イワの信仰

先日、国東の両子寺にお伺いするご縁がありました。美しい参道とあわせて、岩窟があり両子権現がお祀りされていました。英彦山に関わってから、たくさんの岩窟に巡り会いました。この岩窟とは何なのか、少し深めてみようと思います。

そもそも岩(イワ)という言葉を調べてみると少し見えてきます。この岩は、山が連なったという象形文字です。ヤマという言葉もまた、山の上に岩々が連なった様子のことを指します。つまり石で連なった場所のことを岩(イワ)と呼んだのがはじまりではないかと思います。

そしてこのイワは、一説によれば「イワ」は、神を意味するヘブライ語の子音 (yhwh)に任意の母音をつけて、日本流の「神」の呼び名「イワ」となったともあります。つまり巨石で連なったものを古代の人たちは、何者か偉大な神が宿っていると直観しそこから岩の信仰がはじまったのではないかと感じています。これは古代においては、仏教や神道、道教などあらゆる信仰が始まる前からあった日本の源流の信仰のカタチだったように思います。修験道のはじまりではないかと私は感じます。

このイワには、「イワクラ(磐座・石位・石坐・岩座)」「イワヤ(石屋・岩屋)」「イワサカ(磐境)」「イシガミ・イワガミ(石神・岩神)」というものがあります。「イワクラ」は「神が依りつき宿る岩石への信仰」といい、「イワヤ」は「神が依りつき、籠る岩窟への信仰」といい、「イワサカ」は「神を迎え、祀るための区切られた岩石空間への信仰」といい、「イシガミ・イワガミ」は「岩石そのものを神として祀る信仰」といいます。

イワを中心に、神様が依り代になる場所と信じられそこで信仰が行われました。世界にはストーンヘンジやピラミッドをはじめ、岩が中心になった信仰の形跡があちこちに遺っています。

むかしはイワの力で病を治していたのでしょう。岩窟に入ると、とても静かであり不思議なぬくもりを感じます。同時に、偉大な何かが繋がっている感じもします。最近では、岩窟から出てくる湧き水にシリカやケイ素という成分がありそれが寿命を伸ばしたり健康を保つ薬になったということもいわれています。他にも精神疾患や、心の状態を穏やかにする、あるいは穢れを祓う力もあったと思います。

そもそも信仰の原点は、私は病を治すことだと直観しています。そして修験者たちは、本来はその病を癒すための道を示したものです。心身を健康に保つためには、自分のことを深く理解する必要があります。自己との対話を通して、身体や心を深く学びます。そうして学んだ知恵をもって、人々を救う仕組みが産まれたのです。

現代は、物理的、科学的に病気を捉えていますがそもそも病気になるような生活をしていますから健康というものもわからなくなってきています。だからこそ、本来はどうだったのか、古代はどうだったのかと温故知新することの大事さを感じています。

子どもたちのためにも、古代から続く知恵を甦生し未来のために伝承していきたいと思います。

芸の道

昨日から神奈川県相模原にある水眠亭に来ています。英彦山の守静坊でお茶を立てていただきその生き方に感銘を受けて生き様を拝見したいと思いようやく念願叶って訪ねることができました。

この水眠亭は、川のほとりに眠っているように見えた江戸時代の古民家をみて名付けられたそうです。ご主人の山崎史朗さんが彫金・工芸・デザイン・音楽・俳句・食文化、茶室を含め一期一会に直観とご縁があったものをご自分で手掛けられている唯一無二の完全にオリジナルの空間と場が存在しています。

自分の目と手で確信したご自分の美意識によって本物をつくるため、すべての制作の工程を他人に委ねずに自らで手掛けられます。この場にあるすべての道具や家、庭園にいたるまでほぼすべてご自身で見立て納得いくまで手掛け磨き上げられたものです。

どのものを拝見しても自分の信じた美意識を徹底的に追求し磨き上げていく姿に、その覚悟を感じます。まさによく言葉に出てくる「一線を超えよ」ということの意味を実感することができました。

もっとも感動したものの一つである手作りの茶室はまさに総合芸術の粋を極めておられ、そこで立てられるお茶はまるで千利休が今の時代に甦ったのではないかと思えるほどの佇まいと気配です。ご自身でゼロから茶室をつくることを通して、なぜそうなったのかを自分なりに突き止めておられます。つまり利休の心を建物から学び取られています。そして利休が目指した心、また日本人の心とはどういうものだったのか、利休が追及したものと同じように自分なりに辿り着かれておられます。

