天性

人は自分の中にどのような向き合う鑑を持っているかがとても大事なことのように思います。

いくら向きあったといっても、相対的に向き合っていたのではその主軸次第でいくらでも自分の都合の善い方へと解釈しているだけで本来の正直な内省や反省になっていることになっていないからです。

ちゃんと向き合えば、そこに確実なものが顕現してきます。それが観えれば、それに照らして自分を素直に変えていくことができるのです。

しかし実際は、なかなか向き合えないものです。本質を捉えるにも実力が伴います。ありのままを見抜くには自分の心と対話し本来のあるがままの答えを自らで明らかにしていかなければなりません。しかし他人にはそれぞれに正しいと信じ込んだ思い込みというものがあります。特に教えられた知識でそれが上手くいき、当たり前になるように習慣付けばその習慣はなかな手放せません。

習慣は第二の天性という言葉がありますが、今まで身に着けた習慣を変えるということは本当に大変なことだからです。それは単に行動だけを変えればいいのではなく、自分にとっての不可能に挑戦するような実践をすることで意識を丸ごと変えるというような大転換が必要になるからです。

そしてそこには全て心を伴いますから、強い心を持てるようになることが肝要なのかもしれません。だからこそ人には信念というものが用意され、その信念を正すために理念があるということです。

理念があるということは、その理念に照らして実践を改善することができるということです。理念というものは、いわば映し鏡であり自分の心を照らす鑑であるのです。

その理念に沿って如何に本当の自分を持つか、自分らしさを大事にするかは、自分の心を自らで守るような実践を日々に持てるかどうか、また心を共に守ろうとする仲間に出会えるかどうか、そして心が常在感謝になっているかどうかに懸かっている気がしています。

私達の家訓に天の道理は謙虚としているのは、天というものへは感謝できていないと天からの恩恵を自由に受け取ることができないという意味でもあります。天の恩恵を上手にいただき活用するには自分の中の生き方として如何に天性を感謝に合わせていくのかという克己実践が問われるように思います。

常在理念、常在信念であり続けるということが人生道場の基本ということなのかもしれません。

一家としての一年目は、どれだけの意味が隠れていたのでしょうか。
二年目には各々安立に確実な芽も伸びていくと思います。

天性に感謝しつつ、天性に合わせて、天性を存分に発揮していけるようになりたいと思います。

好奇心~決心式~

人間には何よりも大切な宝として好奇心というものがあります。

この好奇心というものがある限り、私たちは自然から離れることはありません。

子どもの心は純粋で無垢です。

この純粋と無垢とは何かといえば、好奇心を持っているということです。

好奇心というのは、自然に触れたいと思う心。自然と一体になりたいという心。自然を愛でたいという心です。つまりは五感を超越した第六感ともいえるもので、いのちの正体です。

いのちというものは、感じることで活き活きしていきます。

もしも無感動無関心になるとしたら、好奇心を苛まれる枠組みや常識によって本来のいのちが閉じ込められることで発生しているといっても過言ではないと思います。人は好奇心を失わない限り永遠に光り輝き続け、そしていのちの灯を炎々と燃やし続けることができるからです。

今の社會は好奇心というものをあまり大切にしていないように思います。

その好奇心を守るのは自分自身です。

如何に面白く楽しい日々を送っていくか、それは自分の生き方によります。そしてその生き方の根幹に「感じる」という力をどれだけ養うか、目には視えないものをどれだけ実感しているか、すべてのものにいのちがあるという感覚をどれだけ研ぎ澄ませているかで変わって来るようにも私は思うのです。

三つ子の魂とは何かといえば、私は好奇心のことであると定義します。

大宇宙の中で、地球の一部として活かされているこのいのちが、そのいのちの顕現である子どもたちが、いつまでも子どもたちらしくそのままでいられるような社會にしていきたいと思います。

引き続き、社業にいのちを懸けて実践していこうと思います。

大自分

人間は自分の中に罪悪感や負い目というのを持つと日々は怒りの感情に囚われるものです。

我というものは自分の思い通りかそうではないかという価値観に囚われます。そしてその感情が怒りを誘発するのです。いつも自分が中心になっている考え方に起点を置けば思い通りにならず上手くいかないと感じるものです。

言い換えればそれは自分の中にこうであるべきといった自分が思い込んでいる「正しい」という観念に縛られているのです。

自分の中に自分の思い通りにいくことが正しいと思えば思うほどに周りに矢印を向けてしまうものです。自己中心的というのは、周りも自分も正しいではなく、自分の正しいが最も正しいという価値観に執着しているのです。

