不便の価値と人間の文化

先日から便利・不便について書いていますがそのことを少し深めてみたいと思います。

人は便利と不便を使い分けるとき、自分の感覚を用いないのか、用いるのかということで使い分けているように思います。例えば、鉛筆削りなどもそうですが今では電動であっという間に削れますが昔はナイフで自分の手で削っていました。ライターが普及すればマッチで火をつけるということもなくなりました。

他にも大きなことでは天気予報や災害情報なども今ではスマートフォンのアプリで勝手に知らせますが昔は自分の五感や感覚で天候や自然の状況を察知していました。今では自分の感覚を用いないことを便利といい、自分の感覚を用いることを不便と言います。

そのうち自分の感覚が失われていき、本質的に不便になっていきますが実際の便利と不便の定義もあべこべになっているように思います。動物たちにとっては自然界で生きるのに、自分の感覚を使うほど便利なことはありません。人間はすでに自然から離れ、都市化され加工したところに住んでいるとすべて自分の感覚よりもデータや道具の力でやった方が便利だと信じ込んでいます。都会の人が田舎にいったら途端に何もできなくなるような感覚があればその意味に気づけるようにも思います。

もちろん別に原始返りすればいいと言っているわけでもなく、動物の時のように戻れというわけではありません。大事なセンスや能力、五感はそのままに磨き続けて現代の技術を用いることが本来の人間の持ち味ではないかと私は思います。そういう意味で今の時代のような便利を追求するということは、自分の感覚を怠けさせるのではないかと思うのです。そして自分の五感や感じるチカラが減退するということは、それを生物でみれば本来の進化とは呼びません。今は急速に人の持っている感覚が消失しているのも、便利な道具に流され依存し自分の感覚を使わなくてもよくなったからのように思います。

結局は一つの価値観によって画一化されて単一化された道具で、誰でも簡単に自分の感覚を使わずに便利さや自由の中に埋没してしまうとより一層個性が失われていくということでしょう。これは自立と依存の関係がとくに現れていることであり、生きるために自立するのが大変だから依存していたいと怠けてしまうのです。

このような環境下で自分の感覚を使うというのは、常に決心と決断、その自立への覚悟が問われています。主体性が失われてしまうから便利な道具に流されてしまうのです。主体性を持っている人は便利な世の中であっても、敢えて不便の中に身を置き、敢えて不自由を遊び愉しんでみるという実践を必ず持っています。不自由と不便を使いこなしているからその人の人生は常に発見と発明、創意工夫、活気に満ち溢れるのです。

つまり便利さに流されるのは本人の自立の問題だということです。そして自立は自分の感覚を使う人のことをいいます。

今は世界中で単一画一が蔓延し、次第に調和のための多様性が求められてきました。こたえのない時代と言われているからこそ、子ども達はこの感覚を研ぎ澄ます体験がますます必要になってきます。不便さや不自由さは今からの時代に何より必要な道具であり、何よりの智慧であることは間違いありません。

今までの教育の概念を根底から見直す時代に入り、今までの価値観は転換され世界はもう一段成長した成熟した社會を望んでいます。

世界の責任のある一人の人間として、自分が不便不自由を謳歌しながら実践をし、子ども達や周りにその不便の価値と人間の文化を正しく伝承していきたいと思います。

暗闇の価値

私はいつも早起きをして内省しブログを書きますが、この時間は一日の中でとても大好きな時間です。早起きが好きなのは、この薄暗いところから次第に明るくなってくる様子に心が安らぎ心地よくなっていくからかもしれません。

今の時代は「暗闇」を嫌い、暗さを遠ざけているように思います。特に都市では一日中、夜もネオンなどで眩いばかりで暗さがありません。この暗さというものを遠ざけているから内省もまた遠ざかってしまうのでしょう。日々に追われ流され日々に忙しくなるのは「暗さ」の味わい深さに気づいていないからかもしれません。

