真己を磨く

刷り込みを深めていると、環境のこともありますがそれに負けないような自分を如何に創り上げていくかという課題も同時に感じます。幼いころから自分というものを育てようとせずに外から誰かに一方的に教え込まれたままに大人になると自分のことが分からなくなっているものです。

この「自分を知る」ということがどれだけ大事なことか、改めて書いてみようと思います。

そもそも自分を知るために必要な問い「自分とは何か」、これとちゃんと向き合ってきた人は少ないように思います。漠然とした自分のことはわかっていても、本来の自分というものはほとんどわかっていないものです。人生は自分を知る旅だとも言えますが、日々に本心や真己と対話をし良心ともいうべき本当の自分に出会い続けることで自分のことを知っていきます。

素直な自分というか、自分を欺かず自分の心と向き合い自分の声に耳を澄まして自分でその今の事実を受け止めて決断していく連続において自分を知っていくとも言えます。

何のために自分を知る必要があるのか、それは誰も代わることができないたった一人の自分、たった一つの人生を、自分が責任をもって主人公として生き切っていくためでもあります。もしもそうでなければどうなるか、他人の人生を自分の人生だと思い込み、一度きりの人生を無責任に他人事のように流されていたら本当の自分に出会うことのないままに死んでしまうことになります。自分を知るというのは、すべての自立の根っこであり、自立するためにはまずその最初の登竜門でもある自分を知ることからはじめなければなりません。

そして自分を知ることができれば今度は自分を創ることをはじめていく必要があります。本当の自分から目を逸らさずに自分を見つめて自分を知れば、自分にはいろいろな感情や性格や性質、特性や徳性があることに気づきます。その中で如何に自分を全体のために発揮していくかを考えるとき、善いところを伸ばし、悪いところは目立たないようにしていく、そして今できないものは周囲を頼ってカバーしてもらうというように自分を創り上げていかなければなりません。

畢竟、教育の本質はこの自分を知る、自分を創るということでしょう。そして如何にその自分が社會に参画し世界を平和にしていくか。そのために私たちは日々に学ぶ機会を経ては己を知り己を磨き続けるのです。

今の時代は、歪んだ個人主義が蔓延し、あまり自分自身を知ることや自分自身を創ることをし自己を評価して改善する時間をじっくりと取るよりも、周囲の評価に合わせては見た目ばかりを誤魔化し忙しくすることで自分を知ろうとも創ろうともしない風潮があります。

どんな自分に仕上げていくかは、自分が自分を知り、自分で自分を創造していくしかありません。そのためには、自分を見つめることから初めていくことだと私は思います。日々に省みることは、自分を知るための最大最高の道です。真己を内省により磨き続けていけばそのうち穢れも洗い流され曇りも晴れて、本当の自分を知る出会いに巡り会えると思います。諦めないで続けていくこと、どんなことからも逃げずに向き合ってみること、いただいている有難いご縁に感謝することからはじめていくといいと思います。

引き続き、刷り込みを見つめながら子どもには刷り込みを与えないように、大人にはその刷り込みを毀すために如何に真己を磨くかを伝道していきたいと思います。

階層型組織から協働体組織へ

現在、キャリアパスなどを義務付けされ研修に参加することを法的に施工させるという現象が教育業界でも起こっています。そもそもこのキャリパスというのは経営学用語の一つであり、企業においての社員が、ある職位に就くまでに辿ることとなる経験や順序のことをいいます。職員や社員の視点では、将来自分が目指す職業を踏まえた上でどのような形で経験を積んでいくかという順序・計画を指し、キャリアプランなどを設定してはそれに沿って研修を受けて成長していくという仕組みです。

階層型組織、いわゆるピラミッド型組織で目標設定型で取り組んでいくような経営組織においては有効かもしれませんが今の時代のように多様化する変化に柔軟に対応していくような場合の組織ではこの階層型やピラミッド型の組織という戦略は私ならまずは選択しない方法論です。時代遅れというか、官僚型の仕組みをいまのような変化が大きな時にやろうとしてもニーズとの不一致は広がるばかりです。補助金を出すからキャリアパスをやれというのは、そもそもがおかしな話でこのような官僚型の発想で上から押し付けられたキャリアパスはやればやるほどに後の修正が非常に困難になるだろうと私は予測しています。

