一点一転

かつては色々な知識を覚えては、何が正しいかという物差し(価値観)に縛られとても苦労しましたが見守るという言葉に出会ってからそれまでの考え方が転換されました。

人は正しいかどうかという判断でのみ行動すれば必ずその矛盾に耐えられずに追いつめられていくものです。また右か左かといった相対のどちらかという価値観にいたら必ず対極を生み出しては争いがつきないものです。

結局は、どう折り合いをつけるかということでありそれをバランス感覚ともいうように思います。そのバランス感覚というのは、正しいかどうかでは持てず楽しいかどうかで持つことができます。

そしてこの楽しいかどうかというのは、言い換えれば発達するかどうかということです。

人が発達するというのを簡単に言えば、やらされているときはものにならず、自分からやらせてくださいと主体性を発揮したときはじめて楽しいという境地に入るのです。

人間は誰しも主人公です。それは自分自身がこの世界を観ているからです。そして自分自身の観方によって世界をどうにでも変えていくことができるからです。外側の世界が変わらないと嘆くよりも、自分の観方を転換して世界を変えていくことができるのです。つまりは人は感じ方次第でどうにでも発展させていくことができるともいいます。

子どもたちにはその力が最初から備わっています、英字ではイマジネーションといい、漢字では想像力といい、私の言葉では「毘(び)」と呼びます。

発達するというのは、そのものが自分の内面の変化によって内省をし、物事の見え方を縦横無尽に転換する力、すべてのものを一円融合し善いことに換えていくということです。

楽しくしていくというのは、一つの生き方ですが楽しいと思えることを伸ばしていくことで人は必ず発達し目的に辿りつくように思います。こうでなければならないという正しいは不安と迷いを育ててしまいますが、こうなった方が楽しいというのであればそれは安心と信頼を育てます。

見守るという言葉の素晴らしさは、○○メソッドのように正しいことを要求してくるものではなく楽しいことを実現する言葉です。かつての他の日本語も同じく、もったいない、ありがたい、おかげさま、等々すべては「楽しい」ことを実感する言葉です。

その方向性の方が好きになれる、その方向性の方が間違っていない、そういうものを社會に広げていくことが子どもたちに仕合せな未来を譲っていくことのように私は思うのです。

私たちの行う志事は、その一点と一転に集約されています。それが職場を清明るくし、そこで暮らす人たちを正直にし、子どもたちの好奇心を助けることができます。

カグヤの目指す理想は、楽しいを広げていくことです。思ったことが言える社會、やりたことを見守ってくれる社會、信じ合う社會を新たなチャレンジにより醸成していきたいと思います。

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。

眠りの本質~自然生活リズム~

昨日、GTサミットで眠りと発達についての講演を拝聴する機会がありました。

そもそも人間が眠るということにはたくさんの意味があります。日常の活動の休息というものだけではなく、様々な情報の整理整頓、また細胞の修復や治癒、他にも沢山のことを睡眠によって行っています。

今回の研修の中で、大変興味深かったのは睡眠の総時間が必要なのではなく睡眠のリズムが重要だというお話です。

人間には生活リズムというものがあります。言い換えれば生活習慣というものです。どのような生活習慣を持っているのか、その生活習慣こそその人のリズムです。

このリズムというものは、自然界にも存在するように思います。自然界の生き物たちは人間のように時計の時間に合わせて動くのではなく、自然のリズムによって自分たちの生活を持ちます。

たとえば、動物たちや昆虫、植物たちもそれぞれに一生のリズムがあり、一年のリズムがあり、一日のリズムを持っています。それは本能によって時間は刻まれ、自然全体の季節や気候、つまり自然の変化に順応しながらその時間を調整しているのです。

春になれば自ずから様々な生き物たちが目が覚めて活動に入っていくのもまたすべての生命は自然のリズムを実感しているということです。

この自然のリズムとは生活リズムのことですが、この生活リズムを崩すような原因になっているのが眠りであるということです。私は持論で眠る、食べる、働くの三要素が狂ってしまうと自然の時間が狂ってしまうと思っています。如何に自らの直感がハタラクかはこれらの生活を本来の姿に戻していくことで健全で健康な状態に近づけるように思います。

