心の実践

人は共感することで相手のことを深く理解していくことができます。この共感とは単に相手を知ればいいということではないことはすぐにわかります。しかし実際、共感をするということが何かということを理解している人は少ないように思います。

例えば、相手の話を聴くということがあります。これも単に話を聞けばいいのではなく、聴くというのは相手のことを自分のことのように関心をもっているか、もしくはどれだけ自分が心をありのままに開いているかということが関係します。

しかし実際は関心も心も開くこともなく、心を遣わないままに頭が先に出て心が入らないことがあったりするように思うのです。それを自分で気づける人は修正できますが人間が幼いころから大人の社会を身に着けるために世渡りが上手くなって刷り込まれてくる過程でその心の実践を忘れてしまうことがあるように思うのです。

それでは心の実践とは何かということです。

極端な例かもしれませんが、1990年、フランス人の野生動物専門カメラマンを両親にアフリカのナミビアで生まれたティッピという少女がいます。10歳になるまで、原住民たちと共にアフリカの野生動物に囲まれて育ち、生まれつきどんな野生動物とでも仲良くなれたと言います。

この子の動物と戯れている写真を見たら、まるで兄弟か家族のように動物たちと仲良くなっています。動物たちもその子に警戒せず、その子も警戒しません。本来の野生動物は食べ食べられる本能がありますが、生命の進化を観ていたらその相手ではないと思えば自然に近づくことができるのかもしれません。

その中でその子がこういう言葉を語っています。

「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」

ここに共感するということの真意が潜んでいるように私にも感じます。相手が心を開かないのは自分が先に心を開かないからです。そうして開かないからこそ相手は自分に対して心を開いている分しか開いてくださらないのです。

まず自分が心を開くのは相手が先に心を開いてくれてからという人もいますが、人が自ら共感するというのは自分の心をまず開いてから行うことをいうのでしょう。もちろん、心を開けば傷つく時は大きな痛みを伴うかもしれません。しかしそれ以上に相手を思いやり、もしくはそれ以上に冒険したいという気持ちがあれば心はいつも先に出てきてくれるようにも思います。

勿論幼いころの心の傷や痛みは古傷となって今でもズキズキするかもしれません。しかしその傷や痛みは相手を分かろうとした痛みであり、相手を近づこうと冒険した証の傷なのですから自分の誇りであり、また勲章なのです。

仲良くなり助け合いわかり合う共感とは、心のかかわりつながりを持つことです。

小さな勇気を振り絞り小さな一歩を踏み出すことで心は開いていきます。
自然はいつも私たちに心をまるごと開いてくださっています。

仲間に出会える倖せのためにも、敢えて自分から裸になる心の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

同化の法理

先日、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で「ハナカマキリ(ランカマキリ)」の特集が放映されていました。

もともとカマキリは、擬態をして稲の間に生きるものは稲の色になり、草草の中に生きるものは同じような緑色になっています。しかしこのランカマキリは、蘭の花と共生関係を結びますから蘭の花から離れることはありません。そのあまりにも擬態の卓越した姿に弓の名手紀昌の「不射の射」の話を思い出しました。

昔、趙の都・邯鄲に住む紀昌が、天下第一の弓の名人になろうと志を立て、当今弓矢をとっては及ぶ者がないと思われる名手・飛衛、次いで飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人・甘蠅に師事して「不射の射」を体得する。 真の名人となった紀昌の心は弓への執着からも離れ、ついには弓そのものを忘れ去るに至るという話です。

これは道を究め盡して自他一体が極みに至り、弓矢そのものになってしまったがゆえに弓矢そのものの存在を思い出せないほどになるという故事です。

あの映像の中のハナカマキリを観ていたら、まるで蘭の樹そのものになってしまっている姿に進化と発展の本質を学び直した気がします。ハナカマキリは、まるで蘭の花そのものに擬態します。蘭の花が蜜で虫をおびき出すように、ハナカマキリも蜜と同じフェロモンを出します。また紫外線を反射するように花びらと同じように自分の身体も紫外線を反射します。その動き一つ一つも花びらが動くかのように揺れながら歩きます。蘭の花が虫たちを呼び出す仕組みをほぼ完全に真似をすることができているのです。

