先に進む~先人の本質~

リーダーという仕事、指導者というものはその道で誰よりも先に進んでいる存在でもあります。この先に進むとは何か、それは別に能力が高いからではなく知識があるからでもなく、権力があるからでもなく、立場が上だから進んでいるわけではありません。先に進むというのは、自己修養を怠らないということです。言い換えれば、道を歩むにおいて誰よりもサボらずに真摯に向き合って学びこんでいる人物とも言えます。

例えば、サボる怠けるというのは楽を選ぶということです。自分がしなくてもいい方法や、自分が苦労を避ける方法を、安易に体験しなくてもいい方法など、自分自身で愚直に体験をし自分自身を磨くためにその出来事を向き合い深め研鑽を積んだりするのをしなくなるということです。もしもリーダーや指導者がそんなことをすると皆と一緒に一つの目的に向かって一丸となっていくことがありません。

誰かがやってもらって自分が楽をするのではそんな人には誰もついていかないからです。そしてついてこないというのはやらせているだけで何も一緒にもやっていないということです。みんなと一緒に進む中で先に進む存在は、その中の誰よりも真摯に現実と向き合い理想の実現に励み、苦労を惜しまずに努力をしているから周りよりも先に進んでいるのです。

この先に進むの意味は、リーダーや指導者の本質であろうと思います。自分自身がそれを怠りサボり、怠けていたら道から外れてしまいます。道というものは万人に存在する道理であり、その道を歩むものたちが仲間になって一緒に人生を豊かにします。一緒に旅をするのにその旅の目的を忘れ、楽して目的地にいくことばかりを考えていたら大切なものを失ってしまうものです。

人生の旅路において、思い出深く豊かで学びが深いものはみんな苦労することばかりです。しかしそれでも楽しいと思えるのは挑戦し続けることであり、精進を怠らないからであり、怠惰な自分自身に打ち克って道を極めて達しようとする日々の実践次第によるものだと私は思います。

人間には運がありますから、もちろんどうにもならないこともありますがその運を育て磨くのはそうやって先を進み徳を積んでいくしかありません。日々の苦労を感謝に換えて、日々の出来事を思いやりに換えて、自分自身と向き合ったうえで楽観的に御蔭様に感謝して生きていくのもまた実践の一つです。

今の時代は恵まれすぎて怠け心の方が育っていきやすい環境にあります。何もせずに楽して得たものの方が得をしたとかラッキーだとか思い込んでいる価値観も蔓延しています。苦労して眠れない日々と矛盾が魂を鍛え、人間関係のトラブルで感情と正対し精神を鍛え、大変さや疲れと休息が心と身体を鍛え、先人はみんな鍛錬して徳を積んできたのです。そうやって有り難い体験の中から日々の当たり前に感謝して、恩恵を忘れず、御蔭様をみては御恩返しをしようと向き合って反省していかなければいともたやすく日々に流されて怠けてサボってしまうものです。

果たして自分は道を先に進んでいるか、まだまだ未熟な自分を受け容れることができないでいます。

自分自身にそういう楽をする気持ちが出てこないか、妥協しようとする気持ちになっていないか、常に自分の理念から心を見つめ学び直し改善を続けて誰よりも強い熱量をもって道を実践しているか、子どもたちのためにも日々を省みて先を進めるように精進していきたいと思います。

自分を知ること

人間は自分のことが分かるまでに相当な時間を要します。ひょっとすると人生一生かけても自分というものが分からないものかもしれません。これは明治以降に個性という教育を受けてきたから余計に難しくなったとも言えます。古代においてはそのような自分という自覚もなかったときに発揮されてきた個性と、近代以降に個性と言われるものではその性質が全く異なるからです。

自分自身というものを知るには、本当の意味で人間のことをしらなければなりません。子どもを知ることも同様に人間理解が必要です。そしてその理解は自分を理解することで深くなります。そして自問自答といって人は自分と対話をしながら日々に決断していくものです。曖昧にしたままでいたら何も決まらずそのうち決まらない自分が分からない自分になっていきます。初心を忘れないことも、理念を優先することもそういう主軸を用いて自分自身の心を知り修正していく中で自分を理解していくもののように思います。