今回はこの「暗さ」を少し深めてみようと思います。

この「暗」という字は、日が隠れているという組み合わせでできている字です。同様に「闇」もまた、門の向こう側に隠れているという組み合わせの字です。まだ明りが隠れていて出てきていないという意味になっています。暗闇は、これから日が出てくる前の状態ということです。

私達の生活には陰陽があります。陰の時間に内省をし、陽の時間に活動します。その陰陽のバランスを保つことで日々、心と精神と身体が一体になって心身統一された日々を正しく送ることが出来ます。

暗闇の持つ徳というのは、私たちが深く考えることができるということです。暗闇というものは、奥深さを顕し、日本文化では陰翳礼讃といって明かりの持つ妙味としてずっと大事にされてきました。

例えば、「無暗」という言葉がありますがあれは前後を考えない、理非を考えない、つまりは「考えがない」という意味になります。この反対に「暗がある」というのは、前後をよく考えている、理非を考えているということになります。

人は暗闇があるから考えるのであり、暗闇によってその奥に在るものを常に感じ取り明るみの陰にある本質を感じる感性を磨き上げることが出来るように思います。

かつて長野の善光寺に参拝したとき、「お戒壇巡り」という体験をしたことがあります。地下の戒壇に入った途端、漆黒の暗闇が訪れます。昼間明るいときに急に暗闇に入ると恐怖や不安が突然襲ってくるものです。しかし、目を閉じて暗闇を受け容れ歩きはじめると今度はゆっくりと心が落ち着いてきて様々な考えがまとまっていきます。

この明暗の体験で気づくのは、人は如何に目を基準に物事を判断しているのか、目で見たものを信じているのかということではないかと私は思います。目で見たもの以外信じなくなると人は文字通り「目先」にばかり目を向けて余裕のない日々を過ごします。

しかし目を閉じて暗闇に入るのなら人は「内省」によって目に見えないものを感じとることができるのです。この内省により感じ取ること、それによってその隠れた奥深い意味やつながり、御縁を結んでいくこと、その中に本質を見失わない人としての生き方があるように思います。

子ども達に暗闇を体験させること、そして「あかり」を感じさせることは、生き方を感じてもらうことです。囲炉裏も炭も家もすべてその体験を助けてくれる大切な道具です。暗闇の中の星空、それを家に呼び込むのは宇宙を体験させることと同じです。いつも先祖の偉大さを感じます。

引き続き、暗闇の価値を磨き内省の実践を高めていきたいと思います。

伝承の意味

私達は言葉を通してあらゆる知識を取り容れていきます。このブログも文章によってできる限り日々の出来事から気づいたことや問題意識などを書いていますが文字というものはとても便利なツールであるとともに、その便利さゆえに本来の本質が伝承されないということも起こります。

昨日も伝承について話をしましたが、伝承というものは文字や文章で簡単に伝わるものではありません。本来、まだ言葉がなかった時代、文字がなかった時代のことを思えば私たちはその時でも悠久の時を日々の暮らしから大切なことを子孫へ伝承してきました。

この伝承の本質について深めてみたいと思います。

そもそも人間は文字を使いますが、それ以外の動物たちは文字を使いません。私たち人間の特徴は、あらゆる道具を開発し道具によって発展をしてきた生き物だともいえます。その一つの道具として文字というものを開発してきました。この文字を造ってから人類は飛躍的に知識を交流させるようになり、今のようなIT時代になるとありとあらゆる知識を瞬時に便利に入手し活用することもできるようになりました。

しかし同時にその便利さというのは、常にその便利の陰に隠れている大切なことを失っていきます。例えば、今では火をガスやライターなどで簡単につけられる時代になりましたが昔の火のもっているゆらぎやぬくもり、癒しなどはそれと同時に失われてきました。便利さの陰で失われるものは、火というものの存在の本物の真価です。

これと同じように文字や文章が簡単に使われる時代になると、それまでもっていた本来のいのちの真価や自然そのものの存在をあるがままに直感するチカラも消失してきました。

今は自然のことを文字で説明して教える時代になっています。山を見て山と認識し、川を見て川と認識する。雲は雲で、氷は氷と言いますがそんなものは本来の山でも川でも雲でも氷でもないのです。

