ご縁結び~恵比寿の貝逅~

昨年から貝の御蔭様で館山で人と人とのつながりを感じる機会に恵まれています。人と人の出会いはいつも不思議で、出会いの中に物語があるのを感じるとその出会いが如何に必然であったかを思います。

人生というのは一瞬一瞬の邂逅の中で御縁が交わり結び合います。

人と人とのつながりをどのように大切に生きているか、御互いのご縁を如何に結い縫っていくのかが人生の醍醐味かもしれません。そこには意図もなく、無償の愛があるだけです。互いのご縁を結んでいくことが、互いの人生を結い合っていくことです。本来はつながるはずがなかったものが、ある時を境につながっていくことでお互いの世界が邂逅して混ざり合っていく。

その様子はまるで銀河が他の銀河と混ざり合い一つの渦を形成し、新しい星が誕生するかのように光がさらに眩さをまして宇宙に融和してくかのようです。

宇宙の星々はそれぞれに光を放ちますが、その光と光はご縁によってさらなる光になるように、人と人との御縁もまた人になります。人類の発展とは何か、それは出会うことです。どんな出会いを生きたかが人生ですから、面白い人たちとの思い出は人生の輝きを増していくかのようです。

そして人が出会いによって自分の全く知らない新たな価値観に触れることは本当に愉しいものです。今まで気づきもしなかったことに出会うことは新しい自分自身との出会いです。そういう一つ一つの出会いをどれだけ自分が出会っていくか、その面白さがあるから信じたいのかもしれません。信じる仕合せとはどこまでいっても人と人との御縁結びであることを実感します。

恵比寿は日本の神様であり、イザナギ、イザナミの神の間にできた第三子と言われます。有名なご縁結びの神様です、宝船に乗って海から豊かさを持ってくる七福神の一人でもあります。

何でも楽しんでいくことやなんでも面白がっていくこと、そして心を寛くもち、笑い合うこと。和らう門には福来るとはまさに日本人の生き方、海の民の歩み方の智慧なのではないかと直感しました。

「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」

神話の中にこそ最大のヒントがあり、福こそが暗闇を抜ける妙法であることを私たちに伝えてくるかのようです。子どもたちのためにも諦めず、魂を磨く実践を怠らず精進していきたいと思います。

真心の在り処

論語や君子というものを考えるとき、それは一般には政治やリーダーの学問であると言われます。しかし一度、そういう世間の評価を外して本当は何だろうとじっとそのものをそのままに見つめていると別の視点が顕れます。そもそも論語とは、そして君子とは一体何かということです。

それを少し深めてみたいと思います。

まず孟子の中に「君子三楽」という話が出てきます。そこにはこうあります。

孟子曰、「君子有三楽、而王天下、不与存焉。父母俱存、兄弟無故、一楽也。仰不愧於天、俯不怍於人、二楽也。得天下英才、而教育之、三楽也。君子有三楽、而王天下、不與存焉。」

意訳ですが、「君子には三つの楽しみがある。それは別に天下の王になることではない。まず一つ目の楽しみは父母が健在で兄弟も健やかであること。そして二つ目の楽しみは、天に恥じることのない真心で生きることができること。最後の三つ目の楽しみは天下に役立つ人たちを見出しその持ち味を活かせるようにすることだ。これは別に天下の王になることと関係がない。」と言います。

父母兄弟が和合し共に慈しみ、正直に素直な日々を謙虚に送れ、周囲を見守り活かせる安心基地の存在になること。孟子の描く君子像とはこのようなものです。

そして孔子はどう考えるのか、私には孔子の「志」について語る同志との問答の中に君子本来の姿が顕れているように思います。そこにはこうあります。

「顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。」

意訳になりますが、「孔子は顔淵と子路と一緒に歩んでいる中であるとき彼らに質問をしました。”あなたたちの志を聴かせてくれないか”と。子路はそれに対してこう言いました。”馬でも馬車でも衣装でもなんでも朋たちと全て分かち合い、たとえそれをなくしたり壊されたりしても怒ることがない人になりたいです”これを私は志しますと。そして顔淵は言います。”他人には善いことをしそれを思うこともなく、他人の苦労をそっと取り払いまた思うこともない自分になりたいです”これが私の志ですと。そして孔子は最後に自分の志を言います。”年寄たちからは安心され、友人たちからは信頼され、若者からは慕われるような人になりたいものだ”と」