本来、自分というものがなかったらどうなるか、それは自然の一部になっているということです。私たちが目にする道具やすべての存在は自分と相対的に観ているものです。自分というものを思うことで相手がうまれ、自分というものと分けることで世界を分けます。

名前を持ち、相手と自分とを明確に分けてしまう。それ自体が人間の特徴でもありますが、自分というものを正しく理解するのはこの広大な宇宙の真理や自然の絶妙な法理など学ぶことが沢山あります。しかしもっとも学べることは、周りのために自分の真心を盡していくことのようにも私は思います。

自他一体というものは、自分が相手だったら、相手は自分だったらと自他を分けずに習慣を創りなおしていくことでもあります。そのうち、本当の自分はどういうものかは相手によって学び直します。相手を思いやるうちに自分の心境や自分の存在がどのようになっているのかが自明してくるからです。

人は自分のことが分からないのと悩むよりも、周りのために自分を役立てていこうと実践していく方が自分自身を自覚していきます。そうやって人は信頼関係を築くことで自分ということの本質に出会うのです。

自分のことは自分が考えていなくても周りがよく自分のことを知っている、そして自分の心配をしなくても周りはいつも自分のことを自分以上に心配してくれる。そういう根っ子にご縁への感謝の精神を持ち共生と貢献ができるのならその人は自立した人とも言えます。

自分という刷り込みを如何に脱却するかは評価をせず自他を裁かず、真心を盡して取り組んでいくことが何よりも肝要なのでしょう。引き続き、頼まれごとは試されごと、信頼こそ人間の根源の自己修養だと日々を練り上げていきたいと思います。

 

ハタラキ

自然には「ハタラキ」というものがあります。私たちの人間にも同様に働きがあります。これは動植物から無機質に至るまで存在している法理でもあります。

例えば、私たち人間でいえば動いているときには動いているハタラキがあります。それは各機能がそれぞれに活動して何かを成し遂げようとします。また同時に今度は休んでいる時にも休んでいるハタラキがあります。その両方とも大切なハタラキであり、一時も已むことがありません。

これは太陽や月、地球の運行なども同じです。昼は太陽、夜は月と動静を生き物たちは繰り返しますがそのどれも大切なハタラキがあり無駄などは一切ありません。つまりハタラキとはすべてのことに大切な意味があり、自分が動こうが動かざるが関係なく常にハタラキ続けている存在があるということです。

しかし人間は自分の都合でこれは働いたとか時間の無駄だったとか、休んだとかサボったとか自分勝手な判断をしてハタラキではなく単なる作業や業務のように 働きを勘違いする人もいます。

もちろん自分がやりたいことができたら充実した一日を送れ無駄ではなかったと思うのでしょうが、無駄であったと思った一日ですらその蔭に大切なハタラキがあったのです。

これらのハタラキは、一瞬たりとも已まずに常に偉大な他力と自力が合わさって全体の調和のために活動し続けます。これはカラダも同じく、常に何かをしてもしなくても私たちの身体は調和をとるためにいつもハタラキ続けています。心臓の鼓動も呼吸も、そして新陳代謝もすべて私たちのハタラキの中です。

そしてこのハタラキのことを私は「いのち」と呼びます。いのちの世界は常に已まずにハタラキますから私たちはこの世に来て活かされている存在になっているのでしょう。

だからこそこのハタラキそのものに感謝して、その恩恵の一部に自分があることを自覚することがいのちと一体になって生きることのように思います。太陽も月も地球も常にハタラキは感じられます。

いのちが輝き続ける姿をイメージすることで、ハタラキもまた観直に感じられます。引き続き、子ども達のためにもこのハタラキの存在を感じられるような環境を用意して見守っていきたいと思います。