ここに自然の不思議を感じます。もちろん、ハナカマキリは蘭を尊敬した結果近づいていったのでしょうが果たしてこれはハナカマキリだけが蘭を真似てこうなるのかということです。蘭の方も近寄り何かしらの関係を結びその中から互いに同じ生き方を選んだのではないかということです。

昔から互いに必要としあうものは互いに似てくるという考え方があります。これはもともと似ているのか、のちのち似てくるのかはどちらでもいいのですが自然には「似たもの同士」という一つに同化する境地があるように思います。

私には、道の中で歩む方々、同じような目標を持って生きる方々、芯や根に同じものを持っている方々はやはり似ているように思うのです。何を尊敬しているか、何と一緒に生きるのかはその人の判断ですが自然界を観ていたら多様化することの意味を深く感ぜずにおれません。そして気が付くと彼我の境目を超えて自他一体になっていきます。

これを私は同化の法理と名付けます。

身近な自然の中に、あらゆることの真理が隠れています。

身近な自然から学び直していきたいと思います。

からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。

希望とは何か

昨日、サミエル・ウルマンについて深める機会がありました。私が20歳の前半のときに詩集の「青春」にめぐり会い、大きな勇気をもらったことを思い出しました。松下幸之助氏の著書の中で自分の座右の銘として紹介されていたその時の詩の印象から青春の真価を再確認したことを覚えています。

もともとこのサミエルウルマンは、ユダヤ人でアメリカで活躍した実業家です。その当時、社会的弱者でもあった孤児、女性、黒人、労働者の救済運動に生涯を捧げた方だったそうです。この詩は、サミエルウルマンが80歳の誕生日に自費出版した詩集の中にあったものです。

日本でこの詩が翻訳され広がったきっかけは、アメリカの連合国司令官だったマッカーサー氏が座右の銘にしていた詩で、執務室に掲げられ日々に内省していたものを日本フェルト工業統制組合専務理事の岡田義夫氏が感動してそれが友人ずてに伝わり松下幸之助さんが紹介して今に至るようです。社会的閉塞感の中で、心が病んでいる人たちがたくさんいる今の時代だからこそ、もう一度この詩の必要性を感じました。ちょうど、この詩が広がったときも終戦後の暗くつらい時代でした。

「青春~YOUTH~」

「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。

悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬
夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛
何かに挑戦する心
子どものような探究心
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、
美しさや喜び勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。」

希望とは、心の持ち方を変えることです。そして心の持ち方を常に変えることができる人は、人生において一生涯好奇心を捨てることはありません。最初は光輝く子ども心も、社會の中で次第に曇りそのうち光らなくなっていくものです。それを磨き続けていくことで、光り輝く心を取り戻すことができる。

それを私は「希望」と呼び、「青春」と定義しています。

人生において絶望とは、生き方を見つめる最大の転機です。その転機に関われることこそ教育の醍醐味ではないかと改めて実感しました。これから、新しい道に同行しますが面白くワクワクするご縁をいただけたことに感謝しています。

私もその一人として絶学を継ぎ、心の世界を創造し青春を謳歌しつつ希望の詩を仲間と一緒に唱和していきたいと思います。

内省的実践習慣

情報化社会というのは、頭脳を使い知識を優先して妄想を現実にしていく世界のことです。本来は、人間の頭脳は危険回避にもっとも活躍しますから、脳ばかりを駆使していると危険察知の情報収集にすべての意識が囚われその場その場を対処することにエネルギーをほとんどつぎ込んでいきます。情報化というのは、知識先行化のことで知識ばかりが優先されている世界ということです。

これを船の航行で例えてみます。

頭で処理するというのは後者の急流濁流の中で目先の石や障害を避けようと先々の不安を解消し危険を回避するために集中力を発揮している状態のことです。しかし、そんなことを続けていたら周りの景色も分からずどこに進んでいるのかもわからず安全だけを守ろうと身動きが次第に取れなくなります。この状態を人間は「忙しい」と呼びます。忙しいというのは、心が着いてきていない状態のことで、目先のことしか考えられず、目の前の不安を解消することに集中しているということです。