今の時代に必要な能力として欠かせないものは協働するリーダーシップです。それは社員一人ひとりにも必要となる協力する能力のことです。これをチームワークともいいますが、世界ではすでに戦略的に階層型組織をやめ協働体組織への変化にシフトしています。この協働体組織とは共異体組織のことであり、それぞれの徳性を伸ばし持ち味を活かし、皆で一緒にいることの相乗効果を最大限に発揮した組織のことです。

そのモチベーションの動機は決して個人の成長が優先されるのではなく、みんなの仕合せが優先されます。自分だけが良くなればいいではなく、如何にみんなが善くなるか、部分最適ではなく全体最適が行われることを最善とします。みんなが必要とし合い持ち味を活かし家族のような結束で豊かな社會を人間は本能で望んでいます。これは名君がいて平和に国が豊かに治まったような状態、それを実現した組織とも言えます。

古来より日本には、全体善という思想がありました。これは利己ではなく利他の精神であり、みんなが利他で思いやり助け合うことで豊かで幸福な社會を実現していくという考え方のことです。モチベーションを高めるために、馬の鼻先にニンジンをぶらさげるような場当たり的なキャリプランを設置しそんなものを与えてもやる気が永久に持続するわけはありません。もちろん短期的にはそれが合った人もいるでしょうが、視野を広げればそれで合ったはずはなく長持ちもせず組織も協働体になることはまずありえないでしょう。これで余計に個々のつながりが断たれバラバラになる仕組みが活発化し、その終息に数年から十数年かかるかもしれません。

自分でやったこともないことを絵に描いた餅のように施工するのではなく、実際にそのような協働体や共異体を実践して実現している組織の人物たちと一緒にどのように世の中を変えていこうかと話し合うことができるくらいに質を議論できるようになる必要性を私は感じます。いつも思いますが片方が一歩的に何かをやったりやらせたりするのではなく、正しく対話を行い一緒に考える中で磨き上げていくのが本質的な取り組みです。

日本では昨日ブログで書いた産学官連携においても、連携が既存の既得権益や悪しき風習によって学主導や産主導、もしくは官主導になっているだけの壁や枠が取り払われなければ本質的な協働などはまだ先の話のように感じてしまいます。ここの協働がまず成り立っていないところに問題があるように私は思います。

しかし批判してもはじまりませんから私たちは理念を同じくする仲間やパートナー、お客様と共に協働や協力を対話によって一歩ずつ実現する仕組みを地道に広げていこうと思います。

子どもたちのためにも、今の時代に合致した戦略、今のニーズに対応した対話の在り方を発明しつつ丁寧に実践を取り組んでいきたいと思います。

 

価値観を毀す

人間は知らず知らずのうちに、自分の生まれ育った環境の中で価値観が固定されていくものです。特に国家や社会の中で、これは正しいこれは間違っていると一つ一つがインプットされればその固定概念によってできないことやできることが身に着いていきます。

時に外国に行き、別の国家や社会の価値観に触れれば日本では常識的にあり得ないことでもその国では当たり前に行われたり、世界で非常識だと思われることでも日本では常識だと認識されていることもあります。

通常であれば、大多数の方の価値観に無意識に従って判断していますが価値観が異なる環境の方に身を置けばそれまでの自分の価値観を維持することが難しく価値観が揺さぶられ毀れていくものです。

この価値観を毀すというものが、自分を変えていくということかもしれません。

自分の価値観を揺さぶり、自分の価値観を毀すことは自分を毀していくということです。古くなり鈍ってしまっている自分の感覚を磨き上げて新鮮に鋭敏にしていくという感覚のことです。

人間は環境の中で無意識に影響を受けて、次第にそれが癖づいていきます。習慣になれば価値観は固定され、その価値観によって常識や限界が生まれていきます。本来はできることも、その大前提になっている価値観が邪魔して動くこともできません。先に諦めてしまうのは、その価値観がガチガチに固定されてしまっているからでもあります。