自分の選択

人生というものは選択と決断によって今を切り拓いていくものです。今というものを振り返ってみるとそれは過去の一つ一つの自分の選択の結果が今にあるということです。あの時、違う選択をしていたらどうなったかそれは今を見れば想像がつくと思います。今が幸せかどうかというのは、過去の決断が今になっていいことになった、いや「善いことにしたか」というそれまでの自分の決断に伴う努力、その生き方や生き様が問われています。

人は一つの人生において自分ではどうしようもないことも発生します。また自分が思っていること以上のことが起きて自分の判断ではどうしようもないこともあります。そういう時、考えを超えて心の声に従うことや、魂の疼きに従うというような決断があります。

人は自分というものを考えるときに、自分の中にはたった一人の自分がいると思い込んでいますが自分の中にはもう一人の自分というものがあると私は思います。言い換えるのなら、心や魂といった生死を度外視して全体と繋がっている自分。それと自我や感情などと欲求や欲望を持っている個としての自分我です。このひとつのカラダの中に同居する自と分があるから人は悩み苦しみ迷い、常に今の選択をしていくなかでシーソーのように自己との対話が発生するのです。

自然界の野生の生き物たちにはこの自と分は分かれてはいません。そのものとして丸ごと一つになっているからおかしな行動も選択もありません。それは自然体のままであり、あるがままです。しかし人間は教育によって自我を持ち、自然とは「分かれて」自分というものを認識させられ持つようになります。それは本来なかったものです。先住民族や言葉を持たない文明とかけ離れた暮らしをしている人間たちはそういうものがありません。名前も持たず、上下もない、自然に地球に習い家族を形成し助け合って暮らしています。

私達はこの「個」というものを知り、人間文明を独自に創りあげてきました。それは過去の自分たちが選択をすることで今の社会を築き上げてきたとも言えます。時は流れ、時は進み、加速度的に私たちの選択した文明は地球全土を覆いました。今は、大量生産大量消費の中で誰もブレーキをかけることもなく自転車操業のように走り続けている世の中であって選択をする自由すらも失われてきつつあります。

人は心の声や魂の疼きを体験することで、自分ではどうにもならないような運命や宿命、そして定めのようなものを直感することができます。時代や時に関係なく、そのものが地球全体の循環の中でどんな役割を持っているかを自然とのつながりによって実感するのです。

人間が地球と一体になり風土に原点回帰しその中で文明を弁え生きることが出来たのならば、この今の人間文明の終焉の姿を変えてしまうことができるかもしれません。人間が本当に人間らしく生きる世の中というのは、頭でっかちになり個がバラバラに生きていく世の中を広げることではなくそれぞれが心でつながって共に生きていく世の中を広げていくことです。そうすれば無理にこぎ続ける自転車の回転を古来の水車のように緩やかに回転させる日も来るかもしれません。

人類は今、大きな選択を迫られています。

この今の選択が未来の今を創造するからこそ、自分が今選択し決断することを後悔したくないと思います。子ども達の未来は、今の私の決断と選択が決定づけます。常に選択を誤らないよう、本当の自分自信、あるがままの自然体になって世の中で自分の役割を全うしたいと思います。

適合適応

以前、樹木研修で樹木がどのように生きてきたかを深める機会がありました。樹木たちは自ら他の樹木と競争しないように自ら厳しい環境へと移動して生き残っていました。生き残りの戦略というのは、周りと戦って勝ち残るのではなく自分自身が厳しい環境に「適合」し誰も来ないような場所へと移動しそこで「適応」することで克ち遺るという具合です。

これは自然界の理であり、私たちはこの勝ち残るということの本質、そして生き残るということの意味を学び直す必要を感じます。

人間の世界でもいつまでも適合もせず適応もせずに他と比較し自分の居場所を獲得するために競争し続けようとする人がいます。頑固に自分の存在価値を周りへ押し付けては、自分が一番になろうとします。しかし自然界ではそのような生き物はすぐに淘汰されており、生き残っているものはありません。人間は刷り込みによって自分という存在を歪められて、周りとつながっていない存在、自然から離れている存在だと自分自身で思い込んでいるから全体のことを考えず自分勝手に自分中心に物事を見るようになったのかもしれません。

