心がけを増やすこと

昨日は心がけのことを書きましたが、心がけは関係性でもあるように思います。よく絆という言い方や、結びつき、つながりなどという言い方もありますがこれは心がけで結んだ関係のことを言うように思います。

例えば、生き物を育てるという行為においてその生き物のことを心配し一緒に暮らしているうちにその生き物との間には絆ができます。御互いがお互いのことを気にして、心を通い合わせていきます。

それは直接的な水やりなどの行為だけではなく、そのものを大切にしようといった心がけによって絆が結ばれ強くなっていくのです。自分が「心から」やったことは思いやりが通じますから絆が結べますが自分が心でなく頭でやったことは絆が結べずに関係性が発展していくことがありません。

自らが頭で考えて行うのは、自分の心がけに関係するように思います。どんな心がけを大切にするかは、どれだけ相手のことを思いやるかということです。思いやりの素晴らしさは、そういう周りの絆や結びつき、つながりを広げていくことができその心がけの積み重ねにより心が周りから離れないことに由ります。

心はつながりを深めていくことでより洗練されていきますから、心を開いて心を通じ合わせていくことで次第に真心は澄まされていくように思います。

真心を磨くというのは、心がけを積み重ねるということです。言い換えれば、どんな対象のものであっても思いやりで接するようなものです。ものを粗末にしないというのも、感謝を忘れないというものも、恩に報いたいというものも、それは心がけです。

心がけがあれば有難い見守りを感じられるように思います。心がけを日々に実践する人は真心の行動が次第に増えていくように思います。周りの結びつき、つながり、絆を大切にすることが見守り見守られる関係を強くして安心できる環境を創造していくように思います。

子ども達のためにも、心がけを忘れない実践を増やしていきたいと思います。

暮らしの道具~囲炉裏の本質~

先日、縄文時代の竪穴式住居の遺跡を見学する機会がありました。先祖たちがどのように暮らしてきたのか、その住まいには何を大切に守って何千年も生き抜いてきたかの薫りがあちこちに遺っていました。

特にもっとも印象深かったものは、「囲炉裏」です。住居の真ん中に、炭の跡が遺り、そこで日々に火を囲み、炉を見つめては一家団欒をした様子が伝わってきます。火のぬくもりの中で、美味しい料理と会話があればそれだけで日々の暮らしは安寧であり仕合わせで豊かだったのでしょう。夜の暗闇の中に在る火にどれだけ人々は癒され続けてきたのかと感じます。

囲炉裏はその後、現代になって失われましたが客人をおもてなしする様式として発展しその究極の姿として茶室となったとききます。茶室を設けるのに、囲炉裏があるというのは本来の昔の様式を今に遺している日本の心や文化が今でも継承されているということでもあります。

動物たちは火を使いません。私たち人間は火を扱うようになり、火と共に暮らしてきたことで私たちはいのちをつないできました。炎は私たちのカラダを暖めただけではなく、その心も暖めつづけてきたから永いときを幸せに暮らせてきたとも言えます

その火を真ん中に置いて皆で囲む姿こそ、私たち人間のコミュニケーションの原型ではないかと思います。一緒に食べる、一緒に暖まる、一緒に暮らす、これらは火を囲むことで実現します。囲炉裏のもつ深淵さは、「炭を纏い火神と解け合い、心暖まる」ということの中に真理があります。

囲炉裏で一杯のお茶をいただき、ほっとする時間があるからこそ人々の暮らしは心休まるのです。和を尊ぶ先祖たちが暮らした道具の中でもっとも大切にしてきたものが囲炉裏であったのでしょう。

囲炉裏のある暮らしを通して、先祖たちの初心を伝承していきたいと思います。

自然への畏敬

自然農の畑で高菜の間引き作業をしていると、根元にテントウムシたちが越冬のために隠れています。よく木の皮に隠れている様子をみたことがありますが、高菜の根本にも何匹も隠れている様子に同じように越冬しやすい環境があるのだろうと驚きました。

何でも手作業をしていると、今まで見えなかったものが観えてくるものです。

今は何でも簡単便利に機械やお金で解決する方法で楽をして一気に効率よく進めることが良しとされる価値観があります。手間暇かかることを避け、出来る限り面倒なことは避けたいとエスカレーター式に進んでいくことを望んでいる人も増えました。

今では田んぼや畑に入っても土を触らないで稲を育てられる時代になっているとも言えます。しかし実際は、自分の手で土を触り、自分のカラダで感じなければいのちの様子は感じることはありません。肥料も農薬も使わないというのは、不便で手間暇かかりますがその豊かさというのは自然に触れることができるということです。

