永遠のいのち~ヤマトコトバ~

日本には全国各地にその信念で生き切った純粋な方々の余韻が史跡や行跡、言葉に遺っています。同じように生き方を習い、純粋な真心で生きようとしている方々はその場に遺る余韻に自らを重ね合わせて内省をしているものです。

ヤマトタケルの頃より、様々な大義を持って歩んだ志魂はのちのちの子々孫々へ受け継がれてその真心で生きた人たちによってこの風土は守られてきました。その真心はどのようにして知ることができるか、そこにはそれぞれに遺した詩があります。その詩を感じてみれば、その人の純粋な思いが息づいています。その純粋な思いに触れることで、私たちは何百年も前のいのちとも触れ合うことができるのです。

先日、ヤマトタケルのことを思っているとある方の詩に出会うことができました。

三井甲之という方の詩で、「ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」というものです。感謝の真心でヤマトのクニをいのり、勇気と大義によって己のいのちを賭してきた、その先祖たちの見守りの御蔭様で今の私たちがあるのを実感できる詩です。

詩を読む真心は純粋透明なものであり、その人の経歴がどうかではなく心のままに純粋自然の感覚が言霊になることで本来のヤマトコトバの美しさに出会うように思います。

ヤマトコトバには日本古来の先祖たちの真心が生きています。そこには感謝や御蔭様、あらゆる御縁を大切につむいできた生き方があり先人たちの願った暮らしがあります。今のように言葉が技術になり氾濫する時代において、真心そのままを言霊にした親祖に詩を通してその真心に通じ合えることは今の私たちのルーツを見つめ直すためにもとても重要なことだと感じます。

その三井甲之さんの『墓碑銘-石にしるすことば』というものの中に、「ヤマトコトバ」の本質が記されているように感じここに紹介します。

コノ石ハ
天地(アメツチ)ノアヒダニアリテ
天地ニツラナリテ
ココニアリ。
コノ石ニ
コトバヲシルス。
人ハ死スレドモ
コトバハ生キテ
イノチヲツナグ。
コノツナガリハ
地上ノサカヒヲコエテ
ヘダテナキ宇宙ニヒロゴル
コトバコソ
カギリナキ生命ノシルシナレ。
イマソノコトバヲシルス。
ワガイノチノシルシナリ
ココニシルスヤマトコトバハ。

日本古来のヤマトコトバには永遠のいのちが宿っています。その永遠のいのちはその言霊を語ることにより志が受け継がれていきます。子ども達には一つでも大切なヤマトコトバを語り記していきたいと思います。その魂が生きた証、その志が遺る理由を語り継いでいきたいと思います。

人格を磨く

人間は人格を磨いていく中で、本来の自分の天分を活かしていくことができるといいます。素直になって謙虚になれば物事を受け容れありのままに自分の御縁を生きていくことができるからです。

実際に、どんな仕事でも自分以外の誰かと取り組む仕事は自他を合わせ鏡にして御互いを磨き合っていくものです。鏡の曇りがなく、美しい素直な鏡と合わさるなら自分の美しい素直な部分が投影してきます。もしも濁った鏡と合わせるならより自分が分からなくなります。御互いが合わせ鏡だからこそ、何を心に映していくかというのはその人の素直さに由るのです。そしてその心は生き方によって磨かれますから、人格を高めて自己修養によって鏡をいつも日々に洗い清めていくしかないように思います。

また仕事は同時に互いを磨き合うものです。どの砥石を用いて自分を磨いていくか、何をそぎ落として研ぎ澄まされたものにしていくかは自分の選択が決めるともいえます。砥石選びというものは、謙虚さが必要で素直な心でなければ誤った研ぎ方によりかえって自分を活かせなくなるかもしれません。そしてこの素直な心というのは、全ての基本になっているように思います。

松下幸之助さんに「素直な心の十か条」というものがあります。

1.私心にとらわれない
2.耳を傾ける
3.寛容
4.実相が見える
5.道理を知る
6.すべてに学ぶ心
7.融通無碍
8.平常心
9.価値を知る
10.広い愛の心

