逞しく生き切る~いのち~

先日、ある植物が虫から葉を食べられないようにするためにその虫が食べたがらない成分を体から出して撃退するという記事を読みました。これは植物を観察し育てたことがある人は分かると思うのですが植物は健康で免疫力が強いと虫がなかなか寄ってきません。しかしそれが弱ってくるとたくさんの虫たちが集まってきます。

例えば、冬に強い野菜が間違って夏にまで残っているとそこには大量の虫たちが集まって食べています。また時にはある虫だけが大量発生してしまい、大部分の葉を食べられてしまい弱るものもあります。他にも、地力が弱り日照りが弱れば体が弱まりますから病気になったり簡単に風で倒れてしまったりするものです。

健康であるというのは、自分の免疫機能を発揮させているということでもあります。

その免疫は「逞しさ」に象徴されるように思います。

この逞しいというのは生命力のことですが、その生命力が真っ直ぐに元気であるということです。

「逞」という漢字を調べてみると、之繞(しんにょう)と、まっすぐ差し出すという意味の「呈」とで、突き進んでいく姿を為しています。またよく使われるときは、身体が逞しいことよりもその意志の強さや活力があり頼もしいというときに用いられるように思います。

つまりはこの逞しさというのは、健康で元気が善いということになります。そして自然界における健康で元気というのは「挫けない」ということです。困難や障害に遭遇してもそれを乗り越える信(芯)の強さ、それをはねのけていくぞとい意志(心)の強さがあるということです。

もともと甘やかされるとなぜ弱るのかといえば、これらの逞しさが減退していくからのように思います。強く逞しく生きていくとき、人間は生命力が溢れていきます。困難で大変なことがあってもそれを強い意志で乗り越えようとするとき、元気は漲りそして根性が出てくるのです。

身近な植物を観察していても、身近な虫や魚たちを観察していても自然界の厳しい環境の中であらゆる事件に挫けずに立ち上がり真っ直ぐに生き切っていこうとしています。ちょっとしたことがあってもそれを成長の糧にして学びを深めて生命の道を正直に歩んでいきます。

そう考えてみれば「いのち」というのは、挫けずに諦めず挑戦するときに活性化し、逃げたり避けたり諦めたり投げ出したりするときに停滞衰退化するように思います。

どんなことがあってもそれを丸ごと善いことにしようという強い意志が生命力を高め自他を活き活きと逞しくしていくのでしょう。自分自身があらゆる困難と立ち向かって乗り越えていくことが子孫を繁栄させていくことにもつながるのです。

自分が負けず嫌いなのも元気な証拠であり、自分が諦めがわるいのも生命力が漲るからなのでしょう。

「日々に逞しく生きているか」、その自問自答が自然界で生き残るためには何よりも大切なことです。あの身近な生きものたちを見習い、天に対して正直に素直にいのちを生き切っていきたいと思います。

自然は厭わない

昨日、出張から帰ってくるとベランダの山椒の樹に沢山のアゲハ蝶の青虫がひっついていました。葉っぱが食べられ、丸裸のようになった山椒は少し可哀想な感じもしましたが、青虫を別の場所に移したので一安心でしょう。

そもそも生きものに害虫益虫の違いはありません。

人間の都合が悪いものは害虫で人間に良いものを益虫と区別し、好悪感情次第でその時その場で判断しているのがほとんどです。これは単に虫だけのことに限らず、自分に都合の悪いのはデメリットで自分に都合の良いのがメリットだと仕分けては自分勝手に判断しているものです。

しかし実際は自分にいくらメリットがなくても、全体で観たら大きなメリットがあったり、自分にとってデメリットだと思っていても長く広い眼で見たらとてもメリットだということもあります。

自分の都合というものは、ほとんどが視野の狭い自分の料簡だけで判別されているものです。これを価値観とも言います。自分にとっての視野は価値観が左右します。その価値観は今まで育ってきた過程で染みついてきた自分の考え方と判断基準のことです。

それを壊すことができないと、自分にとってのメリットばかりを追い求めては価値観に囚われ、その価値観が壊せずに狭まっていく視野に自分を閉じ込めてしまうのです。

よく価値観が柔軟かどうかが大事だという言い方をする人がいますが、これは素直に物事を受け容れることができるかともいいます。自分の都合を優先せずに、物事の実相を捉えることができたり、自分の我執を手放すことができ、本質を保つことができるということでもあります。

