遊び心~画一ではなく個性尊重を大事にするということ~

今の日本社会や組織の問題を見つめていると、画一化という教育とは何かというのが観えてきました。ほとんどの場所では、同じことを周りと同じように平均的に行うことが良いと教えられ、それを目標に刷り込まれてしまうと他とは異なるということをあまり良いことだと思わなくなります。

周りと同じであるかというのが平均ということで、その反対が独創というものです。

人と異なることを行うにはユーモアが必要です。これを日本語では遊び心というように思います。そしてユニークな個性が必要です。これを日本語では自分らしさというように思います。

日本人はもともと独創性をあまり重視せず真面目に周りと合わせていく中で困難を乗り越えようとしてしまいます。これがマジメすぎてアソビを失う原因ではないかと最近感じるのです。

以前、オランダに訪問した際、ある子ども主体の教育のコンサルティング会社の代表者より私が大変ユニークだと褒めてもらったことがあります。人と異なることを行い、それを愉しんでいるからという理由だったのかもしれません。そしてそれが我々が目指す子ども像だとも付け加えられました。

人と異なることをしないというのは画一化ということです。それはみんなを正解に従ってその答えになるようにコピーしていくということでもあります。そうやってコピーされていたら、マジメにやれるようにはなってもふざけたことはしなくなってしまいます。

特にふざけたことをすれば常識外れだと罵られたり、変人だと蔑まれたりしていればそのうち誰もそういうことをしない方がいいと思うようになっていきます。

しかし本来、一人一人の人生は別物であり同じことはありません。他人の人生は参考になったとしても同じ人生など歩めることもありません。だからこそ自分は自分なりに独創性をもって事に挑み、新たな道を常に切り開き続けていかなければなりません。

その時の正念場は、周りと同じことをしないということです。

そのためには、きっとこれで合っているといった固定概念に縛られないことだと思います。常に新しい発見と発明を繰り返しては、それを試行錯誤する。その中でユニークさもユーモアも磨かれていくように思います。

硬直した組織は必ず遊び心を失っていますし、硬化した人間関係も同様に遊び心が亡くなっています。

世紀の大発見も、時代を揺るがす大発明もすべては遊び心から産まれるものです。それはもっとも自分らしい姿から誘発されるものです。マジメでもフマジメでもなく、遊び心満載のふざけた生き方が硬直硬化した自分自身を解放してくれると思います。マジメそうにしてサボっていることの方がフマジメだと思いますから、いい加減にみえても本気であることの方が自分らしいと私は思います。

大人になるというのはサボらないこと、そして周りをコピーすることだというのはあまりにも虚しいものです。いつまでも子ども心を大切に一度きりの人生なのだからもっと遊んで愉快に道楽を歩んでほしいと思います。子どもたちにはいつもいつまでも愉快痛快に個性尊重し生きる自分の背中をみせていきたいと思います。

幸運の人生

人生を思いかえれば、ほとんどは計画していない出来事によって構成されているのに気づきます。言い換えれば、行き当たりばったりということです。これを辞書で調べると、計画をせずにその場その場のなりゆきに任せることと書いています。

そもそもこの言葉は、無計画や計画の甘さで使われるようになっていますがもう一つ別に意味が潜んでいるように思います。

それは出会いを大切にしているということです。

人は人に出会うことで人生の岐路が大きく変化します。思い返しても、あの時、あの人に出会わなければと思うと、計画していなかったことばかりに運命が導かれていることを実感するのです。

同じ行き当たりばったりでも、感情に左右されたくないから考えたくないのか、それとも信じているから考えないのかでは天と地ほどの差があるのです。

世間の行き当たりばったりは、感情に呑まれてしまいたくない嫌悪感からそういう生き方を選んでしまいます。本来、ちゃんと段取りをして配慮しているからこそ行き詰まることもありません。何かあったらどうするかを常に考えるのは、問題意識と危機意識、役割意識の自覚が高いからです。これは確かに怠ると周囲に迷惑をかけてしまいますから、行き当たりばったりではいけないというのは分かると思います。

しかしもう一つの行き当たりばったりは、そもそもの自分の人生を信じているのです。運命というのは、天が与えた性に正直であるほどその人の運のままに流れていくように思います。無理をせず無為自然に運に任せて運が善いというのは天が与えた自分の人生を信じているからです。