素直の実践の中で掴んだ感覚を、そのまま十か条にしているように思います。こういう状態の時は素直な心が働いていますということでしょう。そのどれもができそうでできないことであり、人格を磨くために大切な鏡であり砥石であることに気づきます。

例えば、私たちも「傾聴」というものをもっとも大切に実践しています。しかしそこに私心に囚われて「きっと何か理由があるのだろう」と考えず心の余裕をなくしていればすぐに傾聴できずに思い込み決めつけることになってしまいます。自らが聴き福にするか、自らが学んでいるか、自らが受け止めているか、自分に矢印が向いているかとしたとき、はじめて傾聴が始まってきます。

松下幸之助さんは傾聴のことを「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」といいます。それを黒田長政の「腹立てずの意見会」の実践を紹介し、会合を長政が最期まで続けたのは「一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと」と言っています。聴くということは自分自身の私心と向き合うことでもあります。自分が聴きたくないことを言われてもそれを素直に受け入れてみる。そのあとは何を行う必要があるかが自明してくるのが人間です。

あるがままに物事が観えるなら、あるがままに対処すればいいのですがあるがままに物事を観たくないからあるがままに対処できないのです。本来、素直さというものは私心を交えずに全体を観るチカラとも言えます。それは自然が自然の循環を邪魔しないことと似ています。素直な心を磨き、人生の最期には自分の天分を全うできたと思えることは本当に倖せなことだと思います。

畢竟、人間はどんな仕事であってもどんな出会いであっても御互いに人格を高めていくことでしか御互いを活かす道はないのかもしれません。しかしそういう切磋琢磨できる同志がいることは人格を磨きたいといった素直の心があるから出会えるのでしょう。御縁の中に「素直」であることを第一義に、常に子どもから学び直していきたいと思います。

貝殻~宿る美~

貝磨きの御縁から貝殻の美しさについて考える機会がありました。なぜ貝殻が美しいのか、その貝を磨くことが一体何かということをここで書いてみようと思います。

私の中での貝磨きというのは、魂磨きと同じ意味です。魂磨きとは「自分に宿っているものを発掘し発見していくもの」とも言えます。私たちもカラダを依代に宿る魂であり、すべてのいのちには等しく魂がありますからその魂を引き出していくことは自分の存在を確認していくことであり何のために生まれてきたのかを知る旅でもあります。

貝殻の美しさは、その本質に魂が宿っています。貝殻は貝の時、貝のいのちを守るために存在したものです。貝は一生を海で過ごし、長いものでは何百年も生きるものもいます。波に揺られ、海のリズムで壮大に生き使い古された貝殻にその生きたものの魂が宿っているからです。私にとっての貝殻は「宿」であり「故郷」です。

あのヤドカリ(宿借)も、宿主が死んだあとの宿を借りその魂を継承して活かしていきます。古語では「カミナ」という響きを持ち、宿に由るいのちではないかと私は思います。

この宿の美しさは『使い古された美』に由るものです。使い古されれば使い古されるほどに、次第に光り輝いていく美しさ。それは魂が磨かれて磨き貫かれた中にある「毘」とも言ってもいいかもしれません。これを「直毘霊」といい、古人はその直毘魂を引き出していくことが大義に生きることであるとも言いました。

貝殻の美しさは、その貝殻に宿された魂があることです。

魂が遣ったものは、どんな古いものでも素晴らしく光り輝きます。そしてご縁を観てそのご縁を大切に活かすものが顕れればそのいのちは新生していきます。まさしく温故知新に宿る美、「カミナ」するのです。かんながらの道の一つに、貝が顕れたのはその「カミナ」が道を導く存在だからかもしれません。

原始の海、原始の親祖たちは貝殻に魂が宿るのを知覚することができたからこそ装飾したのでしょう。海と共に美しく生きた貝殻に、自分の魂を重ね合わせて魂磨きを行っていたのかもしれません。

