聴福人の実践

私たちは聴く仕事をしています、その聴く仕事の人を私たちは聴福人の実践と定義しています。この聴くという実践は本当に奥深く、聴く境地に達するにはいのちがけの精進が必要になります。すぐに人は聞きましたと返答しますが、その実は聴いているようで聞いていないということが多々あるものです。

「聴く」ということにおいて、高木善之氏の著書 『ありがとう』(地球村出版)に「耳の大きなおじいさん」と題するお話が紹介されています。これは私の思っている聴くということに通じていてとても参考になるのでご紹介します。

『私が子どもの頃、近所に東(あずま)さんというお宅があり、そこにおじいさんがいました。おじいさんはいつも籐椅子で揺られていました。 耳が大きく、いつもニコニコして、いつも半分寝ていました。

もとは父と同じ病院の歯医者さんでしたが、数年前に定年退職しましたので六十五歳くらいです。いまなら六十五歳は高齢ではありませんが、「村の船頭さん」の歌詞にも「ことし六十のおじいさん」とあるくらいですから、当時は六十五といえば、近所でもっとも高齢でした。

この「耳の大きなおじいさん」は、「悩み事、相談事をするととても楽になり、解決が見つかる」 ということで評判で、近所の人はもちろん、遠くからも人がやって来ました。

私は、小さな子どもだったので実際に相談したわけではありませんが、人の話によると、おじいさんは、どんな話も黙って聴くのだそうです。

相手が笑うと、おじいさんも微笑んでくれるのだそうです。 相手が泣くと、おじいさんも涙を流してくれるのだそうです。

相手が黙り込むと、おじいさんはやさしい目で見つめて黙って待ってくれるそうです。

そして、相手が立ち上がると、抱きしめてくれるそうです。そして玄関まで送ってくれて、相手が見えなくなるまで手を振ってくれるそうです。

相談に来た者は、最後にはみんな涙を流して「ありがとう!ありがとう!」 と感謝して帰っていくそうです。

「耳の大きなおじいさん」はどんな悩み事も、受け止めてくれるのだそうです。

あとになって私は、父親にこのことを聞くと、

「あのおじいさんはね、耳が聞こえなかったんだよ」 と衝撃的なことを話してくれました。

「えっ!どうして!どうして耳の聞こえない人が相談を解決できたの?」 と聞くと、父は

「さあ、わからないけれど・・・きっと愛だったんだろうね」 と言いました。

そして父は、 「ボケ(認知症)がかなり進んでいた」と付け加えました。

耳が聞こえないおじいさん、認知症のおじいさん、 相手の話も聞こえない、相手の話も理解できないおじいさんが、 多くの人の相談事や悩み事を解決したということ。

そのおじいさんを思い出すと、いつもニコニコしている笑顔が浮かんできます。

相談者は、

黙って聴いてくれること、

うなずいてくれること、

共に喜んでくれること、

共に悲しんでくれること、

それを一番に求めているのです。』

人間は、自分自身を信じられなくなる時、心情が揺さぶられます。そのとき、「うん、うん」と心を寄り添って、きっと深い意味があると丸ごと信じて聴いている存在に、自分自身が救われ信じる力を取り戻していくものです。

様々な人生の困難があるとき、その困難を解決することが大事なのではなくその困難の意味を学び、その体験を周りの人たちのために活かすことが何よりも大切なのです。

それが人の本質であり、それが人生の意味であり、人間は助け合うことで信じる仕合せと幸福を実感するようになっているのです。

聴くということは、話すことよりも重要です。如何に、相手にとっての善い聴き手になるか、話し上手よりも聴き上手という諺もありますが聴き手の力によって相手はもっと成長し、さらに学びを深めていくだけではなく自信と誇りを持ったり、勇気や元気を出したり、自分のやっていることの背中を押されたり反省したりすることもできるのです。

