表現の自由

昨日は、自由の森学園の音楽祭に参加する機会がありました。子ども達が、自分たちで「有志」という仲間を募り舞台でそれぞれに自由に自分を表現する様子はほのぼのとし、また青春を感じます。

私は子どもたちの表現を観ていると、表現こそが自由ではないかと思います。周りに合わせて無理やり自分を造ってきた不自由さというのは次第に子どもの表現を奪っていくように思います。周りを気にしては自分がどう思われるか、どう見られているか、そういう刷り込みからの脱却が舞台での信じ見守られる環境の中でできるように思います。

人は自分の本心と向き合わず、我慢をして周りに無理に合わせてきた自分をそのうち本当の自分だと思い込んでしまうものです。自分が決めたことを遣りきることよりも、周りの状況に合わせて自分を決めてきた人は本来の自分というものが分からなくなっていきます。そして心を閉ざし自分に嘘をつく日々を送ることで、自分らしくいるということも分からなくなっていくものです。

自分というものの本心は、頭で考えて周りに合わせていくことではなく自分の心の声に耳を傾けてどういう自分でありたいかを優先していくことです。

その最初の本心を優先する自信は、表現を通して行われるように思います。自分の言葉で伝えることや、自分の行動で発信すること、自分の心を素直に周りに開くことで次第に融けていくように思います。自分を丸ごと認め信じることは、他を認め丸ごと信じることにつながっています。

大人はそうした中で刷り込みが取り払われ本当の自分の好きに出会うのでしょうが、ただ好き勝手にしていればいいのではなくそこには社會の大義を学びます。大義を学ぶことで好きな自分を遣りきって周りを同時に仕合せにしていく過程で感謝という基本が身に付いてくるようにも思います。

何のために表現するのかと思う時、人は御互いを思いやり認め合うために必要になるように私は思います。

自由は人を育てるのは、自由の中にある自然の姿から何を基本に生きていけばいいかを自覚することができるからかもしれません。野生の感性や、自然の真心は、自然と同じ環境を通してはじめてカラダに沁み付いてくるように思います。

子ども達が自由に表現することの愉しそうな姿から、子どもの頃のことを思い出します。大人の価値観に縛られず、新しい時代を切り開いてくれる子どもたちに明るい未来を感じました。

私たちも子ども第一義の理念を優先し、学び直しを続けていきたいと思います。

 

思いやりの余韻

昨日、久しぶりに昔一緒に理念に取り組んだ方とお会いする機会をいただきました。お変わりなく好奇心旺盛で真摯に日々に学び直しを続けている姿に、当時の愉しかったことを思い出しました。

当時は、自分も大変ことが続き自分のことを心配してしまいそうになることばかりが発生していたものです。しかしそんな時、自分のことよりも心配できる誰かがあること、自分が大変よりも目の前の人が大変でそれを何とかしようと取り組むことで自分自身が救われていたことに気づくのです。

誰かのためにと自分を忘れるほどに相手の立場を思いやり取り組むとき、同時に自分が救われているということは真実です。人は自分の心配をするとき不幸せを感じ、誰かの心配のために利他に生きるとき仕合わせを感じるものです。

そういうめぐり合わせという御縁があったことが何よりも御恩であり、その恩に報いようと精進を続けていくことでいつまでも同志で居続けることができるように思います。

自分の人生を思い返してみると、自分が最も大変と思う時こそ他の誰かの大変のために使ってきたように思います。自分の心配は他の誰かがいつもしてくださっていると信じているのは、自分自身がいつも誰かの心配に生きているからかもしれません。自分の心配をする前に、同じように苦しんでいる人がいるということを自覚できることでその人のために何とかしてあげたいと無私になっているときが気が付けば自分のためになっているという状態に入るのです。

これを仏教では自利利他とも言い、また道元禅師は「同事というは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。」と言います。つまりは、自他一体に相手との垣根を取り払う時、それはあなたでありわたしであるということです。

人間は、自他が分かれずに垣根を超えて相手を自分だとし、自分は相手であるとするとき、相手は自分だからこそ助けてあげたいと思うのであり、同時に自分は相手だからこそ助けたいと思うのです。

自分が実践することで相手が救われ、相手が実践することで自分が救われる。この自他一体の境地は、相手のためにと真心を盡していくことで得られる境地のように思います。そして御縁の尊さも、めぐり会いの感謝の心もまた高まっていくように思います。