本来、視野の広さというのは自分中心ではないということです。すべて丸ごとの存在としてみることができれば勝ち残るという意味も、生き残るという意味もはっきりと自明してくると思いますが常に人間自我が中心になっている人はどうしても視野が狭くなってしまうのでしょう。

自然界では棲み分けというものがあります。常に自分から他の種と争わないように移動していくのです。そのようにして今の地球の生命たちは多様化したとも言えます。今に遺る種たちは歴史を重ね自ら争わず生き残る戦略を優先して共生と貢献の社會を創造してきました。人間も本来はこのように個性が争わず、自分らしく適合適応していくのなら組織の中でも自分の役割が自然に分かれて御互いに協力して生き残るために助け合うことができるように思います。

いつまでも適合適応しないでいるというのは、進化でもなければ変化でもなく便利で楽な方を選ぼうとする人間の傲慢さのようにも思います。画一化されていく世界は人間のみ一番の中で勝手に役割を振り分け人間のために労働するようなロボットを製造し、バラバラに組織を分断化しているかのようにも見えます。

もう一度、全体に対して適合適応する生き方を示していくことが自分自我を手放し自然の理と一体になる方法のように思います。子ども達のためにも、自然に沿った生き方や暮らしを通して本当の意味で宇宙や地球で勝ち残る生き方、克ち続ける生き方、生き遺るための道筋をつけていきたいと思います。

豊かな社會の創造

先日の藤森代表の講演で「自立は助けてもらうこと、協力してもらうこと」とありました。世の中では自立は助けてもらわないこと、独りでできることと教え込まれて刷り込まれていますが依存と自立が間違ってしまっている人が大勢いるように思います。

いつまでも持ち味を活かせないのは自分自身がいつまでも自立を勘違いしているからです。間違って歪んだ自立の刷り込みをどのように取り払うかが最初の関門になってくるように思います。これは「助けてください」と自分から言えるかどうか、また自分からいつも周りに損得を考えず積極的に尽力しているかどうかだと私は思います。

プライドが高い人や頑固な人、言い換えれば自立したいと刷り込みが深い人ほど人に助けを求めません。格好つけては助けを求めようとはしません、しかし助けを求めなければ周りとのつながりができません。人は他人に迷惑をかけている生き物だから、迷惑をかけないことを望むよりも迷惑をかけて感謝することの方が大事なのです。

そして迷惑をかけていることを自覚しているからこそ、御蔭様に感謝し御恩返しをしようと自分が周りに協力していこうとするのです。迷惑をかけている自分が、周りの迷惑を自ら引き受けるようになるのです。それが御恩返しになり、御互いの絆が深まり繋がりができ社會が形成されていきます。

今では、自分は問題を起こさずにキチンと仕事さえできて結果がでていれば迷惑をかけていないと思い込み、今度は周りが迷惑をかけるのを過度に嫌い迷惑をかける人を罵倒したりさげすんだり、いつも自分のことばかりを優先する人が自立している人などと勘違いしている人もいます。人が人に迷惑をかけていないことなどは一切ありえず、自分の知り及ばないところで本当に多大な迷惑をかけているのが人間です。

そういう存在だと自分から自分で自覚することが助けてもらい協力してもらうことが善いことであると納得することにつながっていくように私は思います。何もできない存在が価値がないではなく、何かできるから価値があるのではなく、自分の持ち味を活かして周りに貢献できているのが人間の本当の価値です。

先日、新潟での理念研修の中で重度の身体障碍者の方がお店の店長をしていた映像を見ました。車イスで動けないのですが、ひとつ商品がお客様に買ってもらえるととても嬉しそうで仕合わせな笑顔をしてくれます。社員たちはその笑顔を見たいからもっと商品を売ってはその店長に報告にいきます。