聴き手の力はどのように磨かれるか、それは「省みること」によって行われ、「信じること」によって高まります。自分の真心はどうだったか、相手のことを丸ごと信じたか、そしてご縁を一期一会にしたか、その場数によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。

現場実践による聴福人の生き方とは、その場数を高めて精進することで本物になります。引き続き、子どもたちのためにも聴くことが徳であり、徳こそが人であるという背中を遺していきたいと思います。

聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

「ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

「うん」

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

(いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

「肥料」

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

急がず味わう

先日、離れのお風呂の流し台を古い手桶や箪笥などを組み合わせて改造してつくりました。最後の仕上げには柿渋を塗って復古創新された美しい流し台になりました。

現代は、なんでも物は大量に安くつくられますから修理ということがほとんどなくなっています。少し壊れればすぐに買い替えられ、壊れていないのに古くなったからと捨てられます。

少し昔に遡れば、古民具や骨董の道具などは何十年も何百年も長く何代も使われたものでした。それも今の時代は、古いからと捨てられどんどん新しいものに変わってきています。

昔の素材は長く持つように時間をかけてつくり、素材も長く生きるものを用いました。現代は化学が進歩し、プラスチックをはじめ様々な化学素材ができ長持ちはしなくても便利にすぐに使えるものを生み出しました。

そのことから古いものを時間を待って修理するよりも、新しいものをさっさと買って来た方がいいという価値観になっています。このどれもが「時間を急ぐ」ことによって行われます。

スピードが上がっていけば上がっていくほど私たちは時間を無駄にしているという感覚になっていきます。一分一秒を惜しんでというのは、目標に早く達するためにということがあります。しかし一見、急ぐことは時間を無駄にしていないように観えますがその実はとても時間を無駄にしているとも言えます。

かけがえのない時間、少しでも寿命を伸ばしていこうとする価値観は急ぐのではなく味わうのです。例えば、早く急いで食べて次のものを食べようとしていたら食べているものの味などよくわかりません。大量に食材があってそれをすべて平らげようとしたらそうなりますが、それが果たしてもったいないことなのかと思います。

ひとつのものでも丁寧にじっくりと関わり、ゆっくりと食べていたら味わい深い時間を過ごせます。そこまで手にかけてきたすべて、周囲の御蔭様の感謝、心が満たされながら体も満たされます。

同様にものづくりも、時間をかけて材料を集めて構想をしっかりと練って、丁寧に手作業でつくっていくこと。この時間をかけたことが仕合せであり、そうやってできたものは魂を分け与えた気持ちになります。

古い道具たちはみんな、そういう時間を主人たちと共に過ごしてきた大切なパートナーたちです。新たなパートナーとのかかわりもまた、急ぐのではなくじっくりと味わい創り上げていきたいものです。

引き続き古民家甦生を通して生き方を改善していきたいと思います。

自然治癒の根源

坐骨神経痛になった御蔭で、自然治癒のことを学び直す機会が増えています。医と農は私の生涯の学習テーマであり、自然に照らして自己を内観することでさらに道が深まり楽しみも増していきます。

昨日は、「自助」ということについて考える機会がありました。本来、人間をはじめいのちのあるすべての生き物は偉大な恩恵を宇宙や地球からいただいて生活を営んでいくことができます。

当たり前のことですが、自然の中に空気も水も光もあり、さらに地球には重力というものがあり私たちはその存在によって活かされています。この活かされているもの、それが自然治癒の根源とも言えます。この自然治癒の根源の力が常日頃から発揮されて私たちは生きています。

その活かされている力は、例えば重力であればそのことによって筋力も骨力も高まっていきます。他にも空気や水であれば、美しい森の森林浴のように私たちは心身を癒され安らいでいきます。

当たり前すぎて忘れてしまうものですが、私たちの体は自然の一部です。自然の一部だからこそ自然治癒をする。その自然治癒を邪魔するものが何か、それが人間の意識であろうとも思うのです。