自然をそのままに理解するのに言葉は必要かといえば、むしろ言葉は必要ありませんし文字も必要ないのです。

その便利の陰に消えてしまったものをどのように取り戻していくか、ここに民族伝承の鍵が私はあるのではないかと思います。文化の継承や伝承は、この無文字の世界、無言葉の世界、言い換えるのなら「無」によって行われるものです。

この「無」をどのように体験してもらうのか、そこに日本の精神「場」や「間」や「和」の伝承の仕組みが存在していたと思います。子ども達が言葉や知識だけではわからない物を体験させることは何よりも大切です。そしてその中に私たちの先祖から連綿と続いて繋がって結ばれてきたものをがあることを忘れてはなりません。

その先祖の存在こそが私たちのアイデンティティそのものであり、その先祖に感謝しているからこそ安心して未来永劫仕合わせに存在していることができます。

こういうものを文字で書かなければならないということは矛盾そのものですが、現実を受け止めつつこの時代にどのように初心伝承していけばいいか、まだまだ学び直していきたいと思います。

常識を壊すこと

時代の変革期というのは価値観の変革期でもあります。今まで通用していた価値観が、ある時から次第に変わってしまうということです。例えば近代では戦後の頃や幕末の頃もそうですし、もっと昔なら稲作が渡来した弥生期や仏教伝来の飛鳥時代の頃なども価値観が変化したとも言えます。

それまで常識と言われていたものが壊れてしまうのですが、人のこころはなかなか変わらないもので世の中が変わっているのに気付かない、いや気づきたくないから気づこうとしないものです。これは歴史を観ればわかります。

例えば、吉田松陰がこのままでは日本は西洋諸国の属国になると危惧しこのままではいけないと改革を訴えても世間は馬耳東風、誰も相手にしません。そのうち頭がおかしいのではないかと周りに思われ、吉田松陰自身も自分のことを「狂愚」と名乗り、それでも価値観が変わるのだ、時代が変わるのだとそれまでの常識に対して一人勇猛果敢に挑みました。

松陰は死に際し、「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」といいます。自分が罪人のように扱われたとえ首をはねられたとしても、天地の神様に誓って自分の至誠(真心)には一切恥ずかしいものはないのでよろしくお願いしますと言います。「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」といい結果が分かっていても常識を壊すために信念を遣り切りました。

この常識というものは、それまでの当たり前のことです。言い換えるのなら旧態依然の状態のことです。このままでは確実によくないことが起きると分かっているのに誰もなにもしようとしない。現実逃避を繰り返し、言い訳と批評をしながら誰かがするのを待っている、そして英雄待望論だけは大きくなるがそれぞれ自分の国の責任を当事者として持とうとはしない。こんな全人無責任な状態で誰かがなんとかしてくれると思っている方が私にとっては狂っていると感じますが、誰か任せでいることが当たり前になってしまった社会ではゆでガエルと同じように死に体になっているのです。

さらには世界は今、アメリカ、イギリスをはじめ大国がかつての栄光に戻ろうという保守のみに傾き始めています。これは世界の動きですが成熟さに向かわずに結局は旧態依然に夢見ているのです。これは形は異なれど幕末の頃の幕府のやったことと実際は同じことが起きているのです。

このように今までの常識が行詰ることで自分がやらなくてもいい状態、誰かがやってくれるのをただ指をくわえて待つ状態、それが常識を強くし縛られ変化を嫌い、本来の成長ではなく歪んだ成長信仰につながっていくのでしょう。

そんな時は、吉田松陰の言う「狂人」になってでも世の中のためにそれぞれが自分がやらなければ誰がやると常識という刷り込みに挑み、新しい常識を信じてやり遂げて見せるしかありません。目覚めた人というのは、どの時代どの歴史でも変人奇人扱いされ、異常とののしられ頭がどうかしていると思われるものです。

吉田松陰は弟子たちに「諸君、狂いたまえ!」と声がけをしました。これは奇人変人になれと言ったわけではなく、「みなさん、常識を壊しなさい!」と言ったのです。そして高杉晋作はその言葉を受けて自分のことを「一狂生」と名乗りました。