先ほどのテントウムシも、その他の虫たちもみんな其処に暮らしています。冬に血液を凍らせないでじっと越冬する様子に、今まで厳しい自然の中で生き延びてきたのだと感じると尊敬の念が湧いてきます。

かつて地球は何度も寒冷期があり、太陽が隠れて厳しい時代があったといいます。その中でどうすれば生き延びれるかを考えて、またその時代が来てもいい様にと敢えて厳しい自然に身を置き続けています。自然はいつまた変化するかわかりませんから、「危機に備える」チカラを捨てることはありません。

私たち人間は、あまりにも豊かであまりにも贅沢な暮らしが続くと危機感というものが喪失していきます。そして変化が来た時、気が付くと自然に順応できずに滅んでいきます。

よく自然を観察しては、どのように生き延びてきたかを学ぶのは変化を学び直すことでもあります。変化できなくなるとき、人類は危機が訪れますから自然をお手本に学び直しを続けていきたいものです。

子ども達に大事なことを伝承するためにも、自然に正対して畏敬をもって語り継いでいきたいと思います。

仲間の絆、心の絆

昨日は、クルーの皆で駅伝に参加する機会がありました。沖縄で参加してから2回目ですが、回を重ねるごとにその意味や深さを感じます。今回は、前回とは走る順番やテーマやチーム分けも異なり、新たな発見もたくさんありました。怪我もなく、みんな元気に走りきることができ有難い気持ちです。

第一走者になってみて、走ってみると最初の大変さというものを感じます。前回はアンカーのプレッシャーもありましたが、今回は最初のプレッシャーというものがあります。

走っていると何度も何度も苦しさが訪れ、楽になりたい衝動にかられるものです。しかし自分が流れをつくろうとしたり、必死に集団についていこうとしますが、それではなかなか踏ん張れないものです。

しかしもっとも絆を感じたのは、やはり仲間のことを思う時です。スピードを落として怠けようとすれば誰がみているわけでもなく自分との闘いの中でその判断はいとも簡単にできるものです。もしも自分一人で走っているのなら、自分自身との向き合いと闘いだけで済んでしまいます。ただ、その時、いつも脳裏によぎりちらつくのは仲間のことばかりです。

仲間もきっと必死にやるだろう、きっと仲間は遣りきってくれるだろう、きっと仲間はこんな時でも負けないだろうと、強い信頼と絆を思うのです。日頃の信頼を思い出し、自分自身を叱咤激励して走るとき、そこに絆を感じます。

結局、人は誰しも自分との闘いを独り行い、己に克つことで前に進んでいくしかありませんがその時々で仲間の存在が絆になってチカラになっているのです。もしも一人なら怠けてしまうようなことも、仲間の絆があれば自分に打ち克つ原動力になるのです。

駅伝の素晴らしさは、どんな時も仲間の存在を忘れないということかもしれません。一緒に走るというのは、それぞれのコースでは一人で走りますが走行中はいつも仲間のことが心から離れません。

私たちは「一緒」をテーマに働きますが、この駅伝の御蔭でいつもそうありたいと感じることがより一層強くなりました。一人だと苦しいだけでも、仲間がいるから愉しくなる。人はつながりや絆があるからこそ、苦しさの中にチカラを得ることができるのかもしれません。

人生はどんな人にも苦難の連続です。そしてみんな自分自身と正対し、それぞれに自分自身に打ち克って人生を歩んでいきます。仲間が一緒にいてくれること、仲間がいると自分自身が感じ続けていることに道を歩んでいく醍醐味を感じます。

ただ走るのではなく、仲間と一緒に走るということ。

これからも「心の絆」を結んで、愉しく豊かに一緒に歩んでいきたいと思います。

天与の持ち味

人間にはそれぞれにその人のもつ持ち味というものがあります。その持ち味とは、良いとか悪いとかではなくその味があるということです。それぞれの味をどのように活かして美味しいものにしていくかはそのものの活かし方にあるようにも思います。

本来、素材というものはそれぞれに味があります。素材の味をひきだすという言い方もしますが、素材はそのままの方が美味しいと感じるものです。料理にも考え方があり、料理人の都合で仕立てていく料理と、素材の都合にあわせて仕立てていく料理があります。

私たちがいつも会社で食べている自然食の弁当は素材に合わせてメニューを決めて、素材に合わせて料理をしています。料理人は素材をどのように活かせばいいかを考えて、その素材が活きるように合わせていきます。ようは活かすも活かさないも料理人の意識に由るということです。

