刷り込みの自覚

人間は、そのままにしていれば自分で考えて行動する生き物です。誰かが教え込んで刷り込まなければ自らの頭で考えて心に従い行動するように思います。生まれたての赤ちゃんや幼い子どもが自由に遊ぶように自分らしさのままに自分のやりたいことに懸命に生きていきます。

しかし何かしらに刷り込まれてしまうと、自分で考えるのをやめてしまい他者に依存してしまうようになります。量産型の教育によって、ある特定の人たちに都合がよい人材にしていくために利用すると、考える前に答えを暗記させたり、評価という仕組みを使ってその人をコントロールすることで主体性が失われていくのかもしれません。

よく今の自分の本来の状態が一体どうなっているのか、そこから振り返る必要があります。

例えば、マジメであることが正解と教え込まれ、努力し頑張っていることを周りに理解してもらうことで評価されてしまうと、無意識に周りを気にして自分だけが楽しいことをしてはならないと思い込んでいたりします。特に日本は、出る杭を打つように好きなことをしたり目立っていたりすると嫉妬されたり炎上したりと、空気を読まず他の人と異なることをすることはよくないことだという認識があります。

本来は、それぞれに個性がありそれぞれが苦しい中でも自分の好きなことをやっている努力を行うのだから邪魔するのではなく尊重して一緒にそれぞれの道を理解し合えばいいのです。同じことを上手にできる人材、平均的の上の部分になれば優秀と呼ばれエリートととして評価される人材、階級によって分別し指示命令に忠実に従う人材ばかりを教育するから画一的である自分と異なる人への差別が増すのです。差別があるからこそ、自己肯定感も低くなり、他人の自信を奪い、自分自身も自信を失ってしまうのです。本来生まれながらにして、すべてのいのちはみんな違ってみんな善いのです。

他にも刷り込みで代表的なものの一つに、「すぐにわかること」が優秀だという言葉があります。戦国時代の毛利元就の三男の小早川隆景に「すぐわかりましたという人間に、 わかったためしはない。」という言葉もあります。

このすぐにわかりましたというのは、自分の頭で考えずに指示命令に直ちに従うときに使われるものです。本来は、理由も背景もあるのだからたいして聴いていないのにすぐにわかることなどはあるはずがありません。すぐにわかる人を優秀だとし、一言えば十を知る人間を最優秀と持ち上げます。特に「なぜ?」と聞き返す人のことを頭が悪いとか出来損ないなどと言って罵倒したりする人もいます。自分に忖度したり自分の言うことを聞く人間を育てようとするからすぐにわかることを要求するのです。本来は戦略を持ち、方針や理念がある中でそれがすぐにわかるというのなら、長い時間をかけて共に対話を通して一緒に物事を深め続けるほどの同等の危機感や問題意識が必要になります。つまり日ごろから一つになっていて運命共同体であるから全体意識も通じ合うのです。

たいした問題意識もなく、自分の頭で本質を深掘ることもなく、言われてすぐに「わかりました」と言うから分かった気になって本質から外れるのです。指示命令をどのように遂行するかは考える癖が沁みついてしまっているのです。これは先ほどのような考えさせないための刷り込み教育を施されたことによってそういう思考回路になっているかもしれません。

主体性や自主性は、まずこの自分の中にある刷り込みに気づくのが先です。そしてその刷り込みを取り払うために、自分自身が本質を深め続ける訓練をしたり、分かった気にならないために質問をし続けて問い続ける鍛錬を続ける必要があります。

そうやって誰かによって無意識のうちに施された刷り込みを取り払うことができれば本当の自分が地中から芽吹いてきます。その芽をしっかりと育てていき、自分で育つことができれば主体性は取り戻せます。

自分で考えていいと自分の脳や体に信じ込ませるのは、心の対話が必要なのです。子どもたちが主体的に自らの人生を自分らしく歩んでいけるように、一円対話などを通して心をオープンにする環境を弘めていきたいと思います。

 