本来、誰かの真似をしたり先人のやってきたことをそのまま学ぶのではその人の求めたものとは別のものになってきます。釈迦も利休も自分が亡くなったあとは必ず廃れるという言葉を遺しています。「古人の跡を求めず 古人の求めしところを求めよ」という言葉に出会ったことを改めてここで思い出しました。これは先達や師の真似や後ばかりを追いかけるのではなく先達や師が何を求めたのかを自分も同じように求めてこそそのものと同じになるといったのでしょう。先日お伺いした三大薄皮饅頭の柏屋さんでもその家訓に「代々初代」というものがあることを教わりました。「代を継いでいるのではなく常に自分が初代になることだ」ということでしたがこれも同じ意味でしょう。

歴史を鑑みると、中興の祖という存在が顕現して道がまた甦生していくことの繰り返しです。

現代は、マニュアルや作法のことをまるで道そのものかのように呼び、本来の本物の道は単なるテクニックや事例のように扱われます。大衆に蔓延る権威や権力、権利が真の道を覆い隠します。まるでこの世は道の終焉の様相です。しかし真の道というものは、誰かに教わり真似をするのではなくまさに自らの覚悟で一人、自学自悟していくものです。

「時代の川の流れを眺めながら一人、静かに道を極める。」

まさに水眠亭の徳を感じる一期一会のご縁になりました。それに茶室、「海庵」のすごさ。この川の阿はいつか海になり空となる。日本人の忘れてはならない深い魂に共感することができました。

人の生き方というものはやはり覚悟が決めるものです。

覚悟のある生き方は真に豊かであり仕合せを醸成していくものです。自分が好きになったのを極めるのではなく、好きを極めるから好きになる。本当に好きならすべてを丸ごと好きになるということ。この人生を丸ごと深く味わい好きになることこそ、真の芸道ではないかと直観しました。

私が取り組むことと同質のことに先に挑まれている先人にご縁をいただいたことで、私も生き方の勇気と自信になりました。まだ道ははじまったばかり、子どもたちの喜びや仕合せを未来へ結び続けられるようにこれからも切磋琢磨していきたいと思います。

出会いに心から感謝しています、ありがとうございました。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

美味しいもの

昨日は、仲間たちと一緒に千葉県神崎のむかしの田んぼで新嘗祭を行いました。まるで親戚が集まってみんなで和気あいあいと豊かな時間を過ごせるように、懐かしい時を過ごしました。

この懐かしい感覚は、自分の幼い頃の思い出なのか、あるいは先祖からずっと繋がって体験してきたことの思い出なのかはわかりません。しかし、なぜか全員がその感覚を持っていてそれがいつでも場に甦生してくるというものです。

私たちが産み出している場というのは、私たちの懐かしい感覚の場でもあります。

何度もあの幸福や仕合せ、そして一緒に生きていくことの素晴らしさを体験しあう。そしてお互いの近況や一年を振り返って思いやり心配し合い助け合う。

こうやって厳しい自然界や時代の変化のなかでも助け合って今まで生き残ってきたようにも思います。そしてまた新たな元氣を蓄えてみんなで豊かに仕合せを味わっていくのです。

私はこの元氣の源、それは田んぼでありお米であろうと直観しているのです。そこでむかしの田んぼで、田んぼを喜ばせようと無肥料無農薬で伝統的な神事や祈り、家族の団欒や作法を大切に食べることで懐かしい未来を実践しています。

純粋な気持ちというものは、純粋になりきったときにその純粋さを混じります。純粋さは、混じらないと物理的には思いますが魂が渾然一体となって結ばれるようにすべてが調和していきます。

調和したものは、感覚的に美味しいと感じます。

昨日は、備長炭で炊いた竈のご飯と豚汁をみんなでつくり食べましたがこの一年でもっとも思い出深い美味しいものになりました。この美味しさは心に沁みますし、魂を揺さぶります。

こうやって当たり前ではない日々に感謝して、これからもみんなで力を合わせて子どもたちのために働いていきたいと思います。

会社にとってもっとも大切なこと

本日からカグヤでは同じ初心や志を持つ会社に訪問する理念研修を行います。私たちの会社は元々、目的重視で働いていますから理念研修というのはよく行われています。現在では、ほぼ毎日がある意味で初心の振り返りと改善ばかりで生き方を見つめ、働き方を磨いている日々です。

一般的に会社は、目標ばかりが求められますが私たちは何のためにを大事にしています。「子ども第一義」という言葉をスローガンにしていますが、これは目的を見失わないためにみんなで確認し合っているものです。この第一義というのは、何よりも大切な中心としているものという意味です。この子どもというのは、子ども主体の子どもであり、童心の子どもでもあり、子どもが人類の最も尊い存在であるという意味です。

