道しるべ

昨日はGTによる保育環境セミナーが無事に開催されました。

毎年多くの方々が、保育という道を志し、共に歩んでいこうとする姿には感動します。

多くの課題があっても、それを楽しむ人がいます。
それは同じように取り組んでいても、その考え方が異なるからとも言えるからです。

藤森代表からもあったのは、どうせ現実は何も変わらないのならばむしろ考え方をポジティブにすれば楽しむことができると冒頭にありました。

これは私もとても大切な生き方だと感じていて、自分が歩んでいる道を謙虚に鑑みればこんなに幸せなことに関わっていること、これだけ課題がいっぱいあるというオモシロイ人生であること、そして同じように志す仲間たちがいることに有難い気持ちが湧いてくるのです。

人は忙しいと視野狭窄になり、マイナス思考になっていきます。

それは目の前のやることに感情的な不安や恐怖、または課題が嫌だと感じるからです。そうやって嫌々ながら自分に与えられた試練や機会を避けているならば、何も楽しいことはないと悲観的になるものです。

しかしそういう時こそ、自分の生きる力、楽しもうと受け容れる力が実るチャンスなのです。

見守るということは、自分が自分を見守ることが大切なのではないかと私は思うのです。どんな境遇であっても、如何に自分が幸運であるか、そうやって自分を丸ごと信頼するのです。

今が楽しいのは、今までが楽しいからにほかなりません。
そしてそれは自分自身が決めた道を実践し、それを学び続けることができる歓びなのです。

安岡正篤氏の遺した「道縁無窮」という言葉を実感するばかりです。

師が指し示す道しるべを、友と共に歩んでいく。
論語で学んだことを実践する場に恵まれていることに道楽を覚えます。

日々に楽しみ味わって生きたいと思います。

遊び心

真面目(まじめ)というものと傾く(かぶく)というものがあります。

真面目というものをgoo辞書で調べれば、( うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。 真心のあること。誠実であること。)と書かれています。また、傾くということを調べてみれば(かたむく。頭をかしげる。勝手な振る舞いをする。奇抜な身なりをする。)と書かれています。

人はもともと誠実であるから、何の疑いもせず今のこの世の中の仕組みの中で生きているともいいます。もともと生まれてきた世界が、今の目に映るものであったのならば最初からその中にいればそれを疑うということはしないものです。

しかしそのような常識を敢えて疑ってみてみると、実際は本当にそうだろうかという頭を傾けるようなことに数々出会います。

例えば、一度広い世界に出てみれば自分の国との違いから今までの自分の人生の価値観では常識だと思っていたことが一変して覆されるようなことに出会うこともあるのです。今までは当たり前と思って気づきもしなかったものは、実はそれは当たり前ではなかったと気づくようなものです。

これは別に目に見える世界だけに限ることではなく、心で観える世界にも通じる事です。

今までは当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではなかったということにです。それに出会ったら人はどうなるのでしょうか。そうして出会い、気づいてしまったら、いくら元に戻ろうにも戻れない感覚になるのです。観えてしまうということでしょうが、目から鱗が取れるのです。

人は生きていて、何かに気づく人と気づかない人がいます。

それは本質を生きようとするのか、それとも長い物には巻かれた方がいいとあるのか、それはその人の自由の選択の中にあるのです。しかしもしもその当たり前がおかしなことになっていて苦しんでいる人がいたらどうするのでしょうか。

あまりにも真面目になっていようと囚われると、そういう当たり前に気づきにくいともいえます。

例えば、アメリカの人達が、痩せたいからとダイエットコーラを飲んで、健康だからとベジタブルバーガーを食べ、栄養素を確保したいからとサプリメントを大量に摂取し、疲れた体を癒すためにエステやジムに通う。

そういう話を聴いてとても不思議に感じる人はすぐに感じるものです。

もともと痩せたいのにダイエットコーラという発想自体が、バカなほど真面目に取り組んでいるときっとそうのようになるのだろうと思ったのです。本来、もともとどうであったか、本質とは何かがわかれば以上のような発想にはいきません。そこには既得権益として様々な業界の仕組みや政治制度が複雑に絡み合い、何がどうなっているのか分からなくなっているのです。

しかし真実というものは、気づける人には気づけて気づかない人は一生気づかないのです。

如何に自分たちの常識が非常識で、自分の常識がもっとも真実になるのか。
それは自らの刷り込みの脱却にこそあると私は思います。
そしてそれを東洋では中庸であるということだとも思えます。