日々というのは、様々な出来事に遭遇しますがそれを自分の好悪感情で判別するのではなく、実相は何か、本質は何かで判断できることで全体の一部としての自分の大きな役割に気づけて自分の存在価値を実感できるように思います。

存在価値から物事を考えてみると、青虫にも大きな役割があります。青虫はその卵のときから蛹になり成虫になるまで、沢山の生きものたちを活かします。寄生する虫たちの栄養になったり、その他の動物たちの食糧にもなり、花粉の受粉を手伝い、死して朽ちては蟻や菌類のものになります。

自然界には一切の無駄はなく、一切の損得はありません。損得というのは、その人本人の価値観と自分の判断基準と都合で行われるものですから全体から観ればそれはないのです。しかしこれに気づかないとおかしなことになってしまいます。

例えば、先ほどの青虫でいえば自分の嫌いなことはしない、虫にも食べられない、蝶になっても動きたくない、死んだら燃やしてもらいたいとか、色々と要求をしていたらその他の生きものたちが困ってしまうのです。

同じように人間も一人では生きられないのですから、自分の価値観や都合ばかりを優先するのではなくどうすればみんなが善くなるか、自分がどうしていることがもっともみんなの力になるかを考えて我執を手放していくことで心も軽くなり感情も穏やかになるものです。

自分にとっての嫌悪感といった嫌な感情は、一時的なものです。そういうものを乗り越えてでも誰かのためにや周りのためにと動く時、自分が偉大な存在に見守られている実感を味わうことができるものです。だからこそ「自然は厭わない」ように思います。

厭わないで努力し、嫌がらずに自分から動いていくことで価値観は柔軟になっていくように思います。自分が自分がと我儘をすると孤独になるのは、そういう自然のありのままの存在価値から離れてしまうからでしょう。

そのものの存在をありのままに認めることは自分の生き方次第かもしれません。自然の観察を楽しみたいと思います。

絶妙な自然の運任せ~樹木の戦略~

先日から樹木について書いていますが、樹木には種を残す数々の戦略が存在します。それはその種を風や動物、または水や重力、そのものが弾き飛ぶことで散布していきます。

その種の蒔き方もそれぞれが独自の形態で進化していますから、巧妙にそれぞれのやり方で試行錯誤した結果として戦略が受け継がれていきます。

今の時代に残っている戦略もまた、時代の篩にかけられてそれを耐え抜くことができた尊い戦略ということなのでしょう。

その樹木から学ぶことは本当に沢山あるのです。

私がとても大好きな言霊の一つに、空也上人の遺したものがあります。

「山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」(空也上人絵詞伝より)

これを意訳すると、「山合の川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができるのだ。」ということです。

これを成語大辞典(主婦の生活社)によれば「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意だが、これを窮地から脱して安泰を得るという、世俗一般のこととして、このことわざは使われる。自分を大事と思って、我(が)に執着していてはなかなか道は開けてこないというのであると書かれています。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は広辞苑(岩波書店)では「一身を投げ出す覚悟があってこそ、窮地を脱して物事を成就することができる。」とあります。

先日、橡の実が池にポチャンと落ちては、小川を浮遊しながら水の流れにしたがって遠くへ旅をしていく様を見る機会がありました。障害物にひっかかったり、時には濁流に呑まれたり、色々と旅の最中は大変なのでしょうがきっとそこで流れ着いたところを受け容れるのでしょう。

種がどこにたどり着くのか分からないと不安がり、また水に沈むのではないかと心配したりしていたら種を落とすことはないように思います。もしも人間のように自分の都合で種のタイミングを計ったり、種を落とすのを出し惜しみしていたら、種を落とす間もなくそのまま枯れてしまうかもしれません。

実際はどうなるか分かりませんが、種がどのように広がるのか、それはまるで運任せともいえます。しかしこの運任せということに生き残る智恵が潜んでいるように思えてなりません。

