樹の本質~The Giving Tree~

ギビングツリー(The Giving Tree)という物語があります。これは米国の作家のシェル・シルバースタインという作家が描いたお話です。この本はすでに30ヶ国語以上に翻訳され今でも世界中で読まれ続けています。

この話は、樹と少年のかかわりの物語です。少年が大好きな樹は、少年がほしいものを自分の身を削って与え続けます。すべてを与え続けてそれでも少年が大好きで、樹はいつまでも幸せだったというものです。もっている自分のすべてを大好きな少年に差し上げていく樹の姿に、言葉に表現できないぬくもりや見守りを感じます。そして少年もまたいつまでもその樹を忘れずに大切な節目にはいつも頼りにしながら自分の人生を自分で歩み切っていきます。

この樹と少年の関係の中には、お互いの絆を通して共に絆を深め合っていく尊いご縁と結びが観えます。この物語が深く共感され長く人々に読まれるのは、そこに確かな愛を感じるものがあるからかもしれません。

先日、ある森を歩いて樹を観察していたら樹はもともとその性質の中に「与える」という徳性があることに気づきました。なぜなら樹は存在し生えることで、周りの生き物たちをすべて活かすからです。

樹は1本から循環をはじめます、その樹は伸びていくことで水の流れを保ち、落葉しては土壌の微生物たちをはじめ様々な生き物の住処を用意し、木蔭で休憩する動物たちや、実や樹液は食べものになり、幹はあらゆる道具として活かされます。

地球上にいて歴史が古く、もっとも長く自然の篩にかけられても生き残っているのは樹木です。この樹木がなぜ選ばれるのかは、そこに「与える」という生き方があるからではないかと思います。

私にとっては、「tree=giving」であり、「与える=樹」であるとしています。樹はもともと与えるのが樹であるということです。今の樹があのようになっているのは、与えるのみの姿であるから私たち人間には気づきにくいのです。本来の樹は与える中に存在しているからこそ、自分の生き方がそうなったとき樹の生き方が観えるのでしょう。

そして自分への見返りを一切求めずに与えることは、それは失っているのではなく同時にサムシンググレートから偉大なものをいただいているということでもあります。自分が得ようとするよりも、与えることで得られるのが天恩であり天恵です。

つまり自分にとっての損得ではなく、自然そのものの尊徳を感じているのが樹ではないかと私には思えます。

樹から生き方を学んだ一年でしたが、少しだけ樹の持つ本質を学び直したように思います。

この「TheGivingTree」の物語のように、愛と見守りの仕合せの関係を生長の中で真の自立=人間愛を築き合っていきたいと思います。

 

メンターとメンティ①~親切という生き方~

メンターという言葉があります。

これはギリシャのホメロスの叙述詩『オデュッセイア』の登場人物である「メントール(Mentor)」という男性の名前から来ています。このメントールという男性は、オデュッセウス王の友人でもあり、王の息子テレマコスの教育を託された賢者でした。

そのメントールは王の息子にとり、生き方や判断のモデルとなり、指導者、理解者、支援者といった見守る役割を果たした人物です。このメントールが英語でメンターと言われるようになりメンターの対象者が「メンティ(Mentee)」ということになります。私の主観ですが、日本では吉田松陰と高杉晋作のような関係や、細井平洲と上杉鷹山の関係もまたこのメンターとメンティの関係のように思います。

もともと人は一人でやっているようで一人でやれることはありません。その人が結果を出せるのは、その陰に見守ってくださるメンターたちがいてはじめて事が実現します。

何かあればいつもメンターが助けてくださっているからこそ、メンティは立派に事を成し遂げることができ、メンターもまたそれを支援することでその人自身が志を完遂するのを惜しみなく助けるのです。

もともとメンターというのは、困っている人を助けるような存在です。つまりは見返りを求めない親切さがあるものです。今まで私がお会いしてきたメンターもみんな本当に自分のことを実の息子のように可愛がってくれて惜しみなく智慧や励ましやアイデアをいただきました。

その御蔭様をもって今日があり、今日があるのはメンターとの出会いがあったからと断言できます。そしてメンターもまた、メンターがいて同じようにメンティでもあったのです。