これは私の認識ですが「吾は死ぬまで常識を壊し続ける人である」と名乗ったということです。そして高杉晋作はその言葉通りの人生を生き、常識を壊してみせることで世間に価値観が変わったことを示しました。

その後、バトンリレーのように志が継承され彼らが常識を壊したことにより時代は変わりました。常識が壊れようやく温故知新でき、正しく変化成長し周辺諸国に蹂躙されず日本人として日本を守り抜きました。今の日本があるのは、時代の価値観を的確にとらえそれまでの常識を壊し続けてきた大和魂を持つ志士たちの草莽崛起してくれた御蔭なのです。

ここにきて改めて常識に縛られないことの大切さを思います。理念と信念をしっかりと自分の脚元で実践していくことの価値を改めて再認識しました。遣ると覚悟を決めているのだから、どうなるか分かっていてもそこに挑み続けていきたいと思います。

同志や仲間が増えていくことを心強く思います。

子ども第一義を実践し続けたいと思います。

愛着形成~故郷の存在~

今、古民家再生を通して郷里故郷のことを学んでいます。

故郷というものは、自分を形成した場所であり、自分の原点がある場所です。故郷にある懐かしさとは、先祖たちが子ども達のためにと遺してくださった深い愛情を私たちは心で感じているのです。

この愛情を受けて私たちは健全に育ちます。これを愛着ともいいますが、自分を形成する際に必要不可欠なものです。この愛着はどのようにつくのか、それは好きになっていくことでついていきます。つまり、好きこそものの上手なれという諺もありますが好きになるから自然に愛が発生し、その愛を纏うことで愛着ができるのです。

そして愛着を持てるようになるには、好きであろうとする努力と同じことが必要です。相手の美点をみることや、相手の持ち味を探すこと、相手が偉大な存在であることに気づくこと、尊重することで次第に好きは高まっていきます。

尊敬することも尊重することも全部丸ごと含めて「好き」の中には入っているとも言えます。古民家再生は、まちの景観維持でもあり、まちの暮らしの継承でもあり、まちの人々の心の伝承でもあり、まちの美しい豊かな自然を遺すことでもあります。近代化で壊れてしまった様々な歴史や文化、先祖の遺徳を丁寧に直し修復修繕していく中で次第に故郷への誇りと自信、愛を学びます。

故郷の再生は何か新しいことをやるように感じますが実際は会社を善くしていくこととまったく同じです。社員が会社を好きになれば当然会社は良くなっていきます。社員に好きになってもらう努力は経営者の最大の責任です。それに社員も一緒に一体になって会社を好きになることで御互いのことを好きになり誇りと自信を持ちます。会社もまた自己を形成した大切な思い出のワンシーンであり暮らしと切り離すことはできないのです。

だからこそ故郷が愛の原点であり、愛着形成は人々の故郷そのものなのです。

そう考えてみると一つ一つの思い出をどのような環境で自分が見守られてきたか、それを省みるとそこに偉大な愛が潜んでいるように私には感じます。見守るということの実践は、好きになること好きになってくれるようにここが相互主体的に努力することからはじまるのかもしれません。

引き続き、子ども第一義の理念にそって子どもに譲っていきたい生き方と働き方を実践によって深めていきたいと思います。

場とは何か1

古民家を再生していく中で「場」について考える機会が増えています。古来より「場」というものにはチカラがあります。その場を活かして人々は神事を行い、暮らしを実現させてきました。この「場」とは何か、これから少しずつ「場」について深めていきたいと思います。

例えば、山野に行き清らかな川のせせらぎの澄んだ空気の中で休んでいるとします。その時、私たちの心は清浄な気持ちになってきます。この時、自然が私たちに働きかけるものと私たちが自然を感得していく相互作用があります。つまりその時、そこには確かな「場」が存在しているということに気づきます。

