まちづくりの原則~復興の本質~

かつて二宮尊徳は荒廃した村を復活するのに、優先するのは「心田開発」であるといいました。その理由は、先に心が荒廃するからその結果として村々の荒廃があるというのです。よく考えてみるとこれは現代のまちづくりでもまったく同じことが言えます。

なぜ過疎が進み荒廃していくのか、そして都心でもまちが乱れていくのか、それはそこに住む人たちの心が大きな影響を与えています。例えば、まちづくりであればそれぞれが主体的に暮らしを整え、美しい生き方や、心豊かに生きようとするのなら、その場所は次第に暮らしに向いていく場所になります。しかし、そこに住む人たちの心が荒んでいけばゴミを捨てたり、周辺住民と紛争ばかりを繰り返したり、不平不満や不安や恐怖を感じていたらそのまちは荒んでいくのはわかります。これはすべてにおいて人々の「徳」の影響が出ているのです。

別に今と昔は大差なく二宮尊徳のいた時代も同様に、村が荒廃するのはその村の人たちが心が先に荒廃していくからその結果として村が荒廃したのです。今の時代も同様に、まちの人たちの荒廃がまちの荒廃になっているのは自明の理です。まちを治したいのであれば何を治すのか、まちづくりのするのならその大前提になっている価値観そのものを丸ごと転換しなければならず、前提が変わらずにちょっとやったくらいでは焼け石に水なのです。だからこそ二宮尊徳の時代も為政者に覚悟があるかどうか、本気で腹を決めたかどうかを大切にしたのです。

どんなまちにするのか、どんな村にするのか、それは村や町をどのように経営していくかという視点が必要です。それは会社経営と同様に、どのような会社にしていくか、その覚悟を決めたら、その理想に向けて社長を中心に社員と協力してコツコツと取り組んでいくしかありません。そういう地道な努力があって最終的には物事は開花しますから何を目指しているのかどんな未来にしたいのかと定めたら、あとは時間と努力の掛け算があるだけです。

例えば、株式会社でいえば数字だけを追っかけて社員の大切にせず利益だけのために過酷なノルマを課していればブラック企業のようになります。これはまちづくりも同じで、財政赤字の解消のために町民を大切にせず利益だけのために税金ばかりを課しているのならブラック行政になります。会社ならそこに働く人たちは心身が病んだり、退職や転職をし、その会社も衰退し倒産します。これはまちづくりも同様のことが置きます。原理原則や法理というものは、別に会社やまちに関わらずすべて自然の摂理ですからそのままのことが起きるだけです。

会社経営ならば、よく一人ひとりの社員の声を真摯に聴き、どのような会社にしたいかを定め、みんなで協力して協働しながら安心して働けるような環境に変えていく。そしてその会社で暮らす仲間たちやお客様が仕合せになるような働き方をみんなで一緒に実践して心豊かに日々の努力のプロセスを楽しんでいく。そういうことを同様にまちづくりでも行えば必ずその「まち」は会社経営と同様に時間の経過とともに善くなっていきます。

そういう意味では、誰の会社なのか、誰が経営しているのか、なぜそうしたいのかということが観えない「まち」が多いように思います。そもそもの理念がはっきりしない、そして誰にも浸透していない、何のためにそれをやるのかをみんな知らない、個々がバラバラで好き勝手やっているのではまちづくりなどできるわけはありません。何を優先するかも定まらないのでは、その取り組む順番など無茶苦茶で未来のグランドデザインなど組めるはずもありません。

二宮尊徳が村々を復興させていた時代も、村の荒廃によって住民たちが苦しみました。住民が苦しんで貧困の極みにおいて、報徳仕法という仕組みが実践され村々は復興しました。その時、二宮尊徳が一体何から取り組んだか、まちづくりに取り組む人たちは目先の効率や流行りばかりを追っかけるのではなくもう一度、復興の本質を深く見つめてほしいと思います。

私も子ども第一義の理念で取り組んでいく以上、子どもたちが自立して安心して暮らせる世の中を譲り遺していきたいと思います。引き続き、むかしからの日本的経営と暮らしの甦生を復古起新しながらできることをコツコツと取り組んでいきたいと思います。

 