苦しいときに御縁があり、支え合えた人との無二の邂逅はいつまでも心に遺っています。そしてそれを与えてくださった天があり、その御蔭様で今の自分があることを思うと感謝の心に満ちてきます。

畢竟、人はどれだけ思いやり行動したかが全てです。

昨日の久しぶりの再会、思いやりの余韻の御蔭様でまた元気が滾々と湧き上がってきました。子ども達のためにも共に目指す生き方を実践し、引き続き次回の再会まで道を味わい愉しんで歩んでいきたいと思います。

初心のチカラ

人は「初心」という言葉を聴いても、実際は自分の初心に気づかない人がほとんどです。その初心は自分と向き合っていく中で出会うものであり、自分の心から思うことを実践し実行することで次第に自分の中に在る心に出会う機会があって再確認するものだからです。

実際に「初心」に出会うには、昨日書いたように「遣りきる」ことが必要です。遣りきったあとの余韻で心が満足したかどうか、心が充足したかどうかで自分の初心の実感を得ることが出来るからです。しかしその遣りきるというのも、計画通りに自分の思い通りに時間通りに終わることを遣りきることだと勘違いしている人がいます。実際は、自分の都合を排除し、効率を優先せず、不便でも時間と手間暇をかけて自分の信念や決心や覚悟を周りに流されずに実践したことを「遣りきる」というのです。

自分に軸足を置いた遣りきるは、それは遣りきるではないのはまだ外界の判断基準や世間の価値観の中の比較や分別知、相対的な世界において遣りきった気になった遣りきった風なだけで本来の遣り切りではありません。遣り切りとは、絶対的な世界において自分の決めた覚悟を信念をもって実践するということです。

社内には刷り込みカレンダーというものがありそこには「初心は実践の中にあり」と書かれています。これは実践しているときだけは、初心を遣りきっている最中であり、実践しない人は初心の在り処すら見失い忘れてしまっている状態だということです。初心を見失っている人はただ繰り返しているだけで実践にもなりません。心を籠めて実践するその一つ一つに信念の集積があり、それが実践の妙味だからです。

初心を思い出せていない人は、目的を忘れています。目的を忘れる人は、安易な目標に心を奪われていきます。目標ばかりを追いかけては目的を忘れてしまうでは、あまりにも人生がもったいないと思います。

初心は何か事があり向き合うことで思い出すことが出来ます。例えば、死にかけるときや大事なものを失う時、もしくは人生を左右するようなタイミング、あるいは自分価値観を揺さぶられるような体験の時です。その時、感じたものが初心であり、その初心をいつまでも忘れないように実践をすぐに開始し、その実践の最中にこそ自分の中にある本心を持続させていくことで自分の中の生きるチカラ=初心を持てるように思います。

この生きるチカラは、継続力のことです。継続がチカラなのは、そこには初心の持つチカラが働くからでしょう。初心のチカラを育てていくことは、一度しかない自分の人生を一期一会に遣りきる仕合わせ、御縁に活かされ、自他一体に生きる豊かさを自覚することにもなります。

子ども達が自分自身の人生を本質的に謳歌していくためにも、大人が子ども達のモデルになる生き方を遣りきっていくことだと思います。自分が何のために存在するのか、何のために生きるのか、何のために働くのか、常に自問自答を入り口に、かけがえのない実践を味わっていきたいと思います。

新しい自分~新たな役割~

人は新しい自分を刷新していくことで、自分らしさというものを発見し発掘していくように思います。新しい自分に出会えることは仕合せなことであり、それは自分自身がその時々で役割に気づき役割を生き切るということに出会えているということです。

人はなぜ新しい自分に出会えないのか、それは過去のままでいるからです。かつて自分が自分らしくいた自分のことを自分らしい自分だと思い込み、無意識に自分が役割を持っていた頃の自分に執着してしまうからです。自分が望んでいた自分になることは確かに幸福感を感じられますが、時処位が変われば役割もまた変化していくものです。

それではどうすれば自分らしさをずっと発掘できるかということです。

それは常にお役立ちできる自分に出会い続けることであろうと思います。新しい今の自分を肯定でき、新しい自分でいることに精進していくことだと思います。昔の自分のできることに終始するよりも、自分が周りにお役立ちできることを増やして高めていくことで今の自分が自分らしくいることに気づけます。

畢竟、自分らしさというものは自分の思い通りになることではなく周りの中で自分の役割を発揮できているということです。一つの目的に向かって、自分を遣りきって今を生き切り、必死で精進してくことで新しい自分に出会うこと、それが自分らしさの刷新だからです。

