囲炉裏の場~火を守り続ける~

朝から炭を熾し、囲炉裏で鉄瓶の一杯の御茶を呑むのはとても仕合せな時間です。囲炉裏のある暮らしというのは、温もりのある生活です。この日本の囲炉裏にはとても不思議なチカラがあります。

縄文時代より家の中心には囲炉裏が設置され、暮らしの中心は火と共に行われました。囲炉裏が真ん中にあると、冬は暖かく夏はカラッとしたと言います。灰や炭が防虫効果や病気が入ってこないこともあり、火の神様は一家の守り神として大切に日々に接してきたと言います。

その後、日本家屋は「土間」、「居間」、「座敷」の3つの空間に分かれました。「土間」は出入り口とつながった空間で農作業をする場所、「座敷」は人を招きおもてなしをする場所、そして、寝起き、炊事、団欒などの生活の場所として「居間」と分かれます。

得に囲炉裏はは火の神の祭り場であり、火の神は家を守る神でしたから家の中では最も神聖な場所に設置されました。そしてそこに足を踏み入れたり、穢れたものをくべることは禁じられたほど神聖な場所でした。それだけ火は、私たちの先祖が大事に信仰してきた家の守り神であり、一年中、神棚に火を祭ることで暮らしが継続できたとも言えます。

以前、石川県で「火様」という風習が残っているのを聴いたことがあります。これは毎朝、小枝をくべ炎がおさまると灰をかぶせ手を合わせて祈る。これを300年も継承されていると言います。

これはまさに原始の心、火の神様を祀り奉るための神事であることが分かります。

今では当たり前になっていますが、この「火」が絶えないことが家が絶えないことであり、囲炉裏を中心に家族が団欒して集い暮らしが存続できたことの御蔭様が火の神様であったということでしょう。火の神様がいらっしゃる神聖な場所、そこが「囲炉裏」であったのです。

囲炉裏は家の魂とも言えます。

家の中に囲炉裏があるということは、そこに一家の魂が宿っているということです。その一家の魂が常に火がともし続けられ、その火を守り続けるということは家運を守り続けるという家主の実践の一つだったのです。

囲炉裏を大切にするということは、その家の暮らしを大切にするということですから温もりを絶やさずに神聖な場所を守り続けたことで囲炉裏と共に代々が続いていくのだという歴史の歩み方を伝承しています。

最後に「永遠の燈火」として800年間火を絶やしていない千葉家の家訓で締めくくります。「いろり火の焚火はな、先祖が焚きつけた火じゃで、消すことはならんぞよ。代々伝えてくりょ。なんとしてでも、山があるもんやで火を絶やさずやってくり」とあります。

そして火はこうやって残すのだという心得を続けて語ります。

「いろり火を絶やさないコツは、朝起きたら、夕べの火種を掘り起こして、火をおこし『おき火』をたくさん作っておくこと。昼間は灰をかけて、その上から十能一杯分の籾殻をふりかえておきます。そうすると夕方まで火が残る。十三時間くらいは大丈夫。夕方は、朝と同じように火をおこして同じことを繰り返します。かつては薪も山の木を割ってくべていました。今は、若い者の仕事が忙しいので、買った薪を使うこともあります。火を守り続けて感じるのは、昔は、簡単に火をつけることができなかったので、大切にしたんやないかということです。今は、火を守る必要がないと思われるかもしれませんが、先祖からの火なので尊く感じられて…。先祖あっての自分ですから。この家には家族五人が暮らしています。家のものは、先祖からの言い伝えをただ大切に守っています」

・・・先祖からの火なので尊く感じられて・・・。

火が絶えないということは、先祖からずっと火を守り続けてきたということです。囲炉裏は火が絶えない場所なのです。囲炉裏が今もあることで、私たちの暮らしは復活していきます。

引き続き、子どもたちに伝承したい暮らしを味わっていきたいと思います。

 

 

 

自然循環の力

冬が終わりに近づいてくると、冬に水をはった田んぼでは新しいいのちが準備に入っています。オタマジャクシをはじめ、イトミミズや蜘蛛などの小さな小虫、その他、水の中には何らかの卵がたくさん泳いでいます。

秋の収穫が終わっても、水のめぐりを止めなければ生態系の循環は冬の間も行われます。生物多様性は、自然循環と共に行われますから自然循環の邪魔を如何に行わないかで多様性はより豊かになるとも言えます。

