真心と至誠

人と人との間の関係において、人間は頭で考えることと、真心で行動することを勘違いしてしまうと本質から乖離してしまうものです。本質を守るためには考えるか真心かという二者択一ではなく、常に真心を用いながら生活しその中で考えを巡らせていくという心身統一が必要になります。

この心身統一とは、理想と現実の統一とも言ってもよく、自分の人生でどう生きるかという生き方と、同時にどのように創意工夫して初心を保つかという知恵の活用です。

剣・禅・書の達人と言われた幕末から明治の武人に山岡鉄舟がいます。この人物はまさに、その心身統一に生きた真心の人だったように思います。江戸の無血開城もこの人物無しではありえなかったことですし、明治天皇の教育指導者としてもその後に大きな影響を与えます。山岡鉄舟が遺した言葉にこういうものがあります。

「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」

意訳ですが、「心を一つにすれば真心が発動し、すべてのことはそれによってのみ成り立っていくんだよと。」つまりは、自分の心の声に従って活動することで真心のままになりそのことがすべての出来事と一体になって活動していくのだという意味です。

人は頭で考えたことを心の声だと勘違いします。我が強く自分の思い通りにしようと思うばかり、我欲から出た声も心の声と思い込んだりもします。心の声を聴くというのは、我欲に呑まれないように常に真心のままに生きる実践を行っていくということです。

例えば、「思いやり」を持ち続けることも真心の発動です。頭で考えた思いやり風や真心風ではなく、心を寄せていく思いやりや真心を実践していくことです。人間は、相手の立場に身を置き、心情に寄り添って一緒に事物に傾聴し共感し受容していくのなら、自然に心が発動していきます。心は、常に全体を捉えておりその全体の中には自他の違いがありません。

もしもあなたが私なら、私があなたならと自他一体なのです。それを維持するには、計算から入るのではなく心から思いやる澄んだ精神が必要です。心を研ぎ澄ましていくというのは、山岡鉄舟のように自分の中に雑念や妄念、我欲や計算、保身などが邪魔しないように真心で心を大きくしていく修養を行うということかもしれません。

山岡鉄舟の剣の極意にはこう記されます。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」

「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」

「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」

心胆錬磨して一体何を目指したか、真心一つ、至誠こそその初心であることが分かります。

一日一日を過ごし内省し振り返る際に、もっとも大切なのは頭で考えることよりも、どれだけ心を使ったか、どれだけ心に従ったかという日々の心身錬磨が出てくる未来を変えていくのでしょう。

真心と至誠から常に自分を使い切っていきたいと思います。

非効率な生き方

昨日、ある方から「貴社は効率優先、結果が先ではない、長いスパンで物事を進めているいい会社だ」と評価されました。その方は、長年、大企業のプロダクトデザインをなさっていた方で家電製品や商品全体のユニバーサルデザインなども手掛けておられた方です。

少し前の日本は、すぐに結果だけを優先する成果主義をとっていました。しかしこの方法はどうしても短期的な成果だけに注目されるため、長い目で観て判断されるようなことは後回しになってきたように思います。

本来の仕事の質は、長い目で観た時にどれだけの価値があるかという経年変化の中で顕現していくものです。私が取り組んでいる古民家甦生もそうですが、かつて日本の先祖たちが発明した様々な道具や商品は経年変化する中で智慧は顕現してきます。

現在は一時的に無価値のようになった古いものが増えていますが、実際には何百年もむかしから改良されてきた自然を活用する知恵に溢れているものばかりです。現在価値が下がったのは、決してその道具が悪いのではなく私たちの価値観が自然から反するものになり、自然を活かそうとするよりも、自然を管理しようという人工的なものこそが価値があるという考え方に転換されただけです。

そのうち、自然を活用することが持続可能な社會の実現において何よりも重要だと気づけば日本人の先祖の生み出した道具や仕組みに回帰していくはずです。その時に、それが遺っていなかった、すべて失われたでは取り返しがつかないのです。