信じているからこそ、「これで善いのだ」と判断でき、行き当たりばったりの直感に従って自分の人生を味わい楽しめることができるのです。時として計算していないのですが、その分、一つ一つの出会いを大切に真剣に生き切っています。

世間的な安定も安心もそれは周囲の評価や常識の中で計算されたものです。しかしそういうものではく、体験した後に自分はこういう人生だったのだと振り返れる幸福の今を生きているといっても過言ではありません。

どうせ人間はいつかは死ぬ日が訪れるのですから、精いっぱい生きようとするのは自分のたった一つの人生を信じているということです。

出会いを大切にしていく生き方というのは、来たものを選ばないということです。そしてそれは自分の思い通りではなくても、思い通り以上のことが起きていると信じているということです。天に任せて人事を尽くすという「最善」を実地実行する至誠の生き方です。

運の善さというのは、一期一会に人事を尽くす人に着いてくるのでしょう。

大人のように計算高くなるとそのことで正直ではなくなります、子どものように正直に計算をしていなくてもその時その時を一生懸命に生き切る童心を大切に守り育てていきたいと思います。

真心の醸成(志道と志事)

吉田松陰の志というものは、多くの志士の心を動かしました。

そこには志というものが何か、そしてそれは何をもって志が育っているのかということを自らの背中を通して塾生に語り掛けました。周囲からは狂人と呼ばれ、危険人物として疎まれました。

本来、志高く歩む人を理解するというのは周りからみれば変人の類なのかもしれません。一般的な姿と考え方も異なり、見た目も異なり、素行も異なるのは、常識の枠に囚われることがないからです。

吉田松陰もその時代には常識的に理解されず、それでもそれを貫きました。たとえば、友との約束のために脱藩をします、今では外国に亡命するくらいのことです。そのあと黒船に乗ろうとします、これは宇宙船に乗るようなものです。そして安政の大獄の真っただ中、仮保釈中に老中暗殺のために武器を藩に願い出ます、これなどは仮出所中に銃や武器を国家や裁判所に貰いたいと嘆願するようなものです。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という言葉も遺ります。塾生たちに遺した言葉には「諸君、狂いたまえ」などという言葉も残っています。これなどは、「もっとおかしくなりなさい、遣り切りなさい」と他人と異なってもいいからもっと変人になることを奨めているのです。

なぜこうすればこうなるとわかっていながらもこれをやり遂げたのか、そこには本人にしかわからないものがあったのだろうと私は思います。

吉田松陰の立志という生き方はまずこれらの言葉に見られます。

「志を立てて、以って万事の源となす」「志定まれば、気盛んなり。」

すべては志からはじまり、そして志におわるという意味でしょう。そして志は覚悟が決まれば、気が満ち溢れ燃えているはずだというのです。

そして孟子の下記の言葉を引用して「講孟余話」という授業の中で弟子たちに発奮激励を語ります。

「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」

意訳ですが(志士ならば道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟し、真の勇士は志のためならばいつ首をとられてもよいと覚悟を決めているのだ)という意味です。

そしてここにはこう続きます。「書を読むの要は、是れ等の語に於て反復熟思すべし 」と。

志士が本を読む意味は、これは孟子のいうところを繰り返し繰り返し読み直しその書いている本人の真心に透徹するまで思うことであると。読むというのは単に字を読めばいいのではなく、志で道を切り開く同志を思いそれに志心を奮い立たせていくということでしょう。

吉田松陰の志道というものは、決して仕事ではなく志事であったのです。

言い換えれば、人生を懸けて志を貫こうとし、それを塾生たちが感じ取ったのです。吉田松陰は出来合いの指導などを行っていたのではないのです。では塾で何を行ったのか、それは志道と志事を実践していたのです。

その塾生の一人、高杉晋作はこう言残します。

「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大ばか者なり」

そしてもう一人、高杉と合わせて塾生の双璧と呼ばれた久坂玄瑞の言葉で締めくくります。

「私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない」

私の志も、あの天高く広がる宇宙のほかに知る人はいないという心境です。別に誰に分かってもらう必要もないし、誰に知ってもらう必要はない、ただ自分の志道を貫くだけというのがこの志の道の目指すところなのでしょう。