私たちは大人か子どもかで子どもを語ります。子どものためにといいながら実際には、大人の社会の都合がよい方へばかりの議論をします。本当に子どもが望んでいることは何か、それは一人一人の一家一家の暮らしの環境にこそ存在します。自分たちも本来は、子どもが大きくなっただけで子どもが何よりも尊重される世の中にしていけば自然界と同じく調和して仕合せを味わえる世の中にできるはずです。

当たり前のことに気づけなくなっている現代において、純粋にニュートラルに子どもの憧れる未来のために生き方と働き方を変えていこうと挑戦しているのがカグヤの本志、本業ということになります。

生き方というのは、どのような理念を抱いて取り組んでいるかということです。その生き方を確かめて、今日はどうであったかと振り返る。仕事や内容はその手段ですから、その手段のプロセスに目的を忘れずに誠実に実践してきたかというものが働き方になります。その働き方をみんなで分かち合い確かめる中に、みんなの生き様が出てきます。その生き様の集合体こそが、会社であり理念の体現した姿です。

社会というのは、自立し合うことで真に豊かになります。この自立とは、奴隷からの解放でもなく、お金や地位、名誉、成功者となることとは違います。本来の自立は、みんなが目的意識を持ち、協力し合い助け合い、お互いを尊重しながら生き方を磨いていくなかで醸成されていくものです。

自分らしく生きていくというのは、思いやりをもてる社会にしていくこととイコールです。自分も人も活かすというのは、お互いを違いや個性を喜びあい感謝していくということです。

子どもたちは、学校の勉強とは別に家庭や家族、身近な大人の生き方や生き様を模範にして学んでいきます。これは単なる教科ではなく、まさに生きていく力を養っていくのです。

だからこそお手本が必要ですし、場や環境があることが重要になります。育つ環境がなければ、いくら教えても真の意味で学ぶことができないからです。これは文化の伝承なども同様で、連綿と繋がっていく中で託していくものですから先人たちが先にお手本になりそれを子孫へと結ばれていくものです。

私たちの会社は決してユニコーン企業や大企業、テレビなどで有名なベンチャー企業などではありません。しかし、こういう私たちのような生き方や働き方を大切にする会社も社会には必要だと感じています。誰もいかない道だからこそ、私たちがその道を往く。子どもの1000年後のために必要なことだからこそ、誰もしないのなら我々がそれを遣るという覚悟をもって会社を運営しています。

そして同じようにそれぞれの道で自分らしく歩んでおられる方の生き方や働き方は私たちにとっても勇気や励みになり、また知恵を分かち合える同志にもなります。たとえ手段は異なっても、目指している夢や未来は似ているということに深い安心感を覚えます。

一期一会の日々に、どれだけ真心を籠めて生きていくか。

会社としてもっとも大切なことを忘れない日々を過ごしていきたいと思います。

 

おたがいさまの心

一つのことをやるためにはとても多くの人たちが関わります。自分の力でできるものなどこの世のにはほとんどなく、何かをすると決めたら多くの人たちの協力が必要になります。

同時に、人はいろいろな価値観もあり何かしらの理由を持っています。そういうものを理解して許しあいながら繋がっていくものです。本来は、思いやりの心をもってそれぞれに言い分を聴いて折り合いをつけていくのですが法律やルール、一方的な制度などを押し付けられては憤慨して攻撃し合う場面も増えています。

便利な道具や仕組みというのは、一見スムーズにみえますが実際にはそのせいで問題がさらに深刻になるものもあります。便利さというのは、心を使わなくてもいい分楽ですがそのために心無いことをして禍根を残していくものも多いように思います。

人は、みんな相手の立場になって物事を観てみることで違う視点や観点、心境などを感じて共感するものです。もちろんその人の置かれた環境や生き方もありますからすべてを共感することはできませんが少しは理解できます。

それが善いか悪いかではなく、お互いにどうやったら思いやれるだろうかと謙虚にいることで次第に理解し合うことができるようにも思います。

たとえば、先祖が残してくださった文化遺産や歴史遺産などもあります。他にも伝統文化、伝統工芸、生活文化なども同じです。便利な時代、そういうものはあまり必要ではなくなりましたが本来は子孫のためにとみんなが困らないようにと深く思案し配慮していただいた思いやりが詰まっているものもあります。

そういうものを個人の所有だからと雑に扱ったり、壊したり捨てたりするのは悲しいことです。本来は、みんなで大切に守っていったり、みんなで分け合い丁寧に活かしていくことで先祖も報われるものです。これは法律や制度でするものではなく、思いやりで伝承したり継承していくことではじめて結ばれていきます。