農薬も肥料も蒔かずに稲を育てている田んぼは、年々、そこで暮らしていく仲間たちの姿も変化してきます。4年目くらいからはよく見かける草草、5年目くらいには定着しているカニワナや沢蟹たち、上手に周りの生き物たちと共生をはじめています。

生物多様性をみていたら、一つ一つの生き物たちがそれぞれに関係を結び近くて生きていることに驚きます。あの生き物がいるということは、近くにこの生き物がいるはずと一つ一つを結んでいたらまるでどこかから集団移動してきたのではないかと思えるほどに無数の生き物たちのムラが出来ています。

土の中も一握りの土に地球の人口以上の微生物が棲んでいて、場所場所によってはその微生物の種類も分布も異なりますから数年でここまで変化してしまうのをみると如何に自然の循環の力が偉大かが分かります。

人間がその土地を改良するために様々な薬や肥料を散布してもここまでの変化は創りだすことができません。自然の持つ循環力は、あるがままそのままにしておくだけで発揮されています。むしろ邪魔をしないでいることがもっとも自然の循環力を引き出しているとも言えます。

この邪魔をしないというのは、余計なものを足したり耕したり、持ち込まなさい持ち出さないということですが言い換えれば自然のままにしておくということです。しかし何もしないで自然のままなら作物が育ちませんから、人の手を入れることも自然の一部として自然にしてしまうのです。それは自分の作物を育てるのに、周りを排除するのではなく「一緒に」育てていこうとするのに似ています。

自分だけがよければいいという考え方はとても利己的で自然ではありません。循環というのは利他的であれば、相手も自分も、また皆が善いのがいいと考える発想です。これは「三方よし」とも言いますが、みんなが倖せになるためにどうすればいいかを考え最善を盡していくのです。

自然循環はいつも全体を最適になる様に動いていますから、全体が最適になっていると思うことがまず循環の力を邪魔しなくなるための第一歩になると思います。そのままでいい、このままがいいと丸ごと認めてからその上で全体が最適化するのを見守っていくのが一つの方法論かもしれません。

今年の自然農園の田んぼも、いよいよ苗を植えるまでの準備と手入れの時機に入りました。小さな生き物たちが土を柔らかくしてくれて、冬の草草の根が土の中にたくさんの空洞をつくってくれています。ここに苗が移植されていきますが、循環のタイミングをみてはお引越しです。

また今年の循環を観察し、自然がどう変化しているのかを味わってみたいと思います。

 

 

八十八

春が訪れ、いよいよこれからお米の苗作りの季節に入ります。毎年この時期がとても待ち遠しく、今年も一緒にお米と季節の廻りが学び合えること、見守りを味わえることに仕合せを感じます。

お米というものは八十八の手間暇がかかると書いて「米」と書きます。この手間暇は意識していなくても自然に手間暇をかけています。こういう時間が何よりの味わいであり、自然農はさらにその手間暇を手作業で味わい盡すことができる豊かな農です。

以前、熊本県人吉にある国宝青井阿蘇神社に参拝したことがあります。そこの大神宮拝殿の入口付近に下記のように書かれてあったのを覚えています。

「わたし達の主食であるお米は、天照大御神からいただいたものといわれています。その「米」という文字は、「八十八」、つまり88の手間をかけ大切に育てるという意味です。太陽・星・月の光を受け、大自然の恵みとしては雨水をいただき、風で害虫を防ぐ、稲妻の光で稲の実が膨らみ、わたし達の命の根(イのちのネ)、命の根源となります。お米は撒けば1粒が万倍にもなります。これは自分1人だけでなく、他人の分までも賄えるという神道における調和と共存共栄の思想です。平らかに【平】、禾(イネ)をを口にする【和】。神様からの賜りものを平均して皆がいただける状態を「平和」というのです。」

とても素晴らしい文章で、古来よりお米が神道の行事、また儀式や祭礼として私たちの生活に密接につながっているのを感じます。昨年は島根で注連縄づくりも実践するご縁をいただきましたが、お米の持つ神聖神秘的なもの、その稲神様が寄り添って暮らしてくださっていると実感することは私たち民族が何を初心に生きていけばいいかを忘れさせないための工夫にもなっています。