完璧主義の罠

以前、シェル・シルヴァスタインの「僕を探しに」という絵本を読んだことがあります。内容は「何かが足りない それでぼくは楽しくない 足りないかけらを 探しに行く」、そのためにころがりながら、歌いながら、足りないかけらを探しだしていくというテーマです。具体的には、いろいろな欠片を埋めるためにいろいろな欠片とくっつきますが、そのどれもがしっくりしません。自分の欠片と思っていたものが、違う苦しさに出会います。

そしてようやくぴったりの欠片を見つけて完璧な存在になります。しかしそれもつかの間の喜びで、最期はやっぱり欠片があった方の自分のままでいいと転がり続けていくというような内容だったと思います。

真面目な人や自己評価が低い人は完璧を目指し、自分にできないことを人に求めて苦しんだり、他人にできないことを求めたりして非常に苦しむことがあります。自分の身の丈を超えたことを自他に求めては、どうにかならないかともがき苦しみ転がり続けます。

本来は、完ぺきではないからこそチームが必要なのであり、欠点や欠陥があるからこそ周囲と協力するということが生まれます。しかし根底に自分が完璧でなければならないと思い込んで自他に求める人はその方法を選択せずに自分の努力や能力だけを頼りに乗り越えようとして結局は崩れていくように思います。

この完璧主義の刷り込みは、過信や傲慢さを生み、分を弁えず自他を責め続けるという悪循環に陥ります。自分が完ぺきではないと認めることができない限り、本当の意味で自分の長所や短所を受け容れられず、周囲の人たちの長所や短所も観えることもありません。考えすぎて苦しみ、頭痛ばかりが増えても一向に改善することもなく、もっとも身近にいる協力者にまで苦しみの連鎖を与えてしまっているのを自覚し早々にその刷り込みを手放す必要があるように思います。そのためにはいちいち考えて頭痛ばかりを繰り返す前に、その前提になっている自分の生き方を改善するしかありません。それは具体的には「大きな努力で小さな成果」を積み重ねていくという生き方にすることです。これは鍵山秀三郎氏の言葉です。

「いますぐにできないことは、時間と手間をかけてやる。一人ではできなことは他人の助けを借りてやる。この方法ではできないと思ったら、別の方法を考える。方法も変えないで、一人でできないことを一人でやろうとして、いますぐにできないことをすぐに求めても、それはないものねだりにすぎません。私の人生観は、『大きな努力で小さな成果』を求めていくということです。得られるものはたとえわずかであっても限りない努力を重ねていく。成果が少ないことに甘んじるわけではありませんが、少なさに耐える気持ちが大切だと考えてきました。」

この逆に小さな努力で大きな成果を出そうとするのは、誤っていることはすぐにわかります。それが強いからこそ、できないことを自他に求め、不平不満ばかりを並べては自他を責めて矢印を向け言い訳や文句ばかりを並べてしまうのです。本来は「その成果までのプロセスの努力の価値」が重要であって、それを根気よく継続すれば必ずいつかは成果に辿りつくと信じて日々に精進していくことがもっとも全体にとって価値があるのです。

また同様の話に将棋の羽生善治氏がNHKのプロフェッショナル 仕事の流儀の番組で「プロフェッショナルとはどういう人だと思いますか?」という質問に対して「細かいこと、それをたとえば一日1時間、20年間やれと言われたら大変ですよね。本当のプロフェッショナルとは、そういう努力を続けられる人だと思います」と言っておられました。

このように小さな成果のために大きな努力を惜しみなくできることが、そのままの自分を理解して完全になっていくことであり、自分の欠片ばかりを探しては完璧になろうと思い大きな成果ばかりを求めて探し続けてもそんな欠片は見つからない、もし見つかってもそんなものが本来の成果ではなかったと気づく日が来るのです。

むしろ人はみんな何かしらの欠点があった方がいい、その方が魅力が引き出されていきます。全部悪いところを取り除けば、何の欠点のない人になるのかもしれませんがそれは同時に何も面白くもない人になってしまいます。マジメなのはいいことですが、完璧になることがいいことではないのです。

欠点があるからこそ、仲間にカバーしてもらう。自分にできないからこそ、みんなで力を合わせて乗り越えていく。まさに欠点のままでいい、自分のままでいいという居場所がその人の魅力や持ち味を引き出していくのです。

