不便を愉しむ

今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。

そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。

その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。

昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。

そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。

今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。

不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。

敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。

誠道常脚下開在

本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。

自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。

昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。

しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。

そこにはこうあります。

「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。

相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。

道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。

最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。

「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。

坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。

しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。

道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)

与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。

民具の魂

昨日、無事に自然農の御米の脱穀を行いました。今の農業では、機械で刈り取るときに同時に脱穀しますから脱穀している様子を見ることもなくなりましたが昔はずっと手作業で脱穀をしていたように思います。脱穀とは、稲の穂からお米の実をとりのぞくことを言います。

江戸時代に入り、千歯扱きという脱穀の道具が発明されました。それから大正時代に入り足ふみ脱穀機がでるまではそれが活躍していました。今では動力を使っての脱穀ですからあっという間に終えてしまいます。しかし昔の民具を使うととても時間がかかってしまいます。

不思議なのは、これだけ時間がかかっていても昔はそれでも画期的な民具として使用されていたということです。昔の手紙が電話になりメールになっているように、次第に昔のものは使われなくなっていきます。新しい発明品がでると、昔の発明品は色あせてしまいます。

昔は動力は人間のチカラだけで民具も自然に近い道具ばかりでしたが、今では動力といって電気、ガソリン、ガスを使い動かします。原子力発電などもそうですが、特殊な動力を使うことで大きな作業もできるようになりました。

しかし同時に、馬や牛、その他の家畜、また鍛冶職人や木工職人、その他の民芸職人はいなくなり今では機械で全部つくられます。

民具には時代時代の価値観が反映されているように思います。どんな民がどんな道具を創るのか、民具や民芸の中には暮らしが入ってきます。今の時代の道具にはあまり暮らしにつながっているものがなく、使い捨ての文化の中で次々と新しいものが発明されていきますが本来、新しいものだけが価値があるわけではありません。古いもののなかには、とても大切な人と人、人と動物、人と森林、人と自然、といった絆やつながりが切られていないものが残存していることに気づきます。里山もそうですが、民具はそういう暮らしの中で暮らしを壊さないようにつくられてきたとも言えます。

我が家は足踏み脱穀ですが、一家総出で協力して脱穀していると里山の懐かしい原風景が瞬時に顕れます。先祖たちはどんな暮らしをしてきたか、そしてどの暮らしを遺そうとしてきたかは民具の魂に顕れます。

古民具の持つ様々な魂に触れつつ、時代時代の暮らしを見つめてみたいと思います。

 

閒と闇

稲刈り後、稲架をし天日干しして三週間が過ぎました。稲もいい感じで乾燥し、これから脱穀に入ります。種まきから稲刈り、そして天日干しまでを通して行っていると不思議に心が安心するものです。

これは太古の昔から、私たちが食べるものを確保できた安心だけではなくそこに暮らしを感じる「間」があったからのように思います。自分たちが今まで何と一緒に暮らしてきたか、そういうものを忘れるということが何よりも残念なことであろうと思います。

文明が発展し、都会の生活ではネオンは明々朝まで照らし、食べ物は余るほど豊富にあり様々な機械や仕組みによってお金を用いてはスピードが上がり経過も結果も都合よく便利に変わってきました。しかし、その一方で「暮らし」はどんどん消え失せ、本来、人間らしいものを感じる「間」が取り除かれ忙しすぎて間抜けな状況になっているように思います。これら「間」については様々な研究がされてきて、建築から芸能まで幅広く活用されていますがその間にも定義がありますから、その間をどう定義するかで考え方も少しズレてくるようにも思います。

本来、「間」という字の語源は門構えに「日」ではなく門構えに「月」という字でした。「閒」の字は、門を閉じてもその隙間から月明かりがもれてくるという様子が漢字になったものです。

夜に一家団欒で一日を振り返り、薄暗い部屋で囲炉裏を囲み静かに物思いにふけていく。そうしていると、闇の隙間から月明かりが差し込んできて心が清らかで澄んだ光によって周りが透き通っていく様子に私はこの「閒」を深く感じます。

この閒とは、私にとっては異種異別、陰陽動静のものが一体に合間することであり、それはバラバラだったものが光と闇によって解け合うことを定義しています。今の時代は直感や本能が惚けているからこの「閒」が抜けてしまったのかもしれません。

