天与の持ち味

人間にはそれぞれにその人のもつ持ち味というものがあります。その持ち味とは、良いとか悪いとかではなくその味があるということです。それぞれの味をどのように活かして美味しいものにしていくかはそのものの活かし方にあるようにも思います。

本来、素材というものはそれぞれに味があります。素材の味をひきだすという言い方もしますが、素材はそのままの方が美味しいと感じるものです。料理にも考え方があり、料理人の都合で仕立てていく料理と、素材の都合にあわせて仕立てていく料理があります。

私たちがいつも会社で食べている自然食の弁当は素材に合わせてメニューを決めて、素材に合わせて料理をしています。料理人は素材をどのように活かせばいいかを考えて、その素材が活きるように合わせていきます。ようは活かすも活かさないも料理人の意識に由るということです。

在るものを活かすという考え方は、老子の「足るを知る」という自然観が顕れます。自然界はとても豊かです、それは多様性に満ちているからです。それぞれに個性があり、それぞれに特性を発揮していのちを謳歌しているのが自然界の豊かさです。老子は、足るを知るものは富むといい、あるものを活かそうとするものは豊かであると言います。

このあるものを活かすという考え方は、ないものねだりをしないということです。ないものねだりは比較することからはじまります、世の中は常に評価がありその評価に基づき裁いていますから常に比較されてしまうものです。しかし、ないものねだりをしても自分は自分、その人はその人ですから素直にその魅力や持ち味を認める方が仕合わせだと私は思います。

そしてもしもその人を比較しない本来の持ち味に気づいたなら、その魅力をどう磨いていくか、そして伸ばしていくか、皆の御役に立てていけばいいかを一緒に考えていけばいいと思うのです。

生物非生物に関わらず、それぞれには天与の持ち味があります。自然が与えてくださったそのものの豊かさを皆で味わっていくことは、生きていく仕合わせ、そして存在する歓び、心の充足、魂の邂逅のようにも感じます。

みんな違ってみんないいとは、みんな善いのは異なるからだ、つまりは誰かの御役に立てるということです。そのお役に立てる部分を活かしていくことが、豊かに仕合せに生きられる本筋です。

子ども達があるがままにいのち輝く存在になるように、比較競争の刷り込みをみつめ、持ち味から楽しく変わっていけるように実践を続けていきたいと思います。

学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

経営ではなく理念

人はその時々の決断で何を優先するのかをはっきりさせていきます。人生は選択の連続ですが、その時々の選択に何をもってくるかでその後の方向性が決まっていくものです。

つまり優先順位があるということです。

世の中には無数の答えが存在します。それはその時々の優先順位があるという意味と同じです。そして優先順位とはその目的に対して行われるものですから、優先順位を決めた時はその目的を自分はもとより周りも確認するということです。

その人が何をもっとも大切にしたいかという方向性、何を大事に生きるかという初心を自他へ表明することになります。これが組織においては多大な影響が出てくるのです。

よく経営か理念かと組織論では語られることがあります。理念経営をしていますとかいう声も聞きますが実際は経営理念になっているだけで経営の中に理念を付け足しただけにすぎません。経営するための方法論として理念を置いているだけになっているところが多い様に思います。

理念とは目的です、経営は目標です。目的がなくなれば目標しかありませんから、目標を達することが正解になります。しかし目標だけをやっていて正解になってしまえば、目的は忘れてしまうものです。本来、目的があれば目標はなくても問題がない様に思います。目的意識がある人は自ずから必ずその目的に近づいていきます。目的に合わせて自分の方を変え続けていく人は、理念を実践する人とも言えます。経営は実践とは言いません。

本来、目的(理念)をはっきりさせておかなければ人は何のためにやっているのかがわからなくなります。そうなると目標に囚われ、目標ばかりを優先するようになります。目標は達成すれば充実感が得られますが、目的は心の充足感が得られるように思います。人間は心があるから人間ですから、充足感というものは心の状態ですから人間が心を失わないためにも必要だと思います。

シンプルに言えば「目的を忘れずに実践することが理念を優先する」ということです。その目的がもしもズレているのなら、すぐに自分の方を修正しなければなりません。この「何のために」を明確にすることが本来のリーダーの役割であり、一人ひとりがリーダーシップを発揮するにはこの目的を理解し合わせなければできません。

目指す目的を一緒に観て、それぞれが自分に打ち克って実践していくからこそ御互いのことを尊重し楽しく豊かに働くことが出来るようになります。何のためにというのは、初心の自分を取り戻すための大切な鏡です。