御縁の世界は、かつて使い古された中に生きた魂が宿る世界を知ることに似ています。目に見えない歴史をつむぐことは、目先の生だけを貪らない生き方を実践していくことに似ています。貝殻をカラダに纏うことは先祖代々から磨かれてきたいのちをそのままに譲っていくといった「かんながらの道」を体現することに似ています。

貝の御縁を大切に、その毘と美についてさらに深めていきたいと思います。

個性=人間性~助け合う社會のために~

個性というものについて昨日も書きましたが、個性は人間性を優先するためになによりも大切なものです。人間性が個性ですから個性を排除するというのは人間性を排除するということです。人間がロボットやゾンビのようになるのもまた、その個性を排除することで行われていきます。

個性とはその人そのままの姿ですから、それをみんなと同じにするというのは個性を否定するということです。人間は自分得意不得意がカラダにも出てきていますし、顔にも、性格にも、特長にも表れて出ています。それは観方によれば、それを活かして使ってほしいというアピールでもあるのです。それを長所ともいい、その長所を伸ばしてあげることで人はみんな役に立つ仕合わせに出会います。仕合わせとは助け合いの中で得られるものですから、自分の長所が皆に喜んでもらうことほど自己実現できることはありません。

そしてそれは周りが個性を発見、発掘することも大事ですがその本人が個性を出していかなければ周りに貢献していくことが難しくなります。長い時間をかけて個性を否定される教育を受けてきたり、自分自身で個性をなくしていくような生き方をしてきたら自分自身に気づかずに新しい自分にも出会えません。

それではどうやって個性を引き出すかということです。

それは「己に克つ」ということです。人は自我欲を乗り越えて、自分都合を度外視して私的な自分を手放して己の目的や信念、初心、理念を優先することで己に打ち克つことできます。そうやって己に打ち克ち続けることで次第に個性は磨かれて発揮されていくものです。個性が出てくれば、次第に周りがその個性に自分の個性を合わせて協力していくことができるようになります。

個性は己に克った集積により磨きだされていきます。世の中で活躍する人たちや、貢献していく人たちはみんな個性が突出しています。そしてその全ての人たちはみんな「己に克つ」ことができている人です。個性が人間性であり、個性を磨くことが人格を磨くということはそういうことです。

人間は生まれながらに唯一の個性をもって産まれてきます。それは指紋が一人として同じ物がないように、顔が同じ顔がないように個性を何よりも尊重します。その個性を尊重することが本来の「人権」であり、それは単になんでも私物化する自分の権利のことではないのです。

だからこそ人権を尊重するために、産まれてきたままの異なりを否定せずに認めることが子ども一人ひとりの発達を尊重するということになるのです。私たちの提案するミマモリングプラスというのはそういう哲学と思想、実践の中から開発されてきたものです。

個性豊かな仲間たちを増やして、百花繚乱の美しい思いやりのある社會を子どもたちに譲っていきたいと思います。

主人公

ドイツの哲学者アドルフ・ニーチェに「道徳の系譜」というものがあります。詳細まではまだ深めていませんが、新しい世界観で「道徳」ということの本質を表現しています。

人は「道徳を教えられるか」という問いがあります。

私はかねてから道徳教育について疑問がありました。幼い頃から同和問題や差別についてなど教われば教わるほどに自分の中で何が道徳なのかということが理解できなくなった記憶があります。今でさえ、その頃に教えられた差別用語のことをよく覚えていて友人たちが面白がってそれを使えばすぐに全校集会になって徹底的にその言葉を使わないようにと指導されました。しかし疑問に思えば、それを教えたのは学校であってそもそも教えなければ誰も使いもしなかったものです。

そもそも道徳というものは、本来人間に具わっているものです。思いやりの心や真心といったものは、教えてできるものではなく赤ちゃんをはじめ幼い子どもなら誰しももっているものです。その美しいものをみてそれを見守り、それを発展させていくような場・間・和などの生活の中にいれば自ずから然るがままに発揮されていくものです。