彼らが目指した君子とは一体どういったものか、それを感じるのです。

人は何かを成し遂げないから君子になれないのではなく、その日々の自己の心がけ次第で君子になれるようにも思います。人として当たり前のことができない苦しみを抱え、人は人生航路をそれぞれに歩んでいきますがその修行は日々のあちこちで訪れます。

その道の同行行脚の中で仲間と共に目指す仁人の実践、真心を盡すご縁をいただけることは何よりも有難い志のように思います。志の意味も、何か夢かなにかと勘違いすることがありますが彼らにとっての志とは思いやりのある人になりたいと願う自己の実践です。だからこそ道とはなんと深淵で奥深い美しい世界であるかと私には感じます。

学べば学ぶほどに本当に教えてくださっているのは、知識でもなく智慧でもなく、能力でもなく技術でもない、その真心の在り処だったのかもしれません。先生が居るということ、同志や仲間との御縁があるということはそれだけで何より有難いものです。

ご縁を大切に日々を学び直して急がずに休まずに心を廣く歩んでいきたいと思います。

急がず休まずじっくりと~発酵の智慧~

人が病を得て治癒をしていくとき、その治し方に生き方も出てくるように思います。

例えば、からだが不調になるとき早く治そうとする人とじっくりと治そうとする人がいます。それはまるで急いでは休もうとする人と、急がずに休まない人との違いのようです。

何でも速く、なんでも急いでとなっているから物事の判断はすべて自分が優先されていきます。もしも逆にじっくりとゆったりととなれば物事の判断に周りを思いやる余裕が生まれるのです。

以前、ダライラマ法王の何かの法話の中で現代人の不思議について話がありました。具体的には、必死で儲けることだけに夢中になり会社を大きくし売り上げもあがり利益もだし自分も大きな貯金を持つようになりますが、今度はそのことで病んだ自分の身体や心を治すためにまた大きな貯金を使っていくという生活が不思議だという話です。

お金を稼ぐために必死に働き大金もちになって、その大金もちにしかできない大金を使った治療をする。経済はそこで発展すると思いますが、その人はどうなっているのだろうかと思うのです。

そうやってなんでも急いで目先の目標ばかりに囚われて突っ走っていたら、無理ばかりしてからだを崩します。しかし焦っているのだからすぐにサプリや薬に頼ります。もしくは手術などの即効性のあるもので解決したくなるのでしょう。しかしその実、速効を求めるほどに物事は停滞して腐敗するように今では感じます。本来の停滞とは焦りや慢心のことなのでしょう。

だからただ寝ているだけや、何もすることがないから何もしないということをやろうとすると人はきっと不安になるのかもしれません。人は本来、心を定めて決心すれば日々に怠らず実践することは沢山あります。焦らず謙虚に無心になって実践を一つ一つ積み重ねていくことは、日々に心を天に通じ合わせることもでき安心の中でいのちが活かされる実感を味わえるものです。

そのために自分の欲望や願望、もしくは周囲の抑圧や押し付けなどに執らわれない自分を創っていくしかないようにも思います。そこにもまた自然の智慧や逞しさ、自分を信じるしなやかさが求められるように思います。

そのためにはまず自分の決めた生き方に専念すると決心することかもしれません。

当たり前と思ってしまう自分の生活習慣は自分の決めた生き方の実践そのものです。

その実践を倦まずに弛まずに積み重ねていけば、自ずから急がず慌てずゆっくりとじっくりと時間をかけようと思うものです。同じ時間をかけるなら、やっぱりじっくりと時間をかけた方が楽しいときも増えていきますし充実して思いやりや感謝に導かれる倖せにも出会えます。

