場を守ること

歴史の偉人たちのことを深めていると、そこには一つの共通の実践があることに氣づくものです。それは自分の与えられた運命から逃げないということです。ある人は、飢饉や飢餓、そしてある人は、暴力や尊厳、またある人は汚職や腐敗、あらゆるものに遭遇して迎合せず、正面から素直に向き合ってそれを乗り越えるために最期まで諦めずに努力したその結果として名が残り、思想が語り継がれているということです。

つまり逆境に打ち克ち、自分の天命を生きたということでしょう。

これは誰にでもできることですが、誰にでもできないことでもあります。なぜなら、その人にしか与えられていない役割というものが存在するからです。つまりその人にしかできないことだからでもあります。他の人にはできず、その場、その刻、その組み合わせが一期一会だからです。

そしてその境地から逃げなかったその一つの答えとして、生き方があり志が場に遺ります。

場というものは、志を生きた証であり、その余韻がいつまでも生き続ける記憶装置のようなものです。

私は場の道場を実践し、場づくりを天命にして暮らしを調えています。これは何かの利益を生むためにするのでもなく、誰かにわかってほしいわけでもなく、特段、意味もなく価値もなく、無目的ともいえます。

しかし場が発する声をよく耳を澄まして聴き、その場に応じて素直に従い自分の全身全霊を盡していくとそこには確かに「いのち」というものが連綿と流れていることに氣づきます。

私たちは本来は水そのものです。流れるように生き、そして変化しながら道を歩み続けていきます。それがいのちの真理と結ばれ、徳が積まれ続けていくのです。

だからこそ大切なのは、自分の場を守ることです。

引き続き、自分の場を守りながら子孫のために流れを清め続けます。

立ち止まること

立ち止まるというものがあります。これは動いているのを一度静止してみるということです。静かに止まる、これを座禅では止静とも言うといいます。止静鐘がなり、立ち止まるのです。

では何が立ち止まるかということです。一つには、身体的に動かなくなるということ。止まるというのが動く止まるの総体的な状態です。動いているから止まるがわかり、止まっているから動くがわかります。お互いに何が止まり、 何が動いているのかを知るのです。

以前、私は足を骨折して(今もでずが)止まる機会を得ました。じっとして動かない日々を静かに暮らしていると、周りが動いていることがよくわかります。余計な周囲の動きに惑うこともなく、迷いもない。じっとするというのは、実は他力を活かすための方法にもなり、船の舵取りをするためにも大切であったことがわかります。その時は、今の自分のできることややりたいことを深く見つめ、冷静に判断基準を研ぎ澄ます機会を得たように思います。

そしてまた深めていくと、もう一つの境地もあることに氣づきます。

それが止まるというのは、原点というものもあるということです。別の言い方では初心とも言うべきものでしょう。立ち止まることは、初心に帰るということ、原点に立ち返るということでもあります。

心を静かに調えるためには、立ち止まる必要があります。先ほどの座禅の止静と同じです。そのうえで、これまでの人生を振り返り生き方を見つめ直し、これからどうするのかというものを定めていく大切な時間。

つまり立ち止まるというのは、心と体、精神をはじめ温故知新して甦生する大切な期間ということになります。もっと言えば、生まれ変わるために立ち止まるのです。

生まれ変わりというのは、立ち止まることではじまります。五十にして天命を知った孔子は、それからどう変わったのか。きっと、何か今までに聴こえないものが聴こえるようになったのでしょう。そして耳順うとなったのではないかと。

人生というのは、真心や至誠で歩むと天恵といわれるようなご縁に巡り会います。感謝を忘れずに丁寧にかんながらの道を味わっていきたいと思います。

福徳円満の実践

円満という言葉があります。これは最も調和している状態のことをいいます。福徳円満という言葉もあります。もともとこの円満はどのようにして起こるのか。それを少し深めてみようと思います。

