先祖の心

今回、数日間御先祖様の歴史を調べながら歴史と対話をする歓びと仕合せを感じました。歴史は今につながっていて、本当に大勢の人たちの物語がつながって今の私を存在させていることが分かります。

天祖の頃から、様々な出来事の中でこのいのちや血脈、そして志を繋いできてくださった方々がいるから私も志を持って生きていくことができます。志は歴史を学ぶことで改めて確固たる信念になるように思います。

私も歴史を学ぶことで根とつながり、その養分が自分の心身に流れ始めたような感覚を覚えました。根無し草とは何か、それは歴史を学ばずに自分の代のことしか考えないで生きていることかもしれません。

司馬遼太郎さんが歴史をこう語ります。

『「歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がとこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。 』

自分のいる世界以外に、偉大な世界が別にあると思えることは壮大な浪漫です。そういう何億という人生が入っている世界の中の一つに今の私があるというのは奇跡です。そして、

「私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している」

歴史はまさに御先祖様の存在、両親と同じようにいまでもあたたく見守ってくださっているのです。

その司馬遼太郎さんが21世紀の子どもたちに遺した遺言があります。その一つに、鎌倉武士たちの生き方が書かれています。今回、私も御先祖様のルーツを調べていく中で鎌倉武士の生き様に感動したところが多くありました。素朴で素直ながらも、しっかりと自己を確立していく、その歴史の醍醐味を学びました。最後に紹介します。

『鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。

もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびしく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、”たのもしい君たち”になっていくのである。

以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていく上で、欠かすことができない心がまえというものである。

君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。

同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。』

たのもしい子どもたちになっていくよう願うのは、人間が歴史によって磨かれていくのを知っているからかもしれません。まさに先祖の心、先祖の願いそのものを書いてくれているようで有難い気持ちになりました。

私も子どもたちのために、頼もしい生き方ができるよう自分に厳しく他人には優しく、思いやりと真心、ゆるしの精神を高めて歩みを強めていきたいと思います。

 

 

志の根

先祖のルーツを辿っていると、壮大な浪漫を感じるものです。かつて司馬遼太郎の本を読んだとき、その浪漫の面白さに心惹かれ歴史の醍醐味を知ったことがあります。その司馬遼太郎の言葉には、学問の本質について記されている言葉がたくさんあります。

「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」

ブログを通して体験を深め、その意味を記していくこともまた学問を磨くためでもあります。物事の実相がよく観えることができれば、真心を活かしていくことができるからです。

またこういう言葉もあります。

「人間には志というものがある、その志が人生の味だ」

人間は同じ人間であっても志が異なります、その志の質量こそがその人の人生の醍醐味になるのです。

「人々にとって、志さえあれば、暗い箱の中でも世界を知ることができる。

どんなに窮屈で暗い中にあっても、志にはなんの影響もないといいます。

「志を守り抜く工夫は、日常茶飯の自己規律にある」

志を立てることができても、それをすぐに引っ込めたり出したりしているうちに人間は自ら立てた志を自ら壊してしまうものです。そうならないためにも、日々に自らに約束したことを自らが貫徹して守ることで志は守られていきます。

「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、 いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、 その目的の道中で死ぬべきだ」

「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。」

「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。」

志を優先して生きることが、人生を面白くするということを述べています。まさに志のままに歩むことは、自分の天命を知り天命に任せて生きるということかもしれません。

最後に、歴史についてこう語ります。

「私は歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれる時、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」と、答えることにしている。私には、幸い、この世にすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世で求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。」

ここで司馬遼太郎さんの志に触れられたことに感謝しています。根っことのつながりが一体どういうことを意味するのか、私も子どもたちのために書き遺していきたいと思います。

 

 

 

ご縁を活かす力

ここ数日、郷里の先祖の足跡を辿っていますが不思議な由縁に驚くばかりです。今までなぜここにこの神社があったのか、なぜこの地名だったのか、そしてこの遺跡があったのか、それが一つずつがつながって全容が顕れてきます。

