調和と徳

成長するというのは失敗するということです。謙虚であるというのは思い通りにいかないということです。生きるというのは死ぬ気になるということです。勇気を出すというのは覚悟を決めるということです。そう考えてみると、世の中は逆説に満ちているように思います。

自分というものを真ん中に置いて、人は左右を見ます。中心は何か、それは自分です。しかしその中心が中心ではなくなっているから左右に偏ります。偏っているから反対が出てくるのです。中庸という言葉もありますが中庸がなぜ捉え難いのか、それは中庸が中庸ではない状態で中庸を理解しようとするからです。

そもそも中庸や中心というのは、眼には観えないものです。地球ではマントルなどといい、人体では丹田だともいいます。どこが中心なのかは、外からは分かりにくいものです。よくバランスが取れるところや、無になっている状態などもいいとそれぞれの道ではいわれます。実際には、私にすれば調和するところが中心ということになります。

私にとって中庸とは、調和するということです。先人たちは、日々の暮らしの中で調和することを大切にしてきました。つまり中庸、中道を実践していたともいえます。

毎朝、手を合わせ太陽やいのちを拝み、感謝を生きるのもまた調和です。日々の調和は感謝と共にあります。

色々と理屈で学ぶ前に、人生道場で感じる様々な失敗や氣づきを大切に生きることの方が私には大切に思えます。それがかんながらの道であり、成長を已まないで生涯現役で生きるということでしょう。

いのちにはどんなものにも必ず役割があります。それぞれが役割に生きる世界は百花繚乱に美しいものです。才能とは誰かに使われるものではありません。真の才能とは調和するということでしょう。

徳はまさにその権化でしょう。

引き続き、調和を楽しみ時代の変化を味わっていきたいと思います。

不思議な必然

法螺貝のご縁を色々な方に結んでいますが、一期一会に結ばれる法螺貝と新たな主人との関係ができる場に出会う軌跡の瞬間は感動ばかりです。昨晩も、一人法螺貝を選んで結ばれましたがよく観察すると人が選んだように見えて実際には貝の方が主人を選んだということがわかります。

私はもちろん、自分が手掛けていますから法螺貝と対話してどのような貝なのかというのは感覚で実感しています。最初は、その人の波動を観てはこれが似ていると感じて紹介する法螺貝を決めますがあまりそれを言わずに丁寧にその人とご縁のある法螺貝を確かめていきます。

もちろん、その時々に手元にある法螺貝から選びますから前日に決まったらもう前日の法螺貝はそこにはいません。なのでタイミングというのは、とても重要です。しかしそのタイミングも、まるでその人と法螺貝がそこで出会うように仕組まれていますからご縁を感じるといつも不思議な必然を感じるばかりです。

法螺貝との縁結びを確かめるために、私は様々な確認をしていきます。例えば、吹いてみてもらい音を観ます。あとは、持った感覚、その人のその時の姿勢や手つき、しっくり感。他にはオーリングによって一つ一つの潜在意識や相性の確認をします。さらには、眼を閉じその人が心で法螺貝を持った時の印象などを確認します。

人によっては、涙が流れだしたり、またある人では感動しすぎて動かなくなる人もいます。真のご縁や出会いに結ばれた瞬間は、神々しくまるで生涯の伴侶に出会ったような光が差し込みます。納得いくまで丁寧に進めていくのは、それが一生お互いを見守り合う存在になっていくのがわかるからです。

その後は、結婚式のように儀式をしてお渡ししていきます。

日子山にまた戻ってくるよう、そしてお山のご加護が入るように見守り続けます。

人は選んだようで選ばれている、そこに不思議な必然がある。

まさにご縁の正体ということでしょう。引き続き、縁結びを味わい感謝で磨きながら法螺の道を歩んでいきたいと思います。

心の風景

昨日は、遠方からたくさんの友人や仲間が集まってくれて古民家和樂で銀杏拾いを行いました。みんなで銀杏を炭火で焼き、殻を割って食べるのですがあの瞬間はとても仕合せです。

懐かしい風景というのは、心の何かに面影を感じます。場の力もありますが、風景と精神は一体であるのではないかと直観するのです。

そもそも懐かしい風景とは何か。

これはもっともその土地や風土、自然と溶け合っている景色のことではないかと私は思います。私たちはその風景の一部として存在します。その存在は分かれていたものではなく、そのものと一体になっているということです。

