孤独の意味

世間では今、孤独感とか孤独死の話題がよくニュースに出て来ます。孤独に対して似た言葉に孤高があります。孤高とは俗世間から離れて、ひとり自分の志を守る姿のことを言います。世間では俗世の中で孤独を感じるのと、俗世を超えて孤高でいることが同じようにも扱われているようにも思います。この孤独について深めてみようと思います。先日から紹介している三木清が孤独について「人生論ノート」でこう語ります。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。」

これは俗世の孤独は、人と人との関係性の中にあるということです。そしてそれは決して一人になったから孤独ではなく、大勢の中にある間にこそあるということです。そしてそれは言い換えれば「孤独は社會の中にこそある」と私は感じています。

俗世とは社會のことであり、社會がどのようなものかで人間の孤独がどうなっているのかが分かるのです。社會がもしも思いやりに溢れていれば、その時人間は孤独は感じません。しかし社會が冷たく歪んだ個人主義や利己主義に溢れていれば孤独を感じます。

人間の孤独とは他人の心の通じ合いに由ります。心の壁をつくり、他人の個性を受け容れない世の中になれば自分がどのようなことに役に立つのかが見えなくなります。本来は、人間をはじめすべての自然物は意味があって存在します。それを人間の基準、人間のモノサシで善悪、必要不必要を分別すれば孤独感を感じるものです。

前述した人間の間にある孤独感は、社會そのものを変えることでなくなっていきます。人が思いやりとぬくもり、やさしさに溢れて心を包み合い許し合うのならそこに自ずから「徳」が発生し、その徳恵は自然界の太陽や月、水やその他の無限の循環の慈愛と同じような世界を感じ人は仕合わせを実感できます。

そして孤独には人間が対立して味わう一人ぼっちになる孤独感と自然の中にある侘びや寂びといった孤独感があるように私は思います。孤独は味わい次第では、それはいのちの側面を感じることであり自然界に陰陽あるようにその陰陽を感じる力ではないかと私は思います。

三木清に「孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。」があります。

これは西洋人が人間を中心にした思想感からでしか孤独を感じないのに対し東洋人には自然を中心にした思想感から孤独を味わいますからその孤独の味わい方の意味が異なるということです。

山に入るというのは私たちにとっては自然の中に入り孤独を味わうということです。これは自我を超越し「無」になることです。無になることで私たちは自然と一体になります、ここに心そのものの侘び寂びがあるのです。この侘び寂びの観念を文化や営みそしてそれを人生の使命にまで高めたところに私たちの民族性の柱である「大和魂」があるように思います。

そして三木清がこの日本人の孤独の感性について面白い例えを記しています。

「東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。」

つまりは対立する「人間の間」ではなく、大和する「自然の間」があるということです。

私も夕方のある時間帯、薄明の時間はとても寂しく感じます。これは侘び寂びを感じるこころが感応するのであり、黄昏を味わう孤独を感じる間であり、昔から昼と夜が移り変わる時間帯、降魔時、大禍時といい現世と常世の境目を味わっているのですす。ここに自然の間、余韻の時に入ります。この余韻の時こそ、私の感じる孤独の味わい深さであります。

そしてこの孤独の味わいは人間の間にある孤独とは明らかに異なります。誰と一緒にいても心は常に余韻の時、侘びと寂びを感じているのです。さらに言えば自然観というものの中にある孤独感は、無のことです。そして人間観にある孤独感は、亡のことです。

人間の中にある孤独を和らげ、仲睦まじく仕合わせに暮らしていけるようにするには社會福祉を改善し続けなければなりません。人間の中にある孤独こそが戦争を引き起こし、貧困を広げ、破滅を引き寄せていくからです。社会福祉法人というのは、本来は社會を改善していく同志たちであるということです。

引き続き、子ども達のためにも自然をお手本にして本来あるべき人間の社會を創造していきたいと思います。

 

自然体の本質

世界において日本人であるということの重要性は昨日も書きました。なぜ日本人でなければならないか、そこには私たちの世界における存在意義にも関係します。そしてそれは単に世界の中での日本民族というだけにとどまらず、結局は自己を活かすということの本質に深く関わっているからです。