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

非効率な生き方

昨日、ある方から「貴社は効率優先、結果が先ではない、長いスパンで物事を進めているいい会社だ」と評価されました。その方は、長年、大企業のプロダクトデザインをなさっていた方で家電製品や商品全体のユニバーサルデザインなども手掛けておられた方です。

少し前の日本は、すぐに結果だけを優先する成果主義をとっていました。しかしこの方法はどうしても短期的な成果だけに注目されるため、長い目で観て判断されるようなことは後回しになってきたように思います。

本来の仕事の質は、長い目で観た時にどれだけの価値があるかという経年変化の中で顕現していくものです。私が取り組んでいる古民家甦生もそうですが、かつて日本の先祖たちが発明した様々な道具や商品は経年変化する中で智慧は顕現してきます。

現在は一時的に無価値のようになった古いものが増えていますが、実際には何百年もむかしから改良されてきた自然を活用する知恵に溢れているものばかりです。現在価値が下がったのは、決してその道具が悪いのではなく私たちの価値観が自然から反するものになり、自然を活かそうとするよりも、自然を管理しようという人工的なものこそが価値があるという考え方に転換されただけです。

そのうち、自然を活用することが持続可能な社會の実現において何よりも重要だと気づけば日本人の先祖の生み出した道具や仕組みに回帰していくはずです。その時に、それが遺っていなかった、すべて失われたでは取り返しがつかないのです。

人間の価値観というのは時代時代で変化します。しかし本質や本流は変わることはありません。その中で短期的に流行があってある価値観が横行して飲み込んだとしても、自然がバランスを取るように必ず揺り戻しがあるのです。地球も暑くなれば、次は冷えるというようにそれが激しくなれば激しく揺り戻します。

価値観も同様に時間の経過とともに揺れ戻していきます。その際にどこに回帰するのか、どこを原点として間をとっておくのか、それは常に私たちは自分たちでバランスを掴んでいる必要があるのです。そのバランスを掴むためにも、本質を深め続けていく必要があります。物事の本質を深めていけば、自ずから原点回帰していくからです。

私たちは理念や初心があり、本質的に何をすることがもっとも子どものためになるのか、子孫のためになるのかを考えています。そこから、何を優先することが本質なのかと考えるようにしています。

質を高めるというのは、本質を極めるということです。

だからこそプロセスを大切にし、そのプロセスの中で出てきた問に対して改善を続けてそれを味わいながら成長していこうとしています。まさに非効率な生き方ですが、本質を守る生き方が人類や世界に必要になるときが来るはずです。

いつになったらという思いもありますが、粛々と初心の振り返りと脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。

 

人間を磨く

「磨く」という言葉があります。ではこの「磨く」とは具体的にどのようなものをいうのか、それは包丁などでいえば砥石で磨けば研ぎ澄まされてよく切れるようになります。これも磨いたということの一つです。他にも年代物の床や木を何度も拭いていけば、それも光沢が出てきて磨かれます。このように磨くというのは、繰り返し何度も何度もそのものの本質を引き出そうと取り組むことで磨かれていくのです。また「人間は磨けば光るダイヤモンドの原石」という言葉もあります。

ではその人間はどのように磨かれるのか。

それは人の話を素直に聴くということで磨かれます。なぜなら人は謙虚になることが引き出されることであり、謙虚になることでその人の本質が出てくるからです。そう考えると、まさにに人間関係こそが磨き合う本であり、人間は人間同士で関わり続けることで信頼関係を通して人格を磨き合いお互いを光らせているのです。

だからこそ自分自身にとっての「磨き」は、「信頼関係を築く」実践であり、そのために人の「諫言」や「忠告」、アドバイスを聴き入れることであることが分かります。自分に厳しいことを言ってくださる存在や、自分の過ちや視野の狭さを指摘してくださる存在、自分の間違いを正してくれる存在が磨いてくださる砥石なのです。

アドバイスを自ら聞かない状態とは、磨くことをやめているということになります。もっとも気を付けるべきは、プライドが邪魔して耳を傾けることをやめてしまい磨くよりも周囲の評価を気にしてコーティングしてしまうことです。コーティングが剥げないようにといつまでも人のアドバイスを避けていたら信頼関係が築けません。そうなるとその人の本質が磨けなくなりますから、さらにコーティングを上塗りし固めていくうちにそのものの本質や持ち味まで消失してしまうかもしれません。コーティングは簡単ですが、剥がすのは大変な作業です。