懐かしいというのは、その一体になっている時に心が元のところに帰るような感覚です。つまり分かれる前に回帰しているということです。

私たちのいのちは、もともとつながりの中で感じるものです。これはわかれていない状態のときに実感するものです。例えば、自分の身体がすべて統合してあるがままに一つになっている状態もまたいのちを感じられるものです。

つながりを分けることによって、私たちは自然から離れていきました。もっと言えば、つながりと距離を置くことによって人類は別の世界や社会を構築してきました。しかし、元に居た場所、そもそももともとの存在に心は惹かれていくものです。

それが私が感じる懐かしい風景ということです。そして今、あるもの、これからやってくるもの、まさにその未来が懐かしくなっていくことが心の風景を顕現していくということでしょう。

どのような心の風景をもって生きていくか、そこに心のふるさとと今の仕合せがあります。

暮らしフルネスを通して、心を磨き、心を高め、心のままに思いやり子どもたちと生きていきたいと思います。

自然の生産性

暮らしフルネスの道場の一つ、古民家 和樂(わら)の庭にあるご神木の銀杏の実がなる季節になりました。ここは、江戸時代から続く百姓の藁ぶき古民家で棚田が広がり関の山からの爽やかな朝日と風が吹き下ろす心地よい場所です。

ちょうど、本日の午後から「銀杏拾い」をご縁のある方々や地域や仲間と行います。毎年、この時季は落ちたての銀杏の実を拾い、果肉をとって備長炭でその場で焼いて食べてはそのエメラルドグリーンに光る香ばしい銀杏の味に舌鼓を打ち笑顔と喜びに充ち溢れます。一季節で3万粒から6万粒、あるいはもっと多くの実をおとしてくれます。何もしていないのに自然にこれだけの恩恵を与えてくれる存在。まさに自然の生産性は何万年も人類の暮らしの根幹を支えてくれてきました。改めて自然の恵みが持つ生産性にはいつも感動と感謝と尊敬が湧いてきます。

生産性とはそもそも何でしょうか?資本主義や経済戦争で神話のように信仰する生産性という言葉の定義をよく見つめるとこれは効率化のことを言うように思います。この効率化というのは、何かをしたり、望ましい結果を生み出したりする際に、材料、エネルギー、労力、資金、時間などを浪費せずに達成することです。

不思議なことですが、最もこの効率化して生産性を上げている存在は銀杏であることは明々白々です。何もしていないのに、あれほどの大量の実をつけるからです。銀杏自体は、一生懸命に生きているだけです。自然の光や風や雨、そしてその木の下で生きるあらゆる生命たちの循環に貢献してくれています。

結局、現在の経済界で使われる生産性とはお金のことです。お金を稼ぐためにどう効率化するか、それを生産性をあげろというのです。銀杏はなぜかあまりお金になりません。栗なども今はあまり縄文時代ほどの人気がありません。

しかし、お金がない時代に産まれていたら私たちは生産性の高い存在として確実にこの銀杏を選んだでしょう。(笑)

ということで、自然の生産性を學び直すためにも銀杏拾いをみんなでやります。

生産性の師匠、生産性の大先生、生産性の権化に、本物の自然の共生や仕合せの本質を學び直すのです。

もし参加希望の方は、自分に連絡ください。

和の伝承

文化というものは伝承していかなければ失われていくものです。文化とは何か、それは先人が長い歳月を経て教育してきた智慧のことです。智慧も生き物のように呼吸をしていて、呼吸をしなければ死んでしまいます。その呼吸は、長い歳月をへて人々の間で行われていくものです。

例えば、伝統的な神事などがあります。特に稲作を通して神事は継承されてきました。稲作が消えれば神事もまた消えていきます。意味があった伝統も、その意味がなくなってしまえば形骸化していきます。形骸化というのはまさに呼吸を止めてしまうことに似ています。

私はよく和と和風の違いを話します。和は呼吸があり、和風には呼吸がありません。和風というのは、例えば見た目だけが和のように見えるのならそれを和としようとする考え方のことです。和が本物であれば、和風はよく似せた偽物ともいえます。偽物でも和なのだからとそれを和と言い切ってしまえばそれは和風です。本物の和風の方が、現代では和よりもいいと思っている人もいます。しかしそこには、何が失われたのか、どのようなリスクがあったのかを検証している人はほとんどいません。子どもたちや子孫のことを思うと、便利さやお金で智慧を捨ててしまうのはとても残念なことです。