八十八の神様宿るお米だからこそ、八十八のお世話をつとめさせていただけるという仕合せ。御米作りの有難さというのは、いのちのねが育つ歓びでもあります。

すでに自然農園の山の湧き水のたまりに10日前に設置してきた昨年のお米の種籾から新芽が出てきていました。これから苗床を用意していよいよ6年目の実践がはじまります。さらに今年は、一昨年前に川口さんにいただいた古代米にも挑戦し、また苗場も使い分けて取り組みます。

子ども達のためにとはじめたものですが、田畑から数多くの見守りをいただき確実に八十八がしみ込み浸透してきています。また青井阿蘇神社にはこう書かれていました。

「お米を炊き食事をつくる場所を台所と言います。これは母親が幼い子どもの食べ物の有難さや、大切さ、事の善悪を教えるなど、人間の生き方の基礎となるべき土台を形成する場所だったからだとも言われます。全国の神社で五穀豊穣を「祈願」するのが2月17日の祈年祭で、「感謝」するときが11月23日の新嘗祭です」

愉しみはいつも道の中にあります、道縁無窮です。

今年も御米に携われることに深く感謝して、丹精を籠めて丁寧に学び直してしていきたいと思います。

 

 

 

 

気力体力

人間には気力と体力というものがあります。この2つの力をもって活発的に活動しているのが人間だとも言えます。この気力と体力はどのような定義になっているのか、少し深めてみます。

まず気力とは辞書には「物事をなしとげようとする精神の力。また、元気。精力。困難や障害に負けずに物事をやり通す強い精神力。気持ちの張り。気合。」とあります。そして体力とは「ある仕事が行えるか否か、または病気に耐えるか否かという、身体の強さ。労働や運動に耐える身体の力。また、病気に対する抵抗力。」とあります。

気は気持ちの部分が強いのに対し、体は行動する部分が強いように思います。この2つがバランスよく働くとき、気力体力が充実して物事は成就していくように思います。私の場合は気力が強い方でそれに体力が着いてくる感じですが、体力がなくなってくるとどうしても気力が回復しなくなってきます。体力が気力を支えますから体調を崩し病気になるとどうしても気力が減退します。

こういう時は、体力の回復を優先しまた気力が充実してくるのを待つしかありません。体力の維持のためには、規則正しい生活や、規則正しい食事、適度な運動があります。日頃から下支えしてくださっている体力に対してどれだけ感謝し配慮していくかが体力維持には大切なことです。

病気になってしまったなら、静かに体力の回復に努めることです。体力が回復することで病気も平癒します。子ども達の為にも、日常の生活を観直していきたいと思います。

天災と人災

天災と人災というものは異なるものです。天災は地球規模の災害であり、大地震から大津波、大竜巻に大台風、大寒波に火山の大噴火、熱波から隕石の落下まで毎回、私たちの想定を確実に上回る災害が天災でもあります。

それに対して人災というのは、想定内で起きる人的災害のことです。原発事故や工場火災、水道管の破裂に地下鉄事故、交通事故や停電、風評などこれらは人災でありすべてそれは事前に備えることができるものばかりです。

この天災と人災と混同している人が増えてきているように思います。一般的にビル管理などで行う災害訓練は人災対策です。これは日頃から訓練しておかなければ「人災」が起きてしまうということから行われる訓練です。本来、運よく最初の天災から逃れられたとしてせっかく助かったいのちを人災によって失うのを未然に防ぐための訓練のことです。

人災とは人道のことで、人の道は日々の平常時の訓練を怠るなということで人災が発生しなくなるようにするのが人の道です。二宮尊徳が、「人道は一日怠ればたちまち廃れる」という言葉があります。そもそも一日怠ることが平気な人がいくら人災の訓練をしたとてそれはもう廃れているのだからひょっとしたらしない方が他に影響を与えない分ましかもしれません。日々に防災のチェックをしたり、日々に備品の管理をしたり、大事なのは人の道は「一日も怠らない」ということで人災は防げるのです。かつて二宮尊徳が何度も天災に対して人道を盡して飢饉や飢餓を救ったり、水害を防いだり、沢山の人命を救助できたのもまた二宮尊徳が「一日も怠らない実践者」であったからであり、その徳恵によって仲間や家族が救われたのです。その遺徳は今でも人災対策の鑑です。

