自堕落と向上心

自分が向上しているのかを客観的に自覚するのに自堕落の三要素というものがあります。自分がやっている気になっていても、やらされているのでは自らを自らで積極的に高めていないかもしれません。常に自分の人生において自分を育てるのは自分自身ですから自分がどのように自分を育てているのかを自覚するのは大切なことのように思います。

その自堕落の三要素とは、下記です。

①形式的であること(心を籠めない)
②便宜的であること(この程度でいいじゃないか)
③小市民主義であること(自分だけのちっぽけな問題にとらわれる)

一つ目の形式的はそのままで、形だけ結果に近づけはしますが自分の真心を籠めようとはせずに頭だけで考えて取り組むことです。どんなに善いご縁や機会、環境に恵まれていても頭で形だけをなぞっていては自分が向上することはありません。心を籠めることではじめて自分を活かすことができます。

二つ目は、自分の中で間に合わせでその場しのぎで乗り切るということです。これはぎりぎりになったからや忙しかったからなど、今風でいうところのてきとーに面倒だからそれで済まそうとする考え方です。メンドクサイとなんでもいい加減に取り組んでいたら本質的に取り組むことができません。その場だけでいいというのは、後のことを考えていないからです。自分の目的や初心を忘れないことで自分を活かせます。

三つ目は、自分の価値観に縛られて周りを省み慮ることをしなくなることです。自分が大変ではなく周りもみんな大変なのです。自分の心配ばかりに捉われて周りを思いやることができなくなれば自分を周囲のために活かしていくことができなくなります。どうせなら自分の問題はきっと世界の誰かのお役に立つと転換したり、自分の問題そのものは社會と繋がっていると思った方がいいのです。自分の問題に捉われるのではなく、もっと視野を広めていくことで自分を活かすことができます。

このように自堕落というのは向上心が減退することで発生してきます。人は自分には甘く他人には厳しいものです。自分に厳しく自分を律することで自立することができますから、まず自律ができるようになってはじめて自立して誰かのために自分を活かし働くことができるように思います。

自堕落ができるというのはその陰で、誰か自立している人に依存している自分がいるかもしれません。すべての問題を自分の問題として矢印を自分に向け、主体的に積極的に自分を成長させるために日々に精進していくことのように思います。

それは誰かの目に見えるところばかり求めるのではなく、目には観えない本質を正しく捉え、理想に自分を近づけて高めていくことです。

日々の生き方を定め決心して本質的に歩んでいくことを引き続き大切に本物のままにしていきたいと思います。

人生の御守

自分の心の状態次第で視野というものが変わってきます。自分が満たされていない時や自分が不安なときは知らず知らずに視野は狭くなってくるものです。本来満たされないから満たすのではなく、満たされているから満たせるのですが謙虚さや素直さがなくなってくるとすぐに求めはじめます。そうなると心が観ている世界よりも現実の世界だけしか見えなくなります。

例えば、問題ということの考え方があります。視野が狭く余裕がないときは、早く問題を解決したいことばかりに捉われるものです。そうなると問題そのものよりも解決したいとばかりに躍起になりますから問題を正しく見つめることができません。一時的に解決したと喜んでもすぐにまた同じ問題にひっかかります。対処療法ではないですが、その時だけの問題を解決しても根源治療にはなりません。

もしも心にゆとりがあり、視野が広いなら問題というものを見つめようとします。私の言葉ではよく問題を味わいましょうという言葉になりますがその問題そのものを観察しそれをじっくりと味わってみようという観点を持てます。そうすると問題の本質が次第に観えてきますからすぐに解決することよりも問題をどう学びに転じようかと味わい楽しんでいくことができます。そうなると問題そのものが解決になりますから問題がなくなってしまうのです。

このように問題は解決するのではなく味わうことで視野を広げるのです。つまりは視野が広いというのは問題をなくす方法ともいえます。日々の仕事や取り組みの中で如何に解決解決と考えるのではなく、一度しかない人生の中で出会う様々なご縁に対し、そのご縁を味わい学び活かしていきたいと生きることで丸ごと問題は全て善いことになるということです。

