真心の日々

人は初心を忘れずに実践をし続けることで道を歩んでいくことができます。道には終わりがないように実践にもまた終わりはありません。実践も日々である理由は、道を歩くのと同じで少しずつでも歩き続けていたら前進していくからです。もしも歩くのをやめたり、休憩ばかりして歩まなければそれが十年、三十年、五十年という歳月が経ったときには遠大な差になっているからです。その差は人生の本質に影響を与えます。

人間は何度も生まれ変わります。その生まれ変わりは、先祖から今に至るまで数百年数千年、数万年、それ以上の歳月をかけて歩み続けてきた道です。人類の成熟に向けてどこまで自分がその道をつなぎ歩んでいけるかは、それぞれの人生に課せられた偉大なテーマであろうと思います。

よく仕事と人生と分けないことを、実践を通して語りますがこれは分けることで本質が失われてしまうからです。これは仕事、これはプライベートを分けるのは自分の知識であり、本来はどれも人生なのだからどれだけ本気で人生を生き切るかということになります。

もしも初心があり日々を歩んでいくのなら、分けずに何でも来たものを選ばずに今に集中して今を生き切ることが必要です。言い換えればそのどれにも必死になって努力し楽しむ人生を歩んでいくということです。

人生の時間は誰にも平等で、その人生にはいつの日か終わりが来ます。そして今一緒にいる仲間やパートナーや縁者たちとのお別れの日が必ず訪れます。今しかできないこと、人生としてやり遂げておきたいこと、そのどれにも妥協せず、言い訳せずに、これも人生であると言い切れるように日々を実践で彩っていきたいものです。

いつ死んでも悔いのない生き方の中に、真心の日々があります。

子どもたちのためにも真心の日々を磨いていきたいと思います。

変わらぬ思い

昨日、聴福庵にタマリュウ(玉竜)を植えました。このタマリュウ(玉竜)は「ジャノヒゲ属」に分類され「ジャノヒゲ(蛇の髭)」は別名「リュウノヒゲ(竜の髭)」と呼ばれます。よく間違えられますがタマリュウはリュウノヒゲの中の1品種です。

このタマリュウ(玉竜)は、葉も綺麗ですが花を咲かせ美しい青い実をつけることで知られます。そして古くから縁起のよい植物として重宝されてきたといいます。薬としても知られており、鬚のような根のところどころにある小さなイモのような部分は、麦門冬という生薬となり、強壮、咳止めに効果があるとされています。

また本州以南に自生するユリ科の常緑多年草であり、以前近くの山の中で採取したことがあります。本来は、葉が長いものが多いのですがこのタマリュウは園芸用に葉が短くなるように改良されてきたものです。

松と同様に冬にも枯れずに青々と光る葉が美しいと感じたのかもしれません。また夏の日照りにも強く、繁殖も強いこともあるのでしょう。むかしから日本の先祖たちは、身近に縁起が良いものを置き、その福に肖ることで様々な福を取り入れてきました。

福はもともとはすべて自然の中にあるものでその自然の福が豊かであるようにと願い祈り続けて子孫を繁栄させてきたのかもしれません。禍転じて福にするという諺にあるように、私たちは常に福を意識して心の持ち方や生き方を学び続けていくのかもしれません。

このタマリュウの花言葉は「変わらぬ思い」「深い心」「不変の心」。いつまでも初心を忘れずに子どもたちのために復古起新するぞという決意と共に聴福庵を見守っていきたいと思います。

頑張る意味

人間は時として長所が短所になり、メリットがデメリットになったりします。例えば、志や理想が高すぎる人、責任感が強すぎる人など、過ぎれば過ぎた分だけ魅力もありますが同時に、そのことから自意識過剰になって苦しみ、反って自他共に苦しめる原因になっていたりするものです。

自分を等身大の自分ではなく、身の丈を超えた自分になることを設定すれば自分というありのままの姿を認めることができなくなります。過度に理想の自分に期待したとしても、そんなに一足飛びに理想の自分になれるはずがありません。そのために頑張りすぎるほどに頑張り過ぎますが、その無理が自分というものの本当の実力の認識を歪めたり、自己否定ばかりが増え自分の自信をも奪っていくものです。