その鏡に映るものがもしも目的や理念でないのなら、鏡には初心とは別のものがいつも映り込むことになるでしょう。目的を忘れて日々の些事や雑事ばかりを優先していたらそのうち些事や雑事の方が大事なことのように勘違いしていくのが人間です。そうならないようにしていくための環境づくりこそがリーダーの真の役割かもしれません。そして目的があるからこそ、理念と経営が一致していき本物になっていくように思います。本物であるということの定義は、そこに嘘偽りのない本質そのもの、”理念が経営になっている”ということ、つまりは古語に言う「中庸であり至誠の存在になった」ということです。

日々に関わる人たちと皆で一緒に優先している目的を忘れない克己の工夫を用意していきたいものです。理念を実践するということの本来の意味を、自分たちの姿によって伝承していきたいと思います。

真我の目覚め

先日から理念を取材する有難い機会をいただいています。いつも感じるのは、人間の持つ尊さです。人が本心の中に理想を持ち、その理想はとても崇高なものです。真心や思いやりをこちらが感じているとき、それはその人の中にあるものと通じ合います。心で人間の真心を感じることができるなら、人間は皆思いやりに満ちていることに気づけるのかもしれません。

しかし実際にはその本心は日頃表層には出てこないものです。なぜなら日頃の生活においては脳が普段の状況を分析し処理し、習慣によって生活に支障がおきないように調整されているからでもあります。また人間は我と真我があります。我で生きていくのは、食べることや寝ること、その他の欲を果たすことで生存を維持するからです。

ただし、何のために生まれて来たのか、何をなすのかという使命は真我が行います。それは人生の目的であり、その人の魂の望む在り方のことです。これは日頃の生活の欲とは異なり、人生の欲でもあります。一生一度、一期一会に生きる今世の自分だからこそそこで成し遂げたい生き方というものがあります。感じたいものがあります、そして味わいたいものがあるのです。

もしも人間に生きていくことの悩みがなくなるのなら、あるものは命が望んでいるものだけです。人間には奥深いところにその目的を秘めています。その秘めたものが表に顕れるとき、人はその人物の信念を見ることが出来るのです。そうやって人は何を成し遂げたいのかということを語ることで、支援者が増えて目的を達成できるのです。

そういうことを語っていないのなら周りもその人の力になれない場合が往々にしてあります。もしくは本来の目的ではない欲ばかりを話しても誤解される一方です。人は本心からの真我の声、私たちは信念の種とも呼びますがそれを呼び覚まし、それを実現したいと日々に語り実践で示すなら人間はみんなそれを助けたいと思います。

なぜならそれが生まれてきた意味になるからです。

私たちは意味というものをあまり大切にしていません。しかし本来の人生とは意味なのです。その意味をどう味わうかはその人一人ひとりの真我の目覚めと実践に由ると私は思っています。

理念を出すというのは、その人の本心を目覚めさせておくという意味でもあります。いつまでもうとうとして迷い惑い眠りこけていたら気がついたら終わっていたではもったないように思います。

こういう魂の目覚めの手助けというものは、見守ることに通じています。

見守るということの見守るが何を見守るかは、その人が見守られていることに気づけるかどうかです。日々の実践を高めて、子ども達の信じる未来を切り拓いていきたいと思います。

全心全禮~真心の生き方~

人は自分のことを無意識に飾っているものです。周りからよく見られたい、また見せたいと思っています。それ自体には問題がないのですが、他人の目気にして自分が見せたいものを見られたいとあまりにも思っていると人と人との本物のつながりや結びつきが希薄になってしまうかもしれません。

「素顔」という言葉があります。これを辞書でひくと、「1 化粧をしていない、地のままの顔。2 飾らない ありのままの姿。」とあります。人は御互いが素顔になることで、本当のその人を知ることが出来ます。素顔になるというのは、その人に胸襟を開いているのだから信頼する人に対して自分の顔に鉄の仮面をつけないという意味です。

人は装飾し合っている姿でかかわる人間関係と、本音本心で語り合いたい仲間がいます。仲間や同志というものはいつもはだかの付き合いをしたいものです。これは別に真っ裸にからだを見せ合うことではなく本音を見せ合うことです。はだかの付き合いをするというのは、隠し事もせずお互いに全心全禮でいるということです。つまりは自分の心に衣をきせないということです。

人は友のことを、莫逆の友 ・  無二の友人 ・ 盟大の友人 ・ 刎頸の友 ・ 大の仲良しなどという言い方をします。特に志を同じくし生きている人は同志といい同時に人生を共に歩む戦友でもあります。そういう友に対して、素顔でいることはだかの付き合いをしようと声がけしてくれるというのは「語り合おう」という声がけでもあります。人は出会いによって人生が変わります。どんな人と出会い、どんな仲間を持ち、どんな自分を持てるかは自分の素顔と心をさらけ出せる人を持つということです。