急がず休まずにじっくりとは、発酵から学んだ智慧であり真髄です。

実践を積み重ねていきたいと思います。

 

人間理解~根源治癒~

人は真心から目の前の人の苦しみを抜き取り少しでも楽にしてあげたいと願うとき、相手の心の深い部分に共感しそれを一緒に理解していこうとします。しかしこの一連のプロセスの中で、自分の中に心を容れてもそれを解決するわけでもなく逃げるわけでもなく、ただひたすらに心に向き合い受け止めようとするとき言葉に表現できないほどの大変な苦労が訪れます。

それはまるで今までの自分のモノの考え方や生き方が掻き混ぜられるような感覚です。どうしようもない怒りや苦しみ、もしくは自責や他責の念、そうでしか生きられれないその人の無念さのようなものが心に流入してきます。

不思議なことですが心を寄り添うとき、信じることは心の支えになりますが不信は逆に心を痛めることになります。心を痛めている人を信じるときは、その人の心が自然に治癒するのを待つしかありません。急いでも焦ってもそれはできず、心を少しでも開いてくれるならその人が転じるための方向性を示すくらいしかできません。

臨床心理の河合隼雄さんは、数多くの人間理解を実践してきた方です。その人の心の苦しみにじっと寄り添い、その苦しみを理解されていた方だと言います。その方の実践から出てくる言葉の重さには、「ああ、そうか」といつも救われる思いがします。

『うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり、「命懸け」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。』

他人を知るなどということは、実際は命懸けのことだと言います。これは私の中では真心がいるということです。真心なしに相手を分かった気になるなど甘すぎると意味です。相手を知ろうとすればするほどに自分の中の悪感情に苛まれます、これはまさに一緒に深い海に沈んでいくかのような感覚です。しかしそこに「きっと私にもわからない大変なことがあったのだろう」と共感し、その人の試練がきっとその人の魂の臨んでいるものだと信じ、それが善いことであったと祈るのです。

人はご縁があることで自分を変えていくことができます。ある人は、”人生が行き詰まるのは進んでいる証拠だ”とも言います。まさに人は自分を変えようと一歩足を出す時、壁が擡げます。その壁を乗り越えていけますようにと真心で祈るときご縁が導く新しい自分に出会うように思うのです。

人間理解ということ、つまりは共感、受容というものはまさに命懸け、真心があってはじめてできるのでしょう。力及ばずにと嘆く気持ちもありますが、謙虚に素直に人事を盡して天にお任せしその人の一生涯を祈ることこそ、真心の道であり、かんながらに通じます。

ふり返ってみると、真摯に全身全霊でご縁を大切にその人のことを祈ったことが結果として偶然に運善く開けるのはまさに何かしらの不思議な御蔭様の力をかりて奇跡の境界線を超えるかのようです。その人の生き方がチェンジするのを見守るとき、”ああ、何者かまた救けてくださって有難うございました”という御蔭様の感謝と真心に出会うだけです。

根源治癒していくというのは、その根をぐらつかせるからこそ根から直します。常に先人の素直な実践を尊び、自らも最期まで丸ごと信じ諦めずにご縁と奇跡に感謝してお任せしていきたいと思います。

苦楽の学び

日々に新しいことを挑戦していると難題ばかりに向き合います。そこから逃げないと決めたなら新たな学びが自分のものになっていきます。自分の中にモノサシが入っていく瞬間は学びの歓びです。

世間では学校で教えられた学びを学びにしていると、本当の学びというものが分からなくなるものです。外側から目標とモノサシを与えられ、ここまでやったらできると教え込まれる中ではどのように要領よくやろうかや、どのように楽をしようかなど全うに真摯に努力して何かをやろうとは考えにくくなるように思います。

実社會の中で、一つ一つの物事を獲得して自分の中で消化吸収していくには心身一如に体得体感していく必要があります。簡単に頭で教え込まれた今までの刷り込みの学び方をいくら強引に無理してもそれでは学べず、どれだけ全身全霊で実践し本質を深耕していくかという自然の学び方を習得しなければなりません。