あるがままの自分の認識を持てるというのは自意識過剰ではないということです。ここでの自意識過剰とは理想の自分と現実とのギャップが気になり他人の評価や他人から見られる自意識ばかりが強くなりよく見せようと頑張ることを言います。そのままの自分、あるがままの自分を愛してもらえる安心感を捨ててまで自分が思っている理想の自分像を周囲に押し付けようとします。次第に完璧な自分を演じることが疲れを増大させ、そのことからさらに人間関係を円満に築くことが難しくなっていくのです。

高い志や理想がある人は常にギリギリのところを目指して頑張ろうとします。真面目であればあるほどに責任感に押しつぶされそうになりながら無理をして頑張ります。頑張るとは無理し苦しみの努力することだと幼少時から刷り込まれていますから、頑張ることが楽しくありません。

本来の頑張るとは、ありのままの自分で努力し今を楽しむことであり、その経過やプロセスを味わうことです。頑張りますというのは、私の言葉に言い換えるのなら苦しみの中にある喜びに挑戦しますということでしょう。そうやって努力を楽しむためにも無理をせず自分一人で抱え込まず、自分にできないことはみんなの協力を借りて一緒に目的に向かって挑戦していこうとするのが頑張ることの意義だからです。つまり頑張ることは一人で抱え込んで無理をすることではなく、自分にできないことを周囲に力を借りてでも達成していくという意味です。

そのために、応援するときに使うガンバレや仲間への励ましに一緒に頑張ろうという言葉もあります。本来、自分自身においても自我だけで無理をすることで自分のできないことをやるのではなく、ありのままの自分で肩の力を抜いて真我と協力してやってこうとすることであり、お互いに「もっと自然体でいこうね」というのが本来のガンバレの意味なのです。

どこでどう意味が変わってしまったのか、、きっと画一的な教育や比較競争、閉塞感のある社會の中で刷り込まれたのかもしれません。今の時代はガンバレというと、無理をするとになりますから、「あなたのままでいい、あなたのままがいい」や「ダメな分だけ魅力がある、できない分だけ仲間ができる、短所こそが長所である」などと意味を置き換えて認識する必要があります。安心して自分らしくいられる社會の時のガンバレの意味と、不安で自分のままでいられないときの頑張れの意味がこうも変わってしまうというのは残念なことです。

自意識過剰や自己中心的でで苦しんでいる人たちが増えているのもまた、多様性を認めない今の時代背景が影響しているのでしょう。

子どもたちがあるがままで今を楽しみ今を生き切れるように、自他を認め見守る社會を創造していきたいと思います。

 

本律的組織~自他律一体~

組織には自律型の組織と他律型の組織があるように思います。簡単に言えば、自立型は主体的に自らで律することを優先する組織、他律型は受動的に他に律されることを優先される組織であるとも言われます。自律型は自らで責任をもって自らの意志で実行しますから元来から持っている自分の力を発揮しなければなりません。しかし他律型の方は、自分の元来の力を使わなくても周りに合わせていくことで調整していきます。

これは体に置き換えればすぐにわかりますが、体温調節をするのに空調に頼って自分の体を使わずに空調によって行うのか、それとも自らの体に備わっている温度調節機能に頼って行うのか。これを組織でいえば会社に依存して行うのか、それとも自分事として自ら主体的に自立して行うのかということです。体でも自分の元来の力で生きている人はとても元氣で楽しむ気持ちも高いものです。逆に自分に都合のよい便利な環境の中でぬるま湯につかっていたら体も弱るし楽ばかりを求めて怠けてしまいます。あまり自分を怠けさせないことも充実した人生を送るうえで大切なことです。

今の時代は、異常気象でもありますから便利な道具も必要な時には使いますがほどほどにしないとその便利な道具によって身を亡ぼすこともあります。だからこそ自己自律が必要なわけで、常に自らがバランスを保ち続ける必要があるのです。そして自と他というものは、本来は簡単に分かれているものではなく一体であったものです。