物事は全て必然だと信じられるかどうかがまず受け容れる第一歩であろうと思います。この世に意味のないものは存在せず、今の自分の運命が今起きているようになっているのはそこには確かな必然性が存在します。

こんなはずではないと否定から入る前に、全てを一度丸ごと受け容れて「これでいいのだ」とその中で、最善を盡そう、人事を盡そう、自分のできることで精いっぱいお役に立っていこうと心を定めて覚悟を決めればそこから新しい自分に刷新していけるように思います。

昔の自分よりも今の自分を好きになるには、今の自分が周りの御役に立つ努力や精進を以前の自分に負けないくらい実践していてはじめて好きになれるものです。自分を好きで居続ける努力とは、常に一生懸命の今の自分で役立てる全てを出し切ることです。

主体性も自立も、自分らしさに関係します。自分らしくいられるというのは、遣りきったか、出し切ったか、生き切ったかの確認です。日々は新しいことに満ちていますから、日々新たに日々新たな役割を実践していきたいと思います。

主体性の発揮2

昨日、主体性のことを書きましたがこの主体とは使われる人になるのではなく使う人になるということであり、単に生きている人ではなく活かす人になるということでもあります。

主体的な人が環境を使いこなすというのは、組織でいえば組織に使われる人間ではなく組織を使う人間であること、そして社會でいえば社會に生きている人になるのではなく、社會を活かす人になるということです。

人間というのは、御互いを尊重することで認め合い助け合うことができます。それが人間であることの原理原則であり、人間はお互いの役割を活かし合うことで仕合わせを感じて愉しい人生を送ります。言うことを単に聞けばいいといった受動的な存在でもなく、機械の歯車のような部品になることを望んでいる人間は本来はいないものです。

しかし実際は、業務や職務をこなすことを優先し仕事はしても本来何のためにやるのかという目的を忘れては日々に使われる人になって疲れている人がいるものです。目的を忘れない工夫ができる人はどんなことがあっても主体性を失いません。そしてその目的があるから自分の役割を果たそうと誰が見ていようがいまいが精進するものであるし、どんな時も心が着いてきますから遣り甲斐や生きがい、そして働きがいを持つことが出来るように思います。

人は初心を忘れることで使われる人になり、初心を忘れないで使う人になります。目的意識というものは、他人から管理されるものでは身に付きません。如何に自分を自分自身で管理するか、つまりは自分に打ち克ち自分の目先の欲望よりも理想を優先するチカラを持てるかということが肝要です。それは言い換えれば常に理念を優先する持続力、忍耐力、信念、志、克己心を腹に据えるということができるということです。

人は目先の目標ばかりを追っているうちに、本来の目的よりも目標が達成することがやる気になっていたりします。もちろんそれも大事ですが、その目標は本来は大切な目的が合ってそれを細分化することで観えてきた部分の一部でしかありません。大きな目的があることを忘れない人は、どんな些細なことであれそれが全体の目的に繋がっていることを自覚しますから心を籠めないことはありません。

目標は手を抜きサボり怠けることもできますが、目的はそうはいきません。もしくは目標をマジメにさえすればと無理をし続けることも目的に対して不真面目かもしれません。働き方と生き方の一致というのは、どこまで自分が目的に対して忠義を盡しているかということでもあります。

大義を持てる人というのは必ず遣り切りますからどんなことをしていてもその人生は意味を持ち楽しく充実したものになります。

この世界をどのようにしていきたいかは、自分の観えている世界観の変革に由るものです。ガンジーの遺訓に「自分が見たいと思う変革に、自分自身がなりなさい」「私たちの偉大さは、世界を作り替える力にあるのではなく、私たち自身を作り替える力にある」とあります。

自分を目的に合わせて変えていくことこそが主体性であり、主体性を発揮するというのは世界を変えている実感を持っているということです。自分の日々の実践が、どんなに小さなものであっても、大河の一滴であったとしても、それが必ずいつかは人間尊重の仕合わせに一役買うのだと信じて自らが様々なことを引き受けさせていただく気持ちで取り組む人には受身という言葉がなくなるものです。

引き受けること、させていただけるのは組織に忠実だからやるのではなく目的に忠実だからこそできることです。如何に目的そのものを見て、目的そのものになるのかが中心だということでしょう。