それに対して天災はどうかということです。

天災は時の運です。この天運というのものは、不思議なもので例えばちょうど地震の時に出張で遠くにいたり、津波の時にそこに近づいてしまったりします。自然界に生きている生き物たちは台風が来る前にはみんな避難していると言います。メダカなども流されないように石を呑みこんで深く潜っているといいます。鳥や野生の動物は、事前に天災を察知して避難していのちを守ります。

これは野生の勘とも言えるものです。自然から離れず、自然により沿っていきている生き物たちは自然の観察に長けています。それは固定概念に縛られず、危機意識を怠らず、自分のいのちを最優先に守り、自然への畏敬を忘れず、ピンチの時こそ野生の勘が働いているから助かるのです。

これを運が善いとも言います。この運とは、天運に対して自分の運を合わせていくということです。日頃から自然を畏敬し運が悪くならないような生き方をすることで、救われます。たとえば謙虚さや素直さを持っている人は、なぜか人のアドバイスや周りの見守り、環境の組み合わせによっていのちが長らえます。

これは日々の生き方が天道に逆らわない、昔の言い方をするのなら「お天道さまに恥じない」生き方、つまり正直に謙虚に素直に己に打ち克って初心理念を優先して生きているからです。お天道さまがいつも守ってくださるのはその人が「正直」だからです。そして正直が守られるのは天運に沿っているからです。これは会社経営も然り、生き方も然り、本来の日本人は環境の変化、天災が世界一多い国だからこそ先祖代々、「正直こそ無敵」であると、お天道様を信じて取り組んできたのです。そしてこれらの努力こそが、人道の極みとも言えます。

いくら体調を崩してこのブログを已めないのは、それが人道であるからです。一日怠ればたちまち廃れるからこそ、天理に沿って人道を重んじるのです。人道を怠らないことが己に打ち克ち天道に従うことになります。

引き続き、子ども達のお手本になるように日々の生き方の方を平常心・平常時の方を大事に実践を積み重ねていきたいと思います。

緊急の常態化の怖さ

便利な社会の中で、今ではワンクリックでありとあらゆるものが手に入ります。また都会では何でも人間の思い通り、人間の都合通りになるように仕上がっています。24時間空いているお店、病院、タクシー、ありとあらゆるものがすべて整っています。都会に住むというのは、その便利な生活の中に入るということでもあります。

しかしこれをよく考えてみると、すべて緊急時の対応ができるということが便利さであるという事にも気づきます。わざわざ準備してなくても、日頃から備えがなくても、都会に住めばお金があればなんとかなるというものを便利だと定義しているのです。

本来は、お金があろうがなかろうが緊急時の対応ができないから日頃から備えをし準備をします。例えば、病院も近くにないから早めに診察にかかります。お店も早くに閉まりますからある程度必要なものはストックします。前もってちゃんと平常の方を大事に保つのです。しかし今は緊急の方があたりまえになっているので震災や災害、天災の時にまったく対応することができません。

いくら24時間対応のエレベーターですと謳われていても、都内の全部が停電したら対応できるはずがありません。ガス、水道、電気が止まることなど想定などしているはずがありません。それが緊急時が常態化しているという危険な状況なのです。

田舎では停電は当たり前、断水、ガスがこないなどよくあることです。そのために、もしもそうなったらということで日頃の備え、つまり平常時を油断なく準備しています。緊急時で乗り切れるのはたまたま運が善かっただけとし、緊急時を主をしておらず、あくまで平常が良くなかったと反省しすぐに改善をするのです。

それが自然の中で備わってきた智慧であり、人間の努力によって未然に災害を防ぐコツのように感じています。緊急時を当たり前にし、緊急の時にうまくいかなかったらクレームをつけてもっと緊急時に合わせようとさせる愚策、緊急でも何も気にすることがない生存本能の鈍さ、自然界では淘汰されるようなことを当たり前に行っているのです。

あの原発事故でいざあの事故が起きた時まったく政府も東電が緊急対応すらもできなかったことを思い出します。あの事態になって何かしてもどうしようもないのです。それが緊急が危険だということなのです。平常時に一体何をしていたのか、そして他の原発は今はどうなっているのか。緊急の対応すらできないものを平常などとあったものもありません。まだ緊急対応できるのなら平常の備えもできますが、現に対応できないことがわかったのならば平常を全部見直す必要があるのです。そのうちだれかが新しい技術を産み出して原発を管理してくれるだろうと問題を先送りしておいて、どうやって対応と対策を立てるのかと疑問に思います。