そのためには理念が必要です。

何のために自分が生きるのか、何のために働くのか、つまりは自分がどう生きるのかという「生き方」を定め、常にそこから考える習慣を持つ必要があります。生き方が定まっていないとすぐに自分の判断を目先の問題からなんとかしようと思ってしまいます。生き方が決まっているなら、どうするかではなくどうありたいかと自分の初心を取り戻したところで判断できるからです。

どうありたいかと思うとき、現実の問題よりも自分の問題が現れます。人生は常に自分自身の問題ですから自分との問答に於いて信念をもって生きていくしかないのでしょう。この信念を助けてくださるのが人生の御守ともいえる理念です。

心に理念を持つことは、人生に御守を持つことです。

一度しかない人生で後悔しないように、自分が何を優先しているのかを忘れないように日々理念を御守にし生き切っていきたいと思います。

真の親切~情けは自他のため~

「情けは人のためならず」という諺があります。

本来は「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」で親切は必ずお互いに善いことになっていくという意味ですが今ではそうは使われなくなっています。特に今では、情けをかけるとその人のためにならない、情けを仇で返されるなどというように誤解されています。これは情けというものを正しく理解していないからそう感じるのではないかと私は思います。

そもそも情けというものは、自我欲から出てくるものではなく真心から出てくる親切心のことです。これはまるで親心のようで、親は子どもに対して見返りを求めず無償の愛で真心を盡します。これは自然界も同じく、産まれた子どもを自身を削りながら大切に育てていきます。そしてこれは見守る心とも同じです。

それほど情けは見返りを求めるものではなく与え続けるものです。自分の中で知らず知らずのうちに与えるものが求めるものになっていくのは自我や欲が入り混じってくるからです。それでは善いことが悪いことに転じてしまいます。

本来は、善いことを福に転じていけば至誠になります。同じように親切を御蔭様に転じていけば真心になります。しかし自然にそれができるようになるには自他一体になるほどに自他に正直である心を磨いていくしかありません。そしてここには依存と自立の関係もまたあります。情けはもちろん大切なのですが、自他に素直に謙虚になれないならその情けがかえって欲を助長する依存関係になってしまうからです。

実際に困っている人を助けることは尊いことです。情けが面倒だということになれば助け合わなくなりますから本末転倒です。だからこそ御蔭様の心で、「お互いに天から頂いている福を分けただけ」というすっきりと明るい関係を築くことでお互い様にしていくことが大切なのでしょう。

自分が見守られているから同じように誰かを見守る、自分がいつも助けていただいているから同じように誰かを助ける。自分が体験したのだからその体験を誰かの役に立てていくことが「親切」の定義なのです。そう思えば謙虚に素直に自分のいただいている感謝の心を他人にも循環していくことが真の情けになるように思います。

そして人情の学びは、他人だけではなく自分も大切にする心です。畢竟、人はもっとも身近にいる自分自身の心に正直で素直でないと他の誰とも正直で素直な関係を築けないのです。

社會の中で生活するもの同士、お互い様の心で目の前の人は明日の私、周りの人たちはみんな未来の私と思って親切をさせていただける機会とご縁に感謝していきたいと思います。

いつも満たされないから満たすような傲慢な感覚ではなく、いつも満たされているからこそ周りも満たすような謙虚な感覚、利己ではなく利他、つまりは自我や欲を満たすための親切ではなく、本来の意味の誠と真心の親切を実践していきたいと思います。

 

求道伝道の志~本質と哲学~

人は本質的に日々を過ごしているかで積み重ねているものの価値が決まります。何を大切にしているかは人の生き方ですが、その生き方が影響を与えるのは本質的である時だけです。

本田宗一郎の有名な言葉に下記があります。

「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である。」

これは理念という言葉を本質に置き換えればすぐにわかります。本質なき行動はまるで凶器のように危険であり、本質なき行動は何の価値もないということです。ここでの本質は会社でいえば理念になります。理念とは、何のために行うのかということですから理念が初心であり、その初心を忘れてはいけないと定めたのが理念だからです。

しかし実際の人たちは、目先に流され本当は何かを省みることもなく表面上で理解したものに従うばかりで日々を追われます。そのうち本質であることよりも結果だけを帳尻合わせするようになっていきます。