光に呑まれ目くらましにあい、心を失い忙しい時間に自分の欲求だけを満たして一時的な安心ばかりを追い求めたら、御互いに解け合う豊かな時間もまた見失ってしまうのかもしれません。・・・ゆったりと夜の闇の中で静かに古来からの炎を見つめる。そして虫たちや風の音に耳を傾け悠久の流れを感じ瞑想してみる。・・・そこには、流れている時間が緩やかに穏かになる悠久の刻の流れがあります。

自然を感じるというのはこれらの閒をどのように刻んでいるのかを実感する心を持ち、自然と一体になった暮らしに静寂を持つことです。

いのちが静寂を失うということ、それこそが間抜けな間違いになってしまうということです。

心の静寂はすべて自然の暮らしの中に具わっています。子ども達に譲っていきたい暮らしを見つめ直していきたいと思います。

至誠無息

四書の中に「中庸」があります。そして中庸の中に「至誠」という言葉があります。この至誠とは、日本では真心と訳されます。孔子は中庸の徳は何よりも尊いといい、その後、孟子は「至誠にして動かざる者は未だ之あらざるなり」といいました。そして吉田松陰はその「至誠」を座右にし、何よりも真心の実践を学問を通して貫き通しました。

この中庸の中にある至誠とは何かということを少し自分なりに整理してみたいと思います。

中庸の中には「至誠無息」という言葉があります。これは真心は已むことがない、私の意訳だと自然界のように天地の恩恵は悠久で広大に永久に与えられているということをいうように思います。

私たちは自分で勝手に生きているように感じても、実際は無償の愛で様々な恩恵をいただいています。当たり前に生きていますが、光も水も空気も土も温度も地球も月も太陽も宇宙もその存在がなければ生きていることすらできません。人は厳しい環境に置かれる方が我欲を減らせても、満たされ過ぎる環境でも我欲が増えることを知りません。当たり前のことを当たり前にしてしまうと、感謝を忘れ自分の価値観に染まり本心を偽れば次第にいただいている真心を感じなくなりますから、「至誠無息」とは程遠くなっていきます。

本来の至誠や真心は、心が澄み渡るとき、もしくは自然と一体になるときに顕現してくるものです。それはまるでいのちそのものの姿で生きる自然界の生き物たちの心境です。西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、字は異なりますが天が自分を無償に愛してくださるように自分も人を無償に愛するというのはまさに天地一体、真心の中にいることを忘れない生き方の座右とも言えます。

中庸にはこう記されています。

「故に至誠は息むなし。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠、悠遠なれば則ち博厚、博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載せる所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆り無し。かくの如き者は見さずして章し、動かざるして変じ、為す無くして成る。」

これは自然の姿そのものです。

自然というものは、晴れては降っては吹いては時折休み、そしてまた活動します。それはどんな小さな生き物や、どんな多様ないのちであれ、必死で生き続けています。この必死で生き続けるというのは、いのちを使い切るといってもいいかもしれません。このいのちを使い切る中に真心があり、全身全霊で生き切る中にこそ至誠が息づいています。

人間はややもすると主人公であることを忘れ、自分の本心を偽り自分のいのちを使おうともせず他人に依存し、自分自身を高めて自分自身になっていくことを無意識に諦めていくように思います。社會の中に迎合しているうちに、様々な刷り込みに出会い、頭で分かったような生き方をしていると至誠が観えなくなってしまうものです。

一期一会に順縁を味わい盡す生き方をするならば、自ずから至誠無息の境地に達するのではないかと思います。そのためには、どれだけ真心を盡したかを常に三省し、真心ではない自分と向き合って自分を自分で育てていくしかありません。

子どもたちに見せる大人の背中として、この「至誠」というのは何よりも偉大な勇気を与えるものです。自然の中に入れば入るほどに、穏かな心でいのちを感じるとき、至誠は永遠であることを悟ります。

至誠を感じつつ、真心の日々を歩んでいきたいと思います。

 

自分自身の本心~本心の棲家~

人は自分自身との付き合い方が、他の人との付き合い方になるものです。どれだけ自分の本心に対して誠実であるか、そして正直であるかは周りとの信頼関係を結んでいくためにもっとも大切なことであろうと思います。

しかしこの自分自身というものをいつまでも分かろうとせず、自分を誤魔化してばかりいると自分の本心というものを見失ってしまうように思います。なぜ本心というか、それは心とは別に本物の心と書いて本心だからです。心と思っているものは実は思い違いで、本来の心は素直な自分のことです。