そもそも調和というものは、誰がするのか。

それは自然がするものです。言い換えるのなら、自然に調和するようにこの宇宙はできているということです。ではなぜ不調和が産まれるのか。それは宇宙の調和に対して抵抗したり邪魔をするから発生します。人間であれば、我を通したり、部分最適ばかりをしていると調和が離れていくものです。

かつて浄土真宗の親鸞上人は、「浄土に生まれん事、自然おのずからえんまんしなん」という言葉を遺しました。そこにはこう続きます。

「自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず然といふは しからしむといふことばなり しからしむといふは 行者のはからいにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ法爾といふは この如来の御ちかひなるがゆゑに しからしむるを法爾といふなり 法爾はこの御ちかひなりけるゆえに およそ行者のはからひのなきをもつて この法の徳のゆゑにしからしむといふなり すべて ひとのはじめてはからはざるなり このゆゑに 義なきを義としるべしとなり」

意訳ですが、自然あるがままにお任せするとき不思議な力が働く、それが法爾という。この法爾は宇宙の力でもありの徳に委ねてお任せすると本来のあるがままになっていく、いのちはすべてこの真理にすべてお任せすることだと。

つまり本来のあるがままがわかるかどうか、真理そのものに委ねることができているかどうかは、偉大な存在にあるがままにお任せするという生き方を実践することだと説いています。

それは努力をしないわけでも自分の力を一切使わないのではなく、「すべてお任せ」して身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、偉大な流れに自分をまかせていくという自然でいる努力精進を怠らないということです。

自然であるためには、自我に打ち克ち、欲を鎮め、心を調えて日々に自己を浄化して静かに止まる暮らしを実践していくことも必要です。

改めて、いただいている存在やご指導に深く感謝して「おのずからえんまんしなん」と生きていきたいと思います。

大切な節目

本質的というものがあります。これは本当のこと、真実、真理ともいいます。しかしこの本質的というものは、言語や言葉では伝わりにくいものです。なぜならそこに実態が必要だからです。つまり言葉だけでは伝わらないというものが本質ということになります。

ではどのようにすれば本質が伝わるか、それは体験や経験や気づきを一緒にする中で次第に観えてくるものです。例えば、生き方などは人生の中でどのような判断をしてきたかの集積で磨かれていきます。本質的な生き方をしようとしたら、自己の天命に素直で正直、謙虚でなければ本質的にはなりません。本質というのは、現実や事実の真っただ中にこそ存在するものです。

例えば、教育者の森信三という方がいます。有名な言葉の一つに「人生二度なし」というものがあります。具体的な実践は、時を守り、場を清め、礼を正すことを通してその本質を伝承していきます。その教えは実践こそ全てともいいます。

この「実践」というもの、これが本質を理解する唯一の方法ではないかと私は実感しています。現実、事実の「実」というもの。これは、本質と対を為すものです。

「実践」というのは、ただやればいいのではなく初心を忘れずに取り組むということです。そして誰からやらせるものではなく、主体的に自分が主人公としての自覚をもって取り組んでいくものです。

二宮尊徳は、自らの道の神髄を「わが道はもっぱら至誠と実行にある」といいました。つまり至誠であることをいつも実行すること、それが実践であると。

初心を常に忘れずに行動すること、それが私の思う実践のことです。

そのために、カグヤでは初心を忘れない環境づくりや文化づくりをしてきました。一人ではすぐに忘れるからみんなで忘れないようにあらゆる工夫や智慧を使い仕組みにしてきました。

私たちの企業文化の真髄はまさにこの子どもたちが安心して自立していけるように「生き方と働き方の一致」を通してその子どもたちの道しるべになろうとしたことであったようにも思います。

思想は実践によってはじめて実を結びます。

そしてその実践をする仲間が増えていくことで事業もまた大きくもなります。大切な節目に、色々と整理していきたいと思います。

鏡開きと農

今日は、午前中に正月に杵と臼とでお餅つきをして拵えた鏡餅の鏡開きをします。いつもこの時季になると、鏡餅を開いて御汁粉やおかきにして振舞います。正月の間、ずっと歳神さまの依り代として存在していた御餅の力をいただき、ご縁に肖ります。まさに、感謝を忘れずに思い出す大切な行事です。