在るものを活かすという考え方は、老子の「足るを知る」という自然観が顕れます。自然界はとても豊かです、それは多様性に満ちているからです。それぞれに個性があり、それぞれに特性を発揮していのちを謳歌しているのが自然界の豊かさです。老子は、足るを知るものは富むといい、あるものを活かそうとするものは豊かであると言います。

このあるものを活かすという考え方は、ないものねだりをしないということです。ないものねだりは比較することからはじまります、世の中は常に評価がありその評価に基づき裁いていますから常に比較されてしまうものです。しかし、ないものねだりをしても自分は自分、その人はその人ですから素直にその魅力や持ち味を認める方が仕合わせだと私は思います。

そしてもしもその人を比較しない本来の持ち味に気づいたなら、その魅力をどう磨いていくか、そして伸ばしていくか、皆の御役に立てていけばいいかを一緒に考えていけばいいと思うのです。

生物非生物に関わらず、それぞれには天与の持ち味があります。自然が与えてくださったそのものの豊かさを皆で味わっていくことは、生きていく仕合わせ、そして存在する歓び、心の充足、魂の邂逅のようにも感じます。

みんな違ってみんないいとは、みんな善いのは異なるからだ、つまりは誰かの御役に立てるということです。そのお役に立てる部分を活かしていくことが、豊かに仕合せに生きられる本筋です。

子ども達があるがままにいのち輝く存在になるように、比較競争の刷り込みをみつめ、持ち味から楽しく変わっていけるように実践を続けていきたいと思います。

学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

経営ではなく理念

人はその時々の決断で何を優先するのかをはっきりさせていきます。人生は選択の連続ですが、その時々の選択に何をもってくるかでその後の方向性が決まっていくものです。

つまり優先順位があるということです。

世の中には無数の答えが存在します。それはその時々の優先順位があるという意味と同じです。そして優先順位とはその目的に対して行われるものですから、優先順位を決めた時はその目的を自分はもとより周りも確認するということです。

その人が何をもっとも大切にしたいかという方向性、何を大事に生きるかという初心を自他へ表明することになります。これが組織においては多大な影響が出てくるのです。

よく経営か理念かと組織論では語られることがあります。理念経営をしていますとかいう声も聞きますが実際は経営理念になっているだけで経営の中に理念を付け足しただけにすぎません。経営するための方法論として理念を置いているだけになっているところが多い様に思います。

理念とは目的です、経営は目標です。目的がなくなれば目標しかありませんから、目標を達することが正解になります。しかし目標だけをやっていて正解になってしまえば、目的は忘れてしまうものです。本来、目的があれば目標はなくても問題がない様に思います。目的意識がある人は自ずから必ずその目的に近づいていきます。目的に合わせて自分の方を変え続けていく人は、理念を実践する人とも言えます。経営は実践とは言いません。

本来、目的(理念)をはっきりさせておかなければ人は何のためにやっているのかがわからなくなります。そうなると目標に囚われ、目標ばかりを優先するようになります。目標は達成すれば充実感が得られますが、目的は心の充足感が得られるように思います。人間は心があるから人間ですから、充足感というものは心の状態ですから人間が心を失わないためにも必要だと思います。

シンプルに言えば「目的を忘れずに実践することが理念を優先する」ということです。その目的がもしもズレているのなら、すぐに自分の方を修正しなければなりません。この「何のために」を明確にすることが本来のリーダーの役割であり、一人ひとりがリーダーシップを発揮するにはこの目的を理解し合わせなければできません。

目指す目的を一緒に観て、それぞれが自分に打ち克って実践していくからこそ御互いのことを尊重し楽しく豊かに働くことが出来るようになります。何のためにというのは、初心の自分を取り戻すための大切な鏡です。

その鏡に映るものがもしも目的や理念でないのなら、鏡には初心とは別のものがいつも映り込むことになるでしょう。目的を忘れて日々の些事や雑事ばかりを優先していたらそのうち些事や雑事の方が大事なことのように勘違いしていくのが人間です。そうならないようにしていくための環境づくりこそがリーダーの真の役割かもしれません。そして目的があるからこそ、理念と経営が一致していき本物になっていくように思います。本物であるということの定義は、そこに嘘偽りのない本質そのもの、”理念が経営になっている”ということ、つまりは古語に言う「中庸であり至誠の存在になった」ということです。

日々に関わる人たちと皆で一緒に優先している目的を忘れない克己の工夫を用意していきたいものです。理念を実践するということの本来の意味を、自分たちの姿によって伝承していきたいと思います。

