道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。

生きる工夫

なんでも楽しんで生きている人は、人生を悔いなく味わって生きているものです。マジメになり楽しくなくなってくると人生は後悔ばかりの連続になります。この人生を如何に楽しむかのコツを掴むというのは生きていく上で生き甲斐や遣り甲斐を味わう大切な素養になるように思います。

先日、ある学校の伝承の一つに「ふざける、楽しむ」というものがあるとお聞きする機会がありました。学園祭や文化祭など団長や実行委員は敢えてマジメにやらずふざけることと先輩から後輩に伝承されているそうです。きっと楽しむためにはマジメにやっていても楽しくなるわけではなく、多少ふざけた考え方をした方が味わえるということなのでしょう。

このふざけたというのは決して幼稚なという意味ではなく、楽しむという意味です。楽しもうとするからふざけるのであって、ふざけるから楽しむことができます。フマジメな態度で何かをやっているとよく「ふざけるなもっとマジメにやれ」といわれることが多いですが、マジメに楽しいことをしようと思っても楽しくなることがないからふざける場合もあるのです。

人生行路の中でたとえ修行中と言われるような苦行の最中であったにせよ、その境遇を楽しもうと思っている人はその修行すらも味わい遣り甲斐や生き甲斐を感じています。そのためにはただ修行をマジメにやろうとするのではなく、如何に修行をふざけられるか、つまりはどうせやるのならもっと没頭してみようと思ったり、やり方を工夫してみようと思ったり、心の持ち方を換えてみて今しかないのだからと味わおうとしたり、自分の成長を記録してみたりと楽しむための努力をするのです。

このふざけるというのは、心の余裕につながります。心の余裕や余白がないからマジメになるのであり、言い換えればマジメだから心のゆとりが失われ楽しくなくなってくるのです。

どんなことも好奇心で楽しむ人は、どんな時でも心の余裕や余白を持っています。ふざけているようで本気、マジメではないように見えて真剣、つまりは本気で真剣に生きていればいるほどに「にこにこ顔で命懸け」の境地で人生を楽しんでいるのでしょう。

一度きりの人生だからこそ、後悔ばかりで暗いマジメじめじめな日々を歩むのではなく二度とない人生、一期一会に真剣に楽しんで日々を歩んだ方がかけがえのない人生を送れるようにも思います。

マジメがダメだと言っているのではなく、どんな境遇も「楽しもう」と思うことが人生の仕合せ、生きる歓びにつながってくるように私は思います。抑圧やマジメの刷り込みに負けないように、日々の生きる工夫を創造し味わっていきたいと思います。

 

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。

時を待つ実践

人生には良い時もあれば悪い時もあります。この良し悪しは自分で決めていますから、それは心の持ち方や転じ方で工夫していきますがどうにもならない時というものもあります。

そもそも「時」というのは、人それぞれに速度も質も中身も異なりますから同じ時を一緒に過ごしてもその感じ方は十人十色です。生き死にを体験したような人は時の質量も異なりますし、マイペースでゆったりな人の時もまた異なります。人間にはそれぞれ与えられた時間と、また自分が求めている時間がありますから時は人によって平等だとも言えます。

その時というものに対する姿勢において「時を待つ」という心境があります。これはどんな人にも言えることで自分が蒔いた種が育ってくるのですからそれが育つのを静かに待つということです。

今起きている、良し悪しは以前自分が蒔いた種が芽がでて実になったともいえます。人生にも四季がありますから春蒔きと秋蒔きの種を蒔けば旬を逃さなければそれが実になります。実を収穫したいと思うのならば、その種を蒔き続けなければなりません。

人生には因果応報といって、必ずその原因と結果が結び付いているという道理があります。人生には必ず理由が存在し、いくら理不尽だと思ってもその原因は時間が経てば次第に解明していくからです。

その「時」との付き合い方や接し方が生き方であり、どのように時と上手く付き合っていくかが自分との向き合い方にもつながっているように思います。

松下幸之助氏はこうもいいます。「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」

また私がよく振り返りに用いる本田静六氏に「決して散る花を追うべからず、出づる月をただ心静かに待つべし。」があります。

心静かに待つためには、習慣というものを身に着ける必要があります。それを実践ともいいますが、良し悪しの時でも平常心で実践し続けて心を静かにしておくということです。

心がざわつくたびに実践をやったらやらなかったりするのは心を亡くしているからです。どんな状況下であっても心さえ手放さなければ心はいつも付き従ってくれて心を穏やかにしてくれます。この「静か」というのは、時を待つ心境のことを言うのでしょう。

「時を実践しながら静かに待つ」ためには、習慣というものを身に着けなければなりません。習慣とは努力のことであり、継続こそが忍耐力や平常心を育みます。子どもたちにその努力の意味や幼いころからの習慣が人生を好運に近づけることを背中を通して伝承していきたいと思います。