色々な出会いがあり今がありますが、易経の「潜龍用いるなかれ」、その信念を日々に棲む水面に憂いつつもその真心を醸成し、確固不抜の志を高めていきたいと思います。

立志という生き方

人にはそれぞれに生き方というものがあります、同時に働き方というものもあります。私たちは生き方と働き方を一致するということを目指していますが、これは志を育てるためです。

そもそも志というものは、最初から誰でも持っているわけではりません。生き方を定め、言行一致させていく中ではじめて志は育っていきます。そしてその志は、様々な現実の中の紆余曲折、艱難辛苦の中で、それでも自分は生き方を貫けたかどうか、言い換えれば道を切り開き脚下の実践を遣り切ることができたのかという内省により醸成されていくものです。

志を持つのも育てるのもその人次第です。

途中でそれを已めてしまえば、世の中の安逸の中であっという間に自分の生を終えてしまいます。人の人生はとても短く、志を育てていかなければ気がつけば何をやっていたのかと悔いてしまうことにもなりかねません。自分の生き方と向き合うのは自分にしかできませんから、それに生き方には嘘がありませんし他人のせいにもできませんから志とはもっとも身近で自分のことを信頼する伴侶そのものになっていきます。

吉田松陰は、塾生との手紙のやり取りの中でその志が育つような数々の叱咤激励を送っています。

たとえば、塾生の山田顕義へは「立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。 身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。 百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ。 」と記します。

これは私の意訳ですから意味が違ってくるかもしれませんが敢えて訳すと、「志を立てるのならば他人と異なることを恐れてはいけない、世俗のことや常識の中でそれを実践するのはとても難しいことだ。しかし世間の常識に囚われれば自分の身の保身ばかりを思い煩い、目先の安楽安逸に流されるばかりになるのです。百年という月日は一瞬に過ぎないのですから、君子は決して現状に甘んじるんではなく志に生きるのですよ。」と。

これは山田顕義が15歳の元服(成人式)の時に、吉田松陰が扇に書いて送ったものですが何を優先してあなたは生きるべきかとその初心を塾生に自らの生き様で与えています。

そしてさらに感動的で印象に残る叱咤激励に塾生の高杉晋作に送った手紙があります。
そこにはこうあります。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。」

これはそのままに味わってほしいものです。吉田松陰と高杉晋作が如何に志で絆を結び、共に不二の道を切り開いていたのかが分かり感動します。死を前にしての、生を語り、その生き方を示しています。

そして志を立てることを最期に述べます。

「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

これは私の人生観からの意訳ですが、「もし死んだとしても志がそれで立てられるのならいつでも死んでもいい。しかし生きて志が立てられるのなら生きることだ。常に志を求め言うのなら、常に自らの生死のことなどは度外視して志は語るものだ。」

「立志」という生き方。

これを実現したのが松下村塾なのでしょう。

孟子はこう言い遺します。

「自ら反りみて縮くんば、千万人といへども、吾往かん」

そして孔子はこう言い遺します。

「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」

引き続き、君子の道とは何かを自問自答しつつ覚悟を育てていきたいと思います。

 

自由自在~性格との邂逅~

先日、芥川龍之介の「運命は性格の中にある」という言葉に出会いました。

これは自由というものを深めている中でとても大切なキーワードではないかと思います。自由というものを引き続き深めていますが、自由というものはその理解も言葉の定義も使う人によって異なります。

世間では一般的には、不自由に対しての自由で用いられます。これは自分を縛っているものから解放されるという意味や、自分の思い通りになることを自由とも言っています。しかしこの自由というものは与えられる自由のことを刷り込まれているだけで本物の自由とは程遠いものです。

刷り込みの自由というものは、何かと比較しての自由であったり、何かよりもましだと実感するときに与えられるものです。他にも権力や管理によって、その中で与えられたものも自由だと思い込んでいるのです。

では真の自由とは何でしょうか?