臨床心理の河合隼雄さんに下記の言葉があり、共感できます。

「学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない、というのは私の実感でもありますが、一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだと思うのです。」

この『ニセモノ』だと思うのですと言うフレーズが好きです。偽物とは何か、それは仮物であるということ。本当の自分自身の苦労と努力、そして成長の歓びや感謝を感じられない学びなど本来の学びではないということ。学校の教科書をなぞるような勉強ではなく、実体験をさらに積み重ねて本物へとたどり着きたいという情熱と熱意、諦めない闘志、そしてその機会にめぐり会えたことへの感動や感謝といったものなしに学んだはずはないのです。

学んで楽しいのはなぜか、それは新しい自分に出会い新しい自分を創る喜びです。そして苦しさは何か、それは旧い自分を毀し、殻が毀れていく苦労です。この両輪は、常に自己を刷新することこそ学びの本質であることを伝えています。

また河合隼雄さんはこうもいいます。

「思い通りにならないことこそ、ほんとうにおもしろいことだと思っているんです。」

外側の評価でばかり生きていたらほんとうの面白いことに出会えません。思い通りにならないというのは未知との出会いです。そして思っていた以上のことに出会う奇跡との出会いです。

毎日をどれだけ新鮮に味わっているかは、その人の挑戦の数に比例します。

日々に自分が毀れていく仕合せに感謝しつつ、苦楽を味わって歩んでいきたいと思います。

 

海との再会~愛を体現~

先日、イルカが沢山の浜辺に打ち上げられ亡くなったニュースが報道されました。他にもクジラが浜辺に打ち上げられたニュースもよく聞きます。イルカやクジラと話せるわけではない人間は、磁場が乱れたとか地震が来るとか、シャチから逃げたからだとか様々な推測ばかりをします。

こんな時、私は故ジャックマイヨールを思い出します。

もしジャックマイヨールならこれをどう読み取るだろうかと。昨年の貝との出会いから私の中のジャックマイヨールはとても大きな存在になりました。海と人とのつながりにおいて忘れていたものを思い出したからです。海という感覚を自らの内なる世界観から捉える感性には心に響くものがあります。

ジャックマイヨールは、こういう話をしていました。

「たしかに人間は何万年にわたって、進化を遂げてきました。しかし、決して変わってはいないものがあります。水の記憶です。生命の源です。私達の体や遺伝子の中には、母の子宮の中や海の中で生きていた時代の記憶がはっきりと残っているのです。」

もともと私たちが本来「水棲生物」であった証は、赤ちゃんであったことを思えば自明します。赤ちゃんのとき、私たちは羊水の中でずっと泳いでいるからです。本来は水の中で暮らしてきたことを証明しています。

「私のささやかな経験から言えば、生と死は同じことの、裏と表のようなものです。 例えば赤ちゃんは生まれるとき、同時に死を通過しているのです。子宮の中にいる赤ちゃんは、ちょうどグランブルーの世界にいるときと同じように、完全な平和の世界に生きています。そして、ひとたび誕生の時が来ると、へその緒を切られ、一度死を通過して新しい次元に生まれ出るのです。これは人生も同じです。呼吸というへその緒が切れたとき、死を迎え、新しい次元に生まれ出るのです。魂の世界で、大宇宙の母の子宮に戻るのです。」

この次元で物事を捉えることができるのは自然を体感していたからなのでしょう。深い内省が深淵に近づくとき、人はこのような宇宙観に気づくのかもしれません。そしてイルカやクジラとの対話についてはこう言います。

「鯨達との交感に言葉はいらない。コミュニケーションではなく、ハーモニーするのだ。」

このハーモニーとは、いのちの響き合いのことを言います。お互いに自然に心を寄せるものはまるで一心同体になるということでしょう。佐賀県唐津でのイルカとの出会い、家族との思い出が響き合い初心になってその神秘なまでの海との記憶を美しい心のままに追い求めていたのかもしれません。