人間の価値観というのは時代時代で変化します。しかし本質や本流は変わることはありません。その中で短期的に流行があってある価値観が横行して飲み込んだとしても、自然がバランスを取るように必ず揺り戻しがあるのです。地球も暑くなれば、次は冷えるというようにそれが激しくなれば激しく揺り戻します。

価値観も同様に時間の経過とともに揺れ戻していきます。その際にどこに回帰するのか、どこを原点として間をとっておくのか、それは常に私たちは自分たちでバランスを掴んでいる必要があるのです。そのバランスを掴むためにも、本質を深め続けていく必要があります。物事の本質を深めていけば、自ずから原点回帰していくからです。

私たちは理念や初心があり、本質的に何をすることがもっとも子どものためになるのか、子孫のためになるのかを考えています。そこから、何を優先することが本質なのかと考えるようにしています。

質を高めるというのは、本質を極めるということです。

だからこそプロセスを大切にし、そのプロセスの中で出てきた問に対して改善を続けてそれを味わいながら成長していこうとしています。まさに非効率な生き方ですが、本質を守る生き方が人類や世界に必要になるときが来るはずです。

いつになったらという思いもありますが、粛々と初心の振り返りと脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。

 

信念を貫くということ

人間の一生は短いものです。その短い一生の中でできることとできないことがあるように思います。例えば、すぐにできることは自分一代で得られることばかりですがもしも何代か先の子孫のためにとなればできないことが増えていきます。

この時間軸というものは、その人がどれくらい長い目で物事を考えて行動するかにかかっています。一見、無駄なことをと思えるものでも信念で取り組む人や自分が決めたことをやり遂げる人には周りの評価は気にならないのかもしれません。

そういう人たちの功績というものは、その方の没後に燦然と輝いてくるものです。今でも私たちが身近に触れることができる伝統や文化を通して私たちはその価値を享受することができています。今、私たちが恩恵を受けることのほとんどは最初にそれをはじめた人がいたからです。そしてその人の人生では周囲に認められなくても、その人が信念で切り拓いた道の延長線上で私たちは仕合せや豊かさをいつまでもいただくことができるのです。

今、名が遺る歴史の偉人たちはみなそうやって自分一代だけに囚われず本来の自己の使命を追求し、精進をして何よりも信念に生きた人だったように思います。

しかし実際には、人間は信念を維持することが難しいものです。自分一代の栄耀栄華に囚われ、他と比較して贅沢や裕福になりたいと願い、周りが持っているものはもってたい、周囲に評価されたい、安定して安心できる日々を手に入れたいと、様々な欲求を優先して信念が消失していきます。求める力もまた同時に減退してきて、生活に流されているうちにその生涯を終えることがほとんどのように思います。

そもそも物事の本質や天命や使命は変わることはなく不易です。しかし、時代の流れの中で恵まれた生活を送りたいと誰しもが思うものです。楽をしたい、安定したいと思うこともまた、人間の願望でそれ自体は自然なことです。大切なのは、どれくらい長い目で取り組んでいくことか、どれだけ真実に忠実に取り組むかということが、その物事の本当の価値を定めるように思います。

本流を貫き、本質を維持する、つまりは不易というものは自分の信念に従うことと深い関係があります。そして流行とは、時代の中で変化していく価値に対して本来の価値を守り続けるために自分の方が本質で居続けるための精進を続けていくことです。

温故知新は、新しい時代の流れの中にいて本来の初心を変えずに忘れずに取り組み続ける信念ののことです。変えないためには、変わり続ける必要がある。その日々に真実を求め続けて学び抜く本物の学力が求められます。

物事をそこまで本気で追求しようとする求める心は、自分の天命や使命に生きたいという信念と共に育ちます。信念に助けられ、没後でもいいと思えるような諦観を持ちたいものです。

