恩師

昨日は、一年ぶりに中学校の頃の部活の恩師に会いました。私はこの恩師の御蔭で本当に人生を変える大きな道しるべと心には宝をいただき今まで歩んでこれました。まさか25年ぶりに再会し、今の年齢になって色々とじっくりお話ができるなんて夢にも思わず人のご縁の奇跡にただただ不思議に思います。

教育という深淵に触れたのも先生があったからです。

自分の人生に正面から向き合ってくださって、その上で人間としてどう生きようかと一緒に歩んでくださったこと、そして大事な局面ではまるで自分自身に喝を入れて叱咤激励するかのように遠慮なく全身全霊で愛情をかけてくれました。

懐かしい思い出は、目を閉じ眼れば今も心の中に鮮明に残っています。

その先生から指導についてのお話を今、お聴きできるのもこのタイミングで私が大事なことを学ぼうとしているからかもしれません。不思議ですが「今必要だと渇望していたら誰かが必ず愛の手を差し伸べてくれる、いつもご縁は初志を離れない」ことも改めて実感します。

私が部生活を通して習った恩師からの戦略は、”勝つバレーではなく負けないバレー”でした。いつも試合がはじまると、相手のチームが勝っているように感じているのになぜか試合が終わったらいつも相手が負けているという戦い方です。相手の監督や選手からもいつも不思議がられていました。

これは日頃の練習こそが本番で基本、その上で如何に自分に打ち克つことが仕合いだと私たちも先生も一体になって戦ってきました。その結果として、敵は周りにはおらず自分自身であることもそこで学んだことを今でも覚えています。先生はいつも自らの実践として練習を重視し、いついかなるときも選手の姿を見守り、常にプレーを通して生き方をきめ細かく指導してくださっていました。

試合ではいつも練習を出せばいい、思い切ってやれといい、試合に負けたら先生の責任だからといい、試合に勝ったら一緒に克ったなと心から喜んでくれました。厳しい中にも深い思いやりがある優しい先生です。先生の生き方は私の人生観に於いて、多大な影響を今でも与え続けています。

最後に先生からいただいた有難い言葉がありました。

先生にも尊敬している先生がいて、その方にある質問をしたそうです。それは「私のような未熟で不完全な人間が指導しても良い人間などできないのではないか?」という質問です。それに対して先生の先生はこう答えたそうです。「世の中に完全な人間などはいない、その中でも自分で勉強して、”こんな人間であろう”としっかりと勉強しなさい。子どもは、小学生でも、中学生でも、高校生でも、自分のその顔つきとか目つきとかでちゃんと人間性が出てくるから。」と。

それを心に、生徒指導の道を歩まれてこられたそうです。まさに論語の「己達せんと欲して人を達せしむ」です。 生徒指導を30年以上勤めて様々な智慧を持つ先生はいつまでも私の先生です。

不思議なことですが今になってみて、尊敬していた先生の生き方を知り、私は深く薫陶を受けていたことを感じ、自分の志事が自分勝手なものではないことに改めて気づきます。初志に教えていただけるのはきっと自分が何を大切に歩んでいるかから離れていないからです。

これからも素直に正直に、指導の原点を学び直していきたいと思います。

素敵な誕生日プレゼントを有難うございました。

生き様

価値観が多様化する時代、それは言い換えれば生き方が増える時代とも言えます。その人がどのような生き方をするかは、その人が新しい価値観を創造するということでもあります。

生き方がブレナイ人というのは、自分を持っている人のことです。人の価値観を否定するわけでもなく迎合するのではなく、自分の生き方を定めているということです。よく勘違いされるのは、自分の価値観に固執するばかりに他を排斥し自分勝手に傲慢になるのはそれは生き方とは関係がありません。