自然界というものは、あるがままを受け容れ、あるがままを許します。その天地の恩恵の中に見守られている真心を感じているからこそ、疑わず自分の身を捨てても厭わないというような戦略を発揮できるように思うのです。

人間にはとかく我執がありますから簡単にはいきませんが、その戦略から自分を奮い立たせ学び直し、そして信じるという実践に転換してきて生き残ってきたのかもしれません。この橡の実の覚悟に人間が無常観を悟るのもまた、生死を度外視するいのちの真価に目覚めるのかもしれません。

周りを見渡せば、あらゆる実践事例に育まれて生きてきた仲間たちが沢山います。今年はイチョウとタブノキを中心に深めてみようと思っています。またブログで紹介していく予定です。

色々と世界の難題は山積みで時折、問題意識ばかりが頭を擡げますがこういう時こそ明るく開き直って絶妙な自然の運任せ、子どもたちのためにもその浮かぶ瀬までの旅を楽しみたいと思います。

 

 

子ども第一主義の旅~貢献~

樹木についての共生は運命共同体だと書きましたが、貢献についてここでもう一度深めてみます。

そもそも樹木に限らず、すべての生命は自分たちの種を遺すことを使命にしています。自分たちが今まで生きているということは、かつて様々な気候変動や環境の変化の中で生き抜いてこれた変化があったということです。

その変化は今の時代でも続いていて、常に生き物は変化に対して適応していかなければ子孫を残していくことができないのです。温暖化や寒冷化でもそうですが、その時代時代の変化の中で命を懸けて真摯に真心で生き切ったものが、次の子孫に突然変異をもたらし次代の環境に適応させていくのです。

例えば菌類などもそうですが、常に生まれ変わる中で変化をつくあげていきます。何世代も何世代も生死をめぐり繰り返す中でもっとも環境に適応する種を創り上げていくのです。

共生も同じく、そのものの種を遺すために、その環境や人物と調和していこうとする力、種を遺すために共存共栄していこうとする意志がいのちの中には存在するということです。共に歩む者たちが似てくるのも、共に必要としあう物たちが近づいてくるのも、同じく共存共栄の定理に沿ってのものです。

そして貢献というものは、自然界ではどういうことかといえば生きている過程で大きな無駄を発生させていくことです。

例えば、樹木でいえばドングリなどもそうですが何万個の種を地面に落としてはほとんどすべてが何かしらの生き物たちの食糧になります。その中から1本以上の木が実をつけることができればそれで繁栄できるのです。ほかにも、果実を持つ樹木もたくさんの果肉を提供しては種を飛ばしてもそのほとんどは人間からみれば無駄を発生しているように感じるものです。

しかし発展と繁栄というものは、その無駄多きことの中に存在しています。その無駄はそのものにとっては無駄であっても、周囲にしてみれば決して無駄ではないのです。

人間は軸足が自分にだけ向いていると、その無駄を嫌うようになるものです。自分の物差しで価値を判断し、自分にとって利益があるかないかでその無駄を測るのです。しかし実際は、その一見無駄とも思える中に他への貢献があります。だからこそ自然は、貢献を重んじるのです。

「自分が一生懸命に真心で生きればそれが誰がのためになる、自分の実践が誰かの勇気や元気になる」という言葉も貢献を志す言葉です。貢献したいと願う理由は、そこに確かな子孫繁栄への道筋が存在しているからです。

貢献していくための無駄というものは、その人物にとっては無駄でも、決してそれは全体にとっては無駄ではありません。如何に周囲のために自分を使い切っていくか、如何に全体の為に自分を遣り尽くしていくか、その行動と実践、それが人事を尽くすということです。

そうしていえば、天や自然が必ず善いことにしてくれるということを生き物たちは直感しているのでしょう。進化というのは発達と発展であると私は確信していますから、その発達と発展とは、共生と貢献であるということです。

自然は当たり前の真理を私たちに思い出させてくれます。知識ばかりが多くなって、シンプルな本質も分からなくなっているようでは刷り込みに負けてしまうのは当然です。

最後に種は旅をするということを教えていただきました。旅とは古くは、タベ(たまわれ)とかタビ(他火)という語源が示すように旅は苦行ともされていたそうです。生業を旅まわりともいうように旅を通していのちは無限の生長を已まないということでしょう。