真我の目覚め

先日から理念を取材する有難い機会をいただいています。いつも感じるのは、人間の持つ尊さです。人が本心の中に理想を持ち、その理想はとても崇高なものです。真心や思いやりをこちらが感じているとき、それはその人の中にあるものと通じ合います。心で人間の真心を感じることができるなら、人間は皆思いやりに満ちていることに気づけるのかもしれません。

しかし実際にはその本心は日頃表層には出てこないものです。なぜなら日頃の生活においては脳が普段の状況を分析し処理し、習慣によって生活に支障がおきないように調整されているからでもあります。また人間は我と真我があります。我で生きていくのは、食べることや寝ること、その他の欲を果たすことで生存を維持するからです。

ただし、何のために生まれて来たのか、何をなすのかという使命は真我が行います。それは人生の目的であり、その人の魂の望む在り方のことです。これは日頃の生活の欲とは異なり、人生の欲でもあります。一生一度、一期一会に生きる今世の自分だからこそそこで成し遂げたい生き方というものがあります。感じたいものがあります、そして味わいたいものがあるのです。

もしも人間に生きていくことの悩みがなくなるのなら、あるものは命が望んでいるものだけです。人間には奥深いところにその目的を秘めています。その秘めたものが表に顕れるとき、人はその人物の信念を見ることが出来るのです。そうやって人は何を成し遂げたいのかということを語ることで、支援者が増えて目的を達成できるのです。

そういうことを語っていないのなら周りもその人の力になれない場合が往々にしてあります。もしくは本来の目的ではない欲ばかりを話しても誤解される一方です。人は本心からの真我の声、私たちは信念の種とも呼びますがそれを呼び覚まし、それを実現したいと日々に語り実践で示すなら人間はみんなそれを助けたいと思います。

なぜならそれが生まれてきた意味になるからです。

私たちは意味というものをあまり大切にしていません。しかし本来の人生とは意味なのです。その意味をどう味わうかはその人一人ひとりの真我の目覚めと実践に由ると私は思っています。

理念を出すというのは、その人の本心を目覚めさせておくという意味でもあります。いつまでもうとうとして迷い惑い眠りこけていたら気がついたら終わっていたではもったないように思います。

こういう魂の目覚めの手助けというものは、見守ることに通じています。

見守るということの見守るが何を見守るかは、その人が見守られていることに気づけるかどうかです。日々の実践を高めて、子ども達の信じる未来を切り拓いていきたいと思います。

全心全禮~真心の生き方~

人は自分のことを無意識に飾っているものです。周りからよく見られたい、また見せたいと思っています。それ自体には問題がないのですが、他人の目気にして自分が見せたいものを見られたいとあまりにも思っていると人と人との本物のつながりや結びつきが希薄になってしまうかもしれません。

「素顔」という言葉があります。これを辞書でひくと、「1 化粧をしていない、地のままの顔。2 飾らない ありのままの姿。」とあります。人は御互いが素顔になることで、本当のその人を知ることが出来ます。素顔になるというのは、その人に胸襟を開いているのだから信頼する人に対して自分の顔に鉄の仮面をつけないという意味です。

人は装飾し合っている姿でかかわる人間関係と、本音本心で語り合いたい仲間がいます。仲間や同志というものはいつもはだかの付き合いをしたいものです。これは別に真っ裸にからだを見せ合うことではなく本音を見せ合うことです。はだかの付き合いをするというのは、隠し事もせずお互いに全心全禮でいるということです。つまりは自分の心に衣をきせないということです。

人は友のことを、莫逆の友 ・  無二の友人 ・ 盟大の友人 ・ 刎頸の友 ・ 大の仲良しなどという言い方をします。特に志を同じくし生きている人は同志といい同時に人生を共に歩む戦友でもあります。そういう友に対して、素顔でいることはだかの付き合いをしようと声がけしてくれるというのは「語り合おう」という声がけでもあります。人は出会いによって人生が変わります。どんな人と出会い、どんな仲間を持ち、どんな自分を持てるかは自分の素顔と心をさらけ出せる人を持つということです。

人は本当の自分を好きになってくれる人に心を委ねて安心します。自分自身を自らが偽り飾りそして隠すと寂しい人間関係が出来上がってしまいます。人生というものは、道もありますが朋もあります。同朋を持つというのは、一期一会の志を豊かに飾ってくれる青春を持つことかもしれません。