しかし本来、これは人生の航行と同じで一度しかない船旅をどのように味わい、自分が納得する物語を生きて旅をするかはその人の決心に由るものです。それにはどんな旅であっても、自分が何のために旅をするのかを忘れずに舵をとっていく必要があります。そのためには忙しいという状態がずっと続くというのを避けなければなりません。では、暇になるまで忙しいのかといえばそんなことはありません。忙しい人は暇でも忙しいのは、心が着いてこないから暇にしていないのです。

心を広くゆったりと持つには、内省と実践の習慣が身についている必要があります。なぜなら、出来事が動く際に、同時にその出来事は一体なんだったのかを振り返っているかを自ら自得しなければ意味を感じることができなくなるからです。

これはすでに海外でも提唱されていて、マサチューセッツ工科大学のドナルドショーン氏は、「リフレクティブ(Reflective)=内省的+プラクティショナー(Practitioner)=実践家」と定義しています。つまりは、”内省的実践家は行為しながら考える”という言い方をし、そこではじめて経験した糧が体内で消化されるという意味です。

これは私も同じように理解していて、内省と実践がなければ人間は必ず「忙しい状態」になると思うのです。もしも内省と実践が習慣になっているのであれば、忙しくても忙しくはないという状態がつくれます。つまりはどんなに環境や状況が変化していても、心は平常心を維持することができているということです。

心が落ち着いていれば、忙しそうに見えても忙しそうなだけで忙しくなることはありません。まるでしなやかで嫋やかに揺れる平原の若草のように、揺れても心は楽しんでいます。

そして組織が内省的実践ができているのなら、その組織は初心や理念を忘れることは決してありません。その組織は、身体がいのちを消化吸収していくように、心も同時にいのちを消化吸収していくことができ、いのちはめぐり発達を已まなくなります。

もしも先ほどの急流で濁流の船で忙しく舵をきる船長がいたら船員はきっと不安で仕方がないでしょう。そうならないように、内省と実践の習慣を身に着けることが心を優先する生き方、見守るためには必要不可欠であると私は信じているのです。

そのために、私たちはあらゆる方法を用い内省と実践を同時に習慣づくようにリーダーに実践を増やし促していきますし、内省をファシリテーターの資質の基本に据えているのです。この内省と実践は、本来同一であり片時も分かれることはありません。

常に忙しいからできなかったではなく、忙しさに負けない強さを持てるようにしていくことが心のつながり、共感の絆を結び育て、組織の結束を高めて豊かにしていく方法なのです。

心の持ち方を変えるためには、コンサルティングの技術も必要です。まだまだ精進して、その理論を具体的発明に換え、実践実地に活かしていきたいと思います。

真実を見抜くちから

人間は知識が多くなってきて、分別された情報を認識することで様々なことを確認するようになりました。そのことで同時に、「何のためにか」という本質を考えず、どうするかばかりを考えるようにもなりました。便利な社会というものは、如何に簡単に安易にスピーディに物事を解決する価値観が中心になっている社会です。

ここでの便利な社会というのは、自分都合の社会のことを言います。何でも自分都合で好都合になることがもっとも良いものだと考えるのです。これと反対に不便というものがありますが、これは相手都合、つまり自分以外の都合に合わせるから不都合となります。

例えば、自然界に生きていたら自分都合であることはほとんどありません。農業一つとってみても天候も思い通りではありませんし、育つ作物もそれぞれですし、天敵なども出てきて無事に収穫できるとも限りません。自分たちにとっては不都合だらけです。しかしそれは全体にとっては都合が良いという考えもあるからです。

得てして自分にとって不都合なことは全体にとっては都合が良いことばかりです。それは万物は循環していますから、自分の都合を周囲に優先させればその都合によって不都合の人が出てくるのです。しかし実際は、権力や人間の身勝手によって都合が悪くなることを排除してきたのが便利な社会ですから都市の中では可能でも、都市から離れると急に不都合に順応することがなかなかできないものです。