生き方を貫こうと思ったら、周囲への思いやりが必要ですし、その生き方をするのは何のためにかということを心の深いところに育てて据え置かなければならないからです。何がもっとも大切なことなのか、そして世界の中での自分の役割とは本当は何なのかを突き詰め、自らの天命に応じて素直に従うような力量もまた問われるように思います。

以前、NHKの大河ドラマで「八重の桜」がありました。その中で、新島八重を夫である新島襄が友人あてに紹介する文面に「ハンサムウーマン」という記述が出てきます。そこにはこうあります。

「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」

「生き方がハンサム」なのですとあります。これは八重の生涯を見て観たらすぐにわかります。新島譲は他にもこういう言葉で友人に自分の結婚観について紹介します。

「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本夫人をめとりたいと思います。しかし亭主が、東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」

つまりこれは単に西洋か東洋かではなく、男か女かでもなく、お互いの意見を尊重してお互いに認め合い学び合い、そして助け合えるパートナーを言ったのでしょう。

これはまるで志を同じくし、話をよく聴き、自分はこう思うと話ができ議論し合える志士のようです。あの時代、維新の志士では男性ばかりが登場しますが新島襄の同志がたまたま女性であって八重であったということなのでしょう。

自分を持っている人というのは、その心に確かな志があります。

志がある人は、必ずや人物として多くの人たちに影響を与えていきます。そしてその影響を与える根幹にあるものこそ、その人の生き方がどうであるかということです。生き方がブレナイ人になるためにも、目の前の些事や周囲の押し付ける空気に流されず、坦々滔滔と地味粛々に自分の生き様を内省していきたいと思います。

御米

私たちは親祖よりずっと御米を食べて暮らしてきました。

それは国内にある様々な遺跡の中から、炭化した御米が発掘されていることからわかります。縄文遺跡の以前は、陸稲を中心に栽培され、弥生遺跡以後は、水田を中心に栽培されています。

そもそも私たちは自然の一部ですから何と共生をするのかを選択して生きています。この共生とはなくてはならないいのち同根、生死一道の関係のことです。その共生の相手に御米を選んだというのが私たちの親祖です。

人は食べたものでできているものです。何を今まで食べてきたかを観れば、その人のからだが何でできているのか、どこからでてきているのかが理解できます。その元を知ることが自分を知ることであり、その根を確かめることが自分を実現させることのように私は思います。

日本の全ての行事は御米と一緒に学んできたことがカタチになっているものです。それが今では私たちが一番長く食べてきたものを育てたことがないということに大変な危険を覚えます。古来からあるものから離れるということは、自分たちの姿を正しく理解できなくなるということでもあるからです。

御米作りというものは、一生涯の働きであり、御米を食べるということは私たちがなんであるかを知るただ一つの道だと私は感じています。

日本の自然思想家であり医者である安藤昌益という人物がいます。この方の「自然真営道」という著書の中で下記の一文があります。ここに御米とは何かということの真実が書かれているように思うので紹介します。

「米(こめ)は神と同音、米(よね)は世根、稲は寿根(いのちね)の略。稲荷とは人の神身皆稲なれば人常に稲を荷(にな)ふ意。飯は命師(めし)又は身師(みし)の転訛。寿(いのち)は飯中(いいのうち)の略。迷は米吾(わ)を去りて他にゆく意。即ち食を離れた時の心理状態に名づけしものである」

つまり古来、御米こそ日本人のいのちの糧であり心であったということです。

自分がどこから来たのかというのは、これからどこへ向かえばいいのかを自覚する唯一の鍵です。その鍵こそ私は御米であると確信しています。

今年もまた自然に沿った御米作りがはじまりますが、ここで御米から学んだことを後世のために譲り、そして人類の初心のために活かしていきたいと思います。

 

自他の尊重~聴く真価~

ブログで何回か聴くということについて書いていますが、改めて聴くことの大切な意味を感じます。人は人の話が聴けなくなるとき、その身が亡ぶと言われます。それはなぜかということです。