人は生きていく上で、実践モデルは必要です。自分にすべてをさらけ出して命を懸けて大切なことを教えてくださる存在がメンターです。教わる方もそれを命懸けで学んでこそはじめてメンティとも言えます。

つまりはメンターとメンティは共に本気であること、同等の覚悟をもつもの、道を共にし志を同じくするものたちがそう呼ばれるのではないかと私は思います。

善いメンターに出会いたいのなら、善いメンティにならなければなりません。つまりはお互いが「生き方としてのモデル」になったとき、ホメロスの叙事詩に画かれるような素晴らしいご縁や出会いの物語に恵まれるのです。

親切にしていくこと、親切にされたことを周りへお返ししていく生き方がメンターとメンティを育て、そしてその両方が子どもたちがお手本にする生き方の実践になって学問の素晴らしさを伝え、世の人々との関係を好循環させていくように思います。

自分がメンターでもありメンティでもあるのだから、常に学問は命懸けで実践していきたいと思います。コーチングもカウンセリングもどれもこれも基本は親切心と真心ですから常に自分の魂に問い出会いを磨いていきたいと思います。

バランスの善い人~知行合一~

人は志を持ち、自分から自問自答して場数を体験しなければ学問を大成していくことはできないように思います。教えてもらうことを学びにしている人は、教えてもらおうとする頭ばかりを働かせて頭でっかちになってしまいます。

この頭でっかちとは何か、少し深めてみたいと思います。

もともと頭でっかちとは体に対して頭が不釣合いであることをいいます。それを比喩し、知識は多いけれど実行が伴わないことをいいます。これも今の学校教育の刷り込みの一つだと思いますが知識ばかりを詰め込んでは場数や実行の量が圧倒的に足りないということです。

実行するには心を遣う必要があります。心を遣うと体が動きます、体が動けば心もまた動きます。そしてその中で頭を働かせるという順序が本当の働かせ方のように思います。

世間では何かの道を学ぶとき、心技体のバランスを確認するものです。これは心技体全てを駆使して渾然一体になっているかということです。難しい言い方になりましたが、志を持ち、律儀に場数を踏み大量行動によって自分を育てていけばいいのです。

しかしそれができないのは人には怠惰な精神というものがあります。頭でっかちになってしまうと、如何に楽をしようかと考えてしまうからです。本来、「頭」の仕事というのは身体が無理しすぎないように、心が傷つきすぎないように調整する役割を持っているように思います。

頭があるから、計算して休むことができ、頭があるから、知識によって体験が困難になりすぎないように調整してくれるのです。ただ実際は、頭を優先してしまうと体が動かなくなり精神が着いてこなくなり心を亡くしてしまいます。

常に志を優先し、初志貫徹、何のためにといった初心や目的に照準を合わせて真摯に実地実行を繰り返すことではじめて頭を活かすことができるように思います。

頭が良いのは才能の一つで、頭が良いことで様々な創意工夫やアイデアもまた生み出していきます。だからこそ、まず如何に自分が望む自分を手に入れるために臆病でメンドクサがりな怠け心に打ち克ち苦労や忍耐を学び、日々に己自身との真剣勝負の場数を踏むかが何よりも頭を従い活かすためには大切なのでしょう。

頭で考えたなら、やれないことややりたくないことばかりでしょう。しかし、実際は現場を体験してもらうことでその一つの現場から学んだ有難いご縁や感謝を実感したらもっと実行していきたい、もっと恩返ししたい、もっと成長させてもらいたいと思うのが人間です。

頭も心に追随して困っている人たちに貢献したいと願っていますから、有難い現場をいただいていることにいつも感謝し、その中から学んだ気づきを改善してより行動を増やしていけばいいように思います。

私も今までの人生を思い返せば、行動してきた御蔭様で今が在ります。今の自分を創ってくださったのは出会った方々と尊い体験と、御縁といった場数でした。心が突き動かされるのはその場数に対する感謝があるからかもしれません。

長くなりましたがバランスの善い人というのは、頭を活かして行動が伴う人です。

知行合一に人生の実践を味わい、世のため人のために盡力していきたいと思います。

 

対話~衆知を集める~

古代ギリシャの哲学者にソクラテス(紀元前470/469-399)がいます。高弟のプラトン(前427-347)らと繰り広げた対話のことを「ソクラテス的対話」(ダイアログ)といいます。つまりは「対話」についてはっきりと定義されます。