この自他一体になるというのは、律することにおいては自他律一体ということです。これを本律と定義してもよいと思います。本律とは、道理とも言い換えれます。道徳道理に従い行動する基準をみんなが持つということです。

自分か相手かという考え方はそもそも道理にズレるものです。全体調和や全体快適といった、すべての生き物は循環し全体とつながり活かされるものですから当然常に全体のことを思いやり自らを律して他を思いやりながら生きていく必要があります。人間には集団をつくるその根幹には「何のために組織をつくるのか」「何のために協力して共に生きるのか」という目的や本質があるのです。

その本質を守り続けるために本律がある。その本律の維持と研鑽が、真に道徳的で自他律一体の組織を醸成するのです。自律とか他律とかどちらがいいとかわるいかとか議論する前に本律がどうなっているのか、よく正対してみる必要があります。

人はまず何のために生きるのか、そして何のために働くのか、それを一人ひとりが自覚していることで律は働き始めます。そのために組織のリーダーは、自ら本質を学び、初心を定め理念を掲げ、本質がブレないように学び続けて精進していく必要があるのです。

謙虚さも素直さもまた、その本律的生き方が顕れたものです。

マニュアルをつくり他律で管理しようとしたり、しつけばかりをして自律で管理しようとしたり、そういうことをする前に自分自身が本質を保っているかを管理する方を優先することで組織もまた本質的になって自他律一体になるのでしょう。

目的を忘れない、初心を忘れないための工夫をみんなで一緒一体になって取り組むことで本律的組織は実現します。引き続き、風土改善の提案を深めていきたいと思います。

人生の仲間

人間は物事に取り組むときに、「自分事」になっているか、「他人事」になっているかという観点があります。どこか相手の問題で自分にはかかわりがないと線引きしていたら、結局は本質的にその人の問題を一緒に解決することができません。

何かに取り組むとき、それを単に仕事の一つとして捉え、どこか相手がやることになっていて自分はあくまでそのサポートでとうことであれば全体の解決のプロセスをチームで進めることはできないのです。

先日、あるリノベーションの会社の記事を読んでいたらその経営者が「自分が其処に一緒に住む」という覚悟で仕事に取り組んでいるという話でした。その方は、それまではクライアントの依頼に応えるだけで、如何にクライアントにメリットがあるかと考えて仕事をしていたといいます。もちろん、仕事のクオリティも高くお客様も満足してくださっていたそうですが数年後にその建物にいくと結局はその人抱えていた問題は解決もせず、自分が手掛けたものが活用できていないという事実に直面したといいます。

その時、最初はそれは相手に問題があると考えたそうですがそれでも何件も同様の建物を見るにかぎって自分に矢印が向いたそうです。果たして自分は「自分事」であったかという自分への矢印です。どこかビジネスだと割り切って他人事にしていたのではないか、本当の一緒にやっていたかと思うと大きな反省があったそうです。

これは今の世の中の世相を現わしている気がします。結局は何かに取り組むときに自他を分けて一緒にやっていないで相手の問題になっているから自分が提案しているものはあくまでもビジネスとして自分の立場を守るものになってしまい覚悟が決まらないのです。一緒にチームで取り組む覚悟もなく、ただ単に仕事をするだけであれば本質的な問題を一緒に解決に向かって協働したことにはなりません。

こういう仕事は、仕事のための仕事であって人生を一緒により善くしていこうという本質的な関わりはできません。

「自分事」だと思っているかというのは、前提が人生で一期一会に一緒に生きていきたいという「何のために働くのか」という生き方が定まったものであり、それは自他一体の境地で一緒一体に生きていく同志ということになります。自分の人生を懸けて取り組んでいく仕事を一緒にやることはそれ自体が美しく、その結果は単に成功以外の大きな喜びや仕合せがあります。