自分らしさとは人間らしさですから、子ども達の未来に常に人間らしくいられるように主体性を発揮する生き方を示していきたいと思います。

主体性の発揮

昨日、ある保育園の公開保育に参加して藤森先生の講評を拝聴する機会がありました。そこでは「主体的」の話があり、幼児教育の原理原則として当然のことであり、それをどのようなアプローチで実践するかに見守る保育があると仰っていました。

また気づいたことの中で「環境が主体的な子どもをつくるのではなく、実際は主体的な子どもが環境を使いこなす」とも仰っていました。発達を保障していくとは何か、学び直す機会になりました。

そもそも主体的であるというのは、人間は本来、主体的な生き物です。これは自然物はすべて主体的と言ってもいいかもしれません。それが刷り込みによって主体が失われていくことで発達が歪まれていくように私は思います。

人は誰しも遣りきっている人は主体的であるものです。中途半端に遣りきることをやめてしまえばそこには主体が失われていることに気づくものです。やりたいことを自由にやる環境があるといっても、実際に自由になったからやりたいことをやるわけではありません。

本来、どんなことであっても自分のやりたいと決めた選択を自らが遣り切りやり通すというのが主体のことです。主体が遣りきっていないのに本来の自分の好奇心が目覚めることもなく、自分自身が環境を創造して自分らしく生きていくことはなかなかできません。

人は自分の決めたことを遣りきっていく中で、本来の魂の天命というか自分らしく自分を生きていくことができます。同時にその生き方が他を活かし、自他を活かし合うことができるように思います。

そしていつから刷り込まれ主体性が消失していくのかをみれば、産まれた時からの環境が大きな影響を与えていることに気づくのです。その環境の刷り込みをどのように取り払っていくか、それに気づけるかがその人のその後の人生を大きく左右するように思います。

私たちが見守る保育の道を弘げたいと願うのもまた、この主体性の発揮こそが要であり、発達を見守ることがそのものの主体を信じることにつながるからです。子ども達の目がいつまでもキラキラと輝き時代時代を生き切ることができるように見守っていきたいと思います。

聴く姿勢

人は受け容れることで前に進むものです。そして受け容れるとは、話を聴くことからはじまります。先日から「聴く」ということをテーマに話すことが多いのですが、本来の聴くことは受け容れることであり、聴くことは前進するということです。その逆が停滞することであり、否定するということです。

人は何でも否定から入ると受け容れる余地を残しません。受け容れるというのは、聴き容れるということであり、自分の価値観の中に新しい考え方を取り容れるということです。変化というのは自分が変わることですが、変わるためには他人の話を聴き容れる素直さが必要です。齢をとってくればくるほど、頑固に自分を守れば守るほどすぐに否定する生き方の癖がついてしまいます。否定から入ってしまえば、できないことまでできるふりをし成長する機会を逃してしまうかもしれません。

稲盛和夫さんの言葉に『実際にはできないことを、できるようなふりをしてはいけません。まずできないことを認めて、そこからスタートするのです。』があります。

これもできないことを認めることが他人の話を聴き容れるということであり、それが前進をするということを表しています。相手の話を聴いて、「確かにそれも一理ある」と思えるかどうか、最初から否定して「違うそうじゃない」と頑なになるかはその人の「聴く姿勢」に由るものです。

聴けないのは、自分の価値観が優先され他の価値観は排除しようといった素直ではない物の視方があるからです。自分が正しいと思い込む前に、もしかしたら自分が間違っているのではないかといった矢印を自分へと向ける努力があってはじめて人は他の人の話を聴くことができるように思います。自己肯定感というのも否定を已めることで身についていくものです。話を聴くから人は自信を持つことができ、話を聴かないからいつも自信がなく不安になるのです。

地球上で生きられる私たちの人生は自分だけのものではなく、他の人たちにも同様に人生があり、多種多様な価値観があるように多種多様な正解もまた存在するものです。自分だけが正しいといっては他を間違っていると思い込むのはあまりにも視野が狭いように思います。

如何に多くの矛盾を受け容れて、丸ごと一つの円の中で物事を受け容れ福にするか。それを私たちは聴福人と呼びますが矛盾があってもいい、違いがあってもいい、衆智を集めて皆でチカラを合わせていこうというのがみんなが心を一つにして仲良くしていく人格を磨いていくことだと思います。違うからこそ認め合え、異なるからこそ助け合えるのです。社會はそうやって協力し協働することで仕合わせになり、それが厳しい自然の中で生き残ってきた人類の智慧なのです。

話すことで摩擦をうみますが、摩擦は磨くことでもあり、どう自分の心で素直に聴けるかで自らの魂をも磨いていけるように思います。聴くことがどれだけ大切かは、聴き容れたあとの自分の変化によって気づくと思います。そして聴くことができるとき、そこには思いやりの残り香が薫ります。