それは自分自身になるということです、自分らしくいるということです。これはあるがままの自分になるということ、自由自在の自分でいるということです。これを孔子は、50にして天命を知るとありますがそれだけ内省が深まり、自分自身の性格を悟ったということなのでしょう。

私はまだまだよくわかっていませんからあと十数年の学問の楽しみがあります。

性が象ったものがどのようになるのか、それは自分がどのようなものかを言います。自分の性が何を求めて、自分の性がどこに向かうのかを自らが知覚するとき運命というものが顕現するように思います。

つまり性格というものは、その運命によって象られる。自分の性格次第で運命が決まるという意味なのでしょう。その性格をどのように育てていくか、それが本来の学問の意味なのかもしれません。

性格を善くしていくには、元来の性格の善さだけではなくその性がどのように伸びたいのかに随って自らの道を正しく修めていく必要があります。正しく体験するというものですが、これは自らを磨き続けて自分自身になっていくということです。

この自分自身というのは、本来は産まれながらに純粋な自分の魂をより磨き、その魂の穢れを取り払い続けるように心を清らかに澄ませていくことで自分とは何かを悟るようなものです。

一つ一つの事件も出来事も、その人の性格が出ているともいえます。その人にしか起きない出来事はその人の性格がそれを呼び込むのです。性格が善くなるというのは、自分自身との真のつながり、本物の自分になるということを意味するのでしょう。

人は出会いによって自らを高めていきますから、自分の性格が何と出会っているのか、そこには本当に深い関心があります。これからも自らの直感のままに自由自在のかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

主体性とは

自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。

私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。

つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。

そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。

本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。

そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。

その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。

本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。

人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。

これを論語、「中庸」ではこう記されています。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」

天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。

本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。

子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。

まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。

自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。

主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。

自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。

自然の仕組み

人間は学ぼうとすればどこからでも学べます。道を極めようと精進する中で、道の奥深さや道の弘がりの楽しさを知ってしまえば人は学ぶことを已めません。学ぶことは生きることですが、生きることは道を歩むことであろうとも思います。

最近、ある発見をしたのですが人間はウィルスに感染して体調を壊すことで風邪をひきます。そもそも私たちの身体はミクロの世界の集積で存在できているといっても過言ではありません。

腸内細菌から皮膚の常在菌といった菌類から、もっと小さな各種のウイルスが私たちの身体に宿っています。この宿る仕組みにも自然が入っているのが自明します。

一般的にウイルスが身体に侵入すれば、そこから一気に増殖していきます。それを退治するために免疫細胞が働きウィルスをやっつけては追い出そうと熱をだし、体の隅々までフル稼働して崩れたバランスを取り戻すために自然治癒を行います。

この時、それでも増殖をしようとするウィルスは消滅しますが宿主と共生しようとするウィルスは残ります。言い換えれば、宿主を破壊しようとするウィルスは次第に数が減少し、宿主と共生して種を遺そうと選択したウィルスはそのままそこに残り宿主を守る側として生き残るのです。

つまりは風邪をひけば免疫がつくと科学では証明されていますが、実際はウィルスも変異し一緒に共生し貢献する方を選択するのです。

これは自然の法理の一つです。

自然界では、様々な生き物が温度や湿度によって大量発生したりまた激減したりを繰り返します。微細なバランスの中で、ある一定の数が行き来するのです。これは種を遺すためのそれぞれの生命の戦略であり、それらの生命が地球に宿りつづけるために繰り返される自然の仕組みでもあるのです。

人間から見れば、守るとか守らないとかは人間のみを中心に考えているものですが自然界ではバランスを守ろうとします。そうやってそれぞれが発生しているのには、バランスを守ろうとするための大切な働きがあってのことです。

ここから考えてみればすぐにわかりますが、自然に沿っているかどうか、自然に自らが近づいて共生するかどうかは、ウィルスと同じく自らで選べます。いつまでも増殖を続けていけばそのうち天敵により減退していきます。増殖よりも共生を選べば少しでも長く宿主のお役に立ちながらともに生きながらえることもできるのです。

これは地球を宿主と見立てた時に、それぞれの生き物たちがどのようにしているかを観れば仕組みは一目瞭然です。太古の人間たちもその生き物たちの仕組みに外れないように共生を優先しその自然の仕組みを生活に取り入れていたのです。