旅そのものが学びであり、旅そのものが人生なのだから、旅を通して浄化し刷り込みを取り払い、常に苦しいながらも楽しむこと、その進化と変化そのものが愉しいというような一期一会の「子ども第一主義の旅」を味わっていきたいと思います。

社會徳

ここ数日、社會に関することを書いていますがそもそも社會をつくる仕事とはどういうことかということを掘り下げてみます。

そもそも社會というのは、人間が一人以上存在する中で成り立つものです。もし無人島に一人で生活するのなら、別にそこに社會は必要ではありません。当然、生きていくためには人間以外の生き物たちといきていきますから広義でいえばそこにも社會はあるとしますが今回は人間社會ということにします。

つまり人間が一人以上になれば社會を形成しますから、社會を形成するというのは人格を形成するということです。人格を形成する必要があるのは、そこに道徳がなければお互いを尊重し合うことができなくなるからです。道徳とは自然の一部である自覚のことです。

先ほどの無人島であっても、人間がもしも道徳から外れるならば島にあるものを全て殺傷し搾取し、あっという間に島の生物たちが死滅してしまいます。そうするとその人間も終には死んでしまいます。そこに人格が形成されれば、社會を活かそうとし周りを助けて自分も共に生きて貢献する道を選んでいくはずです。そうすればお互いに長くその島で幸せに暮らしていくことができます。

このように社會を形成するというのは、その人格を形成するということです。そしてこの人格形成というものが私にとっては教育の本義です。教育とは社會を形成していく人材を育てていくために行うものでしょう。つまり見守る=保育に対して、人格=教育というのを根底に持つのが本来の日本人の民族性からの言葉の意義でしょう。

それを忘れていくら難しい議論を戦わせても、結局は欧米文化の枝葉を揺さぶっているだけで自分たちの持っている日本人の精神を活かしているわけではないのです。

話を戻せば、社會というのは道徳によって行われるときもっともお互いを尊重し合う平和で豊かなものになります。そのためには、人間から道徳をどう引き出していくか、道徳をどう高めていくかということが基本になるように思います。

孟子は、惻隠の情といって人間はもともと善であるという言い方をしました。この善は善悪の善ではなく、そもそも天が与えた天性と天命を持っているという意味での善であると私は定義します。

そういう天の化身が人間なのだから、天の真心を持つ人間から道徳を引き出していけばいい、政治はそうあるべきであると説いているように思えるのです。

だからこそ如何に道徳を引き出していくかは道徳を教えることではなく、その人を信じて見守りその人の善いところを認めて褒めて表彰していくことのように思います。

二宮尊徳は、徳に報いるという言い方をしました、報徳のことです。人間には誰にしろ必ずその心身に徳を享受されている。その徳を引き出し報いようとすることに社會の社會たる価値があるのでしょう。

如何に社會に徳を引き出していくか、ここからが新たな挑戦です。

個性の真価

人は自分の能力の如何で自分が役に立ったかどうかを自分で判別しているものです。能力が高いと一般的に言われるのは、他の人ができることが自分もできるということです。

しかしそれができない場合は、能力が低いと言われ自分が役に立てないと感じてしまうのです。先日も有能と有用の違いについて書きましたが、有能というものは能力があるということで有用は役に立つということです。

そして私は本来の有能も有用もそれは個性のことだと思っているのです。

人はその人らしさを発揮していれば自ずから有能が発揮され有用になっていくように思います。組織の中で、自分が周りと同じことがたとえできなくてもその人らしい個性が組織で存分に発揮されていればそれがもっとも価値があるのです。

例えば、明るくて楽観的で前向きな人はその人らしくいれば周りに元気ができる存在になります。他にも冷静で客観的で安定感のある人は、周りに的確な判断を与えられる存在になります。他にも慎重で丁寧な人、実直でコツコツの人、繊細で優しい人など、その人の個性そのものが周りを活かし豊かにするのです。

個性を発揮するというのは、自分がその自分の個性を認めその個性を積極的に発揮していく必要があります。周りと同じようになろうとか、周りと同じことができるとか、そういうものを能力だと勘違いせず、自分の個性そのものが周りのための有能さ有用さなのだと発想を転換することで自然に周りを活性化していくのです。