自然治癒を邪魔するものは、不自然なもののことです。例えば、昔の人たちはよく自然の中で歩き、歩くことで心身を循環し鍛錬し健康を維持していました。今では車社会になり、ほとんど歩くことも亡くなってきています。道路は舗装され、かつてのような弾力のある土や砂利、草の上を歩くこともありません。

不自然な生活を積み重ねることで生活習慣病になり、様々な問題が発生してきます。それを一時的な対処療法で治してしまうと自然治癒がより働かなくなることにもなります。

自然治癒の特徴は、じっくりとゆっくりと治していくというものです。即席栽培のようにいきなり育たせるのではなく、自然栽培のようにじっくりと周りの環境に適応しながら治していきます。

私たちが生活習慣病になるもの時間をかけて行われるように、同時に生活習慣病が治癒して本来の自然な姿に原点回帰していくのもまた時間がかかります。その際に、何が不自然なのかを見極め、その不自然な暮らしを少しずつ改善していくことで自然治癒に向かっていきます。

自然をよく観察していけば、何が不自然で何が自然であったかを学び直すものです。もっとも危険なことは、不自然なことが常識になってしまうことと、不自然であることに気づくことがなくなってしまうことかもしれません。

自分の不自然に気づくために病気もあり、活かされていることを忘れていることで不安も葛藤も起きてきます。これは実は自然なことかもしれません。人間が自然の一部であることを忘れることから問題が生まれ、その問題に気づくために病気がある。病気とは天の声であり、その病気はすべて治癒のはじまりなのです。

自然治癒の根源に気づくことこそが、自然治癒の極意なのかもしれません。

見守られていると感じながら病を得ることは、病があることに感謝する生き方です。この病が自然から離れないように心が自分自身を助けてくださっているのかもしれません。自然に見守られる中で如何に自立するか、これはすべての生き物のいのちの命題です。

子どもたちに不自然な道を残していかないように、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。

 

運を拓く

先日、郷里のある方から古民家甦生の取り組みで嬉しいお知らせをいただきました。地道な取り組みが一部の方々に知らず知らずに認められて応援してくださっていますよという内容でした。私たちは地道に自分たちの信じたことを継続するだけですが、まわりまわって地域の方々に伝わり応援していただけるのは本当に嬉しいものです。

先日からやなせたかしさんの言葉を紹介していますが、「運」と「継続する」ということについて語られていたものがあります。

『運をつかむには、自分のやりたいことをずっと継続して、やめないことだ。「継続は力なり」という。同時に「継続は運」なのだ。』

この運とは何か、それは道のことだと私は思います。道をやめないからこそ運がある、そう考えるともっとも大切なことは「道の実践を継続する」ということであろうと私は思います。やなせさんは、継続の人でした。どんな状況になっても、周りからどんな批判や批評、諦めそうな出来事があるときでさえ、継続をした方でした。

『「運がよけりゃ」と、棚の下でぼた餅が落ちてくるのを待っていても、そんな好都合なことは起こらない。自分でぼた餅をつくってこそ、類は友を呼ぶではないが、いろんな餅が寄ってくるのだと思う。自分自身も、世に出なくとも、代表作がなかなか描けなくても、黙々と漫画を描き続けてきた。アンパンマンはそうした長い歳月から生まれた「運」だったのだ。』

アンパンマンがヒットしたのは70歳を過ぎてから、それまでの継続が実を結んだといいます。

代表作をつくりたい。漫画家としてのアイデンティティを持ちたい。そんな長い間の願いがかない、アンパンマンの人気が高くなったのは、なんと七十代に入る直前、六十九歳のときだった。遅咲きも遅咲き。よく「大器晩成」とおだてられるが、いやいや、「小器晩成」の典型だ。でも、大器でも小器でも、いいじゃないか。せっかく生まれてきたのだ。絶望するなんてもったいない。なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。