そもそも人は自分という存在をどのように理解しているかで観えている世界が変わっていきます。例えば、単に自己という自分が今までの過去のことや身近な存在から理解する狭い範囲の自分というものと、民族の一人として先祖代々からつながっている自分であると理解するのでは自己認識が変わっていきます。前者は私的なものですが、後者は歴史全体的なものです。言い換えればこれらの歴史全体的な民族的使命を持つことによってはじめて本来の意味での個性というものに出会うということです。これを三木清が分かりやすく例えています。

「すべての理念的なものは運命的なものを通じて実現される。個人の任務は民族を通じ民族のうちにおいて世界的なものを実現することである。個人は自己の民族を世界的意義あるものに高めねばならず、そのためには個人はどこまでも自主的に民族と結び付くことが必要である、個人が自発的でないところでは人類的価値を有する文化は作られないから。」(論文 全体と個人より)

はじまりの初心をもって誕生した先祖たちの道をその後の私たちが受け継ぎ歩んでいるのですからその道を高めそれを民族の目指した姿として顕現させていることが今の文化とも言えます。文化があるというのは、かつての祖親の真心をカタチにした個人があったということです。人類的価値とは、その初心という理念においてそれをどのような道筋と道程を実践して文化にしたかということです。だからこそ三木清も「すべての人は、自らの民族が持つ文化を世界史的意義を有するものへ磨き上げそして高めていかなければならない」と言います。

「個人は抽象的な人類や世界ではなく却って民族というが如き具体的な全体と結びついて具体的な存在であるのである。個人は民族を媒介するのでなければ具体的に人類的或いは世界的になることができない。単に人類的と考えられるような個人は抽象的なものに過ぎぬ。単なる世界人は根差しなきものである。」(論文 全体と個人より)

個人というものの定義をどのように捉えるか、自分らしさというものをどの価値で定めるか、そこが肝心だと私は思います。自分自身とは何か、それを正しく理解できてこそはじめて真の個性を活かし発揮することができるのです。単に個性の発揮とは、自分の好きなことをやればいのではなく真に自分らしさ、自然体であるのです。自分らしさが自然体とも言いますが、では自然体とは本当は何かということなのです。

私の自然体の定義はもっとも日本人であるということです。

言い換えれば今まで脈々と受け継がれてきた私たちの道統の存在そのままになっているということです。それがあってはじめて自分らしさであり、それが本当の個性なのです。私が日本人を目指し文化を学び直すのも自分の中にあるその個性を磨きたいからです。日本の精神とは何か、その精神を磨くのもまたそれは民族としての心を高めてはじめて日本精神を磨くといえます。そして三木清はこうも言います、「国家・民族という精神的バックボーンがあってこそ「個人」が真に活きる 」と。

私も同感で、まず「国」とは何を指すのか、そして「民」とは何を指すか、真に「国民」であるということはどういうことか。自分が国民の一人として自分を発揮していくには、まず本来の国民に回帰する必要があるのです。その回帰した姿において如何に文化を世界に発信していくか、そこに民族的使命がありそこに個々の天命があるように思います。

運命というものは天命のことで、天命は運命と自然体になればなるほど同化していきますから自分が民族の文化そのものであるということを忘れてはならないと私は思います。

そのために何を実践していくか、どんな手本を示して子ども達に道を譲っていくのか、自分の使命とはそういう民族から受け継がれてきた使命のことですからその道を譲り渡す時、真の幸福もまた受け渡していくことができるように思います。最後に三木清の言葉で締めくくります。

行動の哲学は歴史の理性の哲学でなければならぬ。歴史の理性はもとより抽象的なものでなく、一定の時期において、一定の民族を通じて現れ、一定の民族のうちに具体化されるものである。そして一つの民族は民族である故をもって偉大であるのではなく、その世界史的使命に従って偉大であるのである。

歴史に顕れる日本の先人たちの中には、全てその民族の偉大さが顕現します。私の尊敬する方々もみな、その自然体の本質を持っています。吉田松陰然り、高杉晋作然り、源義経然り、私たちの民族には「徳」と「義」が脈々と受け継がれています。