そういうものが出てくるのが自然とするか、出ないから教えるのが自然とするか、そこに道徳とは本当は何かということの問いの根幹があるように思います。

ニーチェは道徳の系譜にある「奴隷道徳」の中でこういうことを言います。

「あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である。」

自由人というものは、不自由の中で自由であることを自由人というのではありません。自己中心的な自我妄執を捨て去り、原則や理念、初心を優先できるものだけが自由です。三分の二というのは、その日その日に自分と正対し己に克ち越したかということです。己に克つことができるのならその人は自由人と言えます。逆に己に負けてしまっているのならいつまでもその人は我執自我の奴隷になったまま不自由のままに誰かの奴隷になるしかありません。

どんな時代であっても論語にある「克己復礼」こそが仁や道徳の要ということなのでしょう。

またニーチェはこうも言います。

「この世のことは、すべてむなしい! あなたがたは意欲を捨てなければならない!」という教えは、心地よく耳に響く。しかし、これは奴隷になれとすすめる教えである。」

如何に意欲を失わさせるか、それは教えることによって行われます。人格を磨く教育というのは常に己との対話によります。真の教育というものは、世間の教育とはまったく異なります。真の内省を行うものだけが、真の実践を積み重ねていくことができます。それは自分の大切な良心・真心を優先できるかどうかです。

東井義雄先生が『自分は自分の主人公』と題した詩はいつまでも子どもたちに勇気と希望を与えてくれます。

自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして
自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。

子ども達に本当に譲っていきたいものは何か、主人公であることを常に忘れないでいたいと思います。

本物の暮らし~魂の伝承~

昨日は石見銀山にある群言堂本店に訪問し、他郷阿部家を見学し松場登美様と御縁をいただくことができました。

ここの全てを見学しながらすぐに実感するのは、随所に心の風景のようなふるさとの懐かしさです。場所場所に配置されているものはすべて御縁から頂いたものしかなく、その一つ一つにはすべて物語があります。天から授かったものを大切に向き合っていく生き方が、その気配りの随所に顕れていて絶妙な安心感に包まれる空間がありました。

そして松場登美様のお話の中で何より感動したのは、「暮らしの基本」のお話です。

そもそも人間に与えられているものには宗教、哲学、芸術があるといいます。そしてそれは暮らしの中に存在しているものです。その基本として感謝する気持ちが宗教であり、哲学は学問ではなく美しく生きることであり、芸術は子どものようにアーティストであることだといいます。そして暮らしの中にある長い間の文化が如何に美しいかを思い出すことが大切であるといいそのモノサシは「正しいかどうかよりも美しいかどうか」だと仰っていました。

私たちが本来持っていた暮らしはどこからか分断され今では経済優先、効率優先、お金ばかりで「もったいない」の意味もすり替えられてしまいました。本来のもったいないという”御縁をつむぐ”ような考え方ではなく、単に貧乏性のような用いられ方になってしまっているように私は思います。

私たちの暮らしを後回しにしてきたツケは、必ずこれからの子ども達にまわってしまいます。どんな未来にもどんな事業にも暮らしは欠かせないものですから「本物の暮らし」を見つめ直す時代に入っているように思います。如何にこれからの日本にかつての「本物の暮らし」といった根のある生き方を遺していくか、それは古いものか新しいものかではないのですから子ども達にその根を譲っていくために私たちもしっかりと実践しなければと改めて気づき直すことができました。

文化が壊れていくなかで何を遺していけばいいか、時代の変遷の中で何を大切に譲っていけばいいか、それは「本物の暮らし」であり、「先祖たちの真心」、それは「美しい生き方」であると確認しました。そして悠久のもの、古いものの全てには”魂が宿っている”からこそその魂が慶ぶ生き方や使い方をしていきたいと思います。