この「場」は御互いの主体的な影響力によって高められます。これはもともと其処にあったものに自分が近づいていったのか、もしくは自分の心が感応してそれを創りだしていくのか、それはお互いの結びつきや繋がりに由って変化していくものです。

さらに例えるのなら、庭をつくるときその庭に対して自分がどのように関わるか、どのように美しく育てていくかと接していけばその庭は次第に変化していきます。そして庭が変化するとき、その庭には「場」が創出されます。そこには美しく育てていく仲間が集まり、一緒に育ち合い成長をし続けて「場」のチカラを発しています。

私たちは何もなかったところに「場」を産み出します。そしてその「場」が私たちに関わり始めます。つまり環境というものは、場の働きのことであり、場が働くということは人間と環境の相互作用によって発生しているのです。この相互作用は共に働き次第に相乗効果を産み出します。

この相乗効果こそ自然界のバランスのことであり、調和はこの場の働きによって行われているのが自然なのです。自然というものを感じるとき、自然は場によって創造される調和であることに気づきます。

自然農の実践において感じるのも、自然の様々ないのちが複雑に絡み合ってその土地の風土の中で私を含め一緒一体に暮らしていく中でその人を含めた自然の田畑が出来上がっていきます。ここには人と風土の一体感の中で発生した「場」ができたのであり、自然の働きと人の働き、その相互作用によって安心安全な作物ができ、風土の他力が働き相乗効果の「場」のチカラが発揮され続けます。言い換えるのなら、生き活かされる共生の場ができるということです。

人類が今、課題になっている協働や協力、共生や自立といった社会問題のすべての課題はこの「場」のチカラによって再生も回復もできるように思います。

子ども達にどのような「場」を譲っていくか、そして私たちがどのように「場」から学び直しをしていくか、見守られてきた過去の自然や歴史を省みながら温故知新していきたいと思います。

好循環の実践

古語に「勝ちに不思議な勝ちあり 負けに不思議な負けなし」があります。この言葉は江戸時代の大名で剣術の達人でもあった松浦静山の剣術書『常静子剣談』で出てくる言葉です。

これを紐解けば「道にしたがい、道をまもれば、勇ましさがなくても必ず勝ち、道にそむけば必ず負ける」と記されています。

この考え方は、百戦錬磨の場数を踏んだ実力のある人が持つ境地のことでありこの時の不思議な勝ちとは何かということです。この不思議というものを少し深めて見たいと思います。

不思議というのは私にとっては他力のことです。自分以外のチカラが働きそのチカラによって物事が動いていくということです。自分は何もしていないのに、自分の思っている以上のことが起きて結果的に勝ってしまう。まさに運の善さというか、好運をいつも持っている人は不思議なチカラでいつも幸福に恵まれていきます。また逆に何をやっても不運である人がいます、自分の力を頼り自分の力のみを信じてやっていてもいつも邪魔が入り負けてしまいます。この理由は何か、それはチカラというものの理解に由ると私は思います。

もともとチカラとは何か、それは自分が引き寄せるチカラのことです。それを王道や自然の道といってもいいかもしれません。どんなに自分が頑張ってチカラを入れていても、それが自然の流れとさかさまであれば動かすのは至難の業です。しかし、もしも自然の流れに従って重力や引力を活用し上から下へとチカラを活かせばほとんど自分の力を使わなくて頑張らなくても少しの工夫で自然に重たいものは動かせます。

このようにもともとあるチカラを用いることは自分の力ではなく、「御蔭様のチカラ」を活かそうとする考え方です。これを道ともいってもいいかもしれません、自然のチカラを使えるようになるには他力が観える必要があります。

例えば運の善い人がいます、まずそれは物事が動くのは自分のチカラだと慢心していない謙虚な人のことです。なぜ謙虚な人が運が善いのか、それは周りの御蔭様に気づいて感謝しているからです。周りが動いてくださっているからと周りが動いてもらえることに素直に感謝する心が他力を活かすことをその人に感得させます。その他力のチカラが観える人は、自分が何をすれば周りがもっと動くのかを知っています。これは自然に精通しているといっていいかもしれません、こういう無我の境地を持つ人はいつも真心を活かして真心を盡すことが出来るのです。