本当の意味で世界が滅びるというのは、世界史的使命が失われるということです。民族多様性を如何に遺すか、それはそれぞれの民が文化を重んじて生きていくということです。時代がいくら激変しても道は変わらずそこにありますから道を継ぎ道を弘め、道を繋いでいけるよう自然体に近づいていきたいと思います。

ナレッジマネジメント~活人仕法~

組織において情報共有の仕方をみればその組織の大事にしていることが観えてきます。例えば、スケジュールで共有する組織、思いやりで共有する組織ではその進め方が異なることはすぐにわかります。結局は、情報共有とは人が一緒に働く仕組みであり、一緒に働くときに何を優先して働くかが関係しているからです。

情報共有のことを英語では「ナレッジ・マネジメント」と言います。この「ナレッジ・マネジメント」はPF・ドラッカーが知識社会パラダイムにおける経営改革手法として紹介されています。次の社会においては、知識だけではなくその知恵を集めそれを具体的な日々の経営に活かす時代に入るということです。これは人を活かす経営か、人を殺す経営かと言い換えれるかもしれません。

人は単なる大量生産大量消費のモノではなく、人は智慧を創造するいのちであるという考え方でものと見直すと如何に一人ひとりの衆知を集めてその知識を智慧にまで高められるかということにかかっているように思います。

神話の中にも、何か問題が発生したとき八百万の神々が集まり話し合いをして智慧を絞り出して話し合って解決する場面が何度もあります。例えば、天照大神が天の岩戸に御隠れになったときも神々が皆で火を囲み車座になって衆議をしそれを集めて智慧にまで昇華して物事を解決しています。

誰かが専断専行するような独断と独占、独善的であることを良しとはせずあくまで衆議・衆知を集めることにこだわり「智慧を重んじた」ことが先祖の生き方として遺っています。そのあと、聖徳太子が出て「和をもって尊しとせよ」といったのは日本で明確にナレッジ・マネジメントをはっきりと示したように私は思うのです。

私たちは先祖代々より他を尊重してよく傾聴し共感し受容し、それができれば智慧になるというようにマネジメントの在り方を実践してきた民族とも言えます。今の組織でよく情報共有がうまくできなくなった理由は、その初心を忘れて不和になっているからかもしれません。不和とは偏った意見、誰かの意見だけに従う姿であり円満に事が進むやり方ではありません。

一円観のように、すべてを丸ごと傾聴し思いやることですべて善いことになっていることや聴けばいいことになっているというような安信した状態でいることで和は尊ばれるようにも思います。

そしてその和はすべて真心や思いやりによって行われます。情報共有は思いやりである理由は一緒に生きている仲間だからこそ、相手のことを思いやることで感謝が結ばれ絆が産まれ御互いに助け合うことができ衆知が集まり衆知を活かし、そして人々の持ち味を活かすことができるように思います。

持ち味を活かすには相手を思いやりそれぞれの考えを聴く必要がありますからよくよく話を聴く組織、つまり思いやりが溢れている組織ほど最高のナレッジ・マネジメント(活人仕法)ができていると私は思います。

引き続き、子どもの現場に働く大人たち一緒に先祖代々から伝承されてきた仕組みを温故知新し未来へと継承していきたいと思います。聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

日本刀の精神

先日、日本刀用語の中の「付け焼刃」について書きました。他にも似た言葉で「にわか仕込み ・ 一夜漬け ・ 間に合わせ ・ その場しのぎ」があります。付け焼刃は剥がれやすいやメッキが剥がれるなどもそうですが、本当の実力を身に着けなければ乗り切れないということに使われます。

しかしではなぜ付け焼刃が横行するのか、それを深めてみると今の教育の在り方や、誤魔化して済むような世の中の風潮も観えてきます。結局は、生き方を決めず覚悟を持たないでも生きられるものが溢れる豊かな時代、精神を如何に厳しく磨き鍛えるかということが求められているということです。