そしてこれからもずっと子どもは私たちの未来であり、子どもたちは先祖から譲られてきたクニの宝です。その子どもたちに何が遺せるか、そういう視点からカグヤでも今回の御縁を活かし実践を根気強く発信していきたいと思います。

御蔭様の奇妙な御縁に心から感謝しております。次回は、一家総出でぜひお伺いしてお世話になります。ありがとうございました。

 

いのちとは何か~病の根源~

昨日、あうん健康庵の小松健治先生にお会いすることができました。「医者が学んだ祈りの力 自然治癒のパワーを細胞に取り込む生き方」(幻冬舎)が出版された時にすぐに手に取り拝読した際に、私と自然観が同じでしたのでずっとお会いしたいと思っていました。

治療の前に対話を通して教えてくださったのが「自然治癒は楽になる」ということです。この楽になるというのは、自然の生き方になると楽(素直)になるという意味を直感しました。素直ではないことがあれば、病気というものが天から与えられてカラダがそれを見せて気づかせてくださる。

そのことに対して、どれだけ自分が素直になって向き合い執着を手放し、心、魂、肉体、つまりはカラダを直していくかということではないかとお話を通して私は実感しました。かつて、常岡一郎さんが「病は天からの手紙」ということを仰っていました。そしてその人がその手紙を読んで如何に自ら「手放せるか」ということについてのやり取りをお聴きしたことがあります。

そのことと同じように、自らが長い年月でつくってきた執着や固執がカラダに沁み付いたものをどのように素直になって自然治癒していくかということを感じました。自然治癒には勇気が必要で、自然と向き合い、不自然を直す勇気が要ります。その勇気は希望になり、その人のカラダを原点回帰していくことができるように思います。私たちのカラダもまた自然の一部分でつながっていますから信じて手放すことによって元気に戻っていくのでしょう。

人が元気がなくなるのも病気になるのも、不自然なことを続けていくからです。不自然が分かるというのは、それまでの刷り込みが取り払わられるということです。まず自分の刷り込みに気付けるかどうかは、自分のカラダから出てきた兆しを素直に受け止めることができ、その上で素直に手放すことができるかによります。

古語にある「病は気から」というのは「元気ではなくなる」という意味なのでしょう。本来、私たちには元気があるのだから自然から与えられるチカラを存分に与えられるからカラダのままで御気楽極楽に生きていきたいと思います。

小松庵主と奥様にお会いできたことで、本来の人間の根本、そして病の根源とは何かを考え直す新たな機会になりました。いのちといのりによる自然治癒の生き方を体現し伝承しつつ、引き続き子どもたちが安心して暮らしていける世の中を譲っていくためにも、学びを深めて実践を高めていきたいと思います。

一期一会のご縁に深く感謝しております。

 

自由(信)と責任(信)の絆

人は与えられた責任の中で自由になるのと、元々自分の責任感の中で自由でいるのとでは意味が全く異なります。誰かから自己責任を押し付けられその中で義務で行い権利を主張するのと、自分から自己責任で主体的に取り組み全てを引き受けて実践するのとではその責任の本質も異なるのです。

そもそも本来の学力とは「危機感」を持てる人になることです。自己責任の本当の意味は、誰のせいにもしなくなるということです。他人のせいにして生きている人は次第に危機感が喪失していきます。全ての発生する現象はすべて自分次第であると覚悟を決めている人は主体性を失うことはありません。まさにジョン・F・ケネディの『国家が諸君の為に何をしてくれるかを問うな。諸君が国家の為に何を成し得るかを問いたまえ。』を正しく理解して実行している人になっているということです。

しかし実際は、考えなくなり受け身になり視野狭窄になり刷り込みに呑まれると一家よりも自分を守ろうとし社会が守ってくれることを期待し社會を自分で創ろうとはせず、国家が守ることは当然だと権利ばかりを主張しては、国家を自分が創り守るために自分独りからでも決心して実践していこうとはしなくなるものです。