『「継続は力なり」というが、あきらめないでひとつのことを思いを込めてやり続けていると、ちゃんと席が空いて、出番がやってくるものなのだ。』

だからこそこう言います。

『運は自分で拓くもの 運は自分が呼び込むものつまり、運は天が定めたものではなく、自力で動かすものなのです。』

運は継続によってはじめて拓かれる、そう考えれば継続とは運を自分で動かす大切な実践ということです。誰がどういおうと、どんなことになろうと、自分が信じた初心を貫くことで運ははじめて拓けるものです。

引き続き、子ども第一義の理念と一緒に歩んでいきたいと思います。

 

 

本当の希望

アニメの「それいけ!アンパンマン」の作者で有名な「やなせたかし」さんがいます。幼児教育や子どもに関わる仕事をしていれば、アンパンマンは子どもたちの身近にある存在です。そのアンパンマンの作者がどのような人生を送られた人物であるかを知っている人は少ないように思います。

この「やなせたかし」さんは、自分でも遅咲きであるといい70歳になるまで代表作というものもなくヒットすることもなくずっと漫画を描き続けた方だといいます。そのやなせさんの遺した言葉は平易に語られていますがその質はとても重く、ご自身の深い人生観が宿っているように感じ私たちをアンパンマンのように励ましてくれます。

病歴をみても腎臓結石、白内障、冠動脈の手術、すい臓炎、胆のう脾臓切除にヘルニアの手術も。さらには緑内障手術、重度の腸閉塞、肺炎、心臓病、さらには糖尿病を発症、そして2005年は腎臓がんと診断され左腎を摘出、手術後も転移が見つかり86歳から2年間で10回のオペを受けたともいいます。94歳になっても最期まで現役を続けられた人物です。

「僕は、この“らしく”という言葉が好きじゃない。“らしく”というのは、そのものにふさわしい特質を備えているかどうか、ってことでしょうが、人間、人それぞれなのですから、別に“らしく”ある必要はないと思うのです。この延長線上にあるのが『老人は老人らしく』であり、『もう、いい年なんだから、そんな無茶はやめなさい』ということになります。これがどうにも僕には腑に落ちない。“いい年をして”という世間の常識は、高齢者の元気を奪い、枷をはめているようにしか思えないからです。せっかく面白そうなことが目の前にあるというのに、『もう年だから、みっともない』と尻込みする人がいますが、僕からいわせると、本当にもったいない。『この年だからこそ、やりたいものはどんどんやってみましょう』。こういきたいものです。老いはクヨクヨする時期ではありません。老いてこそ、何かをやって、ワクワクする。自由に生きることができる季節の到来なのです」

誰かの評価を意識して誰かから言われたことを鵜呑みにして自分自身で生きるらしさを手放し、誰かの言うらしさに囚われて生きていくのはまっぴらごめんということでしょうか、晩年はチャイドルをもじって自分をオイドルと呼んでいたそうです。

自分の人生だから、自分の納得いくようにやりたいことをやって一生を終えるという気概が独立自尊の自分を磨いていくように思います。

私が今、励まし励まされ、またみんなを励ますために紹介するのはこの言葉です。

『絶望の隣は希望です』

その言葉に関するこのような詩を遺しています。

『絶望の隣に

だれかがそっと腰かけた

絶望はとなりのひとにきいた

「あなたはいったいだれですか」

となりのひとはほほえんだ

「私の名前は希望です」』

人生の中で実体験から学んだことを表現し続け、多くの人々をアンパンマンのように励ましたやなせさんは、死してなお人々を励ましています。

「生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです」

「夢も希望もない世の中だけど、生きていりゃ良かったと思えることがあるかもよ
あるかもよ としか言いようがないけど もうちょっとだけ我慢して生きてみて」

「一日一日は楽しい方がいい。たとえ十種の病気持ちでも運は天に任せて、できる限りお洒落もして、この人生を楽しみたい」

「なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。
人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。」

今はたとえ、希望の光が観えないようなことがあったとしても必ずすぐ隣まで光は来ています。諦めず時をじっと堪えて待っていれば、日々、その日だけを乗り越えていけば必ず光が観えてくるはずです。

「幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」

もうすぐ隣まで来ていると信じて、自分がそれに早く気づいてあげることができるようにないものや失ったものを見ず、あるものやいただいたものを観ていけるよう祈っています。

子どもたちのためにも、本当の希望を与える存在でありたいと思います。

幸福の本質

先日から坐骨神経痛になり、急に歩くことができなくなりました。寒くなってくると、筋肉が収縮し今までと異なる場所に力が入りすぎるようになり全体のバランスが崩れることで神経を損傷することがあるといいます。

改めて歩けなくなると、日ごろ当たり前にできていることが如何に有難いことか気づきます。ちょうど自宅を掃除する機会だと思い、整理整頓していると以前神社で見かけた「生命の言葉」という紙が出てきました。そこには「それいけ!アンパンマン」の作者のやなせたかしさんの言葉が紹介されていました。

「健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」(明日をひらく言葉 PHP文庫)と書かれます。

そして表紙には「ごくありふれた日常のなかに、さりげなく、ひっそりと、幸福はかくれています」と、これはとても含蓄があり深い味わいのある言葉だと思います。

私たちはみんな誰にしろ幸福というものは隠れています。生きているだけで、ありとあらゆるものに恵まれ私たちは日々の暮らしを営んでいます。この体も五感も心も、すべては天からのものであり、さらに広げればこの空気も太陽も水も宇宙もすべて私たちは存在そのものに活かされます。

幸福ばかりをもとめて足るを知らず、恩恵を省みず当たり前のことのように感じていれば幸福は逃げていくばかりです。幸福は、気づかないところ、隠れているところ、ひっそりとしているところ、そこを見つけてほしいと待っているように思います。

つまり幸福の本質とは、足るを知ることにありいただいている恩恵を見つける心にあるとも言えます。

当たり前のことの中にある幸福に気づかせてくださるように、天はありとあらゆる機会を私たちにあたえてくださいます。そう考えれば、この機会もまた恩恵であり気づくことで幸福感を味わえます。あたりまえができなくなることは決して不幸なのではなく、当たり前に気づけることが幸福だと実感できる自分でありたいものです。

子どもたちに見せる背中として、そういう幸福の姿を譲り遺していきたいと思います。

立志

人間は一生の中でもっとも大切なものを持つのに「志」というものがあります。これは生き方のことで、生まれてきた以上どのような生き方をするかと決心するようなことです。

よく夢と志を混同されていますが、夢は願望のようなものであり志は信念であるとも言えます。同じ夢を観るにしても、志があるのとないのではその夢は野心や野望にもなります。しかしひとたび志が立つのならその夢は、自分の欲を超越した公のものになっていきます。

ちょうど昨日、テレビのドラマで「陸王」という番組が放映されていました。その中で足袋会社の社長が、1億円の借金をしてでも新しいシューズを開発するかどうかの岐路に立たされます。その中で、周りの人たちからどうするのかを尋ねられます。その際、社長の「できるならば、、」という言葉に、その程度なのかと周囲は幻滅して一人二人とその人から離れていきます。

人は誰かと何かをやろうとする時、どこまで本気かどうか、そこまでしてでもやるかどうかを確認するものです。それは自分のいのちを懸けるだけのものがあるか、自分の人生を懸けるだけのものがあるのかを確認するからです。

結局は、生き方や人生を迫られるとき人は悔いのない選択をしたときにこそ志が試され、その覚悟を決めた時に志が立つのです。

以前、大河ドラマの中で「あなたの志は何ですか?」と吉田松陰が弟子たちに問いかけるシーンがあります。これは、あなたの覚悟は何ですかとも言い換えることができます。

そこで先ほどのように「できることならば、、」というくらいでは、それはまだ立っていないといえます。私はこれを何がなんでも実現する、そしてそれが世界人類、またはすべての存在に対して貢献することを信じるというものがでた時、その人の志が立つと思います。

