古来からの学び方

一般的には人は最初の仕事を学ぶとき、知識から入る人と体から入る人がいます。器用な人は知識から入りますが不器用な人は体から入るようにも思います。しかし本来は両方必要なことで知識も体もいるように思います。

考動ができる人というのは、心に浮かんだことをすぐに形にしていくために頭と同時に手足も動いているものです。学ぶというのは決して頭だけではできることではなく、心と体が一体になったときにはじめて沁み込んでいくように思います。

自分に沁みこませていくような学び方、慣れ親しんでいくような学び方をしてきた人が少ないのは知識編重型の教育を受けてきたからかもしれません。もしくはやらされてきたから知識を掘り下げて自分のものにし智慧にまで昇華するということをやろうとしなかったのかもしれません。

ヤル気を育てるということがどれだけ大切な事か、この歳になってみてそれをはっきりと自覚するようになってきました。自らが常にヤル気をどれだけ育て続けてきたか、その歴史の重み、体験の質量が心と体にはもっとも大切なことなのでしょう。何をするにも努力から入れないのでは何事も為し遂げることはないのです。

人を真に導くということは、その人のヤル気をどう見守っていくのかということかもしれません。宮大工の棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)でこういう話が紹介されていました。

『校長は、上武豊太郎といった。私たちが直接話を聞くのは、修身の時間である。こんな話をされた。「君たちは、農業経済学というものを習うてるやろ。そこには「最小の労力をもって、最大の結果を得る」それが原則や、と書いてある。しかし・・・」と言い、「我々、日本の”農人”はそうであってはならない。自分ひとりの働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」農の基本は金儲けや効率ではないというのだ。そのあと「しかし」と続け、「試験のときは、こういうことを書くな。零点になるから。」なるほど、農人とはそうあるべきだと、感じ入ったものである。__背骨を入れられた。と今でも思っている。』

戦後の教育では、また巷のニュースでも経済の原理ばかりが優先され如何に効率よくラクをして成果を出すかばかりを詰め込まれると本来の大切なことが忘れさられていることが多いように思います。

大量生産大量消費の中で、如何に労働をするのかということを教えられ、本来の労働の価値、作業ではなく仕事という価値を学ばないで大人になってしまうと経済の歯車にだけなろうとしてしまうのかもしれません。

農一つを学ぶにも、本で書いていることはごくわずかで実際は農地に出て観ては上手くいかないことばかりと正対します。土や草や虫、そして気候を学ぶのは決して本ではできず試行錯誤しながら、大袈裟に言えば七転八倒しながら心して現場で学ぶしかないのです。それが知識を入れて知識を削除したということでしょう、言い換えれば「モノになっていく」ということです。

そうして自分が繰り返し努力することで根気もまた育っていくのです。

これらのヤル気というものは、本来のあり方の方を大切にし続けるということでしょう。そして学び方も、ヤル気を育て続けるために知識を入れてはそれを削除するために体験するという学び方、そして体験したことを掘り下げてそれを本物の知識にしていくという学び方になっていくはずです。

まずはその人のヤル気を育てていたのがかつての教育(古来からの学び方)だったのかもしれません。

人は自ら学ぶ力があり、自らがヤル気を出して取り組む時、自然に知識も智慧も体得もできるように思います。素の自分を如何に直すか、その素の中に何を据えているかが、長い人生においてとても大切なことのように思います。

経済効率を優先すれば時間の使い方もまた経済効率を優先になるのでしょう。非経済的であったとしても、そのヤル気が育つのならばその人に合わせて見守っていってあげることが思いやりのように思えてなりません。初歩の基本を間違えてしまったら、その後は全部間違いになる怖さがあるように思います。初歩の基本は的を外してはならないのです。

本来の子どもたちが望んでいること、発達に合わせてどのように学び合いの環境を発展させていくのか、そこには互いのヤル気を尊重することからなのかもしれません。戦後に操作された今の教え方と学び方を古道に照らして修正していきたいと思います。

一期一会を大切に、これからも何事も同時であることにこだわっていきたいと思います。

問題直視力

今のような情報化社会の中で、最も重要な生きる力に問題を解く力があるように思います。これは学校でやっているような、問題を解く力のことを言うのではありません。言い換えれば、問題が何かを発掘して意味づけしていく力のことです。

本当の問題とは何かと考えてみると、それは答案の中にあるものではありません。それに問題があったから問題を単に解けばいいというものでもないのです。それは問題というものの奥にこそ真の問題があり、その真の問題を解き明かすなかでそこから見出したもの、そのメッセージともいえるものを自分なりの意味と答えをつけていくことが大事なことのように思います。