バラバラだった情報が一つにまとまっていく面白さと感動は一入で、一つ辿れば一つのヒントが顕れそれを辿ればまた一つの出会いがある。こうやってご縁を辿っていくと、如何に今まで自分と関係が深かったものを知らなかったのかと自分の無知に驚くばかりです。

最近では、神様と同じようにご先祖様というものの存在も失われきつつあるように思います。祖父母の代までは常に家には仏壇があり、毎朝毎夕、事あるごとにお線香をあげては拝んでいた背中を見てきました。

今ではあまり大人たちがそのような姿をしなくなってきたからかご先祖様に疑問をもつ人たちも少なくなってきたように思います。ご先祖様がどのようなルーツを辿って今に至るのかを知ることは、これからの自分がこの先どのようなルーツを辿ればいいのかの大きなヒントになります。

そして自分の名乗っている姓には、どれだけの思いや願いや祈りが籠っているかを知れば自分の姓名に誇りと偉大な自信を持つこともできるように思います。何気なく書いていた苗字が、2000年以上前からのものであり、何気なく自分に備わっている能力が長い年月を経て磨かれて受け継がれてきたことを知ると、頭が下がります。

御先祖様が観える人は、御先祖様の存在を常に確認しながら生きている人たちです。毎朝毎夕拝んでいる人は、知ら知らずに見守ってくださっている御先祖様の徳恵を身近な暮らしのなかで常に感じています。

縁故の助けであったり、土地の助けであったりと、拝めば拝むほどにそのつながりが観えますからさらに拝みたい気持ちが湧いてくるのです。

拝みながら生きていく人たちはご縁を活かす人たちです。

柳生家の家訓に、「小才は、縁に会って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖振り合う縁をも生かす。」があります。

まさに報恩感謝の心をもって生きている素直で謙虚な人たちは、拝む実践によってご縁が観えているのでしょう。ご縁を活かす力は、目に観えないものを信じる力が必要です。同時に自分が見守られていることを信じる力も必要です。それはご縁を大切に一期一会に生きる実践によって支えられているのです。

引き続き、ご縁を大切にしながら子どもたちのためにも御先祖様に恥ずかしくない真心の生き方をしていきたいと思います。

かたちなきものへの思いやり

先日、島根の美保神社に参拝する途中で境港市を通る機会がありました。ここは「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるさんが生まれた故郷です。私も幼い頃からこのゲゲゲの鬼太郎が大好きで、いろいろな妖怪たちの存在を身近に感じたり、人間と妖怪がどのように仲良くできるかとそのつなぎ役として鬼太郎が悩む姿に共感したことを覚えています。

目に観えない世界を描き続けていると、目に観えない世界があるかのように思えるものです。かたちあるものとかたちなきもの、かたちなきものへの畏れが失われた現代において妖怪の存在はどこか懐かしく感じるものです。

今の時代は、目に観える形があるものしか信じなくなりかたちなきものの存在はあまり大切にされることはありません。それは単に幽霊や妖怪の存在だけでなく、ご先祖様や神様など目には観えないけれど確かにいて自分を見守ってくださっている存在のことを感じなくなっているようにも思います。

かたちがないものは、自分の信じる気持ちがなければ存在を感じ難くなるように思います。かたちなきものへの思いやりを持っている人は、路傍の御地蔵さんや、過去に大切な出来事があった場所の前を素通りすることはありません。存在を確かめ一礼をし、お導きへの感謝を述べて通っていきます。

かたちなきものは確かにこの世に存在すると信じる人は、いつも目には観えないけれど確かにあるご縁を辿っていくことができます。ご縁を活かす人というのは、目に観える世界だけを信じません。目に観える世界と目に観えない世界がつながっているその中間に存在しご縁をその両面から捉えていく力があるのです。

私は幼い頃から子ども心に、かたちがないものを信じてきました。妖怪の存在や幽霊の存在、そして先祖の存在や神様の存在など常に自分と一緒にこの世にある存在として共に歩んできました。その心は今でも失っておらず、物へも接し方一つでさえまるで生きている人のように接します。特に懐かしい古いものや、出会えた仕合せを感じるもの、そしてご縁が深いものは特に家族や親友のように思えるからです。