諺に「聞くは一時の恥、聴かぬは一生の恥」があります。

「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とは、知らないことは積極的に質問するべきだという教えです。つまり知らないことを人に聞くのは、そのときは恥ずかしいと思っても、聞かなければ一生知らぬまま過ごすことになるので、そのほうが恥ずかしい。知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせずに、素直に聞いて学ぶべきだという教えということです。」(故事ことわざ辞典より)

人は自分というものがありますから、自分の中でだけで物事を整理していたらそのうち現実からズレてしまうものです。それは人間には自我感情がありますから次第に感情の影響を受けては現実が捻じ曲げられてしまうのです。いくら物事をあるがままにありのままにみていると本人が思っていても、実際は自分の感情が入り込んでいる現実ですから様々な執着がこびりついてしまうのです。

そういう時、優れたリーダーというものは必ず自分に意見するものを近くに置くものです。松下幸之助さんはこういう言葉を遺しています。

「よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。私は学問のある他人が全部、私より良く見え、どんな話でも素直に耳を傾け、自分自身に吸収しようと努めました。」

人が話を聞けなくなるというのは、聴きたくないからです。周りの人たちの話を聴くというのは、自分の間違いに気づかなくてはなりません。それは単に間違いに気づけばいいのではなく、真の間違いに気づくということです。

人は分からないことを分かっていたら改善することはできません。自分が分からないことがあると気付いているからこそはじめて分からないことを知るのです。分からない部分が自分の改善点ですが、分からないことを知ろうとしないから改善することがなくなるのです。

人は大なり小なり必ず小さなズレが現実の間で発生します。いくら正論を語り正しい法則を知り尽くしていたにせよ、自然に必ず矛盾は発生します。その矛盾は沢山の人たちの意見に耳を傾けることで矛盾を内包できるようになり絶妙な判断をしていくことができるのです。

自分だけの判断が絶対だと我儘になれば、無理やりに真実を捻じ曲げて上手くいったように錯覚するようになります。その時、その身が亡ぶように思います。周りの人からの意見に耳を傾けることを「衆知を集める」といいます。これは言い換えれば「叡智を結集する」という意味と同義です。

自分一人だけで正解探しをするよりも、もっと信頼できる人たちと一緒に矛盾の中にある真心探しをしていく方が人生はより豊かで楽しいように思います。手段と目的を見失うことがないように、自ら省みて自他を尊重して聴く訓練を積み重ねていきたいと思います。

 

からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。

信頼の絆を結ぶ~ミマモリング~

人が人と仕事をするとき、何よりも大切にするのは信頼関係です。信頼し合っているからこそ、その絆の信を結んでお互いに目的をやり遂げることができるのです。

先日、ある人が私たちの新商品を導入する際に周りに質問された時に「カグヤさんに騙されたと思ってやっています」と説明しているという話を聴いて、如何に自分たちがその方に信頼されているのかを改めて実感しました。これは言い換えれば、頭ではわからないし、やってみたことがない、それに自分たちには見えていないかもしれない、しかしこの人たちは信頼できるからやってみようと思うという意味です。

騙されたと思っての言葉の背景には、裏切られてもいいほどに信じている人たちだからという意味でもあります。自分たちの実践を観てくれて、本質や真実、志を確かめてくれて、一緒に取り組む決心に至る。

これは本当に有難いことだと思います。

人は何をしているかどうかよりも、結果が出るかどうかよりも、何を最も優先しているかということが大切なことのように思います。

論語に「信なくば立たず」があります。

これはもともと論語の中で軍備と食料と信頼と捨てるとすればどれを捨てますかと弟子の子貢が孔子に尋ねるところで使われている言葉です。それに対して孔子は「食料がなければ人は死ぬが、昔から誰にも死はある。人民は信頼がなければ安定しない(民無信不立)」というような返答をします。