その志は、事あるごとに試されます。つまりどこまで本気なのかと、果たして全身全霊だったかと、自分自身に迫ってくるものです。できればいいかなくらいの気持ちは、本気の勝負の時にその人自身が自滅する原因になります。だからこそ周囲は、その人がそうならないように本気を試し確認してくるのです。

孟子に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」があります。

これは志を立てるために天が敢えて試練を与えるということでもあります。

天理は不思議で、何を拠所にして何を中心に自分を立てるかが決まらない限り手助けが借りられない仕組みがあるように思います。いつまでも自分ばかりを握って自分の個人のことに執着し固執していたら志は倒れるばかりです。

子どもたちのためにも、立志を磨き続け悔いのない人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

聴き上手

諺に「話し上手聞き上手」というものがあります。これは話の上手な人は人の話を聴くのも上手だという意味です。この反対に「話し上手の聞き下手」もありますが、これは自分の話にばかり夢中になり相手の話を聞かないで一方的に話をするという意味です。

さらに「話し上手よりは聴き上手」というものもあり 、これは話し上手を目指すよりも聴き上手になった方がいいという意味です。

この聴き上手とは何か、少し掘り下げてみようと思います。

そもそも人の話を聴くというのは、単に言っていることを頭で理解すればいいわけではありません。それはどんな意味で言っているのか、そこにはどんな深さがあるのか、そして自分の中でそれはこう受け取っていいものかと、相手の話を聴きながら本当に聴いているのは自己との対話です。

この自己との対話は、相手を中心にして自分はこれを聴いて何を感じたか、何に気づいたかと常に自問自答しながら深めていきます。そのうえで、相手が言わんとしてくださっていることを天の声ように謙虚に受け止め、これはこのような意味ですか?それはこれで間違っていないかと素直に確認していくこと。それが聴くという行為であります。

この聴くという行為とは逆にもったいないことをしているのは、自分の思い込みで単に聞いているだけということになります。これは読んでいるものもそうです。本当にその意味なのかが深まっていないものをその時の「自分の思い込みのみで解釈」して話をちゃんと聞こうとはしない。そういう素直ではない姿勢では、周囲はその人に話をすることも次第にやめてしまいます。話し上手よりも聴き上手というものは、ちゃんと人の話を素直に聴く方が話ばかり上手くても人は離れてしまうという意味もあると私は思います。何のために話すのか、何のために聴くのか、それが人間にとって必要なことだからです。

さらに素直に聴く力というものは、ただ黙って相手の言う通りのことに従順に従えばいいというものではありません。素直に聴く力は、相手を深く尊敬し相手が言っている言葉の真意を自分自身の真実や本質から深く掘り下げて、相手の言っている言葉以上の価値を相手に敬意をもって確認することです。その際、ひょっとすると自分の方がその意味が深まっているのなら相手のいう事が如何に素晴らしいかも気づく自分がありますからそれを称賛し共に深めていくくらいの人こそが聴き上手といわれるのです。

よく学んでいる人や、物事の本質を深めている人、体験を内省し自分を磨いている人は聴き上手です。なぜなら、その人が聴けば自然に相手のいいところが引き出され、その人の智慧も活かされ、まるでどんなにくすんだ物体もその人の前に立てば澄み切った鏡のようにすべてを明瞭に写し出すことができるからです。

素直な人は、思い込みで人の話を聴くことはありません。さらには自分勝手な解釈で他人の親切を棒にふるようなこともありません。話を聴くという心の態度は、相手の真意を確かめて自分自身の至らなさを恥じる謙虚さがあってはじめて醸成されていくように思います。それが相手の立場を思いやる徳になり、聴いたことで福にする力になっていくと私は思います。

善い聴福人を目指して、本質を確かめ意味を深め学問を究め、徳を磨いていきたいと思います。

 

用力

能力主義という考え方があります。これは1970年代から80年代にかけて多くの日本企業で取り入れられた賃金制度に関する考え方で、その人が保有する能力を反映して賃金を決定したものです。同時に成果主義というものもうまれ、その人が出した成果に対して報酬を支払うという考え方です。