引き続き、誰がどう言おうが他人からどのように評価されようが自分の中の信念とかんながらの道を達していけるように精進していきたいと思います。

聴く姿勢

人間は、無敵の時と敵だらけになるときがあるように思います。敵だらけになるときは、総じて誰の話にも耳を傾けず独善的に自分が正しくて周りが間違っていると思い込んでいるものです。その時は、一番身近にいる親しい人や、自分のことを心配してくださっている友人にまで敵だと思い込んでしまったりするものです。

では無敵であるとはどういうことか、それはこの反対に人の話に耳を傾けるという時です。人は、話を聴いている状態の時は自分の間違いに素直に気づくことができ、人のアドバイスや忠告を謙虚に受け止め周りの人たちのことが仲間になります。仲間になれば敵はいませんから無敵となるのです。

人間は、話を聴けるかどうかが何よりも自分の状態を確認できる物差しです。大体、人は自分にとって都合の良い話や自分が聞きたい話を探し求めているものです。その逆に、耳の痛い話や聞きたくない話は耳を閉じていたり避けたり、無視したりと耳を傾けることはありません。

この耳は、聴くと書いているように心に直結しています。自分の心が聴きたくないことは耳を閉じればいいのです。耳を閉じるというのは、話を聴かなくなればいいのです。しかしこの時、心を閉じてしまうから周りは敵に見えてしまうのであり心を開いていれば周りは仲間に見えるのです。

思い込みが強ければ強いほど、相手のことを先に決めつけてしまい話を聴くことはありません。確かに正しいか正しくないか、自分にとって有利か不利かはありますが本来は相手の言い分にも「一理ある」と聴くことこそが自分によって有利でありそしてもっとも正しいことに近づくことになります。

この「一理ある」という聴き方は、自分だけではなく相手のことを認めているという行為です。相手を認めず自分の思い込みだけを押し付けてしまえば相手は自分が尊重されなかったと感じてしまい信頼関係が崩れてしまいます。人間は、見た目が同じようでもそれぞれに個性が異なり持ち味を活かし合う生き物ですからお互いを尊重しあい信頼関係を築くことで協力して生き延びる戦略を発揮して社會を形成してきた生き物です。

だからこそその基本(ベース)には、「聴く姿勢」を持つ必要があるのです。素直さや謙虚さは自分の「聴く姿勢」に顕れます。自分から「きっと大切なことを教えてくださっている」という姿を持ち続けて、人の話を聴く努力ができる人が将来的に人格が磨かれ徳を高めていくように思います。

子どもたちも素直に謙虚に心を開いて自分らしく生きていけるように、聴く姿勢を正していきたいと思います。

むかしのいのち~もったいない~

昨日、聴福庵のおくどさんの間の天井煤竹の残りで装飾などを行いました。煤竹は、丈夫で傷まないのであらゆるところに活用することができます。飴色に美しくしなるこの竹は歴史を生き抜き燻されたいのちの凄みを感じます。

今の時代、何でもすぐに加工して大量生産をして本物に似たようなものを作ることができます。本物風の似て非なるものが、席巻しているこの時代では時代の篩にかけられて生き残ったものは古臭いものとして捨てられていることが多いように思います。

しかし少し考えてみればわかります。

この本物の煤竹を作ろうと思ったなら、100年から200年間、囲炉裏の上で日々に燻し続ける必要があります。そんな時間と手間暇をかけてつくろうとしたら、出来上がるのにこれから100年から200年待たなければなりません。ホームセンターなどで売ってある煤竹は、見た目は飴色風ですがこれは機械で一気に燻し加工することで本物風に似せているものです。

もしも先ほどの100年から200年の煤竹の大量注文をお店が頼まれたらすぐに「品物がない」と断るはずです。また「200年待ちでもいいですかと聞いて「はい」と答える消費者はいない」と答えるでしょう。