今の時代は主軸をしっかりと持って多少は傾いていかないと世の中には伝わらないものです。
その主軸とは、思い込まないで決めつけないで素直にいることだと思えるのです。

今は青春のように楽しみに満ちていて、ワクワクドキドキがいっぱいです。

あまりバカ真面目にならないように、遊び心を大切に子どもと共に傾いていきたいと思います。

 

生きものたちの空気

目には見えないもののなかに空気というものがあります。

私たち生き物は、その空気というものをなくしては生きていくことはできません。他にも水や土、光や風、また温度などもありますが、あまりにも共通している重要なことは改めて思うこともなく当たり前として存在しているのです。

しかしこの当たり前ということが、環境においては一番重要だったりするのです。

自然というものを学ぶとき、一番先に感じるものが空気です。

自然に近づけようとすると、たくさんの善い空気があるところで呼吸できるような環境を用意する処から始めます。それは鶏であろうが魚であろうが、そして微生物から植物や虫、動物にいたるすべてのいのちには空気が必用です。

私にとっての空気とは、多様な生物が呼吸する代謝が豊富であるところという定義にしています。なぜなら私たちの呼吸とは様々な生物の代謝によって存在しているからとも思えるからです。

たくさんのいのちが回り逢う中で、私たちすべてのいのちが共有しているものが空気です。

その空気とは、生きているということであり、生きているときに発した呼吸が積み重なって織り合って存在しているものであるからです。

例えばコンクリートの密閉された生きもののいないような無機質な中では、呼吸というものは行われません。そこに様々な多様な生物やいのちがめぐるなかではじめて呼吸による空気が生まれていくのだと私は思います。

それなのに、私たちは新鮮な空気とは単に外の空気だと思っているところがあります。
そうではなく、多様な生きものたちが呼吸している中であることが本来の空気であるのです。

それが自然界や外には縦横無尽に存在しているというだけで、人間が作った限られた密室空間の中では味わえないということなのだろうと思います。美味しい空気は、多様な生きものたちとの共存や共生の中ではじめて観得てくるのだと思います。

オゾン層の破壊などのことを考える前に、もっと多様な生きものたちが安心して暮らせる環境をどうしていくか、それは自分たちがいつまでも美味しい空気、豊かな空気、幸せを感じる空気を実感できるよう努めていくことだと私は思います。

そしてそれは人としての生き方に関係してきます。

自然な生き方や人間として徳の高い生き方をしている人の近くや傍の空気が心地よく感じられるのも、それはその人の生き方ともいえる代謝としての空気を味わっているからなのです。この目には見えない空気というものは、共に呼吸し合ういのちを互いに活かしあうのに多大な影響を与えているのです。

あまりにも絶対的な存在に目を向けること。
これからの時代は、そのことを私たちはもう一度温故知新し学んでいく必要があります。

自然に学ぶ基本を何にするか、かんながらの道は光が照らしてくださっています。
これからもまだまだ自然との邂逅を感じていきたいと思います。

同化し和合する

同化というものがある。

様々なものに自分を合わせて一体になるという意味でとってもいい。

この同化というものは、相手と自分を分けない、何かと分けて考えない、つまりは最初から渾然一体として分かれていないと思うことを同化といってもいい。

私たち人間もそもそもは、宇宙全体の一部でありはじめから分かれた存在ではない。脳が、言葉で知識として対象物を認識し記録するためにいちいち何かを名づけたり、または自分を成り立たせるために役割を分けて思い込んだりとしいちいち分けているのだと思います。

何かをするのに、いちいち理由がいるのもそのためで大きくは生活の食べるや寝るというところから小さくは職種や業務の内容まで頭で理解して進めようとしてしまっているという不自然な矛盾が発生するのです。

そもそも私たちはすべての生命と同じく、全ての物質と同じく、全体の偉大な調和との同化の中で存在しているのは誰にも明白です。同じ水や光、空気や場やあらゆるものを共有して成り立たせているのが存在そのものであり、この繋がりの関係の中でただ在るというものであるとも言うのです。

ミミズであろうが、魚であろうが鳥であろうが、分けるまえの私たちは全ては一体で捉えていたはずでそういうものの中にいることが当たり前の自然であれば同化とも言うのです。

この同化ができたとき私たちは偉大な調和を生み出すこともでき、それが一体感を持った最幸の自然の状態、渾然一体とした柔軟性のあるチーム力を引き出すとも言えるのです。

例えば、私が発酵が今年のテーマにしているのは、共生が大震災後の最大のテーマであると直観したからです。この発酵とは何かと言えばいのちのバトンリレー、つまりは共生を生み出す自然の技術のことを言います。