そのためには、自分の都合や社會の押し付けに負けないように自分の中に自然のリズムをつかんでいくことのように思います。

その具体的な方法は早起きにあるように思います。早起きをすれば自然に早寝になっています。早起きの習慣を持つ人は、朝に様々な活動を行います。朝の活動はもっとも集中力が高まり、様々なことが捗ります。睡眠の後の活動ですからメラトニンも豊富に出ています。一日の始まりが楽しくなっていき脳のシナプスも大量に出てくるからです。

昔の日本人はどの家庭でも鶏が鳴いてから目が覚め、暗いうちから活動しお互いが「お早うございますね」と挨拶を交わしていました。時間の感覚の今の時代のように人間都合のシステマティックではなく自然の営みに合わせるようなダイナミックだったのでしょう。

祖神たちは、自然に近く謙虚で素直ですから人間のみの力と自分のみを力を頼りに何かをやろうとするのではなく、自然に頼り自然の力をお借りしつつやる方が善いことは当たり前だったのでしょう。

本来の子どもの眠りとは何か、子どもにとっての眠りとは何か、見直す機会になりました。ありがとうございます。

 

自分との挑戦

人は自分を変えるとき、今まで使っていなかった能力を開花させているともいえます。

それは新しいことに常に挑戦して新しい筋肉を使わなければならないののに似ています。新しいスポーツに挑戦すると、筋肉痛になるのはそのスポーツに必要な能力を引き出しているからです。そしてこれは筋肉に限ったことではありません。自分の意識変化に対して同じようにいえることです。

少し飛躍してしまうかもしれませんが、昆虫に変態するというものがあります。ヤゴからトンボになったり、青虫が蝶になったりと、蛹を経て別の形態になるということです。それは言い換えれば、今までと全く異なる能力を使っているということです。

そのために今まで持っていた能力を思い切って捨てては転換し、新しい能力を新たに水面下から引き出してくるのです。これは言い換えれば潜在意識下での変化です。

脳科学からわかってきたことですが人間は脳のほとんどの能力を使っていないといいます。つまりこれは人体すべてに言えることで今の私たちはわずか数パーセントの力しか発揮していないのです。これは全部使ったらいいという意味ではなく、潜在意識下で自分にこの能力が必要かどうかを常に自分が取捨選択しているということです。

ある職業につけばおのずからその職業に必要な能力が開花してくるように、人は環境に合わせて適合するようにできているのです。しかしこれを邪魔するものが今までの能力を捨てようとしないことです。それは自分というものを勘違いしているからです。

本来の自分というものは、環境の中で存在しているものであり無理に自分探しなどしなくても自ずから自分の存在は自然に顕現してくるのです。自分はなくならないのだから自分探しをするよりも周囲を思いやりながら活かされている自分に気づき、自分の今いるところを自ら気付き自らのその方向性を確かめ続けた方が本当の自分に出会えるように思います。

結局は人は無理に自分を持とうとすればするほどにその能力開花の邪魔をするのでいつまでも変わらなくなるのです。そして人間は今までせっかくつけてきた能力を挑戦なしにご破算することはなかなかしないものです。

だからこそ自分との挑戦というのは能力開花であり、今までやったことがないことをたくさんチャレンジすることで今までの能力が捨て去られ新しい能力がメキメキと引き出されるのでしょう。

今までやってきたことの延長線上にやっていくのは変態ではなく、まったく新しいことをやることで変態するのです。好奇心というものは常に未知の世界を求めます、それは未知の世界には未知の能力があることを潜在意識が知っているからでしょう。

その人が変わりたいと強く願うなら、今までの能力を使おうとしないことです。今まで使ったことがないことを引き出すには、今までやったことがないことに取り組むのが最善の方法です。

潜在意識を変えるような自分との挑戦を愉しんで、新しい自分に出会い続けていきたいと思います。

 

信を育てる

人は自分の役割がこうでなければならないと頭で考えているときは、役割分担ができないものです。

たとえば、自分は兄だからとか親だからとか、もしくは社長だからとか部長だからとか、そういう頭で考えて思い込みから入ってみてもそれは頭でこうでなければならいという捉われの中にいて自然体ではありません。

他にも仕事の仕方一つをとっても、頭でいくら真心や見守るとやってもそれは思い込みでやろうとしているだけで心で信じてやっているのではありません。

そもそも頭でやらないというのは、心で行うということです。そのためには自分が常に信じ切っているかどうかということを自らの実践と行動ができるようにいつも心は一に止まっている必要があるのです。