私たちが主食で食べているお米は、誰がつくったものか。もちろん百姓をはじめ、うちでは自分たちで育ててきたものです。しかし事実をよく観察すると、稲を育てるのは土や田んぼや太陽や風、そして地球であり月であり宇宙です。まさにいのちが育つというのは、非常に偉大な恩恵をうけてはじめて育ちます。

特に身近では、お山の存在というものが大きくお山がいのちの和合を与えてくれます。現在、自然破壊が著しく山も荒れ、ソーラー発電などではげ山になっているところも増えています。

本来、自然に寄り添い暮らしていたころはこの当たり前の感謝をいつも忘れずに謙虚にいのちを育んできたように思います。その証拠に、神社には数多くの年中行事がありいつもそれらのいのちの循環の恵みに感謝します。

またしめ縄や藁ぶき、また御餅など結びつきや和合などと組み合わせてお米づくりそのものを知恵として伝承してきました。

そもそも暮らしというものは、自然に寄り添うことであり自然から遠ざかったところには暮らしはありません。人工的なものは人工的暮らしという言葉があるわけでもなく、単に自然の法則から離れる生活をすれば人工的ということになります。本来、人と自然は一致していたものです。この体が証明するように、今も人間は自然物が象って形成しています。

体こそ、自然の姿でありその自然の調和のために毎日、お水をいただき食事をとっています。不自然な生活をすればすぐに体に支障がでるのは、私たちは自然の法則の中で活かされている事実が変わらないからです。

このお米づくりを中心にしたかつての日本の懐かしい暮らしは、自然と調和してきた先人たちの偉大な知恵があります。

今の時代、農業という人工的なものではなく農家百姓といった自然の叡智を活かし伝承する存在が必要になってきているように私は思います。

暮らしフルネスでこれからの農を甦生していきたいと思います。鏡開きができることに感謝します。

知恵と教訓~初心伝承~

温故知新というものがあります。これは孔子が「故きを温ねて新しきを知らば、以て師と為るべし」と諭したところから由来しています。歴史を学びそれをよく内省し観察すれば本質を悟る。まさにそれを師とせよとも言っていいかもしれません。

歴史というものは、実体験、経験の集積です。なぜそうなったのか、そして今はどうなっているのか、この先はどうなるのか。この3つを分けずに全体で洞察する、それが事実というものです。

もちろん主観もありますが、事実だけを並べて本質をよくよく見つめるとそこには知恵が宿っているのがわかります。

知恵とは仏教では正しく物事を判断する能力であるといわれます。経営判断をはじめ、大切なものを伝承するとき、このプロセスを思い出し学び合うことは初心を確かめ有意義な時間になるものです。

しかし、この温故知新をする時間というのはなかなか設けないものです。情報量が多く、そしてスピードを重視するあまりそのプロセスを忘れてしまいます。そのうち、目先の部分最適に囚われ全体最適=バランスが取れなくなっていくものです。

特に経営判断をする大切な場面においては、判断基準がどうなっているのか、そして過去のパターンや教訓から足元をよく観て慎重に果敢に取り組んでいかなければなりません。

この温故知新というのは、人であれば自己が師になり、会社であれば会社が師になります。会社を師として正しく判断ができるようなればそれが経営者ということでしょう。

畢竟、経営者というのは単に社長や肩書をもっているからなっているのではなく判断がいつも知恵や教訓によって磨かれ学び続ける人たちということなのかもしれません。

全員経営という言葉もありますが、人類は本来は全員経営者です。日本という国もまた世界もまた同じように知恵と教訓が必要です。温故知新、初心伝承の刻を大切に過ごしていきたいと思います。

 

