助け合い育ち合う~御縁~

先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。

御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。

純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。

変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。

その中でまた新たな気づきがあります。

経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。

どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。

真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。

お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。

この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。

育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。

まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。

御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。

日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。

楽問~性格スキル~

昨日、保育環境セミナーにて藤森平司先生の講演を拝聴しました。

将来、大人になるにおいてもっとも幼児期に伸ばしたい力とは性格であるというお話がありました。確かに人生を振り返ってみても、いくら能力が高いからと幸せになるのではなくその人の性格が善いから皆に好かれ周りを仕合せにできます。

人は一人で何でもできるよりも、沢山の人たちとの御縁を活かして一緒にできる方が楽しいのですからどちらがより仕合せかはすぐにわかります。そのためには社會の中で助け合い笑い合う仲間づくりをするにも性格が大切な要素になります。

以前、成績よりも性格というアドバイスをいただきましたが改めて人間として周りを思いやれる力を伸ばしてあげることが何よりも幼児期に必要な力だと再認識することができました。

つい昨今の大人たちは、目先の能力ばかりを子どもに求めて身に着けさせようとしますが人を大切にしたり配慮したりやさしくできたりする方はあまり大事にされていません。しかし人間生きていたら、誰かを思いやれる人や真心の人、誠実な人、人の気持ちが分かる人の方が自らの生死の局面において何よりも大切な人であったと気付けます。

性格を磨き高めることは一生の学問ですから、孔子をはじめ古今東西の聖人たちすべてが目指したところです。

昨日の話の中で幼児期に身に着けるといい5つの性格スキル(ヘッグマン)について話がありました。それを紹介して今日のブログは終わります。

①粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
②好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
③明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的の力。
④思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性の力。
⑤感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定の力。

これらの力が高いならそこに人が「自立」していることはすぐに自明します。
人間として、助け合い共に生き残る力を育むことが保育の本質なのかもしれません。

引き続き日々、道の中にある新鮮な楽問を実践し続けていたいと思います。

真の親切~情けは自他のため~

「情けは人のためならず」という諺があります。

本来は「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」で親切は必ずお互いに善いことになっていくという意味ですが今ではそうは使われなくなっています。特に今では、情けをかけるとその人のためにならない、情けを仇で返されるなどというように誤解されています。これは情けというものを正しく理解していないからそう感じるのではないかと私は思います。

そもそも情けというものは、自我欲から出てくるものではなく真心から出てくる親切心のことです。これはまるで親心のようで、親は子どもに対して見返りを求めず無償の愛で真心を盡します。これは自然界も同じく、産まれた子どもを自身を削りながら大切に育てていきます。そしてこれは見守る心とも同じです。

それほど情けは見返りを求めるものではなく与え続けるものです。自分の中で知らず知らずのうちに与えるものが求めるものになっていくのは自我や欲が入り混じってくるからです。それでは善いことが悪いことに転じてしまいます。

本来は、善いことを福に転じていけば至誠になります。同じように親切を御蔭様に転じていけば真心になります。しかし自然にそれができるようになるには自他一体になるほどに自他に正直である心を磨いていくしかありません。そしてここには依存と自立の関係もまたあります。情けはもちろん大切なのですが、自他に素直に謙虚になれないならその情けがかえって欲を助長する依存関係になってしまうからです。

実際に困っている人を助けることは尊いことです。情けが面倒だということになれば助け合わなくなりますから本末転倒です。だからこそ御蔭様の心で、「お互いに天から頂いている福を分けただけ」というすっきりと明るい関係を築くことでお互い様にしていくことが大切なのでしょう。

自分が見守られているから同じように誰かを見守る、自分がいつも助けていただいているから同じように誰かを助ける。自分が体験したのだからその体験を誰かの役に立てていくことが「親切」の定義なのです。そう思えば謙虚に素直に自分のいただいている感謝の心を他人にも循環していくことが真の情けになるように思います。

そして人情の学びは、他人だけではなく自分も大切にする心です。畢竟、人はもっとも身近にいる自分自身の心に正直で素直でないと他の誰とも正直で素直な関係を築けないのです。

