犬矢来と駒居~風情の仕合せ~

昨日は、聴福庵にある犬矢来(いぬやらい)に柿渋を塗り込み掃除や手入れを行いました。この犬矢来は、駒寄せとも呼ばれ本来は馬が家の塀を蹴ったり犬のオシッコなどで汚れるのを防ぐというという目的があったようです。木で格子を組んだ型・丸竹を数本並べた型・割竹を並べた型などの様式もあるといいます。竹が曲げてある形は滑って壁を登れないことから泥棒の侵入を防ぐ効果もあったようです。

京都にいけば町屋が並ぶ通りにはこの犬矢来や駒居がならび独特な日本の和の風情を醸し出します。先日は、離れの犬走りを玉砂利で敷き詰めましたが同じ「犬」の字がつくこの犬矢来は、犬を追い払うやらう(やらい)という意味で、駒居は馬を寄せるという意味からできた言葉です。現在では雨垂れが飛び散り家の壁を汚したり腐食したりすることを防ぐ効果からも用いられます。

この犬矢来を聴福庵に取り入れるキッカケになったのは、聴福庵は町家づくりのためその原点になっている京都の町家建築を学び直すでその美しさに惹かれたからです。京町屋にある壁伝いに巡らされた駒寄せや犬矢来のある美しい町並みをみていたらその街並みの調和に感動したからです。そこに竹の清々しさや柔らかさ、そして町全体の暮らしを感じることができたからです。

現在では竹製品は少なくなってきましたが、むかしは物が不足していた時代の無限の資源として短期的な成長力があり生産性がもっとも高かった「竹」を暮らしの中で十分に活かすことを考えて竹を用いました。このことからむかしは日本の家の中外のほとんどに竹製品が彩られていたのです。

聴福庵も箱庭には竹垣や観音竹を、側道には黒竹や黄金竹を、玄関には京都の竹を用いた犬矢来、厨房の天井には年代物の煤竹、花籠、竹団扇、竹箸、それに火吹き竹や竹炭装飾に至るまで家の中はあらゆる竹に関係しているものが活動しています。

よく考えてみれば日本人の風情の中に「竹」は欠かせない存在です。それは日本の気候風土が湿度が高く水気が多く腐りやすいからです。その点、竹は水に強く丈夫でいつまでもしなやかに経年変化の中で長持ちする特徴があります。

現在グローバリゼーションや資本主義経済優先の中で、大量生産大量消費して世界中どこでも同じものを安く使い捨てする世の中です。本来の気候風土に合ったものを捨て、プラスチック製品や安易に製造できる化学製品を買い求めます。しかしそのことから、無駄を生み出すだけでなく風土の中で豊かに生きる智慧や風情をも捨てていきます。

生きていく仕合せの中心は、暮らしがあることです。暮らしがない人生は味気もなく、無機質なロボットのようになってしまいます。本来の人間として与えられた感性や地球や自然と一体になる喜び以上に豊かなものはありません。

引き続き子どもたちに、譲り遺していきたいものを丁寧に治し、そして活かし、温故知新していきたいと思います。

夏季実践休暇~盂蘭盆会~

今年の夏季実践休暇の一環として、聴福庵で天神様の盂蘭盆会の供養を行いました。菅原道真は私の遠い先祖であることもわかり、日ごろ見守ってくださっている地域の天満宮の清掃と共にむかしの形式を学び直しつつお花や供物をお供えしました。

そもそも盂蘭盆会というものは、仏教からはじまったものです。お釈迦様の弟子のひとり、目連尊者(もくれんそんじゃ)が自分の亡くなった母が地獄に落ち逆さ吊りにされて死後もなお苦しんでいることが神通力を通してわかり、どうしたらその母親を救えるでしょうかとお釈迦様に尋ねたのがキッカケです。それに対しお釈迦様は、「夏の修行が終わった7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができるであろう」とし目連尊者と僧侶たちがその教えに従うとその功徳によって母親は極楽往生が無事に遂げられたといいます。

ご先祖様への供養となるのは、仏教が中国に伝来してそれまでの儒教などと融合して発展したといいます。時期は南朝梁の武帝(在位502~549)の時代に同泰寺で盂蘭盆斎が設けられ以後、中国の年中行事の一つとなって大いに流行したといいます。日本では推古天皇14年(606年)の記録が古くのち先祖供養や祖霊来訪の民俗信仰と習合して正月と並ぶ重要な年中行事となっています。