古語に「積善の家に余慶あり」という諺もあります。善いことを積み重ねていく人はいつもなぜか不思議なチカラが入り好運が起き続けていくということです。これこそまさに不思議の価値を知り、その不思議がいつまでも続くように謙虚に好循環の実践を日々家人たちが積みかさねているのでしょう。

また負けに不思議の負けなしというのは、全部自分に何らかの問題があるということです。負ける人は自分には非がない、自分のせいではないと、いつも自分の言い訳をします。また自分が言い訳をするのは自分がやっていると勘違いしているからです。御蔭様が観えない人には、自分がさせていただいているとは露ほども思わず自分がやっているから上手くいっているという勘違いをしてしまいます。自分がやっているのは、あくまで御蔭様の他力を引き出す努力であって自分がやっていることはないのです。人の道は、謙虚さや素直さ、また感謝の心でいることで道に従い道にそむかないことになることを言うのでしょう。

好循環の実践を行うことで確かな勝ちを積み重ねていくことこそ古今一流の流儀だと思います。世界でも通じる本物の実力者とはみんなこの共通の境地を会得しているように思います。

子どものためにも、どんなときにも好循環の実践を繰り返し積み重ね余慶を愉しみ真心を盡していきたいと思います。

便利と不便

人は一人で生きていけば分からないことも、二人以上で生きていけば分かることが増えていきます。誰かと一緒に生きるというのは、それだけ御互いの中に思いやりを学びます。この思いやりを感じることができれば人は豊かさの本質を学びます。

便利な世の中というものは、一人で何でもできる世の中を目指していきますがそれでは相乗効果という自然の豊かさに気づくことはありません。

不便であればあるほどに人は不便の中にある大切なものに気づき直すものです。人間関係の中にある不便とは御互いを思いやり配慮するから不便であって、自分勝手に何でもできるから便利であるという事と対照的なものです。

たとえ自分が不便だからとお金を払って不便を他人に押し付けて目に見えないようにして隠していても必ずどこかで誰かに多大な迷惑をかけています。だからこそ不便を楽しむといった境地を体得することで昔の人たちはその不便の中にある豊かさを感じていたのでしょう。

例えば不便の中にある豊かさといえば、囲炉裏であれば火を熾しゆったりと鉄瓶で御湯を沸かし、一杯のお茶をのむのは大変な時間も手間もかかります。今は瞬間湯沸かし器でスイッチ一つですぐにお湯が沸きますからそれに比べればとても不便です。しかしその不便さを通してその中でゆったり内省したり、火を囲んで周りの人たちと談笑したり、火を見て心を穏かに落ち着いたり、暮らしの道具に囲まれてつながりや手作りのいのちを味わったりと実に豊かな物語が増えていきます。

これは誰かと一緒に生きていくのも同じです。

自分の思い通りにしたいからと一人で生きていこうとすることもできますが、誰かと一緒に生きていけばもちろん感情のストレスがかかってきます。思い通りにいかないときにメンドクサイと感じるのでしょうが、だからといっていつも一人で仕事をしたり一人でやっていたら便利ですがその中にある豊かさはなくなってくるように思います。

一緒にやる中にある感情は確かに辛く苦しいこともあります。時間を守らないとか、情報共有してくれなかったとか、裏切られた気持ちになったとか、自分を大事にしてくれていないとか、感情が沢山湧き起ってくるものでしょう。しかしその一緒にやることを通して人は様々な物語を味わっていくことができます。嬉しさ、悲しさ、喜び、出会いと別れ、そして愛、真心などその人間関係の中に人の仕合わせと豊かさがあることに気づき不便ですがそれが実に豊かな物語だと思えるのです。