卒業とは

この時期は、全国各地で卒業式が行われています。この卒業式を調べてみると日本での歴史は1872年の学制の施行に伴い各学年ごとに試験修了者に対して卒業証書を授与したことがはじまりだとされています。明治10年頃になると現在のような形の儀式として定着したといいます。

卒業式は教育課程を修了したという認定の証であり、そのお祝いをする式典です。 式典で卒業証書を授与することを卒業証書授与式と呼ばれ、それが短縮されて卒業式になったといいます。それに「業」は「学問、技芸」を意味し、「卒(そつ)」とは、「おわる、おえる」という意味になるといいこの二つを合わせ学問をおえるになるそうです。

その一つの学びの期間が終わる、それは学びの期間を経て次のステージにアップすること、今の自分の学びをブラッシュアップすること、つまりは今までの自分の意識を換えて新しい自分に挑戦することもまた卒業とも言えるのではないかと思うのです。学校であれば、その体験の期間の卒業でありこれは人生においても同様に時季時機においての卒業があるように思います。

それまでの学び方を変えて、新しい学び方をするということは自分をさらに磨き上げ、柔軟性を持ち平常心を高め自由自在に自立していくためにも学び続ける必要があります。

敢えて卒業があるのは、その期間、その体験を経て次に向かう必要があるからのようにも思えます。出会った仲間たちによって得た学びを、また次の場所で活かしていく。そのように人は前進していくことで自分というものに向き合い、自分と出会い、自分の人生を自分の足で歩んでいき、自分の人生を自分の生き方で創造していきます。まさに体験こそが価値であり、その期間に何をどこで誰と学んだかということこそが最大の価値であるということの証明です。

人生はよく列車の旅に例えられ、学校はよくプラットホーム(歩廊)に例えられます。私たちの会社は、旅の心の持ち方を換えるターンテーブル(転車台)になろうとよく話をしていますが旅は終わることはありませんから常に人生も何度も卒業を続けているということです。卒業のたびに何度も新しい自分に出会えると思えば卒業は大切な振り返りの機会であり、次学への希望そのものです。

何度も何度も卒業を通して新しい自分に出会い成長していく子どもたちを見守りながら、自分自身も自分を毀し続けて新たな学びを楽しんでいきたいと思います。

 

真の協力~働く歓び~

昨日、初心を振り返る会議の中でパートナーの一人から「いい会社に入れてよかったねではなく、いい会社になってよかったねと言う人が何人いるかが大事」という話をお聴きする機会がありました。これは単なる受け身か主体かのことだけを示す言葉ではなく、自分が一緒に創り上げ真に協力しているかどうかの確認でもあります。

これを国家に置き換えてみても、「いい国に生まれてよかったねといい国になってよかったね」では意味が異なります。本来、いい国というのはどうやって出来上がるかといえばいい国にしようと思った人がどれだけの数いたかということになるのです。

自分たちが主になって活動するのなら、そこには自然に誇りや自信が生まれてきます。そして豊かで楽しく理想の実現に向かって協力し合っていくことができます。誰かが主で自分はそこに付属していればいいというものではなく、まさに自分が主になって一緒に取り組んでいくことではじめて真の協力は行われるのです。

この協力という言葉は、単に付属して手伝っていることが協力とは呼びません。まさに一心同体に一緒一体に、同じ目的に向かって同じ意識で相談したり連携したり助け合うときに真の協力は生まれます。

真の協力関係とは自分の立場とか、自分の成果や目標を手伝ってもらうことを言うのではなく本来の目的に向かって一緒に取り組んでいく中で成果や目標を分かち合ったりお互いを必要としあったり信頼し合ったりする豊かさを味わうものです。

目標管理ばかりをやってきた人や自意識や自我、保身が強すぎる人は、協力の意味をはき違えてしまいます。それは自分にとっての協力であって、真の協力ではないのです。先ほどのいい会社やいい国になってよかったねと「分かち合う境地」こそ、真の協力の後に出てくる言葉だとも私は思います。

そういう仲間こそ利害関係がある間柄ではなく、人生を分かち合う真の仲間になります。

そのためには素直な心でもっと自分をさらけ出し、一緒に取り組むこと自体を楽しむように人との信頼関係を築いていく必要があります。目的に向かう全てを分かち合うこと味わう仕合せこそ、働く歓びです。

働く歓びを感じて子どもたちが未来に希望が持てるように、ドライな関係やギスギスした関係を捨て去って表面上のつながりや形上の協力風な取り組みを取り払い、真の協力を創造していきたいと思います。

経験する価値

今の時代はインターネットの普及によって何かの知識を得ようとすればすぐに手に入るようになりました。膨大な知識がいとも簡単に検索ができてわかるというのは、本当に便利なものです。