もともとソクラテスは、文字に書き残すことで大切なことが伝わらなくなると考えました。プラトン自身も文字では伝わらないことを知りつつも敢えてソクラテスの言葉を文字に起こしました。

そのソクラテスが何よりも重要視したのは「問い」ということです。言い換えれば「自問自答」のことです。周りが何かを言うことに対して答えを求めるのではなく、「対話」によってはじめて自分自身の中の答えに導いていくこと。

つまりは気づきや自覚によって、その意味を掴んでいくことの大切さを説きました。

もともと学問というものは、学校の勉強のように誰かが持っている答えを探し当てることではなく、自分自身が経験したことを自ら苦労して掴んでいくときに「問う」という学びが得られます。

私はよく「わかった気にならない」と話しますが、これは分かるということは苦労してはじめて理解できるということを言うからです。頭ですぐに分かった気になる人は分かるということは学校の勉強のように知識を持つことだと勘違いします。

そんなことを分かってみても、現実の世界は何も変わることはありません。物知りになったとしても、それは議論や討論はできても現実には気づくことができないのです。

問いというのは、気づきのことです。

その問いを持ちつつ、行動し実践し努力苦労していくことで次第に気づきが自分のものになっていきます。刻苦勉励の精進によって体験が自分のものになったとき、はじめて「わかった」と思えばいいのです。

これらの自分自身との対話は、如何に自分自身が素直になっているかによります。その自我から離れた状態を人々の間にどう引き出すのかは、調和者(ファシリテーター)である人物の信念や哲学といった生き方が影響します。

そういう気づきこそが何よりも大切であると、このソクラテスとプラトンの関係からも読み取れますし、論語の中の孔子やその弟子たちとの対話からも感じ取れます。

日本語ではこれを「衆知を集める」としましたが、私たちの行う一円対話はこれを引き出していくものです。さらに実践を高めて、世の中に真理を広げていきたいと思います。

自然の本能~足るを知る~

今の時代は古い暮らしをしていた先住民たちの文化が壊れている時代です。グローバリゼーションという名の波が、世界中のあちこちにまで蔓延し多様な暮らしを一つの暮らしになるように変えてしまいます。

隣国の中国でさえ、15年前と今ではまったく暮らしが変わってしまい都市部ではかつての中国の様子がほとんど感じられません。今ではあの広大な国の僻地にまで大規模工場や娯楽施設、西洋的な住宅が増えてはそれまでの悠久の暮らしはなくなってきています。

アフリカやブータンなどという古い暮らしも次第にその波に脅かされています。もともと持っていたものの価値を否定し、若い人をはじめ自分たちが西洋人と比べて持っていないことを不幸だと植えつけられ、その不幸を避けるためには勤勉になるしかないと教育し不幸を抜け出すために必死に経済のために働くのです。

みんなが持っているのに自分は持っていないという考え方は貧しい考え方だと言われます。しかし本当は貧しいのではなく、足るを知らなくなることで不幸であるという生き方になってしまうのです。

老子に「足るを知る者は富む」があります。「足ることを知らないと不幸になる。欲が多すぎても強すぎても不幸になる。足ることを知ることに満足できる人は常に幸せでいられる」(老子第46章より)があります。

そもそもの貧しさとは不幸のことであり、豊かさとは幸福のことです。真の豊かさというものは、持っているか持っていないかということではなくすべて持っている、「今の自分のあるものはもっとも今の自分に相応しい」と満足し、だからこそ感謝して、その上で御恩返しになるようにさらなる生活を向上し自助練磨、修身精進していくようなものです。

畢竟、自分は誰とも比較できない自分自身であり、自分自身は絶対的に自分であるという唯一無二の自分らしさよりも誰かや周りと比較しては自他を羨みそして競争し、集団に餌付けされ飼いならされ本能を忘れてはまるで自転車操業のように毎日只管走らされて止まることを恐れ不安にさせられています。そうやって視野狭窄にし追いつめられては周りを巻き込んでいくのが今のグローバリゼーションの手法です。