そもそも本質とは真の目的ですから、その真の目的のために動いた行動だけが価値があります。それがいくら周りに理解されなくても、それが誰にわかってもらえなくても本質を捉えて行動をしているならばそこには真の目的に相応しい価値が存在します。

しかしもしも本質から外れて何のためにかを自分の中で捉えずに誰かのものを使って形だけをなぞってみてもそれではほとんど真の目的に対する価値には転換されていかないのです。

実際の世の中には目に見える世界と目には観えない世界があります。目に見えるところだけや他人の目を気にしているだけで本質風にふるまってみてもそれでは哲学や思想を自分のものにすることはないのです。大切なのは本質がわかることではなく、本質であることです。本質だからこそ思想や哲学を持つのです、これはイコールなのです。そして世界に発信力のある一流の組織を見渡せば一目瞭然ですが世界に新しい価値を創出した一流の組織人はその組織の人一人一人の中にリーダーと全く同じ質の哲学と思想を自分たちのものにできています。

最近、師の開塾している若い塾生たちがメキメキと見えるほどに成長しているというお話を聴きました。彼らはきっと師の本質を自分の本質に転換しているのだと思います。その過程の中で、師の哲学や思想が自分のものとして内在内包されてきているから素直に伸びているのです。

単に知識や才能だけで容だけを理解して形にこだわるのではなく、生き方を私淑し真似をしてコピーするほどに丸ごとその人の本質に近づこうとする中ではじめて理念は学べるのかもしれません。それはその人が同時に本質といった目に見えないところを観ている証拠だからです。

最近実感するのは、理念を知ったとしてもそれを自分のものにしていけないのは、そこにはやはり人それぞれのセンスと努力があるのではないかとも思います。

これは振り返ってみて今ならはっきりと言えるのですが若いころからの求道の志の質量がエネルギーに転換され、哲学や思想が基礎基本になりその行動をホンモノにしているからです。そして伝道の志を持つならいくら時間がかかっても真心で諦めず常に本質からブレナイように自他の鑑をさせていただけるように精進したいと感じます。

最後に論語に「子曰く、我は生まれながらにして之を知る者に非ず。」があります。ここからみんな誰しも理念を立てて己に打ち克ち努力精進して刷り込みを取り除き人格を磨いたんだよという実践者としての孔子の後人への優しい眼差しを実感します。

日々は有難い真剣勝負の実践道場ですから、優先順位の確認を間違わないように理念の内観と反省、改善を続けていきたいと思います。

 

循環の価値観

日本には七福神という神様がいます。恵比寿様を中心に、周りには外国から来た神様たちが総勢七人で宝船に乗って並んでいる姿です。不思議な光景ですが、なんだか見ているだけで仕合せな気持ちになります。七難七福、どんなものも一切が福に転じれば宝になるという教えです。

私たち日本人というのは、「もったいない」という言葉が世界で有名になりましたが本来、無駄やゴミという発想がありません。神話に登場するすべての物事一つ一つに神様の名前がついていて、この世にあるすべてのものは丸ごと神様です。それを八百万の神々と呼んで、祖神はいつもどの神様も大切に尊びます。

西洋では、必要不必要というのを自分を中心に仕分けていきます。人間(自我)を中心にして考えていきますから、価値は人間が決めてしまいます。東洋は自然(無我)の中で一体になって暮らすことを大切にしてきましたから無駄という概念があまりないように思います。簡単にいえば無駄やゴミと思っていること自体が価値を自分が決めてしまっているということです。

どの価値も本来の価値が観えれば一切の無駄は消えてしまいます。そしてその無駄が一切ないという価値観とは何か、それは循環の価値観です。一見、要らないと自分が思っていても”必ず何かの役に立つ”のが自然です。自然は無駄が一切なく、この世の中には不必要なものは一切ありません。その価値が感じられなくなった人間’(自我)があるだけで、どんなもの一つにも価値があるのです。