その発酵の主役でもある菌たちは素晴らしい自然の先生と自然の教材であり、この発酵するということ学ぶことを通して私たちは同化や和合そのものの本質を学ぶことができるのです。なぜなら発酵は色々な無数の菌たちが如何に協力して共生の関係を構築してはじめてできる境地です。

共生を学ぶのに頭では理解しない、自然に体得しようとするからこそ発酵を食べるのです。

発酵の真の素晴らしさとは自分の役割を自他が分けたのではなく、自他同化し一緒に取り組んでいく中で自然に発酵することです。

この分けないで一緒にやることや、みんなで一体になって自分の役割を果たすことは、共に生き続けるということの大切な要素を帯びているのです。様々なものに自分を合わせることや、自分から共生に合わせていくこと、和合するということは、これは日本人が最も世界で評価される尊敬されている民族性の源です。

これは自然の生き方、かんながらの道の一つの極意であると確信しています。

これからも同化し和合する素晴らしさに感動する感性を磨き、目には見えないはたらき、自然のはたらきを学び、子ども達へ継承していきたいと思います。

自然の造形

自然の造形物というものを観察していると様々なことに気づくことがある。

自然に造形され自然に分解されていく姿を視れば、もっとも恒久的に永続するように様々な仕組みが施されている。

例えば、石一つでも長い時間と大きな圧力の中で土が石になっていく。そしてその石が山野を駆け巡り海へ渡りまた土に還っていく。その他の動植物も、様々な形を創るけれどもそれがまた形をなくして土に還っていく。

自然の技術でもっとも自然であるのは土に還るということです。

それに比べて人工的なものは、自然には土に還らず何かの手を加えればまた手を加えて補わなければならず、大変な労力を繰り返しかけていくことになるのです。

今の時代は、一時的に目先の効果があればそれがさも最先端かのように語られ信仰されていますが実際は目新しい派手なものが良いものだという価値観を教え込まれただけで実際はその目先のものが数年から数十年経てば如何に効果が低い物だったのかを知るのです。

人工的に手を加えたものにいいものはありません。

昔から宗匠と言われるような一流どころは、如何に自然に近づけるかという技術を持っただけで自然を超えたことは一度もないからです。自然を超えることができないからこそ、自然を謙虚に見つめて自然から素直に学ぼうとすることが尊いのだという形を表現したのです。

自分たち人間が最高であるというところで生み出す科学や技術に本物は存在しません。
常に、私たちは自然の一部であることが絶対であるからなのです。

自然に近づくというのは、空や無のような存在を体得することです。
色々な学んだことをカラっぽにして問いただしていきたいと思います。

自共生

人は共生していることやその根源を知るとき、自分から安らかなところに入る事ができる。

例えば、当たり前と言われるものの中にすべての本質があるように呼吸や水や土、風や光、星々や体や心などその中に共通するいのちを覚えるときに自分が共生していることを知るのです。

人の間にも当たり前すぎて意識しないものの中に共通するものがあります。それは御互いに認め合うといった尊重や尊敬という生かしあいというもの、つまりこれはお互いの存在に対する深い感謝ができているという共生が入っているのです。

古語に「親の心子知らず」や「親の恩は子を持って知る」、また「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」や「老いては子に従え」などもそうですが、この親子間の道理にも共生という信が入っているという先人の智慧が法理を述べています。

この法理から観れば親のことを尊敬せず、孝行しない人では人生も成り立ちません。
また子どもを尊重せず、育てようとしない人も人生は成り立ちません。

これはお互いが認め合うといった信じる世界、つまりは共生があって互いが存在するのは絶対であるという意味なのです。当たり前ですが互いに生かしあい活きることで私たちは自分の役割を知ることができますし、それを全うすることではじめて周りに貢献するという幸せを噛み締めることができます。

そもそも「いのち」というものは、決してそのもの単体では存在できないような仕組みです。
全ての生命は食べ食べられるように、御互いがそれぞれのお役目を果たすことで成立します。

それはいくら自分がこれをやったや自分が生きているのだと錯覚しても、正確には何かに活かされないとこの体も維持していくことができないのです。そこには先述したような、共通する当たり前のものが確かに存在してそこに一本の大道が通っているのだと私は思います。

自分が生きるということは活かされているということを生きること。
つまりはそれは共生する中での自共生。

いのちがイキイキワクワクと躍動していくような、本気で豊かな自然に身を委ね、自らの子ども心に正直に、一度きりのオモシロイ人生を歩みきった背中を遺し譲っていこうと思います。

 