本来は正しいかどうかよりも来ているものに正直に生き切ることで全体でバランスをとるものだから、何かがあれば常に自分の方を柔軟性を持って受け容れることができればいいのですがそれでは自分の思いどおりになっていないから自他を責め、自他嫌悪するのです。

例えば自然界は思い通りにならないけれど、それが必然的に全体を調和させているものです。自分にとっては都合が悪い天気であろうがどうであろうが、地球が全体調和をしようと天候が調整されていくのと同じです。人間の心身の調和でいえば、病気や治癒も同じく感情は波打ちますが自然(体)は全体バランスをとり回復するためにいつも働いているのと同じです。

以前、面白い体験をしたことがあります。

子どもが海の水が服にかかって海に向かってずっと怒っていた様子を拝見したときです。自然からすれば海は波打ちますから水がかかることは当然です、しかしそれに怒ってみても相手は自然ですからどうにもなりません。

自分は自分の世界からしか世界を見ていませんから、それが思い通りにならないということが理解できないのです。妄想や空想の中では自由でも現実は不自由です、その現実を自由にしていくのなら全体の叡智の方へと自分を合わせていく必要があるのです。

自他を一体として正しいと思えるにはとても時間がかかるもので一生ものの学びかもしれません。しかしそれが文化と文明の調和にもなっていくのですから私たちに課せられている大命なのかもしれません。

自然から学び、自然を尊ぶのは、そこに「本物の信」があるからでしょう。

世間では、狭い世界での正義を押し付けて自由というものも平等というものもその隔絶された組織の中だけで通用するようなものを強要し刷り込んでいきます。村社會のような隔絶された秩序の中で自由や自律もはき違えられています。

もっと視野を広げ、世界の大きさで捉えるのが自由であり自律なのでしょう。それは本物の信の世界の中の一員としての自分を捉えられるか、自然という全体調和した中にいることを自覚しているか、人間はいつでも自然から離れずに学び続ける必要性を実感するのです。

一度きりの人生ですし自然の中で活かされている大自分ですから、ご縁を信じて来たものを選ばずに丸ごと受け取り、どんな事件があっても許し、それが有難いと笑っていられるような感謝と御蔭様の真心の実践を精進していきたいと思います。

 

歩続実践

世の中には色々な本が出版されています。

特に今の時代は情報が溢れんばかりに氾濫している時代ですから、常に文字の中で生活しているともいえます。実際に体験しなくても、本を読めばある程度は体験したかのような妄想を抱くものです。

しかし実際の現実では、何も体験したわけではなくきっとこうだろうと思い込んでいるだけなので遣ってみるとほとんど思い通りにいかないものです。実際に何のためにということがぼやけると情報は自分自身の貴重な体験を奪ってしまうものになるのかもしれません。

二宮尊徳の夜話にこういうものがあります。

『下男が種いもを埋めてその上に「たねいも」と書いた木札を立てたので、ワシは門弟たちにこう言ってやった。 「お前たちは、大道というものが、文字の中にあると思って、文字の研究ばかりして学問だと思い込んでいるが、それは間違っているぞ。文字というのは道を伝える道具にすぎないんで、道そのものではないんだ。それなのに本を読んでそれが道だと思っているのは、誤りなんだ。道というのは本の中にあるのじゃなくて行いにあるんだよ。今あそこに下男が立てた木札の文字を見てごらん。この札によって種いもを掘り出し、それを畑に植え作ってこそ、はじめて食物となるんだ。道も同じことで、目印としての書物で道を求め、これを実行してこそ、はじめて道を体得することができるのさ。そうでないと学問といえない。ただの本読みというだけのことさ。」』(第七十一話)

頭で考えて覚えたものが実際の現実の理解をしたのではありません。頭で処理をしようとするのは、遣るということが大前提にないからです。全ての体験を道として真摯に実地実行しようと決心するならば頭で覚えず、心身に沁み込むように修めようとするものです。

それが大変だから頭で考えて済まそうとすればするほどに実際の実行や実践を怠るというのが人間の惰性なのかもしれません。心身をあまり甘やかさないことこそが、己に克つということなのかもしれません。