人間はかたちなきものへの畏れを失うとき、傲慢になります。

もう一度、伝え聞くむかしの日本のように目に観えないかたちなきものをみんなが畏れるような世の中にならないかと願うばかりです。そしてその心を持った人たちが信じることで、かたちなきものへの思いやりもまた広がっていくでしょう。

たとえ、奇人変人や宗教だと罵られても子どもたちのためにも、私自身が常に堂々と「かたちなきものへの思いやり」をもって一緒に生き切り、これからの未来の純粋な子ども心のためにも見守っていきたいと思います。

人類の希望のため

人間はどれくらいのスパンで物事を観るかでその行動の本質が変わっていくものです。その人が100年単位で物事を観るのか、1000年単位で物事を観るのかで観え方が変わるからです。短期的にしか物事を見なくなってきた現代の風潮の中で、長い目で物事を考えて行動する人のことが分からなくなるのは仕方がないのかもしれません。

かつての日本は七世代先のことを考えて今を行動するという指針があったそうです。七世代といえば約300年くらいですがせめてその頃の子孫のことを慮り自分がどのような暮らしをしていけばいいかを考えたのでしょう。

私の場合も、なぜ暮らしの復古起新をとか、なぜ自然を味方にとか、やっていることには民家の甦生からお米作り、そして見守る保育という生き方の伝道、さらには初心を磨き伝承することなどをしていますがなかなかやっていることの本質が他人には理解し難いものかもしれません。よく不思議で変なことばかりしてと指摘されますが、長い目で観たらどれも今、必要なことしかしていません。

それに「子ども第一義」という理念を掲げる以上、子どもの今から発想を組み立てますから短期的なことは後回しになることが多いのです。もちろん短期的なことは、現代の課題を解決するために具体的な保育環境を変えていきますが、本来は子どもの仕事だからこそ1000年先のことを考えて今をどう生き切るかを考えなければならないのです。そして人の世には道理として因果律がありますから自分がどのようなことを今するかで未来の姿が変わっていくことを自覚しなければならないのです。

特に子どもたちの保育環境においては重要で、私たちが用意した保育環境によってそれを舞台に次世代の子どもたちが新たな時代を切り拓いてくれます。その時に、連綿と受け継がれた根のチカラを使い活かせるのか、それとも養分が断裂された根無し草のようになるのか、それではいよいよこれから世界が一つになり和合していくぞという変化の中で日本人の特性が活かせません。

希望というのは、子どもの未来のため自分のエゴを少し置いてでも徳を積み環境を整えていくときに出てきます。それは一つは仕組みといった智慧の伝承もあるでしょうし、他にも真善美といった日本人としての生き様もあるでしょう。

そういうものを少しでも遺し大切に譲っていけば、いつか子どもたちは舞台で大躍進を遂げ、活躍していきます。その舞台の未来には、主役も脇役もなく、一人ひとりが全員主役として共生して仲睦まじく助け合い思いやる社會を創造してくれるでしょう。

・・・本当の平和とは何か。

もう一度、今の世代の人たちは愛されてきた子どもたちとして、そして愛する子どもたちのために少し立ち止まって長い目で物事を観て自分と向き合ってほしいと願います。

引き続き、人類の希望のため、自分のできること、自分にしかできないことで人類の平和に貢献していきたいと思います。

いのちの養分

植物たちや動物たちをはじめ、すべての生き物たちは養分をいただいて成長していきます。その養分は地球でいえば自然の恩恵をいただいていのちを分け与えて活かされています。しかしこの自然の養分と別にもう一つ大切な養分があると思うのです。

それは愛のことです。

人間は、愛という養分をいただくことでいのちをいただくことができます。その愛は、慈悲ともいいますが思いやることによって育っていくのです。

例えば、誰かが育つとき、厳しいかとか甘いかとか、環境がいいかどうかとか色々と議論されますが実際はもっとその手前にある大前提に「愛」があるかないかの方が重要になります。