つまりはここで何よりも人間同士に必要なのは信頼なのだということを語ります。

信頼を重んじ、信頼を裏切らないというのは常に自分に嘘をつかず誤魔化さず、正直に真心の実践を積み重ねていくことです。それは結果云々次第ではなく、そのプロセスにどれだけその人物が誠実であったか、どれだけ真摯に一緒に考えたか、自分を忘れるほどに自他一体にその人のために自分を使い切り思いやりを行動に移したかということになります。

単に頭で考えただけでは信頼は持てず、人は心で行動して言葉が一致したときのみ信頼は持てます。そう考えれば、ミマモリングというものも同じくどれだけ行動したかを省みることによってはじめて実感できるものかもしれません。

お客様からの言葉に自分たちが今、取り組んでいることの価値を再確認できます。その激励に応えるためにも、信を強く持ち、信のままに絆を結ぶ実践を高めていきたいと思います。

 

希望とは何か

昨日、サミエル・ウルマンについて深める機会がありました。私が20歳の前半のときに詩集の「青春」にめぐり会い、大きな勇気をもらったことを思い出しました。松下幸之助氏の著書の中で自分の座右の銘として紹介されていたその時の詩の印象から青春の真価を再確認したことを覚えています。

もともとこのサミエルウルマンは、ユダヤ人でアメリカで活躍した実業家です。その当時、社会的弱者でもあった孤児、女性、黒人、労働者の救済運動に生涯を捧げた方だったそうです。この詩は、サミエルウルマンが80歳の誕生日に自費出版した詩集の中にあったものです。

日本でこの詩が翻訳され広がったきっかけは、アメリカの連合国司令官だったマッカーサー氏が座右の銘にしていた詩で、執務室に掲げられ日々に内省していたものを日本フェルト工業統制組合専務理事の岡田義夫氏が感動してそれが友人ずてに伝わり松下幸之助さんが紹介して今に至るようです。社会的閉塞感の中で、心が病んでいる人たちがたくさんいる今の時代だからこそ、もう一度この詩の必要性を感じました。ちょうど、この詩が広がったときも終戦後の暗くつらい時代でした。

「青春~YOUTH~」

「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。

悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬
夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛
何かに挑戦する心
子どものような探究心
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、
美しさや喜び勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。」

希望とは、心の持ち方を変えることです。そして心の持ち方を常に変えることができる人は、人生において一生涯好奇心を捨てることはありません。最初は光輝く子ども心も、社會の中で次第に曇りそのうち光らなくなっていくものです。それを磨き続けていくことで、光り輝く心を取り戻すことができる。

それを私は「希望」と呼び、「青春」と定義しています。

人生において絶望とは、生き方を見つめる最大の転機です。その転機に関われることこそ教育の醍醐味ではないかと改めて実感しました。これから、新しい道に同行しますが面白くワクワクするご縁をいただけたことに感謝しています。

私もその一人として絶学を継ぎ、心の世界を創造し青春を謳歌しつつ希望の詩を仲間と一緒に唱和していきたいと思います。

人事考課の罠

先日、人事考課について考える機会がありました。そもそも人事考課というのは、公平に平等に評価するために取り入れるという人が多いのですが、実際はそうはなっていないことがほとんどです。

その理由に、実際はそれぞれの特性や持ち味を活かそうといった観点からはほど遠く、如何に一人ひとりを均一にしようかというシステムで動いているものがほとんどだからです。実際に一人で生きていくのならば、短所も補ってあげなければ生きてはいけない、長所だけでは難しいと考えるのかもしれませんが、そこにチームや共働という考え方があれば無理に平均の力が必要なのかと私は思うのです。

実際の社會に出て観れば、組織の中でどう自分の個性や役割を果たすかということが求められていきます。そこには、自分の持ち味や長所をどう周りを活かしあい、そしてその周りを信頼し短所を補ってもらうかという力が必要になります。

そうでなければ、全体に効果のある大きな仕事はできませんし、また仕事というのは人々との協力で自分の役割を果たすことで仕合せを感じますからその実感もあまり得られなくなっていきます。