簡単に真似できるものと、真似できないものがこの世にはあります。いくら似せても、歴史や時間は似せられないのです。

私は伝統というものを考えるとき、かけてきた時間の長さを感じます。

人間は誰でも寿命を全うしたいとは願うものです。そのために、いのちを永く使い切ろうと大切に用いてきたのです。「もったいない」という言葉の本質や背景には、このいのちの大切さが籠められているのです。

そのいのちを加工して時間を懸けずに簡単に作りこまれて消費しては捨ててゴミにするという世の中では、いのちの価値もまた失われていくように思います。

すぐに加工して使える物を欲しがる風潮は、人間にまで影響を与えすぐに加工して使える人間を欲しがるようになります。

本来、時間をかけてそのもののいのちをじっくりと感謝して使おうという価値がもったいない心を育み、自然の智慧を活かす風土環境を醸成したように思います。

むかしのいのちの価値観が失われてきている現代において、子どもたちの感性にも影響を与えてきているように思います。伝統というものは、その歴史の時間を通して先人たちが守り継続してきた思いや願い、祈りがあります。

聴福庵の天井に配置した煤竹には、そういう祈りや願い、思いが入っています。引き続き、子どもに譲り遺していきたい生き方を伝承していきたいと思います。

空氣の本質~元氣な暮らし~

人間は空調に慣れてしまうと空気の流れや新鮮さなどを感じなくなりますが、むかしの古民家に住んでみると風が縦に流れているのを感じ澱みのない新鮮な空気の美味しさを味わえるものです。家の中では囲炉裏をはじめ、火鉢などを炭を熾してお茶を飲みますがその空気も床下から天井の屋根へと流れていく空気によって常に浄化されていきます。

以前、新潟のとある古民家宿泊施設に泊まったときそこは空調設備が整い現代のサッシの窓で厳重に閉め切られていたのですが、囲炉裏で火を熾したらすぐに一酸化炭素中毒の症状が出たことがありました。現代の住宅では危ないからと決して閉め切ることがないのですがつい古民家だから大丈夫だろうと安心していたのが原因でした。古い家でも、現代風になっているところは空気が循環していないのだなと改めてむかしの家の智慧を感じる善い体験になりました。

人間は空気を吸っていかなければ生きてはいけません。空気の中から水分を吸収したり、目には観えない様々ないのちのエネルギーを得ています。森林浴なども空気の中に入っている様々なものを吸収して心身ともに癒されていくのです。その空気が環境汚染によって汚れており、都市ではなお空気は汚れますから健康を害しているのは当然とも言えます。

以前、「医師が薦める本物の健康住宅」という記事を読んだことがあります。そこに小児科医の真弓定男院長の記事に「食事と空気を昔に戻せば、子どもはみんな元気になる」というものが書かれていました。

「特に、みなさんが普段何気なく吸っている空気の問題は重要です。何より気をつけないといけないのは、冷暖房で温度調節された空気です。人間は25日間、何も食べなくても水さえあれば生きていけます。その水も5日間程度なら飲まなくても大丈夫。でも、5分間呼吸をしなければあっという間に死んでしまいます。それほど空気は大切なものです。ところが、この空気をおざなりにしている人が非常に多いのです。
町中の空気より、自然な空気のほうが体にいいことは誰でも知っていること。それなのに、冷暖房や加湿器を効かせた室内で、一年中同じ温度、湿度の中にいるのは、あまりにも不自然だとは思いませんか?体には、もともと温度調整機能が備わっています。気温が高ければ自動的に毛穴を開いて汗を出し、逆に気温が低ければ毛穴を閉じて体を震わせ、熱を生み出す。そうやって体温を一定に保っているにもかかわらず、機械によって体の状態を保とうとすれば、体本来の機能が失われていくのは当たり前です。」

現在、東京では総合空調のビルの中で一日を過ごすことがあります。田舎で自然農や古民家で暮らしているなかで都会の生活に戻るとあっという間に皮膚や疲れが溜まっていくのを感じます。もちろん、病院の入院のように病気の時は回復に役立つのですが健康な時にはかえって不健康になるという具合に体温調節の機能などが働かなくなるのを自分の体験からも感じます。