愛がしっかりと入っているのであれば、厳しくても甘くても育ちます。また環境のせいではなく、思いやりがあるかどうかの方がよほど人間が育つには大切なことです。

いのちの子育てというものを思うとき、すべての生き物たちは「愛」を与えます。愛が不足すれば、いのちの育ちが悪くなるのは明白です。人は何かを食べなければ生きていけないように、人は愛がなければ生きてはいけません。そしてこの愛とは「いのちの養分」なのです。

愛のある環境こそが、本来の育つ環境であり、愛がなければどんなに仕組みがあったとしても生き物たちは育ちません。愛情をかけるというのは、熱量もそしてストレスも、忍耐も、信じることも必要ですがそれがすべていのちの養分になって周りの成長を助けてくれるのです。

もしも相手が自分だったらと相手の苦労を親身になるのも愛です。

もしも相手が初心を忘れて間違っていると思って厳しく諫言するのも愛です。

もしも相手が孤独でつらそうなとき心寄り添って味方になることも愛です。

もしも相手が信じられなくなりそうなときに最期まで信じきることも愛です。

いのちはこの愛の養分を得て、成長して自立していきます。私たちが取り組む会社の実践や保育は、この愛や思いやりを「つなぐ」ところこそ本業ともいえます。何をする会社なのか、自分の何を使って誰かのお役に立つのか、これは大切な自問自答です。

引き続き、子どもたちの仕合せが未来永劫に循環するように愛がめぐるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

ご縁の筋道

自分のルーツを知ろうとすると私たちはますはじめに自分の血筋というものを確かめていきます。自分の中に流れている血は確かなもので、その血がどのようにこれまで受け継がれてきてかを辿っていくのです。

そして同様にそこには確かな歴史があります。一部は文献として遺されるものもありますが、その文字で書かれたものは当時に誰かが改ざんしてしまったり、自分たちに都合が悪いものを消し去ってしまうこともあります。

だからこそ自ら血筋を辿り、自ら縁故各地を巡り、自分の足で歩いてはその道筋を確認することや、その土地の人から伝えられることや、自分の中で感じるその懐かしさや直観を使って全体的な筋道がどうなっているのかを掴むことが大切であろうと思います。

私もここ数日、自分の先祖に何方が居てどのように今に至ったかを調べていく中で自分の血が滾るのを何度も何度も覚えました。時には悲しい歴史を知り心を痛め、時には素晴らしい偉業を遂げた先祖を誇らしく思い、また時にはその歴史から自分が何を気を付ければいいかを先祖から直接的に諭された気がして頭が垂れる思いがしました。

本当の歴史とは、紙や文字で伝えるものではなく自分が伝えていくことです。それはいつまでも自分自身の感覚が歴史を忘れていないと信じることです。頭や知識で分かるのはせいぜい文字の範囲であり推測や記録の域を超えません。しかしこの自分の感覚で道筋を遡りそして筋道を確かめる、この筋が通った道理を自分自身が確認すれば、なるほど自分にはこういう歴史があると必ず直観できるのです。

ご縁はとても不思議で心に強く思い願えば、自然に導かれるようにその道が示されます。特に因果律が存在する以上、必ず今につながっている結果を遡れば原因に出会います。その原因と結果の間には、列記とした筋道がありますからその筋道の間をどのように直観していくかが歴史を知る醍醐味なのです。

私はもともと直観が強いタイプで、デジャブやシンクロニシティが多く奇跡のような体験が日常的に発生しやすいような気がします。表現が難しいですがまるで何か小さな出来事や微細なご縁につながるメロディーが聴こえて直観し、その筋道や道理がハーモニーを奏でるように観えてくる感じです。これが血が滾るという感覚ですが、歴史を辿るときっと同じような感覚を誰しも持つはずです。そしてその音楽を通して過去に何があったのか、この先の未来に何が起きるのかも心で察知していくような具合です。これは歴史の端を発する音を聴き分けているようにも思います。歴史は音楽を奏でている物語のようです。

そして今でも人々が記憶に遺したい口伝や石碑などにも、その道筋のヒントはたくさん隠れています。そして文献が残っていないものにこそ遺しておきたい事実は隠れています。その隠れたものを自分の足で歩いて手探りで掘り出していくことが歴史の探索の面白さです。