子ども達のためにもどんな声も聴けるような素直な心を高めていきたいと思います。

 

澄の文化~炭と囲炉裏から~

今ではほとんどが西洋文化によって住環境が変化してかつての暮らしから離れていますが、私たちの先祖たちが育んだ智慧はまだ完全に消失してはいないものです。囲炉裏一つ深めてみても、あらゆるところに先祖たちの真心を感じます。

この囲炉裏の文化は、使ってみることでより理解が深まるものです。

例えば、料理をしていると煮込み、焼き、燻製、炒め、あらゆるものが炭火によって可能です。西洋の暖炉は火加減ができませんからグリルが中心になりますが囲炉裏は小さな火も加減できますからじっくりと食材に合わせて調整することができます。

西洋の暖炉は薪を多く使うため灰もでますし煙突も煤で汚れて掃除が大変ですが、その点囲炉裏は薪を使う量が少なく済みますから掃除もあまりいりませんし森林のことまで配慮した使い方ができます。

西洋では薪をあまりにも多く使うため、その分、森林破壊が進んだといいます。ドイツでは森林が維持できるように森を維持するためにあらゆる工夫や自分たちの暮らしが森林破壊で酷い目にあったことを忘れないためにも森林維持にはとても気を使っています。

その点、日本では囲炉裏文化の御蔭で森林も破壊せず自然と共生し持続可能な状態を維持してきましたからあまり森林破壊については意識することもなくなっています。むしろ、建築様式が変る前の住宅用の木材としての杉を森へ植え続けたことで森の形が不自然に変わってしまったことの弊害の方が問題になっています。

そして西洋と異なり私たちの文化で発展したものは炭です。炭は日本の国土、囲炉裏と深い関係があります。今では電気ストーブ、電気こたつ、電気空調があたりまえですがかつては炭によって私たちは寒さや湿度を調整していました。

一年中、炭によって住環境を自然と調和するように維持し、一年中、過ごしやすい住環境を確保してきたとも言えます。その炭の灰には、虫を近づけず、腐敗菌やカビなどの発生を抑制する効果もあり、また麹菌を元気づけ発酵を促進する効果もあります。不思議なことですが、特別に麹菌は炭や灰との相性が抜群に善いのです。酒蔵に炭があるのも、味噌や漬物が灰と相性がいいのもまたこの炭のチカラがあるからです。当然、人間にとってもこの炭と灰は健康維持には欠かせず、囲炉裏の生活をはじめると稲の文化と同じように永い間一緒に暮らしてきたパートナーの一つであった証拠をあちこちに感じます。

炭は「澄み」の韻をふんでいますが炭を身近に置くことは心身の浄化を促進し、より一層、真心や精神を磨く効果があるのかもしれません。この魂の「澄の文化」は私たちは炭から学んだのかもしれません

子ども達が日本とは何かと思い出させなくなるほどに今は西洋文化によって日本の文化が上塗りされていっています。住環境においてはほとんどもうかつての日本の暮らしの様子が消えています。しかし、私たちが誇りにし子孫が自信を持つものは常に日本の先祖たちがどのような暮らしや生き方を身近に置いてあげることです。

親がどのように生きてきたかを子どもたちは忠実に参考にして自分のものにしていくことこそが文化の源泉です。日本文化を次世代へと継承するには子ども第一義の理念においてとても重要なことです。

私たちは国際の中にいる日本人です。世界に出ていく前に自分の先祖の文化を深めずに世界で何の役割を果たせるというのでしょうか。先祖たちが永い時間を懸けて積み上げてきた日本人としての生き方こそがこれからの世界には必要なのです。引き続き、身近な道具を見直し、日本の真心を見つめ直していきたいと思います。

 

委ねること~天命を見守る~

見守る保育には保育計画をたてるのに「DO→SEE→PLAN」というものがあります。一般的には「PLAN→DO→SEE」といって保育計画を立てて行われます。

そもそも見守るという言葉は、操作するのではないのだから相手の主体性に寄り添うものです。寄り添うのだから自由な環境の中で主体性を発揮した人に対してそれをどのように発展させていくかということが重要になるのだから先に相手をコントロールすることは見守ることにはなりません。