智慧とは、体験や経験によって得られたものです。いくら人工知能が発展しても、時間をかけることはできません。時間をかけるというのは、それだけ長く呼吸をするということです。樹齢3000年の樹木をAIが3年でつくることはできません。現実として、2997年が必要だからです。

AIがやっているのは、あくまで知能の合理化や効率化です。知能がつくる仮想空間は自然とは異なります。まさに先ほどの和と和風の違いと同じです。人間の営みは本来は、自然と共生する暮らしの中に存在します。それが和です。しかし、それを様々な理由をつけては自然を破壊してエネルギーなどを含めた搾取をして環境保全をしていると謳うのはまさに和風です。

取り返しのつかないことをしては、政治だからと諦めていたら終焉はもう目前に迫っていくのを感じるばかりです。そういう時は、政治を何とかしようというのもありますが、本来日本の政治は「まつりごと」です。これもまた稲作をはじめとした伝統神事の中に存在したものです。

時代が変わっても、何を先人たちはしてきてどのような未来を目指して生きてきたのか。それを呼吸をするようにつなげていくことが、和の伝承にもなります。

引き続き、暮らしフルネスを通して和を丁寧に紡いていきたいと思います。

場こそ誠の教育

福岡県朝倉市の旧三輪町にある大神いにしえの田んぼで無事に自然農での稲刈りと稲架かけを行うことができました。各地から仲間たちが集まり大勢での和気藹々の稲刈りでした。高齢の方々から子どもたちまでたくさん参加してくれて田んぼにはとても懐かしい風景が広がっていました。

一つの田んぼで、みんなで力を合わせて稲を刈り取っていく。実りの秋に、稲の薫りに包まれて美味しいお米を食べる以上の仕合せはありません。まさに育てる側も食べる側も田んぼもみんなが仕合せになる「場」が産まれていました。

ここで稲架かけした稲藁はこのあとしめ縄になったり納豆づくりに役立ったり、草鞋や藁細工や調理の燃料等で活用されていきます。もみ殻もまた燻炭にしたりあるいは畑の大切な養分になります。稲は捨てるところは一つもありません。

私たちは太古のむかしから稲と共に暮らしてきました。現代は、収量をとるために結果だけを追い求めプロセスや仕合せを無視している農業が増えてきています。職業としての農業はお金を優先していることはわかります。しかしむかしの農家は金銭を得るための職業ではなく、心豊かな暮らしのために稲を選びました。稲には、不思議ですが人々を結ぶ力があり、和の心を育てる働きがあるように私は感じます。

田んぼには、トンボやカエル、そしてたくさんの生き物たちが秋を謳歌していました。日本人にとっては季節季節でめぐるすべての生き物たちもまた暮らしを彩る大切な家族であったように思います。

ふと立ち止まりみなさんに今の時代こそ問いたいのです。私たちが子孫に譲り遺したい懐かしい未来はどのようなものでしょうか。真の人間性とは何か、人間のもつ徳とはどのようなものかということです。

人間が素直に育つことこそ地球も真に豊かになるように私は思います。そして人間が素直に育つために教育があります。心を澄ませば、日本の先人たちの純粋な思いやりや生き方を各場に発見できます。

本来、「伝承の場」こそ誠の教育だと私は思います。

日本の田んぼには日本人の和の精神、つまり「至誠」があります。天地の真心が隅々までいきたわり、その中で人が育つのです。子どもたちにどのような「場」を遺していくのか、私たちは先人たちの偉大な恩恵や智慧や文化、その教育の場を授かってきた一人の大人としてこの今も新たな「伝承の場」を創造していくことを何よりも第一義にしていく必要があると感じます。

これが私が二十四年間、社業として幼児教育に携わったきて氣づき、今の答えを生きる全てです。

今週の4日、9時半から綱分八幡宮で参道の竹藪のお手入れを地域の子どもたち50人と仲間たち20数人でご奉仕する伝承の場を創ります。そしてそれを捨てずに竹垣にしたり竹炭にします。