自然界というものも同じく、そのものがそのものらしく生きているだけですがそれだけで周りを活性化するものです。すべては自然の一部なのですから、その一部が発揮されれば全体が発揮されていくのです。

しかし人間は自然の一部であることを忘れて、自然から離れて自分で完結することを自立だとか勘違いしてしまいました。組織から離れて自分のことは自分でできることで迷惑をかけていないなどという人もいます、しかし本当にそうでしょうか。

迷惑をかけないというのは、迷惑をかけているという自覚であり、それは自分が全体の一部である自覚を忘れないということなのです。社會というものは自然と同じです。つながりの中で一部として存在しているのですから、つながりが断裂しないように常に慈しみ手入れをし、つながりの中で自分の個性を発揮させることでみんなの仕合せに貢献しようということが働くということでもあります。

仕事だけできるなら能力さえあればいいのでしょうが、仕事ができないのも能力のせいにしてしまうなど言い訳になります。そうではなく、働くというのは如何に自分自身の個性を発揮してみんなの御役に立つかを積極的に実践するということなのです。

これは私の確信ですが「自らの個性を活かす時、その存在そのものが誰かの御役に立つのです。」

自分の存在が役に立っていないなどと嘆き文句を言う前に、では自分の個性を発揮しているかと自分と正対し間違った考え方を払しょくすることのように思います。

自分が自分らしい時、それが有能であり有用なのです。

個性とは、天の命じたその人の一個の天性です。その天性を活かしなさいと天は私たちに与えたのです。それを私物化して活かさなければ周囲から奪う存在になってしまいます。もしもその個性を周囲のためにと発揮するならば、それは天が与えたものを周りの人々へと与える行為になります。

奪う側か与える側か、これも生き方働き方、自分の積極的な心がけ次第です。

環境や状況に左右されずに発揮すべき真価とは「個性」なのでしょう。
自分らしく輝いているか、これは自立をテーマにする私たちの本義です。

自助精進

昨日、昔から私たちと一緒に理念を取り組んでいる園を、これから一緒に理念に取り組む園が見学に伺いました。もう6年も前から一緒に実践を高めて取り組んでいますから気心も知れているのですが、改めて学び直すと本当に多くのことに気づかされる素晴らしい一日になりました。

人生には無駄がないというのは、決して無駄になっているものはない。その一つ一つに気づけるかどうかは自分次第であり、その事物から教えていただくことの方が確実なのです。

過去に共に歩んできた軌跡が如何に有難いことだったか、誠実に正直に取り組んでお互いに信じてきたことが如何に価値があったのかは、振り返った時にこそ味わい深くなるものです。

信頼というものは、信じて認めるということですが一緒に真剣に取り組んだからこそそれが強い絆になって今を照らすのでしょう。同じような悩みや苦しみがあり、そしてそれを乗り越えたものもこれから乗り越えるものも共にその大切さに気づけるということは道を一緒に歩んでいきましょうという無言の励ましになるのです。

他人が実践し踏み固めてきた道を観れば、それを観て元気を出るのは諦めなかったという心の姿勢に触れるからかもしれません。理想に向かって信じて歩んできた仲間たちの存在は心強く自他を愛し励ますものだと改めてご縁に感謝する日になりました。

特に感謝したのは、一緒に取り組んできた理事長の一言です。

如何に人が定着するかという話の中で理事長が大人も子どもも同じことですという話です。他人が居心地がよくなるのは子どもならどうか、

まず一つ目が「ここは僕の部屋だよ。」と子どもが感じていること。そして二つ目が「大好きな先生がいる」こと。そして三つ目が「大好きなお友達がいる」ということと教えてくださいました。

これが大人であっても同じことで、その職場は自分の家だと思えること。そして大好きな上司や大好きな仲間たちがいればそれがもっとも居心地が善いと仰っていました。

そのうえで、美味しい給食、色々なイベントとか、その他の処遇とかのオプションがあればいいとありました。

そして「この保育園の一人だと思えることが大事。」だと語られました。これは言い換えればこの組織の一員だと思えることが何よりも大事だということです。

自分がこの一員であることに誇りを持てるような関係になることがもっとも有難いことかもしれません。本気で理想を求めて已まず実践を励まし合い助け合い、どんなことがあっても前に進む、いや、進んでこれたという大好きな自分を持てる人が一人でも増えることが遣り甲斐であり働き甲斐だからでしょう。