完璧主義の罠に嵌れば苦しいだけです。コツコツ努力することは自分でできるのならそれだけは続け、自分にできないことは人の助力を受ける努力をすればいいのです。

本来目指している、子どもの憧れる会社、そういう生き方のために自分自身の刷り込みを見つめ直して改善して同様に苦しむ人たちのために貢献していきたいと思います。

共感のやさしさ

人間は、時として一人では乗り越えることができないような困難や葛藤に出会うことがあります。不安や恐怖から、誰かに支えて貰わないと前に進むことができないようなこともあります。そういう時に、心に寄り添ってくれる人や、心の支えになってくれる人が救いになって様々な壁を乗り越えることができることもあります。

見守るということもまた、相手の心に寄り添うことで実現するものです。

しかしこの寄り添うと思いながら頭で寄り添ったつもりになっていて考えているだけで心は着いてきていないこともあるように思います。相手のことを考えていることが思いやりではなく、心を寄り添い、心で近づき、心で共感し、心から相手の心を自分に同一化するほどに受容することができてはじめて寄り添っているとも言えます。

人間は頭でなんとなくきっとこうだろうと思い込んで頭で考えて行動しても心は着いてこないことがほとんどです。頭で考えることは共感とは異なります。共感は例えば、相手が痛い思いをしていたら自分も痛いと感じる心、また相手が悲しみで泣いていたら一緒に泣いているような心、相手が自分と同化するほどに気持ちが伝わり感応するのです。

よくカウンセラーなどが共感してのちにアドバイスをしますが、もしもその人が頭で計算しながらやっているのならその場しのぎの対応になるだけでその人の人生を一緒に乗り越えるほどの支えにはなりません。共感しながらも自分の人生体験から励まし勇気を与え信じ見守るという過程は、真心の行動が伴わなければならないのです。

頭で考えることと真心は異なります。相手の苦しみに寄り添う時間や、相手の困難に共感する時間、すべてはじっくりと心が寄り添うために自分から心を寄せていく「共感のやさしさ」が必要なのです。

この「共感のやさしさ」を磨き続ける人こそ真心の人であり、そのやさしさが具体的な行動になり具体的なアドバイスになり具体的な見守りの環境を創造するのです。

慣れてしまい共感から入るのを怠らないように常に自戒し、心を用いてどのような人へも接していきたいと思います。共感のやさしさを失わないように丁寧に心を寄せていく工夫を行っていきたいと思います。

 

克服

人間には恐怖心というものがあります。どれが怖いかは人によって異なります。例えば、飛行機が怖いという人、蜘蛛が怖いという人、幽霊が怖いという人、病院が怖いという人、それぞれに怖いという感覚は異なります。本人が怖いと思っていても、周りはどうにもなかったりしますから意思疎通が取りにくくなかなか大変なものです。

この怖いという感覚が身に着くのは、先天性のものもあるのでしょうが、幼少期や過去のトラウマ体験であったり、もしくは何かを見知りしたことを怖いと決めつけていたりします。怖いと思っているからこそ、マイナスしか見えず、不安からその怖さが何十倍にも増幅します。怖いという感覚がすべての器官を鋭敏にしてしまうように思います。

この怖いという感覚は、命を守るための危険予測でもあり経験値から本能でそれを避けるようにできているとも言えます。自然災害の畏怖などはまさにこの危険予測であり、自然の怖さを知っている人は災害時に助かる確率が高くなります。このように自然の畏怖を忘れないことは命を守るために大切なものです。

しかし、恐怖を克服しなくてはならないような時、どうしてもそこを避けては通れないようなときは私たちはその恐怖に立ち向かう必要があります。例えば、病気や怪我のリハビリであったり、夢や目標の実現のためであったり、自分が成長していくためには避けては通れない体験であったり、その時はこの恐怖の克服が必要です。

実際には、恐怖の克服は何度も何度も練習して恐怖を感じないように擦るしかないといいます。私自身の体験でも、怖いけれどちょっとずつ練習して怖くないと言い聞かせながら取り組んできたことが多いように思います。それに過去の記憶に頼らずに、現在だけに集中して体験を刷新し続けたようにも思います。むかしできなかったことや、昔は知らなかったことが今はできるようになり、新しいことを学んだとき、その恐怖は薄れたことが分かります。