そこに自分自身が負けてしまうことで不幸は蔓延してより多くの人たちが物が溢れて裕福なはずなのに仕合せに生きられなくなってきています。

かつての暮らしは、自然を優先し人間を少し下げて調和を重んじてきました。

今は人間が何よりも最優先で、自然であるよりも人間社會の中での上下の差や貧富の差にばかりフォーカスされては幸不幸を語られます。一度、破壊され喪失してしまったかつての文化の中にもう戻ることはできず一度走り出したら自転車操業しかありません。

もう一度、真の仕合せとは何か、真の豊かさとは何か、「足るを知る」心から見つめ直して本来の本能を呼び覚ましていく必要があるように思います。

足るを知る心とは、自然界の本能だからです。
自然の本能の減退こそが、人間の不幸だということです。

自然界の本能を育てて磨いて、本来の人間の仕合せを働き方と生き方の一致で新しい時代の真の豊かさを次世代へとモデルを示し譲っていきたいと思います。

 

 

心の原点回帰~もののあはれ~

昔から日本には八百万の神々という思想があります。これは万物の全てには神様が宿っているという意味です。つまりすべては丸ごと神様であるという考え方です。

これは西洋のように人間と神とを分けて考えるのではなく、自然界の仕組みのように人間を中心にするのではなくすべて丸ごとを中心にするという考え方です。

しかしそれを感じる力を持つというのはモノやコトの中に真心を感じる感性がなければそれを実感することはできません。つまりは江戸時代の国文学者の本居宣長が言うように「もののあはれ」を直感できるかということによるのです。

「もののあはれ」とは何か、本居宣長はこう言います。

「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心で味わい、そのあらゆるの事の心を自分の真心でありのままに知る。これが事の心を知るということであり物の心を知るをいうことである。物のあはれを知るということである。そしてさらに詳しく解釈するならば、ありのままに知るのは物の心、事の心であり、それらを明らかに知ってその事のあるがままのかたちに動かされるままに感じられるものが”もののあはれ”なのである。」

この「あはれ」というのは、哀しみのことを言うのではなくありとあらゆることを直感する感性のことであろうと思います。自他一体の時に実感する、繋がりや絆、そのご縁を尊重するときに自分が渾然一体になっているものの変化と同化しているときに味わっている感覚のことです。

なぜ「もったいない」という言葉があるのかは、そこには心があるからです。心があるからこそ粗末にしない、心があるからこそ大事にする、そのモノもコトにも、確かな心が関わりいのちが存在しているからこそ大切にしていこうとする思想です。

今の時代はありあまるほどに存在するモノやコトに囲まれています。一歩外に出れば、そのモノやコトの情報が氾濫し、内に戻ればそれを持ち帰ってしまいます。穢れを祓い清めるというのは、心を亡くしてしまったものを取り戻し、それをキチンと整理整頓し清潔にシンプルにしておくということなのでしょう。

自分の心と感情を澄ましていくというのは、「もののあはれ」を感じられる状態にいつも自分を維持していくことだと思います。それはモノやコトをどれだけ大切にしているかですし、内省によってどれだけ丁寧に暮らしていくかということでもあります。

何でも雑にしていたらそのうち心は亡くなって、モノだけではなくコト、そしてヒトやタカラまで失っていきます。沢山いただき恵まれているものに感謝の心がなくなってしまったら、それは何よりも悲しく不幸なことです。

常に「もののあはれ」を感じる心は、心が清く明るいままで維持されるようにその汚れをきれいに払しょくし洗い流すような実践が必要になるように思います。日々に穢れなくさっぱりとしている自分かどうかを確かめ、余計な雑念に大切な理念や初心を忘れないように平常心を磨いていきたいと思います。

あの美しい自然、今朝の綺麗な朝の光のようにいつも心の原点回帰をしていきたいと思います。

観方を転じる~徳に報いる~

先日、あることを考えていると天罰ということについて見直す機会がありました。よく悪いことをすると天罰が当たるという言い方をしますがこの天罰とは何かということです。

そもそも天は罰を与えることはありません。罰が当たるのは自分自身です。自分にとってつらいこと苦しいことを罰とし、その罰が来たということです。天がわざわざ罰を与えたわけではなく、自分自身が素直になったときに「これが報いか」ということを自覚するだけです。