例えば、歴史というものを考えてみます。歴史といっても、自分の人生の歴史をはじめその人がどのような過去から今までを過ごしてきたかは年号で表現できるものです。しかしそれがどんな意味があり、何のメッセージをいただいたかというのはその人が答えを出していくものです。

また他にもご縁というものがあります。これも、なぜこの人と出会ったのか、このご縁は一体何とつながっているのか、何を意味するのか、それはその人がずっと点を線にし、面にしていく中でつながりの中にあるものを深く見つめて答えを出していくものです。

このように出来事が起きることに意味があるのではなく、その出来事に意味があるとどのように感じるか。そこには理念があれば、出来事は理念に添って起きるのだから流されずにこれは一体何なのかと常に答えを導きだすのは自分の主体性であるのです。

流されるというのは、一体何なのかを感じなくなり点は点にしか見えず、線にもできず、日々に一喜一憂しているようなものです。それでは、せっかくの貴重な体験をもったいないことにしているようにも思います。

日々というのは、一期一会であるのはそこに確かな意味が存在しているからです。その確かな意味を紡ぎながら一反のかけがえのない貴重な織物を仕上げていくのが人生だとしたとしたらそこで何よりも重要なのは問題を直視しそれを解く力なのです。

問題を発掘する力、問題を発見する力、問題というものを解明していく力、つまりはこの力は真の問題を直視しそこに毎回テーマを抱き、今、ここを意味付けすることを忘れるなということでしょう。初心を大切にしていくには日々の意味づけを丁寧に実践していくことが何よりのように思います。

自分にしかない問題を、理念を主軸に仲間と一緒に解き明かしていく有難い日々にはその問題を直視する歓びにも恵まれた日々のことです。

そこに人生の面白さ、醍醐味もまたあるように思います。ひとつひとつのことを感情に流されず、これは一体何なのかと自問自答を楽しんでいきたいと思います。

心を入れかえる

昨日、ある面談の中で懐かしい体験をしました。

人は、何がキッカケになるか分かりませんが自分の心に向き合って心を入れ帰るという体験をして変わるものです。人生の醍醐味というものは、新訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」ではないですがその人が望んだ高さや求めた強さに応じてその人に価値のある機会やご縁が結ばれるように思います。

機会やご縁を活かすのはその人次第ということですが、どんな出会いがその人を変えていくのかを思えば人は自分の狭い視野で計るのではなく、その人自身が素晴らしいご縁に恵まれていることに感謝して成長を祈る方が真実のようにも思います。

自分だけの影響力などちっぽけなものですが、何が繋がって何と結ばれているのかは天のみぞ知るのだから見守ることの大切さを改めて実感することができました。

人が変わるというのはどういう時に変わるのかをもう一度考えてみると、それは心を見つめることのように思います。

自分の心がどうなっているのか、自分の姿勢がどうであったのか、それに向き合った時、自分の心を深く正面から受け容れようとするものです。そしてその心がこれは違うと思ったならば、思い切って心を入れかえることで人は真に変化していくように思います。

自分の心を見つめるということは自分の心と対話していかなければなりません。自分はどんな生き方をしたいのか、自分が何を信じて生きていきたいのか、自分がいのちを懸けたいのは何かと、自分の心に素直になって自分の今の心がそれに対してどうなのかを正対していくように思います。

そうやって心を見つめて、心を入れかえることができるなら人は自然に変わるように思います。今までのことを反省して、日々に定めた心の場所で内省する。

こういうことを積み上げていく中で人は変わるように思います。

自分の心を見つめることというのは、向き合いたくないものもあるでしょうから実際は大変なことであろうと思います。しかしその先に、新しい自分が待っていると思うならその先の未来を信じて取り組んでいくことに価値があるように思います。

思い込んでいた自分から、新しい自分へというのが変化というものです。

自分の観えている世界も変わるし、周りからの世界も変わる、新しい世界が待っているのです。人は変わりつづけることで自他の世界を変えていくことができるのですから、不思議さというものもまたその中にあるのです。