田舎での体の活き活きした強さは、自然の中で五感が働き躍動することで得られる元氣です。都会は体はあまり使わず、頭ばかりを使うので五感よりも脳さえ動けばいいのかもしれません。しかしその脳も、便利すぎる都会の生活の中で空気や電磁波、食事によって働きが減退しているのも感じます。

さらに真弓先生は、「本来、外気と室内の温度差は、5℃以上あってはいけません。できるだけ外と近い空気を吸う。冬でも薄着の習慣をつける。それが子どもの健康を守る大事な秘訣です。」といいます。

自分の体をあまり甘やかさずに、少し厳しくすることで本来備わっている力を発揮させるようにする。健康を守るというのは、今の時代では環境に甘えずに自律して自立する生活習慣を身に着けるということかもしれません。

最後に、「本物の家」についてこう語られています。

「通気性のいい家とは、家の中の風が縦に吹く家のこと。昔はどの家にも必ず縁の下がありましたが、床下の空気が畳を通して1階に上がり、格子状の天井を通して2階へ行き、その空気が瓦屋根を通って外へ行く。昔ながらの木造旅館などがそのいいお手本です。すぐに新しい家を建てることができないという方は、窓を開ける習慣をつけましょう。外の空気となじませるだけでも違います。建物の空気を大事にすれば、健康面だけでなく、心ものびのび育つはずですよ。」

むかしの家にすれば、本物の家になるという言葉はまさに本質だと思います。

先人たちは、この土地の風土の中で私たちよりもずっと長い間、暮らしを営んできました。その中で得た住宅や家の智慧は、私たちが健やかに安心して健康に生きていくために創意工夫された努力の結晶とも言えます。

それを外来の異なる風土から入ってきた建物や家に住み、その翳った分を加工して乗り越えるのもそろそろ限界に来ているように思います。環境汚染が進み、気候変動やあらゆる資源が激減する中で、そんな遠くない未来に私たちは便利さや快適さを見直してでも健康で長生きし、安らかに豊かに暮らす方を選択することになると思います。

その時のためにも、先人の智慧を伝承することは今の時代を生きる世代の大切な使命です。引き続き、子ども第一義を実践し「本物」を譲り遺すために自立と自律を実践して継続継承していきたいと思います。

 

夏のしつらえ~清々しい涼しさ~

昨日、聴福庵の建具を「簾戸」(すど)しつらえました。本来は6月初旬から秋にかけてですが、ちょうどいい建具が見つからなかったためここの時期になりました。入れ替えてみると、ようやく夏を迎える準備ができた感じになり清々しい気持ちになります。

むかしの日本の先人たちは、夏の厳しい蒸し暑さをしのぐために様々な工夫をしてきました。例えば、身近であれば北から南に風が抜ける通り庭に打ち水をして調整したり、風鈴で音を鳴らし風を感じたり、桶に水を入れてスイカを冷やしたり、金魚を観照したり、団扇も夏の浴衣の色や模様も、その「心持の方も工夫」して涼をとってきました。

今のようにエアコンや扇風機のなかった時代、家も衣服のように衣替えし、障子戸や襖を、風通しをよくした「簾戸」に置き換えて工夫してきました。この「簾戸」(すど)は呼び名が多く夏戸、夏障子、御簾戸、葦戸でもよく、すだれ(萩、葦、竹ひご)をはめ込んだ建具のことを言います。

通気性のなくなった家の中は、モワっとするような蒸し暑さが増していくものです。学校の体育館なども同様に空気がこもって蒸し暑さにうな垂れますがこれは空気が通っていないために起きています。

襖や障子は紙でできているため水分を吸収しやすく保湿してしまい同時に風も遮断してしまいます。もしも襖や障子で閉め切った部屋になれば、自ずから部屋の空気が動かなくなり障子が吸った水分が溜まり蒸し暑くなるのです。しかし間仕切りしなければかえって外の窓からの熱が廊下伝いに部屋にこもってしまいます。葦の隙間から漏れる木漏れ日のような日陰に部屋の中が柔らかくなり空間がうっとりしてそれだけで涼が流れます。