実際は大変だったし今も大変ですと同時に仰られる姿に、ご縁と出会いがあったことに深い感動がこみ上げました。一つのことが結実するのは数年から十数年、もしくは数十年、数百年とかかるかもしれません。

しかしこの道は一度しか通らぬ道、もう二度とは通らぬ道なのです。

恥じないように誠実に取り組んできたことが、形になることは本当に有難いご縁に見守られ支えられた日々があったという証明です。饅頭を増やすよりも餡を増やせという言葉の意味も改めて深く腹に落ちてきます。

まさに「天は自ら助けるものを助く」です。自助精進こそ進化成長の要諦ということなのでしょう。

引き続き、人が仕合せになる仕組みを人が徳に報いる自らの実践を怠らず日々を真摯に高めていきたいと思います。

 

愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。

天才~いのちの法理~

人間には誰にも天与の才能があります。

これは天は、あまねく人々すべてに何かしらの役に立つ才能を与えているということです。一見、何の才能もないように感じることもありますがそれは役に立てるように才能を使っていないだけで何か必ず役に立てることがあるのに出会っていないだけともいえます。

人はその天与の才能があることを忘れて、才能を私物化しようと様々な能力を求めます。しかし実際に与えられている才能は人それぞれ異なり、それを活かすことの方がいのちも歓ぶのです。

なぜ才能を私物化してはならないかといえば、不必要なものを生んでしまうからです。誰か一人が完ぺきに才能を持ち、ありとあらゆることを自分で完結してしまうならその時、必要と不必要が発生します。

できる人は必要でできない人は不必要になります。みんなが一斉に同じことができるようになれば、それができない人たちは要らないということになってしまいます。たとえば、極端ですがお米以外の作物は必要ないといってしまえば、どの野菜も全部お米のように改良するとします。そうであれば、お米以外のものは人間には必要がない、不必要だから邪魔な存在になるのです。

実際に、人間の都合や自分の都合で要るとか要らないとかを分別するほどにこの世から不必要なものを排除しようとしているのです。都市を観てもわかるように、人間社会に要らないものは置こうともしなくなっています。

本来は、八百万の神々がいるこの日本は、すべてのものには何かしらの神様が宿ると信じられてきました。ゴミと西洋では呼ばれるものでさえ、私たちの国の神話ではそこに必ず神様の名前があり、それを尊び守り重んじ大切に祈りを捧げてきました。

私たちの祖神、先祖たちはこの世には一切の無駄はなく、一切の無用もない。すべてが神様の化身なのだからそのいのちを大切に使われていただきますという姿勢でいのちを活かしてきた民族だったのではないでしょうか。

今のように循環しない、ゴミや無駄や不必要に溢れた世の中になったのは天与の才能を人間に都合がよい才能だけにしてしまおうという傲慢さの現れではないかと思います。

あの雑草と呼ばれる草にも、害虫と呼んでいる虫たちにだってとても大切なお役目があります。その御役とは、天才があるということです。みんな生きているこの世のすべての生命は、天与の才能が与えられているのです。

その才能が適材適所に配置されるとき、この世はまるで楽園になったかのように幸福な世界が顕現するのです。

才能を無駄遣いしないというのは、自分にしかできないことをやることです。言い換えれば、自分の天才を活かすことです。天才は、何でもできることがいいわけではなく、自分のままでも世界の御役に立てる方法を自らが発見発明していくことです。

そして真の教育者とは、そういう天才の徳を見出し、その徳を活かすために配慮し、環境を用意しその発育や成長を見守り「いのちの働き」を活かすものだと私は確信しました。

今の時代は、知識を教え込み、天才を無能にしてしまうようなことを刷り込みます。しかしそのことからいのちが悲しみ嘆き、自分は何者なのかと苦しみ病気になる人たちが増えています。働くことで仕合せを感じていたはずが、マニュアルによって仕事ができるようにさせることでより一層いのちの使い方を間違い、そのことからさらなる無駄と不必要をつくり、それを解決するために膨大な資金や労力を使わせています。