世の中はつながっていて全体であり、丸ごとで一体だからです。

これが西洋と東洋のチーム観にもあるように私は思います。西洋のチーム観は能力の組み合わせです。能力をどう組み合わせて良いチームにするか、つまりは目的を達成するためのチームです。しかし東洋は能力の組み合わせではなく家族の結束力を重んじます、皆で結束することで困難を乗り越えようとする、要る要らないではなく全部役に立つという発想です。

ここに私は何よりも大切な思想や姿勢、「日本人としての生き方」があるように思うのです。

私たちはどんな神様も大切にするのは、一緒にいることで何かの役に立つことを自覚しているからです。その時にすぐに能力を発揮しなくても、一緒にいれば必ず何かのお役に立ちます。

今の時代は、能力主義ですから能力がなくなることを過度に怖がっている人たちがいます。能力だけ磨いて、一人で仕事をする方が効率がよく重宝されるとさえ思っていますがその人たちはどこか孤独を感じているように思うのです。それは役に立つかどうかを誰かのの価値観で決めるからです。

チームとは何かという前に、自分の価値をどのように認識しているかが何よりも大切なのです。自分の価値は能力があるから必要なのか、それとも自分の本当の価値は一体何か、そして周りの人たちの真価は何かを実感できているかということです。役に立つということの考え方を自分自身がまず観直さなければ本当のチームにはなりません。

そう考えると人は一人一人が自分自身の本当の価値を正しく認識できてはじめて「結束」になれるのかもしれません。一見、価値がなさそうなものであっても一緒にいれば何かの役に立つことを知っている心こそ「もったいない」に通じる心です。

最初の七福神のように相手の持っている宝を見出す力がある人というのは、自分の中にある宝も見いだせる人です。それはどんなものにも神様が宿っている、八百万の神々とともに暮らす人たちになっているということです。

「一緒にいれば必ず何かの役に立つ」と本当に信じ切れるかが仕合せの感度を高め、真のチームを実現する源になるように私は思います。そのために数々の刷り込みを取り除く工夫が必要ですが、実践により気づきを喚起していきたいと思います。

教育の目的

教育の技法としてのティーチングとコーチングがあります。これは教えるときの教え方ですが、よく一般的に言われるのは主体が先生か生徒かでその違いがあると言われます。

しかしこれはここが問題ではないと私には思うのです。本来の教育とは誰のためにあるのか何のためにあるのかということを考えてみると分かります。

例えば、国家教育や社員教育、学校教育とあるように教育には目的があります。誰かによって何かを教えているのはこの言葉が示すように一目瞭然です。国家が国民に国家の一員として教え込む、会社が社員に会社の一員として教え込むのです。そしてそれは何を教え込むのかは目的によって異なります。

本来、教育が示しているのは何のためにかを考えればその意図も読めるからです。もしも国家のためだけや会社のためだけ、学校のためだけになればそれは教育がその人のものではないということです。あくまでそれは権力によって管理するために教え込まれるものになってしまいます。

私が中学高校と学校に反抗した理由は単に子どもで未熟だったからではなく、学校のための教育に納得ができなかったからです。今思えばなぜあんなにも反抗したのかと思いましたが、言行不一致の本質的ではない学校体質に憤りがあったのかもしれません。そしてそれでも無理に教え込もうとする場合はティーチングというものを用います。これは主体が国家、会社、学校側にあるということです。その場合は相手が主体ではないのだからコーチングは使えません、あくまで一方的に教え込む方が進めやすくなるのです。

その逆にそもそも教育は子どもたち、相手自身の成功、本人の仕合せのためにとなるとどうでしょうか。その場合は、対象となる相手は”できる”ようになりたいと思うのを助けるという考え方になります。主体は組織ではなくその人自身の仕合せになりますから相手がそれができるように寄り添うためにコーチングを用います。相手自身の問題に寄り添い相手が自らで解決できるように導くのです。

本来、人はその人が人格的に成熟し成功し仕合せになるのなら世界も一緒に仕合せになるものです。理想論と笑われるかもしれませんが、一人一人が真摯に一生懸命に自分の役割を果たすのなら世界は必ず仕合せに出会うように思うのです。それは先日の樹木研修でも同じく、木々が一生懸命に生きていればそれが森全体の仕合せになるように、人々が一生懸命に本来の生に生き切れば社會全体は幸せになるのです。