自然の方を無理やり変えるのではなく、自分の心の持ち方や観方の方を転じていく。先人たちは心の工夫をしながら自然と共生し、自然の善いところを見て自分に都合が悪いところは自然を変えるのではなく「自分を変えて」さまざまなことに知恵を働かせて暮らしてきたのがわかります。

自分の思い通りの生活をすればするほどに我は強くなっていきます。自分の思い通りにならないことばかりに思い煩い不平不満を言って周りを変えようと文句を言う前に、先人たちの工夫のように知恵を働かせてかえってその季節を楽しむような素直で融通無碍な発想や転じ方をしていきたいものです。

自然と共生し、豊かに生きるということはそれぞれの持ち味や特性を生かし、それを適材適所に配置してその魅力を引き出していくことです。

夏の楽しみが増え、夏の模様替えが心の中に風を通してくれます。今年から聴福庵で清々しい夏をしつらえと共に過ごして古くて新しい暮らしを復古起信していきたいとおもおもいます。

 

基本とコツ

今朝から自然農の田んぼにいって草取りなどを行いました。今年は水管理に力をいれて、山からの冷たい水が前面に行き渡るように流れを変えました。いろいろと実験しているとどういう状態の時が、強く逞しく美味しく育つのかが分かってきます。

失敗の連続の中で、何を学んでいたか。

それは「基本」というものです。これは仕事でも生活習慣や暮らしでも同じですがコツを掴むまでが大変な苦労があります。しかし一度、コツを掴めば大方のことはそのコツで成果が出るものです。そしてこのコツは、何か特殊なテクニックだと思い込んでいる人はいますがそれは違います。

本来のコツは、基本がしっかりと身に着いた時に持てるようになるのです。

例えば、ピラミッド型組織の場合は報告連絡相談を通して責任が分化されたのを正確に上司と連携して結果を出します。この時の基本は、「分ける」ということです。どこまでどのように分けているかを知ることで自分の責任を知ります。またフラット型や一円観の組織は確認や共有、相談を通して一緒に全体善のために仲間と協力して結果を出すことが必要になります。この時の基本は、「分けない」ということです。分けないことで自分が全体に対する責任を知ります。

このように仕事や組織一つにもコツがあり、その進め方は本質が異なっているのです。だからこそ基本を学び直すことで、本来の仕事や組織を活かし成果に結びつけることができます。

先ほどの田んぼであれば、稲が育つ環境を知ることが基本です。言い換えれば、稲がどう育つかを知ることでその時の環境を学び直すことができます。つまりはここでも基本がコツを知る近道になるのです。

基本が身に着くまでは、苦労を惜しんではいけません。そして基本が分からないから他のことも分からないということを自覚しなければなりません。基本を掴んでこそ、基本に立ち返ることができます。

この日々のブログも基本です。

継続するという力がコツであり、そのコツを掴んでいるから初心を維持して自分自身を確かに一歩ずつ成長させていくことができます。基本ができないのにいくら応用のテクニックを覚えても付け焼刃では成長することができません。

基本を馬鹿にせず、基本に忠実に取り組む人が最期は笑います。誠実な努力や苦労は、その人の生き方を高め人生を豊かにしていくのです。

引き続き、自然農を通して自然から学び直し、日々に改善を楽しみたいと思います。

野性のチカラ

昨日、熊本で自然を愛する会と共にヒューマンネイチャースクールを主催する方とお会いするご縁がありました。会が立ち上がってから43年間、自然と共に育ち、自然と共に生きる、「共育」・「共生」を願いに、登山やキャンプといったアウトドアをベースに、会員相互の親睦や社会奉仕活動・国際交流事業をはじめ、様々な活動を行っておられました。

