父母

父母いうことについて考えてみました。

私たちは何をもってお父さんとし何をもってお母さんと言っているかということをあまり深く考えることがありません。子どもができたら父母になるというように、父母の存在は子どもの誕生で自覚するものだと一般的には思うはずです。

しかしその父性や母性となると、お父さんはどのようなものでお母さんはどのようなものかという定義が観えてくるように思います。実際は、私たちが母に直観しているものは例えば母なる地球のような大きな存在として母を感じることもできます。父も同じように偉大な存在として感じることもできます。

子どもにとっての親というものは、単に育ててくれたのではなく、大切なものを育ててくださった掛け替えのない存在ともいえるのです。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海より深し」とありますが、これはその父性と母性を語った言葉であるようにも思います。

先日、あるご縁がありそれを明快に語っている文章に出会いました。それはあのインドのカルカッタで偉大な祈りの実践を示したマザー(母)と呼ばれるテレサが語った言葉です。ご紹介していた著書の中から抜粋します。

『「マザー・テレサ、お母さんって何ですか?」と聞きました。すると、「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもたらす存在、それがお母さんなのです」と。これがマザー・テレサの言う「母性」で、それこそが二十一世紀を築くのだと言われました。「では、お父さんとは何ですか」と、私は恐る恐る聞きました。「お父さんには経済的に家族を支える大事な仕事がありますが、もっと大事なのは正義を愛すること、正義のためにいのちをかける、それがお父さんです」とおっしゃいました。正義を生きるお父さんは権威が身につくと言われました。権力ではなく、権威です。お父さんが正義を生きることで家庭は一致できる。今、あの人は日本の代表的なお父さんだ、と言われるような人はまわりを見回してもいませんね。お父さんはやはり正義をいきなきゃいけないのです。現代はこのお父さん像が薄れているわけです。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

お母さんとお父さんとは、どのようなものであるのか。

私達の生き方そのものの中にお母さんとお父さんが住んでいるからこそ、平和で安心した家庭が築けるように思います。役割とは、表面的なもので行うのではなくその真心の中にこそ存在しているのでしょう。自分の中に父母の恩徳が恵まれていること、父母の役割をいただいていることに感謝の気持ちで一杯になります。

そして、さらにこういうメッセージが続きます。

『「そして二十一世紀を背負う子どもは、私の娘、私の息子というのではなく、神、仏からの授かりものなのです。マザー・テレサは「神の似姿として子どもは贈られてきた。私の子どもであると同時に神の似姿としての存在で、その子どもを上手に育てると、神や仏や聖人や菩薩になる。だからお父さん、お母さん、学校の先生、みんな神様に育てあげてください。」と。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

保育ということは、何よりも大切な使命です。

自分たちの心の中に父母が居て、その父母を求めて自らの実践により子孫へ推譲していくということ。自分がしてもらったことを人に与えていくということが、私たちが子どももでありそして親であるということのように思います。

親子が代々つなぎ託してきたのは、愛ということです。

こういうもの一つ一つを、日々の生活や仕事の中で生かしていくことこそが本来の働きであろうと思います。仕事は作業とは別に生き方という志事が存在しています。とはいえのない保育を広げていくためにも精進していきたいと思います。

固定概念を崩す

人間には固定概念というものがあります。これは「きっとこうなのだろう」と常識をその人が思い込んでいることのことです。

例えば、大勢の人たちが話すことを人は無条件で信じるものです。他にも知識が長けている人の話を聞くときも信じますし、目に見える世界がそうなっているのならそれをそのまま鵜呑みに信じています。

そうやって自分の中で常識として定着してしまうのを固定概念というように思います。そして賢くなってくればくるほどに、こうでなければならないとか、こんなの無理だとか、できるはずがないといった自分の中に壁を設けてはそこがハードルになって変革することができなくなるのです。

しかしこの固定概念というものは曲者で、その人の信じる質量でその内容も決まってしまいます。エジソンなどの発明家のように、最初から不可能を可能とし挑戦と努力を継続し、信じることを諦めない人の持っている固定概念と、最初から何もしないでできないと思い込んでいる人の固定概念ではその内容も意義も変わっているからです。

どのような固定概念を持つか、それをセルフイメージと英語では言うのかもしれませんが自分の中の常識が一体どうなっているのかを確かめるということです。そうしてその固定概念を刷新できたときにこそ自ら希望を産み出すことができるのです。