心を入れかえる人は、頼もしくそして美しく感じます。
子どもたちにもそういう体験をたくさん用意できるような大人のモデルになりたいと思います。

本質で考える

一般的に人は判断するときには、右か左かという思考に囚われることが多いものです。

例えば、良いか悪か、正しいか間違いか、できるかできないかという二者択一で判断していることがほとんどのように思います。しかし本質を捉えようとすれば、そのどちらかではなく真ん中や間、中庸のように右でも左でもない芯を捉えていかなければならずなかなか判断力が磨かれるのには時間がかかるものです。

それは人間が、自分の都合のよい方ばかりに囚われてしまうことだからだと私は思います。

自分にとってどうかというのは、一番考えやすいものです。もしくは相手にとってどうかと思う時でさえ、その時の判断は自分の都合側の相手のことを考えてしまうからです。

ここを本質で考えるということはどういうことかを少しだけ深めてみます。

本質で考えるというのは、その右も左もないものです。だからこそ、何が本当かということがまず理解できなければなりません。そのためには、本当は何かということを突き詰めて考えてそこがまず観えてこないと分かりません。

そのためには、思考の訓練というものが必用であろうと思います。まず本質とはどうなっているのかを考えるという練習のことです。

例えばその具体的な練習方法は、毎回どのような小さな判断であっても目的や理念から考えるという習慣を持てるようになるということです。

仕事で言えば何かの資料作りから営業企画、また多様な業務に至るまで面倒でも毎回理念や目的に照らしてこれは何か、なぜやるのか、何のために行うのかを常に意識して取り組むことで本質を捉える力というものは育ってきます。

本来、本質というものは心が観ているもの、捉えているものを欠かさずに現実の世界で調和させつつ取り組んでいくことに似ています。

実践が多いところの方が本質的であるのは、その中心を捉えているからに他なりません。何のためにここまでするのか、その何のためにがしっかりしているからこそ本質的に働いているということになるからです。

思考の訓練というものも一朝一夕に出来上がってくるもものではなく、自分の狭い視野を乗り越えて、目的や理念からの視野で取り組むということが身に着いてきてはじめて為せるように思います。

せっかく取り組むのであれば、砂上の楼閣を創るのではなく、盤石な土台に立つ理想の宝閣創りに近づいていくような努力をしていきたいと願うものです。

本質を理解すれば、二者択一ではなく「近づいている」や、「ものになってきている」、「実践している」「シンプルになっている」というような言葉に変わってくるように思います。

理念や目的を定めることで、協奏し和する文化を拡げていきたいと思います。

 

発信の本質

情報リテラシーの一つに発信があります。

このリテラシーとは、一般的には情報技術のことをいいますが私にはもっと奥深い生き残りの智慧のようなものがあるように思います。

そもそも動物をはじめ、この自然界に居る全ての生きものは情報を発信することで生きているともいえます。例えば、鳥でも虫でも何かの情報を発信することで敵がどの辺にいるのか、また仲間がどの辺にいるのか、周りに何があるのかを自らのアンテナで感知していくのです。

自然界で発信するというのは、自分の居場所を教えることになるので同時に危険も伴うものですがそのことではじめて得たい情報が集まってくることを自ずから知っているのです。

人間はテレビをはじめ、インターネット、雑誌など、じっとしていてもそのうち情報が集まってくるように今は見えています。多すぎる情報の中で受信していると勘違いしてしまうのも仕方がないようにも思います。しかしそれは本来の意味での情報リテラシーとは呼べないものではないかと私は思うのです。

情報は自分から求めて取りにいかなければ真の情報は得ることはありません。特に上質なものであればあるほどに求めなければなりません。そしてもっとも価値があり充実し上質な情報とは、自らが「発信する」ことに他ならないのです。この発信というものは、自らが受信するアンテナを立ててそしてそこに感受しようといった丸ごと主体的でなければならないものだからです。

発信し続けるということは、今の人工的な社會であれば不可解に思われるかもしれません。しかし日々に自らの念じることや信じること、祈りのようなものを欠かさずに発信していけば必ずその情報アンテナの感度は研ぎ澄まされ、日々に磨かれ、自分が最も望んでいる情報を受信できるようになるのです。そうして本質的に自ら受信したものだけが、相手に真の情報を提供していくことができるようになるのです。

情報が集まってこないと嘆くよりも、それだけ自分は真剣に情報を発信しているかを省みることがリテラシーの本質ではないかと私は思います。

情報はそもそも地球上の全生命が生き残るために工夫して磨いてきた智慧であろうと思います。

情報とはまるで川のようなものだからこそ、どんなに流れが早くても遅くても、気候の変化で氾濫しても、いつもそこに自然の感度を持つあの水中生物のように聴き洩らさないほどの自らの発信を已まずに常に行っていなければなりません。