みんなが恩返し、そして徳積循環の喜びに生きられるよう生きている限り場を見守っていきたいと思います。

普遍的な道続き、新たな場とのご縁、心優しい仲間たちと同志に心から感謝です。

ひとつのいのちが輝く

私たちは全体を認識するとき、そこに大きな思い込みが入ります。例えば、自然などとひとくくりしては気候変動などを語りますが実際の気候変動は身近な小さなところで感じるものです。

例えば、畑の野菜をみるとしても高菜畑と見るのか、一つの高菜をよく観るのかでは全体の高菜の意味も異なります。なぜなら一つのものをよく観察すると、その一つ一つには大切な個性があり発達も異なります。そのものに対して、それぞれの接し方や寄り添い方があります。個を無視して全体ばかりを見ていたら、自分勝手な思い込みで全部が同じであるように勘違いをするのです。

そもそも今の時代の教育は、同じであることが当たり前という教え方です。一斉画一に金太郎飴のように同じものであることを目指します。平均ではないことを障害と呼んだり、みんなと違うことを問題視したりします。

この世には、一つの葉っぱも同じではないようにまた一つの指紋も同じものがないように、同じものがあることの方が異常なことです。それを大量生産大量消費で替えがすぐにきくような存在ばかりを都合よく生産しようとしたことから「同じ」であることが正しいことや美しいことのように語られます。

もちろん、同志や同体験などの一緒に何かをするときの同じにというのは素晴らしいことですがコピーし同じものにするということにおいてはかえって思い込みや過信を増やして人間を傲慢にしているようにも思います。

個性があるということと、違っているということは素晴らしいことです。私たちが数が多い時にすぐに一括りにしてはそれをまるで全員が同じであるように思い込み施策や仕事をつくりますがそのほとんどは個々には適応しているものではありません。

国家の様々な施策もまた同じだと思い込み一斉に同じように施工されます。しかし同じではないのです。そこから様々な問題が発生し、そのことで同じではないことを毎回突きつけられていきます。

教育もまた本来は、同じではないということを前提にして実践されてきたものです。教育を変える、国を変えるというのは、私は一人ひとり、一つひとつを大切にする覚悟と行動からだと感じます。

一つがよくなれば、別の一つもよくなっていく、そしてそれを丁寧に取り組んでいればそのうち全体もよくなってくる。全体からよくしていくというのは、思い込みで一つ一つを丁寧によくしていくことが真の多様性を尊重するということでしょう。尊重とは、「ひとつのいのち」からというのが大原則です。

引き続き、ひとつのいのちが輝く実践を続けていきたいと思います。

場を調える

人は場を調えることで仲間が増えて志も磨けるものです。場の道場を運営する中で、大切にしているのはこの仲間と同志です。そもそも場の中には、いつもこの仲間と同志がいます。場が調和すればするほどに素晴らしい仲間と同志に恵まれるのです。

今週末は、朝倉の旧三輪町の大神いにしえの田んぼで稲刈りと稲架かけもします。手植え手がりですから、少ない人数ではとても大変です。しかしいつもたくさんの仲間や同志が助けてくれます。みんなで和気藹々と楽しみながら田んぼで元氣になっているとそこには場が産まれます。そしてその場の稲もまた、美味しく元氣になります。場が全体を元氣にするのです。

人間は、どの時代も場を創造している中で暮らしが醸成されているともいえます。どのような場をつくろうかと、みんなで力を合わせて取り組んでいくのです。

現代は、歪んだ個人主義が横行してみんなのものという意識が失われてきています。自分の敷地、自分の財産、自分のお金、何でも自分自分と権利を主張して争いが絶えません。

むかしは、地域であれば神社などもみんなのものでした。美しい水源も、風景もそして子どもたちもまたみんなで大切に見守り合ってきました。そこには素晴らしい場が産まれていました。

私たちは自分というものを優先しないことで、場をつくり仲間や同志を増やしていきました。これは自然の循環も同様に、一緒に生きる仲間として認め合い徳を譲り合って繁栄してきたのでしょう。今、日本の山々や田んぼにはソーラーパネルばかりです。山は自分の土地だから何をやってもいいということでしょうか。しかし、本来はお山はみんなの大切な場です。そこには鎮守の杜があり、水源もあり、樹木が生き物たち、微生物を見守り循環の根源があります。