論語にあるように、如何に道は歩み続けるかということに尽きるのかもしれません。

日々の体験をどれだけ高めていくのか、決心したことにどれだけ真摯に実践するのか、そこには答えはありませんが答え以上の人生の手ごたえは実感できるものです。人の生長というものは、自然と同じく頭では分からなくても確実に自分が変わっていくのは実感しているのです。

できることや分かることばかりに重きを置かれた教育の刷り込みを祓い清め、変わり楽しむことに軸足を入れかえることで温故知新の創造の妙を味わっていきたいと思います。

練習の意味

人は目には見えませんが「思い」というものを持っています。その「思い」にどのようなものが入っているかでその入れ物は全く異なるものになっています。

例えば、何かを習得するためには練習というものを行います。技術を学ぶことは練習ですから練習を積み重ねることで技術は上がるのですが、その練習も単にテクニックだけが上達しても上手だねと言われるだけで感動したとはなかなか言われないものです。

人が感動するには、その技術に心や魂が入る、つまりは「思いが入っている」かどうかがとても大切になるのです。

ここでの思いとは何かと言えば「祈り」のようなものです。

何かの仕事でもいいでしょうし、人生の中で行う何かのアクションでもいいでしょう、そこには何のために自分がそれを行うのか、そして自分が何の御役に立ちたいのかという初心があるはずです。

それを毎回思いだし、その思いを毎回入れて行うことが真の練習になり本物の技術を習得していくように私には思います。

練習というのはできるようになるために、形だけを似せたり、もしくは表面上がある一定のレベルになったからいいというのではなく、本質的に行っているからこそできるだけではなく「なる」ことができるのです。

そうなるにはそうなる理由があるということですが、そこにはその人の確かな「思い」が入っているのです。そしてこの思いを積み重ねて練り上がっていくものが信念です。これは一朝一夕ではならず、長い時間をかけて奥深い技術を学びつつ、生涯習得するための精進し続ける道であるのでしょう。

道に入るというものは、克己の技術を鍛錬することかもしれませんが大切な一日を思いを入れて実践し、信を醸成しつつ自らを高め続けていきたいと思います。

素直の本質

人間は、世界を広くもできるし狭くもできるものです。

どれくらいの大きさ、どれくらいの視野であるかは、その人の考え方によっても変わってきます。それは単に、経験が豊富だから広く未経験だから狭いというわけではありませんし、知識が豊富だから広くないから狭いというわけではないように思います。

なぜなら、広さというものは単に広い狭いという意味ではなく「寛容」であるということだからです。

人はどのような時に寛容で、どのような時がそうでないかと考えてみればすぐに理解できます。例えば、自分善がりになっているときは他人の話を斜に構えて聞いていますから受け容れる気がありません。そうなると自然に狭い心になり、自分の殻に閉じこもってしまうものです。逆に、自分善がりではなく至善に止まるときは他人の話を受容していますから自然に寛い心になっているのです。

本来の心というものは、とても広大無辺であり宇宙万物の全てを寛容する存在です。

この世にあるものはすべて受け容れるのは、この世のすべてとつながっているからです。

つながっているというのは、自他一体、言い換えれば心一体に調和しているということです。全てのものが一つにまとまっているというのが自然であり、その自然のままの心と体があるがままになったことを素直や正直というのでしょう。

人間は如何に受け止めるか、受け容れるかで自分の器を寛げていくことができるのです。だからこそ素直になる必要があり、正直になる価値があるのです。

自分の器は、一緒に実践してくださる人や、自分のことを真底心配し思いやり導いてくれる伴たちによって開かれていくのかもしれません。そう思えば出会いこそが、その人を真に成長させてくれるのかもしれません。

頑なに自分を守り、無理をして我慢をするよりも、現実を受けとめてそれをどのようにチャンスにして転換していくのかが人生の醍醐味なのでしょう。

広さということの本質を学べば、人間が発達するという意味が理解できます。心を常に寛く広げ、心を常に明るく元気に日々を精進していきたいと思います。

福自省

日々の実践をするということは、日々を怠らないということです。

これは日々というものは、大切な記憶に焼き付けていくものですがその焼きつけたものが必ず子孫たちの発展につながっていると自覚するからのように思います。自分だけでもという「私」に囚われてしまったならばまさに私欲にもっていかれたとなるように思います。