分けないという生き方、自他事一体として生きていく力には人生の主人公としての力が必要なのです。

今のような自他が完全に分けて考えられているような時代、コンサルティングをする上で決して間違ってはならないのは決して他人事にしないことです。もしもこれが自分の会社だったら、目の前の人が自分だったらと、自分に置き換えることができるからこそ本質的な本物の協業が実現するのです。

人は協力者があるからこそはじめて偉大なことができます。

いい人との出会いが、人生を唯一無二のものにします。一緒に生きていく人生の仲間を大切に人生として関わっていきたいと思います。

居場所

人は自分の居場所を感じることで心が安らかになるものです。しかし自分の居場所がなくて辛い思いをしている人もたくさんいます。過剰に周りを反応を気にしたり、どうせ自分のことは嫌われると決まっていると思い込んだり、もしくは本当の自分をつも我慢して無理をしていたりすると余計に居場所がなくなるものです。

そもそも居場所というものは、自分が居てもいいとゆるせる場所のことでもあります。ここに居てもいいとゆるされているというのは、自分のあるがままでいいと自分が感じられるということです。

自分のダメなところばかりを自分で指摘し、自分がダメだから居場所がないと思い込んでしまうループは余計に居場所をその人から奪うものです。こんな自分でも仲間は許してもらえる、こんな自分でも愛してもらえるといった自分への受容は、そのまま周囲の人たちへも居場所を提供することになります。

実際に自分の居場所がないと思い込んでいる人は、同時に周りの人の居場所もなくしてしまうような対応をしてしまうことがあります。例えば、自分から本音を隠して我慢すれば同時に相手の本音も遮断し相手に無理をさせていくという具合です。

だからこそ、自分のような存在を認めてくださっているという周囲の思いやりや温もりを感じたり、同時に自分からどんな欠点や弱点、短所がある人のことを愛する訓練が必要です。それは言い換えれば、丸ごとの自分を愛することやあるがままの自分も許してあげるという受容がいるのです。

一円対話の中で、傾聴、共感のあと受容があります。この受容とは、すべてを丸ごと認めてあげることでそのままでいいとゆるしてあげることです。言い換えれば、その人の長所も短所も転じてあげて認め褒めたたえるということです。

理想が高い人はすぐに自分を責めていきます。自分の身の丈を超えて努力してきた人ほど、理想との自分と現実の乖離がゆるせないものです。そのために自分を責めては、「これではダメだ」と自分自身に鞭を打っていきます。そうやって自虐を続けているうちに自分の中にも居場所がなくなり一人になってしまいます。

内面の自分との関係を良好に保つことができなくなれば受容することはできません。受容するためには、常に自分との対話を通して「ゆるす」ことで認めそこからお互いにカバーし合って助け合っていこうねという風土を醸成していく必要があります。

仲間と助け合う風土は、ダメ出しするのではなく認めて肯定しゆるすことで生まれます。自他を責めず、そういう時こそ「課題が見つかってよかった」と認めたり、「長所が分かってよかった」とほめたり、「学び直していこう」と改善したりすることで居場所はできます。

比較競争社会の中で、居場所がなくしている真面目ないい人たちが苦しまなくていいように家族のようなぬくもりのある社會に近づけていきたいと思います。

何をするかよりも何のためにやるのか

人間には大きく二通りのタイプがあるように思います。それは何かをするときに、何をするのかを考えるタイプ、そして何のためにやるのかを考えるタイプです。前者は、やることが目的であり結果を出すことが大事です。後者は、なぜやるのかが目的であり何のためにやっているのかというプロセスが大事です。もちろん本来は両方とも大切ですが、この順番がどうなっているのかで物事の本質が変わってきます。

この「何のために」ということは、自分自身の初心を確認するものです。例えば、同じ質問であっても何をして働くのかと何のために働くのではその問いの意味が異なります。

何のためにというのは、働くことへの原点でありその気持ちがあればどんな職種であっても仕事であってもあまり影響はないとも言えます。しかしこれを自分と向き合っていなかったら何をするのかが重要であり、業務や職種に依存してしまうことにもなります。もちろん、何のためにと追求していくのなら次第にその人の仕事が本質的になりますから業務も職種も近づいていき気が付けば相応しいものになっています。