最初は自分が単なる石ころだったとしても、どんな石でも時間をかけて磨けば光ります。そして自分で自分は石ころだと思っていても、その石ころは悠久のいのちのリレーでバトンを受け継いだ親祖からの歴史がある石ころです。磨いて光らないはずはなく、単に自分で磨くのをやめているだけなのです。

自分で磨くためには、素直に周りの言うことに耳を澄ませて傾聴し、謙虚に自分で心を研いでいくのです。人は話を聞きたくないとすぐに独善的に自分が正しいと思い込んでしまいますがその時こそ、磨くことを忘れないで素直という素材を謙虚という砥石で磨こうと心を定めることかもしれません。

安心してそういう言葉が言ってもらえるように、信頼関係を研ぎ澄まし、常に自分が間違っていないか、何か見落としていることはないかと、環境に働きかけながら磨き方を日々に研鑽していきたいと思います。

 

 

むかしのいのち~もったいない~

昨日、聴福庵のおくどさんの間の天井煤竹の残りで装飾などを行いました。煤竹は、丈夫で傷まないのであらゆるところに活用することができます。飴色に美しくしなるこの竹は歴史を生き抜き燻されたいのちの凄みを感じます。

今の時代、何でもすぐに加工して大量生産をして本物に似たようなものを作ることができます。本物風の似て非なるものが、席巻しているこの時代では時代の篩にかけられて生き残ったものは古臭いものとして捨てられていることが多いように思います。

しかし少し考えてみればわかります。

この本物の煤竹を作ろうと思ったなら、100年から200年間、囲炉裏の上で日々に燻し続ける必要があります。そんな時間と手間暇をかけてつくろうとしたら、出来上がるのにこれから100年から200年待たなければなりません。ホームセンターなどで売ってある煤竹は、見た目は飴色風ですがこれは機械で一気に燻し加工することで本物風に似せているものです。

もしも先ほどの100年から200年の煤竹の大量注文をお店が頼まれたらすぐに「品物がない」と断るはずです。また「200年待ちでもいいですかと聞いて「はい」と答える消費者はいない」と答えるでしょう。

簡単に真似できるものと、真似できないものがこの世にはあります。いくら似せても、歴史や時間は似せられないのです。

私は伝統というものを考えるとき、かけてきた時間の長さを感じます。

人間は誰でも寿命を全うしたいとは願うものです。そのために、いのちを永く使い切ろうと大切に用いてきたのです。「もったいない」という言葉の本質や背景には、このいのちの大切さが籠められているのです。

そのいのちを加工して時間を懸けずに簡単に作りこまれて消費しては捨ててゴミにするという世の中では、いのちの価値もまた失われていくように思います。

すぐに加工して使える物を欲しがる風潮は、人間にまで影響を与えすぐに加工して使える人間を欲しがるようになります。

本来、時間をかけてそのもののいのちをじっくりと感謝して使おうという価値がもったいない心を育み、自然の智慧を活かす風土環境を醸成したように思います。

むかしのいのちの価値観が失われてきている現代において、子どもたちの感性にも影響を与えてきているように思います。伝統というものは、その歴史の時間を通して先人たちが守り継続してきた思いや願い、祈りがあります。

聴福庵の天井に配置した煤竹には、そういう祈りや願い、思いが入っています。引き続き、子どもに譲り遺していきたい生き方を伝承していきたいと思います。

空氣の本質~元氣な暮らし~

人間は空調に慣れてしまうと空気の流れや新鮮さなどを感じなくなりますが、むかしの古民家に住んでみると風が縦に流れているのを感じ澱みのない新鮮な空気の美味しさを味わえるものです。家の中では囲炉裏をはじめ、火鉢などを炭を熾してお茶を飲みますがその空気も床下から天井の屋根へと流れていく空気によって常に浄化されていきます。