お話をお聴きしていると、私たちの観ている子ども観と同様で「子どもはできないのではなく、知らないだけだ」という言葉に改めて環境が変わって得たものと失ったものの存在を再確認することができました。

公式サイトには、「子どもたちの現状とこれから」というところでこう書かれています。

『「生きる力を育む」ということで、教育の現場では様々な取り組みが行なわれているようですが、昔の子どもと今の子どもは何処が違うのでしょうか?食生活が欧米化したことにより体型の変化はあるようですが、本質的な部分は少しも変わっていないように思います。大人が作り出した社会環境の影響をまともに受けているだけで、子ども達は今も昔も子どもらしい部分は何も変っていないように思います。確かに今の子は、昔の子に比べて我慢強くありません。辛抱出来ない子が多いと言われます。しかし、それは大人の都合ではないでしょうか。出来ないのではなく、したことがない、しなくていい、する必要がない、知らないという環境にいるからだと思います。昔の人が創意工夫してきた知恵を含め、私たちが子どもの頃に当たり前のようにやっていたような体験が不足しているだけのようです。体験させ伝えてあげることができれば大丈夫だと思います。』

今の時代は、物に溢れ、環境に恵まれ、自ら何もない中で強烈に「求める」ということも少なくなってきています。現状に満足してこのまま特に大きな辛抱や苦労をしなくても生きていくことができる時代でもあります。そんな状況の中で、最初からやる前にできないと思い込んでいたり、どうせ自分にはできないと決めつけたりして諦めている人も多いように思います。

本当はそれは単に「知らない」だけで、何でもやってみようとすれば人間はなんでもできます。私も幼少期から何もない中で、様々に創意工夫してやってきました。それは今も会社経営をはじめ、現在挑戦しようとしていることも前例に囚われず諦めず「辛抱」して忍耐しながらも子どもたちの未来のためにと日々に新たな挑戦を求め続けています。

最初からできないと思い込んだり、大変なことを避けて苦労を嫌がるのは今の恵まれすぎた環境に対して本来備わっている生きる力が減退しているからかもしれません。農業一つでも、農薬がないとできないとか肥料がないから育たないとか、自然に育つ環境という観点ではなく材料や道具がないからできないと思い込んで最初から諦めていたら共に育つものも育ちません。

人間というものは、なんでも環境を整えて安心安全になってしまうと生きる力がなくなってくる生き物なのです。だからこそ、過保護過干渉にせず信じて見守りその人が育つために敢えて自分から主体的に活動できるような「自然野性環境」が必要になるのです。

この自然野性環境とは、五感を総動員し、ないものねだりはせずにどんなものでもすべて活かそうとする野性のチカラの発揮できる環境のことです。そうすれば元来備わっていた持ち味や活力が引き出されその人にしかできないチカラや魅力が顕現してきます。言い換えるのなら汗と苦労のチカラです。

あまりにも恵まれすぎる環境を与えれば与えるほど、汗も苦労もせず人間はもともと備わっている野性のチカラを消失していきます。そしてそのうち環境がないからできないと何かのせいにしているうちに自分自身も消失していくのかもしれません。

子どもの頃の野性のチカラを発揮する体験は、大人になってもその人の人生に自信を与えるように思います。自然の中で、創意工夫して生きた力はそのままに自分自身の可能性を拡げていくからです。

私も自然や伝統文化を愛するのは、そこにむかしからの先人の智慧を身近に感じるからです。先人の智慧は今のように何でも環境が整っている中では一つとして生まれてはいません。その智慧はすべていのちを使い切るような自然の叡智の中で創意工夫して実現してきたものです。

子孫たちに、その智慧が伝承していくことが生きる力を伸ばしていくいのちのリレーでありかけがえのないバトンになります。

子どもたちが置かれている現代の風土や環境をもう一度、研究し直し何を得て何を失っているのかを真摯に学び直していきたいと思います。

 