先ほどの囲炉裏の話では、ただ湯を沸かせばいい、ただ火をつければいいのではないのです。そのプロセスの中にこそ、真の豊かさがあり、真の情緒があります。また自然界の持つバランスは相乗効果ですから、様々な御縁が折り重なって結ばれ新しい出会いや感動が生まれてより豊かさが増していきます。人間が一緒に生きることが出来れば人ははじめて自分に自信を持てます、それは御互いに存在を分け合えるからです。確かに成功だけを求めたり結果だけ求めて何でもできる人になるのは便利なことです。すぐに利用価値があり、すぐに効果がある方がいいと思い込みますがそれは使い手にとってそうであるだけで本人にとっての豊かさとはまた別物です。

便利な世の中になればなるほど、不便を楽しむという実践が必要は思います。このような物質経済に溢れる時代だからこそ便利か不便かではなく、豊かさとは何かということを自問自答していくことこそこれからの人間の健やかで素直な生長には欠かせないと思います。

だから敢えて私たちは一緒にやるのです。

引き続き、人類のためにも子どもたちのためにも「一緒にやる」ことの豊かさを子ども達に継承していけるように様々な感情と向き合いながらその中にある物語を味わっていきたいと思います。

京町家の心構え

昨日、1700年創業で12代薬業を商ってきた京都府下京区の伝統的商家の京町家泰家を見学するご縁をいただきました。ここ泰家は幕末の大火で焼失後明治2年に建てられた京町家です。

建物は築140年ほどになりますが、代々家に続いている暮らしや文化、その生活の本質は今もなお継続されその佇まいから家の息づかいを感じました。現在、郷里の町家再生に手掛けていますが家が喜ぶ使い方とは何か、家主としてどうあるべきかなど、子ども達のためにどのようなことを遺せばいいか、その他、秦様より体験からの示唆深い気づきを教えていただきました。御縁に深く感謝しております。

昔から日本には「場」や「間」、「和」という考え方があります。例えば「場」というのものには場力というものがあります。現在ではパワースポットとか言われ、ブームになって旅行するときの目玉になったりしていますが本来は「場」は日本人にとってなくてはならない大切な感性の一つでした。

自然界の中でも、土地にはその土地に場のチカラがあります。その土地のチカラを観えるようにして神社が建っています。また人が集まるところにも場ができます。この時の場は、人物によって場が醸成されます。松下村塾の吉田松陰なども同じく場を創造したとも言えます。

昔から私たちは暮らしの息遣いを通してその場を発酵させてきたとも言えます。私が郷里で行う高菜漬けについても、その自然農の田畑をはじめ漬物の発酵場、一年のめぐりなどを通してそこには確かに暮らしが誕生し「場」が創造されるのです。

この「場」のチカラというのは、自然のチカラの一つであり人間が本能的に持っている大切な能力の一つでもあります。今の時代はこの「場」というものをあまり活用せず知識や頭でっかちになり場を壊していることにも気づかないように思います。

例えば、無機質の狭い会議室の中で蛍光灯が明々としている中で語り合うのと、神社仏閣のような美しい境内で穏かな風や光、鳥の声や水の音、植物たちや木々に囲まれる中で語り合うのとではその「場」のチカラによって語り合いはまったく異なるものになります。

私たちは心を原点回帰するとき、もしくは平常心というものを取り戻す時、「場」によって活かされて心を研ぎ澄まして洗い清めていくのです。家というものは、家主がいてその家主の生き方や暮らし方、その日々の心の様相が永い年月で醸成され息遣いの中に残存して「場」が生まれるのです。

京町家といっても、今では外国人たちの間で町家泊がブームになり不動産をはじめ外国人の資産家がリフォームをして貸し出したり、ちょっと古く質の高い町家があれば飛ぶように売り買いされているとも言います。暮らしの息遣いの方には一切目もくれず、日本風の建物に泊まって雰囲気を味わってもらうことで旅行の目玉にしています。

観光の本来の意味はそのものの持つ徳性を発見しその徳性によって己を磨くことを言います。家には主がいますから、その主とその家人たちの暮らす「場」を実感し、その一家が持つ佇まいや息遣いを感じることが本来の家の学び方だと私は感じます。