以前、新潟のとある古民家宿泊施設に泊まったときそこは空調設備が整い現代のサッシの窓で厳重に閉め切られていたのですが、囲炉裏で火を熾したらすぐに一酸化炭素中毒の症状が出たことがありました。現代の住宅では危ないからと決して閉め切ることがないのですがつい古民家だから大丈夫だろうと安心していたのが原因でした。古い家でも、現代風になっているところは空気が循環していないのだなと改めてむかしの家の智慧を感じる善い体験になりました。

人間は空気を吸っていかなければ生きてはいけません。空気の中から水分を吸収したり、目には観えない様々ないのちのエネルギーを得ています。森林浴なども空気の中に入っている様々なものを吸収して心身ともに癒されていくのです。その空気が環境汚染によって汚れており、都市ではなお空気は汚れますから健康を害しているのは当然とも言えます。

以前、「医師が薦める本物の健康住宅」という記事を読んだことがあります。そこに小児科医の真弓定男院長の記事に「食事と空気を昔に戻せば、子どもはみんな元気になる」というものが書かれていました。

「特に、みなさんが普段何気なく吸っている空気の問題は重要です。何より気をつけないといけないのは、冷暖房で温度調節された空気です。人間は25日間、何も食べなくても水さえあれば生きていけます。その水も5日間程度なら飲まなくても大丈夫。でも、5分間呼吸をしなければあっという間に死んでしまいます。それほど空気は大切なものです。ところが、この空気をおざなりにしている人が非常に多いのです。
町中の空気より、自然な空気のほうが体にいいことは誰でも知っていること。それなのに、冷暖房や加湿器を効かせた室内で、一年中同じ温度、湿度の中にいるのは、あまりにも不自然だとは思いませんか?体には、もともと温度調整機能が備わっています。気温が高ければ自動的に毛穴を開いて汗を出し、逆に気温が低ければ毛穴を閉じて体を震わせ、熱を生み出す。そうやって体温を一定に保っているにもかかわらず、機械によって体の状態を保とうとすれば、体本来の機能が失われていくのは当たり前です。」

現在、東京では総合空調のビルの中で一日を過ごすことがあります。田舎で自然農や古民家で暮らしているなかで都会の生活に戻るとあっという間に皮膚や疲れが溜まっていくのを感じます。もちろん、病院の入院のように病気の時は回復に役立つのですが健康な時にはかえって不健康になるという具合に体温調節の機能などが働かなくなるのを自分の体験からも感じます。

田舎での体の活き活きした強さは、自然の中で五感が働き躍動することで得られる元氣です。都会は体はあまり使わず、頭ばかりを使うので五感よりも脳さえ動けばいいのかもしれません。しかしその脳も、便利すぎる都会の生活の中で空気や電磁波、食事によって働きが減退しているのも感じます。

さらに真弓先生は、「本来、外気と室内の温度差は、5℃以上あってはいけません。できるだけ外と近い空気を吸う。冬でも薄着の習慣をつける。それが子どもの健康を守る大事な秘訣です。」といいます。

自分の体をあまり甘やかさずに、少し厳しくすることで本来備わっている力を発揮させるようにする。健康を守るというのは、今の時代では環境に甘えずに自律して自立する生活習慣を身に着けるということかもしれません。

最後に、「本物の家」についてこう語られています。

「通気性のいい家とは、家の中の風が縦に吹く家のこと。昔はどの家にも必ず縁の下がありましたが、床下の空気が畳を通して1階に上がり、格子状の天井を通して2階へ行き、その空気が瓦屋根を通って外へ行く。昔ながらの木造旅館などがそのいいお手本です。すぐに新しい家を建てることができないという方は、窓を開ける習慣をつけましょう。外の空気となじませるだけでも違います。建物の空気を大事にすれば、健康面だけでなく、心ものびのび育つはずですよ。」

むかしの家にすれば、本物の家になるという言葉はまさに本質だと思います。

先人たちは、この土地の風土の中で私たちよりもずっと長い間、暮らしを営んできました。その中で得た住宅や家の智慧は、私たちが健やかに安心して健康に生きていくために創意工夫された努力の結晶とも言えます。