これは重度障碍者で笑顔しかできないではなく、その人の持ち味を活かしているのです。人は他人の善いところを見出しては、それを活かせばそれはその人の持ち味として周りに貢献できます。

如何に貢献できるようにするかは、その人が仕事が周りと同じくらいできるようになればいいのではなく、自分が思い込んだ結果を人並みに出せればいいのではなく、その人の持ち味を周りに使ってもらい、いつも周りのためにと尽力し続けて貢献すれば自ずから自分の持ち味を発見し社會の中で自立することになるのです。

依存というのは言い換えればいつも自分のことばかりに執着し自分勝手に我儘で周りを省みることもない状態になっていることです。感謝や恩返しなどもなく、御蔭なども忘れている状態です。社會の一員として如何に迷惑を善いものへと転換しているかは、自分勝手なことよりも周りと一緒に成長したいという豊かな社會の創造なのです。

引き続き、刷り込みを取り払うために具体的な仕組みを開発していきたいと思います。

万人共通の理念と智慧

GTサミットが無事に終了することができました。毎年この時期に、全国から集まり理念を共有したり新たな一年の方針を確認することは明日への活力になります。昨日は、来年改定される保育所保育指針についての解説と改定のポイントについて藤森代表より話がありました。

昭和40年に制定された保育指針は、平成20年にこれまでの局長通知から厚生労働大臣による告示になり遵守すべき法令として示されたものです。これは保育園においては何よりも優先されるルールであり、この保育指針に沿って保育をしているかどうかが何よりも重要だとされています。

告示化されたものをどれだけの人たちが真摯に捉えているか、全国の保育現場をみていたらまだまだその重要性を理解していない人たちが多い様に思います。同様に遵守するものとして子どもの権利条約というものがあります。

これは1989年に国連で採択され、1990年国際条約として発効 しました。日本は1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効されました。しかしこれもどれだけの教育機関や施設が重要性を理解しているかを見ているとあまりこれも理解していない人が多い様に思います。

子どもが自分らしく育つ権利というものは、世界中で認められているものです。そして子どもが自分らしく発達することを保障されていることもまた同じく日本としても国家としても何よりも守っていこうと法にまで昇華されたものです。

しかしその法律を違反するような保育や教育が行われていて、好き勝手に大人の都合で子どもの子どもらしく育つことを邪魔されたのなら子どもの人権というものは蔑ろにされてしまいます。子どもが施設で犠牲になる報道が増えてきましたが、もう一度、この当たり前のルールに沿って保育を実践するということの意味を見直す必要があるように私は思います。

そしてこの子どもの権利を守る組織は、職員の権利を守られる組織であり、組織のリーダーだけではなく保護者、関係者も含めて守られる組織になります。子どもの権利条約は大きくは4つに構成されています。

この4つは、「生きる権利」「守られる権利」「育つ権利」「参加する権利」です。お金や経済ばかりを優先するあまり、当たり前ともいえるこれらの人として安心して暮らしていける権利を奪っていくという組織になってしまうのは、この大前提としての子どもの権利条約や保育所保育指針を遵守しなくなるところからはじまっています。そして保育所保育指針は子ども一人ひとりの発達を見守る保育をするということに尽きます。

何を拠所にして保育を実践するかはそれぞれの施設の方針があるのでしょうが、私たちはその前に世界で共通する理念や、人類が共通する智慧をもっと大切にしていく必要を私は感じます。

今の私たちが生活できているのは、このように世界が人間の生き方を大切にし、人類が先人からの智慧を大切に守ってきたからです。それを言語化しているものが、これらの子どもの権利条約や保育所保育指針であるのを忘れてはならないと私は思います。それが何のために行うのかの源泉であり、まさに万人共通の理念と智慧の結晶だからです。