如何に素直になるかは、その人の自分自身との誠実な向き合い、そして感謝に根差した正直な対話によって顕れます。言い換えるなら素直でなければ本心とは出会えず、素直でなければ自分自身でもないということです。

かつて神道禅仏一体を究めた慈雲尊者が「もとよりも直ぐなる道をとやかくと思ふこころにまどわされ行く」と言いました。意訳ですが本来は素直であるものを、自分の価値観であれこれと惑うがゆえに道から逸れてしまうという意味だと私は思います。

そしてその和歌の中で私が好きなものに「心」についてこう詠まれます。

「心とも知らぬこころをいつのまに我が心とやおもひ染めけむ」

つまりは心は自らの本心を知らないうちに勝手に自分の心を別のものにしてしまうということです。それだけ人は素直でなければ己自身を知ることはなく、結局は我執や自分の頑なで狭い価値観の中で勝手気ままに良し悪しを決めつけては物事の道理や本質を見失ってしまうということでしょう。

誰しも自分の本心を見つめるならばあまり我を張らない、つまり頑張らずいつまでも頑固に自分の価値観を周りに押し付けないことです。その上で、我を立てずその我を倒して順縁変化を愉しむことで次第に自らの本来の姿、本心がどうなっているのかに気づけるようにも思います。しかしそれでもなかなか気づけないのが自分自身の本心ですから、我を張らず本質的で実践を続けているような道の信頼できる人の話を素直にちゃんと聴くことができるようになることが最初の素直の入口なのかもしれません。

そして自分の今いただいている御縁を、「自分にもっとも相応しい」と感謝できるのはその御蔭様に気づけるからです。自分が”なにものか”を己事究明するとき、自分がどれだけ見守られて御蔭様の中で生かされ今があるか、自分が偉大な恩恵によってできているかが自明してくるはずです。それを自覚とも言いますが、自分のカラダをはじめ環境や出会い、御縁すべてが有難い”なにものか”によって与えられていることに気づきます。その真心と感謝に出会うからこそ報恩といって、その御恩に報いたいと自然に願う心が本心の棲家であろうと私は思います。

慈雲尊者は、十善という自戒を立てて実践をなさっていましたがそれぞれに人は本心が観えなくならないようにそれぞれに恩送りや恩返しの日々を歩んで素直に磨きをかけて精進していく必要があるように思います。何をするにもまずはじめに理念や初心を忘れないのはまずその我執に気づけるかどうか、本来の姿に戻ってこれるかどうかのキッカケに過ぎません。そのあとは、やはり十善のような実践を積み重ねていくことで我が立ちすぎないように謙虚に学び直しを続けていくことが最善のように思います。

最後にその慈雲尊者の「十善」を紹介して終わりたいと思います。

第一 慈悲、不殺生戒

第二 高行、不偸盗戒

第三 浄潔、不邪婬戒

第四 正直、不妄語戒

第五 尊尚、不綺語戒

第六 柔順、不悪口戒

第七 交友、不両舌戒

第八 知足、不貪欲戒

第九 忍辱、不瞋恚戒

第十 正智、不邪見戒

子ども達に譲っていく生き方に照らしつつ、自分自身の心を静かに見つめて精進していきたいと思います。

自然治癒の教え~医和道~

先日、あうん健康庵の小松庵主と奥様にご来社いただき社内にて理念研修を行いました。健康法ではなく養生法ということから御話がはじまり、種(いのち)の持つ潜在能力、そして自然治癒の本質とは何かについて分かりやすく噛み砕いて教えていただきました。

そのお話はどれも実践から紐解かれたものであり、どの御話も自らが実践する中で掴み得られた智慧があり、医の持つ真意について再度深く考え直す有難い機会になりました。

最初の話の養生法とは「どのように生きるか」ということだとし、人間は人生の価値観が変わるなら自ずから生き方も変わると仰います。よく病は気からといいますが、病は気と深くつながっているということから如何に「心の持ち方を変えるか」ということが肝要であるかということを教えていただきました。

そのためには、如何に「素直に磨きをかけるか」ということが大事であると言います。その素直に磨きをかけるのは、まずは自分の遣う言葉から観直すことが大切だと仰いました。私たち人間は本来、言霊文明の生き物であるとし、その人が使う言葉は言霊であり、その音は波動であるとも言います。どんな言葉を使っているか、そこから観直すことで生き方を見つめ変えていくことから実践することが大切であることを教えていただきました。