つまりは人間を観るのに大切なのは、その人の肩書や立場、結果ではなくその人がなぜそれをするのか、そしてその人が何のためにそれをするのかを確認することです。

それを観ずにしてやっていることだけを見ていたらその人間が本当はどのような人物で何をしたいのかが分からなくなります。そしてこれは当然相手だけではなく、自分自身にも確かめ続ける必要があります。それもまた初心なのです。

初心の確認というのは、お互いに本質的であり続けようとする確認でもあり、人生の方向性を見誤ることがないようにお互いにそれぞれ何のために生きるのか、何のために働くのかを忘れないようにし、その人の本質を観続けて助け合っていこうとする相互理解・相互扶助の道徳の仕組みなのです。

私たちが行う一円対話は、聴福人が本質を問い続け何のために働くのかを忘れないために初心の振り返りを行うのです。人間は、忙しくなりすぐに流されて心を亡くしてしまうと初心を見失います。何のために働くのかを忘れるから、心が疲れてくるのであり、何のために生きるのかを忘れるから好奇心が減退し面白くなくなってくるのです。

常に本質を見失わない工夫こそが、人格を高め人格を磨きます。真実の人たちを守っていくことが子どもたちの未来への偉大な布石になります。

引き続き、何をやるのかではなく何のためにやるのかを発信し続けてこの世の中に本物の価値を伝承していきたいと思います。

共感のやさしさ

人間は、時として一人では乗り越えることができないような困難や葛藤に出会うことがあります。不安や恐怖から、誰かに支えて貰わないと前に進むことができないようなこともあります。そういう時に、心に寄り添ってくれる人や、心の支えになってくれる人が救いになって様々な壁を乗り越えることができることもあります。

見守るということもまた、相手の心に寄り添うことで実現するものです。

しかしこの寄り添うと思いながら頭で寄り添ったつもりになっていて考えているだけで心は着いてきていないこともあるように思います。相手のことを考えていることが思いやりではなく、心を寄り添い、心で近づき、心で共感し、心から相手の心を自分に同一化するほどに受容することができてはじめて寄り添っているとも言えます。

人間は頭でなんとなくきっとこうだろうと思い込んで頭で考えて行動しても心は着いてこないことがほとんどです。頭で考えることは共感とは異なります。共感は例えば、相手が痛い思いをしていたら自分も痛いと感じる心、また相手が悲しみで泣いていたら一緒に泣いているような心、相手が自分と同化するほどに気持ちが伝わり感応するのです。

よくカウンセラーなどが共感してのちにアドバイスをしますが、もしもその人が頭で計算しながらやっているのならその場しのぎの対応になるだけでその人の人生を一緒に乗り越えるほどの支えにはなりません。共感しながらも自分の人生体験から励まし勇気を与え信じ見守るという過程は、真心の行動が伴わなければならないのです。

頭で考えることと真心は異なります。相手の苦しみに寄り添う時間や、相手の困難に共感する時間、すべてはじっくりと心が寄り添うために自分から心を寄せていく「共感のやさしさ」が必要なのです。

この「共感のやさしさ」を磨き続ける人こそ真心の人であり、そのやさしさが具体的な行動になり具体的なアドバイスになり具体的な見守りの環境を創造するのです。

慣れてしまい共感から入るのを怠らないように常に自戒し、心を用いてどのような人へも接していきたいと思います。共感のやさしさを失わないように丁寧に心を寄せていく工夫を行っていきたいと思います。

 

克服

人間には恐怖心というものがあります。どれが怖いかは人によって異なります。例えば、飛行機が怖いという人、蜘蛛が怖いという人、幽霊が怖いという人、病院が怖いという人、それぞれに怖いという感覚は異なります。本人が怖いと思っていても、周りはどうにもなかったりしますから意思疎通が取りにくくなかなか大変なものです。