蕎麦切り

昨日から愛用の蕎麦包丁を研いでいますが普通の包丁と異なり、研ぎが繊細で難しいものです。形もですが、大きさも36センチほどありあまり研ぎすぎるとまな板を傷つけることもあり、気を使います。

もともとこの形状の蕎麦包丁の発明は江戸時代だといわれています。 江戸時代の都市化で一般庶民の間でそばが広く普及したことで薄く長く切るための特殊な包丁が必要になりました。

それまではそばがきといって、蕎麦粉をお湯でこねて練り食べやすい餅上の大きさにしたものです。

この蕎麦がきは、奈良時代や平安時代が起源といわれます。特に信州や出雲などの蕎麦栽培が盛んな地域で発展し、祭りや特別な行事でも提供されてきたともいいます。これは鎌倉時代に石臼が発展して蕎麦を粉にしていく技術が高まったからです。それが次第に戦国時代から江戸時代にかけて全国に広まり、江戸時代には蕎麦屋のメニューとしても人気でした。もともとはお米と同じように、主食で食べられていたといいます。

蕎麦切りといって今のような麺になるのは、諸説出てきますが私は饂飩の影響が大きいのではないかとも思います。二八蕎麦といって、江戸時代には切れにくい蕎麦も打たれていました。

饂飩のように蕎麦を食べる、蕎麦は蕎麦湯もあり江戸時代に手ごろに食べられ栄養価もあり捨てるところもない食べ方として流行ったのかもしれません。

引き続き、お蕎麦を深めてみたいと思います。

稲荷神

田んぼには、稲荷神が宿るともよくいわれます。この稲荷神のことを倉稲魂大神(ウカノミタマ)といいます。これは日本神話に登場する女神で、穀物の神として広く信仰されてきました。

『古事記』や『日本書紀』に登場して農耕や商業の神としても崇めらています。この「宇迦」は、古語のウケの変形で穀物や食物を顕します。つまり食べ物つくる神様が稲荷神ということです。

稲荷神は、よく眷属としてよくキツネが祀られます。これは狛犬のように、神様と人を結ぶ使者のように扱われています。山に巣を持ち、田に降りてくるキツネが田を荒す生き物たちから田を守ったからともいわれます。

稲荷神社などにいくとキツネがいますが、何かをくわえて座っている姿が多くあります。それを説明すると、鍵は、穀倉の鍵を顕し収穫の安全や蓄えの守護を象徴しています。また宝珠(たま)は願いがかなう霊的な力の象徴と恵みの成就を意味します。稲束は稲荷の語源に通じる稲と農の神を顕します。そして巻物は知恵・教え・誓いなどを伝承する象徴とされます。

今はあまりキツネを見かけることもほとんどなくなりましたが、むかしは自然の循環や環境においてキツネは人間と近いところで暮らしていたことがわかります。

またいなり寿司というものがありますが、あれはキツネが油揚げを好きだからということから由来しているそうです。

稲荷神社ではよく朱色の社殿や鳥居が使われます。これは諸説ありますが、草木や果実が熟すと赤くなる様子から豊年や成熟する色とされたといいます。五穀の神で木火土金水の五行説の火(赤)は土を生ずることから土壌を肥やすための野焼きの色ともされます。荘厳で朱色の雰囲気は、巫女さんの着衣もですがご神徳を感じるものです。

時間をかけて伝承されてきたものには深い意味と知恵があります。

今年はお水や田んぼとのご縁が増えていますから、稲荷神のことも学び直していきたいと思います。

真の信頼

信頼には、相対的な信頼と絶対的な信頼があるように思います。信頼の対義語は不信です。相対的に信頼を語る時は、同時に不信や疑念、裏切りなどがでてくるものです。それに対して絶対的な信頼とは何か、それは丸ごと信じる、主体的に信じ切るときに使うものです。相手が存在するのではなく、自分がどうあるかを求めていく道です。