話を戻しますが緊急時になることを恥として、本来緊急時にならないように不測の事態に備えて平常を養うことが本来の人間に具わった生き残る力だと思います。一度緊急で乗り切ってうまくいったからとそれを基準にするのではなく、「備えあれば憂いなし」と平常の実践を確実に積み重ねたいと思います。

人間の傲慢さが目先の対応で済まそうとし、子孫へツケを遺すような生き方をしてしまいます。自分たちの生き様が、後輩をはじめ後人たちに受け継がれることを忘れないように実践していきたいと思います。

 

逞しい力

ここ数日、寒暖差が激しい日々が続いています。野生動物たちはとても厳しい自然の中で、この寒暖差に身を晒します。我が家のの犬や猫、鳥たちも春の陽気から一転急激に寒くなるとピクリとも動かずに丸まってじっとしています。私たち人間は、暖房などで室内を暖め洋服を着脱して体温調整をして寒暖差をコントロールしますが野生の生き物たちはコントロールできませんから自分が順応していくしかありません。

先日、地域で最近みかけた野良猫が鳥小屋の近くで亡くなっていました。よく見ると、どこかの猫と喧嘩したのか顔や首筋に傷があり怪我をしているようでした。数日の激しい寒暖差によって体力が弱り遂には凍死したのかもしれません。すぐに大き目な樹の下の土を掘って埋葬して念仏を唱えました。

一般的に室内飼い猫の平均寿命は18年~20年くらいだと言われます。それに対して、野良猫の平均寿命は5年~6年くらいと言います。環境が快適になればなるほどに寿命は延びていきます。今ですら病気をしても怪我をしてもすぐに死にはつながらなくなりましたが、本来の野生に生きる生き物たちは常に死と隣り合わせに生きています。野生がもつ逞しさというものは、本来の自然の中で必死に生きる中で培ってくるように思います。

私たちは寿命は長くなりましたが、その分、かつて持っているであろう逞しさを失ったのかもしれません。もしも自然界の永いスパンで物事を観れば、ひょっとすると寿命が短くても自然治癒力を持ち、自然の中で逞しく生きることの方が種を永く発展・維持させていくことができるのかもしれません。かつて様々な自然災害を乗り越えてきた生き物たちは今よりももっと激しい寒暖差の中で生き残ってきました。もしも天災が発生し、私たちの文明でも対処できないほどのことが発生したとき私たちは自力と智慧で乗り越える必要がでてきます。そうなると、今まで必要だった能力が一切機能せず、まったく別の能力が必要になるのです。

それを自然の持つ逞しさといってもいいのかもしれません。いつまでも生きるチカラを失わない、その逞しい心は自然を畏敬し、自然と暮らしていく中で育まれていくものです。自然と接すると謙虚になるのは、自分の方を変え続けていかなければ自然と共に生きていくことができなくなるからです。

文明が栄えたとしては如何に分度分限を守る生活をしていくか、それは子々孫々へと先祖たちの遺してくださった遺徳を譲り渡すために必要なことです。何でも新しいものがいい、人間の発明したものがいいとなってしまえばその反面に失われるのは先祖や自然が与えてくださった自然治癒の力、つまり逞しさなのかもしれません。

逞しさを遺すには、私たちが自然と共生する道を選んでいくしかありません。地球は滅亡しませんが、人間は脆くも早く滅亡してしまうかもしれません。一人の気づきが万人の気づきになりますから、いち早く気づいて自分自身がその生き方、暮らし方を伝承していきたいと思います。

 

 

 

希望に生きる

人は幼い頃から、周りの期待の影響を少なからず受けているものです。例えば、それが親からの期待であったり先生からの期待、また周囲の関係する間での期待などもそうです。その期待に無意識に応えようとして、知らず知らずに本当の自分ではなく期待に近づこうとしている自分になってしまっていることも多い様に思います。