例えば、一夜漬けという言葉で思い出すのは学校のテストです。テストさえ乗り切ればいいのだから、一日、二日覚えていればその場しのぎで乗り切れたものです。他にも、その場さえ乗り切ればというものは沢山溢れています。特に器用な人やテクニックが高い人は、能力でその場を乗り切ることが出来てしまいます。一度、そうやって楽を覚えてしまうと次からまた楽な方法で乗り切ろうとするものです。逆に不器用な人は、それができませんからいちいち時間をかけて丁寧に愚直に取り組んでいくものです。

そのうち社会に出てからも、調子よく世渡りをする人と不器用だけれども真摯に世の中に貢献する人に分かれます。このことを考えるとアリとキリギリスの寓話を思い出しますが、結局は「己に克ち日常を怠らないこと」に尽きるように思います。その場しのぎの逆は平素を正すことだからです。何かあった時だけ乗り切ろうとするのをやめるのは日頃をキチンと正しておけばその時がきてもいつも通りにやればいいからです。

付け焼刃というのは、日頃の鍛錬よりもその場さえ乗り切ればで研ぎや付け足し刃をつけます。しかしその刃はすぐにまた切れなくなり、ただのなまくら刀になります。この鈍刀というのは、だいたい大量生産で造られたものです。本当の日本刀は、折り返し鍛錬によってはじめて切れ味の光る唯一無二のものが仕上がっていきます。

教育がもしも大量生産をしてしまえば、人間もまた鈍刀のような付け焼刃のその場しのぎばかりが育ってしまいます。本来の人間に必要な素養は、刀を打つ鍛冶師のような心構えで取り組む必要があるように思うのです。

単に見た目が日本刀であればいいなんていう刀を、誇りを持つ鍛冶師は打つはずがありません。鍛冶師がブレれば研ぎ師がブレ、その他の鞘師、白銀師、塗師、柄巻師、装剣金工の関係者もみんなブレていきます。常にみんながブレずに日本刀を造るからこそ日本刀の精神が宿りそして伝承され後世に遺るのです。一本の日本刀が仕上がるまでにどれだけ本気で皆がそのものを造り上げるか、そこが何よりも大事なのです。

鈍刀に仕上がってしまった刀は、見た目は立派でも切れ味のない実戦現場では使えないものです。今の時代、それで苦しんでいる大人たちが本当に多い世の中になったような気がしています。こうなるのも周りの人たちがどれだけその人を信じて本気になって正直に育ててきたか、見守ってきたかではないかと私は思うのです。

言い訳をしない、正直に生きるということ一つも日本の心であり大切な徳目の一つです。そういうことを怠り日常の鍛錬を積もうともしないで、いきなり目の前の出来事を一時しのぎ、その場しのぎ、一夜漬けで乗り切ろうとするその生き方から修正しなければなりません。

日本刀の中に見える私たちの先祖が大切にしてきた生き方から本来の大和魂とは何か、日本人の在り方とはなにかを学び直していきたいと思います。

暮らしの道具

昔の生活道具を身近で使っていると、その当時の日本文化に触れることができます。頭で考えるのではなく、直接触れていくことでどんな暮らしをしていたのかが直観的に感じ取ることが出来ます。今の時代は何でもスイッチ一つですぐに簡単便利に何でもできた方が幸せという価値観ですが、昔は手間暇かけて面倒でも充実している方が仕合わせという価値観だったようにも感じます。

例えば、竈という昔の生活道具があります。私の自宅では古鉄の羽釜を用いて炭でご飯を炊いていますが、出来たご飯は本当に格別の味がします。今どき面倒ではないかと思われますが、炭を扱う技術さえ身に着けばかえってガスよりも分量に対する調整ができたり火加減も自由自在で美味しいご飯ができます。火吹き竹で微調整して炊くご飯は美味しいだけではなく楽しく、食べるころには心が充実しています。単に満足するだけのご飯ではなく、充実するためのご飯を食べられるのもまた昔の道具がそれを演出してくれているからです。