欲に塗れて増えすぎていたらどうなるのか、私たちは自然から学び直さなければなりません。

このように種の保存というものは、身近な自分の身体(自然)の中からも学び直せるものです。ミクロの体験からマクロの体験までバランスよく味わっていきたいと思います。

王道経済

先日、偶然にアルビントフラーの「第三の波」の一説に出会うことがありました。

この第三の波とは何かといえば、トフラーは、経済的パラダイムシフトを「波」と仮定して社会の趨勢を予知し第一の波、【農業革命】では狩猟採集社会であった社会が農耕技術の伝播によって農耕社会へ変わる。そして第二の波、【産業革命】では18~19世紀に興った産業革命による社会システムの大幅な転換をする。そして次に第三の波、【脱産業社会化】では産業社会化からの脱却、情報革命の社会へと突入すると定義しています。

そして情報革命の中で大量生産・大量消費を前提に組立てられた諸システムはもはや限界であると看破しています。言い換えれば、もう今のような社会は限界で大きく変えなければならないと言及しています。

今の時代は短期的に見て良い方ばかりを優先する価値観が蔓延しています。長期的に見てとか伝統的にとかいう時代ではありません。農耕一つに観える育成の智慧をとってみても、食という文化そのものの保存法にしてみても先祖、祖神たちは先々のずっと先の社會を見据えて私たちに生き方や働き方を指導してくださいました。

言い換えれば、人間を正しく導くことで永続し共生する世界を遺そうと尽力してくださっていました。その徳や恵みのお蔭で私たちはこの地球上で仲良く幸福に暮らしていくことができるのです。

しかし今の社會は、自利や欲望が際限なく追及され世界はまるで暗がりの中に入っていくような感覚があります。国家間の問題も、利害関係からでしか語られず、善悪や本質で話し合われることが少なくなってきています。

これは人間自体を如何にお互いが高め合おうかというような議論ではないことは一目瞭然です。人間は仲良くなるのに、堕落していく仲間と、高め合っていく仲間というものがあるように思います。真の信頼関係とはお互いを尊重し、明日の敵は今日の友のように切磋琢磨しお互いを許しあって助け合ってご縁を大切に生きていくことのように思います。

そういう精神性を磨き高めてきたのが、私たち日本人の崇高な理念の中にはあるのです。武士道にせよ大義にせよ、歴史の中で残っている上杉謙信や源義経、楠正成という武徳高い人物から学び、二宮尊徳や聖徳太子、中江藤樹など聖人と呼ばれるような方々からも教えを施されてきた民族なのです・

それが第二の波の中で失われつつあるのは、時代がいつまでも急なスピードや緊急性の中で我を見失っているからであろうと思います。もう一度、思いだし、どうあるべきかということについて語り合えるような場や仲間、つながりがこれから必要であろうと思います。

最後にトフラーはこう語ります。

『勝ち負けの経営の限界が見えてきた。企業経営は、覇道ではなく、王道でなければならない。経営の王道とは、人を育て、導くことである。自社に関わる一人ひとりの幸せを目指すことである。このことを忘れ、勝ち負けにこだわる覇道の経営に走り、合理的な経済至上主義の考え方で事業をしている会社は、遅かれ早かれ衰退の道をたどっていくだろう。あなたの会社も変わらなければ、発展の道は閉ざされてしまう。』

子どもにどのような社會を遺してあげたいか、そこで判断するのが当たり前の道理です。そして何を譲っていくかは、その人たちの生き方にかかっているように思います。発展というものは永続的なものであってはじめて発達といえるように思います。

日々学びを深めながら、温故知新した経済を求道していきたいと思います。

最適な距離感

自然農の実践をしながら3年目になりますが、毎年実験していく中で失敗も多いのですが収穫もまた多くあります。

昨年は、小麦をあらゆる方法で蒔いてみてその成果を試してみましたがその一つ一つが意味があり、過ぎてみて観察してみるとどのように蒔けば善かったのかが観えてきます。

これは仕事でも何でもそうですが、何でも好奇心で熟慮してみて挑戦し、はじめたら諦めずに遣り遂げてみて、その後、省察する中で自然に意味が着いてくるのを静かに待つのと同じです。

心を動かし、身体を動かし、精神を継続することでそこに意味があることに気づきます。その意味をどれだけ深く厚く自分のものにし、質の高いものにしていけるかというのが日々の実践と姿勢によるものだと感じます。