報いというのは因果応報のことですが、これはそもそも先ほどの天罰と同じく悪いことで使われますがこれもおかしな話で自分にとって悪い報いだけが起きるわけではありません。善悪というものも、人間が自分にとって善悪を決めるだけで天は善悪を持ちません。つまりは、因果応報もこれは単に行ったことが形になっただけでそれに善悪を設けているのは自分自身ということです。

人間というものは、自分を中心に置いて物事の善悪や成否を決めます。そしてそれは常識という枠組みの中によって正解と不正解を裁きます。そのことにより自然だったものが不自然になり、本心だったものが本心じゃなくなっていくのです。

物事というのは観方の問題です。

現実というのは、偉大な循環の中の一つであるためその物事や出来事は必然的に自分に置かれます。つまりは産まれてくる場所をはじめそこに自分がいるのは全体の一部としてそこに必要として来たのです。その現実は現実ですから受け止めて受け容れるしかないのはそれはどうしようもない事実だからです。

だからこそその事実を変えてしまいたくなるような自分中心の自分自身があるのでしょうが、それを手放していかなければ現実の苦しさに自分が耐えられなくなってしまうのです。そういう時は、観方を換えるしかありません。本来、善いことであるという観点、丸ごと善いことであるという観点、繋がり味わい楽しむならばそれが正しいという観点のように、自分の観点を不安不信ではなく信の世界に換えるのです。

そもそも天罰などはない、天はいつもすべてゆるしてくださっている、天はいつも助けてくださっているというように大前提を変えてしまわなければ観点は変わりません。つまりは自分の解釈そのものの基準を、信じる方へと善い方へと変えるということです。

自分の不安が未来を悪くしていくのは、そういう観方を換えられないだけです。今の生き方を常に善い方へと善転できるならその人はどんな運命であろうとも自分の人生を仕合せに歩んでいくことができるからです。

人は自分の思い通りになるとき、このままずっと今のままがいいと願うものです。しかし時代はそれを待ってくれません、自分ひとりで生きているわけでもなく世界は発展を続けるからです。

だからこそ今の自分を転じていくこと、それが人事を盡していくことだと思います。天は信ですから、その信に報いるのは徳です。その徳を磨いていくことは、人事を盡してあとは天に任せていくことです。

自分の思っていることなどたかが知れていて、ほとんど全ての出来事が自分ではない周りのところが動いてくださってことはなされていくものです。それが循環の理でもあり、地球の中に共生する原理でもあります。

偉大な中に存在させていただいているのだから、自分の役割を果たしていくことが徳に報いることです。自分都合自分勝手な解釈を戒め、常に観方を転じて信の世界を子どもたちに譲っていきたいと思います。

善い人~あるがままにありのままに~

人間が自信を持つというのは自分らしく生きることです。しかし自分らしく生きることをしないで都合よく合わせているとどんどん人は自信がなくなっていきます。

昨年、「アナと雪の女王」という映画が世界で大ヒットしました。この映画を観ているとそこに自立のテーマが入っているように感じて、世の中の人たちがみんな自分らしく生きたいと熱望していることを改めて実感しました。

その雪の女王が歌う歌詞のサビの中で「ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの、、ありのままで空へ風にのって、ありのままで飛び出してみるの、、これでいいの自分を好きになって、これでいいの自分を信じて」とあります。

これは自分は都合のいい人では生きない、みんなの評価に合わせた自分ではなく自分らしくあるがままで生きるんだという強い意志が入っている歌詞です。

人はみんな自分らしく生きないことで自信をなくしています。周りからいい人と言われ周りから嫌われることを恐れて本当の自分を隠し、本音や本心を出すことをしなくなっていきます。

そんなことをするとどうせ反抗されるだろう、反発されるだろうと、周りを見渡し我慢をしては自分らしくいることを自分自身が否定しているのです。そういう抑圧の中で生きていくならば、逆に周りへの依存心が強くなり不自由の中で得ている偽りの自由の中で自分を埋没させ押し殺して生きてしまうことになります。

全ての生き物は自然に発達します。その発達は常に自立することを求めますから如何にあるがままの自分の姿で周りと共生し仕合せになるかは本能が望んでいるのです。それを我慢するというのは、まるで魂の生長を抑止することに似ています。