田舎にいけばわかるように、交通手段もありませんし、街灯もないですし、インターネットも繋がりません。人間には大変不都合ですが、他の自然の生き物たちには都合が善いのです。

人間の慾は限りなく、どこまでも都合欲なるように広めていきますから世界中あちこちが便利である世界に換えようとするのかもしれません。それが人間関係の中でも発生していますから、今は人間関係も都合の良い人ばかりが増えてきているように思います。

人間が謙虚さを失うとき、そこには便利な社会が増えていくのでしょう。

生活の中に敢えて不便を取り入れること、つまりは周りを思いやることで私たちは自分たちの慾を御して暮らしてきたのかもしれません。子どもたちのためにも「本当は何か」という本質に立ち返り、常に本質を考え抜くことで便利さの陰に隠れている”真実を見抜くちから”を育てていきたいと思います。

成長展~発達を見守る~

昨日、新宿せいが保育園の成長展を拝見する機会がありました。もともと保育園や幼稚園では、作品展というように子どもの作品を展示するイベントが行われるものです。もちろん作品展は作品展で面白い部分もあるのですが、子どもの成長を実感できる機会にしようと発達を感じられたり、子どもの気持ちに共感できたりと、様々な工夫をしている成長展には感動しました。

もう30年以上前からこの成長展は実践されているそうですが、親子が一緒になって子どもの発達を喜ぶ時間を持てるということは大変素晴らしいことだと思います。

人間は自分でも成長しているのが分からないものです。それを振り返り、どれだけの発達があったか、それをどう日常で発展させたかを思うとき、そこに自分を大事に見守ってくださっている存在や、また努力して少しずつつけてきた生きる力を実感できます。

人間はこういう機会を持つことで、自信を持つことができ、人間の基礎に感謝の土台を築きあげていくことができるように私には思えました。

今の時代は目に見えるところばかりを評価する世の中で、目には観得ないところを慮ることが少なくなってきているように思います。サービス一つとっても、分かりやすいサービスが多いところにばかりが良いとすぐに判断しますが、実際のサービスを超えるホスピタリティまでを観て判断している人はかなり少なくなってきました。本来は目に見えないところが充実していると実感できるところにホスピタリティは感じられるものです。相手から言われたからただやっているサービスというのは、不足観は満たせても本来の心の充足のような安心感や安楽感までは得られないのです。今回の成長展ではホスピタリティを実感できるものばかりを見た気がします。

発達というものは、「そのものが自然に自ずから発していく力」という自然の力に対し、それを包み込む自然環境の「偉大なる恩恵の中で達させていただいている力」という宇宙の力のようなものを同時に感じられるものです。

発+達が普遍性がある由縁は、それが「つながり」の中で行われているものだからです。どこか一つだけを切り取って発達が分かるのではなく、発達は丸ごとのつながりではじめて実感できるものです。

昨日の成長展を実現するには発達意識が先生方が自分のものになっているからできるものです。きめ細かく5領域の発達を観ては、それがどこにつながっているのかを理解しています。それは日頃の発達を先生方が専門性が高い仕事している証拠であり、いつも発達を優先して子どもたちの環境を用意して改善を積み重ねているからこそ、あれだけの上質な成長展にしていけるのでしょう。

それを「まるで文化祭のようです」と先生たちが楽しみながら準備し実践する姿に、一貫して発達を見守るという意識が一人一人の先生たちの根底に根付いていることを実感しました。

このように発達を見守ることを優先することで、子どもの今を常に味わっていくという生き方と働き方は子どもたちの人生の自立おいてもっとも大切な宝になると感じました。

ミマモリングの繰り返しこそが、一人ひとりの先生方が子どもを見守る際の根拠になることを改めて確信できた機会になりました。このような子ども第一義の保育園が全国に増えていくよう、私たちも実践を弘めていきたいと思います。