例えば、親の望む子どもの姿になるために本心ではない自分でも相手が喜んでくれるのならと装飾し演じているうちに自分がそういう子どもになっていくのです。これは相手を喜ばせるのではなく、自分が気に入ってもらったり相手に好かれるために期待に応えたいと思う感情です。これらの感情はごく自然なもので、好かれたいからこそ期待に応えるというのは好きだからこそ出てくるものです。本来、自分で選択してそれを行う場合は判断できるのですが無意識に期待に応えるのが自分だと思い込めば刷り込みを深くしているかもしれません。

今でも親から刷り込まれた自分を本当の自分だと思い込み、悩んでいる人がたくさんいます。親の夢が自分の夢だと勘違いしたり、先生の期待が自分がなりたい自分であったりと取違をしていくのです。自分との正対と内省により、本当に自分が望んでいるものが何かを確認することは刷り込まれた自我を取り払うことで実現しますがそれを自分だけで行うのは難しいものです。よく内観し自我を取り払う人や本質的な人の力をかりて自分の本心を知ることが効果があるように思います。

そして希望というものがあります。これは期待とは全く異なるものです。英語のTODOに対してTOBEでもあります。どうするかばかりを思うより、どうありたいかの方で生きることに似ています。しかしどうありたいかですら、自分の期待通りにすることだと勘違いしていることも多いのです。本来の希望は、自分の期待やどうありたいがあろうがなかろうが関係がなく初心や理念を信じるということです。期待は、相手次第、自我次第でいくらでも自分の思い通りに動かそうとします。しかし希望はそんなものでは一切なく、思い通りにならなくても大切な理念や初心の方を優先し信じている状態だということです。

希望に生きる人は、希望を失うことはありません。希望の反対は失望という言い方をする人もいますが希望の反対などなく希望はその人の生き方なのです。生き方を覚悟し定めた人は希望に溢れています。先日から紹介している三木清にも希望について書かれたものがあります。

「希望を持つことはやがて失望することである。だから失望の苦しみを味わいたくない者ははじめから希望を持たないのがよいと言われる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、かえって期待というごときものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。」

希望が期待にすり替わり、気が付くと自分の思い通りにしようとする。希望を失ったり絶望したりとあるのは、知らず知らずのうちに希望が期待になってしまっているのです。本来の理念や初心を優先できなければ生き方はいともたやすく無意識のうちに自我慾に取って代わられ入れ替わります。つまり人生は己に負けてしまえば期待になり、己に克てば希望になるのです。だからこそ己に克つ人はいつまでも希望を失うことがありません。最後の最期の瞬間でも実践を怠らないのです。それが信じるということです。

希望には未来があります。

それは希望が道を歩んでいる言葉であり、希望が志を顕す言葉であるからです。未来への希望とは、続いている道を諦めないということでもあります。希望に生きるとは、理念や初心に生きるということと同義です。子ども達のためにも、希望を歩む生き方を実践していきたいと思います。

道志

昨日、侘び寂びの孤独について書きましたが孤高について少し書き足してみます。孤高というのは、シンプルに言えば一人自分の志を守る境地のことです。自分の志があったものを俗世間の価値観に迎合されてしまえば志を守ることができません。自分の志は自分の中にあるものですから、その志は自分で守らなければなりません。その守り続けている状態のことを孤高とも言うように思います。

論語に「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」があります。これは大軍であってもまとまっていないとその総大将を討ち取ることができるが、たとえ身分の低い男でも意志が堅ければその志を変えさせることはできないという意味です。これもまた孤高を表し、その人がもしも志を守るのならだれもその志を奪うのはことはできないということです。

志というのは自分との約束でもあります。自分自身がどう生きるか、その理想、道を決めたならそこに嘘をつかないということです。その志だけは失わないで守っていくのは自分自身の信念でもあります。

孤高とは志のことであり、志こそが孤高なのです。

志がある人は、自ずからその志によって道に出会い仲間に出会います。大事なことはその志を守ればいいのですが、実際には己に負けてしまうからその志が守れなくなるのです。己に負けまいと精進する人は、自分の中の志にいつかは気づくように思います。世のため人のためにと生きる人は、志によって自分が動かされていることに気づくからです。

そしてそれが道と志、道志に出会うということです。孤高は道志を顕現しますから、決してそれは悪いものではなく孤独も孤高も自分一人、己との正対なのです。

吉田松陰にこういう言葉が遺っています。「道を志したものが、不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」と。