この竈は50年前くらいまではどの家庭でも使われていたもので、電気炊飯器が登場してあっという間に見なくなりました。簡単便利に電気でできるご飯は、急速に発展し消費する社会では邪魔者になったのかもしれません。もともとこの竈は、おくどさんとも呼ばれ、約1500年前頃に朝鮮半島から登り窯や置き竈とともに伝来したとも言われています。これにより須恵器の生産もはじまり、茶碗なども一緒につくられるようになりました。

置き竈ができ、後に火鉢が開発されてそれからずっと日本人の暮らしを下支えしたパートナーだとも言えます。炭は火鉢と一緒に発展繁栄してきましたから、我が家の炭を中心とした暮らしでは火鉢と囲炉裏が大活躍してくれています。

毎朝、薪を入れ炭を熾し、井戸水を汲んでご飯を炊き隣で味噌汁をつくりました。漬物をおかずに朝餉を食べて残ったご飯はおむすびにして味噌を添えて野良仕事に出ていきます。夜になればまた囲炉裏を囲み一日のことを振り返りながら月明りとともに休み眠ります。

このゆったりした一日の暮らしの中で、心身共に充実した日々を過ごしていたのが道具から伝わっています。生きているもの、いのちがあるものは、いのちの時間を持っています。それは今のスケジュールのような時間ではなく、悠久の時間です。循環にははじまりも終わりもありませんからその時間の中にいることはとても充実するように思います。心の充足もまたそこに在るように感じます。

一日のはじまりと一日の終わりに、循環を感じることは仕合せを味わうことです。引き続き子ども達に遺していきたい生き方としての昔の生活道具、暮らしの道具を深めていきたいと思います。

野生の味~いのちの仕合せ~

先日、自然農園の青梗菜を収穫してお客様に持参しましたがとても美味しいと喜んでいただきました。この青梗菜は形こそスーパーで売られているものよりも小ぶりですが、どの方が食べても美味しいと喜ばれます。

この美味しいとは本当はどういうことか、改めて深めてみます。

自然農園の野菜は、雑草と一緒に混植されているものです。種を蒔く時期と最初に育つ時期だけは丁寧に見守りますが、あとは自然に任せて育つのを待っています。育つ場合もあれば、大きくなれずにそのまま周りの雑草たちの方が強く抑え込まれて育たない場合もあります。しかし周りの雑草と一緒に育ち、混植されても育ってくれた野菜はまるで野草のような滋味があります。食べてすぐにわかるのは、自然の中で育ったと感じるあの野生の味です。

今の時代は、農薬や肥料、もしくは様々な農業技術をつかって甘くしたり辛くしたり調整して育てています。人間の都合にあわせてそのものを造っていますがそこには野生の味はありません。すべて加工されてるものです。お菓子もそうですし、料理もそう、素材の味ではなく料理の味です。

しかし自然の中にあるものはすべて野生の味があります。例えば、海で獲れた天然魚や、山で獲れた山菜などはすぐに食べれば美味しいと感じます。この美味しさは加工された美味しいではなく、野生のままだから美味しいという感覚なのです。

本来、人間は美味しいという感覚を持っています。

これは舌さき三寸で味わう味とは異なり、いのちそのままの味を味わう味を知っているということです。これは舌ではなくカラダ全体で感じる自然を味わう器官が備わっていることの証明であり、そこで感じる「美味しい」はあるがままであるいのちや個性を歓んでいるのです。

できる限り、野生の味を味わえるように昔の道具たちは造られたとも言えます。今、使っている日本刀包丁や、砂鉄の鍋、羽釜、陶器、炭などもそのものの素材のいのちを壊さないような道具たちです。その道具たちの持つ偉大さは、いのちを壊さないままに料理できることです。

ここから考えてみると、やはり本物の美味しさというのは「野生の味」であることに気づきます。そしてその野生の味は、そのままであることを邪魔しないことによります。私たちが社業にしている「子どもらしく子どもの発達を邪魔しない」というのは、この野生の味を育てていくということです。

自然農も同じく、美しい暮らしも、すべては子ども第一義の理念を実践していくのと何も変わりません。そのままであることの美しさ、あるままであることの深い味わい、こういうものを私は「美味しい」と定義するのです。人間の都合で教育され、人間の都合で加工され、あるがままであれないものが果たして「善いもの」なのかと思います。料理すればするほどにまずくなったでは本末転倒です。