人財教育の王道

人間は理想と現実の間に今を設け、今を見つめ向き合うことではじめて今に存在することができるように思います。妄想ばかりをいくら増やしても、現実は変わらないのですから実行していくしかありません。

昨日、鹿児島に入り維新館を見学する機会がありました。ここ薩摩は、古より教育を何よりも重んじる風土があるような気がします、昔から「島津にバカ殿なし」と呼ばれるようにここには郷中教育をはじめ様々な人財育成の仕組みが文化として継承されているように思えるからです。

その郷中教育の中で、日新公いろは歌というものがあります。これは物心つく前から毎日唱和しからだに沁みこませてきた歌です。そこのはじまりの「い」にはこうあります。

「いにしえの道を聞きても唱えても わか行いにせすは甲斐なし」

(古来から言われてきたどんなに素晴らしい道を聞いても語っていても、自分で実践して行わなければ何にもなりません)という意味です。

そして「ろ」にはこうあります。

「楼の上もはにふの小屋も住人の こころにこそはたかき賤しき」

(どんなに立派な御殿に住んでいる人も粗末な小屋に住んでいる人もそのことだけでは人間の価値は判断できない。要は住んでいる人の心の気高さが重要なのだ)とあります。

今回は「は」までご紹介しますが、そこにはこうあります。

「はかなくも明日の命を頼むかなけふもけふもと学ひをはせて」

(人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし明日自分が死んだらどうするのか。今その時その時に全力投球せよ。)と。

この「いろは」だけでもこの言霊の濃さと重さです。これは島津中興の祖である島津忠良が5年の歳月をかけて郷中教育の基本として定めたものです。この出発点であり原点が今の薩摩の人財をいまだに育てているのではないかと思います。

なんだか今回のご縁に何をすべきであるかを直感するものがありました。出発点や原点を思うとき、今までのものを毀す勇気が今にこそ必要のように思えます。そんな時は「今」を奮い立たせる勇気のある詩に励まされるのも人間のように思います。

最後に京都大徳寺大仙院の尾関宗園さんの詩を紹介して終わります。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

普遍的な道の上にこそ人財教育の王道があると確信できました。

ありがとうございます。

からだ~自然の智慧~

先日、地元だけではなく全国で名医と慕われる医師に身体についての話をお伺いすることができました。その方は、知識で身体を学ぶのではなく身体から身体を学ぶというように、身体の反応をよく観察しその反応から原因の根を探し出すというような感じです。

先生の言い方では、雨漏りがあればどこが雨漏りなのかを探せばいいという感じです。身体のことを会社経営をたとえに説明してくださり、経営改善と体質改善が同じであること、体温を如何に下げないで血流を整えること、またもっとも集まっている場所(内臓)のところの環境を温かくすることなどを教えていただきました。

特に目から鱗が落ちる話は、身体の痛みが回復そのものであるたとえです。今の医療はすぐにどこかが痛いや何かのストレスがあるとすぐに薬を出していますが、それでは対処療法にしかならないという話です。

膝を曲げれば足が痺れてきます、それは血流が滞ってきているからです。そして膝を伸ばせば痺れがとれて血流が順調にめぐりはじめます。その時、足はジンジンしてきます。そのジンジン痛いというのは、血流が流れはじめて回復しているということです。他にも熱が出たり、怪我したときの苦しみは痛みは、すべて治癒している証拠であると話がありました。

今では病院に行くときは薬をもらいにいっているようなものですが、その都度、苦しみや痛みを悪者のようにして薬を処方していたら直るものも治りません。本来、治癒の本質は苦しみや痛みを伴うように私も思います。

人間が成長し発達するとき、そこに大きなストレスがかかります。あらゆる感情や妄想が頭をもたげてきます、しかしそのもたげたストレスをどのように善いものに転換できるかで私たちは治癒を働かせていくように思います。