論語に、徳は孤ならず必ず隣ありという言葉もあります。

引き続き、これも徳を学ぶ一つの道だと思い精進していきたいと思います。

永遠に生きていく知恵

先日、親しい和紙職人と話をしている中で分断のことについて一緒に考えました。和紙も、楮などの原料を育て収穫する人、和紙にする人、そして使う人達がみんなが結ばれて繋がっているからこそ成り立ちます。

誰かがみんなで繋がっている役割を分断すればその仕事は立ち消えてしまいます。そうならないようにと誰かがその役割を担えばその分が大きな負担になって苦しくなります。

この話というのは、自然の循環と同じ話です。農薬や農業の効率化でそれまでのミツバチがいなくなれば、ミツバチの役割が分断されます。それを蝶が担うからといっても、ミツバチの分まで働くことはできません。こうやって自然界では一つ一つがみんなと循環して生きていますから、何かが失われて断絶するというのはみんなを苦しめる大変なことです。

だからこそお互いの役割を尊重し合って、繋がり結び合うことを優先することで自然は調和しています。調和をすることで、お互いが楽になり仕合せになるというのはこの地球にいるものとしては当たり前の真理です。

おかしな話ですが、もしもミツバチが自分たちだけで独占しようと他の生き物たちを殺してしまったりライバルをすべて排斥したらどうなるか。一時的には独占して裕福になったようでも、つながりが失われていくことで最終的には貧しくなって環境の変化に対応できなくなっていきます。

この循環の仕組みというのは、循環をさらに豊かにするというものと、循環を分断して貧しくするというものがあります。その循環をどのように調和させるかというのは、その生き物の生き方が関係します。

例えば、山であれば母樹の存在であったり、他にはオオカミなどの存在もあります。虫の中では、カマキリであったり、蜘蛛であったり、蟻であったりとそれぞれが絶妙に調和するように生きています。

調整や調和というものは、自然界全体が豊かになるように働いている存在です。無意識にもそれは自然から与えられていきます。自分で獲得したのではなく、まさに自然からその姿になるように与えていただいているともいえます。

だからこそ、私たちは何を守るかということを循環を軸に考える必要があります。明後日は、千葉の神崎のむかしの田んぼの新嘗祭があります。この田んぼは、無肥料無農薬で生き物がたくさんいる田んぼです。

その中で私たちもイキイキと元氣をいただき、一年の活動を支えていただいています。その田んぼに感謝して、その田んぼと共に人生を歩めることを味わう一年の大切な一日でもあります。

子どもたちにも循環の大切さ、永遠に生きていくための知恵を伝承していきたいと思います。

やまと心の甦生

万葉集を深めていると古代の日本人がどのような信仰を持っていたのかに気づくことができます。また現代で変わったこと、また変わらないことも感じることができます。自分たちのルーツを辿っていく中で、どのような感性を持っているのか。そして感じてきたのかを、時空を超えて味わう中で心の故郷を感じることができます。

これは過ぎ去った古代の探求ではなく、今も続いている古代の心を感じる道の実践でもあります。

古代の心というのは、今もある人間の普遍的な深い情緒です。喜びや悲しみ、幸福や不幸などあらゆるものを心で味わい、それをそのままに詩にしていきます。その気持ちは、誰でもが持っているもので心情に通じるものがあります。

またその歴史的な背景を知ることで、私たちは状況を想像することができ共感するものです。自然に鳥が鳴くように、雷が轟くように、音を発します。その音は、古代から今も変わらずに続いており、それを聴くこと、詠むことで今も同じ時を過ごしていることを直観できるものです。

万葉集に触れていると、先祖たちの生き方や生き様が垣間見れます。また美しい心、切ない心、感動する心や童心など、感じ方、心の機微を味わえます。

よく考えれば、祖父母がどのように今の自分の歳に何を感じていたのか。あるいは、子どもの頃はどのような気持ちでいたのか、そういうものに耳を傾けると自分の今につながっている想いや心を感じます。

万葉集に感じる懐かしさというものは、まるで自分が生前にそれを味わったかのような余韻を感じます。どうにもならないことこそ、そのまま受け入れるしかないものこそ、そのまま言葉になります。その言葉は、時代を超えて語り継がれていきます。

なぜならそういう言葉こそ、真実の言葉であり解釈もできず分類もできず、理屈もなく、純粋な心そのままを帯びた言葉だからです。

大切な我が子をなくしたり、愛する人と別れなければならないこと、理不尽な不幸が訪れたり、自然災害ですべてを失うこともある。言葉にできないからこそ、言葉にするのです。そうやって人は、その事実を味わい人生を盡してきました。同時に、出会えた喜びや、無上の感動、奇跡のような幸福や、当たり前ではない仕合せを感じて言葉にします。それもまた、事実を味わい人生のかけがえのない妙味を感じてきたのです。

