 真実さにある 純粋さにある」と言います。このお二人のどの詩にも物事の実相のことが素直に語られています。

このありのままのことをあるがままに感じる感性、それを素直さとも言い換えてもいいと思いますがこれを磨いていく人こそが純粋性を保つ人のように思います。いちいち味わうことをしないために知識で塗り固めていたら、大切なものを感じる素直な心も次第に消失していくものです。どんなことも丸ごと受け容れる、どんなことも善いことだとして受け容れる、そういう味わい深い生き方の中にこそ純粋さはあるように私は思います。

子どもを守る仕事、子ども心を見守るのだから大人になっても老人になっても一生涯常に自らを素直に省みて万物渾然一体自然一円観に純粋な日々を歩んでいきたいと思います。

素から直す~陽明学~

日本に影響を与えた人物に中国の王陽明がいます。王陽明の生き方や思想、その生き様は日本では中江藤樹や吉田松陰をはじめ様々な人たちが影響を受けてその学問を深めていきます。

王陽明の思想は、「心即理」であり私の解釈では心とは知良致であり、明徳であり、直毘霊であり、大和魂であり、現代の解釈では素直であるということです。王陽明は、「抜本塞源」という言葉があります。これは「根本から誤りを是正しなければ意味がない」ということです。「素直」という字も、「素から直す」と書きます。そもそもの中心になっているものを見直し、原点回帰しなければ直るものも直らないということです。そしてそれは素直になることであり、素直の能力を磨くことでしか本来の心は出てこないと言い切るのです。

そのために必要なのは、「事上練磨」という日々の実践をどう磨き己に克ち続けるかと言います。素直を磨くために境遇に一喜一憂せずに只管に真心を練磨していくための実践を行うことだと言います。学問のための学問ではなく、まさに自分の真心を盡すために生きることを言います。それを吉田松陰は「至誠」と解釈し、環境や状況に有無を言わずただ一心に真心を盡すのみと人生を生き切ります。この生き方こそが王陽明と同じであり、陽明学の真髄はこの至誠に尽きるようにも思います。

王陽明という人物は、文人としても武人としても立派な人であり荒廃した村に学校をつくり人々を導き徳のある村にしたり、戦では一滴の血を流さずに戦争を終結させたり、政治がとても乱れて賄賂も横行していた慾に乱れた世の中においても私財をなげうって貧しい人たちに寄り添い続け義を貫いた生き方を実践しました。

陽明を慕う人々は、何よりその純粋な生き方をみて感じ入るものがあり素直に生きること、心のままに行動し実践することの美しさを感じるように思います。今の時代、美しく生きるということが難しくなってきていますが本来の先祖たちが目指した生き方はこの「心即理」に適っていたように思います。

ではその心が理から離れるのはなぜか、それを王陽明は山中の賊になぞらえてこう例えます。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」

自他の中に賊あり、その賊が邪魔をして素直な心はかきけされていきます。たとえ山にいるような山賊を倒すのは容易でも、心の中にある賊を倒すのは難しいということです。実践を通じて自分がブレていることに気づきそのたびに根本に回帰し、素から直すことを繰り返しながら、本来の心のままでいるための克己の工夫をどう磨いていくか、日々は事上練磨ですから今日も真心を盡して素直のままの心を育てていきたいと思います。