それを外来の異なる風土から入ってきた建物や家に住み、その翳った分を加工して乗り越えるのもそろそろ限界に来ているように思います。環境汚染が進み、気候変動やあらゆる資源が激減する中で、そんな遠くない未来に私たちは便利さや快適さを見直してでも健康で長生きし、安らかに豊かに暮らす方を選択することになると思います。

その時のためにも、先人の智慧を伝承することは今の時代を生きる世代の大切な使命です。引き続き、子ども第一義を実践し「本物」を譲り遺すために自立と自律を実践して継続継承していきたいと思います。

 

基本とコツ

今朝から自然農の田んぼにいって草取りなどを行いました。今年は水管理に力をいれて、山からの冷たい水が前面に行き渡るように流れを変えました。いろいろと実験しているとどういう状態の時が、強く逞しく美味しく育つのかが分かってきます。

失敗の連続の中で、何を学んでいたか。

それは「基本」というものです。これは仕事でも生活習慣や暮らしでも同じですがコツを掴むまでが大変な苦労があります。しかし一度、コツを掴めば大方のことはそのコツで成果が出るものです。そしてこのコツは、何か特殊なテクニックだと思い込んでいる人はいますがそれは違います。

本来のコツは、基本がしっかりと身に着いた時に持てるようになるのです。

例えば、ピラミッド型組織の場合は報告連絡相談を通して責任が分化されたのを正確に上司と連携して結果を出します。この時の基本は、「分ける」ということです。どこまでどのように分けているかを知ることで自分の責任を知ります。またフラット型や一円観の組織は確認や共有、相談を通して一緒に全体善のために仲間と協力して結果を出すことが必要になります。この時の基本は、「分けない」ということです。分けないことで自分が全体に対する責任を知ります。

このように仕事や組織一つにもコツがあり、その進め方は本質が異なっているのです。だからこそ基本を学び直すことで、本来の仕事や組織を活かし成果に結びつけることができます。

先ほどの田んぼであれば、稲が育つ環境を知ることが基本です。言い換えれば、稲がどう育つかを知ることでその時の環境を学び直すことができます。つまりはここでも基本がコツを知る近道になるのです。

基本が身に着くまでは、苦労を惜しんではいけません。そして基本が分からないから他のことも分からないということを自覚しなければなりません。基本を掴んでこそ、基本に立ち返ることができます。

この日々のブログも基本です。

継続するという力がコツであり、そのコツを掴んでいるから初心を維持して自分自身を確かに一歩ずつ成長させていくことができます。基本ができないのにいくら応用のテクニックを覚えても付け焼刃では成長することができません。

基本を馬鹿にせず、基本に忠実に取り組む人が最期は笑います。誠実な努力や苦労は、その人の生き方を高め人生を豊かにしていくのです。

引き続き、自然農を通して自然から学び直し、日々に改善を楽しみたいと思います。

野性のチカラ

昨日、熊本で自然を愛する会と共にヒューマンネイチャースクールを主催する方とお会いするご縁がありました。会が立ち上がってから43年間、自然と共に育ち、自然と共に生きる、「共育」・「共生」を願いに、登山やキャンプといったアウトドアをベースに、会員相互の親睦や社会奉仕活動・国際交流事業をはじめ、様々な活動を行っておられました。

お話をお聴きしていると、私たちの観ている子ども観と同様で「子どもはできないのではなく、知らないだけだ」という言葉に改めて環境が変わって得たものと失ったものの存在を再確認することができました。

公式サイトには、「子どもたちの現状とこれから」というところでこう書かれています。

『「生きる力を育む」ということで、教育の現場では様々な取り組みが行なわれているようですが、昔の子どもと今の子どもは何処が違うのでしょうか?食生活が欧米化したことにより体型の変化はあるようですが、本質的な部分は少しも変わっていないように思います。大人が作り出した社会環境の影響をまともに受けているだけで、子ども達は今も昔も子どもらしい部分は何も変っていないように思います。確かに今の子は、昔の子に比べて我慢強くありません。辛抱出来ない子が多いと言われます。しかし、それは大人の都合ではないでしょうか。出来ないのではなく、したことがない、しなくていい、する必要がない、知らないという環境にいるからだと思います。昔の人が創意工夫してきた知恵を含め、私たちが子どもの頃に当たり前のようにやっていたような体験が不足しているだけのようです。体験させ伝えてあげることができれば大丈夫だと思います。』