それを日本理化学工業の大山会長は、「皆働社會」と名付けていました。私もその考え方に心から賛同しています。

そしてティーチングもコーチングも含め、本来のいのちを尊び教育することではじめて教育の真価がでてきます。それを私は人々をファシリテーションするともいい、一円調和するとも言います。私のファシリテーターの定義はその目的が明確なのです。

もう随分長いこと既存の教育に刷り込まれている人は、教育とは何かによってさせられるものだと信じ込んでいます。自分から主体になって学ぶことを忘れていたりします。お互いの慾が絡まり合って真実から目をそらさせられたのかもしれません。染まってしまうとなかなか自分が染まったことに気づかなくなるのです。

そういうものを体験と気付きによって思い出させ、本来、何のために誰のために学ぶのか、社會を仕合せにするのは一体誰なのか、真実と実践と伝道によって平和を広げていきたいと思います。

本質を見失わずに、現実の中の理念実践を展開していきたいと思います。

樹木咸能言語~進化の理~

樹木研修をしていく中で進化について考え直しています。

樹木には、寒い時期に備えて葉を落として休眠する落葉樹や一年中葉をつけて光合成を続ける常緑樹があります。その他にも2億年そのままの姿を維持している銀杏や竹のように草とも樹ともいえないような存在もいます。

どれも変化に順応し耐えてきたからこそ今、その姿を見ることができています。本来、進化というものを観るのにどの生き方がもっとも変化に柔軟であろうかと思えば多様化していくことです。あらゆる環境の中で如何に多様化するかで、あらゆる環境の中でその気候などに適応できる種を残す可能性が増えるからです。

しかしその多様性の中には、2億年生き残るものもあれば数百年で滅んでしまうものもあります。どの姿がもっともいいのかは、簡単にこれといったものがあるわけではないのはすぐにわかります。

そもそも地球上に生きている生き物は、とても長い時間をかけて篩にかけられていきます。かつては恐竜が生きていた時代があったり、その前にはきっと他にも私たちの想像を超えるような生き物たちが存在していたはずです。

それがあらゆる気候変動や災害により絶滅の危機を何度も迎えて今に至っています。そこには菌類をはじめ、植物たちや動物、魚類や昆虫にいたるまで何度も何度も自然の篩にかけられてきました。

今私たちが生き残っているのは、先祖がその困難を乗り越えてきた証です。そしてどのように乗り越えてきたのかがその生き方にいつまでも遺っているように思うのです。

そう考えてみれば進化の定義とはそれぞれが宇宙や地球の自然の篩にかけられた中でどのような生き方で生き残ったのかということになります。どこまでも耐えてどこまでも順応していくことができてはじめて今も生きているのです。

生き残った仲間たちが暮らすこの世界は、一緒に進化成長を已まない世界です。今の時代は温暖な気候であまり大きな天変地異も起きてはいません。かつての絶滅時代とはあまりにもかけ離れた平和な時代です。しかしその平和な時代を見透かすように自然界の生き物たちは強くあろう、厳しくいようと自らに打ち克って厳しい自然の中で活き抜いています。

それはまるでまた篩にかけられることを知っているかのようです。平和な時代に進化とかいって人間は認識しますが、本来の進化成長は必要不可欠なものだったのです。生き残るということがどれだけ大切なことか、もっとも気づかなければならないのは自然からかけ離れてしまっている生きる本能のことかもしれません。

あの物静かで語らない樹木が、とても沢山のことを語り掛けてきます。静かに観察し、心を見つめ直していきたいと思います。

悠久の樹禮

昨日、高尾山にて樹木研修を行いました。前回は座学で樹木の知識を事前に学びましたが今回は実地で山に入り樹木を見ながらの研修になりました。

高尾山はお店や人がとても多く、登山路も人だかりでまるで大都会のようでしたが人が少なく樹木を観察できるルートを選んでくださった御蔭でゆったりと樹木を観て学ぶことができました。

昨日はブナについての学びがありました。ブナは関東では標高800メートル以上の冷涼な場所にしか生育しません、しかしなぜ標高600メートルの高尾山に存在するかというテーマです。