自分を毀し続ける挑戦というものは、価値観に囚われず本質を磨き続けていく挑戦です。環境がどうであれ、自分が目指しているもののために敢えて常識を毀していくという挑戦のことです。

周囲からは馬鹿だと呼ばれたり、狂っていると中傷されたりしても、本人が目指す理想に向かって真摯に挑戦し価値観を毀し続けることでそれまでの人々の価値観があるときある瞬間に音を立てて毀れて新しくなります。時代の価値観の移り変わりというものは、そういう維新の志士たちによって行われてきたのです。

生きているだけでその国や常識や社会の価値観の圧力を受け続けて自分が抑えこまれていきますからそれを日々に壊すために自分の鈍る感性を鋭敏に磨き上げていく必要があります。

価値観を揺さぶられるような体験は、主体的に自らが挑戦することで得られますから自分の中で考えられないようなことへも面白がって楽しく勇んで挑んでいくことが新しい自分と出会うきっかけになります。いろいろな人に出会うのも、いろいろな分野を深めるのも、いろいろなところに行くのも、いろいろな本や智慧に導かれるのも価値観を毀し自分を磨くためです。

引き続き、子どもたちに固定概念を押し付けず子どもたちがあるがままに活きられる世の中を見守るために自分の価値観を揺さぶり続けたいと思います。

 

 

生き甲斐と働き甲斐

人生は、「生き甲斐」を持つことで希望が現れ楽しくなります。この生き甲斐は、世界では「mottainai」や「kawaii」などと同様に「ikigai」として注目されているともいいます。

この生き甲斐は、生きるに値するもの、生きていくはりあいや喜びと辞書では訳されますが私の意訳では「暮らしの仕合せ」です。一日一生として、毎日を人生の大切な日であるとして初心を忘れずに丁寧に暮らしを営むことで生きる意味を感じる生き方のことです。

人は何のために生きるのかと突き詰めれば、どう生きていきたいかに出会います。どのような生き方をするかと決めれば、毎日はその生き方を挑戦できる尊い一日になります。それを初心ともいいますが、その初心を忘れずに生きれるのなら毎日は生き甲斐のあるはりのある一日を過ごすことができます。その日々の暮らしこそが幸福の源流であり、その中にある最中こそが本当の仕合せなのです。

そしてこの生き甲斐は、そのまま働き方に転換されていきます。働き方改革など世の中でいわれているもののほとんどは、働く手段や方法のことばかりを変えることをいいますが本来は生き方を変えることが働き方を変えることです。そして生き甲斐があれば働き甲斐が出てきます。

この働き甲斐は、日々の仕事の中にあります。

どのような初心を持ち、日々働きそして内省するか、それを繰り返すことで次第に働き甲斐が高まり豊かになっていきます。その豊かさは暮らしの豊かさであり、日々の仕事の中に自分の価値や意味、その大いなる目的を共に体験することで天職に気づいていくことです。

与えられたご縁はすべて意味があるものとして生き方を磨き、与えられた仕事もすべて天職として意味があるものにしていくことで働き方を磨く。そこで得られる生き甲斐と働き甲斐は自分が生きている、活かされている充実感を味わうことです。

「ikigai」「hatarakigai」は、日本人の持つ尊い文化です。

日本人の文化に支えられながら、暮らしを甦生させ日々を充実するよう初心と実践と内省を伝道していきたいと思います。

日本の文化

私たちは目には見えないけれど確かに文化というものを持っています。その文化は表層にはあまり現れていなくても、深層には確かに存在していて何かがあると顕現してくるものです。

例えば先日、都内で大雪が降ったとき多くの人たちがみんなで協力し助け合い雪かきをしたり道を誘導したり、声掛けをし合ったりといった光景を観ることができました。他にも大震災のときなど、みんなが自粛して行動したりみんなのために分け合ったりしながら助け合い思いやりの光景が観られます。

世界は報道などで、日本人のこれらの助け合い譲り合いの精神を垣間見ると大きな尊敬の念を抱いてくれます。その時、外国の人たちが観ているのはその国にその国民に流れる文化を観ているのであり、その文化の素晴らしさに感動されているのです。