社會の中で生活するもの同士、お互い様の心で目の前の人は明日の私、周りの人たちはみんな未来の私と思って親切をさせていただける機会とご縁に感謝していきたいと思います。

いつも満たされないから満たすような傲慢な感覚ではなく、いつも満たされているからこそ周りも満たすような謙虚な感覚、利己ではなく利他、つまりは自我や欲を満たすための親切ではなく、本来の意味の誠と真心の親切を実践していきたいと思います。

 

求道伝道の志~本質と哲学~

人は本質的に日々を過ごしているかで積み重ねているものの価値が決まります。何を大切にしているかは人の生き方ですが、その生き方が影響を与えるのは本質的である時だけです。

本田宗一郎の有名な言葉に下記があります。

「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である。」

これは理念という言葉を本質に置き換えればすぐにわかります。本質なき行動はまるで凶器のように危険であり、本質なき行動は何の価値もないということです。ここでの本質は会社でいえば理念になります。理念とは、何のために行うのかということですから理念が初心であり、その初心を忘れてはいけないと定めたのが理念だからです。

しかし実際の人たちは、目先に流され本当は何かを省みることもなく表面上で理解したものに従うばかりで日々を追われます。そのうち本質であることよりも結果だけを帳尻合わせするようになっていきます。

そもそも本質とは真の目的ですから、その真の目的のために動いた行動だけが価値があります。それがいくら周りに理解されなくても、それが誰にわかってもらえなくても本質を捉えて行動をしているならばそこには真の目的に相応しい価値が存在します。

しかしもしも本質から外れて何のためにかを自分の中で捉えずに誰かのものを使って形だけをなぞってみてもそれではほとんど真の目的に対する価値には転換されていかないのです。

実際の世の中には目に見える世界と目には観えない世界があります。目に見えるところだけや他人の目を気にしているだけで本質風にふるまってみてもそれでは哲学や思想を自分のものにすることはないのです。大切なのは本質がわかることではなく、本質であることです。本質だからこそ思想や哲学を持つのです、これはイコールなのです。そして世界に発信力のある一流の組織を見渡せば一目瞭然ですが世界に新しい価値を創出した一流の組織人はその組織の人一人一人の中にリーダーと全く同じ質の哲学と思想を自分たちのものにできています。

最近、師の開塾している若い塾生たちがメキメキと見えるほどに成長しているというお話を聴きました。彼らはきっと師の本質を自分の本質に転換しているのだと思います。その過程の中で、師の哲学や思想が自分のものとして内在内包されてきているから素直に伸びているのです。

単に知識や才能だけで容だけを理解して形にこだわるのではなく、生き方を私淑し真似をしてコピーするほどに丸ごとその人の本質に近づこうとする中ではじめて理念は学べるのかもしれません。それはその人が同時に本質といった目に見えないところを観ている証拠だからです。

最近実感するのは、理念を知ったとしてもそれを自分のものにしていけないのは、そこにはやはり人それぞれのセンスと努力があるのではないかとも思います。

これは振り返ってみて今ならはっきりと言えるのですが若いころからの求道の志の質量がエネルギーに転換され、哲学や思想が基礎基本になりその行動をホンモノにしているからです。そして伝道の志を持つならいくら時間がかかっても真心で諦めず常に本質からブレナイように自他の鑑をさせていただけるように精進したいと感じます。

最後に論語に「子曰く、我は生まれながらにして之を知る者に非ず。」があります。ここからみんな誰しも理念を立てて己に打ち克ち努力精進して刷り込みを取り除き人格を磨いたんだよという実践者としての孔子の後人への優しい眼差しを実感します。

日々は有難い真剣勝負の実践道場ですから、優先順位の確認を間違わないように理念の内観と反省、改善を続けていきたいと思います。

 