もちろん加工がよくないといっているのではなく愛情や真心を籠めたかどうかもいのちは感じますからそれもまた滋味を味わう一つです。そしてこの愛情や真心こそが野生の見守り、自然と同じ心の姿です。

野生の感性は自然から遠ざかることで離れていきます。私たちは自然に磨かれていのちは高まっていきますから、自然の姿、あるがままでいるのは美しく味わいのある人生を送れるように思います。あるがままでいい、そのままでいいと丸ごと個性を認めるような環境はそのものを野生のままに育てていきます。野生の味の美味しさはいのちの仕合せなのです。

引き続き、子どもの発達を邪魔しないような道を伝え弘めていきたいと思います。

心の風通し

「風通し」という言葉があります。これは自然では風が通り抜けるという意味ですが、組織では意思疎通のとれている意味で使われます。昔からこの風通しというものは風水をはじめ、あらゆる環境や場創りに用いられてきました。風通しがよければカラッと乾いた状態を維持していくことができます。逆に風通しが悪いとカビが生えたり腐ったりと病気になったりと様々な問題を引き起こしていきます。風通しというものは、水通しでもあり、水は目詰まりを起こせば澱んでいくように風も通りが悪ければ同じように澱みます。水は澱むと腐敗しますから、如何に澱まないようにしていくかが自然の智慧、「風通し」ということです。

この風通しは人間関係においては何よりも重要な要素です。

たとえば、風通しが悪くなってくるというのは疑心暗鬼になって意思疎通が取れない状態です。それぞれが感情を押し殺して自分の思い込みで勝手に真実とは違うことが気になり不安で動けない状態になります。周りの目が気になり、コミュニケーションや対話が正常に行われず、言いたいこともいえず素直に自分をさらけ出すこともできません。こんな状態では風は通らず人間関係もまた澱んでしまいます。

そもそも風通しが悪いのは密閉されているからです。例えば家でいえばどちらかの窓が閉じていたら風は入ってくることはできません。風を通すには少なくても二つ以上の窓を開いていなければ風は抜けません。これを人間でいうのなら、自他との信頼の窓を開いているかどうかということでしょう。

人は自分の感情や心を安心して表現できる、何を言っても大丈夫と言う状態をつくれるかどうかが風通しの一つの基準になります。自分がここに居ていいんだという安心感、居心地の善さが風通しを善くしていきます。そのためには、自己観照や自己内省をし自分のことに気づける内省的風土と他人の思いやりに感謝できる理念的風土を醸成する必要がある様に私は思います。

なぜなら自分か相手かという相対的観念や自己中心的な個人的観念が強いと自我を優先しますから己に負けていつまでも真心の窓を開くことが出来ないからです。いつも心を開いていることは自我慾を超えたオープンな姿勢、言い換えれば克己復礼、自他を信頼をしている姿でいることでありその姿が周囲をも安心させていきます。人は自分の我を押し通せば押し通すほどに風通しが悪くなります。そうならないように自我よりも真我といった、本来の自分の目指したい理想や理念、自己信頼を自らが裏切らないようにしてそれぞれが自分に打ち克つ実践を積み重ねて己の我に克ちつづける必要があります。

自他信頼ができる組織、皆のためにと自律できる人たちが集まれば自ずからその組織は風通しが善くなります。ただ対話をすればいいのではなく、自他との本心の対話と内省を通して風は通っていくように思います。

人間における風通しの風とは何か、その風は心の風です。

心が澱まないようにする創意工夫、その中にこそ人間の風通しがあります。私たちが実践する様々な取り組みはすべてその風通しの工夫から創出されたものです。

最後に二宮尊徳に、「我が道は,人々の心の荒蕪を開くを本意とす,心の荒蕪一人開くる時は,土地の荒蕪は何万町歩あるも憂ふるにたらざるが故なり」があります。あらゆるものの荒廃は心の中から発症しますから、その心田を開発すれば繁栄は尽きないということです。心に風を通す真心の循環の技法、まさにそれが私の目指す未来の子どもに伝承したいかんながらの道です。