生き残るということは大変厳しいものだからこそ、情報とはその次元で発信していく必要があるように思います。だからこそ自然の感度は常に受信側ではなく、発信側を優先していることを見習わなければなりません。

生きる力とは、自然の本能が持つ力そのものです。

常に自ら発信するということの重要性を、子どもたちのためにも実践していきたいと思います。

 

真似とは何か

先日ある人との面談の中で、自分が形を真似してしまったのがよくなかったという話を聞きました。それは仕事の仕方を真似したものの、説明になってしまい自分の意見が入っていなかったということに気づいたという話でした。

常に自分の意見を持つというのは、自分の考えを話すということでそれは心を開いて相手と接するということにつながっています。人は誰かと話をして心を通わすにはオープンで在ることが必用でそれは自らが進んで「自分はこう考えます、そしてあなたはどう考えますか?」という関心を主体的に問いつづけ育んで常にご縁に対して素直にいることのように私は思います。

それはそれで大切なことを気づいた善い時間になりました。

ただここで真似というものの本質について私なりの意見を書いてみます。

そもそも真似というのは、表面上のものを真似することを真似とは言いません。真似とは生き方の真似のことを言うのです。

例えば、尊敬する先人や師、もしくは身近に仕事を習う人たちに着いたとします。すると、その人のコピーをして同じ言葉、同じことをしてみても決して同じことにならないことはやって観ればすぐに分かります。これはなぜかということです。

私には師がいて、勝手に師にしているだけで師も師とは思ってもいないかもしれませんが沢山の師がいます。その師はすべて人生の師であり、生き方の御師匠さんです。その人の姿形や仕草を真似しているのかといえばそうではなく、その人の考え方、その人の姿勢、その人の実践、その人の人間性そのものを尊敬し真似しているのです。

真似というものは、決して簡単にコピーできるようなものではないのです。その勘違いがあるから真似ができないということになるのです。

真似というものは、長い時間をかけてどのようにしたらその人のようになるのか、なぜあの人はこのような話ができるのか、どうして同じことをしてもこんなに差があるのかと、その人のことが真に分からなければ似るということもないのです。

つまりは孟子の「似て非なり」なのです。

似て非なりとは、ちょっと見た感じでは似ているけれど実際は全く違っているという意味で本物と偽物のことを説いています。これはそのものの本質を観るときに使う言葉です。

本物になるということが本来の真似をするということです。だからこそ仕事を学ぶということは、先輩の生き方を真似るということです。学ぶ順番を間違うと本末転倒になるかもしれません。

先輩がどのようにして今の実力を手にしたのか、それはコピーでは得られず自らの脚下の事物をもしあの人ならどうするかと大事にし、その自らの心に師を描きつつ真摯に真似てみてはじめて非が分かり、その非を恥じてまた心して生き方の手ほどきを聴くことができるのです。

昔は師弟といったのかもしれません。しかしこの師弟とは、何かを通して共に生き方や生きざまを友にした「非で似ているもの」かもしれません。

今の時代は、安易に何でも真似ができると勘違してしまう人が増えているように思います。これも刷り込みで答えや結果さえ似ていれば真似できたと勘違いしてしまうからかもしれません。

真似は簡単ではないのです。

本来の結果とは、そのプロセス、つまりは生きざまのことでありその生きざまが同質であるかどうかを問われているのです。尊敬する人と同じように生きるには、それなりに真剣に生き方や生きざまをその人と同事にしていかなければ得られません。

あの人と自分は違うからというような言い訳が自分自身の成長を阻害しているように思います。あの人と自分も同じ人間、あの人と自分も同じ学友と思えれば、見せかけのものよりも中身で近づきたいと思うようになるのでしょう。

真似とは難しいものなのです。

私にもたくさんの指導者がいますが、ちょっと形が似たくらいで分かった気にならず、似て非なる真実を常に内省し、真摯に真似し真心で精進していきたいと思います。

循環するという意味

知識社会というものがあります。

私たちは今、西洋的な考え方によって人間が創りあげた世界を社会と定義して生きています。例えば、知識が多い人を先生と言い、何でも物知りで教えることができる人のことを偉大だと思い込んでいます。

二宮尊徳にある伝承が残っています。弟子に富田高慶という人がいて、大変な知識者だったそうですが念願の二宮尊徳に会った際、尊徳が彼に「大豆という字を書いてみよ」とし、その人が大豆と書いたら「お前の大豆は馬は食うか?」と尋ねました。その後、「俺の大豆は馬も食う」と言いその人は感動して弟子入りしたといいます。