気づきを気づく

誰かに教わるという学びと、自分から明らかにするという学びがある。

前者は誰かによって教わった世界で物事を考えることでありそれはいつも教わったところでの気づきで自分の気づきを導引するような考え方です。もう一つは、これは今年の師とのテーマではありますが自明といった自らが持っているものを如何に明らかにしていくか、つまりは自分に気づくことに気づくかということでもあります。

私はどちらかと言えば、今までの学び方は自分が気づくために行動して気づいたことを学んでいたように思います。しかし、自分に気づくために学んでいたのとは少し異なっていたのです。

先日、ある方との面談の中でその方が自らの幼少時に気づいたことをさらに丸ごと深く掘りそれが何だったのか、つまりはそれは本当は何かと気づくことを聴かせていただきました。そしてそれは私の中にも在り、子ども心に自分が感じたものから明らかにすることができることを実感しました。

なぜ自分がこうしたのか、なぜ自分がこうなのか、それを客観的な分析ではなく、自らの体験による気づきに気づくといったさらにもう一つ別の丸ごとの自分という場所で理解することを覚えるのです。

よく師が、子どもはそうならないと断言したり、自らの本質が正しいことを証明するために理論化しているところを観れば、知識が先ではなく自分の中に存在する子どもの真実そのものが先に存在し、それの裏付けのために話すことが多いのです。

自分が観ているものの方を信じることや、自分がもともと持っていることの方を確かめるというのは、すべてにおいて自分の気づきを丸ごと学ぶということになるのです。それが刷り込みのない人であるともいうからです。

今年の師からのテーマは、自明。

そこに気づくことはできましたが、これからそれを楽しみながら直していこうと思います。
素直に謙虚に、本物であるように天の真心を感じながらかんながらの道を開いていきます。

天の心を敬う

西郷隆盛に「敬天愛人」がある。

そこには、「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。」とある。

そもそも私たちが生きている世界は天地自然と共にあるからして、自分が生きるということであればそれを包み込んでくださっている天そのものを敬い続ける事こそが道の実践そのものであるという意味になる。そして、続けてその天を敬うような心のままに人を愛し、その天の心を学びながら自分自身を正しく生き、誰かのせいにしないでただ自分の真心が天と通じていないのではないかと確認しつづけなさいというように私は意訳をしている。

この中で、何よりも大切なのは「天は人も我も、同一に愛し給うゆえ我を愛する心を以って、人を愛するなり。」という言葉であると思います。

つい天の心を忘れて自分の感情に囚われてしまうと誰かを許すや自分を許さないなどと行き来してしまうことがあります。しかし本来は天の心、天と一体になった声で自分の真心を天に合わせれば、元々の自然の摂理である共生の法理に気づくことができます。

例えば、この世界は常に食べ食べられる関係というもので成り立っています。
いのちはそうやってお互いに役立てる事で、御互いのいのちを生かす必要があるからです。

自然はいのちの共生があってこそ、はじめて自然とも言えます。

自分が生きられるということは、大切ないのちをいただいているということ。それは何によってかと言えば、そのいのちを御互いに生かしあうということで成り立っているのです。そうやって助け合いながら生きていくこと、もともと万物一体の世界の中で生きさせていただくことなどは天の真心があってこそ存在しているのです。

この天の心は、私たち人の心とは一緒ではありません。
親の心子知らずではないですが、子どもは親を尊敬することではじめて親の心が分かります。

これは自然や天も同じく、自分勝手に傲慢に振る舞い、親孝行を失った心こそがその問題の根幹にあるとも言えるのです。自分を存在させてくれている何かに、どれだけ心から感謝しているか、その御恩にどれほど報いたいと思っているか、そういう心をみつめる時、はじめて天の心の一端を感じることができるのだと私は思います。

大事なことを忘れるとき、それは天の心を敬うことを忘れるときです。
そしてそれが道が廃れていくときだとも自然に思います。

子どものそばに自然を置くとは、子どもの傍に天を置くことを意味します。自分の使命をひしひしと感じています、子どもたちが永遠に天に愛され続けていることを伝えていくために自ら天の心と歩んでいこうと思います。

いのちの歓び

マクロビオティックの桜沢如一に「遊ばざるものは、食うべからず」がある。

如何に自分の人生を最幸のものにしていくか、その遊びというものの中に自分を忘れるほどの自分というものが存在しているか、そういう遊びの中にこそ生きる価値があるということであろうかとも感じます。