二宮尊徳に、このような話が残っています。

「天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生ずるのと同じである。それゆえ、人道は私欲を制するのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とするのである。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理は永遠に変わるものではなく、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ、人道は勤めることを尊しとし、自然にまかせるのを尊ばない。人道で勤めるべきは、己に打ち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。己に打ち克つとは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨てて、わが心の米を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。『論語』に「己にうち克って礼の規則にたちかえる」とあるのはこの勤めのことである。」

つまりは、自然は日々に怠らずに流れていても、人間は私欲が出てくると怠ることになる。だからこそ「人道は一日怠れば、たちまちすたれる」という意味になる。

ここに如何に「実践」を徹底することが大切なのかということが自明しています。

人は私欲が入ってくると、その実践を自分の都合で置き換えていくものです。最初に決めた初心や何のために行うのかということを忘れて、気が付けば実践風のことを実践と呼んだりもするものです。しかし本来の実践とは、初心のままであることであり、最初に覚悟し決意したことを何度も何度も怠らず勤めていくことのようにも思います。

今のような誘惑の多い時代に、大切なものを守るというのは自然農の生き方ように真心や誠実さを優先する実践を行うことのように思います。

そして実践が独りよがりにならないためにはそれを福に転じていく精進がいるように私は思います。もちろん実践を徹底するとなれば、思い通りにいかない環境の中で上手くいかないようなことにも出会います。それをどれだけ乗り越えるかというのは、誠実にそれを受け止めたか、受け容れ改善したかということが問われるのです。

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」

二宮尊徳の生き方として、実践の大元にはこの誠実という正直があるのです。転じるというのは、簡単なことではなくどれだけ誠実さの方に舵を切ったかが常に問われます。それは思いやりのことですが、思いやりを増やしていく、思いやりをより大事に育てていくといように実践を高めていくことが真の人格的成長、つまりは天を見ては自分を正すという実践になっていくようにも思います。

日々を怠らず勤めるというのは、日々の実践を積み上げていくということでしょう。

他人のことよりも自分の実践が高まっているか、誠実であるかを常に自省していきたいと思います。

緊張とプレッシャー

人生ではプレッシャーや緊張を感じるシーンというものは沢山あります。それはスポーツであったり試験であったり仕事であったりと様々です。これらは成長していくために必ず通過するものであり、人生の中では何度も似たような体験を積んで発達していくように思います。

ここで緊張とプレッシャーを深めてみようと思います。

そもそも緊張とは、自分のことを意識するという自律神経の働きともいえます。自分が失敗したらどうしようかとか、自分がうまくできなかったらという他人から評価されてしまう恐怖感から湧き上がってくるものです。結果を気にしすぎたり、最悪な場面は避けようとし過ぎたりしているうちに感情に呑まれてマイナス思考に陥ってしまいます。脳科学的に言えば、前頭葉前部が正常に働けなるからだと言われますが、自意識過剰になることで心と頭のバランスが取れなくなってしまうような感覚に陥るのです。

例えば、誰でも自分のことをあまり気にし過ぎたら自分の手足でも動かづらくなる体験はしたことがあると思います。自分のことを気にせずに動かすときは正確でも、自分のことを気にしすぎるとうまく動かすことができません。もちろん、緊張を乗り越えるには体の慣れという場数の練習、このパソコンのキーボードを打つように最初は意識して打っていたものが今では自動で打てるように何度も何度も練習することが必要です。しかし同時に、心もヤル気を維持して何度もチャレンジする勇気を出す練習が必要です。そしてそれを達するために技能を磨く練習も必要です。つまり以上の心技体の経験とバランスがあってその緊張も解きほぐされていきます。

一般的には緊張はよくない、緊張するなとはよく言われますが、ある意味でのプレッシャーは善い、プレッシャーを転じていけと言われるのはなぜかということを考えてみます。

そもそもプレッシャーとは、重圧や威圧という意味で使われます。これは外圧的な力で何かの圧迫感があるというものです。自分だけの体であれば身軽ですが、背中に背負うものがあったり何かの重荷が乗れば思い通りには動けなくなっていきます。

例えばチームスポーツや仕事であっても皆の期待を背負って取り組んだり、ここぞで外してはならないような大事な局面に善い働きができるかどうかの時にプレッシャーを乗り越えてという言い方をします。プレッシャーとは、役割を担い、責任を負うということであり、自分が背負って立つのだという自覚がある人がはじめて感じれるものです。なので緊張とは少し異なり、仲間のためにや誰かのためにと成長してきた人たちが実感するものです。