心を笑顔(オープン)に

人間関係というものは、心をどれだけオープンにして信頼関係を築いていくかに懸かっているように思います。心が通じ合うことは、安心につながりそのことで関係が善くなるだけでなく仕事も遊びもすべて楽しく豊かになっていきます。

よく心をオープンにというと、自分の感情をさらけ出すことだと思っている人がいますがそれも一つの手段ですが反ってそのことで関係が悪化している人が多いように思います。本当は自然体でその人の真心や本心が出ている姿は、とても善い人なのに周りを気にしたり自信がなかったり自分を過度に守ったりしていると、反って周りに緊張する状況を与えて「あー、またもったいないなぁ」と思うこともあります。なぜなら人間は、自然体になればなるほどその人の本性や本心が出て周りも安心して自分も安心してその人の素の魅力が引き出されていくからです。素から磨くことは、玉を光らせる法理が活かせるからです。評価ばかりを気にして無理に我慢している時よりも、その人のことが全部観えた方がもっとも「その人らしい」し、みんなも本人との信頼が築かれ安心するからです。

例えば、日ごろ何もしゃべらない人に「本心をさらけ出して何かしゃべったら」というと反って黙られるか、ネガティブな感情をぶつけられることがあります。そういう人に「本心を言って」というと、かなりきつい攻撃的な言葉が出てきたりします。それを聞いた周りも衝撃を受け、その人を理解するよりも不信感や疑心暗鬼、またショックから涙したり辛い思いをします。言った方も言わなきゃよかったと思うし、言われた方も聞かなければよかったなどとも思います。こうなるとまた悪循環の連続です。

しかし本来、本心をさらけ出すというのは決して無理をしてそういう時だけ感情をぶつければいいという意味ではありません。普段から自然体で周りの人たちと接することを言うのです。ただここでの自然体は誤解されるのですが、「決して自分勝手に好き放題する」という意味ではありません。いろいろな感情表現を自然に出していたり、自分の思っていることや感じたことをそのままに話せたりできるという自分らしい自然体のことです。決して自然体とは、日ごろ自分の表情を偽り無理をして我慢していることの逆の意味ではないのです。

つまり普段から周囲を信頼し自分の感情としての優しい自分、楽しんでいる自分、明るい自分、我儘な自分、そして時折、悲しい自分、つらい自分、情けない自分、思っていることなどをそのままに表現して周りを信頼できていることがさらけ出している状態だということです。くどいようですが無理をして隠しているものをさらけ出せというさらけ出すではなく、普段から自然体でもいい状態になるようにさらけ出していくということです。さらけ出せば「自然に笑顔」が増えていきます。そして周りも楽しい笑いが増えていきます。そのためには、自分自身がリラックスできるような環境を用意したり、もっと自分が自然体でいられるように周りとの関係を築くために少しずつでも訓練していくしかありません。

もちろん訓練は時間もかかるし、挑戦も必要です。今まで隠して誤魔化して偽ってきたものを出したり怖いことや辛いことを乗り越えるのは、少しずつの勇気です。その勇気は笑顔になっていくという笑顔をさらけ出す勇気です。

最初から上手くいかなくても下手くそでも、笑顔を育てみんなが安心して、そして楽しく笑い合い豊かな社會を創造して自他が仕合せになるために「笑って」なんでも「楽しむ」こと、前向きに「ちょうどいい」と全体善に生きていくこと、笑う門には福が来るといいますがまずは「笑う」訓練からはじめていくといいと思います。

固まってしまった表情を崩すのは、自分の「笑い」の姿です。心をオープンにの定義は、「心を笑顔に」ということなのです。もっと自分の心が笑ったままでいられるように、周りを信頼して周りの笑顔が増えていくような自分の生き方を見つめていきたいと思います。

赤ちゃんや子どもたちの純粋で素直な素敵な笑顔や笑いが世の中から消えていかないように、困難を乗り越えて皆で一緒に心を笑顔(オープン)にする豊かな社會を創造していきたいと思います。