子ども達の遊びのように、何かに無我夢中になることは自然の恵みの中で謳歌しているあの鳥たちや昆虫たちと同じような環境下になるのです。

人は、全身全霊で自分を活かそうとしたときはじめて陰陽に中ります。
そこで人生そのものの姿としての全体性といった調和が生まれるのです。

現在、重ね煮に取り組む中で「人生の目的は、やりたいことをやってやってやり抜いて、堪能するほどやり抜き、自由で楽しい人生を生き、艶なる人に喜ばれること」という桜沢如一の言葉にまた出会います。

すべてを活かそうとする発想には、自分だけではなく他も、他だけではなく自分もすべてのものを活き活きとしていこうとする自分のいのち自体を輝かせていこうといった根源的な思想が必要なのです。

私たちは常にいのちをいただきながら、自分のいのちを延ばしています。限りある人生の中で私たちは食べて食べられ、そのいのちを繋いでいるのです。だとしたら、私たちはこのいのちに感謝してというのはどういう行動を言うのでしょうか。

それは私なら、一生懸命に全身全霊でこのいのちを活かす、生き切るということになると思っているのです。一度しかない人生、自分勝手に平均からの寿命を逆算してペース配分して生きるというのは果たしてこのいのちを最大限謳歌していると言えるでしょうか。

時間を惜しみ、今に生き切るというのは、いのちの有難みを動的に自覚しているとも言うのです。もちろん、静的にもゆったり過ごし、今に生き容れるのも同じくいのちの有難みを実感しているのです。

つまりは、私たちはいのちをいただきながらいのちを活かすということが大前提なのです。

私の中の無双原理は、いのちというものの理解に尽きます。
自然界にいる私たちはいつもいのちをトータルで捉えていく必要があるのです。

何よりも、この今、この瞬間の奇跡に重ねていくいのちの歓びを感じて学んでいきます。

 

自分に合うということ

何か自分のイメージしているカタチというものがありそれに固執すると柔軟性を失ってしまうというものがある。

例えば「欲を出してここまでは」や「無理をして何とかあそこまで」などと、自分の都合を優先すればするほどに頑固になってしまうものなのです。では逆に手抜きをすればいいということではなく、合わないことに無理強いしないということが大事だと思うのです。

すべてのことがそうですが、自分に何かを合わせていこうとすれば合わないことを苦しみますが、自分から自然に合わせていこうとすれば次第にそれは合っていくのです。

この合うというのはとても大事なことで、最初から無理をしないままの自分でいようとすることと同じ意味であるのです。無理をするというのは、無理やりに何かに合わせようとするのですがこの言葉自体が自分から合わせないと言っているような意味なのです。

今の自分を受け容れるということは決してネガティブなことではありません。それはとてもポジティブであり、素直で正直な元来の自分の現れでもあります。

それは本当の自分を知ることになり、自分の得意なことは何なのか、自分の苦手なことが何なのかが分かるということでもあるからです。

人は自分というものを実はほとんどの人がよく分かっていません。自分がどういう人であるのか、自分が何に向いているのか、大抵はほとんどが自分の思い込みや周りからの思い込みに左右されて本来の自分を分からなくしてしまっているのです。

そしてそういう間違った自己認識を持ったままであるから、合うはずと思っていることでも実際は自分と合わないことをずっとやっていることがほとんどなのです。

本来、社会は広く大きく複雑なのだから別に自分が完璧に一人で何かをする必用はまったくありません。できたらみんな自分が合うところにぴたっと合うことが幸せだと感じているのです。なぜなら人は認められたいと思っているからです。

この認められたいというのは、自分が合うところにいたいということと同じ意味です。そしてそれが居心地の善さというものでもあるのです。自分が居心地が悪いのであれば、どこか無理をして不自然な姿になっているかもしれません。その無理が周囲を遠慮させ、周囲が遠慮することでまた無理を生じるのです。

私たち人間も動物も植物も、自然で考えれば無理のないところにいるのが一番です。一つの理念のもと、みんなが幸せに暮らすというのはそれぞれの持ち味を活かすということでもあるのです。そしてそれを言い換えれば、「自分に合う」ということなのだと私は思います。

無理をしないように自分をいつもオープンにすることや自然体でいることは、居心地の善い関係を構築しているとも言えるのです。自分に合った場所で、世の中のために貢献することはその人の個性を丸ごと活かすことになっていくのです。

自分が幸せであれば周囲は幸せなのです、自分に自信があれば周囲も自信を持つのです。自分自身の存在を如何に丸ごと認めていくかというのは、自分に正直にいるということ、つまりは自分が合っているということなのです。

保育というものの奥深さを最近は特に実感し、保育を合わせていく一体感の歓びと楽しさを心から感じています。