記憶の調整や、感覚の工夫は、この薄まっていくという工夫のようにも思います。その逆に、大切な忘れたくないことや信念は濃くしていくという工夫のようにも思います。

畢竟人間は、自分自身をどう創り上げていくかという自主錬磨でありその錬磨によって削り磨き光らせたりしながら目指す理想に向かって鍛錬していくしかないのでしょう。

薄れてくれば、恐怖を乗り越えて立ち向かう勇気も沸いてきます。怖いけれどそれを超えても実現したいという信念や夢は濃くしているか。そして何度も繰り返し挑戦して恐怖を薄めているか、常に正対しながら今を生き切っていきたいと思います。

 

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

真心と至誠

人と人との間の関係において、人間は頭で考えることと、真心で行動することを勘違いしてしまうと本質から乖離してしまうものです。本質を守るためには考えるか真心かという二者択一ではなく、常に真心を用いながら生活しその中で考えを巡らせていくという心身統一が必要になります。

この心身統一とは、理想と現実の統一とも言ってもよく、自分の人生でどう生きるかという生き方と、同時にどのように創意工夫して初心を保つかという知恵の活用です。

剣・禅・書の達人と言われた幕末から明治の武人に山岡鉄舟がいます。この人物はまさに、その心身統一に生きた真心の人だったように思います。江戸の無血開城もこの人物無しではありえなかったことですし、明治天皇の教育指導者としてもその後に大きな影響を与えます。山岡鉄舟が遺した言葉にこういうものがあります。

「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」

意訳ですが、「心を一つにすれば真心が発動し、すべてのことはそれによってのみ成り立っていくんだよと。」つまりは、自分の心の声に従って活動することで真心のままになりそのことがすべての出来事と一体になって活動していくのだという意味です。

人は頭で考えたことを心の声だと勘違いします。我が強く自分の思い通りにしようと思うばかり、我欲から出た声も心の声と思い込んだりもします。心の声を聴くというのは、我欲に呑まれないように常に真心のままに生きる実践を行っていくということです。

例えば、「思いやり」を持ち続けることも真心の発動です。頭で考えた思いやり風や真心風ではなく、心を寄せていく思いやりや真心を実践していくことです。人間は、相手の立場に身を置き、心情に寄り添って一緒に事物に傾聴し共感し受容していくのなら、自然に心が発動していきます。心は、常に全体を捉えておりその全体の中には自他の違いがありません。

もしもあなたが私なら、私があなたならと自他一体なのです。それを維持するには、計算から入るのではなく心から思いやる澄んだ精神が必要です。心を研ぎ澄ましていくというのは、山岡鉄舟のように自分の中に雑念や妄念、我欲や計算、保身などが邪魔しないように真心で心を大きくしていく修養を行うということかもしれません。

山岡鉄舟の剣の極意にはこう記されます。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」

「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」

「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」

心胆錬磨して一体何を目指したか、真心一つ、至誠こそその初心であることが分かります。

一日一日を過ごし内省し振り返る際に、もっとも大切なのは頭で考えることよりも、どれだけ心を使ったか、どれだけ心に従ったかという日々の心身錬磨が出てくる未来を変えていくのでしょう。

真心と至誠から常に自分を使い切っていきたいと思います。

非効率な生き方

昨日、ある方から「貴社は効率優先、結果が先ではない、長いスパンで物事を進めているいい会社だ」と評価されました。その方は、長年、大企業のプロダクトデザインをなさっていた方で家電製品や商品全体のユニバーサルデザインなども手掛けておられた方です。

少し前の日本は、すぐに結果だけを優先する成果主義をとっていました。しかしこの方法はどうしても短期的な成果だけに注目されるため、長い目で観て判断されるようなことは後回しになってきたように思います。

本来の仕事の質は、長い目で観た時にどれだけの価値があるかという経年変化の中で顕現していくものです。私が取り組んでいる古民家甦生もそうですが、かつて日本の先祖たちが発明した様々な道具や商品は経年変化する中で智慧は顕現してきます。

現在は一時的に無価値のようになった古いものが増えていますが、実際には何百年もむかしから改良されてきた自然を活用する知恵に溢れているものばかりです。現在価値が下がったのは、決してその道具が悪いのではなく私たちの価値観が自然から反するものになり、自然を活かそうとするよりも、自然を管理しようという人工的なものこそが価値があるという考え方に転換されただけです。