本来、みんなを同じにしようという考え方というのは平均にしようという考え方です。金太郎あめのようにどこを切り取っても同じにしようという発想は、一斉画一に同じものをつくろうとするときの手法です。

人事考課をやるといっても、その元になる考え方が平均や画一を求めているものであればその結果はその考え方に従ったものになると私は思います。

人間は一人一人の顔つきがみんな違います。誰一人として同じものはありません、これは指紋でも同じです、わざと人間は異なる部分を創り産まれてきます。これは本能ですがここから読み取れる真理は、人間は同じことをするのではなくお互いに異なる特性を活かしみんなのお役に立ちたいと願う生き物だと分かります。

それは自らの長所をどう周囲に役立てていくか、そして短所は如何に迷惑をかけないように周りの力を借りるかということを運命づけられているかのようです。だからこそ、苦手なところを克服するのに一生を費やすのではなく、得意なところを伸ばすことに専念し、自分の苦手は得意な人の力をお借りして”お互い様と御蔭様”にしていくことが本来の”生きる力を育てる”ことだと私は思います。

一人で生きていく力は決して平均の人にすることではありません。

一人で生きていく力というものは、自分を信頼するという力です。言い換えれば”自信”のことです。時代が何千年変わろうが教育の本質は太古の昔から決して変わりませんし、普遍的な真理はどんなことがあっても錆びつくこともありません。

人事考課をする際に一番考えないといけないのは、みんな違ってみんないいと口では言いながら実際はみんなはやっぱり同じがいいという愚を犯すことです。

本当は何かと何かを誰かが言ったからすぐにやろうとするのではなく、刷り込みに気付くのが先です。そして単に制度だからと人事考課をするのではなく、人類や人々が如何に安心して生きがいや遣り甲斐を感じられるかを深めていくことが人財を教育するのだから何よりも優先して考えることです。

私たちも子ども第一義のモデルになるような働き方生き方を突き詰めていきたいと思います。

内省的実践習慣

情報化社会というのは、頭脳を使い知識を優先して妄想を現実にしていく世界のことです。本来は、人間の頭脳は危険回避にもっとも活躍しますから、脳ばかりを駆使していると危険察知の情報収集にすべての意識が囚われその場その場を対処することにエネルギーをほとんどつぎ込んでいきます。情報化というのは、知識先行化のことで知識ばかりが優先されている世界ということです。

これを船の航行で例えてみます。

頭で処理するというのは後者の急流濁流の中で目先の石や障害を避けようと先々の不安を解消し危険を回避するために集中力を発揮している状態のことです。しかし、そんなことを続けていたら周りの景色も分からずどこに進んでいるのかもわからず安全だけを守ろうと身動きが次第に取れなくなります。この状態を人間は「忙しい」と呼びます。忙しいというのは、心が着いてきていない状態のことで、目先のことしか考えられず、目の前の不安を解消することに集中しているということです。

しかし本来、これは人生の航行と同じで一度しかない船旅をどのように味わい、自分が納得する物語を生きて旅をするかはその人の決心に由るものです。それにはどんな旅であっても、自分が何のために旅をするのかを忘れずに舵をとっていく必要があります。そのためには忙しいという状態がずっと続くというのを避けなければなりません。では、暇になるまで忙しいのかといえばそんなことはありません。忙しい人は暇でも忙しいのは、心が着いてこないから暇にしていないのです。

心を広くゆったりと持つには、内省と実践の習慣が身についている必要があります。なぜなら、出来事が動く際に、同時にその出来事は一体なんだったのかを振り返っているかを自ら自得しなければ意味を感じることができなくなるからです。

これはすでに海外でも提唱されていて、マサチューセッツ工科大学のドナルドショーン氏は、「リフレクティブ(Reflective)=内省的+プラクティショナー(Practitioner)=実践家」と定義しています。つまりは、”内省的実践家は行為しながら考える”という言い方をし、そこではじめて経験した糧が体内で消化されるという意味です。