そして人はこの希望を持つとき、この常識が崩れ始めます。

つまり「常識」が崩れ続けるとき、それを人間は「希望」といい、その希望が得られたことを「奇跡」と呼びます。この奇跡といったミラクルとは、常識が異なるものを発明したり自明したり、そして実現するときに実感するものです。

そして奇跡とは、その人の常識を刷新するほどの信念を持ち、その信念を曲げずに諦めなかったことで希望が手に入り、その希望が継続していく中でいつの日か結果が顕われ伝説となり伝道されるのです。

誰しもが不可能と思うことに挑戦するのは、いつまでもその希望を捨てないからです。

昨年からの問いがようやくここで開花してきています。自分の常識を壊し続けられるように、バカになってムリをせず野生のままに歩んでいこうと思います。 自分の使命は、どうも其処彼方にあるようです。

本物の個性

よく勘違いされるものに個性と習慣というものがあります。

自分はこういう人間だからと最初から決めつけ向いているとか向いていないとか自分で判断してしまうことを個性だという人もいます。しかしよく考えてみると分かりますが、それらの個性というものは産まれてから何らかの努力した習慣によって手に入れたものが多いのです。

例えば、自分は営業向きではないとか、自分は学者向きとか、最初から先入観を持ってしまい挑戦しようとしない人がいるとします。私も昔は、自分では営業は向いていないとか経理はできないとか、経営者タイプではないとか自分なりに思い込んでいたものです。

しかしそれはそれまでの自分の習慣がそれまでの自分の個性のようなものを固定していただけで新しい行動と習慣がつけばそれまでの自分とはまったく異なる新しい自分を発見することができたのです。

人間は結局は自分自身の先入観に打ち克てるかどうかということで自分を創りあげていくのかもしれません。自分の限界というものを決めているのも自分自身ということなのでしょう。

論語に、「子曰く、性は相近きなり、習いは相遠きなり」という言葉があります。

つまりは、人は生まれたときはほとんど変わらないけれど、その後の習慣でまったく違う人物の差にになってしまうという意味で用いられます。ほとんど人間には実は違いがなく、どのような教育を受けてきたか、そしてどのような習慣を身に着けてきたかでその人生はまったく別物になってしまうということでしょう。

よくこれを個性だと決めつけるのは、学校で教え込まれた間違った個性です。学校というものは、その人がよく言うことを聞き、学校の思い描く社会に適応する人物を育てようとします。しかし実際の社会に出て観ればそれでは実学ではなく実用にならないのだから、当然、社会に出たらその社会での習慣が必要になります。

如何に学校で身に着けた習慣が十何年あったにせよ、それを個性だと決めつけずに新しい自分、その社会で生き残るために新しい習慣を身に着けていく必要があるのです。

学校から社会人になるときに、何を捨てさせるのかといえばそれまでの習慣のことを言うのです。それまでも習慣を捨てるには、今までの習慣を凌駕するようなまったく異なる中らな習慣を育てていく必要があります。

私が現在行っている朝練も同じく、これは今までの生き方、それまで自分が判断してきた基準を超える経験、つまりはその心身の習慣を身に着けるために実施しているのです。何度も何度も新たな習慣を身に着けるには場数が必用で、その期間は苦労するものですが新たな習慣が立てば新しい個性もまた身に着きます。

これらの基になるこの「性」というものは、天性のことです。天性とは人間そのものは等しく天地自然の顕現としての存在という意味でしょう、つまりは元の人間は神人合一、天人合一という意味です。習いとは、その後の学問のことで実学の人か妄学の人かということです。

意識改革というものは、これらの習慣にメスを入れることをいいます。自分では気づいていもない習慣をそのままにしておけば一生涯それを個性だと勘違いしてそのままになってしまうのも、その人のご縁や運によるものと思います。誰にも指摘されないまま自分の個性だと勘違いして努力を見誤れば裸の王様のようになってしまうかもしれません。これは本当に恐ろしいことです。

だからこそ素直に生きていくということは、自分の気づいてもいないような思考の癖や習慣を指摘してもらう自分でいることのように思います。そのために正直に伝えてくださる指導者が身近にいたり、同志、師友の存在は本当に有難いことのように思います。そしてそれもまた自分の決めた生き方、真摯に成長を選んでいるか、真剣に伸びようとしているか、求める自分があってこそのものでしょう。