人は本当の自分を好きになってくれる人に心を委ねて安心します。自分自身を自らが偽り飾りそして隠すと寂しい人間関係が出来上がってしまいます。人生というものは、道もありますが朋もあります。同朋を持つというのは、一期一会の志を豊かに飾ってくれる青春を持つことかもしれません。

最後に刎頸の友という言葉があります。

これはその友人のためなら首をはねられても悔いはないと思うほどの、親しい交わりの友のことです。春秋時代、趙の将軍廉頗は、功績により自分より上位になった名臣藺相如を恨んだ。しかし相如は二人が争いにより共倒れになることを懸念し、国のために争いを避けるつもりでいることを聞いた。それを聞いて廉頗は自分の考えを恥じ、深く反省し、相如へわびに出かけて刎頸の交わりを結んだという故事によります。廉頗と藺相如がかたい友情を結ぶまでには紆余曲折があり、素晴らしい友というのは一朝一夕で決して得られないということです。自分自身が首をはねられても守りたいような友に出会える御縁に結ばれることは何よりも魂の仕合せかもしれません。

人とどんな付き合いを自分がしているかは、自分がどんな生き方をしていきたいかにつながっています。人生は、どんな人が周りにいるかでその質もかわりそして歓びも仕合せも変わります。

無二の人生だからこそ、人間を信じ、志を優先し、本音本心が出せる無二の自分を誇りに思いたいと思います。子ども達の心はいつも素顔のままの清らかで美しい表情をして心を周りに開いています。私たちの本業が子ども心を守る志事だからこそ、自分自身が清く明るく直き心で全心全禮の実践を積み重ねていきたいと思います。

大和魂と大和心~人であるために~

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。

この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。

そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。

この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。

かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。

つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。

心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。

人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。

今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。

本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。

先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。

自己肯定感と自己信頼

最近、自己肯定感について考える機会がありました。もともと自己肯定感とは自信のことです。自分に自信がある人は自己肯定感があり、自信が少ない人が自己肯定感が低いと言います。自己肯定感が高い人は、自分自身を信頼することができますから自分自身のことを安心してコントロールしていくことができます。しかし自己肯定感が低い人は、自分自身のことが不安ですからコントロールすることがうまくできなくなります。

つまり自己信頼ができるかできないかというのは、自分自身を活かしていく上で大変重要なことになります。

それではなぜ自己肯定感が低くなるかということです。

これは一概には言えませんが、まず自分自身との信頼を築けないことに理由がある様に思います。自分が決めたことがやり遂げられなかったり、自分の初心を自分が忘れてしまったり、忙しくして自分がこうありたいと思う自分を放り出してしまったりするときに、罪悪感から自分を嫌悪するようになります。自分自身を自分自身が裏切るのですから自己信頼は、自己不信に変わります。これが自己肯定感が低くなる大きな理由ではないかと思います。

人は社會の中で、自分以外の人たちと信頼関係を築いていきます。それはどういうものかといえば、周りにあわせて信頼してもらおうではなく「自分自身が自分との約束を守り、できることはやる!」というように誠実に取り組んでいくことで周りもまた次第に信頼をしてくださるようになります。これは自己信頼でも同じで、自分自身が決めたことを実践し続けることで自分への信頼感は高まっていきます。つまり自分はできることはやると決めたことを遣り続けているのです。

しかし自己信頼が低い人は、自分のできることをやろうとはせずできないことばかりに文句を言ってはできることもしなくなっていきます。つまりは自己不信の状態を続けてしまいます。

自分自身が自分にできることを精一杯やり遂げていたら、次第にできることは増えていき何でもできると思えるようになります。しかしできないことばかりを考えてはできることまでやらなくなれば、次第にできないことばかりが増えてどんなことでもできないと思えるようになってしまいます。

自己信頼というのは、小さな日々の自分との約束の積み重ねによって築き上がっていきます。そしてこれができる人がはじめて周りとの信頼関係を積み上げて築いていくことができます。

できるできないから入るのではなく、「人事を盡そう」、「やれることはやろう」とやっていくことで次第にできるかできないかではなく、「実践する」という境地に入る様に思います。

実践するのは、自分に打ち克つためでもあります。自分自身の自我欲に負けて怠惰になるのではなく、自分自身の理想や初心に対して正直にいる自分を誇りに思えるようになることで人は自己信頼ができるようになります。