引き続き風通しについて深め、心の荒蕪を耕す仕法を今に温故知新したいと思います。

グローバル人材~生物の本質~

昨今、グローバル人材という言葉が飛び交っています。文科省をはじめ、世界で通用する人物を育成するということでアクティブラーニングなどという言葉も流行っています。私は当たり前のことを何をいまさらと思っていますが、結局は多様性を受け容れる感性を持っているかどうかであると思っています。

そもそも生物多様性という言葉があるように、生物=多様なのです。それをわざわざ画一であると教え込んできたのは教育がそうしてきたとも言えます。「こういうものだ、こうあるべきだ」と刷り込んでは正解を与えて正解を探すことを繰り返しされてきた人は頭でっかちになって感性を磨きませんでした。感性を優先する人たちは当然答えはないことを知っていて質問をして訊くこと、つまりは無から創造することを優先して直感的に理解していきます。しかし知識や正解を優先する人たちは答え探しに終始費やし正解を求めては無理に正解に合わせて整合性をとっていきます。

本来この世の中は多様であるのは、自然界のように無限に組み合わせが存在するからです。その時々に応じて如何に持ち味を活かして組み合わせを存在させるか、言い換えれば人との出会い、つながりの多様さが新たな未来を産み出すように多様性があるからこの世の中は調和しさらに広がっていくのです。

多様性を失い画一化してしまうことの背景には、知識で分別し「こうでなければならない」という思い込みが強くその知識で分別した立場や役割通りで「なければならない」という先入観や刷り込みを取り払うことができないからです。枠内であることにこだわり枠内であるようにと枠を設けるのです。

例えば、上司はこうでなければならない、夫はこうでなければならない、先生はこうでなければならない、親子はこうでなければならない、男はこうでなければならない、会社はこうでなければならない、あらゆる「なければらない」に縛られます。実際は頭で考えた「なければならない」通りにいくように周りもその人も必死になります。これを自然にまで拡げて、犬でなければならない、魚でなければならない、花でなければならない、稲でなければならないと思い込み、こちらの思い込みで接しているから自由度がなくなく創造性も発揮されず画一化されていくのでしょう。一つの価値観に無理やり合わせて従わせていくというやり方は自然界の本来の姿からほど遠いのです。

自然を観察するのには知識で行うのではなく、感性で行います。なるほどこうなっているのかというのはほとんど直観を用いて全体を掴みます。生きていくと言うのは、自然界で生き残るための感性です。「生き残る感性」がある人はグローバル人材とも言えます。その生き残る力は自然によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。学力というものの本質もまた人間が勝手に定義した学力ではなく、自然界の生き物たちが本来本能でもっている学力にすれば多様性のこともまた理解できると思います。

その上で私が思う教育の在り方は、もっと自然に沿って自然から学び直す感性を磨くことです。知識ばかりを使って感性を使わない生き方をやめ、感性を使ってその上で智慧を知識で整理していけばその人物は多様性を受け容れることができるグローバル人材になっていくでしょう。

昨年の海外視察から観えてくるのは、感性を研ぎ澄ます大切さの再認識です。子ども達のためにも、自らが証明するためにあらゆる実験と実践を積み重ねていきたいと思います。

灯りの余韻~炭の仕組み~

炭を使った暮らしをはじめてみると、如何に炭が温もりを与えているのかを実感するようになってきました。一日のはじまりと終わりに炭を熾しているだけで時から離れ自然に近づいていきます。

そして炭はコツを掴めば、火の調節もとてもしやすく便利な現代の道具よりも微調整がききます。それに一度火が入れば、小さな火が残りますからいつでもまた熾し直すことができ火を絶やさなければいつでもまた復活するということにも気づけます。灰も大切な役割をし、燃え尽きてなおその火を守っています。この炭で沸かす一杯の御茶は本当に格別で生きている仕合わせを感じるほどです。