子どもたちにも、歴史の大切さを伝承していけるように私自身がご縁の筋道を通す生き方を磨き継承していきたいと思います。

人生の初心~足跡を振り返る~

日ごろの自分の足跡を振り返り辿ってみるとその道すがら大きな発見がたくさんあるものです。毎日、忙しくスピードを出して高速道路ばかりを走っていたら振り返る間もなく次の目的地のことばかり考えてしまうものです。

現在は情報化が進み、さらには寸刻みでスケジュールが決められ、何をするのにも正確に準備を求められるように思います。その中でみんな忙しくなり、より一層、決められた時間や決められた行程をきちんとこなすことに注力されていきます。

しかし本来、人生とは何かと思い立ち止まって考えてみるときそれは日々の体験をどのように感じるかということによってはじめて自分の人生を噛み締め味わうことができるのです。

大事なものを見失うとき、人は振り返ることがありません。私が日々に内省をするのは、自分の人生が何かを味わいながら歩んでいきたいからでもあります。奇跡のような出会いや出来事に包まれている人生を実感することで人は待つことができるようになります。

何でも待てずに手を出しては焦り、余裕を失い、正確かどうかで忙しくなってしまうのは自分の人生からどこか遠く離れた自分になってしまっているかもしれません。焦らずにゆっくりと、丁寧に歩んでいく人は人生の初心を忘れていないということでしょう。

人生の初心を歩んでいくのは先ほどの足跡を確かめながら歩んでいくことです。ここまで歩んできた道筋を振り返っては、「ああ、自分はこう歩いてきたのか」と歩き方を確かめて、「これからはこう歩いてみよう」と改善を続けていくことです。

自分の足跡は自分の人生を映し出します。

だからこそどのように自分を運んでいくのか、誰と一緒に歩くのか、どこを目指すのか、どの道を往くのかを常に日々に確かめていかなければなりません。それが人生を創るということです。

色々な道がある中で自分だけが通った道がある。もしくは自分にしか通れなかった道がある。その道が自分の人生だと思うとき、人は導かれている今に気づくことができるのでしょう。

常に導かれて歩いている実感がある人は見守られて生きていく人であり、次に歩く人たちや子どもたちを見守っていく人です。

日々の振り返りが人生であると、初心を忘れない実践を楽しみたいと思います。

自分を遣り切る意味

日々の自分の直観やご縁を信じて歩み、その意味を深めていくことはルーツを辿ることです。その理由は、真理として人間は因果律の中で様々な体験をしていくものだからです。因果の法則に従って、自分が何かをすればその原因が必ず結果を生む、そしてその結果がまた次の原因になるというように永遠に因果は巡ります。

このご縁の鎖は途切れることはなく、今まですべてつながり合ったままに存在しています。自分が生きているということは、先祖の血が流れているということでありそれまでどのように先祖が生きてきたか、つまりは原因を創ってきた結果を受けて生きているのです。

その結果とは、自分の体験することのことです。この体験の意味を深めていくほど、なぜこんなことが起きるのだろうか、この体験は何だったのだろうかと直観すると先祖の中でこういうことがあったのではないか、もしかしたらあの原因がこの結果になっているのではないか、そして私が創る結果が未来への新たな原因になっているのではないかと思いを馳せるのです。

私たちはつい自分に起きたことは自分の人生の範囲だけのことだと思い込んでしまいますが、実際に自分に起きることはその原因はもっと過去につながっていることであり、そしてこれから起きることも実際は今がつながって発生してくるのです。

例えば、何かをしようとするときには様々な出会いがあります。ある人は支援をしてまたある人は邪魔をする、しかしそれは過去のつながりから発生して出会うこともあるのです。また今出会っている人への行いで未来が変わっていくこともあるのです。徳を積んでいればその徳や恩によって周りがその人を手伝おうとしますし、それを使い切ってしまうようなことをすれば同様に仇になることもあります。恩も仇もご縁ですが結ばれていく内容が変化していくのです。

また先祖の遺徳を辿る生き方をする素直な人は、その遺徳が輝き先祖がもっとも託したい志や願いを叶えるために今世で使われていきます。私たちの先祖は死んでいますが、魂は死ぬことなく血の中で今の自分の方向性やご縁を導いていくようにも感じるのです。