この盂蘭盆会の実施の時期は、歴の関係で新盆とか旧盆とか月遅れとか呼ばれますが明治時代の暦の改変で変更されてからこうなっています。西洋のグレゴリオ暦にする前は、暦は年々変化しますからむかしはその暦の変化に合わせて御盆も実施されていました。お釈迦様のときは夏の修行後とあったので、私たちとは生まれた場所も異なりますから本来の日時も季節も同じではおかしいかもしれません。

しかし本質として、亡き人を偲び自らの心に供養をすることは亡き人の苦しみや悲しみを和らげることができまた同時に自他も仕合せになるという真理があるように思います。それを子孫たちが行うことには大切な意味があります。

実際に盂蘭盆会の準備でご先祖様が家に帰って来るという意識で供物やお花を用意していると、今の自分がなぜここに居るのか、そして多くの見守りに活かされているのかを実感し、有難い気持ちになります。

先祖や亡くなった方々があって今の自分があるという意識は、自分だけがよければいい、自分の世代だけ乗り切ればいいなどという自我欲が恥ずかしくなるものです。自分のことだではなく全体のため、子孫のため、地球全体のためにと生きてこそ、私のその先祖の一員になれるという気がしてきます。

また先祖の霊は山からくると信じられていますから、山の花々、山から下りてきた花々を一緒にお祀りすればまるで身近にご先祖様の霊が訪れ華やかに喜んでくださっている気がしてきます。

日本の行事の中には、先人からの大切な教えや回訓があります。学校の知識も大切ですが、本来実践して学ぶという行事からの学びは智慧の伝承として決して失ってはならないものです。

子どもたちに自分たちの代で途絶えることがないように、丁寧に温故知新し甦生していきたいと思います。

真心の日々

人は初心を忘れずに実践をし続けることで道を歩んでいくことができます。道には終わりがないように実践にもまた終わりはありません。実践も日々である理由は、道を歩くのと同じで少しずつでも歩き続けていたら前進していくからです。もしも歩くのをやめたり、休憩ばかりして歩まなければそれが十年、三十年、五十年という歳月が経ったときには遠大な差になっているからです。その差は人生の本質に影響を与えます。

人間は何度も生まれ変わります。その生まれ変わりは、先祖から今に至るまで数百年数千年、数万年、それ以上の歳月をかけて歩み続けてきた道です。人類の成熟に向けてどこまで自分がその道をつなぎ歩んでいけるかは、それぞれの人生に課せられた偉大なテーマであろうと思います。

よく仕事と人生と分けないことを、実践を通して語りますがこれは分けることで本質が失われてしまうからです。これは仕事、これはプライベートを分けるのは自分の知識であり、本来はどれも人生なのだからどれだけ本気で人生を生き切るかということになります。

もしも初心があり日々を歩んでいくのなら、分けずに何でも来たものを選ばずに今に集中して今を生き切ることが必要です。言い換えればそのどれにも必死になって努力し楽しむ人生を歩んでいくということです。

人生の時間は誰にも平等で、その人生にはいつの日か終わりが来ます。そして今一緒にいる仲間やパートナーや縁者たちとのお別れの日が必ず訪れます。今しかできないこと、人生としてやり遂げておきたいこと、そのどれにも妥協せず、言い訳せずに、これも人生であると言い切れるように日々を実践で彩っていきたいものです。

いつ死んでも悔いのない生き方の中に、真心の日々があります。

子どもたちのためにも真心の日々を磨いていきたいと思います。

人生の仲間

人間は物事に取り組むときに、「自分事」になっているか、「他人事」になっているかという観点があります。どこか相手の問題で自分にはかかわりがないと線引きしていたら、結局は本質的にその人の問題を一緒に解決することができません。

何かに取り組むとき、それを単に仕事の一つとして捉え、どこか相手がやることになっていて自分はあくまでそのサポートでとうことであれば全体の解決のプロセスをチームで進めることはできないのです。

先日、あるリノベーションの会社の記事を読んでいたらその経営者が「自分が其処に一緒に住む」という覚悟で仕事に取り組んでいるという話でした。その方は、それまではクライアントの依頼に応えるだけで、如何にクライアントにメリットがあるかと考えて仕事をしていたといいます。もちろん、仕事のクオリティも高くお客様も満足してくださっていたそうですが数年後にその建物にいくと結局はその人抱えていた問題は解決もせず、自分が手掛けたものが活用できていないという事実に直面したといいます。