心を開き新しい自分に出会うことで個性はより本物の個性になっていきます。

悪しき習慣を転じて善き習慣とするように、新たな習慣を身に着けるために温故知新、御指導いただくままに今年は様々な習慣を具体的に変えていきます。

2014のテーマ

昨年も沢山の方々の御蔭様の中で、無事に自分を活かしていただくことができました。年々歳月、自分の与えられたいのちの時間は減り続けていますが同時に豊かさの時間はずっと増え続けています。

この地球上で人生を謳歌できるということは、自然のあるがままにいるということであり、得難い一期一会を戴いていることを心で実感します。

また新たな出会いの中で仲間や家族が増えていくことほど、人生の無二の愛を実感することはありません。人は人との間に愛があり、愛を感じることで絆も深くなっていきます。たとえ外界の自然界と人間の距離が離れてしまっても、御互いを思いやり必要とし合う関係の中で新たな「つながり」を産み出していくのが私達、いのちあるものの徳恵であるようにも思います。

都会と田舎を行き来していく中で、都会では強く人との愛を感じ、田舎にいけば自然の中で慈しみを感じます。生きているということは、偉大な慈愛の中で活かされているのだということを思わない日はありません。

今年も、独立自尊の道中において師とのテーマを共有することができました。
毎年、ふり返りの中で道の課題と正対し学び続けることができることに幸せを感じております。

今年は「途中を大切にする」ということになりました。

保育のお散歩で例え話をいただきましたが、子どもたちのお散歩もよく目的地まで行くことが目的になっていて目的に達するとさっさと戻って来るということがあるそうです。学校の教育実習などもそうですが、目的地だけが目的になってしまっていることがよくあるように思います。

そうではなく、目的地までの道中を楽しむ、プロセスを味わうというように、実際は目的地に行くことが目的ではなく、目的地までの道のりそのものが目的であるのだという意味です。

どうしても人は焦りや不安があったり、目先の出来事だけに囚われてしまうとどうしても心の眼で捉えていた本質から次第に離れていくものです。しかし、たとえ暗闇の中にいるようでも灯を消して観れば自然の明かりがぱぁっと啓けて顕われてくるように思います。

色々と社会現象や、子どもの今を垣間見たとき焦りそうになることがありますが、夜明けのない朝がないように必ず世の中は清々しい夜明けを迎えることができるように思います。

だからこそ途中を忘れないための実践をすることを優先し、結果や目標が目的ではなくその過程をどれだけ大切に生き切っているか、その大義や意味を深めて堅忍果決、精進しつつ丹誠を玩味するのかはその人の決めた生き方そのものによるように思うのです。

これは心の余裕ともいうものかもしれませんが、常に心のままに観立てていける力を育てつつ真摯に学んでいく一念にしていきたいと思います。

今年も、また学問道楽の日々を送れることに心から感謝いたします。

今年もよろしくお願いします。

道草日記~あるがままに~

先日、「ファン・デグォンのLfe is peace with 辻信一」のDVDを拝見する機会がありました。以前、自然農の川口由一さんのDVDと同じシリーズだったので、自然をテーマに本質的なお話が拝聴でき、新たなインスピレーションをいただくことができました。

このファン・デグォン(黄大権)氏は、米国留学後、帰国した際にスパイと間違われ激しい拷問とそのまま13年と2ケ月という月日を独房で牢生活を送っています。その中で、様々なことを生き直し野草という身近な存在に気づいてそこから自然というものに入り込み「野草手紙」という獄中から妹に宛てた手紙が出版されると100万部を超えるミリオンセラーになったとのことです。

この物語だけを聴いても、吉田松陰のことを思い出します。吉田松陰も妹がいて、獄中から様々なことを妹に手紙を送っています。それに獄中で囚人たちと共に学びその講話を記述した「講孟箚記」は100年を超え今でも読み継がれるミリオンブックです。

その人が艱難辛苦を耐え忍び、その志を堅古にし内省により掴んだ智慧はいつの時代も人種の違いもなく真理として心に深く響くものがあるように思います。

この話の中で特に印象に残るのがカササギの観察の話です。私も動植物の観察はライフワークなので巣をつくるところと自分の居場所を組み合わせで直観した話はとても参考になりました。

これはカササギが、巣をつくるために何回も何回も試行錯誤し最初の枝が木の隙間にストンと入るまで諦めずに新し枝を探し求めて旅を続けるというところです。そして「平和や幸せというものは、それと同じく自分のいるべき場所にいることだ」と言い切ります。

「そこには一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは人智を超えた神の精妙なるデザインである」と続きます。ここにも自然の仕組みをこの方が発見していることを悟ります。