物知りだから偉大なのではなく、自然の循環の道理を覚り、その道理を人間に及ぼしていく導者だからこそ偉大であったのです。自然の中に生きた尊徳だからこそのこの逸話です。

人間は知識というものを得てから、一部の知識がある人こそが価値があるものだと勘違いをはじめました。特に日本の昔は、まだ文字もたいしてなかったころは自然に精通し自然そのものの循環でいのちと渾然一体になって生きていたようです。

それが外来からの理論によって、さも知識がある方が素晴らしいことだとし時の権力者が真理を使って人々を管理したのです。そうしたものが蔓延ってくると、人はそういうものを鵜呑みにして人間の持っている知識が最高であると思い込んでいくのです。

しかし動物から植物、いや、地球宇宙に生きる私たち本来は循環の道理の中でこそいのちを役立てていくことができ、いのちそのものを活かしていくことができるのです。

生きることや活きること、そして活かすことや生きているということは、須らく自然の循環の中にスパンと入ってこそのものなのです。

答えを持つことが素晴らしいのではなく、その人の中にも自然の答えがあることが真に素晴らしいのです。勉強の本来の意味を間違えて自然を征服しようとしても、そのことで苦しむの私達本来のいのちや魂なのです。

人々の魂やいのちを輝かせるのは、もう一度自然に戻してあげることのように思います。天地の間に在る私たちが本来の姿に戻り、そしてそこではじめて言葉を持ち、正しい方へと導いていくことが道師を目指すということだと思います。

むやみに人の師になるな・・・吉田松陰先生の遺訓が骨身に沁みます。

そして二宮尊徳の道歌にまた、感涙を得ます。

「天地の和して一輪福寿草 さくやこの花幾代経るとも」

永続する循環の中から外れない生き方をしていきたいと念じます。常にいのちも魂も、自然と一体になってこそ輝いていきます。先生たちの生きざまから、今の姿勢を正していきたいと思います。

有難うございます。

恩報愛人

昨日は中学時代のバレーボールの恩師の退職祝を郷里で行いました。

24年ぶりにお会いする恩師や、周りの先輩方、旧友は見た目には変わっていましたが人柄などは以前とは変わらず一緒に幸せで豊かな時間を過ごすことができました。

恩師へ贈るメッセージカードを集めていたら、そこに恩師との絆があることを実感します。

恩師の影響を受けて学校の教師になった人たち、今でもバレーを続けて指導している人たち、仲間を大切にすることや、忍耐の重要さ、そのカードから共通している部分が沢山観えてきます。

大切な時期に大切なことを教えてもらったことをいつまでも忘れずに、その後の自分の人生の宝物にして歩んでいる先輩方や友人、後輩の姿があるのです。

そういう私も、恩師とは深い絆をいただいていて自分の善いところを沢山引き出していただきました。それから24年間、ハガキを通しての関わりでしたが教育者として変わらずのポリシーを持ち続けていただ恩師に改めて心からの感動を覚えました。

恩師の最後の挨拶の中で、「バレーを通して少しでも人生の糧にしてほしい」という言葉に私が学んだのは恩師の後ろ姿から得たその生き方そのものであったことを知りました。

恩師という言葉は、「恩+師」でできています。そして愛弟子という言葉は「愛+弟子」でできています。恩も愛も、天人の「絆」を実感する言葉です。私が恩師からいただいた絆はこの恩と愛そのものだったのかもしれません。

これを私は恩報愛人、「恩に報いて、人を愛す。」とし、恩師や旧友に学んだことを心の題辞に刻むことにしました。皆の生き方や生きざまを感じて退職祝に集まった人たちの恩と愛を実感した有難い一日になりました。

蔭ながら支え見守り支援してくれた方々の御蔭に心から感謝しています。

これから昨日の写真を整理し、思い出のアルバムを創らせていただくのですが、改めて一期一会の出逢いの大切さを感じ直したいと思います。

 

自然の修養

自然農に取り組み、漬物をしていく中で腐敗と発酵について学び直しています。

郷里の高菜漬けを実践していると、地域や風土にあわせて色々と工夫してきた先人の智慧を感じる事ばかりです。昨日も、これからの高菜の種を蒔き春が待ち遠しい思いです。

腐敗と発酵については、人間にとって都合が悪いものを腐敗といい良いものを発酵と定義しているようです。人間が中心になって、物事をみればすぐに対立の考え方が出てきます。それは大前提として自分にとってどうかというところから物事を考えてしまっているからです。