イルカやクジラの痛ましい自死のニュースは、これ以上、母なる海を汚さないでほしいという決死の真心の訴えかもしれません。絶対平和を選んだ彼らができることは相手を責めることもなく、自分を責めることもなく、”愛を体現”することであったのでしょう。

彼らにとっては今も未来の私たちも”みんな丸ごと自分の子ども達”です。子ども達に訴えかけてくるその真心や愛を心で感じ取り、本来の自然に学ぶ心を取り戻してほしいと私も一緒に深く祈ります。これはきっと”自然からこれ以上、心を離さないで”という海とイルカからの遺言です。

最後にジャックマイヨールの志の言霊からまだまだ子ども心を諦めないぞという勇気が湧いてきます。

『自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる』

3つ子の魂は100までを信じ、御蔭様の使命を信じ人類初心の実践あるのみです。
再会に心から感謝します、ありがとうございます。

逞しさ~ワイルドハート~

今の時代は自然の環境の中いるよりも、人工的な環境の中にいることの方が圧倒的に増えていることが多い時代です。都会に住めばあらゆるところにまで人工物が張り巡らされています。言い換えれば人間が頭で考えたものに囲まれた中で生きているということです。

いのちには本来、「逞しさ」というものがあります。自然界では逞しくないと生きていくことができません。それを生きる力と私は定義しています。しかし都市化人工飼育の中でその逞しさは次第に失われていくように思います。隅々まで人工的に操作したお金や物に頼る安心と安全こそがそういう人間本来の生きる力を奪うのかもしれません。

自然界というものは、数々の困難が待ち受けます。身近な植物をみていても、天候の急変にさらされ、動物や虫に食べられ、鳥についばまれ、あらゆる災難の中で自らの一生をいのちを燃焼させることで生き切ります。そこには野生があり、温室栽培のものとは明らかに逞しさが異なります。

本来、見守るということを感じる力や御蔭様と感謝する心は苦労する中で育まれていく感性のように思います。自分の思い通りや都合よくいかないと思って不平不満ばかりを並べては解決ばかりに固執しマジメになっていても嫌な思いをするだけで苦労をしているわけではありません。

人生は一度きり、一日一生と、今日ある当たり前ではない日々に感謝し、その日を精一杯生き切る中に真の苦労はあるように思います。如何に自分が活かされているか、如何に自分が生きていることが有難いか、平和ボケせずに生きる幸せを深く味わい盡すのです。

それは自然から離れないという意味と同じ意味になるかもしれません。

生きる力が発揮されるということは、野生を生きるということです。それは自然をエコなどと呼ぶのではなく、自然はワイルドであるという本来の意味を間違えないということです。自然の厳しさと慈しみ、それを存分に感じながら自分らしく生きていくことは、この自分のいのちを自ら主体として磨き光り輝かせていこうとする生きる力です。

物の視方を転じて観れば、自然の生き物たちはみんな一緒に逞しく生きています。自分だけで生きているなどという傲慢な気持ちこそがその人を孤独にしているのかもしれません。様々な生き物を育てたり一緒に暮らしたりする中で自然を取り戻していくことが孤独を取り払うことかもしれません。

子ども達には、この先の未来で何が起きても逞しく生きていってほしいと思います。私たちが大人として何を譲れるか、真摯に正対していきたいと思います。

裸の心

人間はみんな我があります。特に我が強いということは、理想が高いということでもあります。しかし同時に我が強いということは、それだけ自分に執らわれやすいということでもあります。自分に執らわれれば執らわれるほどに自利に走ってしまいます。

以前、ある住職の言葉に出会いました。

「俺が俺がの我を捨てて、御蔭おかげの下に生きる」という言葉です。

この言葉を紹介する住職の方は、池田智鏡さんという女性の方ですがご自身の壮絶な人生体験を経て尼になり、この言葉に出会いそれまでの生き方を見直し、全て一からやり直して住職になって人々へ心の支えとなるべく全国各地へ講演をなさっているそうです。