先祖たちはいのちの法理を知っていて、この世には一切の無駄がない、神々がいる世界にこの世を近づけていたのです。それをこの100年程度の西洋の文化がすべてにおいて優っているという思い違いが氾濫することで、私たちが先祖代々、何よりも大切にしてきたいのちの法理をも忘れてしまうのは本当にもったいないことだと思います。

私の志す、かんながらの道にはいつも八百万の神々がその見えざる姿、聞こえざる声によって自然を通じて何が大切かを親切に手ほどきをしていただきながら教えてくださいます。自然から学び直していると、自然は一切の無駄がなく一緒につながり絆を育みながら共生しあい貢献しあい、あるがままにそのままに天才を活かし仕合せを生きています。

子どもたちにはそういう世界を譲っていきたいと切に願います。

三つ子の魂の救済を、ご縁と支えられている皆様への御恩返しとして自らの天才を存分に発揮しつつ実現させていきたいと思います。

文化と誇り

先日、ドイツと日本の比較の中で空調についてのことがテレビで放映されていました。日本ではほとんどが空調をつけて夏を対応しているのに対し、ドイツでは窓の内外のブラインドを効果的に使うのでほとんどの家屋で空調すら設置されておらず暑さをうまくしのいでいるという話でした。

そしてどちらが環境に優しいかということで比較されていて、日本の家屋はそういう意味でドイツには劣るというようなことを伝えていました。

そもそも不思議に思うのが、日本の家屋といっても今の日本の家屋は欧米から輸入されてきたものです。今はほとんどの住宅がアメリカ式に改造され、部屋のつくりも建て方も、そして内装や家具までほぼ欧米そのものです。

私たちは明治時代から、欧米の文化を取り入れかつての自分たちの文化を否定して近代化といった短期的パワフルで利便性の高いものを取り入れてきました。自然を相手に悠久を生きた時代とは異なり、植民地的に支配する人間を相手に自分たちを守るためにと戦ってきました。

しかし戦後に、戦争に負けてしまいほとんどがアメリカ文化によって日本の文化を改造され今では何がもともとの文化だったのかが分からないほどになってきています。それは食文化しかり、農文化しかり、生活文化しかり、働き方から生き方にいたるまで、欧米のものにとってかわられました。

先述したドイツと日本の家屋の違いについては、本来の日本家屋は和式であり、よく地下から地上へと自然の風が抜けるように建てられていました。そして夏は涼しく冬は暖かく自然物をうまく活用し、夏に至っては風鈴や打ち水、スイカなどあらゆる工夫で涼しくしていたのは私たちも同じです。

それを今では欧米と比較され、欧米の方が環境先進国だと謳われ、それを真似をするというのはどうしたものかと不思議に思います。以前、訪問したドイツやオランダは日本の文化を研究し上手に自国の文化に取り入れていました。

しかし私たちの方は、自国の文化が消失していますから取り入れることができず単なる真似だけになってしまうのです。これでは何が何だかも分からない人たちになるのだから単なる真似しかできないのです。

取り入れることができるというのは、自分があるということです。文化を吸収することができるというのは、自分の文化をちゃんと自覚習得できているということです。畢竟、多様性というものは代々受け継がれ継承してきたものの上に積み重ねて改新していくということなのでしょう。

だからこそその土地、その場所、その人にその文化があり世界がどのような気候変動や変化があっても智慧を重ね合わせて生き残ることができたのがいのちの理なのです。

人が自信を失う理由は、自分がないからです。自分があるというのは、本来の自分が何でできているか、本当の自分がどういう暮らしをしてきたか、歴史というよりも文化そのものである自分に誇りを持つことが風土を生き抜いてきたという自信になるのでしょう。

祖神たちの願いに思いを寄せれば、今の自分たちが何を残し何を譲らなければならないのかを自覚してきます。世界観というのは、すべて今を生きる私たちが担うものです。時代は急速に世界の距離を近づけているからこそ、もう一度日本とは何か、自然とは何か、自分とは何かを大事に学び直しを続けていきたいと思います。