言い換えれば、コントロールしないということです。

これは生き方にも顕れてくるものです。いちいち先々に起きることをすべてコントロールできると考えている人は、偶然を排除していくような計画を立てるものです。問題が起きないようにと操作していけば、体験することが味わえなくなっていきます。しかし実際にコントロールしないと委ねていく人は、発生する出来事はすべて必然であると思っていますからそのことに寄り添いながら体験や成長を味わっていくことができます。

つまり極端ですがこれを人生に置き換えると、人生を感じるのにおいて、天命に従い味わい深い方を選ぶか、それとも天命に逆らってでも自分の思い通りにしていくかということにまで生き方を観るような気がします。

見守るという生き方は、そのものが持つ天命をよく見てその天命を活かすというその人らしさを大切にするような生き方のように私は感じています。誰しも人は一人ひとり意味が異なりますし、その発生する出来事は自らの本心が選んで訪れる出来事であり必然ですからそこにわざわざ逆らうのは不自然になっていきます。

委ねるという心境は、「来たものを選ばない」という覚悟でもあり、「有難く引き受けます」といった受け容れる覚悟でもあろうと思います。体験させない人生というのはこれの逆のことで、無難ばかりを求めてしまうかもしれません。

教育や保育というものは、その人の無二の体験をどう見守るかにかかっているようにも感じます。その時の導き方は導く人の生き方がお手本になり、それを見た人が模倣したり真似をして自分の中に道理を獲得していくように思います。

知識を教えることは委ねたり信じたり待ったりすることとは異なり、操作や管理するためになってしまえば本来の自立や主体性は引き出されないように思います。操作しない、管理しないというのは本人の意思を尊重して委ねることであり認めるということにつながっています。

本当の自分との付き合い方にまで発展していく議論ですが、本来の自分で生きようとする人たちにはこの「見守る」ということはとても大切なキーワードになっているように感じます。一人でも多くの人たちが、本当の自分自身に目覚め、そして自分らしくいて自分を社會に役立てる仕合わせやご縁の有難さに気づけるように、社業に邁進していきたいと思います。

真似の真価

先日、GTリーダー研修の霊長類研究所の明和先生の講演で「真似」についての話をお聴きする機会がありました。チンパンジーや自らの子育てを通して胎児の時から幼児期にかけての発達やその智慧について科学的に実証されていました。

特に印象に残ったお話は「真似」の本質についてです。

人類は真似をすることで、様々なことを子々孫々へと伝承してきました。真似とはまさに自然の智慧の仕組みであり、その真似の仕組みを研究することは人類のもつ本来の目的を知るためのキッカケではないかと感じました。

一見、猿まねといい、真似をすることは簡単だと思われがちですが実際には真似ができるというのは、そこは本当に高度で難儀なことが行われているということです。それは単に同じ行為をするだけではなく、真似をすることで共感をしたり、学習をしたり、心を通わせたりといった人類が生き延びてきて生まれつきもっとも大切にして残してきた理由がありました。講演の中では「真似し合う」「心を想像する(相手の気持ちを)」「教え合い、助け合う」ということを行っているという御話もありました。

以前、日本文化の教え方の一つに職人の師弟関係による学びを深めたことがありました。宮大工でも同じく、他の刀鍛冶もそうですが師弟は言葉で教えません。つまり「カラダで覚える」、「後ろ姿で伝える」というやり方をとります。これは動物たちも同じ教え方で子ども達を導き、言葉でいちいち教えません。自然の学び方というのは、見て学ぶ、観て自分のものにする、本来の人類の教え方も同じように自然の智慧を用いた伝承方法だったと感じます。

今ではそういう教え方をせず、型にはめては幼児期から言葉や知識によって教えようとしますが本来代々先祖から繋がっている私たち常に先人といったモデル像があり、そのモデルをベンチマーキングすることで自ずから伝承され自らカラダで体得して結んで譲り渡していくのが人間の持つ本来の想像力や直観力、実践力や工夫力を磨く方法だと私は思います。

あらゆるものから学ぶ智慧を捨ててしまおうとする今の世の中の風潮や、今後の人類の行く末の方が心配になります。その時、子どもの持つこの「真似」の持つ可能性というのはまだまだ見直されていく必要があると改めて感じました。幼児教育や保育には、人類がどうやってきてどこに向かうのかというテーマを秘めています。

動物たちから学び、子どもたちから学び直すことは人類が本来備わっている叡智を活かすための方法を改めて再発見して価値を観直すことになります。子ども達のためにも、「真似」の実践を通して如何にその智慧が効果があるかを初心を伝承する中で実現していきたいと思います。

ありがとうございました。