この文化というものは、一朝一夕にできたものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し、自分たちが大切にしてきていることを忘れないで生きてきた集積によって定着していきます。

言い換えるのなら生き方とも言えますが、先祖が何を大切にして生きてきたか、そして子孫へは何を大切にして生きてほしいか、さらには自分は何を大切に生きていくかということを自覚して人生を伝承していく中で伝統となってつながっていくからです。

私たちが災害時や有事のときに自然に体が動くのはなぜか、自分の中から優しい心や思いやりの精神が湧いて出てくるのはなぜか、それはひとえに先祖がそういう生き方をなさってこられたからです。それが文化として脈々と自分の中に備わって受け継がれていることに気づいたのです。

初心に気づくというものもまた同様に、自分がどのような生き方をしていくかはその伝統とのつながりの上に折り重なっていきます。人間の性が本来、惻隠の情や真心があるのもまた親祖の初心が自分に備わっているということなのです。

日本の文化を大切にするのは、自分自身の初心を大切にしていくことで守り続けることができます。決して伝統工芸や食文化だけが日本の文化ではなく自分自身が日本人である生き方を思い出し、それを伝承していくことが日本文化を守ることになります。

引き続き、子どもたちに日本人の生き方を伝承しながら誇りをもって日本の文化を伝道できるように精進していきたいと思います。

自然の姿~仏性~

先日、あるお客様のところの話でその方の座右について教えて頂きました。その座右は「人間は落ち込むときは自分の仏性が観えない、そして怒っていると他人の仏性が観えない」という話です。

この仏性とは、仏さまの性質や仏の本性と呼ばれるものですが仏教では山川草木悉有仏性という言い方をします。それを道元禅師は「山川草木、悉有は仏性なり。」と訳しています。つまりは、自然のすべては仏性そのものであるということです。

私たちは自然が観えるとき、もしくは静寂の中で自然を感じるとき心は穏やかで落ち着いているものです。しかし不安や怒り、落ち込むときは自分に囚われて執着していますから自然の音や声や姿が目には入ってきません。全体を観て視野が広く心が開いている状態のときは自然が観えても、この逆に自分の感情の中に入ってしまうと視野が狭くなり心を閉ざし何も観えなくなってしまうものです。

この不安と怒りの感情は表裏一体ですから、表に怒りが出れば裏に不安があり、不安が表にあれば裏には怒りがあります。そのどちらもまたはっきりしているのが不自然な状態になっているという事です。

不自然ではない状態を如何に維持するか、平常心を磨き如何に自然体で居続けるか、それが仏性の状態でいるということかもしれません。自然の姿には、怒りとか不安というものはありません。自然に生きるものは無心にあるがまま、つまりは自然のままの姿で生きています。

そこには運命を受け容れ、天命に従うというようにどんな状況に置かれていても必死で生きていこうとします。今に集中し、今を生き切っています。そんな心のままでいられるとき、人はもっとも仏性が顕現しているのかもしれません。

自分の目を曇らせているものは何か、自分の心を澱ませているものは何か、自分の執着を見つめてそれを手放していくことや、元来の生きる動機や初心を忘れずに心をなくさないように日々に内省を続けていくことであるがままの状態を維持していくことができれば自然と同様に自然に近づいていくことができるようにも思います。

人間は自然から離れていきましたから、余計に仏性のことが観えなくなっていったのでしょう。自分に囚われていないか、執着していないかと、自問自答しながら自省して自分を変えていくことは本来の心を守るための大切な仕組みの一つです。

子どもたちの心が見守れる大人であれるよう、実践を積み重ねていきたいと思います。

 

ニーズと真の豊かさ

時代の変化とともに人々のニーズも変わっていきます。それは仕事でも同様にかつてはお客様のニーズだったものが時代が少し変われば環境も変わりますからニーズもそれによってすぐに変わっていきます。

相手のニーズは何かと感じる力は、変化への順応性でもあります。そのためには相手の話を聴いて相手の立場にたって物事を考える訓練が必要になります。人は我が強すぎると、自分の視点や観点だけを相手に押し付けるばかりでニーズを考えなくなってしまいます。