その時、最初はそれは相手に問題があると考えたそうですがそれでも何件も同様の建物を見るにかぎって自分に矢印が向いたそうです。果たして自分は「自分事」であったかという自分への矢印です。どこかビジネスだと割り切って他人事にしていたのではないか、本当の一緒にやっていたかと思うと大きな反省があったそうです。

これは今の世の中の世相を現わしている気がします。結局は何かに取り組むときに自他を分けて一緒にやっていないで相手の問題になっているから自分が提案しているものはあくまでもビジネスとして自分の立場を守るものになってしまい覚悟が決まらないのです。一緒にチームで取り組む覚悟もなく、ただ単に仕事をするだけであれば本質的な問題を一緒に解決に向かって協働したことにはなりません。

こういう仕事は、仕事のための仕事であって人生を一緒により善くしていこうという本質的な関わりはできません。

「自分事」だと思っているかというのは、前提が人生で一期一会に一緒に生きていきたいという「何のために働くのか」という生き方が定まったものであり、それは自他一体の境地で一緒一体に生きていく同志ということになります。自分の人生を懸けて取り組んでいく仕事を一緒にやることはそれ自体が美しく、その結果は単に成功以外の大きな喜びや仕合せがあります。

分けないという生き方、自他事一体として生きていく力には人生の主人公としての力が必要なのです。

今のような自他が完全に分けて考えられているような時代、コンサルティングをする上で決して間違ってはならないのは決して他人事にしないことです。もしもこれが自分の会社だったら、目の前の人が自分だったらと、自分に置き換えることができるからこそ本質的な本物の協業が実現するのです。

人は協力者があるからこそはじめて偉大なことができます。

いい人との出会いが、人生を唯一無二のものにします。一緒に生きていく人生の仲間を大切に人生として関わっていきたいと思います。

何をするかよりも何のためにやるのか

人間には大きく二通りのタイプがあるように思います。それは何かをするときに、何をするのかを考えるタイプ、そして何のためにやるのかを考えるタイプです。前者は、やることが目的であり結果を出すことが大事です。後者は、なぜやるのかが目的であり何のためにやっているのかというプロセスが大事です。もちろん本来は両方とも大切ですが、この順番がどうなっているのかで物事の本質が変わってきます。

この「何のために」ということは、自分自身の初心を確認するものです。例えば、同じ質問であっても何をして働くのかと何のために働くのではその問いの意味が異なります。

何のためにというのは、働くことへの原点でありその気持ちがあればどんな職種であっても仕事であってもあまり影響はないとも言えます。しかしこれを自分と向き合っていなかったら何をするのかが重要であり、業務や職種に依存してしまうことにもなります。もちろん、何のためにと追求していくのなら次第にその人の仕事が本質的になりますから業務も職種も近づいていき気が付けば相応しいものになっています。

つまりは人間を観るのに大切なのは、その人の肩書や立場、結果ではなくその人がなぜそれをするのか、そしてその人が何のためにそれをするのかを確認することです。

それを観ずにしてやっていることだけを見ていたらその人間が本当はどのような人物で何をしたいのかが分からなくなります。そしてこれは当然相手だけではなく、自分自身にも確かめ続ける必要があります。それもまた初心なのです。

初心の確認というのは、お互いに本質的であり続けようとする確認でもあり、人生の方向性を見誤ることがないようにお互いにそれぞれ何のために生きるのか、何のために働くのかを忘れないようにし、その人の本質を観続けて助け合っていこうとする相互理解・相互扶助の道徳の仕組みなのです。

私たちが行う一円対話は、聴福人が本質を問い続け何のために働くのかを忘れないために初心の振り返りを行うのです。人間は、忙しくなりすぐに流されて心を亡くしてしまうと初心を見失います。何のために働くのかを忘れるから、心が疲れてくるのであり、何のために生きるのかを忘れるから好奇心が減退し面白くなくなってくるのです。

常に本質を見失わない工夫こそが、人格を高め人格を磨きます。真実の人たちを守っていくことが子どもたちの未来への偉大な布石になります。

引き続き、何をやるのかではなく何のためにやるのかを発信し続けてこの世の中に本物の価値を伝承していきたいと思います。

まちづくりの原則~復興の本質~

かつて二宮尊徳は荒廃した村を復活するのに、優先するのは「心田開発」であるといいました。その理由は、先に心が荒廃するからその結果として村々の荒廃があるというのです。よく考えてみるとこれは現代のまちづくりでもまったく同じことが言えます。