私達人間というものは、自然から離れ人工的な欲を満たす世界の中で謙虚さというものを忘れてしまっていくものです。本来は、自分の思い通りになどいかず、その方が思い通り以上の素晴らしいことが起きていることも分からなくなっていくものです。

そうしてみては不平や不満を言い、自分の居場所ではない所の方を羨ましがり本来感謝していたはずの存在そのものの有難さよりも、自分にとって都合のよいことのみを嬉しがるといった道から外れた幸せを追ってしまうものです。

しかし本来、自分の与えられた天分というものは自分が決めたものではなく生まれ落ちたところから今にいたるまで全ては全体の中の一部として存在させていただいているものです。自分がそうさせていただいているという実感は、自分があるのは様々な御蔭様の上に成り立っているという謙虚な気持ちを持っているということであろうと思うのです。

本来ならば、自分が地球上でこれだけの自由にさせてもらいながらそこへの感謝を忘れては地球や宇宙への貢献ということも何の事だか歪んで解釈されていくのかもしれません。私たちが活かされているということも自然の動植物は当然に自覚しているからこそ、先ほどのカササギの枝のようなものまであるがままに観えるのでしょう。

あるがままの心で生きるというのは、素直に活かされていることを実感するということだと私は思います。そして今、居るこの場所を深く厚く掘り下げていくことだと思います。生きている以上は活かされているはずです、それは空気も水も光も風もみんな自分を活かしてくださっています。

だからこそ自然の有難い御恩にどれだけの感謝を盡すか、共に天命に活きようという声掛けなのかもしれません。道ということは、目で追わなくなり心が定まった時に顕現するものかもしれません。暗闇の中に一筋の光が差し込むようなものなのかもしれません、私も絶望の度にいつも助けて下さる方々に出会い人生がさらに歩みだしていきます。

ファン・デグォン氏は野草でしたが、私の場合は道草なのかもしれません。このかんながらの道のブログも私という草を活きる「道草日記」のようなものだからです。これからも自然に活かされる有難さを感じつつどんな機縁も勿体ない心で、自然と共に強く優しくあるがままに歩んでいきたいと思います。

立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

一生一省~ライフワーク~

先日、ある園長先生とのふり返りの中で生き方と働き方について話をしました。その中で、ライフかワークかではなく、ライフライフライフだということや、ライフワークそのものという話をして盛り上がりました。

私はこれらのライフもワークも分けない人、いつも遣り切っている人だとよく身近な人たちから評価されていますが、これが何かということを一度深めてみることにします。

よく世間では、仕事とプライベートという言い方で人生を分けています。働いているときと休日も分けていて、週末はぐっすり寝て休み、平日は一生懸命に仕事をするといような感じになっています。他にも、私的なものと公的なものという分け方や自分事と他人事という分け方などこれは自分の人生で、あれはみんなと合せた人生という分け方をしたりもします。

言い換えれば、自分の都合で何かを分けているという感覚で仕分けるのでしょう。

これを生き方の働き方の一致、つまりはライフワークになっているとどうなのかといえば平日も休日もまずありませんし、私的も公的もなく、自他も一体になっているし、全て丸ごと自分の人生という生きざまになっているということになります。

つまりは、ライフライフライフであり人生というものそのものに真剣になっているという状態なのでしょう。真摯に生きるということは、自分の中の分別知を持たないということによるのだろうと思います。

自分の人生の目的に対してどれだけ真摯に今を生き切るか、真理を探究するか、自らを修養するか、自学自習を研磨していくかということを実践していくのです。

実践と実験と実証を繰り返す人生においては、ライフもワークもないということでしょう。

自らが取り組んでいる人生の課題、言い換えれば目的に対してどれだけ真剣に生き切るか、全てのご縁を活かそうとする人生の姿勢がブレナイということがライフワークになっているということかもしれません。

時間というものは、あの川の瀬音に聴こえるように猛スピードで流れていくものです。二度と戻ってこない今だからこそ、少しも無駄にしたくないという心が全てを遣り切るという行動につながっているのかもしれません。

死を想い、生を活き、時を信じ、人を愛し、自然一体の道にいることが一生一省なのかもしれません。

この今もいのちの躍動を感じつつ、かんながらの道を楽しんで往きたいと思います。

いのちの光

今年も鞍馬寺にて新たなことに気づくことができました。実践をしているということで観えてくる世界があること、実践すれば顕われる世界があること、世界とは自分の内在する内省により開花していくのを感じると師が学んだことを確認することで安心の境地を得られるように思います。