私自身はとても我の強い人間です。

我が強く、どうしても感謝がまだまだ土台になりきりません。やさしさだけでは自分に甘くなり、強いだけだと厳しくなるだけ、マジメになっては思いやりの実践が途切れ途切れと猛省の日々です。どうやったら心が寛く大きな人になれるのか、今でもよくわかっていません。

自分の力でやったと思う驕りや慢心の心を澄ませて有難いと感謝する慎み深く謙虚な真心は出たり消えたり、人生道場はいつも真剣勝負の連続です。自分がすごいのではなく御蔭様がすごいのだと思える日もあれば、我が強く出ればやはり逆の自分になってしまいます。一生懸命にやってみては、できた日もあればできない日もある、一進一退の中で呼吸するかのようにただ直向きに前に進んでいるだけです。

人は孤独を感じるのは二つあると言います。その一つは無視、無関心に自分を扱われたことへの怒り。もう一つはわがままが人を孤独にするといいます。謙虚に周りの御蔭様と思えるようになるには、この我の強さを心を磨きどう芯の強さに換えるかという心の修業が誰にしろ必要のなのかもしれません。

池田智鏡さんはこう言います、「助け合うこと。自分さえよければいいという考えは、自分も滅ぼし社会も滅ぼします」と。この自分の認識次第では周りへの回路を断ってしまい小さな自分に囚われてしまいます。「忘己利他」に生きるというのは、その強すぎる我を少し下げて己に克ち己を少しでも捧げることができるということでしょう。人道の極みはこの自然体、裸の心でいることのように私には思えます。

私自身、同じような体験をしているものの同じように乗り越えようとする人たちの苦しみを分かち合い許し合えても、それを具体的に乗り越える方法も工夫も今はまだ発明できていません。しかし、祈るような心で自他を一体に大切な人だからこそ真摯に一緒に乗り越えさせてほしいと心から思うのです。

機会とご縁は、必要なことであり人生には一切の無駄はないのだから裸の心で生きて子どもたちの模範になるような大人を目指していきたいと思います。面白い人生を愉快な仲間づくりを味わいながら思い出深く刻んでいきたいと思います。

 

自己有用感~存在価値~

人は有用であるか有能であるかということはとても大事な価値観であろうと思います。特に今の時代は自信を失っている人が多く、自己有用感を持てないという人が増えているようです。これは一言でいえば、自分が役に立っている実感が自分自身で持てないということです。

ではなぜこうなってしまうのでしょうか、そこには西洋文明の影響を強く受けた今の日本社會の価値観が関係しているように思えます。

人は誰かによって価値を定められ評価されているものです。それは自分を含めて、集団であったり国家であったり、自分の所属する場所に置いて自分自身の価値が判別されていくものです。本来、人は存在価値という価値があるのですが、能力価値だけをみるならば能力がない=不必要という解答になってしまうように思います。これは人や物が溢れてくると、あらゆるものを粗末にするようになり物質的豊かさの陰にある心の貧しさが広がっているからかもしれません。または信じるよりも疑う方が楽だと信じる努力を止めてしまうから自己防衛のために先に自ら評価を入れては勝手に自分の価値を自分で決め込んでしまい、自分の価値はこんなものだと先に裁いてしまうのかもしれません。どちらにしても何らかの理由で心を閉ざしているのです。

本来、価値というものは存在しているだけで価値があるものです。何かしら意味があって産まれてきたし、何かしらの価値は必ずあるのが自然界です。その価値を誰かの都合で一つの価値基準に合わせさせようとすればその基準に合えば有能であり、合わなければ無能というのでは誰でも自信を持つことができなくなるように思うのです。

人が自信を持つというのは、何かしら自分の価値を自らが認めているということです。言い換えれば自分の存在は必ず誰かの役に立っているという実感があるということです。それは決して何かしたから役に立ったのではなく、存在しているから役に立っているのだという実感です。

人は自己認識というものを他の人を通して行うものです。善い仲間がいれば、その仲間の中で自分が存在していいという実感があることで自分は必要とされていると感じることができます。そのためには自分から心を開いて仲間と本心を通じ合わせて、自分自身が周りを必要としていることを自らが発信していくことのように思います。