ストレスといえばすぐに良い悪いと区別しては、コントロール不能に感情に呑まれていますが、本来は善いも悪いもなく、そのものを生長の糧にしていけばいいのでしょう。

しかし今の社会の在り方がストレス社会になっていますから、気が付けば刷り込まれてありとあらゆる病気を引き起こしているように思います。それは知識が氾濫しルールばかりが増えて、速度超過、多忙を極めた不安と心配で緊張して、人とのつながりが薄く金権主義的な世の中になっているからです。言い換えれば、不自然な世の中にいるからストレスが悪いものになっているのです。

どのようにストレスと向き合っていけばいいか、そこには考えずに行動したり、悩む前に実践をしたり、優柔不断になる前に覚悟を決めたりといった方法でストレスを善いものへと転じていくしかありません。

そもそも上手くいかないから上手くなりたいと願うものですし、できないからできるようになりたいと思います。さらに優しくなれないから優しくなりたいと思い、人の役に立てないから役に立ちたいと願うのです。すべては表裏一体に自分の心の赴く方を示しているのが感情です。

その感情に素直になるためにも、今此処、一瞬一瞬を大事に味わいつつ内省し人事を盡して信じたことを天にお任せしていくことしかないように思えます。そしてそれがストレスを福に転じるコツかもしれません。

転じるというのは、めぐりを善くすることです。

川が海に流れてそれが雲になり雨になって川になる。変化に柔軟であることが、自然であり、その自然をお手本に身体を労わることが自然治癒を学ぶ基本なのかもしれません。

自分自身のからだから自然の智慧を学び直していきたいと思います。

後の先~正直に向き合う~

先日、ある食事会で向き合い方についての議論がありました。それは向き合う姿勢そのものについて向き合うという話です。人は向き合うことで自分を知りますが、同時にどのように向き合うかでそれまでの自分ではなくはじめて本当の自分に出会うとも言えます。

人生は自分の身に起きる出来事に対して、自分自身が都合で歪めずどれだけ素直に選ばずに現実を受け止めていくかというのが人生の修業のように思えます。自分の実力を知り、自分を育てていくのも、素直さがなければ難しいように思います。

例えば人生に起きる出来事は全て必然だと受け止めることができるなら、その後に「選ばない」という覚悟が生じるからです。そして選ばないと決めるなら、自分には合っているとか合っていないとか迷うのではなくそのままそれはもっとも今の自分に相応しいと正直に受け容れられるのです。そうしたとき、はじめて今の自分の本当の役割や天から与えられている使命に気づくことができるようにも私は思います。

横綱白鵬の話に「後の先」という話があります。これは相撲では相手より一瞬あとに立ちながらあたり合ったあとには先をとっている相撲の立ち合い方です。これは言い換えれば全て受け止めて打ち克つという戦法のことです。

その横綱の白鵬の日経新聞のインタビュー「基本はぶつかり稽古」と題する中でこう書かれていました。『全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」』とあります。

今でも白鵬はこのもっとも苦しい基本のぶつかり稽古を欠かすことはないと言います。

後の先の本質とは、この基本の向き合うという素直な姿勢をどこまで徹底するかが重要なのではないかと私には感じます。現場というのは相撲の土俵のようなもので、常に真剣勝負です。その人生においての現場の場数をどれだけ逃げずに真摯に素直に謙虚に向き合うかというのは、自分の心がけを見つめれば向き合うことができます。

どの状況であっても真心を籠めることも、命懸けでやりきることも、それは常に人生の稽古である信じているからです。年齢は関係ないといくらいってもまだ若干29歳の白鵬の土俵での立ち合い方から私たちは日本人としての大切な心「正直さ」を学び直すことができます。

どんな相手であったとしても、どんな場面であったとしても、どんな機会であったとしても、自分自身が素直に謙虚に向き合って真摯に正直に実践し自らを磨くことが理想を追求するという姿勢と心がけなのかもしれません。

やっていることは異なっていても、目指すその姿から勇気をいただけることが沢山あります。同じ時代でそれぞれの分野で生き方のモデルがいることは、道を歩む仲間がたくさんいる有難さです。未熟さを痛感することばかりですが、修行できる有難さに感謝し、日々の土俵に対して選ばずに基本を崩さずに精進していきたいと思います。