そのうち、自然を活用することが持続可能な社會の実現において何よりも重要だと気づけば日本人の先祖の生み出した道具や仕組みに回帰していくはずです。その時に、それが遺っていなかった、すべて失われたでは取り返しがつかないのです。

人間の価値観というのは時代時代で変化します。しかし本質や本流は変わることはありません。その中で短期的に流行があってある価値観が横行して飲み込んだとしても、自然がバランスを取るように必ず揺り戻しがあるのです。地球も暑くなれば、次は冷えるというようにそれが激しくなれば激しく揺り戻します。

価値観も同様に時間の経過とともに揺れ戻していきます。その際にどこに回帰するのか、どこを原点として間をとっておくのか、それは常に私たちは自分たちでバランスを掴んでいる必要があるのです。そのバランスを掴むためにも、本質を深め続けていく必要があります。物事の本質を深めていけば、自ずから原点回帰していくからです。

私たちは理念や初心があり、本質的に何をすることがもっとも子どものためになるのか、子孫のためになるのかを考えています。そこから、何を優先することが本質なのかと考えるようにしています。

質を高めるというのは、本質を極めるということです。

だからこそプロセスを大切にし、そのプロセスの中で出てきた問に対して改善を続けてそれを味わいながら成長していこうとしています。まさに非効率な生き方ですが、本質を守る生き方が人類や世界に必要になるときが来るはずです。

いつになったらという思いもありますが、粛々と初心の振り返りと脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。

 

自然体験

人間は体験することによって、様々なことを知ることができます。その体験が基盤になり、その後の人生の判断基準を定めていくこともできます。体験の価値は、あまり重要視されませんが実際には何よりも優先する人間育成の智慧です。

例えば、むかしはまだ物が少なく自然環境が豊かなときの幼い頃の体験は現在よりも豊かであったことが分かります。物がなかったけれど、そこには自然がありないものを探さずにあるものから私たちは様々な遊びを発明したり開発しました。同時に、身近には自然そのものの道理に囲まれ子どもたちもたくさんいてお互いに人間関係の摂理や天地自然の法理なども遊びを通して伝承されていきました。

今では、自然環境が少なくなり人工的な環境や物などは増えましたがあるものだけでなければできないとし、遊びも固定化されていきました。子どもは少なくなり、大人と子どもの関係ばかりが強くなり遊びも伝承されなくなってきました。

このようにむかしと今では、私たちの環境は大幅に変わってきています。私たちの人生は、すべて体験によって学びますからどのような貴重な体験をしたかで学ぶ質量も変化してきます。その体験の中でももっとも貴重なものが自然と遊んだ体験であろうと私は思います。教育が人が人に教えることが常識になってしまった昨今において、この自然が人を教えるということの意味もまた失われてきたように思います。幼少期の自然体験は、人の人たるものを教えます。それは風土が人を創り、風土が人を育てることこそが人類本来の学び方であるからです。

本質的な体験とは何か、それは自然から学ぶということです。

最後にフランスのヴォルテールの言葉で締めくくります。

「自然は常に教育よりも一層大きな力を持っている」

何が自然であるか、何が体験であるか、何が教育であるか、子どもたちの環境を考えて深め直していきたいと思います。

 

信念を貫くということ

人間の一生は短いものです。その短い一生の中でできることとできないことがあるように思います。例えば、すぐにできることは自分一代で得られることばかりですがもしも何代か先の子孫のためにとなればできないことが増えていきます。

この時間軸というものは、その人がどれくらい長い目で物事を考えて行動するかにかかっています。一見、無駄なことをと思えるものでも信念で取り組む人や自分が決めたことをやり遂げる人には周りの評価は気にならないのかもしれません。

そういう人たちの功績というものは、その方の没後に燦然と輝いてくるものです。今でも私たちが身近に触れることができる伝統や文化を通して私たちはその価値を享受することができています。今、私たちが恩恵を受けることのほとんどは最初にそれをはじめた人がいたからです。そしてその人の人生では周囲に認められなくても、その人が信念で切り拓いた道の延長線上で私たちは仕合せや豊かさをいつまでもいただくことができるのです。