教育の目的

教育の技法としてのティーチングとコーチングがあります。これは教えるときの教え方ですが、よく一般的に言われるのは主体が先生か生徒かでその違いがあると言われます。

しかしこれはここが問題ではないと私には思うのです。本来の教育とは誰のためにあるのか何のためにあるのかということを考えてみると分かります。

例えば、国家教育や社員教育、学校教育とあるように教育には目的があります。誰かによって何かを教えているのはこの言葉が示すように一目瞭然です。国家が国民に国家の一員として教え込む、会社が社員に会社の一員として教え込むのです。そしてそれは何を教え込むのかは目的によって異なります。

本来、教育が示しているのは何のためにかを考えればその意図も読めるからです。もしも国家のためだけや会社のためだけ、学校のためだけになればそれは教育がその人のものではないということです。あくまでそれは権力によって管理するために教え込まれるものになってしまいます。

私が中学高校と学校に反抗した理由は単に子どもで未熟だったからではなく、学校のための教育に納得ができなかったからです。今思えばなぜあんなにも反抗したのかと思いましたが、言行不一致の本質的ではない学校体質に憤りがあったのかもしれません。そしてそれでも無理に教え込もうとする場合はティーチングというものを用います。これは主体が国家、会社、学校側にあるということです。その場合は相手が主体ではないのだからコーチングは使えません、あくまで一方的に教え込む方が進めやすくなるのです。

その逆にそもそも教育は子どもたち、相手自身の成功、本人の仕合せのためにとなるとどうでしょうか。その場合は、対象となる相手は”できる”ようになりたいと思うのを助けるという考え方になります。主体は組織ではなくその人自身の仕合せになりますから相手がそれができるように寄り添うためにコーチングを用います。相手自身の問題に寄り添い相手が自らで解決できるように導くのです。

本来、人はその人が人格的に成熟し成功し仕合せになるのなら世界も一緒に仕合せになるものです。理想論と笑われるかもしれませんが、一人一人が真摯に一生懸命に自分の役割を果たすのなら世界は必ず仕合せに出会うように思うのです。それは先日の樹木研修でも同じく、木々が一生懸命に生きていればそれが森全体の仕合せになるように、人々が一生懸命に本来の生に生き切れば社會全体は幸せになるのです。

それを日本理化学工業の大山会長は、「皆働社會」と名付けていました。私もその考え方に心から賛同しています。

そしてティーチングもコーチングも含め、本来のいのちを尊び教育することではじめて教育の真価がでてきます。それを私は人々をファシリテーションするともいい、一円調和するとも言います。私のファシリテーターの定義はその目的が明確なのです。

もう随分長いこと既存の教育に刷り込まれている人は、教育とは何かによってさせられるものだと信じ込んでいます。自分から主体になって学ぶことを忘れていたりします。お互いの慾が絡まり合って真実から目をそらさせられたのかもしれません。染まってしまうとなかなか自分が染まったことに気づかなくなるのです。

そういうものを体験と気付きによって思い出させ、本来、何のために誰のために学ぶのか、社會を仕合せにするのは一体誰なのか、真実と実践と伝道によって平和を広げていきたいと思います。

本質を見失わずに、現実の中の理念実践を展開していきたいと思います。

悠久の樹禮

昨日、高尾山にて樹木研修を行いました。前回は座学で樹木の知識を事前に学びましたが今回は実地で山に入り樹木を見ながらの研修になりました。

高尾山はお店や人がとても多く、登山路も人だかりでまるで大都会のようでしたが人が少なく樹木を観察できるルートを選んでくださった御蔭でゆったりと樹木を観て学ぶことができました。

昨日はブナについての学びがありました。ブナは関東では標高800メートル以上の冷涼な場所にしか生育しません、しかしなぜ標高600メートルの高尾山に存在するかというテーマです。

実際に歩いてまわると樹齢300年以上のブナの木たちが高尾山には遺っていました。しかし最近のものはなくすべて300年くらいの大きなものばかりです。これは江戸時代が小氷河期であったことを証明するからということでした。今よりもずっと寒かったのでブナの樹が繁殖できたのです。今では温暖な気候の中で樹勢も弱り、このままでは高尾山からブナは消えてしまうそうです。