もしも相手が自分だったらと考えてみれば、自分にどのようなことを求めているかが共感できるからです。それを相手と話し合っていくうちに、お互いの協働が合わせやすくなります。

昔のように物がなくサービスもなく、ニーズが分かりやすかったころにくらべ物が溢れほとんどのことがお金で手に入るようになった世の中においては複雑になっていますからより潜在的なニーズをつかむ必要があります。

それは表面上のニーズではなく、万物根元に共通するニーズのようなものです。たとえるのならば心や魂から求めているニーズのようなものともいえます。

それは初心であったり生き方であったり、何のために生まれてきて、どんな人生を送りたいかのような万人に共通するニーズのことです。日常の生活で出てくる不満や障害からのニーズで満たされやすいものですが実際はそういうものが消えれば潜在的ニーズが出てきます。

これは怪我や痛みがもっとも痛いところが治ってくると他の個所の怪我の痛みが出てくるように深いところの痛みは気づかないだけで誰しもが抱えているものです。

初心や理念といったものも同様に、生き方ですから本当にその人が心から願い魂から渇くようなニーズは真の豊かさに直結しているように私は思います。

引き続き、理念や初心伝承の仕事を通してその人の自己実現から周囲の子どもたちへのお手本になる生き方を伝道していきたいと思います。

日本の心と自己錬磨

私が尊敬する方の一人に日本の将棋棋士で永世七冠の羽生善治氏がいます。いくつかの著書を拝見していますが、そのどれも自己との対話や感情との折り合い、調和への心の姿勢などどれもとても参考になります。実戦により鍛錬されたその思想や感情、どのように向き合って自己錬磨されているか、それは事物に挑むときの指針になります。例えば、自己との勝敗を決める岐路について磨かれている言葉には下記のようなものがあります。

「自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。」

「基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていくことがあると思います。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。」

「どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。」

「「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。」

「勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。」

「平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。」

自分との戦いを続け、如何に自分を磨いていくか、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉に木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす「木鶏」という言葉がありますがまさに羽生善治氏はその木鶏そのもののモデルように私は感じています。この境地を体得するために、私たちは自己錬磨を続けていくように思います。

「ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、
頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。」

「人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。」

「私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。」

「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」

「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

自己錬磨の価値を教えてくれる存在が、同じ時代に生きていてその姿勢を見せてくれることがどれだけ有難いことか。日本の伝統文化である将棋には、日本の心があります。その日本の精神性や心を体現している存在があって、私たちは勝敗とは何を学ぶものか、そして自己錬磨とは何かということを先祖の生き方を学び直します。

尊敬し憧れるのは、単に強いからではなく日本人として磨かれた精神を将棋に感じ、その自己錬磨の生き方に感動するからかもしれません。

最後にいま、特に心に響く言葉です。

「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。」

「 今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

どのような決断をするか、そして何を捨てるか、常に自己との対局を楽しんでいくことで自己錬磨の面白さも味わいも豊かになります。引き続き、日本の心と自己錬磨を学び直していきたいと思います。

 

職商人

「職商人」(しょくあきんど)という言葉があります。これは職人と商人が合わさった言葉で、言い換えるのならいい職人こそいい商人であり、職人と商人の一致とも言えます。私はこの言葉に出会い、感動し、自分が目指しているところを知り、また同時に日本人の持つ伝統的経済観念を再確認することができました

かつて江戸時代は、修理や修繕といった繕いの文化がありました。今のように新しいものをつくっては捨てていく時代は、分業制も進みものを作る人と売る人も分かれてしまっています。

以前、ある鋸職人のところにいい鎌や鍬の鍛造を相談しに行った際に、職人さんたちが使い手の相談に乗りながら新しい商品を開発しそれが商売になっているという話をお聴きしたことがありました。アイデアを常に、お客様と一緒一体になって作ってこそ単なる物売りではなく単なりものづくりではなく、職商人であるともいえます。

自分で作ったものを長く手入れできるということは職人にとってもどの部分が改善が必要でどの部分が弱かったのか、また使い手の癖や職業上の理由など物事が深く理解できます。さらには、作ったものを如何に長持ちさせて甦生させるかを極めていくことは捨てない社會、いわば循環型の持続可能な社會を実現するために大きな役割を担っていることになります。