私たちはそろそろ目を覚ます必要を感じます。仲間や同志がいることを思い出す時機です。平和もまた、調和の真っただ中にこそ存在するものです。

懐かしい真心を稲刈りや稲架かけを通して学び直して、子孫へ継承していきたいと思います。

氏神と氏子~見守り合い~

地域には氏神様というものがあります。そしてそこで一緒に育つ存在が氏子です。幼い時から、お宮参りをして氏神様に成長を見守っていただきました。私も子どもたちが幼い時に、地域の氏神様が祀られている神社が3社ほどあり七五三をはじめ大切な節目にはいつも感謝のご報告と御祈願をしてきました。

振り返って見ると、氏神様はいついかなる時もその土地での繋がりやご縁を見守ってくださり私たちに偉大な恩恵を与えてくださってきました。雨が降り、風が吹き、食べ物をいただき、季節の恵みをいただく。それを創り出している存在とは何か、まさにそれがその土地でありその地域であり、地場そのものです。それを私たちは故郷といい、身土不二ともいいます。

土地との繋がりのことを、地縁といいます。

地縁によって私たちは様々なものと関係を結びます。土地の人間関係もあれば、風景との関係、そしてあらゆる歴史や先人たちとの関係もあります。代々、ずっとその土地に暮らしていけばその土地そのものと一体になっています。つまり風土が私になっているのです。

その風土を善くしたい、その風土に恩返ししたいという気持ちが私がここに徳積財団を設立した理由です。恩徳が循環するように、その地縁に報いていきたい。小さなことではありますが、かつて先人たちがそうであったように自分の暮らす場を調えていくことは仕合せなことです。

故郷がここだから日本のことを考えない、世界のことを思わないのではなくこの土地は日本とつながり世界とつなり地球とつながります。今居る場所を、より善い場所にしていこうとする真心こそ氏子の本心であろうと私は思います。

氏神様と氏子は見守り合うときにこそ成立します。

お互いが見守り合えるように丁寧に関係のお手入れをすることがお祀りであり、お掃除です。かつての人々がそうであったように、私も子どもや子孫のために真心を盡していきたいと思います。

竹の甦生

来月、故郷にある綱分八幡宮の竹藪の伐採を声掛けしたら仲間たちや地元の中学生たちが集まってくれることになりました。ここは幼い頃から、よく境内で遊んだ神社です。相撲をとったり、ランニングをしたり、虫取りや木登りなどをした記憶があります。

この竹藪はちょうど参道の脇に鬱蒼として檜なども枝が伸ばせず、また太陽が入ってこないので暗くジメジメしています。やぶ蚊も多くて、参道を歩く最中にたくさんの蚊が飛来してきます。

そもそも竹藪が竹害となったのは、人が管理しなくなったからです。竹は持続可能な貴重な自然の材料で、長い歳月、私たちの暮らしを支えてきました。それが高度成長期に入り、プラスチック製品が増えて便利になり竹は失われました。ちょうど、その頃、管理しなくなった真竹もほとんど枯れて暮らしに活かしてきた竹は消えていきました。

竹は日本には約600種類のものがあるといいます。有名なものは、とても大きくなる中国から渡来したモウソウチク(孟宗竹)、竹の皮に黒褐色の斑点があるマダケ(真竹・苦竹)、寒い地域でも育つハチク(淡竹)、柔らかく粘り強いメダケ(女竹)、庭で使われるクロチク(黒竹)、棹の下部が七福神の布袋様の腹のように膨れ上がるホテイチク(布袋竹)、四角形の 稈 が特徴的なシホウチク(四方竹)、庭で使われるトウチク(唐竹)、山伏がお茶にするクマザサ(熊笹)、チシマザサ(千島笹)、ミヤコザサ(都笹)、そして私が下駄で使っている天然記念物のトラタケ(虎竹)などがあります。世界には合わせて約1200種類といわれますがそのほとんどが日本にあります。日本は竹のさきわう国です。

その竹が害になるのは、お手入れ不足です。自然と共生し、自然の生産性と循環を守る為に私たちは自然と共生した暮らしが必要でした。現在の自然が害となるのは、自然との共生をやめてしまったからです。あちこちにはソーラーパネルをつくって、自然を破壊していきます。竹が害なのではなく、人の欲望や煩悩が害になっているのです。

神社というのは、本来清浄な場で清々しい空気を纏っている場です。大切な1300年の節目に、みんなで参道を調え、竹に感謝して竹をいただき、故郷をずっと守ってくださってきた神様とご先祖様たちの遺徳にご恩返しをしていきたいと思います。