心がいつも慎み鎮まっているのなら、どのような行動や言動、そして取り組みも信が入っています。そうすれば目の前の現状に捉われず自然体の自分を発揮していくことができるのです。

しかしその信を怠るならば、目の前の事象に刷り込まれそれをいくら抜け出そうとしても対処療法ですから自分ではコントロールできている気になっていても実際は不自然な対応ばかりをしてしまうことが多いように思います。

頭だけでやろうとするから信は入らず、形だけでやろうとするから頭ばかりを働かせてしまうのです。

本来、信を入れるというのは事前準備や振り返りといった自分の心が決めた成果についてどうすればその目的が達するかを一人静かに覚悟して取り組んでいくようなものです。

自分自身の心が迷っていたら、現実の世界は頭ばかりを使ってしまって流されるままにだらだらと過ごしてしまうかもしれません。自分がどのような成果を出したいと思っているのか、自らと正対し自らを受け止め、心を決めて取り組むことで頭を従えることができるように思います。

そうはいっても今の社会はなんでも簡単便利に自分の思い通りにいくことが良いといった価値観の環境の渦の中に自分たちも存在します。昔よりも一層、自分を律して自由を持つ実力が求められます。

常に自他から学び、信を育てていきたいと思います。

体験~人生二度なし~

人生には一切の無駄がないという言葉があります。これはなぜそうなるのか、その意味を深めてみます。

人は必ず自分の体験が誰かのお役に立つようにできています。それはその時は感じていなくても時間が経つとあの体験がなければ今はなかったというような感覚を持つようになるからです。

そしてこれはその人個人の体験に限らず、その体験を必要とする人に巡り合い、その人が自分の体験を糧にその人の人生に役立てるからです。

この体験が尊いというのは、もともと人間が分かれていない存在であることに立脚しています。人間はつながっている存在です、それは歴史を観れば必然ですが分かれているものは本来何もないのです。

だからこそ自分の体験は必ず何かとつながっているし、自分の人生体験は必要だから発生しているともいえます。だからこそ自分の体験は他の人たちの体験にもなっているのです。

自分の人生を一生懸命に生きる意味とは、それがお役に立てると信じているからです。自分一人だけの世界で物事を見てしまったら、お役に立つという観念もまた自分の都合で考えてしまうかもしれません。しかし八百万の神々といった全体から自分を省みれば、存在そのものが大いに役に立っていることに気付くのです。

それ故に人は役に立ちたいと強く願うのです。本来の役立ちというものは体験を大事に自分の使命を尽くしていくことのように思います。

言い換えれば、体験そのものをどれだけ充実させているか、体験させていただけることに感謝しその体験を如何なる高みにまで昇華させるかということでしょう。

何気ない日々も体験ですが、二度とない一期一会の日々もまた体験なのです。体験そのものが役立ちだと気付くことができたなら、人生に無駄がないことにも同時に気付けるのです。

無駄がない人生だからこそ、体験を大切にしなければなりません。

どんな体験もそれはかけがえのないご縁ですから、そのご縁が結ばれていく世界に存在しているのだから無駄にはしないという覚悟もまた必要なのでしょう。

結果を求めるのではなく、どれだけ真心を籠めて生きたか、どれだけ至誠を盡して生きたかというのが体験させていただいたことへの感謝の現れなのでしょう。

正に人生二度なし、二度とない出会い(体験)を大切にしていきたいと思います。

肩を寄せ合う~互助の真心~

庭の植物や自然の世界の生き物たちを観察していたら、そのものが単体で生きるよりも肩を寄せ合って生きている方が元気そうに感じます。それは一つの種だけを鉢に入れて他を引き離して育てているよりも、多くの種を一緒に近づけて身を寄せ合うように育てている方が活き活きと伸びていくからです。

当たり前のことですが、自然界のどの生き物たちも厳しい自然の中で身を寄せ合い生きています。大変だからこそ他を慈しみ、共感しながら明日は我が身と自分の与えられた場所で自分の与えられた天命に正直に生きています。

これは人間にも同じ事が言えることで、助け合い、思いやり、結束し、いたわり、協力してはじめて生き残っていくことができます。

そういう意味では、生き物たちは肩を寄せ合う距離がもっとも安心できるのかもしれません。本来人は一人でいる方が安心であるはずがありません、今は人間関係が嫌だと一人でいることを好むかのようなことをいうことが増えてきている時代ですが決してそんなはずはありません。