組織の中でのキャプテンやリーダー、またはエースをはじめある種の立場を持つ人たちはいつもチームの中で実力が認められた存在です。だからこそいつもプレッシャーにさらされているともいえます。

しかしこれがその人を真に成長させていくものになります。人は自分だけのことを考えていたらあまりにもちっぽけな存在になってしまいます。自分を含めた周りの多くの人達のことをどれだけ思いやりその人たちのことを考えているかで偉大な存在にもなるのです。

人間は、自分が授かった恩恵や感謝などの歓びがあればあるほどに御恩返しをしたいと願うものです。そしてそれが自分の挑戦が誰かのための勇気になると信じることであり、自分が諦めないことで誰かの幸せになると信じぬくことができるのです。

このプレッシャーというものは、実は大変有難いことであり、それだけ実力が備わってきた証であるとも言えます。自分が誰かの役に立てるところまで努力したからこそ、自分が誰かの役に立ちたいと本気で願ったからこそプレッシャーもかかってくるのです。そのプレッシャーが真の自律や自立を促すことでリーダーへの道のりを歩んでいくように思います。

そしてリーダーになるとき、そこに仲間の存在に気づくのです。仲間がいるからこそ、努力でき、仲間を守りたいからこそ強くなりたいと願うのです。そして仲間を守りたいと思うからこそ助けになるのです。

話を戻せば緊張は自分自身で練習をして乗り越えていくものですが、プレッシャーは誰かや周囲のためにと思いやりを実践することで乗り越えていくものではないかとも私は思います。

そしてプレッシャーを転じていくというのは、それを福にしていくということであろうと思います。何があっても誰かのために遣り切ったのならばそれで善いという境地です。この生き方に人が感動し、それが他の誰かを変えていくことになるからです。

善い意味でのプレッシャーとは、重圧を避けることではなく重圧があるようなお役をいただけたことに感謝する心のことかもしれません。福に転じるには、そういうお役目役割が必ず誰かに交代されること、それまではしっかり自分が勤めようと謙虚に生きることなのかもしれません。

活かされるというのは、自分の役割と影響力を自覚することのように思います。

緊張とプレッシャーをミマモリングし、新たな成長を促していきたいと思います。

協働のはたらき(チームワーク)

人間の持つ一人の力は大したことはないものです。
しかし一人一人の持つ力は偉大なものです。

人は自分くらいと自分のことを過小評価しているものです。自分のつながりや絆を感じないときは、糸が結ばれているという感覚よりも単体で生きているような錯覚をするものです。

宇宙をはじめ自然界は連綿と続いている糸が複雑怪奇に絡み合って存在しています。何度も何度も日々を繰り返し、ご縁を重ねることで次第に鎖が強く結びつくように絆も強固になっていきます。

自然界というのは、一つが滅びればすべてが滅ぶというようにあらゆるものは有機的に折り重なっているものです。例えば、山や木々の土壌が気枯れによって植物などが喪失したならば、川が消え、川が消えればその水が海に流れ着くこともなく、竟には海の生きものがすべていなくなってしまうのです。

このように循環というのは、万物が繋がって存在することの証明でありそれが完全に共に活かし合うからこそ万物が機能するのです。

人間も等しく、自分の存在が周囲の力になっているものです。自分ひとりくらいと思って自分の世界で閉じこもっていても先祖代々から今にいたるまで、また今から子々孫々まで、そしてその時代の仲間や友、関わる方々に大きな影響を与えているのです。

無理と無駄がない世界が自然ですが、それが何をもってそういうかといえばそれぞれが真摯に努力して生きている世界のことです。

西洋では労働という言葉の定義がかつての日本とは異なったようです。日本では働くというのは神様と一体の「はたらき」のことであり、西洋では作業のように捉えているようです。もちろん全ての人がそうとは言いませんが、業務や作業で切り分けて仕事を割り振るやり方をやってきたのだからそうなってしまうのです。

本来は宗教だの仕事だの生活だのと、自然を分解しそれを人間の都合で分けたところからズレてきたのかもしれません。自然は一切分かれることなく、万物は一体で仕事も生活もすべては生き活かされているということの実感であり、働けば働くほどに誰かの御役に立っていることを実感する素晴らしい「はたらき」を知ることになるのです。

共に生きることで人は安心するものです。そして共に生きようとすることで共に生きる者たちの勇気になりその共に生きるものたちとつながっていくのです。

発展というものは、そういう自然造化の法に従って、繁栄していくということをいうのでしょう。それを呼び込むのは、無駄がないということです。自然には一切の無駄がないからですが、これは私たちはどう考えればいいかといえば「一切を無駄にしない」ということです。