今の時代はなんでも一人で完璧にできる人を目指させる傾向が強くあります。完璧主義の刷り込みを持った人たちはたくさんいます。しかしもしも全ての事が一人で全部できるのならば他の人は要らないということになれば人類の人類たる由縁を忘れてしまいます。いくら便利な世の中になってもどんな人間も倖せになりたいのが本来の姿ですから、一見メンドクサイと思っても敢えて周りの人たちと仕事を分担してみる、一見自分でやった方が早いしミスがないからと思っても敢えて一緒にやってみる。そんな中ではじめて「楽しい」という体験ができ、その楽しい体験を通して自分が有用であることに気づくのです。

結局は自己有用感とは、誰かと一緒に働くことで得られる「楽しい」感情のことです。自分の価値観の中で有能さがある人は、能力だけで判断して役に立つかどうかを決めつけて結果を邪魔しないために具体的にかかわることを避けようとします。しかし、何もできなくても一緒にやっているのなら後ろからエールを送るだけでも、もしくは思いやり心配して励ますだけでもそれは一人の人間として十分に役に立っているのです。

自分の中の刷り込みを取り除くのは今までの自分の評価や価値基準を脱却するほどに大変なことですが、その先にある倖せな仲間との邂逅であったり、人と一緒にいることの愉快さ安心さを味わえたりを思えばブレークスルーしようと挑戦することの価値を感じます。結局は有用も有能もそれは人との絆や結びつき、真心によってはじめて活かされるものなのです。

そのための第一歩として自分が本当は何ができるのかを親切に教えてくださるのは周りの仲間たちです。自分で決めつける前に仲間に聴いて、自分の何を必要としているのかを心を自分から先に開いて素直に受け止め本人が自分からそのままでいいと感じ進んで殻を毀していけるように心の見守りを強めていきたいと思います。

生き様

価値観が多様化する時代、それは言い換えれば生き方が増える時代とも言えます。その人がどのような生き方をするかは、その人が新しい価値観を創造するということでもあります。

生き方がブレナイ人というのは、自分を持っている人のことです。人の価値観を否定するわけでもなく迎合するのではなく、自分の生き方を定めているということです。よく勘違いされるのは、自分の価値観に固執するばかりに他を排斥し自分勝手に傲慢になるのはそれは生き方とは関係がありません。

生き方を貫こうと思ったら、周囲への思いやりが必要ですし、その生き方をするのは何のためにかということを心の深いところに育てて据え置かなければならないからです。何がもっとも大切なことなのか、そして世界の中での自分の役割とは本当は何なのかを突き詰め、自らの天命に応じて素直に従うような力量もまた問われるように思います。

以前、NHKの大河ドラマで「八重の桜」がありました。その中で、新島八重を夫である新島襄が友人あてに紹介する文面に「ハンサムウーマン」という記述が出てきます。そこにはこうあります。

「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」

「生き方がハンサム」なのですとあります。これは八重の生涯を見て観たらすぐにわかります。新島譲は他にもこういう言葉で友人に自分の結婚観について紹介します。

「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本夫人をめとりたいと思います。しかし亭主が、東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」

つまりこれは単に西洋か東洋かではなく、男か女かでもなく、お互いの意見を尊重してお互いに認め合い学び合い、そして助け合えるパートナーを言ったのでしょう。

これはまるで志を同じくし、話をよく聴き、自分はこう思うと話ができ議論し合える志士のようです。あの時代、維新の志士では男性ばかりが登場しますが新島襄の同志がたまたま女性であって八重であったということなのでしょう。

自分を持っている人というのは、その心に確かな志があります。

志がある人は、必ずや人物として多くの人たちに影響を与えていきます。そしてその影響を与える根幹にあるものこそ、その人の生き方がどうであるかということです。生き方がブレナイ人になるためにも、目の前の些事や周囲の押し付ける空気に流されず、坦々滔滔と地味粛々に自分の生き様を内省していきたいと思います。