生きるということを、先祖からどのように倣っていくのか。今のような時代だからこそ、先人の生き方を参考にしていくことが私たちがいただいた財産であり宝であろうと思います。

私のこれから取り組む、やまと心の甦生は遠大で無限、終わりなき旅です。古代の人々の想いをつなぎ、徳に報いていきたいと思います。

日本という存在

日本という存在の面影というものを色々なところで見つけることができます。まだ有難いことに私たちの世代は西洋化の影響を受けてきた変遷、またそれでも遺っているあらゆる文化や伝統の両方を味わうことができています。

変化を見つめて味わうなかで、原点をよく見つめて五感を研ぎ澄ませていると日本人とは何か、日本という存在は何かということを直観することもあります。釈迦が因果律を語るように、本来、はじめに種がありそこから繰り返し変化を続けて生き続けています。

土というものに触れ、水と太陽、つまり自然というものと共生をしてきた歴史、そして何をもっとも大切にしてきたかという歴史、これが民族を形成していることは間違いない事実です。

神話から今に至るまで、それを何度も繰り返し辿りながら似たようなことをやり続けます。これが託された人生でもあり、天命という仕合せと結ばれている生き方でもあります。

小泉八雲という人物がいます。ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者で1904年に亡くなられました。純粋でニュートラルな目で、ありのままのこの日本や日本人を捉えられた方です。

忘れてしまっているものを思い出させてもらうことは有難いことです。これは空気の存在、いのちの存在なども同様に当たり前で絶対的だからこそ意識しなくなるものです。

しかしこれがなければ生きていけず、気づかなければ幸福にならないものです。

小泉八雲はこういいます。

「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」

「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」

まさに、日本と日本人とは何かということをはっきりと観えておられます。私の暮らしフルネスのまた、同じような感覚で取り組まれているものです。

そしてこうも言います。

「日本人ほど、お互い楽しく生きていく秘訣を心得ている国民は、ほかにちょっと見当たらない」と。

お互いに楽しく生きていく秘訣を心得ている。そうあるとき、私たちは日本人なんでしょう。日本人よりも深く日本を愛したといわれる人が、そう思う境地を私も味わってみたいものです。

誰かに教え込まれた日本人ではなく、もっと緩んで開放し、自由にすべての束縛を手放し、まっさらの無垢な心で子どもたちには生きてほしいと思います。

ルーツから

私たちは知らず知らずのうちに自らの価値観の中に歴史の影響を受けています。産まれて育った風土は、原初からずっと今まで続いておりそこに人々が暮らしを営んできました。時間軸でも、100年前も1000年前も、また数千年前もここで誰か人々が生活を営んできたのです。そして今も自分も同じ場所で生活をしています。

もしも1万年間ずっとカメラがその暮らしを撮影していてそれを数倍速で見たとしたら今の自分がこの風土に大きな影響を受けていることに気づくはずです。例えば、外国人で肌の色が違かったり姿カタチが異なるのもまたその風土の影響があってのことです。それに価値観や文化、食べているものの違い、得意不得意なども育った場所、そして生活様式、それらの影響も風土が決めます。国民性の違い、国民の特徴などもまた歴史や風土です。

つまり私たちは、何かを学び始めるずっと前に本来の自分たちは一体何者で何処からきて何をして目的は何かなどはじまりやルーツを知る必要があると私は思います。日本であれば、神話がありそれが国家になっていく歴史の変遷もあります。あとは、この日本の風土でどのように生活をつむいでどのように助け合ってきたかという経過も大切です。

そういうものを学び、知ることではじめて自分のルーツを知り日本という姿、日本人であるということを自覚できます。世界との交流がますます進むこれからの未来において、特に大切なのはこの「自分を知る」という教育なのです。

しかし残念なことに、現在は机上の学問が優先され地域や郷土、風土から学ぶという実践体験も失われています。同時に、ルーツはほとんど知らされず途中からの年号の歴史を学びます。今もつながって存在しているという生きた歴史ではなく、ショーケースに入ったような歴史を暗記しては受験のために使います。

すべての学問の原点でありルーツである歴史を学ばないというのは、未来に大きな禍根を残していきます。

キャリア教育とかSTEMとか流行りもありますが本当は何のために学ぶのか、そして自分とは何かという普遍的なことをもっと大切にしてほしいと思います。そのための歴史であり、そのための故郷があるのです。

子どもたちのためにも、私のできるところで真摯に取り組んでいきたいと思います。