なぜ過疎が進み荒廃していくのか、そして都心でもまちが乱れていくのか、それはそこに住む人たちの心が大きな影響を与えています。例えば、まちづくりであればそれぞれが主体的に暮らしを整え、美しい生き方や、心豊かに生きようとするのなら、その場所は次第に暮らしに向いていく場所になります。しかし、そこに住む人たちの心が荒んでいけばゴミを捨てたり、周辺住民と紛争ばかりを繰り返したり、不平不満や不安や恐怖を感じていたらそのまちは荒んでいくのはわかります。これはすべてにおいて人々の「徳」の影響が出ているのです。

別に今と昔は大差なく二宮尊徳のいた時代も同様に、村が荒廃するのはその村の人たちが心が先に荒廃していくからその結果として村が荒廃したのです。今の時代も同様に、まちの人たちの荒廃がまちの荒廃になっているのは自明の理です。まちを治したいのであれば何を治すのか、まちづくりのするのならその大前提になっている価値観そのものを丸ごと転換しなければならず、前提が変わらずにちょっとやったくらいでは焼け石に水なのです。だからこそ二宮尊徳の時代も為政者に覚悟があるかどうか、本気で腹を決めたかどうかを大切にしたのです。

どんなまちにするのか、どんな村にするのか、それは村や町をどのように経営していくかという視点が必要です。それは会社経営と同様に、どのような会社にしていくか、その覚悟を決めたら、その理想に向けて社長を中心に社員と協力してコツコツと取り組んでいくしかありません。そういう地道な努力があって最終的には物事は開花しますから何を目指しているのかどんな未来にしたいのかと定めたら、あとは時間と努力の掛け算があるだけです。

例えば、株式会社でいえば数字だけを追っかけて社員の大切にせず利益だけのために過酷なノルマを課していればブラック企業のようになります。これはまちづくりも同じで、財政赤字の解消のために町民を大切にせず利益だけのために税金ばかりを課しているのならブラック行政になります。会社ならそこに働く人たちは心身が病んだり、退職や転職をし、その会社も衰退し倒産します。これはまちづくりも同様のことが置きます。原理原則や法理というものは、別に会社やまちに関わらずすべて自然の摂理ですからそのままのことが起きるだけです。

会社経営ならば、よく一人ひとりの社員の声を真摯に聴き、どのような会社にしたいかを定め、みんなで協力して協働しながら安心して働けるような環境に変えていく。そしてその会社で暮らす仲間たちやお客様が仕合せになるような働き方をみんなで一緒に実践して心豊かに日々の努力のプロセスを楽しんでいく。そういうことを同様にまちづくりでも行えば必ずその「まち」は会社経営と同様に時間の経過とともに善くなっていきます。

そういう意味では、誰の会社なのか、誰が経営しているのか、なぜそうしたいのかということが観えない「まち」が多いように思います。そもそもの理念がはっきりしない、そして誰にも浸透していない、何のためにそれをやるのかをみんな知らない、個々がバラバラで好き勝手やっているのではまちづくりなどできるわけはありません。何を優先するかも定まらないのでは、その取り組む順番など無茶苦茶で未来のグランドデザインなど組めるはずもありません。

二宮尊徳が村々を復興させていた時代も、村の荒廃によって住民たちが苦しみました。住民が苦しんで貧困の極みにおいて、報徳仕法という仕組みが実践され村々は復興しました。その時、二宮尊徳が一体何から取り組んだか、まちづくりに取り組む人たちは目先の効率や流行りばかりを追っかけるのではなくもう一度、復興の本質を深く見つめてほしいと思います。

私も子ども第一義の理念で取り組んでいく以上、子どもたちが自立して安心して暮らせる世の中を譲り遺していきたいと思います。引き続き、むかしからの日本的経営と暮らしの甦生を復古起新しながらできることをコツコツと取り組んでいきたいと思います。

 

完璧主義の罠

以前、シェル・シルヴァスタインの「僕を探しに」という絵本を読んだことがあります。内容は「何かが足りない それでぼくは楽しくない 足りないかけらを 探しに行く」、そのためにころがりながら、歌いながら、足りないかけらを探しだしていくというテーマです。具体的には、いろいろな欠片を埋めるためにいろいろな欠片とくっつきますが、そのどれもがしっくりしません。自分の欠片と思っていたものが、違う苦しさに出会います。

そしてようやくぴったりの欠片を見つけて完璧な存在になります。しかしそれもつかの間の喜びで、最期はやっぱり欠片があった方の自分のままでいいと転がり続けていくというような内容だったと思います。