私たちの会社も一家にして4年目になりますが、その家の人たちの生き方や日々の実践、家風とも言える家人の風格が次第に家を形成していくのを感じます。初代の当主が何を大切にして代々に初心や家訓を文化として継承してきたか、それをどれだけ永い年月をかけてその後受け継いだ人たちが大切に守り継承してきたか、その目には観えない永い時間のシステムの中に本当の真価が遺っているのです。そしてこの日本人の生き方こそが真の財産であり、国の宝です。

泰家のような国の宝に気づける国民性を育てることが、国を存続させることだと私は感じました。子ども達にとってこの古民家は、家が見守ることを伝承するものであり、家の中の暮らしが日本人としての原点を伝授してくれるものです。家は教師そのものなのです。家と教育は決して切り離すことはできないのです。

今回の訪問で子ども第一義における古民家再生の意義を改めて感じ直し身が引き締まる思いがしました。引き続き、何度も深めながら改めて家にある暮らしの息遣いから生き方を教えていただき、町家の原点、町人そして商人の心構えとは何かを学び直していきたいと思います。

本当にありがとうございました、今後ともよろしくお願いします。

学ぶ心

人はみんなどこか必ず自分に似たところがあります。古語に「我以外皆我師」という諺があります。これは人に限らず自分以外のものはみんな先生であるという意味です。自分が驕り高ぶり思い込みを持てば人の話を聴かなくなります、そうやっているうちに学ぶ心を忘れてしまっては成長が止まってしまいます。

人はみんな未熟だからこそ、周りをみては自分が未熟であることを実感していくから学びが深くなってきます。人間関係というものは、自分自身と向き合うのにとても大切なことのように思います。

自分に似ているところが良いところもあれば、自分にとって似ているのが嫌なところがあったりします。他人の嫌だなと思うところは自分にとっても嫌悪しているところが多く、自己嫌悪すればするほど他人を嫌悪していくものです。自己嫌悪が他人嫌悪のようになり次第に人間不信になっていけばより一層自分自身のことを認めることが出来なくなります。

自分が自分を認めることは、未熟な自分を認めることです。その上で未熟だからこそ改善していこう、未熟だからこそ学び直していこうと精進できる有難さに気づけるようにも思います。

今の時代は、教育の刷り込みからか周りの評価を気にして自分の価値がどうなっているのかを気にするあまり本来の自分(自己)というものとの付き合いが出来なくなっている人が増えているように思います。

自分というものを認めることが他人を認めることになり、自分が学び直すことが他人から学び直すことにもなります。この逆に自分を認めなければ他人を認めませんし、自分が学ばないから他人からも学べないのです。

人間関係はまさに自分を磨く砥石です。御互いに似ているところがあるからこそ、何を気をつければいいか、何を教えてくれているのか、相手の姿は自分の鏡だと思い自分からその鏡に向かって直していこうとすれば相手もまたその鏡によって変化していくように思います。

他人の善いところを沢山見つけられ発見できる人は、自分の善いところも沢山見つけられる人です。他人のことが尊敬できる人は自分のことも尊敬できる人です。もっとも身近な自分のことを大切にできなければ、自分の大切にしたい人を大切にすることができなくなります。

だからこそ自分自身の人格の一致、これが何よりも大切なことです。そして言行一致した自と己との一体感は自分自身に安心を産み出しより自然な成長に原点回帰していくのでしょう。本来、人間が学ぶ意味は「学び直し」にあります。だからこそ我以外皆我師という実践を行うことで、評価の刷り込みを取り払い、常に自分自身を学び続けて精進し、高め続けて人格を磨き醸成する仕合わせを味わうことができるように思います。

道は誰しもその人に与えれてもらっている天与の道ですから、他の方法論などはなく「学ぶ心」を高めることで未熟さが成熟し納得のいく人生を送れるようにも思います。だからこそ日々に自分の間違いに気づける謙虚さと、日々に間違ったら直そうとする素直さを大切に自分の中にある子ども心と未来の子ども達のためにも持っていたいと感じます。

我以外皆我師として、内省を怠らず学ぶ心を育て、学び直しを続けていきたいと思います。