私たちが当たり前と思っているものの中にこそ本質はあります。それは土であり光であり、風であり水であり、そのものその中にこそいのちが宿っています。

こういうものを一つ気づき、そして一つ悟り、一つに生きていくことで見えなかった世界がパッと開けていくのかもしれません。大人になるとそういう世界よりも自分の都合で見ている世界の方が正しいように転換されてしまいます。

しかし子どものような好奇心を思い出し、もう一度世界を観直してみると自然の中に居る自分を実感し、全体の働きを感じればいのちのままに活きることの歓び、正直であることの素晴らしさに感動するのです。

私たちは大地の上で、共存共栄しながら楽しく暮らしていますが時として有難い存在である太陽のことや月のことを忘れてしまうのかもしれません。そういう時に、決して忘れないようにと初心を維持している法がこの世に残っていることに出会えることほど有難いことはありません。

夜明け前の太陽も、夕暮れの月も深夜の星々も、みんな明るく私たちの道を照らしています。

そういう当たり前の中に、私たちが本来、観本とする根本の生き方があるように感じます。
魂を磨いていく時代にいて、子どもたちへの”願い”を共有できることに心から感謝しています。

最後に、鞍馬寺で新たに出会った心が香る美しい言霊をご紹介します。

「天を覆う雲は厚くとも、
太陽は常に大空に在る。
風が来て雲を払えば、
黄金の光が燦然(さんぜん)と輝く。
人の心に吹きすさぶ八風を、
苦悩の雲を吹き払う風として、
真実を観る智慧の光を迎えよう。

智慧の光が輝くとき、宇宙生命に生かされている万象を観る。
あなたも私も、花も鳥も、みな共に生かされているこの世界。
万象が織りなすいのちの相(すがた)、
宇宙に懸かる金色のいのちの網羅、
遠い昔から受け継いで来たいのちの絆、
私もその中の一つのいのち、
たがいに手を繋ぎ響き合ういのち、
あなたも私も、樹も水も、みな共に厳然と生かされている。

慈愛の温もりに抱かれ、智慧の光に照らされて、
豊かな活力に満たされて、
今ここに生かされていることの嬉しさと有り難さ、
この歓びと感謝の輪を広げよう。
あなたも私も、あの人もこの人も、たがいに光り合い照らし合う、
明るい未来を信じ希い(ねがい)ながら、
一日一日を宝石のように大切に生きよう。」

日々を大切にそして豊かに、いのちの光のように輝いて遣り切っていこうと思います。

有難うございました。

 

相互主体

先日、師のインスピレーションの赤ちゃん同士の関わりのお話から相互主体についてずっと考えてきてハッとすることがありました。

人が育つということを一生懸命に見守り、寄り添い、信じる実践をしていると、その人が努力をし本番で活躍したり、その人の人生が光輝き変化する体験をするのを実感したりします。

私の場合は、子どもの朝練でも新しい仕事でファシリテーションするクルーの姿に感動し、本人が自信を持って遣り切る様子に安堵し感激します。その時、同時にいつも感謝の念が込み上げ自信を持たせてもらったのは私の方だと嬉しく幸せな気持ちになるのです。

こちらがやっていると思っているときは、文字通り必死になって自分も学び、自分も真摯に取り組み、どうやったらいいのだろうかと試行錯誤しつつ繰り返し繰り返し実践を積み上げていきます。

努力をしているうちにあるとき、感動するような出来事に出逢います。その人ができるようになったり、強くなったり、信じられるようになったり、新しいその人の発見に出会うのです。すると、同時に新しい自分自身を発見します。つまり、いつも同時に相手の歓びが自分のものになり、自分の歓びもまた相手のものになるのです。

相互に一生懸命に努力したことで、努力した成果を共に味わうという貴重な体験をさせていただくことができるのです。

そしてそういうときに、自他一体の境地を味わうように思えます。自分が主体だったものが、相手の主体によって引き出されていく感覚。まるで自分が相手の得たものを同時に自分も得たのだという有難い感覚、そういうものを体験するのです。

相手がいる御蔭で自分があり、自分があるから相手がありますが、自分が相手と同じくらい努力をしたり、真摯に向き合ったり、実践することが、相手と同時に成長していくことかもしれません。

錆びない関係や、御互いに成長するというのは、「一緒に」という強い絆があるからかもしれません。そしてそれはどちらかだけが引っ張るのではなく、相互主体、相互扶助の関係ができてこそなのでしょう。