道は過去から未来につながっていますから、それを今世の役目を果たそうとする人物が見て見ぬふりなどできるはずがないと。当世の自分だけの保身のために生きては将来のツケになるのをわかっていても何もしないなどで君子の実践学問などできるはずがないということです。

孤高とは、それぞれに道を実践するということでもあります。誰が見ていようが見ていまいが、自分自身が観ているのだから自分に正直に志に素直に取り組んでいくことで日々は孤高の仕合わせを感じられるように思います。

子ども達のためにも、孤高で生きること、道志を高めていきたいと思います。

 

孤独の意味

世間では今、孤独感とか孤独死の話題がよくニュースに出て来ます。孤独に対して似た言葉に孤高があります。孤高とは俗世間から離れて、ひとり自分の志を守る姿のことを言います。世間では俗世の中で孤独を感じるのと、俗世を超えて孤高でいることが同じようにも扱われているようにも思います。この孤独について深めてみようと思います。先日から紹介している三木清が孤独について「人生論ノート」でこう語ります。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。」

これは俗世の孤独は、人と人との関係性の中にあるということです。そしてそれは決して一人になったから孤独ではなく、大勢の中にある間にこそあるということです。そしてそれは言い換えれば「孤独は社會の中にこそある」と私は感じています。

俗世とは社會のことであり、社會がどのようなものかで人間の孤独がどうなっているのかが分かるのです。社會がもしも思いやりに溢れていれば、その時人間は孤独は感じません。しかし社會が冷たく歪んだ個人主義や利己主義に溢れていれば孤独を感じます。

人間の孤独とは他人の心の通じ合いに由ります。心の壁をつくり、他人の個性を受け容れない世の中になれば自分がどのようなことに役に立つのかが見えなくなります。本来は、人間をはじめすべての自然物は意味があって存在します。それを人間の基準、人間のモノサシで善悪、必要不必要を分別すれば孤独感を感じるものです。

前述した人間の間にある孤独感は、社會そのものを変えることでなくなっていきます。人が思いやりとぬくもり、やさしさに溢れて心を包み合い許し合うのならそこに自ずから「徳」が発生し、その徳恵は自然界の太陽や月、水やその他の無限の循環の慈愛と同じような世界を感じ人は仕合わせを実感できます。

そして孤独には人間が対立して味わう一人ぼっちになる孤独感と自然の中にある侘びや寂びといった孤独感があるように私は思います。孤独は味わい次第では、それはいのちの側面を感じることであり自然界に陰陽あるようにその陰陽を感じる力ではないかと私は思います。

三木清に「孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。」があります。

これは西洋人が人間を中心にした思想感からでしか孤独を感じないのに対し東洋人には自然を中心にした思想感から孤独を味わいますからその孤独の味わい方の意味が異なるということです。

山に入るというのは私たちにとっては自然の中に入り孤独を味わうということです。これは自我を超越し「無」になることです。無になることで私たちは自然と一体になります、ここに心そのものの侘び寂びがあるのです。この侘び寂びの観念を文化や営みそしてそれを人生の使命にまで高めたところに私たちの民族性の柱である「大和魂」があるように思います。

そして三木清がこの日本人の孤独の感性について面白い例えを記しています。

「東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。」

つまりは対立する「人間の間」ではなく、大和する「自然の間」があるということです。

私も夕方のある時間帯、薄明の時間はとても寂しく感じます。これは侘び寂びを感じるこころが感応するのであり、黄昏を味わう孤独を感じる間であり、昔から昼と夜が移り変わる時間帯、降魔時、大禍時といい現世と常世の境目を味わっているのですす。ここに自然の間、余韻の時に入ります。この余韻の時こそ、私の感じる孤独の味わい深さであります。

そしてこの孤独の味わいは人間の間にある孤独とは明らかに異なります。誰と一緒にいても心は常に余韻の時、侘びと寂びを感じているのです。さらに言えば自然観というものの中にある孤独感は、無のことです。そして人間観にある孤独感は、亡のことです。

人間の中にある孤独を和らげ、仲睦まじく仕合わせに暮らしていけるようにするには社會福祉を改善し続けなければなりません。人間の中にある孤独こそが戦争を引き起こし、貧困を広げ、破滅を引き寄せていくからです。社会福祉法人というのは、本来は社會を改善していく同志たちであるということです。

引き続き、子ども達のためにも自然をお手本にして本来あるべき人間の社會を創造していきたいと思います。