真面目な人や自己評価が低い人は完璧を目指し、自分にできないことを人に求めて苦しんだり、他人にできないことを求めたりして非常に苦しむことがあります。自分の身の丈を超えたことを自他に求めては、どうにかならないかともがき苦しみ転がり続けます。

本来は、完ぺきではないからこそチームが必要なのであり、欠点や欠陥があるからこそ周囲と協力するということが生まれます。しかし根底に自分が完璧でなければならないと思い込んで自他に求める人はその方法を選択せずに自分の努力や能力だけを頼りに乗り越えようとして結局は崩れていくように思います。

この完璧主義の刷り込みは、過信や傲慢さを生み、分を弁えず自他を責め続けるという悪循環に陥ります。自分が完ぺきではないと認めることができない限り、本当の意味で自分の長所や短所を受け容れられず、周囲の人たちの長所や短所も観えることもありません。考えすぎて苦しみ、頭痛ばかりが増えても一向に改善することもなく、もっとも身近にいる協力者にまで苦しみの連鎖を与えてしまっているのを自覚し早々にその刷り込みを手放す必要があるように思います。そのためにはいちいち考えて頭痛ばかりを繰り返す前に、その前提になっている自分の生き方を改善するしかありません。それは具体的には「大きな努力で小さな成果」を積み重ねていくという生き方にすることです。これは鍵山秀三郎氏の言葉です。

「いますぐにできないことは、時間と手間をかけてやる。一人ではできなことは他人の助けを借りてやる。この方法ではできないと思ったら、別の方法を考える。方法も変えないで、一人でできないことを一人でやろうとして、いますぐにできないことをすぐに求めても、それはないものねだりにすぎません。私の人生観は、『大きな努力で小さな成果』を求めていくということです。得られるものはたとえわずかであっても限りない努力を重ねていく。成果が少ないことに甘んじるわけではありませんが、少なさに耐える気持ちが大切だと考えてきました。」

この逆に小さな努力で大きな成果を出そうとするのは、誤っていることはすぐにわかります。それが強いからこそ、できないことを自他に求め、不平不満ばかりを並べては自他を責めて矢印を向け言い訳や文句ばかりを並べてしまうのです。本来は「その成果までのプロセスの努力の価値」が重要であって、それを根気よく継続すれば必ずいつかは成果に辿りつくと信じて日々に精進していくことがもっとも全体にとって価値があるのです。

また同様の話に将棋の羽生善治氏がNHKのプロフェッショナル 仕事の流儀の番組で「プロフェッショナルとはどういう人だと思いますか?」という質問に対して「細かいこと、それをたとえば一日1時間、20年間やれと言われたら大変ですよね。本当のプロフェッショナルとは、そういう努力を続けられる人だと思います」と言っておられました。

このように小さな成果のために大きな努力を惜しみなくできることが、そのままの自分を理解して完全になっていくことであり、自分の欠片ばかりを探しては完璧になろうと思い大きな成果ばかりを求めて探し続けてもそんな欠片は見つからない、もし見つかってもそんなものが本来の成果ではなかったと気づく日が来るのです。

むしろ人はみんな何かしらの欠点があった方がいい、その方が魅力が引き出されていきます。全部悪いところを取り除けば、何の欠点のない人になるのかもしれませんがそれは同時に何も面白くもない人になってしまいます。マジメなのはいいことですが、完璧になることがいいことではないのです。

欠点があるからこそ、仲間にカバーしてもらう。自分にできないからこそ、みんなで力を合わせて乗り越えていく。まさに欠点のままでいい、自分のままでいいという居場所がその人の魅力や持ち味を引き出していくのです。

完璧主義の罠に嵌れば苦しいだけです。コツコツ努力することは自分でできるのならそれだけは続け、自分にできないことは人の助力を受ける努力をすればいいのです。

本来目指している、子どもの憧れる会社、そういう生き方のために自分自身の刷り込みを見つめ直して改善して同様に苦しむ人たちのために貢献していきたいと思います。

共感のやさしさ

人間は、時として一人では乗り越えることができないような困難や葛藤に出会うことがあります。不安や恐怖から、誰かに支えて貰わないと前に進むことができないようなこともあります。そういう時に、心に寄り添ってくれる人や、心の支えになってくれる人が救いになって様々な壁を乗り越えることができることもあります。