引き続き、私たちもミマモリングを展開する事業者として保育所保育指針の重要性やその真価をしっかりと現場に伝えていきたいと思います。

人類の進化~赤ちゃん~

昨日、東京でGTサミットが開催されました。講師の先生から赤ちゃんの「見る」と「聴く」についての講演がありました。改めて赤ちゃんはどのように見えているのか、聴こえているのかを思うと、私たちが今の時代の社會に適応する前の原始の状態が観えてきます。動物たちと同じように産まれてすぐの存在が如何に全知全能でその後、次第に必要な能力だけを残して他を削っていくという最適化のシステムを持っているのには納得することばかりです。

本来、人間は周りの環境の中で自分自身をどのように役立てていこうか選択していきます。組織や所属、環境が変わればその人もその場所で変化していくものです。頑固に自分を変えない人もいますが、その場合はその頑固が辿りつく先に役に立ちたいものがあるのかもしれません。

しかし実際は、周りを見て環境に適応していくというのが生き物の姿です。動物たちや畑の植物たちも、周りの環境の中で適応していきます。その適応は例えば、長い時間をかけて鳥が飛ばなくなることもあり、地上の生き物が水中に入っていくものもあります。

これは決して数年から数十年で行われることではなく、数百年数千年をかけて行われていきます。これを私は「進化」と呼びます。進化というのは、環境に適応しつつ自分の方が環境にあわせて変化していくことです。

ヤゴがトンボになるように、地中の幼虫がカブトムシになるように進化の過程で生き物は変化していきます。現在の人間が機械を用いておこなっているのは進化ではありません。赤ちゃんをみているとその進化の原点が確認できます。

自分から進化をするというのは、古来からの生き方を伝承しつつ今に温故知新していくことです。進化をやめるのは、自分は変わらずに環境の方を変えていけばいいという人間の傲慢さのようにも思います。如何に便利な技術で、環境をコントロールした気になったとしても、本格的な自然災害に耐えうる持続可能なものは現段階では生まれていません。

人類は改めて、進化とは何か、赤ちゃんから学び直す必要性を感じています。子どもを人類のお手本にして原点回帰する時代も近づいてきているように思います。引き続き、子ども達のためにも環境について深めていきたいと思います。

旬の実践

自然には「旬」というものがあります。これは季節の廻りによってタイミングというものがあるということです。このタイミングを逃すと旬は離れていきます。今の時代はこの季節や旬を気にせずに好き勝手にやりますが実はこれはとても理に適っている古来からの大切な知恵なのです。

今回はこの「旬」というものを深めてみたいと思います。

この旬というのはよく食材で使われます。季節の中でもっとも美味しい時期を指し、この時期のものを食べれば身体にもいいし味も美味しいということです。つまり四季を通してもっとも最も生育条件が揃った環境で育てられ、最も成熟している時期であるのが旬であるということです。

この時の旬というのは「自然の恩恵」をもっとも受けている時期とも言えます。この自然の恩恵に感謝して、その感謝がカタチになったのが旬の定義でもあります。またこの旬には食材に限らないのも旬です。最後の宮大工と言われる西岡常一さんにこういう言葉が遺っています。

「仕事の割り振りでも、季節を考えなきゃなりませんな。働く人は農家の人が主です。だから仕事をするのでも農閑期に使えるように段取りしたものです。今はそれがありませんな。旬がなくなったんです。旬は食べものだけじゃないんでっせ。仕事を進めていく上でも自然の運行と深い関連がありますのや。」

仕事も同じく、環境が整い、環境に恵まれているときは何をやっても上手く事が流れていきます。反対にタイミングがズレてしまうと後の祭りになってしまうことが多々あります。なんでも直観的に行動する人は、このタイミングを逃すことがありません。タイミングを逃さずに行えば自然の流れに従って力をお借りすることができます。

例えば農家などは全部この自然の運行の力を使います。雨季の前に種を蒔けば、水を撒かなくても自然が水を与えてくれます。また雑草も待っていれば秋風が吹いて自然に枯らせてくれます。自分のチカラだけではなく、自然の他力を存分にお借りしてその仕事を成し遂げるのです。