さらに続けて呼吸のことも教えていただき、呼吸はまず吐出すこと、そして長く吐出すことが大切だとし、吐かないことは儚いに通じているので呼吸法を身に付けることもまた気や健康に深くつながっていることを教えていただきました。

一つ一つの御話をじっくりと内省しふり返るほどにその含蓄のある教えに、自分の中の「治癒」ということの本来の意味や医を学ぶ姿勢を背中を通してお伝え頂いた気がして感謝の心に満ち溢れてきます。医の奥深さを感じさせていただける機会を得られることは、今の子ども第一義の志事を進めていく上でも本当に有難い機会になりました。

最後に、もっとも小松庵主の生き方から感じたのは謙虚さです。「病はわるいものではない、病から何が気づけるかがもっとも大切なのです」という言葉には、全てのものから学び、どんなことがあっても善いものとして教えていただいているのだからと素直に受け止められるその融通無碍な自然体な姿に、自然治癒とは何かということを深く感じ入りました。

自然から学び直しをする中で、自分のカラダもまたその自然の一部ですからカラダから学ぶことは自然から学ぶことです。有難い御縁をいただき、一家がお世話になる御医者様との出会いは子どもたちに養生法を伝えていける機会になります。

御蔭様に感謝し、子ども達に御恩送りができるようにしっかりと実践を積み重ねていきたいと思います。

本当にありがとうございました。島根での再会を心から愉しみにしております。

実践と徹底~智慧の会得~

素直な人は善いと思ったことはすぐにやりますが、同時に徹底してやるというのがあります。それは善いと思えるようになるまで徹底してやりきるということです。こういうコツを掴んでいる人は、あらゆる体験や智慧が自分のものになっていくものです。知識ではなく智慧になるのは、それは体験を徹底して深めることに由るものです。

今は知識として単にいいと思うものばかりを取り入れる時代だとも言えます。ちょっとテレビや本で善いと思ったものを簡単便利に取り入れますが、それでは表面の知識をなぞっただけで智慧になることはありません。

よく古来から「カラダに沁みこませる」や、「そのものと一体になるまで」という言葉がありますが、頭で考えてわかる程度では分かった気になったとしても「ものになる」わけではなくそんな知識では他の人に伝えることもできませんし、大切な気づきを同じ高さで理解できるわけでもありません。

まさに「徹底する」ということは何よりも大切なことであろうと思います。

炭一つであってもどんな実践をはじめるにせよ、他人から「そこまでするか」と思われていても「そこまでするから」気づくこともまたあるのです。徹底という意味は、辞書をひくと、中途半端ではないこと、底まで貫くまで遣りきることという意味です。他には、すみずみまで行き届いていること、そして最後まで遣りきることと記されます。

まさに「底まで貫く」と書いて徹底ですが、もっともやってはならないのはやったりやらなかったりすることや、途中で分かった気になって深めることをやめること、実践にならなくなってしまうことのように思います。

善いと思ったことをすぐにやり、善いと思ったことを徹底してやる、まさにそれが素直であり謙虚である姿勢であるように思います。御縁は常に一期一会、善いと思う御縁をいただいたのならそれは唯一無二の人生にとっての祖神からの「大切な教え」であり篩にかけられた有難い自然の智慧です。

凡事を徹底できるように、一つ一つの実践を丁寧に貫いていきたいと思います。

習慣のメンテナンス~セルフイメージ~

人は自分のセルフイメージを確かめることで、自分の生き方を確かめることが出来ます。どのような自分を持っているか、それを知ることは今までどう生きてきたかを知る鍵でもあります。

セルフイメージを確かめるのに、自分の「癖」の確認というものがあります。これは言い換えれば自分の今までで沁み付いた習慣のことですが、どのような習慣を持って生きているかがその人の生き方でありセルフイメージでもあります。新しい自分を創っていくのも自分ですから、過去の生き方と決別し新しい自分になっていくためには生き方の転換が必要です。そのためにも自分の癖を明確に見抜き、それを捨て、新しい習慣を身に付けていくことで自分の人生イメージも変わっていくように思います。

コーチングをしていく上で、何よりも私が大切にしているのは「口癖」です。その人がどのような口癖を持っているかは、その人がどのような考え方をしているか、そしてどのような生き方をしているのかを確認することができます。