これは私も同じように理解していて、内省と実践がなければ人間は必ず「忙しい状態」になると思うのです。もしも内省と実践が習慣になっているのであれば、忙しくても忙しくはないという状態がつくれます。つまりはどんなに環境や状況が変化していても、心は平常心を維持することができているということです。

心が落ち着いていれば、忙しそうに見えても忙しそうなだけで忙しくなることはありません。まるでしなやかで嫋やかに揺れる平原の若草のように、揺れても心は楽しんでいます。

そして組織が内省的実践ができているのなら、その組織は初心や理念を忘れることは決してありません。その組織は、身体がいのちを消化吸収していくように、心も同時にいのちを消化吸収していくことができ、いのちはめぐり発達を已まなくなります。

もしも先ほどの急流で濁流の船で忙しく舵をきる船長がいたら船員はきっと不安で仕方がないでしょう。そうならないように、内省と実践の習慣を身に着けることが心を優先する生き方、見守るためには必要不可欠であると私は信じているのです。

そのために、私たちはあらゆる方法を用い内省と実践を同時に習慣づくようにリーダーに実践を増やし促していきますし、内省をファシリテーターの資質の基本に据えているのです。この内省と実践は、本来同一であり片時も分かれることはありません。

常に忙しいからできなかったではなく、忙しさに負けない強さを持てるようにしていくことが心のつながり、共感の絆を結び育て、組織の結束を高めて豊かにしていく方法なのです。

心の持ち方を変えるためには、コンサルティングの技術も必要です。まだまだ精進して、その理論を具体的発明に換え、実践実地に活かしていきたいと思います。

真実を見抜くちから

人間は知識が多くなってきて、分別された情報を認識することで様々なことを確認するようになりました。そのことで同時に、「何のためにか」という本質を考えず、どうするかばかりを考えるようにもなりました。便利な社会というものは、如何に簡単に安易にスピーディに物事を解決する価値観が中心になっている社会です。

ここでの便利な社会というのは、自分都合の社会のことを言います。何でも自分都合で好都合になることがもっとも良いものだと考えるのです。これと反対に不便というものがありますが、これは相手都合、つまり自分以外の都合に合わせるから不都合となります。

例えば、自然界に生きていたら自分都合であることはほとんどありません。農業一つとってみても天候も思い通りではありませんし、育つ作物もそれぞれですし、天敵なども出てきて無事に収穫できるとも限りません。自分たちにとっては不都合だらけです。しかしそれは全体にとっては都合が良いという考えもあるからです。

得てして自分にとって不都合なことは全体にとっては都合が良いことばかりです。それは万物は循環していますから、自分の都合を周囲に優先させればその都合によって不都合の人が出てくるのです。しかし実際は、権力や人間の身勝手によって都合が悪くなることを排除してきたのが便利な社会ですから都市の中では可能でも、都市から離れると急に不都合に順応することがなかなかできないものです。

田舎にいけばわかるように、交通手段もありませんし、街灯もないですし、インターネットも繋がりません。人間には大変不都合ですが、他の自然の生き物たちには都合が善いのです。

人間の慾は限りなく、どこまでも都合欲なるように広めていきますから世界中あちこちが便利である世界に換えようとするのかもしれません。それが人間関係の中でも発生していますから、今は人間関係も都合の良い人ばかりが増えてきているように思います。

人間が謙虚さを失うとき、そこには便利な社会が増えていくのでしょう。

生活の中に敢えて不便を取り入れること、つまりは周りを思いやることで私たちは自分たちの慾を御して暮らしてきたのかもしれません。子どもたちのためにも「本当は何か」という本質に立ち返り、常に本質を考え抜くことで便利さの陰に隠れている”真実を見抜くちから”を育てていきたいと思います。