今の時代は、物に溢れ、環境に恵まれ、自ら何もない中で強烈に「求める」ということも少なくなってきています。現状に満足してこのまま特に大きな辛抱や苦労をしなくても生きていくことができる時代でもあります。そんな状況の中で、最初からやる前にできないと思い込んでいたり、どうせ自分にはできないと決めつけたりして諦めている人も多いように思います。

本当はそれは単に「知らない」だけで、何でもやってみようとすれば人間はなんでもできます。私も幼少期から何もない中で、様々に創意工夫してやってきました。それは今も会社経営をはじめ、現在挑戦しようとしていることも前例に囚われず諦めず「辛抱」して忍耐しながらも子どもたちの未来のためにと日々に新たな挑戦を求め続けています。

最初からできないと思い込んだり、大変なことを避けて苦労を嫌がるのは今の恵まれすぎた環境に対して本来備わっている生きる力が減退しているからかもしれません。農業一つでも、農薬がないとできないとか肥料がないから育たないとか、自然に育つ環境という観点ではなく材料や道具がないからできないと思い込んで最初から諦めていたら共に育つものも育ちません。

人間というものは、なんでも環境を整えて安心安全になってしまうと生きる力がなくなってくる生き物なのです。だからこそ、過保護過干渉にせず信じて見守りその人が育つために敢えて自分から主体的に活動できるような「自然野性環境」が必要になるのです。

この自然野性環境とは、五感を総動員し、ないものねだりはせずにどんなものでもすべて活かそうとする野性のチカラの発揮できる環境のことです。そうすれば元来備わっていた持ち味や活力が引き出されその人にしかできないチカラや魅力が顕現してきます。言い換えるのなら汗と苦労のチカラです。

あまりにも恵まれすぎる環境を与えれば与えるほど、汗も苦労もせず人間はもともと備わっている野性のチカラを消失していきます。そしてそのうち環境がないからできないと何かのせいにしているうちに自分自身も消失していくのかもしれません。

子どもの頃の野性のチカラを発揮する体験は、大人になってもその人の人生に自信を与えるように思います。自然の中で、創意工夫して生きた力はそのままに自分自身の可能性を拡げていくからです。

私も自然や伝統文化を愛するのは、そこにむかしからの先人の智慧を身近に感じるからです。先人の智慧は今のように何でも環境が整っている中では一つとして生まれてはいません。その智慧はすべていのちを使い切るような自然の叡智の中で創意工夫して実現してきたものです。

子孫たちに、その智慧が伝承していくことが生きる力を伸ばしていくいのちのリレーでありかけがえのないバトンになります。

子どもたちが置かれている現代の風土や環境をもう一度、研究し直し何を得て何を失っているのかを真摯に学び直していきたいと思います。

 

自己肯定感のこと

人は自分自身に自信を持つことで安心することができます。他人からの評価を基準にしていたら不安はいつまでも続き、自分自身のことを自分で認めることではじめて自分というものの存在を信じることができるようになるものです。

人間は幼い頃からの育った環境が影響して、自分自身との関係が出てくるものです。本来は自分のままでいい、自分らしくていいものが差別や偏見によって歪められていくものです。

いつまでも自己否定したり自己肯定感が低いままなのは、自分自身に差別や偏見の眼差しがないかをまずチェックする必要があります。他人から馬鹿にされたり、他人から揶揄われたり、蔑まれたりしたことが同様に自分も他人に対して無意識にそういう復讐心から偏見が入っていたりするのです。

自分に自信がないと自分の自信を持とうとすることは大切ですが、そのためにまた評価を求めてしまうのは自分自身の偏見がそうさせているかもしれないということです。思い込みの強い人や、決めつけの強い人の方が仮初の自信を纏っていることが多く、本来の自分らしくや自分のままでいいとは思っていないことが多いように思うのです。