この炭というものの温もりは、普通の薪やガス、石油で燃やす火にはないものです。それらの火は燃え盛る太陽だとしたら、炭の火はそれを受けて光る月のようです。月はその光の中に温もりを宿します。同じように炭にもその炭の中に温もりが宿るのです。

炭に火が入れば、炭のいのちが燃え始めます。その炭のいのちは透明な灯りを自らの呼吸で点灯させていきます。その点灯した灯りが周りを暖め、同時に私たちに温もりを感じさせます。この優しく包まれる灯りの中で、私たちは一日のはじまりの意味を知り、一日の終わりの意味を感じます。この炭が産み出す「灯りの余韻」は、心に深い味わいを与えてくれます。

人生は一瞬です、そしていのちは熱を帯びてはその熱が次第に冷めて消えるか最期には灰になっていきます。血液が赤く体温を維持するために呼吸するように炭もまた赤く温もりを維持するために呼吸をします。火吹竹で息を吹き込み元気になる炭のように、私たちもまた息をして元気になります。

火に空気の中の何かが反応することで、温もりというチカラが出て来ます。その自然が熔け合う瞬間に私たちは灯りの余韻を感じて心が癒されていきます。火は人の心を投影します。その人の心の安らぎは火の中にも顕れます。炭のない暮らしは人心の荒廃を進めているように私には思えます。これは昔からの稲作の仕組みがなくなって協力しなくなったように、炭もまたこの人の手で炭を扱う仕組みがなくなって温もりが失われてきたようにも思います。

灯りの余韻を大切に味わう心のゆとりを炭と一緒に育てていきたいと思います。

子ども達のためにも、自分が灯を消さないように実践を大切にして見守っていきたいと思います。

分を弁える~謙虚さの醸成~

人は自分自身のことを間違うのは我慾や私心に呑まれるからだとも言えます。昔から執着をはじめ、暴食、色欲、強欲、憂鬱、憤怒、怠惰、虚飾、傲慢などがあります。どれも自分自身の中にある己心と私心との間で発生してくる感情であり、その感情をどう転換し、どう執着を手放すかが人生の修行とも言えます。

実際に文章で書くのはいとも簡単ですが、実際に実践してそれを転じて善いものにしようとするのは大変なことです。実際には、どの執着が一番強いかは人それぞれに異なりますが、ある人は強欲でなくても傲慢であったり、ある人は暴食がなくても怠惰であったり、それぞれに強弱あるものです。

仏教では六波羅蜜と言いその執着を手放すための修行として、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)があるそうです。私欲を手放すには、私欲を超える実践を行いいつも自分を律してより大きなものに自分を近づけていこうとすることで己の分を弁えようとするように思います。

人は自分の分を弁えることができてはじめて謙虚になったとも言えます。

実際の自分を本来の身の丈よりも大きいものだと思うところに人間、いや人類の失敗があり、実際は分を弁えないことをすればそこに破滅が待っています。これは歴史を観れば明白で、分を弁えればその文明は長く続き、分を弁えないことで文明は終焉します。

人間がいくら凄いと思っても「いのち」一つ作れませんし、また地球規模の大天災には立ち向かう術もありません。例えば、火山の大噴火や熔岩を消火できるのか、竜巻や台風を消し飛ばすのか、大津波を鎮めるのか、巨大隕石を吹き飛ばすのか、そんなことできるはずもありません。宇宙や自然を敵にしても決して勝てるわけではなく、もしくは何かや誰かと比較競争して勝った気になってもそれは長い目で観て果たして本当に勝ったと言えるものかとも思えます。

自分の分を弁えている人は自然に沿っています。自然に沿っているから、自然を変えようとはせずに自分を変えようとします。世の中を変えようとはせず、自分を変えようとします。他人を変えようとはせずに、自分を変えようとするのです。これらは分を弁えているのです。自分を変化させる人はみんな、その道理を実践により体得しているのです。

如何に分を弁えるか分度を保つかは、日々の生き方、その謙虚さの醸成があるということです。一期一会の御縁といただいた大切なお守り刀を懐に抱き、初志を貫くためにも安文守己・知足安文の実践を意識していきたいと思います。