こうやって樹木は気候の変動に合わせて、自分たちの住処を拡大していきます。樹木からかつてこの場所はどんな気候だったのか、そしてその中でどのような順応してきたのかを知ることができます。

自然界というものは、変化に順応するものだけが生き残るようにできています。小さな環境の変化を察知し、変異を繰り返しつつ時代に合ったものが生き残るのです。気候が変われば気候に合わせて自分たちを変化しつつ多様化し、どの気候になったとしても誰かの種は残せるようにと変異を繰り返します。

つまり自然の樹木というものは「来たものを選ばずに受け容れて自分の方を変えるという戦略」に生きているということを学び直しました。より強いものを遺そうとするのは、自然の中で生き残る必要があるからです。

老子に、「柔弱の徳」があります。

これは(人間が生まれたときは柔わらかく弱々しい。 その人間が死ぬときは硬くなる。 すべて草や木も生まれたときは柔わらかで脆い。 それが死ぬときは枯れて堅くなる。 このように堅く強いものは死の仲間であり、 柔らかく弱いものは生の仲間である。)という意味で解釈されます。

昨日の樹木の観察から、私は自然の変化に最も強いものは自然の法理に敏感で鋭敏であるということではないかと直感しました。樹霊や霊力というものもそこに近づいていくことで実感できるのかもしれません。

つまり樹木は特に長生であればある種ほど、自然に精通しているのではないかと私には観えます。ここから如何に樹木の智慧を学ぶかが重要に思うのです。

かつての祖先たちは樹木が悠久に生きる樹禮に何を観ていたか、私たちよりも地球で長く変化を乗り越えてきた尊敬する大先輩である樹木の傍で、このまま学びを続けていきたいと思います。

昨日も貴重な学びがありました、有難うございました。

研鑽の芯

先日、鹿児島で西郷隆盛の遺訓の本をある方にいただきました。そこには様々な詩文から、様々な記録が書かれており、西郷隆盛が何に気を付けて何を大切に自らを研鑽してきたかが書かれています。

歴史上の人物というものを深めていけばその栄枯盛衰から如何に己に克つか、如何に己を慎むかということの大切さが感じられます。

孔子が論語で言うのも、ほとんどが己に克つことの大切さを説いています。如何に我をなくし、如何に思いやりに生きるかを示し続けるのです。

西郷隆盛も、勝海舟からあんな善い人間は見たことがないと評されていました。江戸の無血開城の際も「西郷さんは始終手をひざの上に置いて正座を崩そうとはせず、敗軍の将である私をあなどるような様子は少しも見せなった。」 と西郷さんの様子を後世で語っています。

その西郷隆盛も昔は、気性が激しく正義感が強すぎて数々の問題を起こしてきました。そして二度の島流しで自らを鍛え磨き、己に克つことを得たように思います。

人間はそういう意味では、真の敵は己にこそあり本来の修業とは「君子慎独」にこそあるように思いました。

最後に西郷隆盛の遺訓から一つ紹介します。

「道というのはこの天地のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには敬天愛人を目的とし、自分の修養には己に克つということをいつも心がけなければならない。己に克つということの真の目標は論語にある「固なく、必なく、意なく、我なし」による。すべての人間は己に克つことによって成功し、己を愛することによって失敗するのだ。」

孔子は、固執せず、あて推量をせず、無理強いをせず、我を通さない、この四を断つことこそが己に克つことであると言いました。孔子誕生から2500年経っても、これは人類の修業であるのは自明の理です。

他人のことを言う前に自分はどうなのか、自分自身を慎み反省していきたいと思います。

 

真似

弟子が師を追いかけるのに真似をするというのがあります。自分が分からないうちは、一生懸命に真似をして追い付くのです。ここには大切な教えがあるように思います。

昨今、良いところどりだけをするという人たちがたくさんいます。自分にとってここが良いとそこだけを取り上げるのですが、それではその人の狭い価値観の中で単に良いと思っているところしか見得ていないことがほとんどです。