例えば、ある人は愚痴ばかりをこぼし不平不満ばかりを言う人ならセルフイメージの中になにかあると自分と他と比較して文句ばかりを言う癖があることが分かります。ないものねだりを断捨離し、あるもの探しに切り替え、新しい口癖を繰り返し言い続けることでセルフイメージを変えていきます。「これだけしかない」という口癖から、「こんなにもある」と変えて、その後は「存在が有難い」というように不足から感謝に変わっていくとき、その人のセルフイメージが変わっていくことを確認することができます。

どんな口癖を持っているかがその人の生き方ですから自分の口癖を常にチェックし、口癖を気にして口癖から自分を変えていくことがセルフイメージを変えるためにもっとも効果があるように私は思います。テニスの松岡修造さんの日めくりカレンダーがとても売れたと聞きましたが、前向きでチャレンジし、現状打破していく彼のポジティブで諦めない生き方に刺激される人が多いから共感されているように思います。

朝練で子どもたちのコーチをしていても、できることは一緒に実践することと、大事な自分の生き方を自らの口癖で示すことです。子どもたちに必要なのは「憧れ」であり、憧れる人がいることです。これを「ロールモデル」とも言います。そのロールモデルになる人は、当然口癖もまた憧れるような人であるはずです。自分自身の口癖を常にチェックし、その生き方が周りを刺激し変えていくことを忘れずに子どもたちのロールモデルになっていくようなセルフイメージを日々にメンテナンスしていきたいと思います。

 

人間の発酵~発酵人~

先日から振動数について少し深めていますが、自然界には脈動があるように人間にも同じように振動数というものがあります。これは心の周波数という言い方もすれば、魂の波長や精神の波動ともいってもいいかもしれません。

生きていると周りを仕合せに明るく元気にしていく人と、周りを不幸せにして暗くしていく人がいます。この人はなぜそうなるのかといえば、周りに振る舞っている振動数に問題があるとも言えます。

善い人、明るい人、元気な人の傍にはそういう人たちが集まっていきますがそうではない人には逆に暗くジメジメしている人たちが集まってくるものです。これは生き方が関係しているのですが、どんな生き方をしているかでその人の振動数も変わっていくのです。

齋藤一人さんは、振動数をもっとも下げてしまうものは何か、それは他人を変えようとすることと、愚痴や文句を言うことだと言います。私はそれに言い訳をすることと、マジメに正しいことばかりを口にすること、あとはオープンでない態度、すぐにやろうとしない湿っている人が振動数を下げるのではないかと思います。

逆に振動数が上がるのは、発酵しているような人たちです。何があっても福に転じて、ピンチは常にチャンスにし、自分を褒めまくり、自分を変えることを愉しみ、周りに笑顔と思いやり、ポジティブな言葉がけ、これら徳を実践する人格者はみんな発酵人でもあります。

この発酵というのは深めていけば自明しますが、振動数が大変高いものです。与えていくのを愉しみ、自分が与えられていることに感謝しつつその御恩をお返ししたいと願って生きている人たちはみんな振動数が高いものです。

そうやって自分一人の生き方が変われば、周りの人たちもブクブクシュワシュワと変わっていきます。自分の居心地がいいところもまた振動数が関係しますが、如何に清浄で風通しがよく明るく心地よい場があるかは、自分の振動数を高めるのに効果があります。

結局、人間は生き方次第ですから文句を言う前に自分の生き方をさらっと変えてしまえばすぐに振動数の周波数が変わりその周波数で安心した環境が出来上がるのです。一番気を付けたいのは、自分のいつもの振動するの手入れをこまめに行うことです。自分が腐ってしまう人や、自分がネガティブになりやすい人は、自分自身の使う言葉を変えて意識を変えていくしかありません。

意識が変わるには言葉や行動が変われば次第に変わりますから、朝練をはじめて大声で元気よく挨拶をし、爽やかな朝日を浴びて毎朝の祈り、カラダを伸ばし元気がよくなるような格言を素読し、朝食を食べ、暮らしを愉しみ、仲間と働ける仕合せを噛み締めて生きる。

こういう人には自然に運もついてくるように思います。振動数の話を聴いてから余計に、自分自身が高まる面白さを味わっています。周りに左右されず、自らの前向きで深まる学問によって人間の発酵を味わっていきたいと思います。