今の時代は、自分の思い通りに動かすことが仕事だと勘違いする人たちが増えこの「自然の運行」や「季節の廻り」というものを無視して自分の都合だけでスケジュールを動かそうとさえします。

しかし何でも物事には「タイミング」があり「旬」がありますから、そのリズムを大切に守りながらそのリズムによって自分を運び動かしていかなければ仕事もまとまるものも全部流れていってしまいます。大事なのは自分の都合か相手の都合かではなく、「流れ」を読むことであり、全体でいま何が動き、何を行うことがもっとも全体の流れを邪魔しないのかと自分から進んでその流れに乗っていくことが必要です。

これもまた旬であるということです。

この旬を逃すとどうなるかは食材でも同じく、熟しすぎて腐ってしまったり早すぎて食べれなかったりします。タイミングを見続けるには自分を優先しすぎてはならないように思います。そして自分を度外視して相手のために真心を盡したり、思いやりから苦労を厭わずに行動していかなければなりません。それが自然そのものに繋がっているからです。

タイミングを逃さないというのは、いつも御蔭様に感謝して御蔭様を見続けている実践、つまりはそこには自分以外の物事がいつも自分を陰ながら助けてくださっているという謙虚に信じ続けているからタイミングに恵まれるのです。

運が善い人というのは、自然の運行に沿っている人ということです。

引き続き、自分の直観を信じて謙虚に学び直していきたいと思います。

自然に直す

昨日は、高菜漬けの漬け直しの手入れを行いました。毎年、秋の出荷に合わせて漬け直しを行っていますが塩加減で発酵しているものですから自分の都合で勝手にスケジュールを変えることはできません。

自然というサイクルというものは、相手に合わせて自分の方の動きを変えていくしかありませんから自分都合でスケジュールを動かしていたら相手は枯れてしまったり腐敗してしまうものです。

常に相手に寄り添い、自然に沿った中で自分の方が見守り続けていくことこそが自然と一体に謙虚に生きていくことのように思います。またその見守りの中で、今、相手がどのような状態なのか、今、どのようになっているのかは気にし合って意識しあって、心を離さず信じ合っている中で距離感が掴めてきます。

毎年同じように作っていても、同じようにできることは一度もなく、少しでも油断すると全部だめにしてしまうこともあります。酒造りや漬物作りは、今では化学薬品や化学調味料で同じように工場で温度なども一定管理して必ずできるものだと思っている人もいますが、自然に作るものが如何に難しいかはやっている人しかわかりません。

そういう意味で、自然に沿ってものづくりをする人たちの生き方、謙虚さにはいつも尊敬の念がこみ上げてきます。

これは作物だけではなく、ものづくりだけではなく、人間関係でも同じことのように思います。自分の都合でスケジュール通りにいったからと、それで人間関係が深くなったのではありません。やはり相手に寄り添い、手入れをし見守り合っていく中で関係が磨かれ育まれていきます。

人は思い通りにしたいという願望から、思い通りではないことを悪とさえ思う人がいます。しかし実際は、不自然だから思った通りにならないだけでそもそも自然が何かと常に正対し内省して自分の方を自然を砥石にして切磋琢磨するのなら思い通りなどというものがないことに気づきます。

そして思った以上のことをいつもしてくださっているという御蔭様の感謝に気づけるのです。今回の漬物であっても、私が不在の間、発酵場の生き物たちや菌類たち、そしてそこの家としてある木樽、そして炭、また漬物石や周囲の木蔭や木々、土にいたるまですべて御互いに活かし合い助け合い補い合いながら共生していました。

そういう場の中で私が作ろうとする高菜も見守られ、安心して出来上がっていきます。この場というもののは、ちゃんとその場を形成する仲間たちの存在が欠かせません。

手間暇をかけて自然に近づいていくことは、自分自身の不自然を直し、生き方を治すことです。引き続き初心を忘れず、何のために実践するのかを大切に取り組んでいきたいと思います。