信じるというのは、成長していくものです。継続して信じ続けていくと、それが信念と呼ばれるものになります。それは単なる思い込みの継続ではなく、生き方の継続です。自分の今、一瞬一瞬の生き方で信じるを続けていくことです。そうすることで、きっと丸ごと善いことになると信じる力も育っていきます。

その信じる力が醸成されていくと、少しのことがあっても動じません。きっとこれもいいことになると信じることができるからです。諺にあるような、人間万事塞翁が馬の境地でしょうか。禍福一円で丸ごと循環してよいことになると思うのです。

ではなぜそうならないのか、それは感情があるからです。感情は思い込みなどとつながっていて信不信を往来して揺さぶってくるものです。頭で考えていることに呑まれていくと、真の信頼とは程遠くなります。自分を生きるという自立の実践は、自分が主人であることを忘れないでいるということです。

これに対して依存というものがあります。依存というのは、自分を信じるということを忘れている状態のことをいいます。自分以外の外側に意識も感情も囚われ、地に足がつかないようにおぼつかなくなるものです。これは根が大地に張り巡らされているように成熟していないともいえす。

大樹の成長を観るように、長い時間をかけて自分の根を自分の足元に広げていく。その場所で花を咲かせ、その場所で実をつける。いくら他の木を羨ましがっても、自分の木は自分の場所で育ちます。

拠って立つというのは、自分を生き切ることですがまさにそれが真の信頼に結ばれていくようにも思います。真の信頼を持つためにも、自立のテーマを忘れずに取り組んでいきたいと思います。

骨の真髄

私たちの体の中心は骨でできています。骨があってはじめて体の動作を支え、内臓を保護します。実際に死んでしまえば最後まで残っているのは骨だけです。しかも骨は長い歳月でもこの世に留まり残ります。

つまり骨こそ私たちの正体ともいえます。私の尊敬している漢方の先生は、骨格をみて色々なパターンを読み解きます。それは健康状態だけではく、運命や性格、傾向性や過去や今からの怪我や病気なども予測します。かなりの的中率で全国から多くの患者さんが診察に来られています。

骨というのは、不思議ですが空気や水のようにまさにこの骨にこそ真実があるものの一つです。

この骨の構造は外側の硬い部分(骨皮質または緻密骨)と内側の網目状の部分(海綿質)で形成されているといいます。骨の外側は「骨膜」で覆われており、関節部分には「関節軟骨」が存在し、骨同士の衝突を防いでいます。またコラーゲンとカルシウムから構成され、強度を保つ構造です。

骨の中心部には骨髄というものがあります。これが骨髄で赤血球や白血球、血小板などの血球成分を産生したり、カルシウムやリンなどを貯蔵し、これらを必要に応じて血液中に送り出します。骨は単なる白い塊ではなく、内臓や皮膚と同じように常に代謝をし続けて働いている大切な体の中心を支えるものということです。

その骨は常に生まれ変わります。だいたい約3年で古い骨から新しい骨に生まれ変わるといいます。ちょうど今、骨折していますがこの骨の代謝で、古い骨をこわすのは「破骨細胞(はこつさいぼう)」といい、その壊した骨の部分を修復しているのは、「骨芽細胞(こつがさいぼう)」という細胞です。具体的には、破骨細胞が古くなった骨の表面に貼りついて骨を溶かしていくといいます。そして古い骨が溶けたら、 骨芽細胞がたんぱく質やカルシウム、リンなどの骨の成分を分泌して新しい骨を作っていきます。

ちょうど今、骨折していますがレントゲンで観ると破壊された骨の隙間は黒くなっています。それが時間をかけて白くなっていきまるで靄がかかったようにつながっていきます。これは骨が代謝している証拠でもあります。

骨はだんだん弱くなるのは、筋肉と同じで老化していくからです。老化した骨は、壊れやすいのはそれだけ代謝をして生まれ変わった証拠ともいえます。

両親をはじめ先祖からいただいた大切なからだ、そして骨。まさに大切な存在であることを骨に刻みお手入れをしながら感謝して使わせていただきたいと思います。