最後に刎頸の友という言葉があります。

これはその友人のためなら首をはねられても悔いはないと思うほどの、親しい交わりの友のことです。春秋時代、趙の将軍廉頗は、功績により自分より上位になった名臣藺相如を恨んだ。しかし相如は二人が争いにより共倒れになることを懸念し、国のために争いを避けるつもりでいることを聞いた。それを聞いて廉頗は自分の考えを恥じ、深く反省し、相如へわびに出かけて刎頸の交わりを結んだという故事によります。廉頗と藺相如がかたい友情を結ぶまでには紆余曲折があり、素晴らしい友というのは一朝一夕で決して得られないということです。自分自身が首をはねられても守りたいような友に出会える御縁に結ばれることは何よりも魂の仕合せかもしれません。

人とどんな付き合いを自分がしているかは、自分がどんな生き方をしていきたいかにつながっています。人生は、どんな人が周りにいるかでその質もかわりそして歓びも仕合せも変わります。

無二の人生だからこそ、人間を信じ、志を優先し、本音本心が出せる無二の自分を誇りに思いたいと思います。子ども達の心はいつも素顔のままの清らかで美しい表情をして心を周りに開いています。私たちの本業が子ども心を守る志事だからこそ、自分自身が清く明るく直き心で全心全禮の実践を積み重ねていきたいと思います。

善い失敗~主人~

人は学び方にその人の生き方が出てくるものです。どのような学び方を学ぶかは、本来何よりも大切であるにも関わらず学び方を学ぶことについては気づいていないことが多い様に思います。なぜ学び方が大切なのかは、それが一生の学問の姿勢を左右するからです。付け焼刃の教育ではない、本物の教育とは何か、そこには主人公であり主体性があり、積極性、能動的に学ぶ本人の学問への取り組み方というものがあります。

よく昔の一子相伝の技術の伝承や、先人たちからの智慧の学び方には「好きこそものの上手なれ」があります。好きになること、仕事を愛することが何よりも上達のコツであるということを、師は弟子にあらゆる姿を見せることで伝えたりします。これも一つの学び方を学ぶということです。

しかし、今、学び方の問題があるのは失敗することを恐れ何もしないことが失敗しないことだと勘違いした学び方をした人たちがそのことから学問を愉しめないようになっているのではないかと私は思います。

本来、失敗があることが悪いことではなく失敗したことからなにを学んだかということが学び方を学ぶということです。失敗しないために学ぶというのは、言い換えれば相手に合わせていればいい、問題を起こさなければいいという受け身の姿勢です。こんなことでは学んでいないだけではなく、学問は問題を起こさないために行うものだという消極的な姿勢が身に付いてしまいます。そうなると、自分のやっている仕事に誇りを持つのではなく保身からくるプライドを優先し、学んでも学ばない、つまりは学び直しをすることもできなくなります。

失敗するのは、その人が自分から取り組み学んでいるからです。ことわざにも「失敗は成功の母」「誰よりも早く、多く失敗しなさい」や「1%の成功は99%の失敗の積み重ね」などもあります。失敗するというのは、本気でやっているからです。本気でなければ失敗を恐れて誤魔化そうとしますが、本気の人は失敗を隠すことなくそこから学んで改善し失敗を糧に自分を成長させて成功するのです。それが素直さであろうと思います。

人は正解を教えることによって失敗をしなくなります。しかし、絶対的な正解などこの世の中には存在せず、その場その人によって無数の正解が存在するのです。自分が挑戦して自分自身の答えを探し求めていくのが人生ですからそれぞれに失敗を積み重ねて自分の人生と正対しその時々の答えを深めてもぎとっていくしかないように私は思います。

もっとも残念なことは、教育の刷り込みによって人の目を気にして失敗を恐れて何もやらない方を選択する人になってしまうことです。人生に本気だったかは、どれだけ積極的に取り組んだかということです。そこには数々の失敗、時には周りからの中傷も批判も、また時として軽蔑などもあるかもしれません。しかし最期まで諦めなければ必ずその人は認められることになるように思います。それは歴史が証明しています。

受け身と能動という言い方もあり、世間ではアクティブラーニングなども流行っていますがそれはテクニックではないと私は思います。能動的学びは生き方ですから、失敗は善いもの、善い失敗を進んでやれる考え方や学び方から大人自らが実践していくことで子どもたちもまた学問の真の愉しみに気付くように思います。

生まれてきて一生に一度の人生を謳歌できるようにすべてのいのちが天から与えられています。その主人は常に自分ですから日々は挑戦する機会だとし一期一会に自分を盡すこと、遣りきっていくことで得られる学問の醍醐味を実践によって深めていきたいと思います。