本来、尊敬するところや達人の人は表面上に現れている良いところとは別にその深層には膨大な背景や思想や実践が積み上がったものを持っています。つまり簡単にはわからない深みに到達しているのです。それをもし自分が習得するには、それを単に取り入れるのではなくその人の実践を丸ごと信じて真似をしていく中で気づいていくしかありません。

単に良いところだけを見てそれを取り入れるというのは、分かった気になっているだけでそこに良い悪いを判断しかえって疑ってしまうから「良いところだけ」になってしまうのかもしれません。

疑ってしまっていてはその良し悪しも決して観えることはありません。師のことや尊敬する人のやっていることややってきたことを丸ごと信じているから丸ごと真似をしようと志すのです。つまりは丸ごと信じているから真似ができるのです。

プライドというものは、自分にできてあの人にはできないから持つのではなく、真のプライドはその人の中に真似をしたいといった心に憧れを持ちそのご縁に感謝しつつ素直に学ぶことができてはじめて持てるのでしょう。

そしてその師弟の絆の中に師資相承や卒啄同時のように昔からある日本の職人文化があるということです。誠に学ぶというのは、単に知識だけを取捨選択するのではなく生き方を真似び「絆を結ぶ」ことと同じことなのです。

その絆の中にこそ、「真似」ができたという真実がありますから学ぶ人は真摯に師のことを丸ごと信じて取り組むことが大切だと思います。現在、見守る保育を広げていく中ですぐに話をするとちょっと見ただけで良いところどりだけをしてコピーをしてはその後は評論する人たちがいますがそれでは本質までは伝えることができません。

真似とは、真になるまで似せるほどにそのものと自他一体、自他同一に学ぶことではじめてできる境地なのです。

自分自身が真似をしてきて掴んだ智慧を分かりやすくし、同じように師からいただいたものを還元していけるように真心で実力を磨いていきたいと思います。

循環している実感

私たちは体験をすることで様々なことが細分化されていくものです。それはパソコンに溜まってくるメールのように次々に増えていくものです。そうやって増えて細分化したものが「分かれて」しまうともともとはじめに一つだったものが分からなくなっていくものです。

本来、二つ以上のものを合わせるというのは原点に回帰するということです。それは右か左か、善か悪か、あるかないかといった物質的な観点と観念で物事を判断するのではなく、思想のように「丸ごと」合わせて分けないところで理解するのに似ています。

そしてこの二つ以上のものを一円融合させようという意識があってはじめて平和が続くことのように思います。循環というものも、偏らないということであり、それは流れ続けていく中で一つのものにしていくから循ることができるのです。まるで川が大河になり海になり雲になり雨になりそしてまた川になるように、本来あったものは流されていく中で原点回帰していくのです。

しかしその流れを止めてしまうようなことをしてしまえばどうなるか、それは分かれたものを無理に処理しなければなりません。自然から離れれば離れるほどに分かれてしまいますからその分かれたものをまた分けて分解するとさらに悪循環を創出してしまいます。

例えば水の処理場のように、土や生き物たちの浄化力を活用せずコンクリートで固めた水道を用い、今のように洗剤や油を多用するものを流せば当然浄化が追い付きません。それを何重のフィルターや薬品で乗り切ってもその無理をした分のゴミが出てしまいます。そのゴミをまた分解するために別の処理場へと運ばれ・・・などと際限なく無理が続きます。

本来、一つに合わせるということはとても楽しいことです。朝晩が一日であるように、天と地が和合するように、音が歌を奏でるように一つになることをすべての生き物たちは喜び、いのちは仕合せを感じるのです。そしてそれが循環している実感なのです。

私たちは祖神から八百万の神々が平和を築いてきた民族の歴史を持っています。たくさんの神々が和して大和を体現してきました。それは分かれていても一つであるという考え方、英語ではワンネス、漢字では渾然一体というのかもしれません。

そういうものを如何に産出して発展発達を促していくか、そこに私たちの使命があるようにも思います。悠久の平和を祈り願う先祖たちが遺してくれた意志を受け継ぎ、正しいことよりも楽しいことを広めていきたいと思います。

育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。