他人のせいにできるという状態での「責任」というものは、自分が”負わされている”責任のことです。それは自分が責められるから、何かのせいにしておきたいから受け身に委ねるのです。本来の責任とは負わされるものではなく”自分から持つ”ものです。なぜ自分から責任を持てるのか、それはまず自分を度外視して理念や目的の方を優先しているからでしょう。

自分か相手かというのは対立ですから自分の都合を出せば相手は必ず苦しくなります。そうではなく御互いに同じ目的に対して同じ方向を観て一緒に考えていくのなら最善の方法もまた観えてくるように思うのです。

こちらか相手かという個人主義の対立概念では、御互いを本当の意味で尊重して助け合っていることにはなりません。どちらかが我慢する関係というのは、苦しく長くは続かないのです。これは会社に関わらず、夫婦や仲間に対してまで全てに言えることです。

自分の主義主張ばかりを要求したり相手に期待する前に、自分が一家に対して何を実践できるかを考えることが主体性なのです。信じてもらって自由になっているのだから、その信に応えて自立するのは責任を果たすことです。人は自由(信)な環境があるからこそ責任(信)を持てる人になるのです。自由の環境下にあっても管理されたがっている意識が外れなければ、その無責任は必ず誰かの負担になってしまいます。自由を与えてもらっているというのは自分を信じてもらっているということです、その自分を信じてもらっていることに対して人は信で応える恩返しするのが人の道、信への責任感(信忠義)ではないかと思います。

これは今の社会問題の根幹にあり、一人ひとりが自由に伴う責任感ということの意味をもう一度、今こそ考え直す必要があるように私は思います。世間のニュースをみていても、身近な組織の問題の相談を受けていても、無責任の悪循環の構図はどこにも蔓延っています。

子ども達のためにも自分の人生を自分で生き切らず誰かのせいにするようなことがないように、自分の脚で歩き、全人格に責任を持ち、自分で道を切り開くことの大切さを自由(信)と責任(信)の実践を通して好循環を創り、譲り遺していきたいと思います。

信なくば立たず

藩政改革の手本として今でもひときわ異彩を放っているものに『日暮硯』があります。これは真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親(おんだもくたみちか)の事績を説話風に記したものです。

二宮尊徳の改革の中にも、この恩田木工の実践が参考になっているのではないかと思うところが所々にありました。理念を仁に据え、「信なくば立たず」を何よりも優先した誠実で思いやりのある政治をして松代藩とその人々の心を豊かにした人物です。

最初にこの日暮硯で印象的なのが、恩田木工が「一切の嘘をつかない」と全ての民に約束をすることです。混迷の時代、領地内の人々の心が荒廃している状況において心が荒廃するその元の理由をまずはじめに断ちます。そしてそれは単なる宣言ではなく、対話によって有言実行されていきます。最初から疑心暗鬼であった人々に対して、誠心誠意、本心から伝え、それを一つ一つ対話によって解決していきます。

対話による解決ですから長い時間をかけて、徹底して少しずつ丁寧に進めていきます。その一つ一つの信が立って大きくなっていくにつれ藩政改革は実現していきます。

どんな人にも思いやりを向け、役人たちが過去に賄賂で問題を起こしていてもその人たちを自分が引き受け、善い人間として活かせるように指導していきます。恩田木工はその際こう言います。「人というものはよき人が使えばよくなるものでござります。悪い人が使えば悪くなるものでござります。」と。まるで曲がった板の上に真っ直ぐな板を乗せればそのうち真っ直ぐになるというように、あまり曲がっているかどうかを問題視していません。名前に大工とありますがまさに「立(建)てる」ということに関して心にまで精通している方だったのではないかと私は思います。

心の荒廃は、心を直すところからはじまります。何が人々の心を荒廃するのか、政治に関わる人たちはまずそのことを理解する必要があるように思います。どんな小さな組織であってもそこには政治が発生します。だからこそ組織のリーダーは仁政がどのようなものであるかを自覚し、その実践がどのようなものであったかを歴史から学び直す必要があるように思います。