見守るということもまた、相手の心に寄り添うことで実現するものです。

しかしこの寄り添うと思いながら頭で寄り添ったつもりになっていて考えているだけで心は着いてきていないこともあるように思います。相手のことを考えていることが思いやりではなく、心を寄り添い、心で近づき、心で共感し、心から相手の心を自分に同一化するほどに受容することができてはじめて寄り添っているとも言えます。

人間は頭でなんとなくきっとこうだろうと思い込んで頭で考えて行動しても心は着いてこないことがほとんどです。頭で考えることは共感とは異なります。共感は例えば、相手が痛い思いをしていたら自分も痛いと感じる心、また相手が悲しみで泣いていたら一緒に泣いているような心、相手が自分と同化するほどに気持ちが伝わり感応するのです。

よくカウンセラーなどが共感してのちにアドバイスをしますが、もしもその人が頭で計算しながらやっているのならその場しのぎの対応になるだけでその人の人生を一緒に乗り越えるほどの支えにはなりません。共感しながらも自分の人生体験から励まし勇気を与え信じ見守るという過程は、真心の行動が伴わなければならないのです。

頭で考えることと真心は異なります。相手の苦しみに寄り添う時間や、相手の困難に共感する時間、すべてはじっくりと心が寄り添うために自分から心を寄せていく「共感のやさしさ」が必要なのです。

この「共感のやさしさ」を磨き続ける人こそ真心の人であり、そのやさしさが具体的な行動になり具体的なアドバイスになり具体的な見守りの環境を創造するのです。

慣れてしまい共感から入るのを怠らないように常に自戒し、心を用いてどのような人へも接していきたいと思います。共感のやさしさを失わないように丁寧に心を寄せていく工夫を行っていきたいと思います。

 

もったいない記憶

古民家甦生に取り組み、古いものを直して使っているとそのものに歴史があるのを直観することがよくあります。それは古い傷跡であったり、修復歴であったり、また作り手や使い手の工夫、その他にも収納箱や文書などどのような歴史を持っているものかが伝わってくるからです。

当たり前のことですが、自分の身近にあるすべての「もの」にも歴史はあります。過去、どれくらい前か、その「もの」がどのような経過があって今ここにあるかがそのものが語ります。

これはものに限らず、人も同じです。生まれてから死ぬまでの間に、様々な人たちにご縁がありそれぞれにかけがえのない物語が生まれています。その物語の延長に今の私も生きています。その一つ一つの偶然の組み合わせが、奇跡のように結びついて今の私たちがあります。

このブログを書いている机も、飴色のテーブルからは作り手の丁寧な仕事と思い、そして小さな修復歴、机上の傷跡、引き出しの文字、装飾などに思い出が伝わってきます。だからこそ、そんな机だからこそ木片や破片ですらも捨てるのに気が引けます。そこには大切な思い出も一緒に生きているからです。

私たちは「もの」は単なる「モノ」としてそこには心や精神はないと思ってしまいますが、本来は八百万の神々といって「もの」にもいのちがあります。そして形がないと思われている「思い出」にもいのちがあると私は思うのです。

形がない思い出は、いつまでも私たちの心に生きています。亡くなった祖父母や、幼少期に一緒に過ごした犬や虫たち、そして数々の出会い別れ、気づきの感動は思い出せば心に今も生き続けています。この思い出もまた、私は「生きている」と思っているのです。だからこそ忘れないように、色褪せないようにと大切に修繕しながらその思い出が飴色になるまで大切に思いやり一緒に生きていくのです。

無常にも歳月は経ちますが、いのちは「そのものが思い出と共にある間」はいつまでも生き続けます。そして御縁が結ぶ奇跡の出会いのなかで新たないのちの思い出を燦然と輝かせていきます。そこはまるで宇宙の星々のようです。

その生き続ける思い出を大切に感じながら新しく前に向かって生きていくのは無生物であろうが、かたちがない思い出であろうが、今、生きている人間の姿とまったく同じなのです。それが勿体無いということです。

いのち全てに思いやりや真心をもって生きるとき、人間はかんながらの道を歩み続けます。宇宙の意志は、かたちがあるなしは関係はなく膨大な思い出に見守られながら膨大な思い出を紡ぎ直すことです。今までどんなご縁があったかに思いを馳せると懐かしいものがあり、これからどんなご縁があるのかを思えば浪漫があり、それはいのちの仕合せです。

引き続き、「もったいない記憶」を辿りながら子どもたちに自然至善を譲っていきたいと思います。

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。