実際に歩いてまわると樹齢300年以上のブナの木たちが高尾山には遺っていました。しかし最近のものはなくすべて300年くらいの大きなものばかりです。これは江戸時代が小氷河期であったことを証明するからということでした。今よりもずっと寒かったのでブナの樹が繁殖できたのです。今では温暖な気候の中で樹勢も弱り、このままでは高尾山からブナは消えてしまうそうです。

こうやって樹木は気候の変動に合わせて、自分たちの住処を拡大していきます。樹木からかつてこの場所はどんな気候だったのか、そしてその中でどのような順応してきたのかを知ることができます。

自然界というものは、変化に順応するものだけが生き残るようにできています。小さな環境の変化を察知し、変異を繰り返しつつ時代に合ったものが生き残るのです。気候が変われば気候に合わせて自分たちを変化しつつ多様化し、どの気候になったとしても誰かの種は残せるようにと変異を繰り返します。

つまり自然の樹木というものは「来たものを選ばずに受け容れて自分の方を変えるという戦略」に生きているということを学び直しました。より強いものを遺そうとするのは、自然の中で生き残る必要があるからです。

老子に、「柔弱の徳」があります。

これは(人間が生まれたときは柔わらかく弱々しい。 その人間が死ぬときは硬くなる。 すべて草や木も生まれたときは柔わらかで脆い。 それが死ぬときは枯れて堅くなる。 このように堅く強いものは死の仲間であり、 柔らかく弱いものは生の仲間である。)という意味で解釈されます。

昨日の樹木の観察から、私は自然の変化に最も強いものは自然の法理に敏感で鋭敏であるということではないかと直感しました。樹霊や霊力というものもそこに近づいていくことで実感できるのかもしれません。

つまり樹木は特に長生であればある種ほど、自然に精通しているのではないかと私には観えます。ここから如何に樹木の智慧を学ぶかが重要に思うのです。

かつての祖先たちは樹木が悠久に生きる樹禮に何を観ていたか、私たちよりも地球で長く変化を乗り越えてきた尊敬する大先輩である樹木の傍で、このまま学びを続けていきたいと思います。

昨日も貴重な学びがありました、有難うございました。

結束力~一緒に生きる幸せ~

先日、自然養鶏の烏骨鶏を観ていて気付いたことがありました。烏骨鶏や生き物たちは一緒に生活をします。餌を食べるのも、移動するのも眠るのも、そして卵も交代で協力をして温めます。一緒にいることを大事にして、離れることを嫌います。それは一緒にいる方が生き残れるからです。しかしそこにもう一つの大切な目的が潜んでいることに気づくのです。

それは何か、生きるという意味です。

本来生きるというのは苦しいものです、だからこそ楽しいことがでてきます。生と死というものは、死があるから生を知り、生があるから死を知ります。もしも世の中にどちらかしかないのならそこに真の生を知ることもありません。

これと同じように、苦楽というものも両方あるから真の楽を知るのです。そして苦楽を共にすることができたことで真楽も一緒にすることができる、それはつまり人生を実感することができるのです。

一緒に生きるということは、人生を生きている実感が持てたということです。如何に家族や仲間の存在が大切かというのは、一緒であることが何よりも幸福感に満たされるからです。

どんな生き物も一緒に暮らしていきます。それは自然がともにあるように、地球とともににともにあるように、太陽や月とともにあるように、一緒にいるときに実感するのがしあわせです。

もしも能力や効率だけを優先するとどうでしょうか、先ほどの烏骨鶏では養鶏場で狭い柵の中で何羽も詰め込まれ卵を産ませるだけの存在に変わってしまいます。もしも機械のように生き物を扱えば大量生産大量消費が優先され効率を重視し、生きるとは単にものをつくればいいということになってしまいます。

しかしそこに仕合せがないのなら何のために産まれてきたのかになるのです。極端な言い方をすれば製造できないのならば要らないとなるのではないかと思うのです。本来、人間は憲法にも保障されているように幸せになる権利があります。