御互いに諦めないで努力する価値というのは、御互いが自分の丸ごとで真摯に努力することなのでしょう。

そこに絆も出会いもご縁もあるとしたら、懸命に生きることが懸命に生きる人の幸せになるということなのでしょう。相互主体であるからこそ、自分がいつも手を抜かずに精進していくことで新しい相手と出会っていく歓びを感じていきたいと思います。

自信を戴いているのはいつも私の方です。

努力してくださって本当に有難うございます。

成長とは何か~真の智慧~

先日、ある園の理念の確認の中で強く逞しくあるということについて教えていただきました。

強く逞しくという意味を教えて下さった方は、戦中戦後の厳しい環境の中で、実に多くの苦労をなさって今に至ります。そしてこの強く逞しくというのは自立を顕していますが同時に苦労というものの本質を示しています。

そもそもこの苦労というのは、肉体的にも精神的にも何かと苦しい思いをして懸命に何かを為し遂げたという意味や、それだけ沢山の方々のお世話になり厄介になって助けていただいたという意味で使われます。御苦労人という言葉があるように、過去に様々な悲しく辛いことを体験し苦労をすることで人生の機微や他人様の有難さを知り人情に通じている人のことをいったりするのもこの「苦労」という意味です。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という格言があります。これは若い時に苦労をしたことは後のちとても役に立ちますよという意味です。

今の時代は物に溢れ、何もかもが豊かに満たされ苦労することはなくなってきてすべてにおいて甘やかされた環境の中で生きているともいえます。若い人が苦労をする場所がどれだけあるかといえばほとんどなく、苦労を体験できるところも減っているように思います。

一昔前までは、ないものづくしのなかで便利ではない社会の中で、思い通りにはいかないことで沢山の苦労をする環境がありました。しかし今は、そういう苦労はさせたくないという人たちとそういう苦労はしたくないという人たちの思いばかりで自ら進んで苦労をしようとする気持ちなど持たなくなっているように思います。

この苦労というものは人を強く逞しくし、苦労がないと人は弱く貧しくなり元気を失っていくように思います。人は成長するというのは、この苦労をするということであり、苦労をしないで成長するということはないのです。

苦労がある人の持つ人生の背景というものはとても奥深いものがあります。表には出さないけれど、その人の人格や風格、人間性や言霊、生きざまにはその背景というものがのるのです。その人生背景に苦労がある人は、人間的に豊かであり洗練され含蓄があるものです。しかしそういうものを持たないで知識だけもってもやはり何か薄っぺらなものを感じてしまうのです。

そう考えてみたら、この苦労するというのは今のような時代「買ってでもせよ」ということが大切なのではないかと私は思います。この買ってでもというのは「自分から体験を克って出よ」ということではないかと思います。

つまりは自ら大変だと分かっていても、志や使命に根差すものを持つのなら主体的に行動し失敗を恐れずに挑戦せよという意味であろうと思うのです。もちろん、挑戦すればするほどに失敗もあり辛い体験、他人様からの評価批判などに晒されてしまいます。

しかしそこを耐え忍び、辛く苦しい中でも労を厭わずに信念をもって努力精進していく中ではじめて貴重で豊かな尊い人生体験をすることができるのです。

成長というものは痛みを伴うのは有難いことであり、体験し苦労をせよという意味なのでしょう。また逆に成長を止めるということは苦労することを避けてしまい痛みを怖がって何も挑戦しないことを言うのでしょう。自立というのは、強く逞しく生きていくことなのかもしれません。

だからこそ成長というものは、そこに「強く逞しく生きよ」という独立自尊する人生の強いメッセージを実感します。このメッセージとは、「どのような環境下であってもその気持ちを忘れてはならぬ、齢を経て、人生を振り返ったときに最も大切だったのは『苦労する』であった」と教えて下さる方の言葉こそが真の智慧ではないかを自明するのです。

齢を経るというのは、成長の証が残るということ。そこに真心を持って苦労を伝えて下さる方々がいることに心からの感謝と共に、自らも成長していきたい、苦労していきたいと心が激励されるのです。

一期一会の出会いの御蔭様で苦労という人生の豊かさが真の豊かさであること、真の智慧とは苦労の中にあることを学べ気づかせていただきました。

強く逞しく、挫けずへこたれない大和魂を次世代のために奮起し実践していこうと思います。

有難うございます。