誰しも人間であり、その人はその人のままが価値があると自分の偏見や価値基準なしに思えているかどうか。その観る目が、鏡のように澄んでいるのなら丸ごとの自分自身のこともそのままに認められるはずです。

自分のここは認めるけれど、これは認めない、決して見ようともしないでは向き合うことができないのです。人は自分自身と正対して、自覚して、自認してそれも自分だと認めるとき、自分というものの存在を感じます。

そのうえで、自分自身と折り合いをつけながら対話をしながら協力して生きていくとき自然体になっていくのです。自然体の姿は、差別や偏見のない姿になっているといっても過言ではありません。

自己肯定感が低いと不平不満を言う前に、自分の偏見や差別をなくそうと自他のことをもっと認めて本質を深めて人間を知ろうとしていくことが大切なのかもしれません。

すべての生き物にはいのちがあり、そのいのちは常に平等で普遍です。違いを認め合い、異質なものを受容するとき自分のことも愛せるようになるのかもしれません。

子どもたちが安心してあるがままに楽しく豊かに生きる社會を築いていきたいと思います。

和の一円組織

組織にはいろいろな形があるものです。例えば、ピラミッド型であったりフラット型であったりします。そのどれもに関係するのが「責任」というものです。

一般的にはほとんどの会社はまだピラミッド型の体制をとっています。これは責任がピラミッドの上にいけばいくほど重たくなりトップにすべてが集約されます。それぞれの部署に責任者が設けられ、その部署の責任を負います。部下は上司の指示や命令に従ってその責任の一部を担います。どうしても指示命令型になり、言われたことしかしなかったり、言われていないことはやらないといった性質から同じことを一斉にやったり、機械的に単一なことを繰り返しやっていくような時には向いているように思います。

またフラット型はまだ少ないかもしれませんがシリコンバレーなど、IT企業では増えています。これはそこで働いている個々が自己責任で能力を発揮してそれぞれのプロジェクトを周囲の能力を集約しながら実現させていくという体制です。このフラット型では個々に責任が重たくなる性質があります。指示命令などがありませんから、自分から主体的に考えて周りの仲間を集め能力を発揮してもらい協力してもらいます。変化の激しい市場や多様化したニーズに対応するような時には向いています。

組織のポイントは、責任のカタチです。それぞれがどのように責任を持つのか、どこまで持つのか、与えられる責任か、自ら持つ責任か、など責任について考える必要があるのです。

本来、組織において重要なのはそれぞれが自分が全体に対してどう責任を持っているかということの自覚です。無責任な人は思いやりが欠けていきますから、どうしても組織の中で周囲と協力して楽しく働くことができなくなります。責任があるからこそ、自分から思いやりのある態度で周囲と協力して問題を一緒に解決していくようになります。

一流のビジネスマンや社会人は、思いやりを欠かしません。

私はこれからの組織は、ピラミッドでもなくフラットでもなくサークルになった和の組織の時代になるように思っています。そこは道徳的な組織であり、みんなが全体善のために誠を盡すといった和の精神で働く組織です。

責任は、全体の責任をそれぞれがみんなで一緒に担うという考え方です。

これは社會教育の一つとも言えます。いつも自分の行動や感情、生き方が誰かに影響を与えていることを自覚し、初心を忘れずにみんなの仕合せのために最善を盡していくという責任の持ち方ができる組織です。

誰かに与えられる責任というものは、思いやりが発動しにくいものです。そして指示を待って指示だけをやったり、単に手伝っているだけで一緒にやっていないのではやはり思いやりを発揮しているとは言えません。

「一緒にやる」というのは、全体善のために自分の思いやりを使っていくということなのです。誰か任せの無責任な仕事や、自分のことだけやっていればいいという無責任な態度、こういうものが責任の本質をゆがめていきます。

責任とは本当は思いやりのことだと自覚することで、和の一円組織は醸成されます。子どもたちの憧れる社會の実現のために、自由と自立の自己改革を楽しんでいきたいと思います。