作ったものを修理修繕し、改善する文化があれば大量生産しなくても少量生産であっても長く永続的に使えればゴミになることはありません。今の時代は、作っては捨てて、古くなってはすぐにゴミのように廃棄されますが、それは職商人がいなくなっているからです。

職商人は、自分で体験したものの気づきをまた新たな智慧にして世の中に還元して人々と共に成長して成熟し、ものづくりだけではなく人づくりにまで貢献していくものです。まさに自他自物一体の境地の生き方です。

世の中がもので溢れていたとしても、長く使い古されて貢献してきた物は思い出や思いやりなどがそのものに籠っています。それを如何に活かし、長持ちさせていくかが、その人物の人格に左右されます。物を磨くのは修繕するところからはじまり、精神を磨くのはそれを研ぎ澄ますことで得られます。

引き続き、古来からあるものを大切にしながら子どもたちに勿体ないの初心の本質を伝承できるように日本の伝統文化を担う職商人としての誇りを持ち、一つひとつを丁寧に実践していきたいと思います。

ぬくもりのある暮らし

今年は、年始から会社のみんなと一緒に炭を中心にした暮らしを実践し豊かな時間を過ごすことができました。聴福庵では、炭は欠かせない暮らしの道具であり炭がある御蔭でぬくもりを身近に感じることができています。

例えば、朝起きてすぐに火鉢の炭に火を入れお茶を沸かします。また朝餉もその炭を用いそのまま料理します。炬燵には炭団を入れれば一日中暖かいままです。また就寝前には、その炬燵に残っている炭を豆炭あんかに入れれば布団の中も朝まで暖かいままです。他にも、お風呂の井戸水のお湯も炭で沸かし、その風呂には炭をつくるときに出てくる木酢液を入れると湯上りもずっとぽかぽかします。また花瓶には炭を入れると花が枯れにくくなり、飲み水やお米を炊くときも炭を入れてミネラルが増え浄化されます。部屋の隅々にも炭が置かれ、床や壁にも飾られ癒しの空間が演出されます。灰になったものは、掃除用の洗剤にしたり植物の周辺にまけば土の潜在力を高め菌たちには栄養になります。燻された古民家は、抗菌効果も高くなり虫が家屋に入ってきにくくなります。「ぬくぬくやぽかぽか」などの「ぬくもりのある暮らし」はこの炭の暮らしがあってはじめて成り立つのではないかと私は思います。

冬はとても冷え込みますが、寒くても寒くはないという感じが炭のある暮らしにはあります。みんなが火鉢を囲んでお茶やコーヒーを飲みながら語り合い寛ぐだけで、炭が周りの人たちの心も融かしていくかのようです。

暖炉やストーブや空調は、部屋全体を暖めますが火鉢や囲炉裏は手元や周辺を暖めます。体だけを暖める道具ではなく、心まで温める道具がこの炭であることを私はぬくもりのある暮らしから体験しました。

聴福庵は、炭御殿のようになっていますがまだまだ炭の甦生は途上にあります。いろいろな「ぬくもり」のカタチを炭と一緒に発見していきたいと思っています。

今の時代、暮らしが失われ心が渇いて冷え切り、お金があっても権力や地位があっても、心が寒くて凍えて震えている人たちがいます。特に子どもたちが家が寒くなることで、家庭のぬくもりを感じないままに育っている子どももいます。私も幼少期に両親が共働きで家には誰もいませんでしたからその家の寒さを体験してきました。

家が寒いのが当たり前ではなく、家は暖かいことが当たり前です。そしてそこには心のぬくもりがあります。冷えてしまったものを暖めるのは自然物である炭の力を借りることが一番です。

私はこれからも炭の力を借りて冷えた心の傷を炭火のぬくもりで絆に換えて人々の心を暖めていきたいと祈ります。子どもたちが寒くて震えているのなら、私がその寒さをぬくもりで融かす炭火となりたいと願います。

引き続き、初心を忘れず家が喜び炭が喜ぶぬくもりのある暮らしの実践を高めていきたいと思います。