しかし実際の腐敗と発酵を深めて観ていると、行っていることは同じく循環の理の中で微生物たちが自分の使命を果たしているということには変わりありません。

つまりは様々ないのちがそれぞれに役割を果たしているのだから全部善い、つまりは最善・至善ということです。この世は、全てが食べて食べられる関係でいのちが助け合っています。言い換えれば、互いのいのちを支え合うために互いに分け合って譲り合って存在しているとも言えるのです。

それを自然の中から見出し、その自然から手ほどきを受けて自然の技術を学びとりそれを活かして自分たちが食べ繋ぐための工夫にしたのがこの発酵腐敗の循環の技術です。

水や、空気や光、風、そして土や塩などを上手に組み合わせてどの状態の時が私たちが食べられるものになるのかを知っているのです。そしてそれは同時に、全ての生きものに対して分け合い譲り合う技術を使っているとも言えるのです。

如何に自分に利益が出ることを周りにも同時に利益を発生させていくか、周りが利益が出ることで如何に自分も利益が出るのか、それをどれだけの全体の広さや深さでやっていくのかに自然の智慧が働いているのです。

常に全体のためにと働くのであれば、常に自らを利他にしていかなけれなりません。言い換えればそれは感謝を土台に恩返しをしていこうとする実践が大前提になければ稼働していかない智慧なのです。

周りをよりよく活かそうとするのは、全てのいのちを活かそうとする心のことです。
心の本体に気づくものだけが、自然の技術を学べます。

心を磨き、心を大切に様々ないのちと共に修養していきたいと思います。

 

神話の生き方

神話を紐解いていく中で、私たちが如何なる民族であるのか、どの生き方を大切に今まで生き延びてきたのかを考え直すことができます。

世界では数々の神話が存在し、その民族の創始理念ともいうべく何を道にして歩んでいけば善いかを示しています。もともと文書ではなく口伝であったものが、失われないようにと文書化されて今に現存するのでしょうが本来はその民族の歴史そのものを神話といっても過言ではないのです。

その始まりがどこか、そして今にいたるまでの道筋のことを歴史と言い、今と歴史を見つめることがより善い未来への道筋を見出していくことになるのです。その時々の内省によって私たちは何を大切にしているのかの初心を思い出すとも言えます。

歴史の重要性は、ドイツの歴史学者ランケが「その民族を滅ぼすには、まずその歴史を抹殺し、次に別の歴史を作ってこれを信奉させることだ」というようにその民族としての自ずから湧き上がってくる生き方を別の生き方に刷り込み洗脳すれば本来がどうであったかを忘れ去られてしまうのです。

これはブログで書いた野菜の種の話と同じで、F1種や遺伝主組み換えなどをし、一番初めを操作して洗脳してしまえば後は何が元々の野菜か分からなくなるのと同じです。最初を書き換えられてしまえば、自分が何者であるのか、何をしてきたのか、何になるのかが分からなくなるのです。

この信奉させるということが、繰り返し塗り替えた歴史を教え込ませることでありそのように歴史は改ざんされて今まで来ているとも言えるのです。歴史学者が警鐘を鳴らすのはすべてに正しい歴史を継承していくことの重要性を説くのです。

またイギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは、「12、13歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と言います。どの民族も祖父母から孫へと、父母から子へと自分たちがどういう民であったかと話をしてきたのが歴史であろうと思うのです。

その歴史の考え方を悪用するというのは本来の自然というものを操作しようとする試みでもあろうとも思います。

しかし私は楽観的で、F1種の時にも話を聴きましたが自然は治癒力がありどんなに操作して種を改造しても必ず元に戻ろうとする力があるといいます。何千の種の中からもとに戻ろうとする少数の種が生まれそれが淘汰された種から生き残るというものです。

自然は私たちが生まれるずっと前から私たちを生かしてきたものです。その存在は、私たちがいくら操作しようがそれは目先を操作したのみで必ず中心は別のところになっているのだから原点回帰されていくのです。

だからといって生き方の継承こそが歴史なのだから、自分たちが真の生き方を示していこうと志していくことが大切なことのように思うのです。生き方と働き方の一致とは、日本人としてどう生きるかに必ずつながっています。

神話から沢山のインスピレーションをいただき、学び直した実践を積んでいこうと思います。