選ばないというのは、先祖への恩徳感謝を忘れずにご縁を大切にして一期一会に生きていくということです。そしてルーツを辿り、先祖の生き方を学び今の時代にその生き方を活かしていくことです。

親祖が臨んだ生き方が連綿と連鎖し、全体として一つの芸術のように歴史を創造します。その歴史の一部として私たちは存在しながら親祖の物語をつなげていくのです。親祖が原因であり、私たち子孫はその結果なのです。

親祖の初心が何だったのか、それを知るのが今の私たちが生きている人生の体験です。人生の体験を通して私たちは親祖の初心を思い出し、それを実現するために生きるのでしょう。

引き続き子どもたちのために、ルーツを辿る選ばない生き方を貫き子孫たちが純度の高い物語を受け継いでいけるように自分を遣り切っていきたいと思います。

謙虚の入り口

人は御蔭様に感謝して足るを知れば、自分に与えられているものに気づくものです。そして自分を認めることができてはじめて謙虚の入り口に立つことができるように思います。

自分というものを受け容れるとき、謙虚に近づきます。しかし実際は、自分のことを認めずそのことから自信がなくなり謙虚とは程遠い高慢な態度をとってしまうものです。そうなるとプライド合戦がはじまり人間関係に支障をきたしていきます。自分のないところやできないところばかりを見ては、自分に対してマイナスな頑張りを続ければ続けるほど傲慢さが増していくのです。

自分自身のありのままを認めないという考え方は、自分の思っていた理想ではないことへの苛立ちや周りの期待に応えられないことへの不満もあるのかもしれません。しかし、自分のないものねだりをするばかりに自信を失いかえって周りの人たちの自信を奪い、さらには人間関係そのものを壊すような人になってしまっては本末転倒です。

本来は自分というものは天から与えられた欠けることが一つもない完全な存在であると認めることが自信の本質です。自分のままでいい、あるがままでいいというのは天から与えられた個性や才能を認めるということです。ここで認めることがなければ、周りも「あなたはいったい何様なのか?!」と思うでしょうし、その人の高慢で傲慢なプライドが増長し復讐心にまで高まると同時により一層自分自身ことを嫌悪して負の悪循環に陥るのです。

人間は生まれてすぐの純粋な子どもたちのように差別なく自他のあるがままを認めることができるとき、人は自他をゆるすことができます。このゆるしとは、誰も責めることがなく感謝で思いやることができているということです。一緒に生きていく人たちが、他人のことをどうこうするまえに自分自身をそれぞれで認める努力をし、その延長線上に周囲と認め合えばお互いに仕合せになれるように思います。

それに何かあるごとに当たり前の存在である水はダメだとか太陽はダメだとか、空気がダメだとか地球がダメだとか言ってそのものの存在を認めない人はいないと思います。この世にあるすべてのどれも必要な存在だと差別せずに受け容れることですべてを認めることができます。

私たちの日本の先祖はそれを八百万の神々として大切に尊重し合って暮らしてきました。それが和を尊ぶという意味です。

人間関係も同じく、お互いにこの世に必要な存在であることを自覚するのならその人のままがいいと思えるのではないかと思います。

謙虚の「謙」の字は、自然のままという意味です。善悪正否もそこにはなく、自然の姿、あるがままを認める人だけが宇宙万物一体全とつながる一つの存在になれるように私は思います。それが私が目指す自然体の姿そのものです。

簡単にはいきませんが、何か事あるごとに「これだではダメだ」という意識ではなく、「天がそうしてくださったのだからきっとこれでいい」と丸ごと信じることでゆるされた存在であれるように思います。

引き続き、足るを知り、御蔭様や感謝の気持ちを忘れずに人を自分の定規で裁かず、きっと何かその人にしかできない大切な使命があるのだろうと聴福人の実践と福徳を積み重ねていきたいと思います。

自分が変われないとトラウマを抱え心を痛め苦しんでいる人たちのためにも、自分自身が誰よりも丹精を籠めて素直な心を磨いていきたいと思います。