魂を磨き、魂を高めていくためにも、あるがままの自分に自信をもってこの現実の世の中で自分を生き切っていくことがいいように私は思います。人間社會は自然界と同じようにそれぞれが与えられた天命に生きることで、はじめて福世かな社會の一員として自分を自立させることができます。

もちろん人はみんな誰しも人から嫌われたくはありません、しかしそのことを優先し一番身近な自分から嫌われたならもう信じることができなくなるものです。一番身近な自分を守ってあげられるのは自分しかありません。それは臆病になることではなく、思い切って本心のままに自分のままにオープンに勇気を出して生きていくことです。自分の生き方が誰かの勇気になるという言葉は、自分らしく生きている人を見てはじめて実感できるものです。人はみんなオープンでいたいと心の中では願っています、言い換えれば自分の周りを信じたいのです。

世間を信じない世界ではなく、世間は信じられる世界に生きたいと願うのはそもそもいのちはいただいているものだからです。自分がオープンでいること、自分があるがままにありのままでいることは周りを信頼して生きていこうと覚悟と決心した清々しい姿です。

本当の自信とは、周りを信じる自分に出会ったときに持てるものなのかもしれません。

最後にその歌詞の中にはこう書かれています。

「どこまでやれるか自分を試したいの、そうよ変わるのよわたし
~光あびながら歩きだそう、少しも寒くないわ」

自分らしく生きることが子どもたちの勇気や自信になるのだから、周囲に迎合するような都合のよい人ではなく、周りを信頼して周りを活かすような本当に善い人になるように自分自らを磨くことを忘れずに日々に精進していきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

自然の営みに合わせる

昨日、自然農で育ち収穫し脱穀した稲を籾摺りして炊いた玄米を食べました。噛めば噛むほどに深い味がし、御米が育つ場・間・和を優先してじっくりと見守られ見守った御米は感慨も一入、また格別でした。

そしてその時、食べるというのは実は大変有難い丹精丸ごとを食べているのではないかと実感しました。

私たちは便利さを追求しているうちに食べるという行為でさえ、単なる空腹を満たすようなものになってしまっていますが本来は食べるという営みこそが、生き活かされている証拠であるのです。この「食が営み」という言葉を何度も聴いたつもりでいましたが、昨日一年間の御米の見守りを振り返りながらはじめて「ああ長い時間を経て得たこの出会いの瞬間こそが営みであった」と深く実感しました。

人生の目的は結果ではなく経過であることは誰もが分かっています。しかし、結果さえよければと結果だけを追い求めるのが人生の目的になれば暮らしそのものを味わったりするよりも悩み煩わしいことばかりに心を奪われ意識が囚われてしまうものです。

しかし丸ごとの今を受け容れ、時間をかけて丹精を籠めて全てを善いことにして楽しんでいく日々を過ごしていけば結果が自分の思い通りでなくても、自分の思っている以上の出来事が起きているのを知って感謝の心が育っていきます。

自分の思い通りにいくかどうかばかりを皆追い求めますが、本来追い求めるものは思っている以上の奇跡や感謝に新たに出会うことだと思います。

長い年月ずっと念じ続けて思い続けて信じていれば、たくさんの御縁に恵まれそのことから事が次第に為されていきます。素直に謙虚にさえ歩んでいけば、自ずから道が開けて周りの助けによって事は”なる”のです。

本来、じっくりと時間をかけるのは自然が四季を循じるように自然が自浄していくように自然に任せて取り組んでいくものです。思い通りにいかないのは人間に合わせようとするからです。人間に合わせるのではなく、自然の流れに沿い従い応じて任せていきながらその中で精いっぱいの自分の丹精と真心を使うことではないかと思います。

地球上に於いては”いのち”はすべて等しいものであるということを自明します。人間だけが特別であるという傲慢な気持ちを少し我慢さえすればこの世はまるで楽園のようです。齢を経るとともに、人々の囚われている自我の刷り込みを何とかして取り除いてあげたい気持ちは減るどころか益々高まってきています。

今回、取り組んだ自然の実践ではまだまだ技術は未熟ですが自然の営みに合わせるその真理は少しだけ心身に染み込んできたように思います。じっくりとゆっくりとしたいのちに合わせて有難い機会と実践の恩恵に感謝しつつ、その気付きを子どもたちの未来の社會に還元していきたいと思います。