今、名が遺る歴史の偉人たちはみなそうやって自分一代だけに囚われず本来の自己の使命を追求し、精進をして何よりも信念に生きた人だったように思います。

しかし実際には、人間は信念を維持することが難しいものです。自分一代の栄耀栄華に囚われ、他と比較して贅沢や裕福になりたいと願い、周りが持っているものはもってたい、周囲に評価されたい、安定して安心できる日々を手に入れたいと、様々な欲求を優先して信念が消失していきます。求める力もまた同時に減退してきて、生活に流されているうちにその生涯を終えることがほとんどのように思います。

そもそも物事の本質や天命や使命は変わることはなく不易です。しかし、時代の流れの中で恵まれた生活を送りたいと誰しもが思うものです。楽をしたい、安定したいと思うこともまた、人間の願望でそれ自体は自然なことです。大切なのは、どれくらい長い目で取り組んでいくことか、どれだけ真実に忠実に取り組むかということが、その物事の本当の価値を定めるように思います。

本流を貫き、本質を維持する、つまりは不易というものは自分の信念に従うことと深い関係があります。そして流行とは、時代の中で変化していく価値に対して本来の価値を守り続けるために自分の方が本質で居続けるための精進を続けていくことです。

温故知新は、新しい時代の流れの中にいて本来の初心を変えずに忘れずに取り組み続ける信念ののことです。変えないためには、変わり続ける必要がある。その日々に真実を求め続けて学び抜く本物の学力が求められます。

物事をそこまで本気で追求しようとする求める心は、自分の天命や使命に生きたいという信念と共に育ちます。信念に助けられ、没後でもいいと思えるような諦観を持ちたいものです。

引き続き、誰がどう言おうが他人からどのように評価されようが自分の中の信念とかんながらの道を達していけるように精進していきたいと思います。

聴く姿勢

人間は、無敵の時と敵だらけになるときがあるように思います。敵だらけになるときは、総じて誰の話にも耳を傾けず独善的に自分が正しくて周りが間違っていると思い込んでいるものです。その時は、一番身近にいる親しい人や、自分のことを心配してくださっている友人にまで敵だと思い込んでしまったりするものです。

では無敵であるとはどういうことか、それはこの反対に人の話に耳を傾けるという時です。人は、話を聴いている状態の時は自分の間違いに素直に気づくことができ、人のアドバイスや忠告を謙虚に受け止め周りの人たちのことが仲間になります。仲間になれば敵はいませんから無敵となるのです。

人間は、話を聴けるかどうかが何よりも自分の状態を確認できる物差しです。大体、人は自分にとって都合の良い話や自分が聞きたい話を探し求めているものです。その逆に、耳の痛い話や聞きたくない話は耳を閉じていたり避けたり、無視したりと耳を傾けることはありません。

この耳は、聴くと書いているように心に直結しています。自分の心が聴きたくないことは耳を閉じればいいのです。耳を閉じるというのは、話を聴かなくなればいいのです。しかしこの時、心を閉じてしまうから周りは敵に見えてしまうのであり心を開いていれば周りは仲間に見えるのです。

思い込みが強ければ強いほど、相手のことを先に決めつけてしまい話を聴くことはありません。確かに正しいか正しくないか、自分にとって有利か不利かはありますが本来は相手の言い分にも「一理ある」と聴くことこそが自分によって有利でありそしてもっとも正しいことに近づくことになります。

この「一理ある」という聴き方は、自分だけではなく相手のことを認めているという行為です。相手を認めず自分の思い込みだけを押し付けてしまえば相手は自分が尊重されなかったと感じてしまい信頼関係が崩れてしまいます。人間は、見た目が同じようでもそれぞれに個性が異なり持ち味を活かし合う生き物ですからお互いを尊重しあい信頼関係を築くことで協力して生き延びる戦略を発揮して社會を形成してきた生き物です。

だからこそその基本(ベース)には、「聴く姿勢」を持つ必要があるのです。素直さや謙虚さは自分の「聴く姿勢」に顕れます。自分から「きっと大切なことを教えてくださっている」という姿を持ち続けて、人の話を聴く努力ができる人が将来的に人格が磨かれ徳を高めていくように思います。

子どもたちも素直に謙虚に心を開いて自分らしく生きていけるように、聴く姿勢を正していきたいと思います。