この頃から、人は評価によって有能か無能かと分別を意識するようになったように思います。今でも社会全体の中には、有能な人ばかりが出世し、無能な人は切り捨てられるとし、派遣を中心に能力で人が移動するという仕組みで人材も動いています。そしてもっとも価値があると教え込まれるものは、有能であること、そしてさらには万能であることが求められていきます。

この万能とはなんでもできる人のことであり、能力が高い人が世の中に必要されていると教え込まれ多種多様な資格をもっている人が重宝されるといわれています。言い換えれば、どこでも使いやすい人という意味で万能を求めていた企業があったのかもしれません。

しかしこの能力というものは少し掘り下げてみればわかりますが、そもそもそれを用いる人がいなければその能力は発揮されることはありません。いくら自分は能力が高いと周りに自慢して誇張してもそれを用いたいと思う人がいなければ社会でも組織でも嫌がられる存在になってしまいます。

能力ばかりを高めて、成果ばかりを求めて一人その能力を見せつけても気が付けば誰も自分と一緒にやってくれなくなったという話はよく聞く話です。例えば、営業会社で能力主義と成果主義を用いて競争させてトップセールスマンが出てきてその人が成果を出して能力を褒めたたえても、そのうちその人は周りとの関係が築けずに成果がでなくなれば周りが悪い、会社が悪いと、すぐに飛び出していきます。会社の中はギスギスしたものになり、居心地がわるくその能力が使えなくなればその人は会社から不必要だといわれ解雇されたりするものです。

これは能力というものを中心に人間を管理することで起きることです。個の能力だけを評価するというのは、チームや全体との連携に大きな欠陥があるのです。海外の企業では、個は独立していますから転職をしながら能力を使ってもらえるところに移動しながら働きます。しかしそれは組織の中でその能力を活かすために能力だけではなく用力も備わっているということです。

この用力の用とは何か、それは有用の用です。

有能であることばかりを優先するのではなく、その能力をどのように用に立てるかという有用さが全体と一緒に働いていくことになります。言い換えるのなら、仕事をするためだけの能力か、それとも共に働くための用力かということです。

人間は、用いる人があってはじめてその能力が活かせます。自分を使ってもらえるように周りにならなければいくら自分が有能だからとじっとしていても誰もその人を用いません。能力ばかりを磨いてきた人は、用力が足りず自分が何をしていいかわからずに孤立している人が多いです。この用力は、如何に全体のために自分を用いるか、如何にみんなのために貢献するか、如何に自分の我を優先せずにみんなの仕合せのために自分を用いていくか、そういう利他や利益を産み出せる人になるということです。

有能な人は、イコール有益な人ではありません。時として有能な人が有害な人になることがあります。これは自分の用い方を間違っているのであり、能力主義で評価されてきたことで物事を能力だけで判断する刷り込みが抜けないから無能を恐れ有害になるのです。

人の仕合せは、単に自分だけがよくなれば幸福になるのではなく、自分が周りのお役に立てば仕合せになり幸福感を味わえます。どんなことをしたとしても自分がみんなのお役に立っていると実感できるのならその人は働くことが幸福だと実感します。こうなれば有用な人になった証拠であり、みんなにとって有益な人になっているということです。

自分はこの能力があるのだといつまでもその能力に固執してその仕事にしがみ付くのではなく、みんなのために全体のためにみんなに用いてもらえるような存在になるように協働でチーム全体のために尽くすならその人は有能から有用になり有益になってみんなの仕合せを創造する人に変わります。「またあの人たちと一緒に働きたい!」といわれるような用力の人は、みんなの仕合せを創造する人たちになります。

何のために働くのか、刷り込みを取り払い掘り下げてみると人間であることの意味や本当のことが観えてくるはずです。

用力を高め、子どもたちみんなの仕合せのために働く幸せを伝道していきたいと思います。