この怖いという感覚が身に着くのは、先天性のものもあるのでしょうが、幼少期や過去のトラウマ体験であったり、もしくは何かを見知りしたことを怖いと決めつけていたりします。怖いと思っているからこそ、マイナスしか見えず、不安からその怖さが何十倍にも増幅します。怖いという感覚がすべての器官を鋭敏にしてしまうように思います。

この怖いという感覚は、命を守るための危険予測でもあり経験値から本能でそれを避けるようにできているとも言えます。自然災害の畏怖などはまさにこの危険予測であり、自然の怖さを知っている人は災害時に助かる確率が高くなります。このように自然の畏怖を忘れないことは命を守るために大切なものです。

しかし、恐怖を克服しなくてはならないような時、どうしてもそこを避けては通れないようなときは私たちはその恐怖に立ち向かう必要があります。例えば、病気や怪我のリハビリであったり、夢や目標の実現のためであったり、自分が成長していくためには避けては通れない体験であったり、その時はこの恐怖の克服が必要です。

実際には、恐怖の克服は何度も何度も練習して恐怖を感じないように擦るしかないといいます。私自身の体験でも、怖いけれどちょっとずつ練習して怖くないと言い聞かせながら取り組んできたことが多いように思います。それに過去の記憶に頼らずに、現在だけに集中して体験を刷新し続けたようにも思います。むかしできなかったことや、昔は知らなかったことが今はできるようになり、新しいことを学んだとき、その恐怖は薄れたことが分かります。

記憶の調整や、感覚の工夫は、この薄まっていくという工夫のようにも思います。その逆に、大切な忘れたくないことや信念は濃くしていくという工夫のようにも思います。

畢竟人間は、自分自身をどう創り上げていくかという自主錬磨でありその錬磨によって削り磨き光らせたりしながら目指す理想に向かって鍛錬していくしかないのでしょう。

薄れてくれば、恐怖を乗り越えて立ち向かう勇気も沸いてきます。怖いけれどそれを超えても実現したいという信念や夢は濃くしているか。そして何度も繰り返し挑戦して恐怖を薄めているか、常に正対しながら今を生き切っていきたいと思います。

 

習性を変える

人間にはそれぞれ習性というものがあります。どのような習慣をもっているかで、その人の一生の成果が直観できたりもします。例えば、健康な習慣を持っている人はそれだけ病気にもなりにくく回復も早く健康体を維持していけます。また勤勉な習慣を持っている人は努力を厭わずに他人のためにと働きますから信用や富を得られます。

これらの習性には、人生を豊かに安心して生きられる知恵のものもありますが反対に悪習慣というものもあります。何をやっても、自分に備わった悪習慣によって悪循環に陥っていくのです。例えば、自分勝手で我儘な習慣を持つ人は自分の損得ばかりで判断するようになります。すると周囲もその人のことが不信になり、損しないように関わらないようにするものです。人間関係や争いなどが続き、不幸になることが多くなります。

そう考えてみると、人間の幸福とこの習性はとても密接であることが分かります。

幼いころより、どのような習性を身に着けてきたか、そして大人になりどのような習性を学んできたか、そして老いていく中でその習性を如何に磨いてきたか、その差が人生の質を決めてしまうように思えるのです。

人生の質を高めるためには、常にその習性の方を見据えて習性を変えていくかありません。そして習性には体の習性、心の習性、考え方の習性などもあります。体の習性は、日ごろから鍛錬していくことで変えていけます。心の習性は、心の声に素直に耳を傾けて行動していくことで変えていけます。そして考え方の習性は、自分の感情の転換や、物事の捉え方を転じる訓練によって変えていけます。

もしも悪習性が染みついてしまっていると感じるのなら、今までと逆を選んだり敢えて苦しい方や勇気がいる方、そして思いやりや真心の方にと一つずつ積み重ねて取り組むことで習性もまた変化していくように思います。

諺に「習慣は第二の天性なり」というものもあります。

子どもたちが将来、自分の天性を発揮していくためにも、環境に左右され失敗を恐れず、失敗から学び、習性を見つめ習性を磨き上げていきたいと思います。