昔ある方から「誰がみているかみていないかではない、一番身近で自分が見ているではないか」ということを教えていただいたことがあります。自分を誤魔化すことが増えていけばそのうち周りの人にまで誤魔化すようになります。自分自身の不信は、次第に周囲への不信になり、自己信頼の欠落は周りからの信頼の欠損にもなっていきます。

社會は、見えない約束事で成り立っていますからそれを自ら先に破壊すれば社會が安心して平和に保つことができなくなります。一番身近な自分を責めては罪を擦り付けるのではなく、できることを背一杯やってできないことは周りに頼るという本来の信頼関係を築くことです。

周りに頼れる人は、自分のできることは精一杯やる人だから周りに安心して頼れるのです。周りに頼れない人は自分にできることもやっていないと思った方がいいでしょう。

結局は、どんなことも未来は今の自分の実践次第なのですから変わらないものを嘆きどうにもならないことにいつも悲嘆にくれては何もしないよりも、自分が変えていけるものは何かを見つめてできることをやっていくしかありません。「人事を盡して天命を待つ」心がけで、実践を積み重ねて自己信頼、周囲の信頼を勝ち得ることが善い組織のみならず善い社會を形成する要です。引き続き「実践」の大切さを伝えていきたいと思います。

鐵は金の王哉り~たたらの魂~

先日、御縁があり刀工上田祐定さんの文化包丁を譲っていただきました。かねてから「たたら製鉄」に興味があり、古来からの砂鉄を使い「鐵」を用いたものがいのちが吹き込まれているのを実感し、日本刀の持つ美しさにその鐵の魅力を感じたからです。

現代の鉄は、洋鉄といい鉄鉱石から鉄を取り出した鋼を使っています。しかし古来の日本は砂鉄を用いた玉鋼というものを使っていました。玉鋼は日本刀製作において最も刀の出来に関わるため日本刀は玉鋼を用います。たたら製鉄により砂鉄から精製する鉄を玉鋼と呼びます。洋鉄は鍛錬すると段々脆くなりますが、玉鋼は飴のように粘りが出て折れ難い柔軟な鉄になる性質があるそうです。古来から「玉」という響きは、「魂」を顕しています。魂が宿る鐵だからこそ「玉鋼」と呼んだのでしょう。

また同じ鉄でも鍛錬すればするほどに脆くなるものと、鍛錬すればするほどに柔軟になるのとでは意味が異なります。以前、映像で海外の刀と日本刀との違いを実験していた番組がありました。その中で唯一、鉄を切れるものは日本刀だけだということを話していました。その時、本物の強さや切れ味とは柔軟性であるということを実感した覚えがあります。

私も今の時代の鉄は鉄といい、古来の砂鉄からの鉄のことは「鐵」であると区別しています。この「鐵」という字は、その字を分解すると「金の王哉り」と書きます。つまりは金の王であるということです。

この鐵は生き物ですから、刀工はその鐵の生き物を扱い、火と水と土と木と光と闇を使い錬金術を用い新たないのちになるように熔け合せていきます。刀鍛冶の魂を感じるこの「たたら製鉄」での日本刀は何よりも私たちの祖親たちの魂の伝承のように思います。

「鐵」は、それ自体がとてもいい音がします。その響きを聴いていると、その音から意志をも感じるものです。無生物であろうとも、私たち日本人はそこにいのちを感じて、そのいのちを活かそうとしました。

時代が変わっても、私たちがどんな生き方をしてきたか、何を大切にしてきたかは子どもたちに伝承していきたいと思います。これから包丁として日々に実践していきますが、いつの日か自分の手でたたら製鉄を実践してみたいと思います。

新たなインスピレーションをいただき、有難うございました。鍛冶の言葉には人格形成するための様々な格言や言葉に溢れています。鐵を打ち鍛錬することの本質を、鐵から学び直してみたいと思います。

心の安住~寿命延~

この世のすべては一年の季節の廻りと共に齢を経ていきます。年輪のように、毎年一つずつ老いていくとも言えます。その時間が、合計で数百年生きるものもあれば数十日で死んでしまうものがあります。自然の中では、その宇宙の流れ、地球の四季の廻りに対してそれぞれにいのちのサイクルがあります。

以前、新潟の方言で「寿命延」を紹介しましたが天命に従いこころ安らかにそのいのちの道に沿って無為自然、融通無碍に生きると天寿が伸びるという意味でしょうか。いのちにはそれぞれに天命があり寿命がありますから、天寿を全うしてそのいのちが尽きるまで私たちは生きていることができます。

生き物には、それぞれに生きている時間軸というものがあります。ゆっくりと流れる時間に生きるもの、そして早いスピードで流れる時間に生きるものがあります。それを「一生」と言います。