結局は今の日本の借金体制や、ギリシャをはじめ世界の財政難において、今のように心が次第に荒廃し混迷を深める政治や社会情勢の中で、再び二宮尊徳や恩田木工、上杉鷹山、といった思いやりの政治を実現する改革者が必要になってくると私は思います。歴史を学び、もう一度、これからの時代の在り方を示して発信していきたいと思います。

最後にこの恩田木工が亡くなった時に、ある藩士が日記に綴った文章を紹介して終わりたいと思います。

「恩田木工民親殿急逝。この人君子なり。上を敬い、下を恵む。仁徳ふかかりければ、一人もこの人をいただかざるものなし。刻苦勉励す。元日に倒れ、その報、一日にして全土に渡る。人々、日待などして、本復を祈る。本日ついに際まれり。誰も力を失ないて、誰言うともなく、松飾り取り入れ、歌舞音曲やむ。かつて物語で知るも、眼前かように人の慕うを見るとは・・・」と。

思いやり信を立てた生き方の先人の事績は、後世の私たちにまで余韻が香ります。感謝のままに実践を学び直していきたいと思います。

リーダー~責任感とは何か~

人は誰しも自分の人生に責任が伴うものです。自分自身であることは自分の人生に責任を持つということです。その自己責任を深めるとき、それは常に覚悟のことを思います。どのような覚悟を決めるか、そしてその覚悟をもってどのように生きるかということを感じます。これは生き方を決めるということに似ています。

人はどんな星の下に生まれてくるのか、それは誰にもわからずその人の持って産まれた天運だとも言えます。その生まれ落ちたところの星に従ってその人の人生が廻りますからその時々の人生の幸不幸をどう受け止めて、今の自分を受け容れていくかは自分の足で立ち、正直に人生を歩んでいくための最初の課題であろうとも思います。

正直に歩むと決めて歩み始めれば、必ず日々様々な困難に出会います。その出会いの一つ一つを大切にしていくことで、本当の自分に出会い、本物の自分の心を知るように思います。「自分になる」ということはまさに「自分である」ということであり、それは嘘偽りない素直な自分で生きていくということです。

しかしそれを邪魔するのは、今の自分に対する不足や不満、何でも他人のせいにしたりすることで次第に素直ではなくなっていきます。そういう時こそ自分に矢印という言い方を私たちはしますが、自分自身が自戒を持つことで一度きりの自分の人生で生きられ、周りのお役に立てる仕合せに出会えるのではないかと私は思います。

自戒といえば、「徳川家康の人生訓」というものがあります。自分自身の責任を自覚し、その上で自分の脚で積極的に歩くということの大切さについて自戒しているように思え大変共感しますのでご紹介します。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ
怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり」
(慶長八年正月十五日)

全ての責任は自分が負うという覚悟、言い換えればどんな人生であっても積極的に主体的に生きるのは自分自身だという覚悟、受け身になり逃げようとはせず、常に積極的に主体が減退しないように「全ては自分の責任である」という自分に矢印を向けているのを感じるのです。

もしも全ては自分の責任だとし、他人のせいにする人生をやめてしまえば全ての問題は自分の中にあることに気づけるものです。自分の中にあるのだから、自分の方を変えていこうということに迷いもなくなっていきます。

覚悟というのは結局は自分に矢印を向けているかということに由るのです。

どんなことも決めるのはたった一人の自分次第です。

自分が決めるからこそ、周りもまた決めることができます。自分が決めた人生はどんな結果が待ち受けていても悔いもなく、また清々しいものです。生き方を決めるということや、初心を定めるということは自分の人生を自分で歩むということを決断したということになります。

自分自身が自分自身のリーダーになることで自分自身が自分自身のことを認めますから、周りもまたその人を自分のリーダーと認めるのかもしれません。自分自身のリーダーは自分自身、リードしていくのは自分なのだとし責任感を持ち常に矢印を自分に向けて精進していきたいと思います。