もしも一人で肩を寄せ合う仲間がいないならそれは本当に心細いものだからです。だからこそ人は仲間を求めては、一緒に肩を寄せ合う伴に出会おうと旅をするのでしょう。そして肩を寄せ合うということの同義語は、お互いがお互いのお役に立つときもっとも実感できるのかもしれません。

ダライラマ14世がこんな言葉を残しています。

「私たちは肩を寄せ合って生きています。 だから、この世における私たちの第一の目的は、他人の役に立つことです。 たとえ他人の役に立てない者でも他人を傷つけてはいけません。」

自分が役に立つことを求めては肩を寄せ合うのだから、役に立つかどうかを自分の価値観で裁くのではないという意味でしょう。お役に立ちたいと願うのは、信頼しあって相互扶助する仲間が必要だという心の声です。

どんな生き物もこの世には必要なのだから、争うことよりもお役に立つことで出会う仕合せ、旅をする歓びを実感できるのでしょう。自分から肩を寄せ合っていけるような素直で正直、オープンな互助の真心を育てていきたいと思います。

かんながらの道~大和の心~

人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。

私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。

これを私は「大和」と呼びます。

私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。

人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。

その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。

人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。

この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。

安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。

「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)

自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。

そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。

自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。

最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。

「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」

人生には一つの不自然もなく自然である。

そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。

 

与えるということ

自然が繁栄するということに「与える」ということがあります。

植物や昆虫、あらゆる生きものは天から様々な恵みをいただき生きています。もっとも偉大な恩恵というものは当たり前すぎて誰も気づない所にあるものです。太陽の徳や地球の徳、宇宙の徳も先祖の徳もそうですが、あまりにもその存在が偉大ゆえに誰も与えられていることに気づかないのです。

空気のようにという言葉もそうですが、存在が絶対不可欠なものというのはそれを与えられていることに気づきにくくなってしまうのです。しかし身近な食事や生活の中で、御互いに与え、御互いに助け合い、私たちは日々を暮しています。

そこには、自分が与えられたように周りにも与えるという自然の法理を使って同じように自分たちを繁栄発展させていくのです。例えば、親子などもそうですが親が子どもを自然に育てるように本能でそれを行います。自分が与えられたことを、同じように与えようとするのを自然に行うようになるのです。

与えるということは、与え合うということで与えれば与える程に御互いが繁栄していくというのが自然の法理であるように思います。しかしここに奪うというものもあります、御互いが奪い合っていくのなら衰退していくというのもまた自然の摂理のように思います。

松下幸之助にこういう言葉があります。

「十のサービスを受けたら十一を返す その余分の一のプラスがなければ 社会は繁栄していかない」

これは与えるということと奪うということの本質を述べているように私は思います。

人は与えられるばかりになってしまうと、無意識に奪う側に入ってしまいます。自分では奪っていないと思っていても、確実に与えられているのが生きているということです。人は独りでは生きてはいけませんから、沢山の周りの恩恵や御蔭様で自分が今日も生きて働くことができます。

そのためには周りが与えて下さっている以上に、いつも周りに与える存在にならなければ自然に奪ってしまうことになるのです。或いは、自分が与えていると思っていてももっと与えてもらっている場合もまた奪ってしまうことになるのかもしれません。だからこそ与えるにも大切な技術を心と体で場数を踏んでその与え活かすコツを掴まなければならないように思います。

そうして人生というものは、常に学び、その学びを常に発信していく必要があるように思います。なぜなら社會というものは、御互いに生きていくために学び合い高め合い道を歩む中で成長したという証明であるからです。

自分の存在がどのように社會に役立てることができるかが自明することが自立ですから、自分の生き方が社會に反映されていくのも事実です。だからこそ、自分というものが如何に与える存在であるか、受けた分よりも一つでも多く与えようと、相手の歓びに貢献していこうとするのが社會を繁栄させていくことだと思います。

そう考えてみるとあの目の前の植物も自分が生きることで周りの菌を活かし、昆虫たちを活かし、動物を活かし、地球全体を活かそうと日々を怠けずに精進しているように観えてきます。

常に与える存在でいたいと思うことそのものが、本能であり自然なのかもしれません。不自然な社會を癒していくのも、社會貢献したいと願う日々の行動と実践です。信を拡げる者として、与えていただいていることに深く感謝していきたいと思います。