つまりは大切な「いのち」を無駄にしなかったからこそ、祖神達は一生懸命に与えられた自分の「いのち」を生き切ってきたのです。自分を生き切りは自分らしくあるがままを貫いたのです。

そしてせっかくいただいたこの「いのち」を誰かのために使い切ろう、周囲の皆様のために生かし切ろうと自他を大切に活かしてきたのです。

活かされているからこそ活かしたいと願う中にこそ、協働の「はたらき」が活きています。皆で一生懸命に真摯に遣り切ることが真のチームワーク(協働のはたらき)を産み出すのでしょう。

クルーの御蔭でまた新境地に出会いました、感謝と共に自然循環を楽しみたいと思います。

寿命を伸ばす

私達の祖先たちは「いのち」というものをどう捉えていたのは、かつての生き方や暮らしに遺されています。

そもそも私達日本人の心にある「いのち」というのは、使い捨てるものではなく遣い切るものという発想が原点にあったからこそ「もったいない」という考え方があるのです。

例えば、宮大工が使う式年遷宮や神社仏閣で使われる木材一つ、それはあらゆるところで再利用されています。今の住宅のように全てを破壊して廃棄するのではなく、昔の人は解体をして再利用します。他にも土壁一つであっても、それが崩れてまた補修し、補修が済めばまた土に戻して粘土にしまた他の土壁として甦生するのです。古人は「いのち」が観えたのでその智慧をもっていのちそのものを最期まで大切に遣い切ろうと工夫したのです。

今の時代は、何でも使い捨てようとします。

そのものの価値よりもその道具を単なる利用価値のある「モノ」として理解しているから使えなくなればいらないという発想です。しかし本来は、その道具は「いのち」としての存在価値で理解しているのだから最期まで大切に活かそうという発想が私たちの本質だったのです。

今の時代のように何でも目に見えるものしか信じないようにと「モノ」の価値に置き換えられてしまうと、目には観得ないものはこの世にはないものだと盲信させられていますがそれでは自分たちは一体何でできているのかということになるのです。モノではないのはすぐに分かります、そこに心があるからです。

自分を粗末にする人が増えるのは、いのちを粗末にしている環境の中に住まうからのようにも思います。それが孤独や孤立、心を閉ざすような関係を拡げてしまっているようにも思います。社會の仕組みとして大量にモノを粗末にしだせば、そのうち自分たちのことも粗末にしだすものです。

本来の循環型社會とは何か、それはいのちを粗末にしない社會のことなのです。

昔は、どんなものでもいのちがあるからこそ捨てようとはしませんでした。

江戸の300年の暮らしは、寿命を伸ばす仕組みだったのです。無駄というものをなくしていこうとするのは、決してそれが単に合理的だったからではなく、いのちを少しでも伸ばしたい、平和を少しでも永続させていきたいという時代の人々の心の願いだったのです。

戦国時代に、沢山の人達が死に、そしてそのことから少しでも長く平和を維持していこう、いのちを大切に皆で寿命を伸ばそう、つまりは「いのちを粗末にしない実践」を行ったのです。

寿命とは、いのちのことです。

大切にされることで寿命は伸びます、粗末にすれば寿命は短くなります。都市であってもそれは単に都市ではなく、先祖たちはその都市ですらモノではなくいのちだとしその寿命を伸ばす工夫をしたのでしょう。日本人の素晴らしさというのは、八百万の神々の思想があるようにすべてのものをいのちある神様の化身としていのちを見出したところにあるように思います。

そしてそれは家という発想の中にも、家訓があるように家をいのちだと捉えているから老舗や家が永続するのでしょう。そこにはどんないのちも粗末にしないという共通の理念が存在しているように私には実感します。

だからこそ家といういのちを伸ばすのもまた、その家に住まうものたちの心掛けと心構えがあってのことなのです。少しでも永続させたいのならば、いのちを大切に寿命を伸ばすことに意識を重ねていかねければなりません。せっかくこの世の楽園に産まれてきたのだからこそ、少しでも長くこの世に止まりたいと思うのがいのちの開花のように思います。

子どもたちのことを思えば思うほどに、いのちを大切にすることを実践で示したいと感じます。
身近なところからの生活を一つずつ見直していきたいと思います。