しかし実際はその幸せよりも経済を優先し、人をまるで何かのものや道具のように扱ってはいないでしょうか。一緒に繋がり結ばれていた絆を分断し、孤立させ製造マシーンのように変えていく教育が果たして一人一人の幸せを保障しているようには私には感じられないのです。

自然と名のつくものは、常に一緒にいることを尊びます。言い換えれば結束力です。結ばれて束になればどんなものに克てる力があるという意味です。どのような社會を子どもの遺していきたいか、それは大人の生き方にかかっています。

自分自身の意識を変革し、一緒にいる仕合せ、一緒である豊かさ、つまり生きる楽しさを味わってこそ人生を生き切ったと実感できる子どもが憧れるような大人ではないでしょうか。

今一度、自分の働き方から見直していき、助け合いの真心を育てたいと思います。

変化の源

何かの仕事をしていく中で商品を開発していると、最初思っても見なかったことに出会います。それはその商品とは何かということを定義している感覚が、進捗からの気づきにおいて新たな発見を市場や世間様が教えてくださっていると実感するからです。

何かを行い始めるということは、やっていく中でやって初めて今という未来の存在に近づけたということです。つまりはいつまでも未完成、いつまでも途上という概念のままでいるということです。道に終わりがないように、プロセスこそが価値だという感覚のことで変化中という意味です。

そして変革する人はこの今をどのように直視するか、それは単に仕事だけではなく自分自身の今も然り、会社の今も然り、現状把握についてどれだけ透徹した意識を持つかということによるように思うのです。

そもそも変化しないのは自分の我が入るからです。自分を頑固に持ち出したなら本当に世の中が求めているものが分からなくなります。何をするにも自己中心的では自分の我が入り、世の中からの視点ではなく自分からの視点によってメガネが曇ってしまえば一体何のためにやっているのか、なぜ今それをやるのかすら視野が狭まり何も実感できなくなるものです。

人間は考えている世界だけがすべてではなく、ちっぽけな自分の考えの及ばない世界があるのです。それは自然を直感することに似ていてまるで社會そのものが一つの生態系のような未知で調和した世界が広がっているかのような感覚です。

もしも観察する対象が無機質のものであればまだしも、実際の市場や世の中はまるで大きな生き物のように変化を已まず調和を続けているのだから変化抜きには理解することはありません。止まっている世界などないのですから常に生き物のように成長し続ける世界に於いて、自分自身を成長させないで物事を動かそうなど土台無理なのです。

常に変革者は自分のいるところだけの小さな視野で物事を計るのではなく、本質は何かを観抜き自らを其処に自らを近づけていくような大きな視野で物事を量る必要があるように思います。

畢竟、変革を起こす者というのは、本来の変革が観える者ということです。

変化に気づく感性というものは、内観により自分と正対し直視する感性に似ています。一体自分とは何か、自分のことをどれほど深く澄んだ心で見つめることができるのかに由るように思います。そしてそれは日々に内省を繰り返し、本質を探究する求道精神が徹底する小さな実践の積み重ねによって得られるのでしょう。

変化に気づくには変化になろうとしないといけません。自分自身が変化の源になる意識があってこそ、はじめて変化に気づき変化を創れるのかもしれません。それは成長意欲です、已むに已まれぬ向上心、古語でいう志魂です。自分を一向に変えようとはしないのは、過去の自分の基準をいつまでも捨てることができないからです。変化を自分が恐れているから変化が遠ざかるのです。

新しいことに挑戦するというのは、「自分を捨てて」というのが大前提なのでしょう。我執や固執に捉われないように自分自身を己自身がマネージメントしていくことが温故知新、変化への柔軟性なのかもしれません。思いやりと真心が勇気になり、そして活かされている実感に感謝する変化を願う好奇心は常に楽しい方、仕合せな方を選択していきます、その豊かさと愉しさこそが変化の中にいる実感となるのでしょう。

真面目になる過ぎたり、怠りすぎたりは変化の邪魔になります。如何に楽しむか、それは変化の中で絶えず挑戦者のままであり続ける姿勢と態度、素直で謙虚な生き方です。変に頑なな自分を持ちだし自我プライドを離さないことで周りに迷惑をかけないように自戒していきたいと思います。