しかしその反面、知識は得ても経験の量が圧倒的に足りなくなってきて頭でっかちのように分かった気になっていることも増えてきました。知識を得ても経験していなければそれは本当の意味で自分のものになったのではなく、そのためには絶対的に必要なのは場数になります。この場数とは経験する質量のことで、経験を得る体験をどれだけやったか、実験をどれだけ試したかということです。

人間は習熟するためにはその場数が必要であり、熟練者や専門家と呼ばれるその道の達人は皆、場数を徹底的に熟して自分を磨き上げています。

体験や経験をすることは失敗を認めることです。そしてその間違いを学んで次回に活かしていくことです。失敗を怖がり評価を避けようとして場数が減ってくれば体験していませんから習熟することができなくなります。習熟というのは場数ですから、現場でたくさん試してみなければなりません。試行錯誤という言い方もしますが、失敗から学び次はどうするかという前向きな発想が必要になります。

そのためには、経験こそが価値であるということの認識が必要です。経験を良し悪しで自分で評価したり、知識が正しいかどうかの答えを先に思い込んで裁いたりしていたら一向に行動することができなくなります。

さらには自分の価値観の中から出ようとせずに、いつまでも思い込んだところで自分の都合でばかり物事を解釈し、自分の都合のよいことしか認めようとしない態度になればなおさら経験の価値がなくなっていくものです。

良いとか悪いとかではなく、その経験から何を学んだか。そしてその経験はどれだけ価値がある経験だったか、その経験にこそ価値を置いて学び続けていくのなら失敗こそが貴重な経験であることに気づけるものです。

どんな結果が待っていようが、それでも挑戦して取り組んだ経験の結果という価値がのこります。その価値は次の人や、周りの人、そして子どもたちに必要な価値としていつまでも遺ります。そう考えてみると、やらないことが無価値でありいつまでも経験をしていないことが本当の失敗であることに気づきます。

やってみようと思うことは、好奇心の一刺し、また振り絞る勇気のようなものです。やっているうちに興味も増えてそのうちそのことが楽しくなってしまえばしめたものです。楽しそうに遣っている人は、次第にそれが楽しいに変わってきます。マジメにやっていることで100点満点を目指すことがいいのではなく、経験することが楽しいと取り組んでいくことで1000点にも10000点にも制限を超えて可能性が無限に広がっていきます。

引き続き、子どもたちが学ぶことをやめないように本当の結果とは何か、何がもっとも価値のあることかを自分の背中を通して伝道していきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

自分を大切にするということ

本当の自分が何を望んでいるか、それが初心です。しかしそれが次第にわからなくなり、気が付くと手に入れたいものや欲しいものにすげ換ってしまいそれを夢だといい出すのは本当の自分が見えなくなっていくからです。

ほとんどの人が、やりたいこと=夢になっていますが本来は初心=夢であります。自分の夢と他人の夢、その夢の違いは揺るがない初心と、他と比較されて得た相対評価の時に揺らいでしまう夢です。

例えば、ある人に自分のやりたいことが何かと尋ねると、サッカー選手とか、コンサルタントとか経営者とか、保育者とかいろいろと返答が帰ってきます。さらには仕事内容や業務内容、趣味の話を仰る方もいます。しかしそれは初心ではなく自分の願望や欲望のことです。それになってどうするのか、何のために誰のためにそれをするのかと聞くと出てこなければそれは初心ではありません。

私の仕事の場合は、子ども第一義を理念に掲げ、子どもを信じきり、子どもの手本になり、子どもが憧れる生き方をし、子どもに譲りたい社會を復古起新しようとしています。そうなってくると、将来は何の仕事をしているのかよくわかりません。ひょっとすると、今と仕事内容が異なっているかもしれませんがもしも仕事内容が目標で入った人がいれば辞めていくと思います。しかし初心や目的を忘れない人は、職種や仕事内容がやりたいことではないことはすぐにわかります。ひょっとしたら全く今とは異なる仕事をしているかもしれません。何のためにと誰のためにが変わることが問題であって、職種が変わることが問題ではないからです。

変化していくというのは、自分が初心や目的を守り続けていくということです。いつまでも自分の願望や欲望や固定化された思い込みに囚われ、他人の夢を追いかけ、自分の本当の初心を蔑ろにしてしまえば変化が止まってしまうものです。

自分を変えていくというのは、初心や目的を換えないために自分の方を変え続けて成長していくということです。初心や目的を換えていくら成功が手に入ったとしてもそれは一時的に自己満足を得たとしてもすぐに空虚感が訪れます。それも人生ですから、良し悪しはないのですが一度しかない人生を何に使うか、自分のいのちを何に用いるかはその人の決心と覚悟次第です。

初心や目的が定まらない間は、自分が変わらない方法ばかりに目移りしますが自分を見失うときこそ他人の話に耳を傾ける素直な心を持ちたいものです。仲間や同志は初心を忘れさせない存在であり、本当の自分を大切に見守ってくれる存在です。

子どもにとって自分を大切にする自分を背中で見せていきたいと思います。