人生であれば、その人の一生は同じく生まれてから死ぬまでにいのちをつなぎ、そのいのちをつなぐ中での物語を味わい、同時に魂の求める声に従って天命を歩んでいきます。そして一つのいのちを終えて一生です。

虫たちも同じく、生まれてから死ぬまでに自分のいのちを他のいのちにつなぐために生きています。その生きている中では、親があり子があり、あるいは伴侶あり友あり兄弟ありと仲間とめぐりあいその一生の物語を飾ります。

それぞれに一生懸命にいのちを遣りきるなかで、私たちはどのようにその一生を味わうかはその中にある心次第です。しかし同時にそのいのちは多くの愛に包まれています。短い一生を終えたとしてもそこには一生の四季があります。そして永い一生を終えたものにも四季があります。

いのちには四季が備わっていると感じる心は、天寿を全うしたと感じる心です。

自分のいのちがどこまで続くのか、分かりませんが人生の四季は常に今の感じる心の中にあります。春夏秋冬を経ていくというのは、一生を経ていくということです。一生を経ていくというのは、過ぎ去っていく時間を愛おしむことです。

自分が大切な天寿を全うしているように、まわりのいのちもまた同時に天寿を全うしています。御互いに天寿を全うしているのだからこそ、御互いに慈しみ合い、大切な天寿を延ばすように暮らしていきたいと感じます。

一生を共にするものたちが、自分と一緒にいることで仕合わせになるような生き方を選ぶことで御互いの心が安らかになっていく、そこに寿命が延びる歓びを感じられるのかもしれません。心の安住というのは、心が深く満たされるときに感じ、それは自分が天寿を与えられそれを使い切ることが出来ているときに感じられるのかもしれません。

自分の一生に具わっている四季のめぐりを味わいながら、後に続くものたちのために一歩一歩大切に歩んでいきたいと思います。

本来の善意

人には善意というものがあります。いいことをしたい、喜ばせたいというものがあります。しかしその善意が自分の一方的な押し付けであればそれがエゴになることがあります。自分が善かれと思ったことが相手からすると迷惑になることがあります。これを善意の行き違いといい、これを有難迷惑という言い方もします。

それはきっと相手はこうだろうと思い込んだり、自分の価値観で同情したりすることでその善意は本来の姿を歪めてしまいます。本来、相手が望んでいることは何かと、相手に寄り添い傾聴していき求めているものが何かをしって自分のできることで御役に立つことができるならそれは相手にとっての善行になります。しかし、自分が勝手に思い込んでやったことはひょっとすると相手にとっては迷惑であることもあります。本当に頼みたいことはやってくれず、頼んでもいないことばかりをやっては感謝を求めたり、押し付けたりするのはまさに善意の行き違いとも言えます。

これは自分の同情から来るものですが、同情というものは共依存するものです。同情を求める相手に対して、同情する人がいる。もともと同情を乞う心理というのは自我に執らわれている心理とも言えます。同情とは本来、同じ思いになることですから相手が自分だと思って共感することです。しかし実際に勘違いしている同情は、自我が自他を比較し憐れんでみているだけで決して共感しているわけではないのです。

この善意が行き違うということは、本来の善意ではないということです。

なので本来の善意を実践するには、相手の話を相手の立場になって心寄り添い傾聴して共感し、受容することです。それをすることで、相手は同情の有難さを感じ、情け深さによって自分を取り戻し自らの自己憐憫を手放していくように思います。

特に経営者や上の立場の人は、この同情を勘違いして失敗するように思います。自分の方が立場が上であるという事実と、下の人が自分が下なのだという関係が発生するとき、この歪んだ同情の共依存が発生するのかもしれません。

それを断つには、聴福の実践しかないように私は思います。本来は、有難迷惑や善意の行き違いなどはなく、心が澄んでいるのなら、有難いことは迷惑ではないし善意は行き違うことはない。

自分の心を澄ませてみて、自反慎独し全てが有難い御縁であると心から感謝をして御恩に対してすみませんという真心を感じることができるならお互い様の御蔭様に気づいて、善意の行き違いになることも有難迷惑になることもないように思います。

心を澄ませるのは情を整えることでもあります。心を澄ませて情を整えるという順番を間違わないことが本来の善意を盡す方法ではないかと私は思います。情動だけで物事を進めるというのは心が澄まされていないから御蔭様が消失してしまいます。

人間は情が厚いからこその間違いもありますが、それは情を薄くするのではなく情を磨いていくことで澄まされていくと思います。日々は人生道場ですから、言葉、心、行動の一つ一つを丁寧に真心の実践を積み重ねていきたいと思います。