何かをトライした日は、トライしただけの充実があり、何もしなかった日は何もしなかった日としての虚しさがあるということです。日々のルーティンに流されているだけでも一日はあっという間に終わりますから、いくら怠惰な気持ちがあったにせよそこに打ち克って苦しくても楽しい方を選んでいけばその日の終わりは幸福感を実感できるように思います。

頭で考えていることを如何に打ち負かすかは、天命に任せつつ自分を信じる力に比例するものです。自信とは、結果が出たから持つものではなく自分にとって苦しい方を選択して善いことになると信じた質量によって得られるのではないかは私は感じています。

さて自然農の話に戻せば、今回は麦の空間について学び直すことができました。

これは麦に限らず、全ての植物には空間というものが必用です。

地上で生きていくには、その生き物がのびのびと安心してお互いを尊重し合う距離感が要ります。これは麦がある一定の距離と空間を保障しあうことで他の雑草を抑制できるという意味です。これは、稲にも言えることでその風土や環境にあわせてどのくらいの幅で育つのが他の雑草と共生できるかということでしょう。

麦一つでも空間が開き過ぎても狭すぎてもよくなく、ちょうど善いバランスの所を手探りで掴まなければなりません。これらの農の実践のむずかしさと面白さは、これらの自然の技術の習得にあるように思います。

自然をよく観察し、どのようにすれば最適な空間と距離感になるのか、また他の虫たちや気候などとの調整の中に、自分の思い込みを外す必要が出てきます。

そしてこの空間の理解というのは、そのものを育ててみてはじめて観えてくるものです。ちょうど虫にも他の野草にも野菜にも人間にも最適な距離感をどう観出していくかは育成してみて気づく智慧なのでしょう。

見守る保育を学ぶ中で、他分野から深めていますが御蔭様で新たな感覚も芽生えてきています。育てているつもりが育てていただいているのはいつも自分の方です。

田畑に感謝しつつ、丁寧に学びとっていきたいと思います。

真心が至誠

昔から人は真心を持って生きる事や、至誠であることは天を相手にしているという言い方をします。これは天というものの存在を実感し、その天に恥じないような生き方をしようと心掛けているということです。

これをお天道様という名で呼び、そのお天道様がいつも見守ってくださっているのだからそれに恥じないように生きて活きましょうという声掛けをして正直にその性を全うしていたのだと思います。

そもそもこの天とは何かといえば、天地自然のことです。大宇宙という言い方をしてもいいのかもしれませんが、私たちを活かしてくださっている偉大な存在のことをいうように思います。

例えば、私たちの身体は何もしなくても自分で成長し自分で回復していくものです。これは本能とも私たちは呼びますが実際は何かによってそうさせていただいているということです。つまりは私たちの身体も英語で言う何ものかサムシンググレートによって活かされているということです。

私たちが天を感じるというのは、そのサムシンググレートを感じているということでありその天の運行、天の恩恵を素直に正直に承れるようにしていることが謙虚でいるということであるように思います。

本来は天が活かしてくださっているのだから何もしなければその恩恵は享受できるのですが、しかし人間は我や私が入りますからそれをすぐに邪魔をしてしまうように思います。自分の我や私が入り込むことで丸ごと受け取ることができなくなり、運が悪くなっていくようにも思います。

天は人間を活かし、そして万物を丸ごと包み育むのだから必ず善くなるようにしてくださっているのです。だからこそ天を邪魔しないように生きていくこと、自分に与えてくださったものを選ばないこと、来たものは全て善いことになるように祈り取り組むこと、周りの全てを受け容れて一体となって丸ごと善いことになるのだと信じた実践を積んでいくことが徳を高め運がより善く開けていけるように私は思います。

西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、これは天が自分を愛してくださるように自分も人を愛する、それは天の真心のままに活かされますという覚悟ではないかと私は思います。

天人合一というのは、全てを一円の和の中で丸ごと善いことにしていく生き方のことです。言い換えれば、天に対しては謙虚、人に対しては素直でいるということであろうと思います。

人間は無我や無私になる時にだけ、すべての問題が自分の問題になるように思います。
自他一体とは、無我や無私のときにこそ実感でき同時というのもまた其処に存在します。

日々は学びの連続ですが、天に感謝し、全てを善いことにしていくよう内省したいと思います。
日々の有難い体験と学びという豊酬に心から感謝しています。